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川﨑宗則とは?

川﨑 宗則
栃木ゴールデンブレーブス #52

現栃木ゴールデンブレーブス所属

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
鹿児島県姶良市(旧姶良郡姶良町)
【生年月日】
(1981-06-03) 1981年6月3日(39歳)
【身長
体重】
180 cm
75 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投左打
【ポジション】
内野手
【プロ入り】
1999年 ドラフト4位
【初出場】
NPB / 2001年10月3日
MLB / 2012年4月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


コーチ歴

  • 味全ドラゴンズ (2019)

【国際大会】

【代表チーム】
日本
五輪
2008年
WBC
2006年2009年
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


獲得メダル
日本
ワールド・ベースボール・クラシック
 | 2006 | 野球
 | 2009 | 野球

川﨑 宗則(かわさき むねのり、1981年6月3日 - )は、鹿児島県姶良市出身のプロ野球選手(内野手)、コーチ。右投左打。栃木ゴールデンブレーブス所属。

2016年のシカゴ・カブス時代にMLBチャンピオンリングを獲得している。愛称は「ムネリン」、「鷹のプリンス」、「ムーニー」(MLB時代)など。

経歴

プロ入り前

兄の影響で野球を始めると、「重富少年野球クラブ」という軟式野球のスポーツ少年団に入団。当初は右打ちだったが、重富中学校時代にイチローの影響で左打ちに変更した。

高校は鹿児島県立鹿児島工業高等学校へ進学。甲子園への出場は叶わなかったものの、50m走で5秒9を記録するほどの俊足、同じ左打ち、安打数の多さから、地元球界ではイチローにちなんで「サツロー(薩摩のイチロー)」と呼ばれることもあった。

1999年NPBドラフト会議福岡ダイエーホークスから4位で指名。契約金4,000万円、年俸600万円(年俸は推定)という条件で入団した。背番号52

ダイエー・ソフトバンク時代

2000年には、ウエスタン・リーグ公式戦に正遊撃手として起用。最終規定打席へ到達するとともに、チームトップ(リーグ5位)の打率.300を記録した。

2001年には、ウエスタン・リーグ2位の29盗塁を記録。同年10月3日に一軍初出場。

2002年には、ウエスタン・リーグ公式戦で打率.367をマーク。最終規定打席をわずかに下回ったが、リーグの規定によって首位打者と認定された。9月には、正二塁手井口資仁の戦線離脱に伴って、二塁手として一軍公式戦に出場。シーズン終了後に開催の第15回IBAFインターコンチネンタルカップにも、日本代表のメンバーとして出場した。

2003年鳥越裕介の故障によって2番・遊撃手で初の開幕スタメン出場。鳥越の復帰後は小久保裕紀の長期離脱で空いた三塁手に回り、初の規定打席到達で打率.294・2本塁打・51打点・30盗塁を記録し、チームのリーグ優勝・日本一に貢献。

2004年からは遊撃手のレギュラーに定着し、全試合フルイニング出場と打率3割を記録。最多安打(171本、三冠王を達成した松中信彦と同数)・盗塁王(42個)・ベストナインゴールデングラブ賞を獲得。同年から盗塁数と同数の車椅子を寄贈する「走れ!川崎プロジェクト」を立ち上げ、2006年末に吉武真太郎吉本亮山崎勝己井手正太郎をメンバーに、自身がオーナーを務めて軟式野球チーム「宗rin's」を作って小・中学生と交流するなど、積極的にメセナ活動も行っている。

第1回WBCでの川﨑

2006年開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された。同大会では、遊撃手として優勝に貢献。決勝戦(対キューバ戦)では、1点差に迫られた9回表にイチローの安打で二塁から生還。その際、アリエル・ペスタノのブロックの僅かな隙間から右手をねじ込んで生還し、「神の右手」として話題になったが、このプレーで右肘を負傷した。

WBCでの怪我の影響で、シーズン復帰は4月中旬までずれ込んだ。シーズンでは2年ぶりの打率3割を記録し、2度目となるベストナイン・ゴールデングラブ賞を獲得。同年、鹿児島工業高校が第88回全国高等学校野球選手権大会に初出場した際、紫の刺繍で校名を縫い取ったスポーツバックを贈った(同校はベスト4に進出)。同年春、川崎は自主トレーニングでこの母校の野球部の後輩たちと一緒に練習を行なった(公式HPの日記より)。

