このキーワード
友達に教える
URLをコピー

広島市への原子爆弾投下とは?

 | 
この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。免責事項もお読みください。

広島に投下された原爆のキノコ雲。下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾
1945年8月6日午前8時17分、原爆の炸裂から2分後の原子雲。撮影場所は爆心地から7㎞離れた旧安佐郡古市町(現広島市安佐南区古市)の神田橋付近。撮影者は広島市衛生課のレントゲン技師、松重三男。
爆心地近くの原爆ドーム(2010年)
広島原爆爆心地の島病院
原爆ドームの東側にあった本病院の上空約600メートルで原爆が炸裂した。

広島市への原子爆弾投下(ひろしましへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍が日本の広島市に対して世界で初めて核兵器リトルボーイ」を実戦使用した出来事である。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 - 16万6千人が被爆から2 - 4か月以内に死亡したとされる。

原爆投下後の入所被爆者も含め56万人が被爆したとされる。

広島県、広島市などを指す「広島」が「ヒロシマ」と片仮名表記される場合は、広島市への原子爆弾投下に関する言及である。

日本への原子爆弾投下」も参照

アメリカ軍が、広島市に対して投下した原子爆弾リトルボーイ」(以下『原爆』と記す)に関する記述を行う。

目次

  • 1 原爆投下側の視点
    • 1.1 広島への原爆投下に至る国際的軍事背景
    • 1.2 原爆投下命令
    • 1.3 グアム島
    • 1.4 テニアン島
    • 1.5 四国上空
    • 1.6 広島上空
    • 1.7 帰投
  • 2 原爆被爆側の視点
    • 2.1 広島市の略史と被爆直前の状況
      • 2.1.1 中島地区
    • 2.2 8月6日の朝
    • 2.3 原爆投下直後
      • 2.3.1 爆心地
    • 2.4 全壊全焼圏内
    • 2.5 被爆救護活動
    • 2.6 原爆による死亡者
  • 3 被爆者を使った人体実験
  • 4 原爆に対する日米政府の反応と原爆報道
    • 4.1 第一報 8月6日
    • 4.2 広島中央放送局 原放送所
    • 4.3 大本営発表
    • 4.4 米国政府の声明 8月7日
    • 4.5 ラジオによる報道
    • 4.6 新聞による報道
    • 4.7 米軍機によるリーフレット撒布
    • 4.8 調査 8月6日 - 10日
    • 4.9 日本政府の抗議声明
    • 4.10 原爆被害報道の本格化
  • 5 広島原爆の破壊力と被害
    • 5.1 広島原爆の破壊力
      • 5.1.1 爆風
      • 5.1.2 熱線
      • 5.1.3 放射線
    • 5.2 黒い雨・二次被爆
  • 6 人体への影響
    • 6.1 短期的影響
      • 6.1.1 熱傷
      • 6.1.2 外傷
      • 6.1.3 放射能症
    • 6.2 長期的影響
      • 6.2.1 肉体的影響
        • 6.2.1.1 熱傷・ケロイド
        • 6.2.1.2 放射線症
      • 6.2.2 精神的影響
        • 6.2.2.1 心的外傷後ストレス障害など
      • 6.2.3 次世代への影響
        • 6.2.3.1 胎内被爆
        • 6.2.3.2 被爆二世の白血病高発症率
  • 7 その後の広島
    • 7.1 終戦まで
    • 7.2 戦後
  • 8 広島原爆をテーマとした作品
  • 9 原子爆弾投下という歴史に対する反論
  • 10 脚注
    • 10.1 注釈
    • 10.2 出典
  • 11 参考文献
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク
    • 13.1 子供向け説明

原爆投下側の視点

(この節以下では英国・米国の行動に視点を置く)

広島への原爆投下に至る国際的軍事背景

詳細および日本の対応などは日本への原子爆弾投下を参照

原爆投下命令

1945年7月25日、マンハッタン計画の責任者であるレスリー・グローブスが投下指令書を作成し(しかし、それを大統領だったハリー・トルーマンが承認した証拠はない)、ハンディ陸軍参謀総長代理からスパーツ陸軍戦略航空軍司令官(戦略航空隊総指揮官)により原爆投下がなされた。

