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広岡達朗とは?

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
広島県呉市
【生年月日】
(1932-02-09) 1932年2月9日(86歳)
【身長
体重】
180 cm
70 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
遊撃手
【プロ入り】
1954年
【初出場】
1954年4月4日
【最終出場】
1966年5月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴


野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
1992年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


広岡 達朗(ひろおか たつろう、旧字体:廣岡1932年2月9日 - )は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(内野手)・元監督野球解説者(評論家)。

東京都町田市在住。愛称は「ヒロさん」、あるいは単に「ヒロ」。また、野村克也森祇晶が「狸」と呼ばれるのに対して、広岡は「狐」と呼ばれることもある。

目次

  • 1 人物
  • 2 経歴
    • 2.1 現役時代
    • 2.2 広島コーチ時代
    • 2.3 ヤクルトコーチ・監督時代
    • 2.4 西武監督時代
    • 2.5 西武監督辞任後
    • 2.6 ロッテGM時代
    • 2.7 再び解説者として
  • 3 評価
    • 3.1 選手として
    • 3.2 指導者として
  • 4 管理野球
  • 5 武道との関わり
  • 6 詳細情報
    • 6.1 年度別打撃成績
    • 6.2 年度別監督成績
    • 6.3 表彰
    • 6.4 記録
    • 6.5 背番号
  • 7 関連情報
    • 7.1 出演CM
    • 7.2 出演番組
    • 7.3 著書
      • 7.3.1 単著
      • 7.3.2 共著
  • 8 脚注
    • 8.1 注釈
    • 8.2 出典
  • 9 参考文献
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

人物

現役時代は読売ジャイアンツで活躍し、引退後は広島東洋カープ守備コーチ、ヤクルトスワローズヘッドコーチ・監督、西武ライオンズ監督を歴任。監督としては、最下位球団だったヤクルト、長期に渡って低迷していた西武をリーグ優勝・日本一へと導いた。その後は千葉ロッテマリーンズゼネラルマネージャー(GM)を経て、現在は野球評論家。

父は旧日本海軍少佐で、駆逐艦の機関長であった。自身も終戦がもう少し遅ければ海軍兵学校に進み軍人になるつもりだったという。兄・広岡富夫公務員(広島県庁)からプロ入りした異色の経歴を持ち、広島市民球場第1号本塁打を放った広島カープの元選手である。妻の父は理美容・エステ・ネイルの卸商社最大手「滝川株式会社」創業者。宝塚歌劇団94期生(2008年入団)で星組男役麻央侑希のひとり(長男の長女)。甥の広岡資生早稲田大学東京六大学の首位打者に輝き、卒業後は松下電器に進み監督も務めた。また、鶴岡一人は小学校の先輩にあたる。

辛辣で歯に衣をきせない一面があり、古巣である巨人に対しても厳しい批評を下すことがある。

1992年野球殿堂入り。

経歴

広島県呉市生まれで六人兄弟の末っ子。実家は二河川の西側にあった。呉市立呉中央小学校呉三津田高校に進む。海軍兵学校へ進学を考えていたため体を鍛えるために器械体操をやった。後年、プロの指導者になってから誰も聞く耳を持たなかったウエイトトレーニングの必要性を早くから説いたのは器械体操をやっていた影響と述べている。戦死した長兄のグラブが家に残されていたのを切っ掛けに野球を始める。1949年、呉三津田三年時の夏の甲子園大会地方予選、山口県代表との西中国大会決勝に進出し柳井高校と対戦、甲子園まであと1勝と迫るが、自身の悪送球を切っ掛けに敗退。野球を辞めて広島大学山口大学への進学を考えていたが、柳井高戦を見ていた早大OBの杉田屋守森茂雄に推薦して早稲田大学教育学部へ進学した。早大野球部では荒川博沼澤康一郎小森光生らとともに東京六大学リーグのスタープレーヤーとして鳴らし、"六大学(神宮)の貴公子"と言われた。リーグ通算82試合出場、315打数68安打、2本塁打、52打点、打率.216。

現役時代

雑誌『ベースボールマガジン』1958年4月16日号表紙より

毎日オリオンズ(後の千葉ロッテマリーンズ)と、同郷の鶴岡一人監督の南海ホークス(後の福岡ソフトバンクホークス)、阪神近鉄から入団を打診され父からは代表の西亦次郎と監督の三原脩から誘われていた西鉄ライオンズ入団を勧められたが1954年、自身の念願でもあった水原茂が監督の読売ジャイアンツに入団。広岡は「私の野球の原点は巨人軍の野球である。わたしがプロの厳しさを、いやというほど思い知らされた入団当時の巨人軍の野球である」と述べている。一年目から守備力を見せつけ、当時の正遊撃手だった平井三郎からレギュラーを奪い、打率.314、15本塁打、67打点をマークして新人王を獲得し、ベストナインにも選ばれた。

以後、大阪タイガース吉田義男と並びセ・リーグを代表する遊撃手と称され、とりわけ守備の堅実さ、華麗さを吉田と競いあった。打撃面では1年目以外は低打率の年が多かったが、通算118本塁打、特に1958年には右膝を故障して2か月欠場したが、復帰後は18本塁打を放つなどパンチ力もあった。早大出のエリートかつ、スラリとした長身で、長嶋茂雄入団までは巨人選手で女性人気ナンバーワンであった。1958年3月創刊された『週刊ベースボール』の表紙を長嶋と二人で飾る。1957年12月には、品川主計球団社長(当時)の仲人で挙式。

川上哲治とは現役時代からしばしばぶつかった。川上は"打撃の神様"といわれた大選手だったが一塁守備は下手だった。バッティングのことで頭がいっぱいで、守備に付いても守る姿勢をとらずにバッティングフォームをして、首をひねったりしていた。この行為がやる気の無さに見えてうんざりした広岡は、少し悪い送球を捕ることができない川上に「それぐらいの球は捕って下さいよ」と、後輩でありながら広岡が意見する場面が多くなり、川上にすれば「若造が生意気な」という感情を持つことになった。1961年にその川上が監督に就任し、広岡はコーチ兼任となる。川上から「今までいろいろあったが、水に流してくれ。これからは力になってほしい。よろしく頼むぞ」と頭を下げられ、自身も頭を下げ返して氷解したと思ったが、実際にはその後も野球に対する考えの相違が互いにあった。1964年8月6日の対国鉄戦で、広岡の打席のとき三塁にいた長嶋茂雄が何度もホームスチールを試み、最終的には失敗したのにもかかわらず、巨人ベンチも特にそれをとがめようとしなかった上、当の広岡も最初の一球目の場面では長嶋が勝手にやったものだと思っていたものの、長嶋が二球目以降もホームスチールを試みたことに対して、広岡はベンチがホームスチールをするよう長嶋に指示したのではないか判断し「私のバッティングがそんなに信用できないのですか!!」とバットを叩きつけてベンチに激怒。コーチらの制止を振り切って試合途中で球場を後にした。この行為が監督批判と判断されたこともあり、同年のシーズン終了後、川上が広岡のトレード放出を画策した。しかし広岡が正力松太郎に「トレードされるなら巨人の広岡で終わらせてください」と引退を直訴した結果、正力の指示で残留が決定した(一方で川上はスポーツ新聞などから非難を浴びた)。しかし監督批判の行為の反動もあり、川上は広岡を代打や代走、および守備固めですらほとんど使わなくなり、翌1965年から出番が減った。さらにその翌1966年、広岡が『週刊ベースボール』に巨人への意見記事を寄稿したことで「選手の分がわかっていない」と非難し、大騒動の末、同年のシーズン終了後に現役を引退した。川上は広岡の資質を高く評価していた反面、前述の通り守備を巡って両者が現役時代から度々口論をしていたぐらい野球観が合わず、長嶋のホームスチールに対するベンチの采配の是非を巡る一件以降は川上との衝突も増加していたが、現役を退いて以降は本格的に互いの確執が始まった。

自身が目指す野球は「私を追い出した巨人より正しいことを証明したい」と、現役引退直後の1967年メジャーリーグを視察をするため4ヵ月単身渡米する。60年代のアメリカ一人旅は苦労も多かったが得るものも大きかった。新鮮な驚きだったのが投手ローテーション。当時日本はエースが先発もリリーフもして、三連戦に2回登板を平気でやっていたが、アメリカは中4日で各投手に先発させていた。平等という原理原則で動くアメリカでは、登板機会を与えないのは差別になり、エースだけ投げさせて勝てばいいという日本とは違う。その中で機会を与えられた選手が育つ。人を生かすには責任を与えることという考えをローテーションを見て痛感し、後のヤクルト監督時代に投手ローテーションを導入した。またこの渡米中、フロリダ州ベロビーチのドジャータウンで行われていた巨人のキャンプも訪れたが、川上は広岡による取材を一切認めず、選手に対して「広岡と口を利くな」と指示を出し、さらに広岡のドジャータウンへの宿泊も許可しなかった。広岡は川上の仕打ちに憤慨し「文字通り殺意を抱くほどの激しい怒りを感じた」と述懐している。しかし森昌彦(祇晶)一人だけが球団と川上には発覚しないように、内々に広岡が宿泊しているホテルを訪れ食事をともにし、気遣いを見せた。広岡は森に深く感謝し、以後行動を共にするようになる。

帰国後はラジオ関東サンケイスポーツなどで評論家として活動。サンケイスポーツには自ら売り込んだが、採用の条件が自分で原稿を書くならというものであった。なお、当時は自分で原稿を書く野球評論家は皆無の時代で、担当の記者にゴーストライターを頼むのが普通だったが、広岡は自分で原稿を書いた。広岡は著書『積極思想のすすめ』の中で「私の第二の人生のスタートは、華やかなスポットライトを浴びた現役時代とは正反対の厳しく孤独なものであった」と述べている。

広島コーチ時代

1970年根本陸夫監督に請われ、生まれ故郷の広島に戻って広島東洋カープの内野守備コーチに就任。ヘッドコーチ・関根潤三と共に、山本浩二衣笠祥雄三村敏之水谷実雄らを育て、後の広島黄金時代の礎を築いた。広岡が広島のコーチに招かれたのと入れ違いに広島を退団したのが上田利治で、両者はともに理論家肌のタイプのため「同一組織内では共存できない」と当時言われた。西本明和を投手からサードへ、井上弘昭外野手からセカンドへコンバート、また、根本から外野手だった苑田聡彦を内野手にコンバートするよう命じられる。広岡は苑田の守備をみて根本に「苑田は内野手のセンスはゼロ。教えても絶対に上達しない。私が保証しますよ。苑田だけは勘弁してください」といったが、根本は「俺が責任をもつからとにかくコンバート練習をやれ」と厳命され、広岡はしぶしぶ従った。当初は苑田は一向に上達を見せず、また厳しい指導のストレスで円形脱毛にも陥り、広岡も一度苑田の転向を再び諦めかけた。しかし根気よく指導を続けた結果、ある時を境に突然内野手としての動きがこなせるようになり、これ以降苑田は、広島の内野守備要員として定着し活躍した。この苑田のコンバート成功は広岡にとって大きな財産になった。この件について広岡は「プロに来る選手は誰でも大変な才能をもっている。しかし答えの出し方を知らないから自分に才能がないと思い込んでしまう。その答えを泥まみれになって選手と一緒に探してやるのが指導者の務め。選手と指導者にやる気さえあれば、選手は必ず答えを見つけて上達してくれる」と学び、「指導者としての自分があるのは苑田のおかげである」と事ある毎に述べている。

1971年に広島を退団。野球解説者として活動する傍ら、プロゴルフのコーチもしていた。この頃になると川上とのわだかまりが少しではあるが軟化しており、広島退団後には川上を訪ね、広島でのコーチ経験を述べ、巨人のファームコーチを志願している。ただし、少し軟化したとは言っても、実際には後述の通り西武監督として日本一に輝いた時の川上への挨拶の際に返された言葉にもあるように、対立状態が続いていた。

ヤクルトコーチ・監督時代

1974年ヤクルトスワローズから監督要請を受けるが、ヤクルトには早大の先輩だった荒川博打撃コーチがおり、先輩を差し置いて自分が監督になるわけにはいかないと辞退し、守備コーチとして入団した(監督には荒川が昇格)。コーチには広岡の他に小森光生沼澤康一郎らがおり、監督と合わせた4人で「早大カルテット」として話題になった。これは当時の明治神宮外苑長・伊丹安広の「神宮は東京六大学のメッカ。六大学の卒業生を使ってやってくれんか」という意向にそったもので、この年の一軍コーチは全員東京六大学OBだった。1976年にヘッドコーチに昇格し、同年のシーズン途中の5月、休養した荒川の後任として監督に就任した。

当時のヤクルトは松園尚巳オーナーの方針で家族主義的なチームカラーであったが、広岡は「広島以上にぬるま湯」とプロとして弛緩した雰囲気が流れていると判断した。シーズンに入り故障者が続出したことで、広島コーチ時代に根本に進言して実践した選手の食生活管理をヤクルトの選手に対しておこない、正式に監督に就任後の1977年春季キャンプで、麻雀花札ゴルフの禁止、禁酒(練習休みの前日のみ食事時に可)、ユニフォーム姿の喫煙禁止、練習中の私語禁止を打ち出し、選手の生活態度に対して厳しい規制を打ち出した。投手陣整備しようと堀内庄を投手コーチで招聘。広岡イズムを浸透させようとキャンプから、守備走塁を徹底的に重視する練習・試合方針を打ち出す。投手陣を優先的に整備し、荒川監督時代に巨人戦でエース級三枚・松岡弘を先発、安田猛を中継ぎ、浅野啓司を抑えのような使い方をして連敗が続くような起用法をしていたが、メジャーリーグのようなローテーション確立を目指して、先の三人に鈴木康二朗会田照夫を加えて五人で先発を回した。先発投手には中継ぎはさせないことにし、抑えには井原慎一朗を任命。この年加入したチャーリー・マニエルには守備を一生懸命やらなければ試合で使わないと厳しく接した。水谷新太郎を遊撃手として辛抱強く育て上げた。当初は選手から反発を受けたものの広岡の方針は成功し、同年チームを球団史上初のシーズン2位に導く結果となった。しかしまだ基礎体力が充分でないと判断して、ドジャースタウンで見た立派なトレーニング施設を思い出し、専門家の指導によるシステマティックなウエイトトレーニングを導入した。当時はシーズンオフにトレーニング行うという発想はなく、選手は不平不満不満を発する者もいた。この年のペナントレースは巨人が優勝し、2位ヤクルトは巨人に対して7勝19敗と大きく負け越した。巨人コンプレックスを払拭しない限り優勝はないなどの理由で松園尚巳オーナーに米国キャンプを直談判すると「ヤクルトの工場があるブラジルならいい」というので「それはできません」と断ると「負けたらどうする?」と聞かれたので「責任をとってやめます」と答え、ヤクルト球団初の海外キャンプが1978年アリゾナ州ユマで実施された。ユマは伊東一雄の紹介によるもの。ここでサンディエゴ・パドレスの選手たちが練習の合間に黙々とウエイトトレーニングをやっている姿を実際に選手が目で見ることが出来たのは大きな収穫になった。ヤクルトがこの年、日本一になったことで海外キャンプを実施するチームが一時増えた。

1978年は、ユマキャンプでデーブ・ヒルトンを直接、自分の目で実力を判定した上で採用。森昌彦をバッテリーコーチとして招聘。森は広岡の意向を受けて選手たちの私生活も事細かく管理した。また森の収集したデータに基づき、巨人に対しての対策を強化する。前年に続いてキャンプからペナントレースに入ってからも1日も休まず、常にディフェンス中心の練習を行なった。開幕当初はつまずいたが、ヒルトンと角富士夫で1、2番コンビを組ませた作戦が当たり、若松勉、マニエル、大杉勝男の中軸の調子が上がると強力打線が力を発揮し、5月からペナントレース争いに加わり、前半戦終了時に首位で折り返した。球宴休み期間の激励会で、後援会関係の人に「巨人に勝つと、ヤクルト商品が売れなくなる。優勝しなくてもいいから」と言われショックを受けた。チームも後半戦に入ると調子を落とし、8月25日の時点で巨人に4.5ゲーム差をつけられて優勝は絶望に見えたが、福富邦夫、若松、大矢明彦船田和英ら幹部選手を中心にチームが結束、ここから巨人が失速し、ヤクルトは多くの逆転勝利を収めて快進撃を続け、10月4日にリーグ優勝を決めた。広岡に一番先に抱きつき頬ずりまでしたのが松園オーナーだった。この年はヤクルトは巨人に対して勝ち越した。日本シリーズでは四年連続日本一を狙う阪急ブレーブスと対戦。世間の予想は「阪急有利」という評が圧倒していたが、ここでも広岡ヤクルトは阪急を4勝3敗で下して初の日本一を手にした。日本一を決めた舞台は後楽園球場だった。古巣である巨人の本拠地で胴上げされたのは複雑な思いだったという。

広岡は日本一になった時点でヤクルトを退団することを決意し、松園尚巳オーナーからも後任は「武上四郎にしたい」と言われ、そのつもりであったが、フジサンケイグループから「優勝監督を契約切れだからといって、出したら商売にならない」と慰留を受け、新たに3年契約を結んだ。この契約の際、現場のことは、全面的に任せ、協力するという約束を交わしたが、広岡がチーム強化のために意図した山崎裕之らの獲得、トレードは、合意が成立した段階になると、決まって球団上層部からクレームが出て、ことごとく潰された。広岡はこれを振り返って「トレードに予定していた選手が残留を訴えたため」と述べている。1979年も優勝候補の一角であったが、開幕から8連敗を喫して成績が低迷。佐藤邦雄球団社長は選手から評判の悪かった森を、広岡に無断でバッテリーコーチから解任し、植村義信投手コーチを二軍降格させようとした。広岡は球団の人事案を巡って対立を起こし、8月17日には辞任を申し出た。佐藤球団社長から「じゃ辞めろ」と言われ、広岡、森、植村と三人一緒に退団した。退団前に、堪忍袋の緒を切って「巨人びいきの審判がいる。丸山岡田大里。名指しで書いてもらってけっこうだ」とマスメディアにぶちまけた。

退団後は日本テレビの解説者として評論活動を展開。容赦のない毒舌な解説が人気を博した。1981年には近鉄バファローズ西本幸雄監督から声がかかった。西本に認めてもらったのは嬉しかったが、あまり縁のないパ・リーグでしかも関西球団というところで引っ掛かった。次に阪神タイガースの小津正次郎球団社長から監督要請を受ける。セ・リーグでしかも巨人のライバルということで、巨人を倒すためにやってきたこれまでの努力を実現するには、格好のチームと考えて前向きに検討したが、契約年数でまとまらなかった。阪神は伝統的に監督交代劇が頻繁に起こるため、任期5年を主張したが、小津球団社長が3年を譲らず、結局流れた。広岡が阪神フロントの総退陣を就任の条件としたことで流れたと書かれた文献もある。阪神からは1978年と2度要請を受けた。最後に監督要請があったのは西武ライオンズで、根本から「おまえしかいない」「いい選手をしっかり取ってある」「行儀作法、お辞儀の角度までしっかり仕込んでいる」などと言葉巧みに誘われたが、就任が決まってから聞いた話では、最初に長嶋茂雄に声をかけたが即座に断られ、次に上田利治に99%決まっていたが土壇場で引っくり返り、実際は三番目だったという。

西武監督時代

1982年西武ライオンズの監督に就任。契約金6000万円、年俸3600万円と異例の好遇であった。広岡の西武入りは根本だけの仕掛けではなく、広岡の反巨人意識と堤義明オーナーの巨人に追いつけ追い越せの経営哲学が一致した結果であった。監督就任にあたっては5年に及ぶ長期契約を締結したが、自身にとっても非常に厳しい契約書を作成してもらう。その内容は「私の都合により、退団する時は、年俸はそこでカット、受領済みの契約金も返還する」「休養中は給料は支払わない」「舌禍に対しては厳罰を処する」など、非常に厳しいものだった。記者会見の席でこれについて聞かれた際、広岡は「納得したから契約した」と語っていた。契約する際に坂井保之球団代表に「優勝したら、裏方を含めて年俸を上げてほしい」と要望すると「当然だよ。常識ですよ」という口約束があった。しかし優勝しても、みんななかなか上がらず、坂井に「上げるのが当然って言ったじゃないか」というと「そんなこと契約書に書いてない。君のミスだよ」と言われた。作戦参謀に森、打撃コーチに佐藤孝夫と78年ヤクルト日本一時のコーチを招いた。

広岡はライオンズでもスワローズの時と同様、厳しい生活管理とディフェンス重視の野球を行う。前任監督の根本は放任主義で有名で、細かなサインプレーもなければ、ミーティングも皆無で、その結果、西武ナインは「十二球団一の怠け者集団」といわれていた。ライオンズは伝統的に大まかな野球をするチームで、根本もその伝統を継承していたため、そこへまるで逆の「広岡式海軍野球」を持ち込んでも、空中分解してしまうのがオチという見方も多かった。監督就任早々の秋季キャンプで広岡は西武ナインに猛烈なシゴキを加え、西武ナインは「まるでナチス・ドイツみたいだよ。ついていけない」とボヤいた。広岡が「一年で優勝してみせる」と言い切ると、報知新聞は"優勝したらそれは魔術といえる"と揶揄した。ところが就任一年目に前期優勝を遂げると、プレーオフで後期優勝を果たした日本ハムファイターズを下して球団19年ぶりのパ・リーグ優勝に導く。同年の日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で破り球団24年ぶりの日本一、西武第1次黄金時代の幕開けを導いた。日本ハムの監督だった大沢啓二は「近鉄とロッテさえ注意すりゃあパ・リーグの優勝は間違いねえ、なんて思ってたんだ。ところが蓋を開けてびっくりよ。それまで弱小球団だった西武がいきなり勝ちまくってそのまま前期優勝しちまった。広岡が監督就任1年目で優勝なんて、なかなか出来るもんじゃねえ。ほんと、あれには驚いたもんよ」と述べている。

1983年も、2位の阪急に17ゲーム差を付けるという独走状態で優勝を遂げる。日本シリーズの相手は古巣の巨人で、広岡は巨人を倒して日本一になることによって、自分の野球の正しさを証明しようとこれまでやってきたため待ちに待った舞台となる。藤田元司監督とはかつてのチームメイトということもあって、その対決は「球界の盟主の座を賭けた戦い」として日本中の注目を集めた。このシリーズは第7戦までもつれにもつれる歴史的な激闘となったが、4勝3敗で勝利、2年連続日本一に導く。球界に「西武時代到来」と騒がれた。数日後、森を伴って、軟化していたとはいえまだ対立していた川上を訪ね優勝報告を伝えると、川上から「負けりゃよかったのに。藤田に勝たせてやればよかったのに」と言われたという。これには広岡も激怒し、再び川上とは猛烈な対立状態となった。

シーズンオフになると、日本ハムからトレードで江夏豊が入団。このトレードは西武側からの申し入れと「広岡の下でやった方が江夏のためになる」という大沢の意向によるものである。江夏獲得のため中継ぎ投手の木村広柴田保光を放出し、さらに小林誠二も広島へトレードとなり、一気に中継ぎ投手が3名も退団した。このトレードは広岡の意向に反しており、次第に広岡は根本らフロントに対して反感を抱くようになる。また江夏が一匹狼的な性格であり、広岡は選手管理で有名であることから、マスコミでは両者の衝突を予想していた。

1984年は、V2を支えた田淵幸一山崎裕之大田卓司らが不調であり、好調の阪急におされて、早々とペナントレースから脱落してしまう。5月20日から方針を転換、若手選手を多数起用し新旧交代を見据える采配を行った。一方ではベテランに見切りをつけ、田淵・山崎は現役引退を決意する事になり、江夏は8月以降二軍落ちするとそのまま出番が与えられずに西武を自由契約となった。江夏は広岡について「俺の生活権を奪った男」と語っている。元々、若いピッチャーの模範になってもらいたい、と江夏を西武に引っ張ったのは広岡であり、江夏には食事メニューは自由、ミーティングも出席は強要しないといった実績を十二分に尊重した処遇を行っていた。ところが江夏があまりにチームメイトに馴染めない、結果も出せないこともあって対応に苦慮した。孤高の革命児は、広岡の持ち込んだ「組織野球」の幕開けと共に球界を去ることになる。江夏は「最近広岡さんの話をすると虫唾が走る。あの人は将の器じゃない。他人に責任を擦り付けて自分は責任を取らない。森さん、佐藤さんと広岡さんを支えた人は球団を去りさんもよく二軍で残ったもんだ。ブチ(田淵)みたいに人の悪口を言わないのが広岡さんの悪口を言った。納得行かない監督はちび1(吉田義男)と今度の監督(広岡)」と語っている。伊東勤が正捕手になり、この年は若手に切り替え「育てながら勝つ」という命題に挑み、3位Aクラスに入ったことで会心のシーズンだったと話している。バッテリーコーチの森は退団し、後任は黒田正宏が兼任コーチになった。

田淵が1984年限りで引退したことから、広岡は外国人選手の長距離砲を渇望。カリフォルニア・エンゼルスに在籍していたドン・ベイラーを獲得するようフロントに進言したが、球団は打者ではなく台湾球界のエースだった郭泰源を獲得した。当時の外国人選手の登録枠は2人だったが、ジェリー・ホワイトの解雇で空いた枠を野手ではなく投手に振り分けてしまったことで、一軍登録は「野手1人・投手1人」となる(スティーブ・オンティベロスと郭泰源)。これで広岡はますますフロントに対して反感を抱く。1985年秋山幸二辻発彦工藤公康渡辺久信などの若手選手が台頭し、寄せ集め集団から生え抜きの選手を中心としたチームへなり、独走状態でリーグ優勝を果たした。しかし広岡はシーズン終盤に持病の痛風が悪化してチームから離れ病気療養し、優勝決定時には現場に不在だった。同年の日本シリーズでは、現役時代のライバル・吉田義男率いる阪神に2勝4敗で敗れて日本一を逃した。

広岡はシーズン終了後に監督の権限を強化するようにフロントに要望したが聞き入れられず、夕刊紙に対してフロント批判を再三にわたって繰り返したことを根本が問題視すると、広岡は辞任を申し出た。根本に「辞めてあげましょうか」というと根本は「おお、辞めてくれるか」と嬉しそうに言ったという。5年契約を1年残しての辞任であり、電撃的な辞任といえる。広岡自身は「相当いい仕事をしているのにクビになった」と話している。記者会見上の席上「痛風が出てしまい、終盤の大事なゲームで指揮がとれなかった。球団にはわがままを聞いてもらった」と会社が書いたシナリオ通りに、健康上の問題と説明した。「4年で3度のリーグ優勝、2度の日本一と出来過ぎともいえる成績を残した自分を、どうして追い出しにかかったか、今でも分からない」と話している。伊東は「11月8日、温泉治療のため群馬県の上牧温泉病院に向かっている途中広岡さん辞任のニュースが入りサービスエリアでビールを買って小宴会みたいになった。私もあの厳しさから解放されると思うとホッとした。」と当時を振り返っている。その後、広岡と対立し前年に退団していた元バッテリーコーチの森が監督として復帰し、後に黄金時代と呼ばれる。

西武監督辞任後

西武退団後は評論家となり、NHKの野球解説者となる。しかし、この当時でも同じNHK解説者だった川上とはまだ相当に対立していた状態であった。

1988年には巨人から王貞治の後任として藤田元司より先に監督就任を要請された。湯浅武代表や務臺光雄読売新聞名誉会長にも会い、巨人もついに自分を認めたかという気持ちも一部にあったが、広岡は自らヘッドコーチを志願し、王は解任せず、投手コーチに宮田征典、サードベースコーチに黒江透修近藤昭仁を主なスタッフとして入れると充分優勝できる、と答えて首をタテに振らなかった。1980年に長嶋を解任して人気がガタ落ちした巨人が、現在のプロ野球隆盛の最大の功労者であるもう一人の王を、同じような格好でクビにしてはいかんというONに対する敬意が裏にあったが、広岡はそのあたりを読み違えてしまい、巨人軍監督という最大のチャンスを逃した。務臺-川上ラインで藤田の再登板が決まったとされる。巨人OBは広岡に「なぜ、監督を受けなかったか」と怒る者が多かったといわれる。広岡は後に渡辺恒雄から礼状を渡され、そこには「あなたがかつて巨人監督就任を固辞されたことは、承知している。いま思えば残念至極」とあった。

1990年から阪神監督に就任した大学の後輩・中村勝広に請われて、阪神の東京遠征時には仲田幸司猪俣隆野田浩司の投手陣を指導した。特に鳴かず飛ばずだった仲田をエースに変えるきっかけを与えた。

アメリカに比べ日本は指導者育成の場が少なすぎると1988年「ジャパンスポーツシステム」を設立し、アメリカの著名選手や球団経営者を招いた勉強会「日米ベースボールサミット」を開催。これは1988年から1990年まで3回行われ、元MLBコミッショナーボウイ・キューンドン・ドライスデールボビー・ボニーヤデーブ・ウィンフィールドジョー・マグレーンら、MLBの元指導者、現役の監督・選手が来日し、日本からも広岡・古葉竹識張本勲 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/08/04 04:42

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