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広島市民球場_(初代)とは?

【グラウンドデータ】

【球場規模】
グラウンド面積:12,160 m²
両翼 - 91.4 m(約299.9 ft)
中堅 - 115.8 m(約379.9 ft)
左中間 - 109.7m(約359.9 ft)
右中間 - 109.7m(約359.9 ft)
【フェンス】
2.55 m (約8.4 ft)
(ラバーフェンス:1m35cm + 金網フェンス:1m20cm)

初代の広島市民球場(ひろしましみんきゅうじょう)は、広島県広島市中区基町広島市中央公園内にかつて存在した野球場。広島市が所有および運営管理を行なっていた。

1957年7月に完成し、以来2009年3月31日まで日本プロ野球セントラル・リーグ広島東洋カープ本拠地として用いた。

2009年4月1日から2010年8月31日までは、旧広島市民球場(きゅうひろしましみんきゅうじょう)の名称で主にアマチュア野球に使用されていたが2010年9月1日をもって閉鎖され、2012年2月28日をもちライトスタンドの一部を残して解体された。

目次

  • 1 概要
  • 2 建設に至るまでの経緯
    • 2.1 ナイター球場建設構想
    • 2.2 旧日本軍西部第二部隊営庭跡地にて着工
    • 2.3 カープ球団の経営基盤確立へ
  • 3 歴史
  • 4 設備
    • 4.1 フィールド
    • 4.2 客席
      • 4.2.1 内野2階スタンド
    • 4.3 スコアボード
    • 4.4 可動式広告板
    • 4.5 場内アナウンス・効果音
    • 4.6 放送ブース
    • 4.7 照明設備
  • 5 トピックス
    • 5.1 トラブル
    • 5.2 命名権導入の検討
    • 5.3 セ・リーグ試合開始遅延記録
    • 5.4 相手チームのお別れ・追悼セレモニー
    • 5.5 コンサート開催
    • 5.6 広島市民球場時代末期
    • 5.7 旧広島市民球場改名後
  • 6 立地
    • 6.1 球場周辺
  • 7 跡地利用に関する市の動き
    • 7.1 球場解体前
    • 7.2 跡地利用の開始
    • 7.3 本格整備に向けて
  • 8 交通
  • 9 脚注
  • 10 参考資料
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

概要

1957年7月24日中国地方初のナイター設備設置球場として開場以来、広島カープの本拠地として使用された。また全国高等学校野球選手権広島大会の決勝戦や都市対抗野球大会の広島県予選などのアマチュア大会の会場としても用いられていた他、一般市民にも広く貸し出されており、カープの試合開催日の午前中にグラウンドの貸し出しを行っていることもあった。

内野2階スタンドや電光式掲示板、可動式日よけ設備等、施設の増強も長い年月をかけて行われ、開場当時17,422人だった観客収容数は、最終的に31,984人まで増加した。

しかし、1990年代に入ると新設された他球場に比べて狭隘なフィールドの大きさが問題視され始め、さらに2000年代に入ると諸設備の陳腐化・老朽化が著しく進んだことから当球場に代わる新しい球場の建設が検討され始めるようになり、2009年4月に新たに竣工したMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島にプロ野球本拠地機能は移転した。

当初は2009年3月末での閉場が予定されていたが、跡地利用に関する市と市議会の間でのこじれもあり(後述)、2009年4月1日より条例上の正式名称「広島市民球場」をマツダスタジアムに譲った上で、暫定的に「旧広島市民球場」の名称で引き続き一般向けの利用が行われていた。2010年6月に球場廃止条例が成立し、同年9月1日をもって53年間の球場の歴史に終止符を打った。

2010年11月29日に解体作業が開始された。2011年4月に広島市長に就任した松井一實新市長は「球場の在り方を市民皆さんともう一度考え直す必要がある」としたが、最終的にライトスタンドの一部を永久保存する以外は全面解体することが決定した。2012年2月28日を以てライトスタンドの一部(幅約35メートル、高さ約6メートル)を残して解体された。