レスリー・グローブスが起草した原爆投下指令書
  1. 第20航空軍第509混成群団は、1945年8月3日頃から以降、天候が許し次第、目標:広島、小倉、新潟、長崎のうちの一つに、最初の特殊爆弾を目視攻撃により投下することとする。この爆弾の爆発効果を観測し記録する目的で、陸軍省から派遣した軍と民間の科学者要員を運ぶためには、余分な機を爆弾搭載機に随行させることとする。これらの観測機は、爆弾の爆発点から数マイルの距離にとどまることとする。
  2. 計画要員によって準備が整い次第、上記の目標の上に追加の爆弾を投下することとする。上に列挙した以外の目標に関しては、追って指示を与える。
  3. この兵器の対日使用に関する一切の情報を発表する権限は、陸軍長官および合衆国大統領だけが保有することとする。前線の司令官によるこの主題に関する声明や情報の発表は、事前の特別な許可なしには、行ってはならない。一切の報道記事は、陸軍省に送って特別な検閲を受けることとする。
  4. 上記の命令は、合衆国陸軍長官と参謀総長の承認の下に、その指示によって貴官に発せられる。貴官はこの命令書の写し1通をマッカーサー将軍に、また1通をニミッツ提督に、情報として送達されたい。


グアム島

8月2日グアム島の第20航空軍司令部からテニアン島第509混成群団に、次のような野戦命令13号が発令された。

野戦命令13号

1. b. (2) (a) ここに挙げた以外の味方機は、攻撃時刻の4時間前から6時間後までの間は、この攻撃のために選ばれたどの目標に対しても、50マイル以内に入ってはならない。
2. 第20航空軍は、8月6日に、日本の目標を攻撃する。
3. c. 第313航空団、第509群団:
(1) 第1目標: 広島市街地工業地域。
(a) 照準点: 063096。 参照:XXI爆撃機集団リト・モザイク 広島地域、No.90.30-市街地。
(b) 攻撃始点: 北緯34°24′-東経133°05′30″。 〔広島県三原〕
(c) 離脱点(目標を攻撃した場合): 少なくとも150度の右旋回をして、北緯34°00′-東経133°34′。 〔愛媛県川之江-伊予三島〕
(2) 第2目標: 小倉造兵廠および小倉市。
(3) 第3目標: 長崎市街地域。
(4) 必要兵力:
(a) 攻撃兵力: 3機。
(b) 予備機: 1機、失敗の場合に備えて硫黄島に進出させておく。
(c) 気象観測機: 3機、それぞれの目標に1機を派遣する。
(6) 航路:
基地
硫黄島
北緯33°37′-東経134°30′(発進開始点) 〔徳島県牟岐沖合の大島〕
北緯34°15′30″-東経133°33′30″ 〔香川県三崎半島の突端〕
攻撃始点
目標
離脱点
硫黄島
基地。
(10) 搭載爆弾量と特殊装備: 第509群団指揮官により指定された通りとする。
(11) 目視攻撃だけを行うこと。
4. この作戦に対しては、作戦任務番号は付けない。記録の目的には、特殊爆撃任務13番とする。

テニアン島

8月4日B-29エノラ・ゲイ号は最後の原爆投下訓練を終了して、マリアナ諸島テニアン島北飛行場に帰還した。翌8月5日21時20分、第509混成部隊の観測用B-29が広島上空を飛び、「翌日の広島の天候は良好」とテニアン島に報告した。

5日、第509混成群団司令部から作戦命令35号が発令された。

作戦命令35号

作戦日: 1945年8月6日
状況説明: 以下を参照せよ
離陸: 気象観測機は0200(頃) / 攻撃機は0300(頃) 〔時刻はすべてマリアナ標準時〕
起床時刻: 気象班は2230 / 攻撃班は2330
食事時刻: 2315から0115
必要携帯食: 気象班は2230に39食 / 攻撃班は0030に52食
トラック: 気象班は0015に3台 / 攻撃班は0115に4台

機体番号 ヴィクターナンバー 機長 補助乗員 同乗者
気象任務
298 83 テイラー
303 71 ウィルソン
301 85 エザリー
302 72 予備機
攻撃班
292 82 ティベッツ 指令により
353 89 スウィーニー
291 91 マクォート
354 90 マックナイト
304 88 マクォートのための予備機

燃料: 82号機-7000ガロン / その他の全機-7400ガロン
弾薬: 全機が各機1000発
爆弾: 特殊 〔原爆(リトルボーイ)〕
カメラ: 82号機と90号機にはK18、その他の装置は口頭指示による
宗教上の式: カトリックは2200に / プロテスタントは2230に

状況説明:
気象観測機 一般状況説明は2300に搭乗員休憩室で
任務別状況説明は2330に以下の通り
機長と操縦士は搭乗員休憩室で / 航法士とレーダー係は図書室で / 無線通信士は通信室で / 航空機関士は作戦室で
2330に食事
0015にトラック

攻撃任務
一般状況説明は2400に搭乗員休憩室で
任務別状況説明は0030に以下の通り
機長と操縦士は搭乗員休憩室で / 航法士とレーダー係は図書室で / 無線通信士は通信室で / 航空機関士は作戦室で
0030に食事
0115にトラック

(〔〕内は訳注)

エノラ・ゲイ乗組員。左からフィーヤビー・ティベッツ・バンカーク・ルイス。

ブリーフィングでポール・ティベッツ陸軍大佐(機長・操縦士)がエノラ・ゲイ(名前の由来になったのはティベッツの母親の名前)の搭乗員に出撃命令を伝えた。

「今夜の我々の作戦は歴史的なものだ」。

8月6日0時37分、まず気象観測機のB-29が3機離陸した。ストレートフラッシュ号は広島へ、ジャビット3世号は小倉へ、フルハウス号は長崎である。0時51分には予備機のトップ・シークレット号が硫黄島へ向かった。

続いて1時27分、Mk-1核爆弾リトルボーイを搭載したエノラ・ゲイタキシングを開始し、1時45分にA滑走路の端から離陸した。

その離陸2分後の1時47分、原爆の威力の記録を行う科学観測機(グレート・アーティスト号)が、さらに2分後の1時49分には写真撮影機(#91 or ネセサリー・イーブル号)の各1機のB-29も飛び立った。すなわちこの日、6機のB-29が原爆投下作戦に参加し、内4機が広島上空へ向かっていたことになる。

テニアン島から広島市までは約7時間の飛行で到達できる。

四国上空

6時30分、兵器担当兼作戦指揮官ウィリアム・S・パーソンズ海軍大佐、兵器担当補佐モリス・ジェプソン陸軍中尉、爆撃手トーマス・フィアビー陸軍少佐らが爆弾倉に入り、リトルボーイの起爆装置から緑色の安全プラグを抜き、赤色の点火プラグを装填した。

作業を終えたパーソンズはティベッツ機長に「兵器のアクティブ化完了」と報告し、機長は「了解」と答えた。機長は機内放送で「諸君、我々の運んでいる兵器は世界最初の原子爆弾だ」と、積荷の正体を初めて搭乗員全員に明かした。

この直後、エノラ・ゲイのレーダー迎撃士官ジェイコブ・ビーザー陸軍中尉がレーダースコープに正体不明の輝点(ブリップ)を発見した。通信士リチャード・ネルソン陸軍上等兵はこのブリップが敵味方識別装置に応答しないと報告した。エノラ・ゲイは回避行動をとり、高度2,000メートル前後の低空飛行から急上昇し、7時30分に8,700メートルまで高度を上げた。

さらに四国上空を通過中に日本軍のレーダー照射を受け、単機の日本軍戦闘機が第一航過で射撃してきたが、被弾はなかった。この日本軍戦闘機(所属不明)はハーフターンして第二航過で射撃を試みたが、射撃位置の占有に失敗した。エノラ・ゲイ号は危機を回避し、目的地への飛行を再開した。

広島上空

投下前
投下後
原爆投下前
投下後
広島市中央部
同心円の中心が爆心地。すぐ左上に目標の相生橋。画面右上の矩形は広島城
原爆投下前
投下後
広島城本丸周辺。中国軍管区司令部は本丸左下の3つ並ぶ建物。本丸中央は旧広島大本営で左上が天守。

7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29の1機が広島上空に到達した。クロード・イーザリー少佐のストレートフラッシュ号である。7時15分頃、ストレートフラッシュ号はテニアン島の第313航空団に気象報告を送信した。「Y3、Q3、B2、C1」(低い雲は雲量4/10から7/10で小さい、中高度の雲は雲量4/10から7/10で薄い、高い雲は雲量1/10から3/10で薄い、助言:第1目標を爆撃せよ)。

この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、投下目標が広島に決定された。原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であった。

ストレートフラッシュ号は日本側でも捕捉しており、中国軍管区司令部から7時9分に警戒警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過離脱したため、7時31分に解除された。

8時過ぎ、B-29少数機(報告では2機であったが、実際には3機)が日本側によって捕捉された。8時13分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった(当然、ラジオによる警報の放送もなかった)。

8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。高度は31,600フィート (9,632メートル)。投下に先立ち、原爆による風圧などの観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ降下させた。青空を背景にすると目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている。この時の計測用ラジオゾンデを取り付けた落下傘を原爆と誤認したため、「原爆は落下傘に付けられて投下された」という流説があるが誤りである。一部のラジオゾンデは「不発の原子爆弾がある」という住民の通報により調査に向かった日本軍が鹵獲した。広島県安佐郡亀山村に落下したラジオゾンデは、原爆調査団の一員だった淵田美津雄海軍総隊航空参謀が回収している。また一部の市民は「乗機を撃墜された敵搭乗員が落下傘で脱出した」と思って拍手していたという。

8時12分、エノラ・ゲイが攻撃始点 (IP) に到達したことを、航法士カーク陸軍大尉は確認した。機は自動操縦に切り替えられた。爆撃手フィアビー陸軍少佐はノルデン照準器に高度・対地速度・風向・気温・湿度などの入力をし、投下目標 (AP) を相生橋に合わせた。相生橋は広島市の中央を流れる太田川が分岐する地点に架けられたT字型の橋である。特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できるため、目標に選ばれた。

8時15分17秒、原爆リトルボーイが自動投下された。副操縦士のロバート・ルイスが出撃前に描いたとされる「爆撃計画図」によると、投下は爆心地より2マイル(約3.2キロメートル)離れた地点の上空であると推察される。3機のB-29は投下後、熱線や爆風の影響を避けるために進路を155度急旋回した。再び手動操縦に切り替えたティベッツはB-29を急降下させた。

リトルボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約43秒間落下した後、相生橋よりやや東南の島病院付近高度約600メートルの上空で核分裂爆発を起こした。

帰投

広島投下作戦終了後のテニアン島にて

14時58分、エノラ・ゲイ号は快晴のテニアン島の北飛行場に帰還し、戦略空軍総司令官カール・スパーツ少将から、ティベッツ大佐には栄誉十字章が、他の12人には銀星章が与えられた。その日は夕方から、第509混成部隊の将兵や科学者らによって、深夜まで盛大な祝賀パーティが催された。

原爆投下時、撮影機はカラーフィルムで撮影していたが、テニアン島に帰還後、現像に失敗したためにその記録は失われた。そのため、爆発から約3分後にグレート・アーティストに搭乗した科学調査リーダー、ハロルド・アグニューにより8mmカメラによって撮影されたキノコ雲の映像が、世界初の都市への原爆投下をとらえた唯一の映像となっている。

原爆被爆側の視点

(この節以下では被爆地の状況に視点を置く)

1930年頃の広島市地図。中央上に広島城、そこから東に広島駅、その南方に宇品港がある。
元安橋越しに見た広島県立商品陳列所(1930年頃)
1945年の広島市地図。米軍作成。赤い斜線(濃い赤)の地域が全壊地域、赤い点(薄い赤)の地域が半壊地域である。地図の升目は1000ヤード(914.4メートル)である。
民家が並ぶ被爆前の中島地区(模型)
上端中央のT字の橋が相生橋、左右の川に架かる2つの橋は右が元安川・元安橋、左が本川・本川橋。この両橋を通る道は旧西国街道で、街道沿いは江戸時代から栄えていた。

広島市の略史と被爆直前の状況

広島市戦国時代の大名毛利輝元により太田川河口三角州城下町として開かれて以来、中国地方の中心であり続けた。江戸時代には浅野藩の城下町として栄え、明治維新後は広島県県庁所在地となり、中国地方の経済的な中心地として発展していた。さらに広島高等師範学校広島女子高等師範学校広島文理科大学広島工業専門学校広島高等学校を有する学都でもあった。

広島には軍都としての側面もあった。日清戦争時には前線に近い広島に大本営(広島大本営)が置かれ、また臨時帝国議会(第7回帝国議会)も広島で開かれるなど、一時的に首都機能が広島に移転されている。これを契機として、陸軍の施設が広島に多く置かれるようになった。広島城内には陸軍第五師団司令部、広島駅西に第二総軍司令部、その周囲には各部隊駐屯地等が配置された。すなわち当時、爆心地の北側はおよそ陸軍の施設で広く占められており、陸軍敷地南端より約200メートルに爆心地がある。また宇品港に置かれた陸軍船舶司令部兵站上の重要な拠点であった。

被爆当時の市中人口は約35万人と推定されている。内訳は、(1) 居住一般市民約29万人、(2) 軍関係約4万人、および (3) 市外から所用のため市内に入った者約2万人である。

中島地区

現在の広島の地図から名前が消えた中島地区(中島本町・材木町・天神町・元柳町・木挽町・中島新町)は、数千人の一般庶民が暮らす街であり、また広島の第一の歓楽街繁華街であった。この地区は爆心地から500メートル以内にあり壊滅、唯一、RC建築の燃料会館(旧大正屋呉服店)だけが耐え残った。

戦後、この地区は広島平和記念公園として整備され、燃料会館は全焼した内部を全面改築して公園のレストハウスとなり現在も残っている。

8月6日の朝

8月6日は月曜。当時は週末の休みはなく、朝は8時が勤務開始であった。大半の労働者・徴用工・女子挺身隊、および勤労動員された中学上級生(1万数千人)たちは、三菱重工東洋工業を始めとする数十の軍需工場での作業となった。

また建物疎開には、中学下級生(数千人)および一般市民の勤労奉仕隊(母親たち)や病気などの理由により徴兵されなかった男子らが参加した。動員は市内の他、近隣の農村からも行われた。建物疎開とは、空襲による類焼を食い止めるために建物の間引きを行う作業である。建物の破壊は軍が行い、瓦礫の処理を奉仕隊が行った。当然、青空の下での作業である。彼らは原爆の熱線を直接、大量に浴びることになる(後述)。

尋常小学校の上級生児童は1945年4月に行われた集団疎開で市を離れていた者が多かったが、下級生児童は市内に留まっていた。児童は各地区の寺子屋学校での修学となっていた。就学以前の幼児は自宅に留まっていた。

8月3日、4日と雨が降ったが、5日以降は高気圧に覆われて天候は回復した。

8月5日は深夜に2回空襲警報が発令され、その度に市民は防空壕に避難したため、寝不足の市民も多かった。この日、市街中心部では米の配給が行われ、市民は久しぶりの米飯の食卓を囲んだ。

8月6日の朝の気温は26.7℃、湿度80%、気圧1,018hPaであった。北北東の風約1メートル/秒が吹き、雲量8 - 9であったが、薄雲であり視界は良好だった。7時9分の空襲警報で市民は一旦は防空壕に隠れたものの、7時31分には警報解除されたため、外へ出て一日の活動を開始していた。

原爆投下直後

NHK広島放送局が1998年に日米の科学者などの協力のもと、核分裂爆発直後の放射線の発生、火球の成長、衝撃波・熱線の照射などの状況を再現した番組を制作した。

原爆投下・10秒の衝撃」を参照
被爆後の中島地区(模型)
河原町付近から東方向を撮影。中央に縦断する道がのちの平和大通り、その道左が中島町、その右が加古町。左上のサインはティベッツのもの。
稲荷町付近から西方向を撮影。手前が京橋川、中央やや右の道が相生通り
吉島付近から北方向を撮影。左やや上に相生橋が見える。
1946年春三村明が撮影した米軍映画撮影隊による物理的被害状況映像。爆心地周辺。

爆心地

爆心地である広島市細工町29-2の島病院(現島外科内科)は、産業奨励館の東側にあり、8時15分、病院南西側の上空約600メートルで炸裂した。爆心地500メートル圏内では閃光と衝撃波がほとんど同時に襲った。巨大な爆風圧が建築物の大半を一瞬にして破壊、木造建築は全数が全壊した。島病院の建物も完全に吹き飛ばされ、院内にいた約80名の職員と入院患者全員が即死した。鉄筋コンクリート建築である産業奨励館は垂直方向の衝撃波を受けて天蓋部は鉄骨を残して消失、一部の外壁を残して大破したが完全な破壊は免れている。相生橋や元安橋の石の欄干も爆風で飛ばされた。

爆心地を通過していた路面電車は炎上したまま遺骸を乗せて、慣性力でしばらく走り続けた。吊革を手で持った形のままの人や、運転台でマスター・コントローラーを握ったまま死んだ女性運転士もいた。そのなかで、爆心地からわずか700メートル付近で脱線し黒焦げ状態で発見された被爆電車(広島電鉄650形電車651号車)が、修理・改造され今も現役で、平和学習に用いられるなど残った物もある。

屋外にいた者は大量の熱線と放射線を浴びて即死し、屋内にいた者は家屋の倒壊に巻き込まれ、閉じ込められたまま焼死した。広島県燃料配給統制組合に勤めていた野村英三(当時47歳)が手記を残している。野村は爆発の瞬間に燃料会館(会館は島病院や産業奨励館の直近170メートルに位置している。現在でも建物が広島平和記念公園内に現存している)の地下室に書類を捜しに入っていて難を逃れた。野村の証言によると、一瞬で燃料会館内は暗闇に包まれ、手探りで這い出した屋外も同様に闇の中だった、半壊した産業奨励館の窓枠から炎が立ち上り、やがて全壊した中島地区の各所から炎が上がり始めたという。脱出に成功した同僚は8名いたが、その後の消息は分からなくなったとされる(大量被曝による急性放射線障害で間もなく全員死亡したのではと考えられている)。野村はその後猛烈な火と煙の中、中島町を北進し相生橋を経て西方面の己斐方面へ脱出、その後、高熱・下痢・歯茎からの出血などの放射線の急性症状で生死をさまようが一命を取り留め、爆心地の状況を知るほぼ唯一の生存者として、1982年6月に亡くなるまで貴重な証言を残している。

全壊全焼圏内

爆心地1キロメートル地点から見た爆心点は上空31度、2キロメートル地点で17度の角度となる。したがって野外にあっても運良く塀や建物などの遮蔽物の陰にいた者は熱線の直撃は避けられたが、そうでない大多数の者は、熱線を受け重度の火傷を負った。野外で建物疎開作業中の勤労奉仕市民や中学生・女学生らは隠れる間もなく大量の熱線をまともに受けた。勤労奉仕に来ていた生徒が全員死亡した学校もあった。屋内にいた者は熱線こそ免れたものの、爆風で吹き飛んだ大量のガラス片を浴びて重傷を負い、あるいは爆心地付近同様に倒壊家屋に閉じ込められたまま焼死した。

被爆救護活動

広島市の行政機関(市役所・県庁他)は爆心から1,500メートル以内であり、家屋は全壊全焼、当時の広島市長だった粟屋仙吉中国地方総監大塚惟精は共に被爆死し、職員も多くが死傷、組織的な能力を失った。また広島城周辺に展開していた陸軍第五師団の部隊も機能を喪失した。

市内の爆心地から4キロメートルにあった宇品港の陸軍船舶司令部隊は被害が軽かったため、この部隊(通称「暁部隊」)が救護活動の中心となった。当日8時50分には最初の命令(消火・救難・護送など)が発せられている。

陸軍船舶練習部に収容され手当てを受けた被爆者は、初日だけで数千人に及んだ。また原爆の被災者は広島湾似島に所在した似島検疫所に多く送られている。この船舶練習部以外にも市内各所に計11か所の救護所が開設された。船舶練習部は野戦病院と改称し、救護所は53か所まで増加した。

救護所の中でも爆心地から500mの近さに在って尚RC構造の外郭を保ち倒壊を免れた広島市立袋町小学校西校舎は、 1階に広島県内外からの医療団詰所と救護所、2階には広島県庁の厚生部が臨時に置かれ、 3階は赤十字国際委員会駐日首席代表マルセル・ジュノー博士の尽力によりもたらされた15トンの医薬品と医療機材の保管場所となり翌年の小学校再開迄の間、被爆まもない広島の医療行政の拠点となった。

原爆による死亡者

爆心地から500メートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを越え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及んだ。さらに生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25パーセントが死亡していった。

11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡した。1945年(昭和20年)の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人ないし12万人と推定されている。

原爆が投下された際に広島市内にはアメリカ軍の捕虜十数名が収容されていたが全員が被爆死している。このアメリカ軍捕虜は7月28日呉軍港空襲を行って戦艦「榛名」に撃墜されたアメリカ陸軍航空隊コンソリデーテッド・エアクラフトB-24爆撃機数機(タロア号、ロ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/09/20 20:29

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「広島市への原子爆…」の意味を投稿しよう
「広島市への原子爆弾投下」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

広島市への原子爆弾投下スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「広島市への原子爆弾投下」のスレッドを作成する
広島市への原子爆弾投下の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
無料コミックを探す
占い・診断
着メロを探す
GAMEを探す
デコメを探す
きせかえツールを探す
FLASH待ち受けを探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail