このキーワード
友達に教える
URLをコピー

広島市民球場_(初代)とは?

移動先: 案内検索
広島市民球場 (初代)
(旧 広島市民球場)
The first Hiroshima Municipal Baseball Stadium
(Former Hiroshima Municipal Baseball Stadium)


球場外観

【施設データ】

【所在地】
広島県広島市中区基町5-25
【座標】
北緯34度23分49秒 東経132度27分18秒 / 北緯34.39694度 東経132.45500度 / 34.39694; 132.45500座標: 北緯34度23分49秒 東経132度27分18秒 / 北緯34.39694度 東経132.45500度 / 34.39694; 132.45500
【起工】
1957年2月22日
【開場】
1957年7月24日
【閉場】
2010年9月1日
【取り壊し】
2012年2月28日
【所有者】
広島市
【管理・運用者】
広島市
【グラウンド】
内野 - 黒土
外野 - 天然芝(高麗芝)
【照明】
照明塔 - 6基
最大照度
投捕間:3073Lx
内野:2674Lx
外野:1801Lx
【建設費】
2億5,600万円
【設計者】
石本建築事務所
【建設者】
増岡組
【使用チーム ・ 開催試合】

広島東洋カープ(1957-2008)
【収容能力】

31,984人(消防法上の定員は31,686人)

【グラウンドデータ】

【球場規模】
グラウンド面積:12,160 m2
両翼 - 91.4 m(約299.9 ft)
中堅 - 115.8 m(約379.9 ft)
左中間 - 109.7m(約359.9 ft)
右中間 - 109.7m(約359.9 ft)
【フェンス】
2.55 m (約8.4 ft)
(ラバーフェンス:1m35cm + 金網フェンス:1m20cm)

初代の広島市民球場(ひろしましみんきゅうじょう)は、広島県広島市中区基町広島市中央公園内にかつて存在した野球場。広島市が所有および運営管理を行なっていた。

1957年7月に完成し、以来2009年3月31日まで日本プロ野球セントラル・リーグ広島東洋カープ本拠地として用いた。

2009年4月1日から2010年8月31日までは、旧広島市民球場(きゅうひろしましみんきゅうじょう)の名称で主にアマチュア野球に使用されていたが2010年9月1日をもって閉鎖され、2012年2月28日をもちライトスタンドの一部を残して解体された。

目次

  • 1 概要
  • 2 建設に至るまでの経緯
    • 2.1 ナイター球場建設構想
    • 2.2 旧日本軍西部第二部隊営庭跡地にて着工
    • 2.3 カープ球団の経営基盤確立へ
  • 3 歴史
  • 4 設備
    • 4.1 フィールド
    • 4.2 客席
      • 4.2.1 内野2階スタンド
    • 4.3 スコアボード
    • 4.4 可動式広告板
    • 4.5 場内アナウンス・効果音
    • 4.6 放送ブース
    • 4.7 照明設備
  • 5 トピックス
    • 5.1 トラブル
    • 5.2 命名権導入の検討
    • 5.3 セ・リーグ試合開始遅延記録
    • 5.4 相手チームのお別れ・追悼セレモニー
    • 5.5 コンサート開催
    • 5.6 広島市民球場時代末期
    • 5.7 旧広島市民球場改名後
  • 6 立地
    • 6.1 球場周辺
  • 7 跡地利用に関する市の動き
    • 7.1 球場解体前
    • 7.2 跡地利用の開始
    • 7.3 本格整備に向けて
  • 8 交通
  • 9 脚注
  • 10 参考資料
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

概要

1957年7月24日中国地方初のナイター設備設置球場として開場以来、広島カープの本拠地として使用された。また夏の甲子園大会広島県予選の決勝戦や都市対抗野球大会の広島県予選などのアマチュア大会の会場としても用いられていた他、一般市民にも広く貸し出されており、カープの試合開催日の午前中にグラウンドの貸し出しを行っていることもあった。

内野2階スタンドや電光式掲示板、可動式日よけ設備等、施設の増強も長い年月をかけて行われ、開場当時17,422人だった観客収容数は、最終的に31,984人まで増加した。