2007年は2度の長期離脱を影響を受けて95試合の出場に留まり、規定打席に到達しなかった。しかし打率.329を記録。

2008年セ・パ交流戦で最多安打(37安打)・打率.366を記録。ソフトバンクの交流戦初優勝に貢献し、野手としては初の交流戦MVPに選出された。8月の北京オリンピック野球日本代表に選出されたが、シーズン中から痛めていた左足の怪我を押して出場したため骨膜炎を発症。帰国後、左足第二中足骨の疲労骨折が判明。王貞治の監督最終試合であるシーズン最終戦(対東北楽天ゴールデンイーグルス戦)で復帰した。

2009年開幕前の3月に開催された第2回WBC日本代表に選出され、2大会連続2度目の選出となった。同大会では、三塁手として5試合に出場。準決勝のアメリカ合衆国戦で9番・三塁手で先発出場し、2安打1打点1盗塁と勝利に貢献した。

シーズンではリーグ2位で自己最多の44盗塁、犠打は球団記録を塗り替える43個を決めたが、打率.259(自己最低)に終わった。

2010年は選手会長に就任。3月27日の対オリックス・バファローズ戦(福岡 Yahoo! JAPANドーム)で通算1000安打を達成し、3月31日から4月23日まで22試合連続安打を打って自己記録を更新、プロ入り11年目で初の月間MVPを獲得した。9月25日の対北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)で1000試合出場を達成。ダルビッシュ有から内野安打を放って188安打とし、広瀬叔功のシーズン187安打を抜く球団新記録を達成し、190安打まで記録を伸ばした。このシーズンのダルビッシュとの対戦成績は19打数10安打打率.526と相性が良かった。2004年以来6年ぶりの全試合出場を果たし、チームのリーグ優勝に貢献したが、クライマックスシリーズ第2戦以降は21打席連続無安打と不振に陥り、日本シリーズ進出はならなかった。

オフでは11月5日に右肘関節遊離軟骨除去手術を受けたほか、出身地の姶良市から「あいらふるさと大使」に任命された。同年、家畜伝染病・口蹄疫の被害を受けている宮崎県に義援金として100万円を寄付した。

2011年8月22日に福岡市内在住の一般女性と婚約したことを発表。シーズンでは本多雄一松田宣浩と共にフルイニング出場を達成、同一球団から3人がこの記録を達成するのは2リーグ制以後では初の快挙となった。シーズン前半は安打・出塁・盗塁ともに前年までの実績に比べ少なく1番打者として物足りなさも感じさせたが、シーズン後半には出塁・盗塁を増やし巻き返した。2011年レギュラーシーズンにおいてソフトバンクは3番内川聖一が先制打を放った試合は14勝3敗2分け、勝率.824と圧倒的な有利さを示しており、これは内川の勝負強さもさることながら、1番川﨑が出塁して2番本多が確実に犠牲バントで送る、あるいは2番本多が出塁して2盗するといった形で、内川の前にランナーとして2塁まで進んでいたことがいかに多かったかも示す。本多がリーグトップの53犠打を記録できたのも、川﨑の出塁あってこそであった。

クライマックスシリーズの西武戦では初打席で帆足和幸から二塁打を放つなど12打数5安打打率.417と結果を残しチームのCS突破に貢献した。

シーズンオフの12月1日には海外FA権を行使し、トニー・アタナシオを代理人としてメジャー挑戦を目指すことを表明。イチローのいるマリナーズ入りを強く希望し、叶わない場合はホークスへの残留を希望した。

マリナーズ時代

2012年5月25日、セーフコ・フィールドにて

2012年1月5日、シアトル・マリナーズとマイナー契約を結んだと明らかにした。日本凱旋試合直前までのスプリングトレーニングには招待選手として参加し打率.387をマーク。3月6日の試合ではイチローと共に先発出場し、試合後には「きょうは僕の記念日。(初めて)イチローさんとバッティング練習から一緒だった。テンション上がります」とコメントした。26日には日本での開幕戦特別規則となるメジャー28人枠に昇格。日本での開幕戦2試合では出場機会がなかったものの、その後のスプリングトレーニングでも好調を維持し、最終的に参加選手中最高となる打率.455、OPS1.012を記録し、本土開幕メジャー入りを果たす。

4月7日のオークランド・アスレチックス戦で9番・遊撃手としてメジャーデビュー。初打席は遊ゴロに終わったものの、2打席目にバートロ・コローンからメジャー初安打初打点を記録。試合後には「今日は絶対忘れられない日になる。(打った直後にベンチにいた)イチローさんから声が聞こえた。はっきり分からなかったが“いいぞ!”だったと思う。それが一番だったかもしれない」とコメントした。4月30日に正捕手ミゲル・オリボ故障者リスト入りした際には、監督のエリック・ウェッジの「打撃好調なヘスス・モンテロジョン・ジェイソの2人を常時起用したい」という意向もあり、5月3日には三塁コーチのジェフ・ダッツから緊急時の捕手としての指導を受けた。前半戦は主に代走や守備固めとして出場し、打率.185、出塁率.254の打撃成績で前半戦を折り返し、7月12日にはメジャーリーグOB協会が主催するハート&ハッスル賞の候補に選出される。最終的な受賞は逃したが、記念の盾を贈られた際には「アメリカで賞をもらうなんて思ってもいなかったので。眠れないと思います。抱いて寝ます」とコメントした。後半戦も主に代走や守備固めとして出場し、打撃成績は23試合の出場で打率.205、出塁率.262を記録。守備ではシーズン通算で38試合の出場ながら遊撃守備でUZR0.8、DRS±0を記録し、遊撃手を務めた日本人選手で初めて遊撃守備指標の数値が±0を下回ることなくシーズンを終えた。シーズン終了後には「イチローさんも頑張っていますね。僕ももっともっと頑張ろうと思う」とコメントした。10月24日に40人枠から外れ自由契約となり、オフには代理人をSFX社のマイク・ビーバーに変更し、「代理人に希望は伝えてある。ばたばたと決まるのが米国。イチローさんとまたやりたいという思いはある」と語った。

ブルージェイズ時代

ブルージェイズ時代(2013年4月15日)

2013年3月13日にトロント・ブルージェイズとマイナー契約で合意したことが報じられ、18日に契約。ホセ・レイエスの故障者リスト入りに伴い、4月13日にメジャー契約となり25人枠に入る。同日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でスタメン出場し、第1打席で先制点となる犠飛を打ち、チームの勝利に貢献。20日のニューヨーク・ヤンキース戦では黒田博樹と対戦し、翌21日のヤンキース戦ではメジャーで初となる1番でのスタメン出場を果たす。5月26日のボルチモア・オリオールズ戦ではメジャー初のサヨナラ打を放った。6月21日のオリオールズ戦ではトミー・ハンターからメジャー初本塁打となる2点本塁打を打った。32歳でのメジャー初本塁打はブルージェイズの選手としては最高齢であった。25日にはホセ・レイエスの復帰に伴いマイナー・オプションが行使されAAA級バッファローに降格したが、メルキー・カブレラの故障者リスト入りに伴い27日に再昇格。前半戦は67試合の出場で打率.213、出塁率.319の成績だった。6月から7月にかけては後頭部に円形脱毛症を発症していたと言う。7月13日にブレット・ロウリーの復帰に伴い再降格し、エミリオ・ボニファシオの移籍に伴い8月14日に再昇格。16日には育休リスト入りし長男の誕生に立ち会う。9月21日のボストン・レッドソックス戦では内野ゴロの判定を受けてヘルメットを地面にたたきつけるポーズを示し、初の退場処分を受ける。後半戦は26試合の出場で打率.274、出塁率.348の成績を残しシーズンを終える。

年俸100万ドルの翌年の契約オプションを球団が持っていたが行使されず、10月31日に自由契約となり、12月24日にマイナー契約で再契約した。

2014年はAAA級バッファローで開幕を迎えた。マイサー・イズトゥリス外側側副靱帯損傷による故障者リスト入りに伴い、4月15日にメジャー契約となり25人枠入りするが、故障者リスト入りしていたホセ・レイエスの復帰に伴い、4月18日にマイナー・オプションが行使されバッファローに降格。6月17日にメジャーに昇格。当日のヤンキース戦で先発出場し、田中将大とメジャー移籍後初めて対戦し3打数無安打を喫した。6月はその後6試合連続安打を記録し、チームも首位に立つ好調だったが7月4日に2位に後退。前半戦は26試合の出場で打率.284、本塁打なし、出塁率.344の成績で折り返す。7月も自己最長となる8試合連続安打を記録し、22日のレッドソックス戦ではメジャー移籍後初の三塁手として先発出場する。球団史上最長の延長19回、試合時間6時間37分となった8月10日のデトロイト・タイガース戦ではサヨナラの得点を記録。その後も二塁手や三塁手として起用され、後半戦は55試合の出場で打率.243、本塁打なし、出塁率.318、1盗塁の成績を残す。チームはポストシーズン出場を狙う位置につけていたが進出を逃しシーズンを終えた。シーズン終了後、FAとなった。また、翌年の契約についてNPBとMLB両方を視野にいれていることを明らかにした。

2015年1月16日にブルージェイズとマイナー契約で再契約したことが発表され、AAA級バッファローで開幕を迎える。5月10日のノーフォーク戦では頭部に死球を受け途中交代し、14日に故障者リスト入りした。20日に復帰し、デボン・トラビスが左肩の炎症で故障者リスト入りしたことに伴い22日にメジャー契約となり25人枠入り。25日にホセ・レイエスが故障者リストから復帰したことによりマイナー・オプションが行使されバッファローに降格したが、31日スティーブ・トールソンの故障者リスト入りに伴い再昇格した。6月10日にチームの先発投手不足でスコット・コープランドが昇格したことに伴いバッファローに降格したが、R.A.ディッキー忌引リスト入りに伴い19日に再昇格し、26日にトラビスが故障者リストから復帰したことに伴い再降格。トラビスが再び故障者リスト入りしたことに伴い8月1日に再昇格したが、クリフ・ペニントンがトレードで加入したことに伴い9日に再降格。9月1日にはセプテンバー・コールアップに伴い再昇格する。最終的には、メジャー4年目で自己最少の23試合出場に留まり、打率.214はワースト2位・盗塁0はメジャー初で、レギュラーシーズンを終えた。シーズン終了後の11月2日にFAとなった。

カブス時代

シカゴ・カブス選手時代(右端)
(2016年11月3日)

2016年1月21日にシカゴ・カブスとマイナー契約で合意したことが報じられた。3月29日に自由契約となったが、当日中に新たにマイナー契約を結び直した。同日のオークランド・アスレチックスとのスプリングトレーニングでは3点本塁打を打つなど活躍した。4月3日にメジャー契約となり40人枠入りし、7日にAAA級アイオワ・カブスで開幕を迎えるが、カイル・シュワーバーの故障に伴い8日にメジャー昇格。15日にハビアー・バエズが故障者リストから復帰したことに伴いマイナー・オプションを行使されアイオワに降格した。プロ入りから5年目以内の選手には4つ目のマイナー・オプションがあるため2016年シーズンも40人枠に残ったままマイナー降格は可能になっている。7月9日にメジャーに再昇格したが、同月11日に再びマイナーへ降格した。 9月6日に今季3度目のメジャーへ昇格。ポストシーズンではアクティブ・ロースター入りはしなかったが前年同様チームには帯同しベンチ入りした。11月3日にFAとなった。12月2日に第2子となる長女が誕生。

2017年1月7日に、カブスとマイナー契約を結んだ。当初はスプリングトレーニングに招待選手として参加する予定だったが、1月27日付でAAA級アイオワ・カブスに配属された後に、3月28日付で契約を解除された。

ソフトバンク復帰

川﨑は、カブスからの自由契約を機に、日本球界へ6年振りに復帰することを模索。これに対して、川﨑の復帰に際して契約交渉の優先権を有するソフトバンク球団は、他球団より先に川﨑へ再入団を打診した。その結果、2017年3月31日にソフトバンクが川﨑の獲得を発表した。推定年俸9,000万円に出来高の条件を加えた1年契約で、背番号はMLBへの移籍前と同じ52

復帰直後は、体調やNPBでのブランクなどを考慮しながら、二軍での調整に専念。4月4日には、オリックスとのウエスタン・リーグ公式戦(HAWKSベースボールパーク筑後)に「1番・遊撃手」としてスタメンで復帰後初の公式戦出場を果たすと、1回裏の第1打席で復帰後初安打を放った。4月12日の対阪神戦(阪神鳴尾浜球場)で守屋功輝からNPB復帰後初本塁打を放つなど、同リーグの公式戦では、13試合の出場で打率.441、1本塁打、1二塁打、1三塁打、10盗塁という好成績をマーク。4月28日の対オリックス戦(京セラドーム大阪)に、「1番・二塁手」としてスタメンでパ・リーグの公式戦へ6年振りに出場すると、7回表の第4打席で復帰後初安打を放った。以降の公式戦にも、川﨑のメジャー移籍後から今宮健太が正遊撃手として定着していることなどを背景に、二塁手として出場。5月11日の対オリックス戦(福岡ヤフオク!ドーム)3回裏の第2打席でブランドン・ディクソンから中前安打を放ったことによって、MLB/NPB公式戦通算1500安打を達成した。しかし、両足のアキレス腱に痛みを抱えながらプレーを続けていたことから、治療に専念すべく7月24日に出場選手登録を抹消された。以降はリハビリ組での調整となり、ようやく9月23日のウエスタン・リーグ(対阪神戦)で約2ヵ月振りに実戦復帰し「1番・二塁」で先発出場するが、その初球を先頭打者本塁打した打席の際に左ふくらはぎを攣り、その1打席のみで途中交代した。翌24日には再びリハビリ組での調整となり、クライマックスシリーズ以降のポストシーズンへの出場はならなかった。2017年シーズンは上記の怪我での離脱もあり、42試合の出場にどどまった。また、体調不良を理由にシーズン終了後の優勝祝賀パレードやファンフェスティバルなどの行事には参加しなかった。

2018年の動向

2018年シーズンも球団は契約を結ぶ見込みで保留選手名簿に川﨑を載せ、春季キャンプ前の1月中には契約交渉を行う予定だったが体調不良を理由に契約未更改の状態が続いた。結局春季キャンプには姿を見せず、保留選手のままではあったがキャンプ終了直後の3月1日より球団公式サイトの選手名鑑から川﨑の名前が削除された。

その後シーズン開幕を4日後に控えた3月26日早朝になって、西日本スポーツなど複数のメディアが、「川﨑引退」の見出しとともに、川﨑が実際には前年の故障以来心身両面で復帰の目処が立っておらず、現役引退の意向を固めたことを報じた。一方同日にはスポーツライターの田尻耕太郎がYahoo!ニュースに投稿した記事内で「川﨑が練習を再開した」と関係者から聞いたことを明かし「もう少し冷静になって、正式な発表が行われるタイミングまで待ってほしい」とコメント。情報が錯綜する中、同日午後になって球団から公式発表があり、川﨑は引退こそ断言しなかったものの、自由契約という形でソフトバンクを退団することになった。そこで川﨑は球団を通して「昨年より怪我に加えて自律神経系の病気にもなっており、身体を動かすことを拒絶するようになってしまった。球団と協議した末、野球から離れて心と体の回復に努めることを決めた」という趣旨のコメントを発表した。なお、球団側は一旦は自由契約とするが今後も川﨑との話し合いは継続する意向を示しており、同日囲み取材に応じた球団取締役の三笠杉彦も「自由契約は本人からの希望で、その意向を尊重した。あれくらいの選手だから、今後に向けての話し合いは続けていきたいし、サポートできることがあればサポートしていきたい」と述べている。自由契約公示は3月27日に行われた。

その後、同年に戦力外となった城所龍磨のトレーニングにサポーターとして参加した以外に人前に現れることがなかったが、同年12月17日に退団後初めて球団事務所を訪れ、現状を報告した。

台湾・味全時代

2019年7月9日台湾プロ野球に復帰が決定した味全ドラゴンズの客員コーチに就任したことが発表された。7月13日には選手としてもプレーすることが発表され、2年振りの現役復帰となった。なお、同チームは2019年中に公式戦へは参加せず、翌2020年シーズンに二軍のみ参戦予定。一軍の公式戦にも参加するのは2021年シーズンからの予定である。8月17日のキャンプイン時に斗六野球場で行われた3イニング限定の特別試合「現役vsOB」でOBチームの一員として出場。遊撃手としてだけでなく投手としても登板し、最速140km/hを記録して体調の回復をアピールした。アジアウインターベースボールリーグにも参加。3番・DHとして出場した11月23日の開幕戦では第1打席で左翼へのライナー性の安打を放ったが、一塁への走塁時に右脚太もも裏を痛め、代走を送られた。結局安打はこの1本のみで3打数1安打、2試合のみの出場にとどまった。

2020年も味全は引き続き兼任コーチとしての契約を打診したが、川﨑は選手としての契約を希望。合意に至らず、選手としてもコーチとしても所属しないことになった。

BCリーグ・栃木時代

2020年も台湾で選手として活動する意向だったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で台湾に渡ることができず、九州を拠点に独自でトレーニングを重ねた。

8月24日から4日間、日本国内の独立リーグベースボール・チャレンジ・リーグ栃木ゴールデンブレーブスの練習に参加。これはソフトバンク時代のコーチで、栃木の母体であるエイジェックに所属する五十嵐章人の誘いを受けてのものだった。初日の練習後、取材に対して今後の去就について「NPBは考えていない」「独立か台湾でやろうと思っている」と明言。栃木入団については「選択肢はある。4日間で決められたら決めたい」と回答していたが、練習期間終了後の28日、栃木と選手契約を結ぶことが球団より発表された(契約開始は9月1日)。背番号は52。9月7日に行われた会見では、同席した西岡剛に「川﨑さんもプロ(NPB)を目指すんですよね」と話を振られ、「僕もプロを目指しますよ。台湾のね」と返している。

9月13日の対茨城アストロプラネッツ戦(小山運動公園野球場)にて2番・三塁手でBCリーグ公式戦デビュー。第1打席、大場駿太からの初球を右翼への本塁打にし、5回の守備から交代したもののこれが決勝点になり、ヒーローインタビューでは「人生一のホームランが栃木で打てて良かった」と語った。

選手としての特徴

川﨑の打撃フォーム

溌剌としたプレーと明るい性格でチームに貢献するムードメーカー。投手が打ち込まれた際などには自らタイムを取って声をかけに行く光景がよく見られる。

打撃

トロント・ブルージェイズ時代(2013年4月15日)

メジャーリーグに移籍する以前からバットスピードとコンタクト能力はメジャーのスカウトからも高い評価を得ており、2010年には両リーグトップとなる546個のファウルを記録した。ブルージェイズ移籍後の2013年には「ランナーがいない時は何とか塁に出ることを考えながらピッチャーに球数を投げさせることが今年の目標」として投手の球数を多くすることや出塁を強く意識するようになる。

守備・走塁

主に遊撃手として起用されるが、二塁手・三塁手としても出場経験がある。ホークス時代は超一流と評されるグラブ捌きを持ち味としていた一方で、2010年には守備イニング1000以上の遊撃手でワーストとなるRF4.21をマークしたほか、UZRで両リーグワースト4位の-1.4、得点換算でもリーグの遊撃手中ワースト2位をマークするなど守備範囲はやや狭かった。メジャー移籍後も2016年まででRngR(範囲)でマイナスを記録しているが、DPR(併殺)、ErrR(失策)でプラスを記録し、UZR+1.0、DRS+2と平均を上回る数値を記録。三塁手としてはUZR+1.9、DRS+1、二塁手としてはUZR+0.4、DRS-2を記録している。

走塁では力を抜いて走ることがほとんどなく、一塁到達3.83秒、バント時には3.74秒をマークする脚力を誇る。2006年にはベースボール・アメリカ誌で「最高の走者」に選ばれるなど、走塁面は海外からも高い評価を得ている。

高校生時で50メートル走のタイムは5秒9、遠投120メートルの強肩を持つ。

人物

シアトル・マリナーズ時代
(2012年8月6日)

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出典:wikipedia
2021/03/05 19:27

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