このキーワード
友達に教える
URLをコピー

工藤公康とは?

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
愛知県豊明市
【生年月日】
(1963-05-05) 1963年5月5日(57歳)
【身長
体重】
176 cm
80 kg
【選手情報】

【投球・打席】
左投左打
【ポジション】
投手
【プロ入り】
1981年 ドラフト6位
【初出場】
1982年4月10日
【最終出場】
2010年8月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督歴

  • 福岡ソフトバンクホークス (2015 - )

野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
2016年
【得票率】
76.6%(337票中258票)
【選出方法】
プレーヤー表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


工藤 公康(くどう きみやす、1963年昭和38年〉5月5日 - )は、愛知県豊明市出身の元プロ野球選手(投手)。福岡ソフトバンクホークス第20代監督(現職)。

選手時代は14度のリーグ優勝、11度の日本一を経験。西武ライオンズ福岡ダイエーホークス読売ジャイアンツ(巨人)の3球団で日本シリーズを制覇し、優勝請負人と呼ばれた。日本シリーズ通算最多奪三振(102奪三振)記録を保持する。また最高勝率もNPB最多タイ記録となる4回獲得している。

現役引退後は2012年 - 2014年の3年間にわたり野球解説者野球評論家として活動し、2015年からはダイエーの後身であるソフトバンクの監督(第20代)として指揮を執っている。監督としては3度のリーグ優勝、5度の日本一に導いている。

長男に俳優工藤阿須加、長女にプロゴルファー工藤遥加がいる。

経歴

プロ入り前

生い立ち

愛知県(豊明市ないし名古屋市)で父親(名古屋市営バスの運転手)のもとに三男として産まれたが、2歳の時に父親が離婚した。その後、6歳のころに父親が再婚し、継母の連れ子と、2人の間に生まれた息子を加えた7人家族で育った。父親は読売ジャイアンツ(巨人)の熱狂的なファンで、公康ら息子たちに野球を教えていたが、巨人が負けると機嫌を損ねて子供たちに当たり散らしたり、キャッチボールの際にうまく投球できないとボールを拾いに行かず「早く取ってこい!」と怒鳴るなどしていたため、幼少期の公康は野球が好きではなかった。公康は野球週刊誌を購入してプロ野球選手の投球フォームを研究したり、バッティングセンターに通ったりして野球に打ち込んだが、中学入学直後は野球部ではなくハンドボール部に入部。しかし、工藤の野球センスに注目した教師(ハンドボール部の顧問)によって野球部に移籍させられた。

名古屋市立高坂小学校名古屋市立久方中学校(名古屋市天白区)出身で、中京テレビアナウンサー・佐藤啓が小中学校の1年先輩、紀藤真琴(中京高校広島中日楽天)が小中学校の2年後輩に当たる。

名古屋電気高校時代

工藤家は経済的に貧しく、子供5人全員を無条件で高校まで進学させる余裕がなかったため、父は公康に対し「野球で特待生として声がかかれば(高校に)行かせてやる。そうでなければ働け」と言っていたが、中学時代から評判の好投手だった公康は名古屋電気高校(現:愛知工業大学名電高校)や享栄高等学校などからスカウトされた。当時は「甲子園を目指す」「プロ野球選手になる」という夢を持っていたわけではなかったが、公康は結果的に野球を高校進学の手段とすることになった。名古屋電気高は当時まだ新興校だったが、当時監督に就任したばかりの中村豪が工藤の才能に惚れ込んでスカウトし、入学させた。

高校時代は同期の槙原寛己(大府高校巨人1位指名)・浜田一夫(愛知高等学校中日2位指名)とともに愛知三羽烏と呼ばれ、速球と大きく割れるカーブを武器に活躍。山本幸二とバッテリーを組み、1981年愛知県大会を優勝して第63回全国高等学校野球選手権大会に出場すると、第2回戦(8月13日)では長崎西高校(長崎代表)戦で史上18人目、19度目(金属バット採用後初めて)のノーヒットノーランを記録(4対0)。準々決勝・志度商業高校(香川代表)戦でも5回表にはソロ本塁打を放ち、投げては相手打線を2被安打に抑えて完封勝利を記録したことでチームを史上初のベスト4進出へ導いたが、金村義明を擁する兵庫代表報徳学園高校との準決勝(8月20日)では3対1で敗れ決勝戦進出を逃した。同大会における試合数は4試合・投球回数は39イニング、奪三振数は56(当時・大会歴代5位)。

ドラフト指名

1981年のドラフト会議では目玉選手として注目され、会議直前の『毎日新聞』では金村・槙原とともに「大型投手トリオ」「高校のビッグスリー」として注目されていた。日本ハムファイターズ横浜大洋ホエールズロッテオリオンズの3球団を除く9球団が事前に指名の挨拶をしていたが、地元・愛知県に本拠地(ナゴヤ球場)を置く中日ドラゴンズは特に工藤を強く勧誘していた。

一方で工藤本人はセントラル・リーグ(セ・リーグ)球団を希望していたが、工藤の父はドラフト会議の4日前になって、指名の挨拶をしてきた9球団に対し「指名お断り」の文書を発送した。これは、工藤の父が「息子は甲子園に出てから慢心の気配がする。人間形成のため就職すべき」と考え、社会人野球熊谷組に進ませようとしたためだった。

しかし、ドラフト会議当日(11月25日)にパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の西武ライオンズが6位で工藤を強行指名した。工藤は指名直後こそ「進路は決定している。『プロには行かない』と言ったのに指名されてびっくりしている」と述べたほか、工藤の父も入団交渉に応じない構えを見せていたが、根本陸夫管理部長が指名直後に挨拶に出向き、その後も西スカウトを中心に粘り強く交渉。その結果、工藤も両親も最終的には翻意し、工藤は12月28日に西武入団を表明し、西武と契約。その後、工藤の父親が一転して「いったん入ることになっていた熊谷組が(西武入りの)了承をしていないことが分かった。約束が違う」と態度を硬化させ、契約の白紙撤回を求めたが、1982年1月6日に熊谷組野球部部長・大塚本夫(同社専務)が「工藤本人と父親から『熊谷組入りしない』との意思表示がない限り、当社野球部との間で交わした入社の約束は有効だが、この件に関して熊谷組が圧力をかけることはない」と表明。工藤の父は同月8日に熊谷組本社を訪ねて工藤の入社内定取り消しを申し入れ、名電高にも西武入りの了承を得たため、工藤は同月12日に正式に西武への入団を発表した。

背番号は47で、同年のドラフト1位だった伊東勤が契約金5,000万円・年俸300万円の契約だったのに対し、工藤は契約金6,000万円・年俸480万円とともに伊東より高額だった。西武入団時には「目標となる選手もライバルもいない。自分だけの独特の型を持ちたい」と発言した一方、「尊敬する人」としては同じ左腕の金田正一を挙げていた。

入団時の経緯については、管理部長(編成責任者)の根本陸夫が主導して工藤をドラフト指名し、入団に至らせたとされ、俗に「根本マジック」と称される出来事のひとつとされている。しかし、広岡達朗(1982年より西武の監督に就任)は「ドラフト会議時の根本は工藤の指名に反対する立場で、西武監督に就任したばかりの自分が指名を強く進言した。結果、ドラフト会議当日に会場で6位指名することを決めた」と述べている。

西武時代

入団1年目の1982年から監督の広岡達朗から“坊や”とかわいがられ、中継ぎで起用された。同年は27試合の登板で1勝1敗、防御率3.41の好成績を残した。広岡からは厳しい指導を受け大きな影響を受けた。この年のパ・リーグプレーオフに登板し、第2戦では勝利投手になっている。なお前期後期制時代のプレーオフはこの年が最後であった。

1983年は中継ぎメインでの起用だったが2試合に先発した。入団3年目の1984年はわずか9試合の登板に終わった。広岡に命じられアメリカの1A・サンノゼ・ビーズへ留学しメジャーリーグの野球を見たことが転機となり、帰国して宮田征典の指導を受け主力投手となった。

1985年からは本格的に先発に転向した。この年は8勝3敗ながら、初タイトルとなる最優秀防御率を獲得。

1986年はプロ初となる2桁勝利となる11勝を挙げた。また完投数も10を記録した。広島東洋カープとの日本シリーズでは西武が第1戦を引き分けた後3連敗で迎えた第5戦の延長12回、投手である工藤がサヨナラ安打を記録した。その後西武は息を吹き返し4連勝で日本一。1勝2Sを挙げた工藤はシリーズMVPに選ばれた。

1987年は15勝を挙げたほか、シーズン最多の23完投を記録し、2度目となる最優秀防御率、最高勝率ベストナインのタイトルも合わせて獲得。しかし、この年のMVPは優勝争いの後半戦に9勝1敗と活躍した東尾修が選出された。それでも、この年の日本シリーズでは巨人相手に1完封を含む2勝1Sで前年に続き2年連続MVPを受賞し、名実共にパリーグを代表する左投手となる。

1988年は開幕戦は完封勝ちも、その後は打ち込まれる試合が続き、6月に二軍落ちした。一軍復帰後は調子を取り戻し、10勝10敗1セーブだったが、11完投を記録し、これで3年連続2桁完投を記録した。1989年は調子を落とし、4勝8敗2セーブの成績で終わり、中継ぎで登板することもあった。最終的な登板数は33だった。

1990年は故障離脱があり、9勝を挙げたものの、1984年以来となる投球回数100未満でシーズンを終了した。1991年シーズンに自己最高の16勝を上げ復調し、最高勝率を獲得。1992年も11勝を挙げ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。

1993年のシーズンは15勝3敗、最優秀防御率、最高勝率、ベストナイン、そして自身初となるパ・リーグMVPを受賞する。この年のシーズンオフから始まったFAの権利を取得するも西武に残留。

1994年も11勝を挙げ、4年連続2桁勝利を記録したが、秋の契約更改時にそれまで老朽化していた練習設備の改善を訴え続けていたものの、球団からは色よい答えが返ってこないことから11月9日にFA権行使を表明し、11月15日に西武を退団した。根本が球団社長、王貞治が監督に就任した福岡ダイエーホークスへの移籍が12月6日に発表された。西武の黄金時代を支えた秋山幸二と再びチームメイトになり、チームの再建を託された。

西武へは「13年間有難うございました」などと感謝の気持ちを忘れてはいなかった。

ダイエー時代

1995年、移籍後の初登板は古巣西武との開幕戦の先発で、この試合は大乱打戦で工藤も4回を投げ8失点だったが試合はチームが勝利したため負けは免れた。シーズンでは6月に1ヶ月ほど故障離脱はあったものの、チームトップの12勝を挙げたが、チームは不振で自身初のBクラスを味わった。

1996年は2年連続の開幕投手を務め29試合に先発し、9完投を記録し8勝を挙げ、初の178奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得。一方、開幕から黒星先行で月間勝ち越しが一度もなかった。結局、同年の成績は29試合登板・8勝15敗・202イニング2/3投球回・防御率3.51(パ・リーグ規定投球回到達者数20人中12位)の成績で、リーグ最多の15敗(近鉄酒井弘樹と同数)を喫した。一方、同僚の武田一浩は防御率(3.84、20人中16位)、投球回数(171回)とも工藤を下回っていたが、リーグ3位となる15勝(8敗)を挙げている。

1997年は背番号を西武時代と同じ47に戻した。同年は2年ぶりの2桁勝利となる11勝を挙げたが、一軍定着後初となる完投0でシーズンを終えた。

1998年は2年ぶりに開幕投手を務めたが故障離脱があり、7勝に留まった。しかし、チームはダイエー譲渡後初となるAクラス入りを果たし、オリックス・ブルーウェーブと同率の3位(しかし前年の成績はオリックスが上だった為開幕権はオリックスになった)に入り、工藤自身西武時代の1994年以来4年ぶりにAクラスを経験した。

1999年は、工藤はエースとして11勝を挙げ4度目となる最優秀防御率と、2度目となる最多奪三振のタイトルを獲得。ダイエーの福岡移転後初のリーグ制覇に大きく貢献し、MVPに選ばれた。中日ドラゴンズと対戦した日本シリーズでも第1戦に先発し、シリーズ新記録となる13個の三振を奪って完封したこの試合で自身の日本シリーズ通算奪三振数を86に伸ばし、稲尾和久が持っていた記録(84)を塗り替えた。中日監督の星野仙一は「敵を褒めるのは嫌だが、工藤はウチを0点に抑えたわけで、たいしたモンだ」と悔しさを露にしてコメントした。工藤自身はこの試合のピッチングは「生涯最高の出来だった」と評し、三振を奪うのもゴロを打たせるのも自分の思い通りにいったと後に自著で語っている。「圧倒的中日有利」との下馬評の中、工藤の完封で勢いに乗ったダイエーが4勝1敗で日本一に輝き、工藤もシリーズ優秀選手に選ばれた。シーズン終了後の11月1日にFA宣言し、一時は中日ドラゴンズかメジャー移籍に絞られたとも報道されたが、最終的に読売ジャイアンツへの移籍が12月14日に発表され、背番号「47」、4年契約を辞退し、単年契約を結んだ。FAにあたっては「もっと(ダイエーで)やりたかった」とも語った。

2008年に『週刊ベースボール』のインタビューで、オークランド・アスレチックスからもオファーがあったことを明らかにした。 結果的に日本を選んだのは、相談した野茂英雄に「迷っているなら、それは日本に残りたいということ。一度でも迷ったら海は渡らないほうがいい」と助言を受けたからだという。

移籍に際し、福岡では工藤の残留を願う17万3000人もの署名が集まった。工藤は移籍後、約7年かけて署名に参加したファン全員に住所と宛名を自筆した感謝の手紙を送った。

巨人時代

移籍1年目の2000年は「優勝請負人」として投手陣を引っ張りシーズン序盤から快調に勝ち星を重ね、前半戦だけで10勝を挙げる活躍を見せる。シーズン終盤に右ふくらはぎを痛め一時離脱したものの、12勝を挙げてリーグ優勝に貢献し、最優秀投手賞を受賞。日本シリーズでは故障をおして第1戦に先発し、前年まで所属していたダイエーを退け、2年連続の日本一に輝いた。しかし、翌年2001年は左肩の故障に苦しみ、5試合の登板に終わった。

2002年は9勝を挙げ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献する。日本シリーズでは古巣の西武と対戦。第3戦に先発し、8回2失点8奪三振の好投。チームはそのまま勝ち、自身も勝利投手となり、自身の持つシリーズ奪三振日本記録を102まで伸ばした。2003年は故障で戦列を離れたこともあり、7勝6敗、防御率4.23の成績で終わった。

2004年8月17日、対ヤクルト戦で2失点完投勝利で通算200勝を達成、日本プロ野球史上23人目、41歳3か月での200勝は当時の史上最年長記録。また、この試合でプロ入り初本塁打を記録、41歳、プロ入り23年目での初本塁打は日本プロ野球史上最年長記録。ただ、打者としては、2000年から2002年にかけて84打席連続無安打というセ・リーグ記録を残している(日本記録は嵯峨健四郎の90打席)。自著の中で「昔日本シリーズで打ったイメージがあるらしく、巨人に入った時は『バッティングも期待してるぞ』と声をかけてもらったが途中から『バッティングはもういい。バントだけしっかりやってくれ』と言われるようになった」と述べている。同年は防御率4点台ながらも4年ぶりの2桁勝利を挙げた。

2005年5月19日の対ソフトバンク戦でセ・リーグ最長完投勝利記録(当時)を更新。2005年8月26日の対阪神戦では最年長2桁勝利記録(当時)を更新した。2017年現在では、最年長200勝を含め、いずれも山本昌が記録を更新している。この年の工藤は11勝を挙げたが、規定投球回には到達できなかった。

2006年はシーズン前半に3勝を挙げ、7月には大野豊を上回り、プロ野球史上初の43歳2か月以上の現役左腕投手となった。しかし、6月 - 7月の2試合で計20失点を喫し、更に肩痛も発症し、登録抹消。最終的に3勝2敗、防御率4.50の成績でシーズンを終えた。12月の契約更改では限度幅を超える年俸ダウンの提示を受け保留。年越し、トレーニング地へ渡米していた。オフには、巨人の若手の成長株3人(会田有志山口鉄也木村正太)をアリゾナ自主トレに帯同させ、プロとしての私生活やトレーニングの大切さを一から指導を行い、才能を開花させた。この自主トレ期間中に門倉健がFA移籍したことに伴う人的補償で横浜ベイスターズへの移籍が決まった。

横浜時代

2009年、横浜時代

2007年1月7日、横浜から巨人にFA移籍した門倉の人的補償のプロテクト枠28人に入らなかったことが判明したこと、また、それに対して横浜は215勝左腕の経験を評価して獲得候補の一人と考えていることなどが先行して報道された。なお、巨人フロント側は本来秘密裏に行われるはずの交渉が報道先行になったことに対し「遺憾の意」を表明した。1月9日、横浜への移籍が正式に決定した。自身がFA移籍をし、なおかつFAの人的補償となったのは2006年の江藤智に続き2例目。江藤は工藤と同じ2000年に巨人へFA移籍している。横浜へ移籍後も背番号は47。

マスコミからは、トレードで同じく横浜に移籍した仁志敏久と共に巨人との「因縁の対決」が期待されていたようではあるが、1月11日放送の報道ステーションのインタビューで「自分がフロントだったら43歳の選手をプロテクト枠には入れない」と在籍した球団のチーム事情へ理解を示し、「自分を欲しいと言ってくれる球団があることに感謝している」と明るく語った。横浜球団には「明るいイメージの球団。ただ投げる以外でも貢献したい」とメッセージを送り、「もうトレーニング先でクルーンに会った」と早くもチームメイトへのメッセージを飛ばしている。2007年1月19日の正式入団の記者会見ではTBSアナウンサー青木裕子の「ハマの何と呼ばれたいですか?」の質問に対し「じゃ、ハマのおじさんでいいです。」と、茶目っ気たっぷりに答えた。年俸は前年の2億9000万円から2億円減の9000万円(他に最高5000万円の出来高払い)と、プロ野球史上最大の減俸額(当時)となった(金額は推定)。

2007年4月1日、対巨人戦に登板し一軍での実働年数が26年になり、野村克也の持つプロ野球最長記録に並んだ。しかし開幕当初は不安定な投球が目立ち3連敗で自ら二軍行きを志願し調整、5月11日の対広島戦の9回に9年ぶりのリリーフ登板で一軍復帰。5月23日、対西武戦に先発登板し勝利投手になったことで、米田哲也と並んでいた22年連続勝利記録を更新し23年連続勝利を達成した。また、44歳以上での勝利投手は史上2人目の記録。

同じ年7月12日の対中日戦で、6回裏に中田賢一から中前打を放ち44歳2か月というセ・リーグ最年長安打記録を樹立、さらに9月26日の阪神戦では5回裏に橋本健太郎から左前打を放ち44歳4か月と自身の記録を更新した。2007年7月24日の対巨人戦に先発し、勝利投手となったことで史上初の近鉄を含めた全13球団から勝ち星を挙げた投手になった。開幕当初は打ち込まれ二軍落ちも経験したが、再昇格以降は安定した投球を続けた。同年オフの契約更改では、2000万円増の年俸1億1000万円で更改した。

2008年、4月1日の対ヤクルト戦で先発して実働27年となり、野村と並んでいた実働26年を更新し歴代単独1位となるも、肘を故障しこの1試合のみで二軍に降格した。9月9日の日本ハム湘南戦(鎌ヶ谷)16回戦に先発して5イニングを投げ、イ・リーグ最年長勝利投手となった。しかし、一軍では1勝も出来ず、1984年以来24年ぶりの一軍未勝利に終わる。同年オフの契約更改では、野球協約で定められている減額制限を超える約55%減の年俸5000万円プラス出来高払いで更改した。

2009年には、代名詞となった背番号47の着年数が26年に達し、プロ野球新記録となった。4月8日には古巣の対巨人戦に先発し、自らの持つ実働年数記録を28年に更新した。この試合に8失点でKOされると、その後の二軍での調整を経て、チームの方針からリリーフに転向。工藤の本格的なリリーフは1989年以来20年ぶりのこととなった。5月5日の対巨人戦では、自身初のホールドを記録。同5月25日の対楽天戦で4番手で9回表に登板し無失点で抑えると、チームが逆転サヨナラ勝ちしたことにより、自身が持っていた44歳4か月のセ・リーグ最年長勝利記録を46歳20日に更新した。この勝利で通算223勝とし、村山実を上回り単独13位。また40歳以降37勝目となり、36勝で並んでいた大毎若林忠志を上回り単独1位となった。7月1日の対ヤクルト戦で1-2とリードされていた6回表二死から登板し打者1人をわずか4球で抑え、その裏チームが逆転しそのまま9-5で勝利したため通算224勝目を挙げた。この試合は地方である山梨・小瀬球場で開催されたためファンサービスも兼ねての登板であったが、結果としてこれがプロ野球生活最後の勝利となった。この年自己最多の46試合に登板したが、9月15日、選手の若返りを図りたい球団本部から、戦力外通告とシーズン終了をもって自由契約となる旨の通知を受ける。現役続行の意思を示し、古巣の西武が獲得の意向を示した。

西武時代(第2次)

2009年11月14日、工藤が「家族会議の結果、西武にお世話になる事に決めた」と明言、16年ぶりに古巣に復帰することになった。デビュー以来、ほぼ毎年つけ続けてきた背番号47は主軸左腕投手の帆足和幸が着用。帆足は「(背番号47は)元々、工藤さんの番号」と返還の意向を見せたが、工藤本人が「若くて旬な選手に気を遣わせたくない」と固辞。11月16日、背番号は「55」と発表された。

2010年7月18日、前半戦終了間際に復帰後初めて一軍登録された。7月20日の対ソフトバンク戦(ヤフオクドーム)で、7回裏に先発・野上亮磨の後を受けて2番手で登板し、自身が持つ実働年数の記録を29年に更新した。しかし、以後は10試合で0勝2敗、防御率10.50。8月25日の対ロッテ戦では同点の場面で登板したものの勝ち越しの本塁打を打たれ、28日に登録抹消となった。9月27日に球団から戦力外通告を受け、10月1日に退団。

西武退団後・引退表明

西武退団後も現役続行の意思を表明していたが、2011年シーズンは獲得に名乗りを上げる球団が現れず、トレーニングを続けながらメジャーリーグへの挑戦も視野に入れて1年間浪人した。現役続行に向けてトレーニングを積む傍ら、文化放送のゲスト解説者も務めた。この頃父親が死去しており、告別式に顔を出せないほど多忙だったという。

7月、秋にメジャーリーグのトライアウトを受験するつもりである旨表明したが、後述の通り肩の傷が癒えなかったことから受験には至らなかった。

2011年11月22日のスポーツ報知の取材で、肩関節唇に炎症を抱えるなど肩の調子が上がらないことで、本人の口から引退を示唆する発言が出た。最終的な進退判断は、家族と話し合って決めるとしていた。その後、横浜ベイスターズを買収したDeNAに新監督就任を要請されたが、12月5日に交渉が合意に至らず破談したことが明らかになった。工藤はこの時鹿取義隆達川光男の入閣を要求したが、高田繁GMにより却下されている。12月9日、自身のブログで肩の故障が治癒しないことから現役引退を決意したことを表明した。工藤の引退後は、中日山本昌が日本プロ野球で最年長の選手となった(満50歳の2015年のシーズンで引退)。1988年限りで球団売却された阪急ブレーブス・南海ホークスから勝利した経験のある最後の現役選手でもあった。

2012年4月7日、西武ドームでの西武対ソフトバンク戦の試合前に工藤による始球式と引退セレモニーが行われ、工藤と共に西武黄金時代を支えた西武監督の渡辺久信がキャッチャー、ソフトバンクの監督の秋山幸二が打席に立った。工藤の投じたゆるい大きなカーブはワンバウンドし、「マウンドから届かなかったのは初めて」とコメントしている。

引退後

2012年からは、日刊スポーツ評論家や文化放送ライオンズナイター』の解説者として活動。テレビ朝日の『報道ステーション』にも、日本ハムの監督に就任した栗山英樹の後任扱いで、プロ野球担当キャスターとして定期的に出演している。

また、2011年まで栗山が務めていた朝日放送の「熱闘!高校野球ナビゲーター」を継承。全国高等学校野球選手権大会の予選・本大会期間中には、プロ野球の解説・評論活動と並行しながら、同局が制作する大会関連番組(『速報!甲子園への道』『熱闘甲子園』など)で司会や取材を担当する。

2013年7月19日、自身のブログ筑波大学大学院に合格したことを発表。翌年4月、同大学院人間総合科学研究科に仁志敏久吉井理人とともに入学した。

福岡ソフトバンクホークス監督時代

2014年11月1日、西武、ダイエーの先輩でもあり、前任監督であった秋山幸二の勇退を受け、その後を引き継いで福岡ソフトバンクホークス監督に就任することが決定し、王貞治球団会長同席の下に就任記者会見を行った。投手出身のホークスの監督は杉浦忠以来26年ぶりである。なお、監督就任にあたり、工藤の背番号は当初、王がダイエー/ソフトバンク監督在任時代に着用していた「89」をつけるという報道もされていたが、前任者の秋山が着用していた「81」を引き継ぐことになった。交流戦は12勝6敗、首位・日本ハムと0.5ゲーム差の2位で終えるも、6月16日の阪神対日本ハム戦で日本ハムが敗れたことで、ソフトバンクの交流戦勝率1位が確定。チーム打率・287、チーム本塁打・23本、90得点はいずれも12球団トップ。福岡移転後最速でマジック38が点灯し、9月6日の対楽天戦に5-3で勝利し3位以内が確定、両リーグ一番乗りでのクライマックスシリーズ進出を決めた。9月17日、本拠地での対西武戦に勝利し、パ・リーグ最速でリーグ優勝を決める。クライマックスシリーズファイナルステージでは、ファーストステージ勝者のロッテと対戦。3連勝でアドバンテージの1勝を含めて4勝0敗で日本シリーズへ進むこととなった。 10月29日の日本シリーズ第5戦では、5-0で迎えた最終回を守護神のデニス・サファテが締めくくり、就任1年目にしてレギュラーシーズン、クライマックスシリーズ、日本シリーズの3部門において完全優勝を成し遂げた。2016年1月18日、野球殿堂入りを果たした。

出典:wikipedia
2020/12/01 23:31

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「工藤公康」の意味を投稿しよう
「工藤公康」のコンテンツはまだ投稿されていません。

工藤公康スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「工藤公康」のスレッドを作成する
工藤公康の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail