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帝国主義とは?

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1898年当時の帝国主義列強勢力図
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政治体制

政治体制の分類と対立軸
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主な対立軸

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帝国主義(ていこくしゅぎ、: imperialismインペリアリズム)とは、一つの国家または民族が自国の利益・領土・勢力の拡大を目指して、政治的・経済的・軍事的に他国や他民族を侵略・支配・抑圧し、強大な国家をつくろうとする運動思想政策である。語源は「インペリウム」(ラテン語: imperium)。日本では帝国政治、皇帝政治、帝制、帝政、皇帝制とも訳される。

用語

帝国#語源」および「皇帝」も参照

「帝国主義」(imperialism)という用語が使われたのは19世紀後半以降だが、歴史用語では古代中国の帝国、シュメールバビロニア帝国、エジプト王朝アレクサンドロス大王の帝国、ローマ帝国などにも使用されている。「15~18世紀の西欧諸国によるアジア,インド,アメリカでの領土獲得や,19世紀後半から激化した植民地政策は帝国主義的な支配といえる」とされている。

「帝国主義」の用語が現在の意味で最初に普及したのは1870年代のイギリスで、否定的な意味合いで使用された 。この用語はナポレオン三世による他国への軍事的干渉を通じた政治的支援を説明するために使用された。またこの用語は、19世紀から20世紀にかけて特にアジアやアフリカでの列強による政治的および経済的な支配に対して使用された。

「帝国主義」を権力分析の用語として用いた著名な例は、カール・マルクスの時代に見られる。

この用語の正確な意味は学者による議論が続いている。本来は列強による植民地主義を指して使用されたが、広義には単なる膨張主義や覇権主義を指して使用されている。またウラジーミル・レーニンは著書「帝国主義論」で帝国主義は資本主義の最終段階と定義した。複数の学者はより広義に、帝国の中心部と周辺部で組織された支配と従属のあらゆるシステムを説明するために使用しており、この定義では新植民地主義も含まれる。

日本では"imperialism"は「帝政」、「帝位」など、"imperialist"は「帝国主義者」「皇帝支持者」「帝政主義者」などとも訳される。

概要

19世紀から20世紀にかけて、列強と呼ばれる西欧諸国は、特にアジアやアフリカにおいて植民地獲得競争を行った。それらを政体や国号を問わず「帝国」と呼ぶ用語には、スペイン帝国ポルトガル海上帝国オランダ海上帝国デンマーク海上帝国ロシア帝国イギリス帝国(大英帝国)、フランス植民地帝国ベルギー植民地帝国ドイツ植民地帝国イタリア植民地帝国アメリカ帝国、更には社会主義国に対する社会帝国主義などがある。

ホブスンは植民地主義を、余剰資本の投下先という経済的側面の他に、植民地が社会的地位の高い職を提供するという社会的側面についても指摘したが、19世紀中葉以降の植民地獲得、特に移民先として不適切なために余剰人口の捌け口とは成り得ない熱帯地域での拡張を、帝国主義として批判の対象とした。ボブスンの研究はレーニンに多くの影響を与えた。

レーニンの帝国主義論では、帝国主義とは、資本主義の独占段階(最終段階)であり、世紀転換期から第一次世界大戦までを指す時代区分でもあり、列強諸国が植民地経営や権益争いを行い世界の再分割を行っていた時代を指す。この時期のみを帝国主義と呼ぶのか、その後も帝国主義の時代に含めるのかについては論争がある。レーニンによれば、高度に資本主義が発展することで成立する独占資本が、市場の確保や余剰資本の投下先として新領土の確保を要求するようになり、国家が彼らの提言を受けて行動するとされる。いくつもの国家が帝国主義に従って領土(植民地)を拡大するなら、世界は有限であるから、いつかは他の帝国主義国家から領土(植民地)を奪取せねばならず、世界大戦はその当然の帰結である、とする。レーニンの『帝国主義論』は、世界大戦の結果としての破局が資本主義体制の破局につながると指摘した。この様な経済決定論的なレーニンの主張はしばしば「ホブスン=レーニン的」帝国主義とも評されるが、必ずしも両者の主張は同一ではない。

ギャラハー=ロビンソンによる「自由貿易帝国主義(Imperialism of free trade)」論は、非公式帝国(informal empire)という概念を用い、自国の植民地以外への投資を説明している。彼らの論によれば、自由貿易の堅持や権益の保護、情勢の安定化といった条件さえ満たされるのならば、植民地の獲得は必ずしも必要ではなく、上記の条件が守られなくなった場合のみ植民地化が行われたとされる。ギャラハー=ロビンソンは現地の情勢と危機への対応に植民地化の理由を求めたため、それ以降「周辺理論」と呼ばれる、植民地側の条件を重視する傾向が強くなった。

それに対し、再び帝国主義論の焦点を「中心」に引き戻したのがウォーラステインによる世界システム論であり、ケイン=ホプキンズによるジェントルマン資本主義(gentlemanly capitalism)である。ウォーラステインはしばしば余りに経済決定論的過ぎるとして批判されるが、ケイン=ホプキンズはホブスン以来の社会的側面に再び注目し、本国社会における政治的・社会的要因を取り上げた。これらの研究は第二次大戦後、脱植民地化が進むにつれ指摘される様になった新植民地主義(Neocolonialism)(間接的に政治・経済・文化を支配する)の影響を受けたものである。

大英帝国の支配下にあった地域

思想

帝国主義は他者を支配する事を積極的に肯定する思想によって正当化された。それは生物学上の概念であった適者生存をより複雑な人間社会にまで拡大した社会ダーウィニズム科学的レイシズムなどの疑似科学によって裏打ちされた帝国意識であり、キプリングの「白人の責務」という言葉に代表される。社会ダーウィニズムなどの、進化進歩と混同することからきた進歩史観には啓蒙主義との関連も指摘され(啓蒙Enlightenmentは字義通りには「光で照らす」)、闇/野蛮、光/文明という二分法を作り、闇の領域に光すなわち文明をもたらし、「無知蒙昧状態から救い出す」とする啓蒙イデオロギーで表向きは装っていることが多かった。

帝国主義を批判したホブスンも究極的には「人類全体の幸福に寄与する資本主義」という理念を信奉しており、周辺地域を然るべき方法で経済圏に組み込む事自体は「文明化の一環」として肯定している。このオリエンタリズムの典型とも言える思想は非ヨーロッパ地域を支配する事はしばしば経済的原理を超えて、「良心」の名の下に進められており、安全と文明化の手段が提供されるのであれば、必ずしも自国による政治的支配は要求されなかった反面、ベルギーコンゴ自由国におけるレオポルド二世のように「白人の責務」を見失い、度の過ぎた搾取を行えば国際社会から痛烈な批判を浴びることとなった。

また19世紀後半はナショナリズムの興隆によってヨーロッパで国民国家形成が行われた時期に当たり、国家への帰属意識を高めた民衆は国威発揚のために帝国主義をしばしば強力に支持することとなった。

主な帝国主義論

ホブスン

ホブスンは、南アフリカ戦争を記者として取材した経験に基づいて、1902年に『帝国主義論』(Imperialism: A Study)を著し、1860年代以降のイギリス帝国拡大を、「植民」から離れた資本投下と市場開拓のための帝国主義と批判した。この経済的側面についての指摘はレーニンの著作に大きな影響を与えている。またレーニンに影響を与えることはなかったものの、政治的・社会的側面として、金融・軍事・物流といった分野の、帝国維持にかかるコスト自体が目的となりうる階層の利害も指摘した。ホブスンは帝国主義を「文明の堕落」と考えていた反面、資本主義と「文明」の本質的な善性を信じており、現在でいう国際連合のような国際機関の信託の下で「野蛮」を「文明化」することは究極的には良いことであると考えていた。

レーニン

レーニンは1917年に『資本主義の最高段階としての帝国主義』を出版した。同著によれば帝国主義は特殊な資本の発展段階である。そもそもマルクス主義によれば資本はその基本的な性質に基づいて拡大再生産を繰り返しながら膨張するものであり、これが最も高度化したのが帝国主義であると捉える。帝国主義においては独占が資本の集中をもたらし、また金融資本が産業資本と融合した寡頭的な支配が行われ、腐敗が進行し、長期的には死滅しつつある。レーニンは帝国主義の列強間で不可避的に生じる衝突を予見し、そのときこそ社会主義革命の契機と捉えていた。

モーゲンソウ

ハンス・モーゲンソウはマルクス主義的な観点から論じられた資本主義と帝国主義の関係について否定的な立場をとる。歴史的な記述を見ても資本家は帝国主義的な対外戦争に賛成するどころか反対してきたことが認められるとし、そもそも戦争が本質的に持つ偶発的な危険性や予測の不可能性を考えれば資本家にとっては対外戦争はリスクが大きすぎると判断できる。またある程度の社会的な安定が必要な経済活動は軍事活動とは基本的に両立しえないために利益を上げることそのものが難しくなるという見方を示す。

竹越与三郎

『南国記』を著して南進論を主張し、植民地政策を唱えた枢密顧問官竹越与三郎は「熱帯移民論」を主張して熱帯地方の気候や風土に白人がなじめず、また病気に対する免疫も不十分であるとして、南洋諸島ハワイへの日本人移民満州朝鮮への移住を提唱した。また、「英国のローズベリ卿が云へるが如く、自由帝国主義とこそ云ふべきもの」と題して明治33年(1900年)に『世界之日本』第五巻第四八号で大英帝国自由帝国主義を日本に紹介し、ローズベリー伯(Lord Rosebery)の政策を掲載。フランスの同化主義批判を含む植民政策の国際的潮流を感知して、「外に向かっては帝国主義を主張し、内国に於いては自由寛容の政策」を主張した。

幸徳秋水

幸徳秋水1901年(明治34年)に『帝国主義』を著し、「帝国主義はいわゆる愛国心を経となし、いわゆる軍国主義を緯となして、もって織り成せるの政策にあらずや」とし、帝国主義と愛国心ないしナショナリズムとの関係をジョン・ロバートソンの『Patriotism and Empire』(1899)を基礎に、独自の分析を行っている。

帝国主義の時代

1895年のフランスのマダガスカル侵攻を喧伝するポスター

情勢

帝国主義という言葉には様々な定義が存在するが、なかでも最も帝国主義が強まったのは1870年代以降のことであり、狭義の帝国主義とはこの時期の動きのことを指す。ただし、15世紀後半から19世紀前半にかけてのヨーロッパ諸国の世界進出と対比して、この時期の帝国主義を新帝国主義と呼ぶこともある。この時期、ヨーロッパ諸国やアメリカ・日本といった列強諸国が世界のかなりの部分を植民地化して分割支配し、独立を保っている地域も勢力圏におさめていった。

この時期の帝国主義の主目的となったのは、主にアジアおよびアフリカ、オセアニア地域だった。アジアはそれまでの時期にもかなり分割が進んでいたが、1870年から1914年までの間にそれまで独立を保っていた地域も次々と列強の支配下に入り、独立国として残存するものはわずかとなった。ただし、この地域には近代帝国以外に、オスマン帝国といった旧来の帝国がいまだ残存していた。ただしこれらの旧帝国の多くは政治的敗北によって列強との間に不平等条約を締結しており、関税自主権の喪失や治外法権領事裁判権などを認めさせられ、また国内各地域の経済利権を列強に握られるなど、半植民地的な状況に陥っていた。

この時期の対立の焦点の一つとなっていたのが中央アジアであり、グレート・ゲームと呼ばれるイギリスとロシアの勢力圏争いのなかで、南下を目指すロシアとインドに権益を持つイギリスは中間のトルキスタンアフガニスタンペルシアチベットを巡って角逐を繰り返した。ロシアはコーカンド・ハン国ブハラ・ハン国ヒヴァ・ハン国の西トルキスタン3ハン国を支配下に置き、イギリスはアフガニスタンのバーラクザイ朝1881年の第二次アフガン戦争保護国とした。この争いは1907年英露協商によって、ペルシア・ガージャール朝の独立尊重と北部をロシア・南部をイギリスの勢力圏とすること、アフガニスタンのイギリス勢力圏の尊重などが決定されて終結した。

世界分割の中で最も遅くまで取り残されたのがアフリカ大陸であり、1870年の時点では海岸部を中心にわずかな植民地が存在するにすぎなかったが、1884年ベルリン会議が開かれて分割ルールが制定されたことで列強は一斉にアフリカ内陸部の植民地化を開始し、16年後の1900年ごろにはいくつかの地域を除くアフリカのほとんどすべてが欧州列強によって分割されてしまった。黒人国家のほかに、南部アフリカにはトランスヴァール共和国オレンジ自由国の二つのオランダ系移民(ボーア人)による白人国家が存在したが、が発見されてゴールドラッシュで潤うトランスヴァールの併合をもくろんだイギリスは1899年に両国に宣戦してボーア戦争(第二次ボーア戦争)を引き起こし、1902年フェリーニヒング条約によって両国はイギリスに併合された。北端のアラウィー朝モロッコは要衝にあるため列強間の牽制によって独立を保っていたが、スペインおよびフランスの優越が強まっていった。これを危惧したドイツは1905年第一次モロッコ事件(タンジール事件)及び1911年第二次モロッコ事件(アガディール事件)によってモロッコ進出を狙ったが、結局1912年フェス条約によってフランスはモロッコを保護国化した。こうして1912年には、アフリカ大陸の独立国はエチオピアリベリアの2か国のみとなっていた。

政治的要因

この時期に帝国主義が強まった理由としては、さまざまな説明がなされてきた。政治面からの説明としては、ナショナリズムの発展によって国民国家化したヨーロッパ列強諸国が、国家の威信を上げ民族としての自尊心を満たすために拡張主義を取ったということが言える。フランスでは特にこういった面が顕著であり、フランス第三共和政の政府は1871年普仏戦争の敗北の傷を癒やし、国家の威信を高めるために積極的な海外進出を行っていった。ドイツやイタリアといった、いわゆる「遅れてきた」列強も、自国の充実した国力の証明としての対外進出と植民地獲得を目指していた。これとは全く逆に、ポルトガルは自国の国力の衰退に直面し、国力の健在ぶりと威信を示すよすがとしての植民地の維持に強く執着した。このような進出は1870年代以前に基礎が成立しており、これ以前に各地に足場を築いていたイギリスとフランスが植民地分割の主役となった。この時期に統一を成し遂げたイタリアやドイツは植民地分割競争においては後塵を拝せざるを得ず、英仏の進出していなかった植民地的価値の少ないエリアへと進出することとなった。

こうした列強のナショナリズムは、しばしばそれまでも存在していたヨーロッパ的な「人道主義」、すなわち非ヨーロッパ人へのキリスト教の布教と、ヨーロッパ文明を伝えることで現地の「遅れた」人々を「教化」する動きと、容易に結びついた。こうした動きは古くから連綿と続いていたのだが、帝国主義期に入ると動きの遅さや頓挫から、尖兵となっていた宣教師の一部からは抵抗を続ける現地政府を祖国の世俗政府によって打倒し、より教化を行いやすい環境とすることを歓迎する風潮が現れ始めた。またこの時期にはプロテスタントだけでなく、一時布教の動きをやめていたカトリックがふたたび積極的な布教を開始した。すでにヨーロッパ主要国が廃止していた奴隷制への反対運動も、いまだ活発な奴隷貿易が続くアフリカ大陸奥地をターゲットとして継続しており、奴隷貿易の廃止は現地政府へのヨーロッパ諸国の介入の主な名目のひとつとなっていた。また非ヨーロッパ人へのヨーロッパ文明の「教化」の動きは、現地住民とのさまざまな齟齬(ヨーロッパ文明のうち、現地住民が優越性を認め取り入れようとしたものは物質的な進歩中心にわずかな分野に限られた)と西洋化の遅れによって変質していき、ヨーロッパ人の文明的な「優越性」を現地住民が完全に理解し同化することは不可能であるとする人種差別的な認識に傾いていった。

アフリカにおいては、奥地の探検が帝国主義的進出と直結することも珍しくなかった。特に1870年代以降、政府に委託を受けた探検家が現地の首長と条約を締結し、その地を植民地へと組み込むことが広く行われた。1878年にはヘンリー・モートン・スタンリーがベルギー国王のレオポルド2世に委託を受けてコンゴ川流域を探検し、各地で貿易協定を結んで、これは1885年のコンゴ自由国の成立へとつながっていった。同時期、フランスのピエール・ブラザもコンゴ川流域の探検を行っていて、彼の探検した地域はフランス領コンゴへとつながっていった。

経済的要因

経済面からの説明としては、産業革命によって列強諸国の経済体制が大きく変動したことで、各国はその産業の原料供給地と市場を確保する必要に迫られ、対外進出を行い後進地域を競って統治下においたとの説明が一般的であった。そしてそのために各植民地に鉱山やプランテーションを開設し、原料供給地としてモノカルチャー経済下に置いたと説明された。この説明は一面の真理ではあるが、必ずしもすべてを説明しているわけではない。

経済的な帝国主義は、必ずしも政治的な植民地化や対外拡張を伴ったというわけではなく、また各国の植民地が経済的に重要な地位を占めるということもわずかな例外を除けば存在しなかった。例えば植民地化が最高潮に達した1913年の世界貿易において、アフリカの割合は3.5%、インドの割合も同じく3.5%にすぎず、植民地はそれほど大きな割合を持っていない。同年のヨーロッパ諸国及びアメリカ合衆国の貿易総額は世界全体の72.4%を占めており、貿易の主戦場はあくまでも先進国間貿易であって植民地貿易ではなかった。これは投資においても同様であり、各国の資本は自国の植民地ではない地域に投下されることが圧倒的に多かった。フランス資本はフランス植民地ではなくロシアに最も投下されたし、イタリアもバルカン半島中東といった自国の植民地外への投資を主に行っていた。イギリスは自国の白人入植型植民地(カナダオーストラリアニュージーランド)への投資をかなり積極的に行っていた時点でやや異色の存在と言えたが、それでもアルゼンチンをはじめとするラテンアメリカ諸国への投資もそれに匹敵するようなものだった。逆に言えば、政治的な独立を保っていても経済的な従属下に置かれている地域というものも存在し、これはジョン・ギャラハーとロナルド・ロビンソンによって非公式帝国という呼称を与えられ一般化した。また、各国における海外植民推進団体の主な構成員に、実業界からの参加者はほとんど存在しなかった。

後進地域に対する列強の経済的進出は、民間よりもむしろ政府によって主導されることが多かった。その一例となるのが、後進国に対する列強からの借款である。オスマン帝国やガージャール朝、清といった旧来の大帝国は財政難を乗り切るために外国からの借款に頼るようになり、その資金の源である列強諸国に対し利権の供与や譲歩を余儀なくされるようになっていった。これら諸国の関税自主権の喪失もまた、列強の経済的進出を促すこととなった。

交通分野での進出

この他に政治が強く関与した経済的進出としては、鉄道の建設が挙げられる。列強は植民地内のみならず、後進地域の鉄道敷設権を争って獲得していき、自国の民間資本によって建設させていった。鉄道建設はしばしば帝国主義的構想と密接に関連しており、たとえばイギリス領ケープ植民地の首相だったセシル・ローズによるケープタウンカイロ間のアフリカ大陸縦断鉄道構想と、両都市とさらにインドのカルカッタとを結ぶ勢力圏を構築する3C政策、そしてそれと対立するドイツによるバグダード鉄道建設構想(後年、ベルリンビザンチウムバグダードを結ぶ進出政策として3B政策と呼ばれるようになった)などは、その一例である。

鉄道のほかに、この時期に建設された世界の二大運河であるスエズ運河パナマ運河もまた、帝国主義と深くつながっていた。スエズ運河はムハンマド・アリー朝統治下のエジプトで、フランスのフェルディナン・ド・レセップスによって1869年に建設されたが、その条件はエジプトに非常に不利なものだった。1875年にエジプトが財政危機に陥り、エジプト副王イスマーイール・パシャスエズ運河会社の持ち株を売りに出すとイギリス政府がそれを購入して筆頭株主となり、エジプトに大きな影響力を及ぼすようになった。翌年エジプトが財政破綻するとフランスとともに同国の財政管理を行い、やがて1882年の軍事占領へとつながっていくこととなった。パナマ運河は当初レセップスが建設を行っていたものの失敗して破産し、1903年にアメリカ政府がコロンビア政府と条約を結んでその権利を引き継いだ。しかしコロンビア議会では反対の声が強かったため、アメリカは運河予定地であるパナマ市の分離独立派に資金を拠出し、革命を扇動した。独立したパナマ共和国をアメリカはすぐに承認し、パナマ運河地帯の租借など非常にアメリカ有利な条約を締結させたうえで運河工事に着工、1914年に開通した。

その他の要因

技術的要因としては、医学の発展で疫病での死者が減少し、それまでヨーロッパ人の軍事行動が困難だった熱帯地域において大規模な軍事行動が可能になったことがまず挙げられる。これはヨーロッパ列強のアフリカ分割を可能とする一つの要因となった。また科学革命や産業革命による武器の発展によってヨーロッパ諸国の軍事力が増大し、さらに経済の急成長によって国力にも大きな差がついたことで、後進地域との間で軍事力に大きな懸隔が生じるようになった。これによって侵略のコストは大きく下がり、アフリカ分割の大きな要因の一つとなった。電信や鉄道、蒸気船の開発など交通・通信手段が進歩して遠隔地への連絡が容易となったことも要因の一つとなった。

第一次世界大戦後

この帝国主義は第一次世界大戦の終結とともに緩み始めたが、この時期は敗北した中央同盟国側の植民地が委任統治領の名目で戦勝国側に分配されるなど、帝国主義の再編・強化につながる動きもいまだ存在していた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/07/05 09:41

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