建設に至るまでの経緯

ナイター球場建設構想

1952年、「広島市にナイター設備を備えた球場を作ろう」と言い始めたのは、当時のカープを金銭面からバックアップしていた東洋工業松田恒次社長だった。カープの石本秀一監督はその言葉に有頂天となり、自ら球場設計に取り組んだとされる。翌1953年になると、広島市民の間でも「ナイター球場待望論」が日ごとに高まり、中国新聞社へは読者からの投書が相次いだ。

こうした待望論が一気に高まりを見せたのは、当時、カープを除く他球団が本拠地へナイター設備を次々に導入したためである。その一方で、当時の水準から見ても設備面で見劣りした広島総合球場にナイター設備などあるはずもなく、カープ主催の週末の試合は、日曜日昼間に必ずと言ってよいほどダブルヘッダーが組み込まれており、炎天下での連戦を強いられた選手達の疲労は並大抵なものではなかった。また広島総合球場は、当時交通の便が悪い上にスタンドのキャパシティも小さく、さらに炎天下での観戦を強いられるとあっては、観客増による増収で球団経営の安定を図ろうにも限度があった。

1954年、広島市の浜井信三市長と広島市議会議長が、東京で開かれた「広島市建設促進協議会」の席上にてナイター球場の話題で花を咲かせたことがきっかけとなり、同年3月、広島市議会に「市営野球場設置対策委員会」が設置された。さらに8月には、同委員会に広島県、地元経済界、カープ球団が加わった「市営市民球場建設促進委員会」へと発展し、そして10月には「広島市基町へ市税を使わず市営ナイター球場を建設する」という結論が導き出された。

だが、ナイター球場の建設予定地とされた基町には、通称「十軒長屋」と呼ばれた市営住宅が多数存在し、住人達は「自らの住む住宅を潰してまでナイター球場を作るのは不当だ」と激しく反発、連日に渡って市役所前で計画再考を求めて抗議運動が行われる事態になった。その一方でカープの後援会側は、「何故早く建設しないのか」と浜井市長に再三に渡って詰め寄り、55,000人の署名簿を広島市に提出するなど、利害関係は入り乱れ、ナイター球場建設の先行きは全く不透明な情勢になった。

旧日本軍西部第二部隊営庭跡地にて着工

1955年4月、「ナイター球場は市民のレクリエーション施設として、ぜひ建設したいと考えているものの一つ」との公約を掲げた渡辺忠雄が広島市長に当選した。

渡辺は住人の反対運動により家屋の立ち退きすらままならなくなった基町に見切りをつけ、代替として「広島護国神社内の敷地」を建設地とする意向を示した。しかし、同神社の広島城跡への移転問題や都市公園法が絡んでいたため、文部省の文化財保護委員会から猛反対を受け、やむなく1955年10月、さらなる代替として「旧日本軍西部第二部隊営庭跡地(以下、旧二部隊営庭跡地)」を建設地とする考えを示した。だが、同地については合同庁舎建設予定地としていた大蔵省建設省が譲らなかった。

1955年12月、広島市議の任都栗司と鈴木龍二セ・リーグ会長、河口豪カープ球団代表が石本建設設計事務所でナイター球場の設計について協議し、翌56年の新春に着工することを発表したが、肝心の建設地は一向に決まる気配が無かった。そのため1956年には、怒ったカープ後援会の会員達が、広島駅構内で東京から帰広した渡辺を待ち構え、吊るし上げる事件まで発生した(市長吊るし上げ事件)。

しかし水面下で広島市側は、当時の自民党広島県連会長肥田琢司の協力を得て、大蔵省・建設省に対して、国有地の無償譲渡が受けられる平和記念都市建設法の適用を視野に粘り強く交渉を続けており、ついに当時の一万田尚登大蔵大臣と馬場元治建設大臣を口説き落とした。1956年7月17日、地元政官界の六者会談を経て、ようやく建設地は中央公園の一部である「旧二部隊営庭跡地」に正式決定した。

さらに1956年9月の広島市議会議長選挙による議長交代をきっかけにして広島市議会の勢力図が一変、派閥争いが一旦収束するのを見計らって、地元財界10社で構成する二葉会は翌1957年1月4日、建設資金1億6千万円の寄付を広島市に申し入れた。それまで市議会の派閥争いやボス議員の利権に利用されてはたまらないと、鳴りを潜めていたのである。

1957年2月1日には「広島市民球場建設世話人会」が発足し、2月22日についに起工式が執り行われた。地元建設会社の増岡組が購入したばかりのブルドーザー1台が連日フル稼働し、超々突貫工事の結果、わずか5か月後の7月22日には完工式が執り行われた。同日夜のナイター設備の点灯式には小雨が降るあいにくの天候にもかかわらず、15,000人の観衆が詰めかけた。

以下、当日の完工式に参加した球団関係者のコメントである。

  1. 河口豪(球団代表):「8年前カープが結成された時、谷川昇会長は『カープは県市民のものであり、成長に伴って立派な衣装をつけたい』と言われたが、それが実現して谷川さんも草葉の陰で喜んでいられるに違いない。この上は新しい器に立派な選手を強化して、ファンの期待に応えたいと思っている」
  2. 白石勝巳:「難波甲子園よりもこぢんまりとして非常に感じがよい。バックスクリーンもよい。文句を言うところは一つもない。これなら十分張り切ってやれる」
  3. 長谷川良平:「マウンドが低い感じがする。確かにどこよりも明るいけれど、カクテル光線はあまり好きではない」
  4. 小鶴誠:「球は非常によく見える。内野の土は非常によく締まっているが、外野はまだそれほどでもないので走りにくいが、これは当分のことだろう」

カープ球団の経営基盤確立へ

ナイター球場の出現は文字通りファンを引きつけた。一番安い外野席の入場料は大人で当時、カレーライスや駅弁、ストリップ劇場の入場料と同じ100円だったが、映画と並ぶ健全娯楽として歓迎された。完成後35試合の観客動員数は61万9千人であり、完成前30試合の12万7千人から飛躍的に伸びた。

独立採算のカープ球団には、財政基盤を固める切り札となった。観客が増えたこともさることながら、カープ球団には球場内売店の営業権が認められており、さらに球場内看板による広告収入の7割5分~8割がカープ球団の取り分とされたためである。現代の指定管理者制度に近い形態であり、当時としては画期的なことであった。

こうして積み上げられた収入は選手補強費に充てられ、東京六大学野球小坂佳隆、社会人野球の4番打者森永勝治西鉄ライオンズでくすぶっていた大和田明ら、これまで金銭面から接触すらできなかった逸材の獲得へと繋がっていった。

歴史

内野より一塁側を撮影(2003年7月)
三塁側より(2004年3月14日、広島 - ダイエー)
左翼ポール付近より(2005年5月、広島 - 楽天)
ジェット風船(2005年5月)
7日・対東北楽天ゴールデンイーグルス、8日・対千葉ロッテマリーンズ、14日・対東京ヤクルトスワローズ、22日・対阪神タイガース


設備

フィールド

阪神甲子園球場ほっともっとフィールド神戸と並び、プロ球団の本拠地球場としては現在では少なくなった天然芝球場(ファウルゾーンを除く)である。両翼91.4メートル、中堅115.8メートルという外野は、プロ球団の本拠地球場の中では一番狭かった。

このフィールドの狭さは、球場完工式に引き続いて行われたナイター設備点灯式に招待された小西得郎がすぐに指摘しており、本塁打の出やすさと相まって本球場の大きな特徴であった。

客席

1986年に改修された、内野スタンドは二層式で収容人員約20,000人、外野は収容人員約12,000人、計32,000人ほどを収容できるとされた。また、内野の上層スタンドがかかる同下層スタンドの一部を除き、屋根は無し。内野の客席は、ほとんどが背もたれの付いた独立式(一部はベンチ式)、外野の客席は全てベンチ式であった。外野スタンドの左中間と右中間の一部に外野指定席を設定していた。

内野2階スタンド

(左)2階スタンドに上がるには、まず1階スタンドの階段を登る必要がある。
(右)段差は不揃いで階段幅も小さかったため、躓く観客が多かった。

本球場の大きな特徴が「増設された内野2階スタンド」であった。1980年代に入って内野席の拡幅が検討され始めたことに伴って、それによる座席数の減少を防ぐため、内野2階スタンドの増設が決まった。

しかし、1層式のスタンドの球場が主流の日本で、後になって2階スタンドが1階スタンドの上に増築された例は他に無い。建設当初の設計には、2階スタンドの増設に必要な建物強度など織り込まれていないためである。本球場では、2階スタンドと既存スタンドの基礎部分を建物剛性面を配慮したことにより一体化し、さらに予想される重量増による地盤沈下に対応するため、基礎の設置面積を拡大すること等、様々な工夫を凝らすことで対応した。1985年から、オフシーズンを工事期間とし、約2年の歳月をかけて、1987年に2階スタンドは完成した。

内野2階スタンドは、従前からの1階スタンドを通過しないと辿り着けないアクセス面の不備や、最前列に設けられた横通路を行き交う観客でグラウンドへの視界が遮られることや、既存スタンドの強度が配慮された結果、重量がかさむ屋根が設置できなかったことなどから人気は低迷した。客席稼働率は25%程度にとどまり、さらに値段が高いバックネット裏付近のA指定席にいたっては17%程度しか売れず、カープ球団は後々まで集客に苦労することになる。元々1層式スタンドとして設計された球場であったため、改修にも限界があった。

こうした教訓は、後のマツダスタジアムコンコースを中心としたアクセス面の設計に反映された。

スコアボード

電光式スコアボード。放電管式であったために2000年代には旧式化、保守が困難になる

以下、特に断りのない限り広島東洋カープ主催試合を想定した説明である。

開場当時から1992年までの35年間使われた初代のスコアボード(右中間に設置)はパネル式。最上段は開場当時は大時計のみであったが、後に両サイドに中国放送の広告を設置した。打順表示はイニングスコア部を挟んだ両サイドにそれぞれのチームの出場選手名を表示していた。また表示方式にも特徴があり、現在の打者をランプ(信号灯)で、出塁している走者は打順ランプの外側を囲うネオン管を点灯させて表示していた。またスコアボード棟の内部は3層構造でクーラーも無く、夏場は涼むためスコアボードのパネルを空けて係員が涼をとっていた(のちにスパイ容疑が掛かることになる)。中央に得点掲示板、その下に審判団・カウント表示・打率及び本塁打数表示、下段には他球場の途中経過(セ・リーグのみ)と次回試合日程が出ていた。パネル式時代のスコアボードは最大16回までと合計得点、安打、エラーを書き記すことが可能だったが、スコアが見づらくなるという理由から晩年は合計得点を表す「R」部分には表示をしていなかった。

1994年アジア競技大会開催に合わせて1992年オフに総工費約50億円を掛けて改修を行い、1993年からスコアボードは中堅バックスクリーン上に移設され電光式となり、松下電器産業製の大型映像装置「アストロビジョン」も一体化して設置された。しかし旧来の放電管方式だったため保守部品の消耗が早く、設置から10年を経過してそれらの入れ替えもままならなくなった。例えば2004年グレッグ・ラロッカが打撃練習した際、メンバー表の表示画面にボールが直撃、3週間以上そこの部分だけ何も表示されず、例として緒方の表示が「緒_」、または木村拓が「木村_」となっていた(“_”は空白)。2005年LED式に改装され、ポジションの数字が大きくなり、ネーム部分は幅がやや狭くなった。表示部は1993年以来の配置を踏襲し、横スクロールで左翼側に映像装置、右翼側に得点(10回まで)と出場メンバー表示が出来るようになっている。また打者はもちろん、塁に出た走者に対しても白地の文字が黄緑色で表示されるという他球場にはない特徴も、パネル式時代の表示方式を踏襲し続けている。スコアボードの得点表示部は、電光化当初は「青地に白文字」で表示していたが、放電管の消耗が著しくなった2000年頃から「黒地に白文字」に設定を変更して点灯部を減らし、放電管の負荷を軽減させていた。LED式に改装後は以前と同様「青地に白文字」に設定を戻している。

電光化以降、スコアボードの球団名は「〜ズ」といったチーム名表記ではなく、頭の地名などを使用している。そのためセ・パ交流戦では北海道日本ハムファイターズが「北海道」、千葉ロッテマリーンズが「千葉」、福岡ソフトバンクホークスが「福岡」、など、マスコミが多用する企業名表記とは違う表示だった。2006年からは北海道日本ハムファイターズは「日本ハム」、東北楽天ゴールデンイーグルスは「楽天」の表記になった。東京ヤクルトスワローズはこれまで通り「ヤクルト」だった。なお、元中日ドラゴンズトマス・デラロサの表示方法は、「デ ラ ロサ」。また審判員の表示部が設置されていない。広島戦では試合前の先発メンバー発表時にビジョンの画面上で表示し、試合中の表示は一切行わない。

可動式広告板

可動式広告板

当初の建設計画においては、本塁は北西に置く計画であったが、建設省から「文化施設のそばに正面玄関が位置することになり騒音上好ましくない」(当時、児童文化会館が建設予定地北側に存在した)、「外野スタンドの裏側がメインストリートに面し、背を向けるのは景観上好ましくない」等、注文を付けたため、設計は変更され本塁は南南東に置かれることになった。そのため西側のレフトスタンド背後に沈む太陽の直射日光が打者や捕手のプレー、特に三塁側からの送球に対する一塁手の捕球を妨げたり、ホームチーム側の一塁ベンチを直撃するようになった。

こうした問題点は建設当時の広島市助役が、「選手としてはやりにくいのは私もシロウトではないからよく分かっているが、建設省がこれでやれと言うのだから仕方がない。」と漏らす等、早期から認識されており、そのため完成当時は一塁側・三塁側のどちらのベンチを使用するか、ルール上の選択権がホームチームにあることを利用し、デイゲームではホームチームの広島が三塁側ベンチを使用することがあった他、ナイトゲームでも太陽が完全に沈むまで試合を開始しない措置がとられることもあった。

1959年にはレフトスタンドの最上段に木製の日よけ設備が完成、これに企業広告を兼ねた垂れ幕を張ることで、試合に支障をきたすほど深刻な問題となっていた西日の影響を緩和することが出来るようになった。この日よけ設備は、1984年に可動式の大型広告板へと発展した。

場内アナウンス・効果音

以下、特に断りのない限り広島東洋カープ主催試合を想定した説明である。

場内アナウンスは試合前の両チーム先発投手の紹介の際、名前・背番号のみならず、その投手のシーズン成績(その時点まで)を「○○投手は□試合目の登板、○勝△敗セーブ□でございます」のように読み上げる。これはかつて市民球場に大型映像装置など情報を表示するための設備がなかった頃から続けられているもので、その名残りといわれている。2007年までは試合前だけでなく、継投の際にもアナウンスが行われていたが、2008年からはビジョンに勝敗とセーブを表示するようになったため、アナウンスは省略された。

広島・相手の選手に関わらずホームランが出た時には球場独特のファンファーレが鳴る。ほぼ10年周期で曲が変わり、2004年まで4代にわたって使用された。1980年頃まで使用されていた初代ファンファーレは、ホームランとカープ勝利時に鳴らされた。また、試合開始時と7回裏の開始時(ラッキーセブン)には当時のホームランファンファーレをアレンジしたファンファーレが鳴り、その後アナウンスが流れた。ちなみに、この初代ファンファーレは、現在笠松競馬場重賞ファンファーレに使用されている。1982年から1992年まで使われていた2代目ファンファーレが特に有名で、今なお根強い人気を誇り復活を望む声が多い。1993年、スコアボードを電光式にリニューアルした際に3代目ファンファーレに一新され、その後広島の選手専用の4代目ファンファーレを導入。3代目は相手選手にのみ使われるようになった。なお、2005年以降は鳴らなくなった模様。

放送ブース

放送ブースはバックネット裏(グラウンドの最前列)と、1階席と2階席の中間の2箇所に設置された。

テレビの中継でも頻繁に映っているバックネット裏のブースはラジオ放送用に使われ、選手のプレーを間近で見る形で放送することとなり一塁寄りから順番に第1放送席から第4放送席まである。第2放送席はNHKが、第3放送席はRCCが所有していた。

なお、球場の排水設備が充分では無かったため、グラウンドから流れ出る雨水がラジオ放送用ブースまで侵入してくることもしばしばあった。ある時、RCCの上野隆紘は、大雨で床が水浸しになった放送ブースから解説者の石本秀一を背負って運び出したこともあったという。

照明設備

照明塔(2006年1月)


トピックス

出典:wikipedia
2018/10/06 14:40

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