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広岡達朗とは?

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
広島県呉市
【生年月日】
(1932-02-09) 1932年2月9日(88歳)
【身長
体重】
180 cm
70 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
遊撃手
【プロ入り】
1954年
【初出場】
1954年4月4日
【最終出場】
1966年5月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴


野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
1992年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


広岡 達朗(ひろおか たつろう、旧字体:廣岡1932年2月9日 - )は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(内野手)・元監督野球解説者(評論家)。

現役時代は読売ジャイアンツで活躍、監督としてヤクルトスワローズ西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた。千葉ロッテマリーンズゼネラルマネージャーを経て現在は野球評論家。愛称は「ヒロ(さん)」。

実兄・広岡富夫公務員(広島県庁)からプロ入りした異色の経歴を持ち、広島市民球場第1号本塁打を放った広島カープの元選手である。

辛辣で歯に衣をきせない一面があり、古巣である巨人に対しても厳しい批評を下すことがある。

来歴

六大学の貴公子、広岡

1932年2月9日広島県呉市で六人兄弟の末っ子として生まれる。実家は二河川の西側で、父親は大日本帝国海軍少佐駆逐艦の機関長だった。このため、広岡ももう少し終戦が遅ければ海軍兵学校に進学して軍人になるつもりだったという。呉市立二河小学校(現:呉市立呉中央小学校)を経て広島県立呉第一中学校へ進学し、学制改革による再編によって広島県立呉三津田高等学校に進む。海軍兵学校への進学を考えていたために身体を鍛えようと器械体操を行う。この経験から身体能力は早い段階で完成され、後々の野球でもすぐ活かすことが出来た。後年、プロの指導者となってからも誰も聞く耳を持たなかったウエイトトレーニングの必要性を早くから説いたのは、広岡自身が早い段階から器械体操をやっていた影響と述べている。戦死した長兄のグラブが家に残されていたのを切っ掛けに野球を始め、呉三津田高等学校では1949年三塁手として全国高等学校野球選手権西中国大会決勝に進出、山口県立柳井高等学校と対戦するが、自身の悪送球も重なって逆転負けを喫し、甲子園出場はならなかった。卒業後は野球を辞めて広島大学山口大学への進学を考えていたが、この試合を観戦していた早稲田大学OBの杉田屋守早稲田大学野球部監督の森茂雄に広岡を推薦し、早稲田大学教育学部へ進学した。

早稲田大学時代は遊撃手へ転向し、同期の小森光生と三遊間を組み、華麗な守備で名を馳せた。東京六大学野球リーグでは1950年春季リーグからの三連覇を含む四度の優勝を経験、1学年上の荒川博沼澤康一郎と共にスタープレーヤーとして活躍、「六大学(神宮)の貴公子」とも呼ばれた。毎日オリオンズ近鉄パールス大阪タイガース、さらには同郷の鶴岡一人率いる南海ホークスから入団を打診され、父親からは球団代表・西亦次郎と監督・三原脩から誘われていた西鉄ライオンズ入団を勧められたが、1953年12月3日に自身の念願だった水原茂率いる読売ジャイアンツに入団した。

現役時代~川上との衝突

雑誌「週刊ベースボール」1958年4月16日号(創刊号)。左は新人の長嶋茂雄

読売ジャイアンツへ入団した広岡は、自慢の守備力をまざまざと見せつけ、1954年5月には正遊撃手だった平井三郎からレギュラーを奪い規定打席にも到達。打率.314(リーグ6位)、15本塁打、67打点を記録して新人王を獲得し、ベストナインにも選ばれた。これ以降、セントラル・リーグにおいては吉田義男(大阪タイガース)とリーグを代表する遊撃手と称され、守備の堅実・華麗さを吉田と競い合った。一方で打撃面では2年目以降に打率が低迷、大きな課題となる。1956年1957年はいずれも4月から故障で2ヶ月間離脱したが、無事に復帰。1957年には自己最多の18本塁打を放つなど長打力に進歩を見せる。1958年は努力の甲斐もあって打率.277(リーグ7位)の好成績を記録。同年は後に王貞治と共に「ON砲」として歴史に名を残す大型新人・長嶋茂雄(立教大学)が入団し、早稲田大学卒でスラリとした長身の広岡と共に女性ファンの人気を集める。私生活においては、1957年12月に品川主計球団社長(当時)の仲人で挙式。

広岡は自身の野球の原点について、「プロの厳しさを『嫌』というほど思い知らされた入団当時の巨人軍の野球」としているが、現役時代は川上哲治との衝突が絶えなかった。川上は「打撃の神様」と呼ばれた大選手だったが一塁守備は下手で、しかも守備においては守る姿勢を取らずに打撃フォームを取り、捕球できないと首を捻っていた。この行為がやる気の無さに見えた広岡は、後輩でありながら少し悪い送球を取れないと「それくらいの球は取って下さいよ」と意見することが多くなり、川上は「若造が生意気な…」という感情を持つようになった。

1961年に川上が監督に就任すると、広岡に「今まで色々あったが、水に流してくれ。これからは力になって欲しい…よろしく頼むぞ」と頭を下げられ、コーチ兼任となった広岡も頭を下げて和解したと思われたが、実際にはその後も野球に対する考えの相違が互いにあった。1964年8月6日の対国鉄スワローズ戦では、広岡の打席時に三走だった長嶋が何度もホームスチールを試み、最終的に失敗したにも関わらず長嶋へは御咎め無しで終わったことに加え、広岡も初球では長嶋の独断と思っていたが、それ以降も長嶋が試みたことでベンチが長嶋に指示したと判断し、ベンチへ戻った際に「私の打撃がそんなに信用できないのですか!?」とバットを叩き付けて激怒した。広岡は怒りが収まらずにコーチの制止を振り切って試合途中に帰宅したが、これが監督批判と判断されたことで、シーズン終了後に川上が広岡のトレード放出を画策した。しかし広岡は正力松太郎へ「トレード(で放出される)なら巨人の広岡で終わらせて下さい」と直訴した。正力の指示で残留が決定した一方、川上はスポーツ紙などで非難を浴びる。残留が決まった広岡だが監督批判行為への反動もあり、川上は広岡を代打や代走、さらには守備固めでも起用しなくなる。1965年には87試合に先発出場していたが、1966年の開幕10試合以降は出場機会が激減、土井正三黒江透修に定位置を奪われた。広岡が「週刊ベースボール」に「選手の分がわかっていない」と巨人への意見記事を寄稿したことが決定打となり、シーズン終了後の同年10月31日に現役を引退した。現役引退後も騒動は沈静化するばかりか、逆に互いの確執が本格的に始まった。

広岡は引退後、自身が目指す野球を「私を追い出した巨人より正しいことを証明したい」として、1967年メジャーリーグを視察をするため4ヶ月間、単身渡米する。広岡が特に驚いたのは各投手を中4日で先発させるローテーションで、人を生かすには責任を与えるという考えを痛感、後に監督に就任するヤクルトスワローズにて導入した。また、渡米中にはフロリダ州ベロビーチ・ドジャータウンで行われていた古巣・巨人のキャンプも訪問したが川上は広岡の取材を一切認めず、選手に対しても「(広岡と)口を利くな」と指示を出し、広岡のドジャータウンの宿泊まで認めなかった。これにはさすがの広岡も憤慨し、「文字通り、殺意を抱くほどの激しい怒りを感じた」と述懐している。しかし、森昌彦だけは球団と川上に発覚しないよう、内々に広岡が宿泊しているホテルを訪ねて食事を共にし、気遣いを見せたことで、広岡はこれ以降、森に深く感謝して行動を共にしている。

広岡の選手育成~悲願の日本一

帰国後はラジオ関東サンケイスポーツなどで野球評論家として活動したが、サンケイスポーツへは自ら売り込んだものの採用条件は「広岡自身で原稿を書く」というものだった。当時は自らが原稿を書く野球評論家は皆無の時代で、担当記者にゴーストライターとして頼むのが主流だったが、広岡は自身で原稿を書いた。広岡は著書「積極思想のすすめ」の中で「私の第二の人生のスタートは、華やかなスポットライトを浴びた現役時代とは正反対の厳しく孤独なものであった」と述べている。

1969年大晦日、根本陸夫に請われる形で故郷・広島へ戻り、広島東洋カープ内野守備コーチに就任する。ヘッドコーチの関根潤三と共に、後に「ミスター赤ヘル」「鉄人」と称される山本浩二衣笠祥雄三村敏之水谷実雄を育て、後の広島黄金時代の礎を築いた。なお、広岡の入団と入れ替わりで退団したのが上田利治 だが、両者は理論家肌のため「同一組織内では共存できない」と言われていた。広岡はさらに、西本明和を投手から三塁手へ、井上弘昭外野手から二塁手へそれぞれコンバート させたほか、根本から外野手だった苑田聡彦を内野手にコンバートするよう命じられる。しかし、広岡は苑田の守備を見て「内野手のセンスはゼロですね。教えても絶対に上達しない。私が保証しますよ。苑田だけは勘弁して下さい」と話したが、根本は「オレが責任を持つからとにかくやれ」と厳命した。苑田は当初、一向に上達せず、厳しい指導のストレスで円形脱毛症となり、広岡も一度は苑田の転向を諦めかけるほどだった。しかし根気強く続けた結果、ある時を境に突然内野手としての動きが熟せるようになり、苑田はこれ以降、広島の内野守備陣の要となった。このコンバート成功は広岡にとって大きな財産となり、「プロに来る選手は誰でも大変な才能を持っている。しかし、答えの出し方を知らないから自分には才能が無いと思い込んでしまう。その答えを泥まみれになりながら選手と共に探してやるのが指導者の務め。選手と指導者にやる気があれば、選手は必ずや答えを見つけて上達してくれる」「指導者としての自分があるのは苑田のおかげ」と述べている。

広岡は1971年に広島を退団、再び野球評論家として活動する傍ら、プロゴルフのコーチも行っていた。この頃には川上との蟠りも多少は軟化しており、広島退団後には川上を訪ね、広島でのコーチ経験を述べてから巨人のファームコーチを志願している。しかし、軟化したとはいえ実際には後述のように西武ライオンズ監督として日本一に輝いた際の川上への挨拶の際に返された言葉にあるように、対立状態は継続していた。

1973年ヤクルトスワローズから監督要請を受けるが、ヤクルトには打撃コーチに早稲田大学時代の先輩である荒川博がおり、先輩を差し置いて監督になるわけにはいかないとして辞退、守備コーチとして入団した(監督には荒川が昇格した)。コーチには広岡以外に小森光生沼澤康一郎がおり、監督と合わせた「早大カルテット」として大いに話題になった。これは当時の明治神宮外苑長だった伊丹安広の「神宮は東京六大学のメッカ。六大学の卒業生を使ってくれないか」との意向に沿ったもので、この年の一軍コーチは全員が東京六大学OBだった。1976年にはヘッドコーチに昇格し、同年のシーズン途中の6月17日に休養した荒川の後任として監督に就任した。

当時のヤクルトはオーナー・松園尚巳の方針で家族主義的なチームカラーだったが、広岡は「広島以上にぬるま湯」としてプロとして弛緩した雰囲気が流れていると判断した。シーズンに入って故障者が続出したことで、広島時代に根本に進言して実践した選手の食生活管理を行い、正式に監督に就任した1977年以降は「麻雀花札ゴルフの禁止」「禁酒(練習休みの前日のみ食事時に可)」「(骨を酸化させるとして)炭酸飲料の禁止(その代わりにプラッシーを飲ませた)」「ユニフォーム姿では禁煙」「練習中の私語禁止」を打ち出し、選手の生活態度に対して厳しい規制を打ち出した。投手陣整備には堀内庄を招聘、守備重視の広岡イズムを浸透させるために、キャンプから守備走塁を重視した練習メニューと試合方針を打ち出した。投手陣を優先的に整備し、荒川監督時代に巨人戦でエース級の松岡弘を先発、安田猛を中継ぎ、浅野啓司を抑えで起用して連敗が続くような采配をしていたが、メジャーリーグのようなローテーション確立を目指して、先の3人に鈴木康二朗会田照夫を加えて5人で先発を回した。先発投手には中継ぎ起用はさせないこととし、抑えに井原慎一朗を任命、この年に加入したチャーリー・マニエルには守備練習を行わなければ起用しないと厳しく接する一方、水谷新太郎を遊撃手として辛抱強く育て上げた。当然、突然の方針転換に当初は選手から反発を受けたがこの方針は成功し、チームを球団史上初のシーズン2位に導く結果となった。しかし広岡は満足せず、まだ基礎体力が充分でないと判断して、ドジャースタウンで見た立派なトレーニング施設を思い出し、専門家の指導によるウエイトトレーニングを導入した。当時はシーズンオフにトレーニングを行う発想はなく、不平不満を発する選手もいた。さらに、シーズン2位とはいえ、首位・巨人とは7勝19敗と大きく負け越しており、「巨人コンプレックスを払拭しない限り優勝はない」という理念の下、松園に米国キャンプを直談判する。しかし松園は「(ヤクルトの工場がある)ブラジルならいい」と返答したため、広岡は「それは出来ません」と拒否する。さらに松園から「負けたらどうする?」と聞かれたことに「責任を取って辞めます」と発言、ヤクルト球団初の海外キャンプアリゾナ州ユマで実施された。ユマはパンチョ伊東の紹介によるもの で、現地においてサンディエゴ・パドレスの選手が練習の合間に黙々とウエイトトレーニングをやっている姿を実際に選手が目で見ることが出来たのは大きな収穫になった。チームは悲願の日本一に輝いたことで、これ以降、海外でキャンプを実施するチームが増えることになった。

1978年は、ユマキャンプでデーブ・ヒルトンを直接、自分の目で実力を判定した上で採用 したほか、森昌彦をバッテリーコーチとして招聘 する。森は広岡の意向を受けて選手の私生活も細かく管理し、広岡は森のデータに基づいて巨人戦の対策を強化する。前年に続いてキャンプからシーズン開幕後も休日無しで守備中心の練習を行った。開幕当初はつまずいたが、ヒルトンと角富士夫で1・2番コンビを組ませた作戦が当たり、若松勉、マニエル、大杉勝男の中軸の調子が上がると強力打線が力を発揮し、5月からペナントレース争いに加わり、前半戦終了時に首位で折り返した。球宴休み期間の激励会で、後援会関係者と会話した際に「巨人に勝つとヤクルト商品が売れなくなる。優勝しなくてもいいから」と言われショックを受け、後半戦に入ると調子を落とし、8月25日の時点で巨人に4.5ゲーム差をつけられて優勝は絶望に見えたが、福富邦夫、若松、大矢明彦船田和英らを中心にチームが結束、巨人の失速もあり、多くの逆転勝利を収めて快進撃を続け、10月4日にリーグ優勝を決めた。優勝決定後、広岡に真っ先に抱き着いて頬ずりまでしたのは選手ではなくオーナーの松園だった。日本シリーズでは4年連続日本一を狙う阪急ブレーブスとの対戦となり、世間の予想は「阪急有利」という評が圧倒していたが、ここでもヤクルトは阪急を4勝3敗で下して初の日本一を手にした。しかし、日本一を決めた舞台は後楽園球場だったため、古巣・巨人の本拠地で胴上げされたのは広岡にとって複雑な思いだったという。

広岡は日本一になった時点でヤクルトの退団を決意したが、フジサンケイグループから「優勝監督を『契約切れ』といって放出したら商売にならない」と慰留を受け、新たに3年契約を結んだ。この契約の際に現場のことは全面的に広岡に任せ、協力する約束を交わしたが、チーム補強のために意図した山崎裕之の獲得・トレードは合意の段階で決まって球団上層部からクレームが付き、次々に潰されていった。広岡はこれを「トレードに予定していた選手が残留を訴えたため」と述べている。1979年も優勝候補の一角だったが開幕から8連敗を喫して低迷、球団社長の佐藤邦雄は選手から不評だった森を広岡に無断でバッテリーコーチから解任し、投手コーチの植村義信を二軍に降格させようとした。これを知った広岡は球団人事案を巡って対立し、8月17日に辞任を申し出たが、佐藤から「じゃ辞めろ」と素っ気無く言われ、広岡、森、植村の3人が同時に8月29日付けで正式に退団した。広岡は退団前、「巨人贔屓の審判がいる。丸山岡田大里。名指しで書いてもらって結構だ」と発言した。

常勝西武の礎

ヤクルト退団後は日本テレビの野球解説者に就任し、容赦ない毒舌で人気を博したものの、1981年には近鉄バファローズ監督の西本幸雄から声が掛かる。西本に認めてもらえた喜びの一方であまり縁の無いパシフィック・リーグ、しかも在阪球団に引っ掛かりを覚え、さらに同じ在阪球団の阪神タイガース球団社長・小津正次郎からも声が掛かる。阪神はヤクルトと同じセ・リーグで、「巨人のライバル」「打倒・巨人」でやってきたこれまでの努力を実現するには格好のチームと考えて前向きに検討したが、契約年数で合意に至らなかった。阪神は伝統的に監督交代劇が起こり、それに終止符を打つために広岡は任期を5年としたが、小津が3年を譲らず、結局お流れとなった。最後に監督要請があったのは西武ライオンズで、広島時代に共に戦った根本から「お前しかいない。良い選手はしっかり取ってある。行儀作法、お辞儀の角度までしっかり仕込んであるぞ」と言葉巧みに誘われ、広岡が監督就任決定後に聞いた話として、最初は長嶋へ声を掛けたものの即座に断られ、上田に九分九厘決まっていたものが引っ繰り返され、広岡への打診は3番目だったという。

1981年10月29日、西武ライオンズの監督に就任することが正式に発表された。5年の任期で契約金6000万円・年俸3600万円と、当時の一軍監督としては異例の厚遇だった。広岡の西武入りは根本の仕掛けだけでなく、広岡の反・巨人意識とオーナー・堤義明の「巨人に追い付け追い越せ」の経営哲学が一致した結果だった。監督としては長期的な5年契約だが、広岡は自身にとっても非常に厳しい契約書を作成してもらう。その内容は、

  1. 広岡自身の都合により退団する場合、年俸はそこでカット。受領済みの契約金も返還する。
  2. 休養中は給料は支払われない。
  3. 舌禍に対しては厳罰を処する。

といったもので、監督就任記者会見の席でこれについて聞かれると、「納得したから契約した」と語っていた。また、契約時には球団代表(当時)の坂井保之に「優勝したら裏方を含めて年俸を挙げてほしい」と要望すると、「当然だよ、常識ですよ」という口約束があった。しかし、後に本当に優勝・日本一を達成しても年俸は上がらず、坂井へ「上げるのが当然って言ったじゃないか」というと、「そんなこと契約書に書いてない。君のミスだよ」と返された。監督就任後、作戦参謀に森、打撃コーチに佐藤孝夫と、1978年にヤクルトスワローズを率いて日本一になった際のコーチを招聘した。

広岡は、西武でもヤクルト時代と同様に厳しい自己管理と守備重視の野球を行う。前任の根本は放任主義で有名で、細かなサインプレーも無ければミーティングも皆無で、周囲からは「12球団一の怠け者集団」と言われていた。そこへ根本とは正反対の広岡イズムを持ち込んでも空中分解がオチという見方も多く、秋季キャンプにおいて選手に猛烈なしごきを加えると、選手からは「まるでナチスみたいだよ。ついていけない」とこぼし、広岡が「たった一年で優勝してみせる」というと、報知新聞は「優勝したらそれは魔術と言える」と揶揄した。しかし、就任一年目に前期優勝を遂げる と、1982年プレーオフでは後期優勝を果たした日本ハムファイターズを下して、球団19年ぶりのパ・リーグ優勝を果たす。同年の日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で下し、球団24年ぶりの日本一を達成、第一次黄金時代の幕開けを導いた。プレーオフで敗れた日本ハムファイターズの監督・大沢啓二は「『近鉄ロッテさえ注意すりゃあ優勝は間違いねえ』と思ってたんだ。ところが蓋を開けてビックリよ。それまで弱小球団だった西武がいきなり勝ちまくってそのまま前期優勝しちまった。広岡が(監督就任)一年目で優勝なんてなかなか出来るもんじゃねえ。ほんと、あれには驚いたよ」と述べている。

1983年も2位・阪急ブレーブスに17ゲーム差を付ける独走でリーグ連覇を果たす。同年の日本シリーズの対戦相手は古巣・巨人で、広岡は巨人を倒して日本一に輝くことで自分の野球の正しさを証明しようと取り組んできたため、待ちに待った舞台となる。巨人監督の藤田元司とはかつてのチームメイトで、二人が監督としての対戦は「球界の盟主の座を賭けた戦い」として第7戦まで日本中の注目を集めた。激闘の結果、4勝3敗で2年連続日本一となり、球界に「西武時代到来」と騒がれた。日本シリーズから数日後、森を伴って、軟化していたとはいえまだ対立状態だった川上を訪ねて優勝を伝えると、「負けりゃ良かったのに。藤田に勝たせてやれば良かったのに」と言われ激怒、川上とは猛烈な対立状態に戻った。

シーズンオフ、日本ハムからトレードで江夏豊が入団した。西武側からの申し入れと、大沢の「広岡の下でやった方が江夏のためになる」という意向によるものである。しかし、江夏獲得のために中継ぎ投手の木村広柴田保光を放出、小林誠二も古巣・広島へトレードとなり、中継ぎ投手3名が一度に退団したが、このトレードは広岡の意向に反しており、次第に広岡は根本やフロントに対して反感を抱くようになる。また、江夏自身も一匹狼の性格であり、選手管理で有名だった広岡との間で衝突が起こることが予想されていた。

1984年は主力の田淵幸一山崎裕之大田卓司がケガによる離脱や不振のため、好調の阪急に押されてペナントレースから早々と脱落してしまう。そこで広岡は5月20日から方針転換し、若手選手を多数起用して新旧交代を見据える采配を行った。一方でベテラン勢には見切りをつけ、田淵・山崎が現役引退を決意、江夏は8月に二軍落ちすると再昇格することなく西武を自由契約となった。江夏は広岡について「オレの生活権を奪った男」と語っているが、江夏があまりにもチームメイトに馴染めない、結果を残せないこともあって対応に苦慮した。孤高の革命児は、広岡が持ち込んだ「組織野球」の幕開けと同時に球界を去ることとなった。江夏は、西武退団後の1985年頃に「最近、広岡さんの話をすると虫唾が走る。あの人は将の器じゃない。他人に責任を擦り付けて自分は責任を取らない。さん、佐藤さんと広岡さんを支えた人は西武を去り、ロクさんもよく二軍で残ったもんだ。ブチ(田淵)みたいに他人の悪口を言わないのが、広岡さんの悪口を言った。納得いかない監督はチビと今度の監督(広岡)」と語っている。期待の新人、伊東勤が正捕手となったのをはじめ、起用する選手の大半を若手選手に切り替えて「育てながら勝つ」という命題に挑み、3位で終えたことで会心のシーズンだったと語っている。シーズン終了後、バッテリーコーチの森が退団し、黒田正宏が兼任することとなった。

田淵の引退により、広岡は長距離砲の外国人選手を渇望する。筆頭としてドン・ベイラー(カリフォルニア・エンゼルス)の獲得を進言したが、球団は打者ではなく台湾球界のエース・郭泰源を獲得した。当時の外国人選手枠は2枠だったが、ジェリー・ホワイトの解雇で空いた枠を野手ではなく投手で使用したため、一軍登録は投手、野手それぞれ一人ずつとなった(郭とスティーブ・オンティベロス)。これで広岡はフロントに対してさらに反感を抱き、1985年秋山幸二辻発彦工藤公康渡辺久信などの若手選手の台頭により、従来の寄せ集め選手中心から生え抜き選手中心のチームへ姿を変え、独走状態でリーグ優勝を果たした。しかし、広岡はシーズン終盤に持病の痛風が悪化して病気療養し、優勝決定時は不在だった。同年の日本シリーズでは、現役時代のライバル・吉田率いる阪神に2勝4敗で敗れ、日本一を逃した。

シーズン終了後、広岡は監督権限を強化するようにフロントに要望したが聞き入れられず、夕刊紙にフロント批判を繰り返したことを根本が問題視すると、同年11月8日に広岡は辞任を申し出た。広岡が根本に「辞めてあげましょうか」と言うと、根本は嬉しそうに「おお、辞めてくれるか」と答えた。5年契約を1年残し、優勝監督の突然の辞任という衝撃的なものだったが、広岡自身は「相当いい仕事しているのにクビになった」と話している。辞任記者会見では、「痛風が出て終盤の大事な試合で指揮が取れなかった。球団にはわがままを聞いてもらった」と、球団が書いたシナリオ通りに辞任の理由を健康上の問題としたが、「4年間で三度のリーグ優勝、二度の日本一と出来過ぎとも言える成績を残した自分をどうして追い出しにかかったか、今でもわからない」と話している が、一部では広岡の選手に対する厳し過ぎる指導、言いたい放題、勝っても思ったより伸びない観客動員、フロントとの確執を挙げている。正捕手の伊東は同日、温泉治療で群馬県の上牧温泉病院へ向かっている途中で広岡の辞任を知り、「サービスエリアビールを買って小宴会みたいになった。私のあの厳しさから解放されると思うとホッとした」と当時を振り返っている。

広岡の後任には長嶋、古葉竹織、田淵らが候補として挙がったが、同年12月5日に前年限りで退団していた森が監督として復帰し、後に黄金時代と呼ばれる。

西武退団後はNHKの野球解説者に就任した。

球界初のGM就任

1990年阪神タイガース監督に就任した大学の後輩・中村勝広に請われて臨時コーチを務め、東京遠征時には仲田幸司猪俣隆野田浩司を指導した。特に仲田には徹底的に指導し、鳴かず飛ばずだった仲田は2年後の1992年にエースとして君臨する。

広岡は、アメリカに比べて日本は指導者育成の場が少な過ぎると考え、1988年に「ジャパンスポーツシステム」を設立、アメリカの著名選手や球団経営者を招いて勉強会「日米ベースボールサミット」を開催した。これは1990年まで3回実施され、MLBコミッショナーを務めたボウイ・キューンドン・ドライスデールボビー・ボニーヤなどのMLB元指導者、およびボビー・バレンタイン(テキサス・レンジャーズ監督)などの現役監督や選手が来日した ほか、日本からも広岡をはじめ張本勲鈴木啓示古葉竹織らが参加して議論を繰り広げ、当時プロ入り前だった野茂英雄(新日本製鐵堺)、古田敦也(トヨタ自動車)などのアマチュア選手も参加し、実技指導を受けた。また、「ジャパンスポーツシステム」は日本人選手の受け入れを目指してアメリカのマイナーリーグ球団の経営にも乗り出し、当時ミネソタ・ツインズ傘下1Aだったバイセイリア・オークスを買収、読売ジャイアンツから吉田孝司コーチ、藤本健治佐川潔小沢浩一四條稔を受け入れた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/09/22 22:35

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