しかし、1990年代に入ると新設された他球場に比べて狭隘なフィールドの大きさが問題視され始め、さらに2000年代に入ると諸設備の陳腐化・老朽化が著しく進んだことから当球場に代わる新しい球場の建設が検討され始めるようになり、2009年4月に新たに竣工したMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島にプロ野球本拠地機能は移転した。

当初は2009年3月末での閉場が予定されていたが、跡地利用に関する市と市議会の間でのこじれもあり(後述)、2009年4月1日より条例上の正式名称「広島市民球場」をマツダスタジアムに譲った上で、暫定的に「旧広島市民球場」の名称で引き続き一般向けの利用が行われていた。2010年6月に球場廃止条例が成立し、同年9月1日をもって53年間の球場の歴史に終止符を打った。

2010年11月29日に解体作業が開始された。2011年4月に広島市長に就任した松井一實新市長は「球場の在り方を市民皆さんともう一度考え直す必要がある」としたが、最終的にライトスタンドの一部を永久保存する以外は全面解体することが決定した。2012年2月28日を以てライトスタンドの一部(幅約35メートル、高さ約6メートル)を残して解体された。

建設に至るまでの経緯

ナイター球場建設構想

1952年、「広島市にナイター設備を備えた球場を作ろう」と言い始めたのは、当時のカープを金銭面からバックアップしていた東洋工業松田恒次社長だった。カープの石本秀一監督はその言葉に有頂天となり、自ら球場設計に取り組んだとされる。翌1953年になると、広島市民の間でも「ナイター球場待望論」が日ごとに高まり、中国新聞社へは読者からの投書が相次いだ。

こうした待望論が一気に高まりを見せたのは、当時、カープを除く他球団が本拠地へナイター設備を次々に導入したためである。その一方で、当時の水準から見ても設備面で見劣りした広島総合球場にナイター設備などあるはずもなく、カープ主催の週末の試合は、日曜日昼間に必ずと言ってよいほどダブルヘッダーが組み込まれており、炎天下での連戦を強いられた選手達の疲労は並大抵なものではなかった。また広島総合球場は、当時交通の便が悪い上にスタンドのキャパシティも小さく、さらに炎天下での観戦を強いられるとあっては、観客増による増収で球団経営の安定を図ろうにも限度があった。

1954年、広島市の浜井信三市長と広島市議会議長が、東京で開かれた「広島市建設促進協議会」の席上にてナイター球場の話題で花を咲かせたことがきっかけとなり、同年3月、広島市議会に「市営野球場設置対策委員会」が設置された。さらに8月には、同委員会に広島県、地元経済界、カープ球団が加わった「市営市民球場建設促進委員会」へと発展し、そして10月には「広島市基町へ市税を使わず市営ナイター球場を建設する」という結論が導き出された。

だが、ナイター球場の建設予定地とされた基町には、通称「十軒長屋」と呼ばれた市営住宅が多数存在し、住人達は「自らの住む住宅を潰してまでナイター球場を作るのは不当だ」と激しく反発、連日に渡って市役所前で計画再考を求めて抗議運動が行われる事態になった。その一方でカープの後援会側は、「何故早く建設しないのか」と浜井市長に再三に渡って詰め寄り、55,000人の署名簿を広島市に提出するなど、利害関係は入り乱れ、ナイター球場建設の先行きは全く不透明な情勢になった。

旧日本軍西部第二部隊営庭跡地にて着工

1955年4月、「ナイター球場は市民のレクリエーション施設として、ぜひ建設したいと考えているものの一つ」との公約を掲げた渡辺忠雄が広島市長に当選した。

渡辺は住人の反対運動により家屋の立ち退きすらままならくなった基町に見切りをつけ、代替として「広島護国神社内の敷地」を建設地とする意向を示した。しかし、同神社の広島城跡への移転問題や都市公園法が絡んでいたため、文部省の文化財保護委員会から猛反対を受け、やむなく1955年10月、さらなる代替として「旧日本軍西部第二部隊営庭跡地(以下、旧二部隊営庭跡地)」を建設地とする考えを示した。だが、同地については合同庁舎建設予定地としていた大蔵省建設省が譲らなかった。

1955年12月、広島市議の任都栗司と鈴木龍二セ・リーグ会長、河口豪カープ球団代表が石本建設設計事務所でナイター球場の設計について協議し、翌56年の新春に着工することを発表したが、肝心の建設地は一向に決まる気配が無かった。そのため1956年には、怒ったカープ後援会の会員達が、広島駅構内で東京から帰広した渡辺を待ち構え、吊るし上げる事件まで発生した(市長吊るし上げ事件)。

しかし水面下で広島市側は、当時の自民党広島県連会長肥田琢司の協力を得て、大蔵省・建設省に対して、国有地の無償譲渡が受けられる平和記念都市建設法の適用を視野に粘り強く交渉を続けており、ついに当時の一万田尚登大蔵大臣と馬場元治建設大臣を口説き落とした。1956年7月17日、地元政官界の六者会談を経て、ようやく建設地は中央公園の一部である「旧二部隊営庭跡地」に正式決定した。

さらに1956年9月の広島市議会議長選挙による議長交代をきっかけにして広島市議会の勢力図が一変、派閥争いが一旦収束するのを見計らって、地元財界10社で構成する二葉会は翌1957年1月4日、建設資金1億6千万円の寄付を広島市に申し入れた。それまで市議会の派閥争いやボス議員の利権に利用されてはたまらないと、鳴りを潜めていたのである。

1957年2月1日には「広島市民球場建設世話人会」が発足し、2月22日についに起工式が執り行われた。地元建設会社の増岡組が購入したばかりのブルドーザー1台が連日フル稼働し、超々突貫工事の結果、わずか5か月後の7月22日には完工式が執り行われた。同日夜のナイター設備の点灯式には小雨が降るあいにくの天候にもかかわらず、15,000人の観衆が詰めかけた。

以下、当日の完工式に参加した球団関係者のコメントである。

  1. 河口豪(球団代表):「8年前カープが結成された時、谷川昇会長は『カープは県市民のものであり、成長に伴って立派な衣装をつけたい』と言われたが、それが実現して谷川さんも草葉の陰で喜んでいられるに違いない。この上は新しい器に立派な選手を強化して、ファンの期待に応えたいと思っている」
  2. 白石勝巳:「難波甲子園よりもこぢんまりとして非常に感じがよい。バックスクリーンもよい。文句を言うところは一つもない。これなら十分張り切ってやれる」
  3. 長谷川良平:「マウンドが低い感じがする。確かにどこよりも明るいけれど、カクテル光線はあまり好きではない」
  4. 小鶴誠:「球は非常によく見える。内野の土は非常によく締まっているが、外野はまだそれほどでもないので走りにくいが、これは当分のことだろう」

カープ球団の経営基盤確立へ

ナイター球場の出現は文字通りファンを引きつけた。一番安い外野席の入場料は大人で当時、カレーライスや駅弁、ストリップ劇場の入場料と同じ100円だったが、映画と並ぶ健全娯楽として歓迎された。完成後35試合の観客動員数は61万9千人であり、完成前30試合の12万7千人から飛躍的に伸びた。

独立採算のカープ球団には、財政基盤を固める切り札となった。観客が増えたこともさることながら、カープ球団には球場内売店の営業権が認められており、さらに球場内看板による広告収入の7割5分~8割がカープ球団の取り分とされたためである。現代の指定管理者制度に近い形態であり、当時としては画期的なことであった。

こうして積み上げられた収入は選手補強費に充てられ、東京六大学野球小坂佳隆、社会人野球の4番打者森永勝治西鉄ライオンズでくすぶっていた大和田明ら、これまで金銭面から接触すらできなかった逸材の獲得へと繋がっていった。

歴史

内野より一塁側を撮影(2003年7月)
三塁側より(2004年3月14日、広島 - ダイエー)
左翼ポール付近より(2005年5月、広島 - 楽天)
ジェット風船(2005年5月)
  • 1950年 - 広島カープが広島総合球場(現広島県総合グランド野球場)をフランチャイズとしてセントラル・リーグに加盟。その後、ナイター設備がないことや、観客の収容能力が少ないことなどから近代的な球場の建設が求められた。
  • 1957年1月31日 - 地元財界の建設資金寄付を受けた広島市が、中国地方初のナイター設備付き野球場の建設を決定。
  • 1957年2月22日 - 起工式。
  • 1957年7月22日 - 完工式(第1期工事完了)。観客定員は17,422人で、内野スタンドはバックネット裏部分を除き下部のみ完成していた。引き続き執り行われた同日夜の照明点灯式にはファン15,000人が詰めかける。
  • 1957年7月24日 - 広島対阪神戦で球場開き(ナイター)。試合では選手はみな固くなり当時の二枚看板、長谷川良平備前喜夫が共に阪神打線の猛攻を許し、1 - 15で大敗した。
  • 1958年4月30日 - 第2期工事完了。内野スタンドの増設により、観客定員は24,500人に増加。
  • 1959年 - レフトスタンドの最上段に木製の日よけ設備を設置。これに、西日対策として企業の垂れ幕を取り付けた。
  • 同年10月 - 伊勢湾台風の被災により水没した中日スタジアムで予定されていた「中日対広島」の2試合(中日主管)を被災地復興支援試合として、当球場にて代替開催(後述)
  • 1964年6月30日 - この日広島市民球場で開催された広島対阪神戦で、阿南準郎のプレーをめぐる抗議で2時間30分の中断の末中止となり、この決定に怒ったファンが防球ネットや放送ブースなど場内の施設を破壊。修理を要するため、翌日と翌々日に予定されていた試合が中止された。
  • 1977年 - 外野スタンド増設。観客定員は31,726人に増加。
  • 1978年 - 1957年の開場以来、初となる外野芝生の全面張替を行った。またスコアボードの大時計を、シチズンから贈呈された長方形(縦2.6 m、横4.3 m)のものに変更する。この時計には内部照明が取り付けられておりナイター時の視認性が改善した。さらにブルペンにも時計が設置され、コーチが腕時計で時間を確認する必要が無くなった。
  • 1980年 - 広島東洋カープが、初めて広島市民球場で日本シリーズ優勝を達成。
  • 1982年 - 球場周囲の園路の整備が行われ、球場外壁が、濃い緑から明るいベージュ系の色へ塗り替えられた。
  • 1984年5月 - 西日対策として、レフトスタンド後方に設置されていた木製の日よけ設備を、可動式大型広告板へ換装。
  • 1987年 - 1985年以来の内野席二層化工事が完成。1986年のシーズンは三塁側のみに2階席を増築。1987年に残った一塁側とネット裏の2階席が増築され全面竣工した。またこの際、内野の照明塔は鉄塔式からポール式となった。観客定員は31,984人に増加
  • 1993年 - スコアボードを移設し電光式に。外野の照明塔もポール式になった。
  • 1994年 - 外野フェンスの改修によりラバーフェンスとネットフェンスの繋ぎ目にあった段差を解消。
  • 1994年7月14日 - 一塁側ブルペンに津田プレートが設置される。
  • 1994年10月 - 広島アジア大会野球会場のひとつとなる。
  • 2004年10月30日 - 同県出身の奥田民生によるアコースティックライブ「ひとり股旅スペシャル@広島市民球場」が行われ、初めて球場がコンサートに使用された。
  • 2005年 - スコアボードの得点表示部分・選手名表示部分をフルカラー表示の発光ダイオード(LED)へ換装。なお、大型ビジョン(アストロビジョン)は従来の放電管式を維持した。
  • 2005年7月 - 広島市長が、広島市民球場の後継施設となる新球場を広島市南区東駅町に建設することを表明。
  • 2008年9月28日 - 最後のセントラル・リーグ公式戦(通算3182試合目)となる対ヤクルト戦が行われ、6-3で広島が勝利。
  • 2008年12月6日 - 広島市民球場お別れイベントとして「カープOBオールスターゲーム」を開催。
  • 2009年1月19日 - 津田プレートが新球場に移転のため取り外される
  • 2009年3月 - 広島市民球場で最後のオープン戦4試合を開催。
7日・対東北楽天ゴールデンイーグルス、8日・対千葉ロッテマリーンズ、14日・対東京ヤクルトスワローズ、22日・対阪神タイガース
  • 2009年4月1日 - 「広島市民球場」の正式名称をMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島に委譲し、当球場は「旧広島市民球場」と改称。その後、旧食堂スペースに旧日本銀行広島支店で展示されていた折りづる展示スペースが移動する。
  • 2010年3月31日 - 一般向け利用を含めたグラウンドでの催事を一時終了。折りづる展示スペースは継続。
  • 2010年5月1日 - 同年7月31日までの暫定利用を再開。
  • 2010年6月22日 - 開場期間を1ヶ月延長し、同年8月末の閉場が決定。
  • 2010年7月25日 - 高校野球公式戦として最後の試合となる広島県大会準々決勝2試合が実施される。
  • 2010年8月30日 - 球場の設計図などの資料が、広島市公文書館に移動する。
  • 2010年8月31日 - プロ野球広島カープのOB選手と地元の大学生で記念の交流試合を行う。17時過ぎに「旧広島市民球場」の看板が撤去される。
  • 2010年11月29日 - 解体作業に着手。
  • 2010年12月20日 - 重機による本格的な解体作業を開始。
  • 2012年2月28日 - ライトスタンドの一部を残して解体。


設備

フィールド

阪神甲子園球場ほっともっとフィールド神戸と並び、プロ球団の本拠地球場としては現在では少なくなった天然芝球場(ファウルゾーンを除く)である。両翼91.4メートル、中堅115.8メートルという外野は、プロ球団の本拠地球場の中では一番狭かった。

このフィールドの狭さは、球場完工式に引き続いて行われたナイター設備点灯式に招待された小西得郎がすぐに指摘しており、本塁打の出やすさと相まって本球場の大きな特徴であった。

  • 天然芝

  • 外野フェンス際のアンツーカー

客席

1986年に改修された、内野スタンドは二層式で収容人員約20,000人、外野は収容人員約12,000人、計32,000人ほどを収容できるとされた。また、内野の上層スタンドがかかる同下層スタンドの一部を除き、屋根は無し。内野の客席は、ほとんどが背もたれの付いた独立式(一部はベンチ式)、外野の客席は全てベンチ式であった。外野スタンドの左中間と右中間の一部に外野指定席を設定していた。

  • 内野指定席1

  • 内野指定席2

  • 内野・外野自由席

内野2階スタンド

(左)2階スタンドに上がるには、まず1階スタンドの階段を登る必要がある。
(右)段差は不揃いで階段幅も小さかったため、躓く観客が多かった。

本球場の大きな特徴が「増設された内野2階スタンド」であった。1980年代に入って内野席の拡幅が検討され始めたことに伴って、それによる座席数の減少を防ぐため、内野2階スタンドの増設が決まった。

しかし、1層式のスタンドの球場が主流の日本で、後になって2階スタンドが1階スタンドの上に増築された例は他に無い。建設当初の設計には、2階スタンドの増設に必要な建物強度など織り込まれていないためである。本球場では、2階スタンドと既存スタンドの基礎部分を建物剛性面を配慮したことにより一体化し、さらに予想される重量増による地盤沈下に対応するため、基礎の設置面積を拡大すること等、様々な工夫を凝らすことで対応した。1985年から、オフシーズンを工事期間とし、約2年の歳月をかけて、1987年に2階スタンドは完成した。

内野2階スタンドは、従前からの1階スタンドを通過しないと辿り着けないアクセス面の不備や、最前列に設けられた横通路を行き交う観客でグラウンドへの視界が遮られることや、既存スタンドの強度が配慮された結果、重量がかさむ屋根が設置できなかったことなどから人気は低迷した。客席稼働率は25%程度にとどまり、さらに値段が高いバックネット裏付近のA指定席にいたっては17%程度しか売れず、カープ球団は後々まで集客に苦労することになる。元々1層式スタンドとして設計された球場であったため、改修にも限界があった。

こうした教訓は、後のマツダスタジアムコンコースを中心としたアクセス面の設計に反映された。

  • 2階スタンド

  • 2階スタンド A指定席からの眺め

スコアボード

電光式スコアボード。放電管式であったために2000年代には旧式化、保守が困難になる

以下、特に断りのない限り広島東洋カープ主催試合を想定した説明である。

開場当時から1992年までの35年間使われた初代のスコアボード(右中間に設置)はパネル式。最上段は開場当時は大時計のみであったが、後に両サイドに中国放送の広告を設置した。打順表示はイニングスコア部を挟んだ両サイドにそれぞれのチームの出場選手名を表示していた。また表示方式にも特徴があり、現在の打者をランプ(信号灯)で、出塁している走者は打順ランプの外側を囲うネオン管を点灯させて表示していた。またスコアボード棟の内部は3層構造でクーラーも無く、夏場は涼むためスコアボードのパネルを空けて係員が涼をとっていた(のちにスパイ容疑が掛かることになる)。中央に得点掲示板、その下に審判団・カウント表示・打率及び本塁打数表示、下段には他球場の途中経過(セ・リーグのみ)と次回試合日程が出ていた。パネル式時代のスコアボードは最大16回までと合計得点、安打、エラーを書き記すことが可能だったが、スコアが見づらくなるという理由から晩年は合計得点を表す「R」部分には表示をしていなかった。

1994年アジア競技大会開催に合わせて1992年オフに総工費約50億円を掛けて改修を行い、1993年からスコアボードは中堅バックスクリーン上に移設され電光式となり、松下電器産業製の大型映像装置「アストロビジョン」も一体化して設置された。しかし旧来の放電管方式だったため保守部品の消耗が早く、設置から10年を経過してそれらの入れ替えもままならなくなった。例えば2004年グレッグ・ラロッカが打撃練習した際、メンバー表の表示画面にボールが直撃、3週間以上そこの部分だけ何も表示されず、例として緒方の表示が「緒_」、または木村拓が「木村_」となっていた(“_”は空白)。2005年LED式に改装され、ポジションの数字が大きくなり、ネーム部分は幅がやや狭くなった。表示部は1993年以来の配置を踏襲し、横スクロールで左翼側に映像装置、右翼側に得点(10回まで)と出場メンバー表示が出来るようになっている。また打者はもちろん、塁に出た走者に対しても白地の文字が黄緑色で表示されるという他球場にはない特徴も、パネル式時代の表示方式を踏襲し続けている。スコアボードの得点表示部は、電光化当初は「青地に白文字」で表示していたが、放電管の消耗が著しくなった2000年頃から「黒地に白文字」に設定を変更して点灯部を減らし、放電管の負荷を軽減させていた。LED式に改装後は以前と同様「青地に白文字」に設定を戻している。

電光化以降、スコアボードの球団名は「〜ズ」といったチーム名表記ではなく、頭の地名などを使用している。そのためセ・パ交流戦では北海道日本ハムファイターズが「北海道」、千葉ロッテマリーンズが「千葉」、福岡ソフトバンクホークスが「福岡」、など、マスコミが多用する企業名表記とは違う表示だった。2006年からは北海道日本ハムファイターズは「日本ハム」、東北楽天ゴールデンイーグルスは「楽天」の表記になった。東京ヤクルトスワローズはこれまで通り「ヤクルト」だった。なお、元中日ドラゴンズトマス・デラロサの表示方法は、「デ ラ ロサ」。また審判員の表示部が設置されていない。広島戦では試合前の先発メンバー発表時にビジョンの画面上で表示し、試合中の表示は一切行わない。

可動式広告板

可動式広告板

当初の建設計画においては、本塁は北西に置く計画であったが、建設省から「文化施設のそばに正面玄関が位置することになり騒音上好ましくない」(当時、児童文化会館が建設予定地北側に存在した)、「外野スタンドの裏側がメインストリートに面し、背を向けるのは景観上好ましくない」等、注文を付けたため、設計は変更され本塁は南南東に置かれることになった。そのため西側のレフトスタンド背後に沈む太陽の直射日光が打者や捕手のプレー、特に三塁側からの送球に対する一塁手の捕球を妨げたり、ホームチーム側の一塁ベンチを直撃するようになった。

こうした問題点は建設当時の広島市助役が、「選手としてはやりにくいのは私もシロウトではないからよく分かっているが、建設省がこれでやれと言うのだから仕方がない。」と漏らす等、早期から認識されており、そのため完成当時は一塁側・三塁側のどちらのベンチを使用するか、ルール上の選択権がホームチームにあることを利用し、デイゲームではホームチームの広島が三塁側ベンチを使用することがあった他、ナイトゲームでも太陽が完全に沈むまで試合を開始しない措置がとられることもあった。

1959年にはレフトスタンドの最上段に木製の日よけ設備が完成、これに企業広告を兼ねた垂れ幕を張ることで、試合に支障をきたすほど深刻な問題となっていた西日の影響を緩和することが出来るようになった。この日よけ設備は、1984年に可動式の大型広告板へと発展した。

場内アナウンス・効果音

以下、特に断りのない限り広島東洋カープ主催試合を想定した説明である。

場内アナウンスは試合前の両チーム先発投手の紹介の際、名前・背番号のみならず、その投手のシーズン成績(その時点まで)を「○○投手は□試合目の登板、○勝△敗セーブ□でございます」のように読み上げる。これはかつて市民球場に大型映像装置など情報を表示するための設備がなかった頃から続けられているもので、その名残りといわれている。2007年までは試合前だけでなく、継投の際にもアナウンスが行われていたが、2008年からはビジョンに勝敗とセーブを表示するようになったため、アナウンスは省略された。

広島・相手の選手に関わらずホームランが出た時には球場独特のファンファーレが鳴る。ほぼ10年周期で曲が変わり、2004年まで4代にわたって使用された。1980年頃まで使用されていた初代ファンファーレは、ホームランとカープ勝利時に鳴らされた。また、試合開始時と7回裏の開始時(ラッキーセブン)には当時のホームランファンファーレをアレンジしたファンファーレが鳴り、その後アナウンスが流れた。ちなみに、この初代ファンファーレは、現在笠松競馬場重賞ファンファーレに使用されている。1982年から1992年まで使われていた2代目ファンファーレが特に有名で、今なお根強い人気を誇り復活を望む声が多い。1993年、スコアボードを電光式にリニューアルした際に3代目ファンファーレに一新され、その後広島の選手専用の4代目ファンファーレを導入。3代目は相手選手にのみ使われるようになった。なお、2005年以降は鳴らなくなった模様。

放送ブース

放送ブースはバックネット裏(グラウンドの最前列)と、1階席と2階席の中間の2箇所に設置された。

テレビの中継でも頻繁に映っているバックネット裏のブースはラジオ放送用に使われ、選手のプレーを間近で見る形で放送することとなり一塁寄りから順番に第1放送席から第4放送席まである。第2放送席はNHKが、第3放送席はRCCが所有していた。

なお、球場の排水設備が充分では無かったため、グラウンドから流れ出る雨水がラジオ放送用ブースまで侵入してくることもしばしばあった。ある時、RCCの上野隆紘は、大雨で床が水浸しになった放送ブースから解説者の石本秀一を背負って運び出したこともあったという。

照明設備

照明塔(2006年1月)
  • 1957年の開場当初は支柱がスタンドにせり出す形での鉄塔式であった。1基あたり高圧水銀灯234個、白熱電灯414個を備え、「230万燭光の明かりを持ち、甲子園より明るい球場」と謳われたように、当時としては先進的なもので、球場の最大の売り文句になっていた。投捕間の最大照度は1300Lx。
  • 1986年から2年かけて行われた2階席設置工事に伴い、死角を作っているスタンド内の支柱を外し(1986年に三塁側、1987年に一塁側、1993年に外野席側も)、スタンド後部に支柱を置く鉄柱方式に変更された。1基あたり高圧ナトリウム灯246個、メタルハライド灯396個を備えた。投捕間の最大照度は3073Lx。
  • 2009年4月以降もナイター設備はそのまま残ったものの、経費削減のためナイター用電源は使えないようにされ、夜間開催は出来なくなった。


トピックス

  • 原爆ドーム広島平和記念公園に近く、原子爆弾が広島市に投下された8月6日(原爆忌・広島平和記念式典)は市民球場の「休場日」であった。これは同日が広島市の条例で定められた市職員の業務休止日であり、それに伴い市民球場も休場日になることによる。カープは同日、開場年の1957年と翌1958年の2シーズンは市民球場で主催公式戦を開催していたが、前述の事由や式典開催による市内中心部の交通事情の問題などもあって翌1959年以降、同日に主催試合が組まれた場合は福山市福山市民球場尾道市しまなみ球場などで行った。
    • ただ、被爆60周年にあたる2005年頃から「原爆の日に市民球場で公式戦をして欲しい」という意見が市民やファンから寄せられていた。「市民球場は広島市の復興のシンボルであり、カープの試合を通じて平和の喜びをかみしめたい」などといった事がその理由である。こうした意見を受けて2007年夏、市は広島球団に対し翌2008年、市民球場最終シーズンである事に因み、同日の市民球場での公式戦開催を要請した。球団側も「原爆の日に、市民球場で試合が出来るのは最後のチャンス。(記念式典で)全国から多くの方が集まる日でもあるし、日程が取れればやりたい」と前向きであり、実現すれば応援団にトランペットや太鼓など鳴り物の自粛を呼びかける方針も決まっていた。結局、同日の広島はビジターの対阪神戦(京セラドーム大阪)となったため実現には至らなかったが、新球場移転後の2011年8月6日に広島市で53年ぶりの公式戦(対読売ジャイアンツ戦)を開催することになった。なお旧市民球場最後のシーズンである2008年からは、ピースナイターとして、8月6日前後の主管試合で、戦争の記憶を風化させず、世界平和を訴えながら、カープの繁栄の歴史を後世に伝えるためのキャンペーンを実施している。
  • 球場が開場した1957年、カープはオールスター戦まで32勝26敗と健闘したが、オールスター戦後は7月22日に球場が開場したにも関わらず、22勝49敗と大幅に負け越してしまった。そのため市民の間で、「ナイター球場には何か祟りがあるのではないか」と噂されるようになってしまった。当時、球団代表の河口豪も知り合いの神職から、「この球場の左翼あたりは原爆により多数の市民が爆死した場所だから、その霊を慰めるよう神に祈願をかけなさい」とアドバイスを受けたため、1958年以降、シーズン前に広島護国神社厳島神社へチーム全員が参拝必勝祈願することが恒例となった。
  • 屋根がないために雨天中止・順延の可能性があり、球場史の終盤においては日米野球など日程の詰まっている大会では市民球場の使用が敬遠される傾向にあった。また1995年を最後に市民球場でのオールスターゲームは行われなかった。2002年の広島主管に相当する試合は松山坊っちゃんスタジアムで開催され、かつ地方開催のため日本野球機構の主管開催となった。なお、2009年に新球場で開催された。
出典:wikipedia
2018/01/15 12:20

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「広島市民球場_(初…」の意味を投稿しよう
「広島市民球場_(初代)」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

広島市民球場_(初代)スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「広島市民球場_(初代)」のスレッドを作成する
広島市民球場_(初代)の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
無料コミックを探す
占い・診断
着メロを探す
GAMEを探す
デコメを探す
きせかえツールを探す
FLASH待ち受けを探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail