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広瀬叔功とは?


監督・コーチ歴


野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
1999年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


広瀬 叔功(ひろせ よしのり、1936年8月27日 - )は、広島県佐伯郡大野町(現:廿日市市)出身の元プロ野球選手(外野手内野手)・監督野球解説者南海ホークスがパ・リーグの盟主として君臨した1950年代後半-1960年代に「鷹の爪」とも呼ばれたリードオフマン。愛称は「チョロ」。

通算盗塁数歴代2位、通算盗塁成功率歴代1位。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 現役時代
    • 1.3 引退後
  • 2 プレースタイル
    • 2.1 盗塁術
    • 2.2 打撃
    • 2.3 守備
  • 3 人物
    • 3.1 ニックネーム
    • 3.2 身体能力
    • 3.3 飛行機恐怖症
    • 3.4 交友関係
      • 3.4.1 野村克也との関係
      • 3.4.2 門田博光との関係
      • 3.4.3 鶴岡一人との関係
  • 4 広瀬の登場する作品
  • 5 詳細情報
    • 5.1 年度別打撃成績
    • 5.2 年度別投手成績
    • 5.3 年度別監督成績
    • 5.4 タイトル
    • 5.5 表彰
    • 5.6 記録
    • 5.7 背番号
  • 6 関連情報
    • 6.1 出演番組
  • 7 脚注
    • 7.1 注釈
    • 7.2 出典
  • 8 参考文献
  • 9 関連項目
  • 10 外部リンク

経歴

プロ入り前

大工の父・千代治と母・マツ子の間に7人兄弟の6番目として生まれた。小学生だった1945年8月、学校での朝礼中に広島市への原子爆弾投下を目撃している。中学では野球をしていたが、7つ上の姉は中学校教師で嫁ぎ相手も中学校教師、次の姉も広島大学教授に嫁ぐという家庭に育ち、広瀬も大野小学校・大野中学校のころは将来は学校の先生になると決めており、普通科のある広島県立大竹高等学校に進学した。父・姉も広瀬が高校で野球を続けることには反対し、「野球をやらない」という一札を本人からとっていた。父は「広大にでも入ってもらいたい」と思っていたが、入学後、毎日のように野球部から勧誘を受け、広瀬は家族に黙って「とうとう野球部に入ってしまった」という。

高校時代は2年生秋から投手をし、3年夏にはエースで4番を務める。二塁走者をけん制しようとしたが、野手が動かないので、マウンドから二塁へ向かって走り走者を刺した、という逸話を残している。高校の後輩の一人にはやはり俊足で鳴らした簑田浩二がいる。

2年生の時に先輩の森内勝巳に誘われ、地元・広島カープの入団テストを受けて共に合格した。森内は卒業と同時に広島に入団した。遊び半分で受けただけの広瀬は広島には入らなかった。

大竹高校は全国高等学校野球選手権大会予選にも勝てない弱小高校で、広瀬にも注目は集まらなかったものの、1954年の予選敗退後に当時の監督・鶴岡一人の知人・上原清治(広商で鶴岡と同窓)の強い勧めで南海ホークスの入団テストを受ける。上原は広島県下の有望な高校生を次々南海に送り込んでいた。テストでは中百舌鳥球場での2軍練習参加の翌日に大阪球場での近鉄パールス2軍との試合に先発を命じられ、3回を投げて1被本塁打3失点という内容で、ネット裏で観ていた鶴岡は「大したピッチャーとちゃうで。法政に行かせとけ」と言ったが、上原の推薦で入団が決まった。

入団テスト後、高校を卒業するまでは陸上競技に手を染め、走幅跳で県2位になったのをはじめ、円盤投砲丸投でも表彰状をもらい、早稲田大学順天堂大学から陸上選手として勧誘を受けた。教員志望だったため早稲田に心が傾いたが、高校の教師から「あの鶴岡さんが監督をされている名門チームなんだから」と南海に行くよう勧められる。

現役時代

首脳陣にアピールするため、1年目(1955年)のキャンプでろくに肩も作らず投げ込み練習を続けた結果、肘を痛め、投手としての練習をこなせなくなった。広瀬は高校時代から武器にしていた持ち前の俊足と強肩を活かすため、野手に転向することを思いつき、6月に自ら二軍監督に申し出て転向した。当初は外野手であったが、のち内野手となった。

2年目の1956年、4月26日の阪急ブレーブス戦で新人の米田哲也から公式戦初打席安打、7月29日の高橋ユニオンズ戦にはスタメン出場を果たし4打席4安打、初盗塁も決めた。7月31日の大映戦でも2打席安打を続け、プロ初打席から7打席連続安打を記録した。当時、パ・リーグ記録部に勤めていたスポーツライターの宇佐美徹也は「塁間をするすると滑るような"トカゲ"を思わせる走塁に、当時のネット裏は大変な選手がでてきたものだと、異常な興奮に包まれたのを覚えている」と語っている。

1957年、シーズン途中から遊撃手に抜擢され、同年は114試合に出場して打率.284(規定打席未達)、25盗塁を記録してレギュラーに定着。1958年には120試合に出場し、33盗塁とリーグ7位の打率.288を残して成績を上げていった。

1959年にはリーグ4位の打率.310を記録するなど遊撃手としてチームの日本一に貢献。

このころはまだ盗塁王でもなく盗塁成功率も6~7割台と低かったが、1957年のレギュラー定着時から「プロ随一の快足」として評価されていた。一方で、遊撃手としては、守備範囲が広く無類の強肩であったが悪投が多く(後述)、1958年には葛城隆雄と並ぶリーグ最多の42個の失策を記録している。

1961年、入団してきた小池兼司の遊撃守備を見て、守備が自身よりも堅実な小池に遊撃手を任せた方がチームのためになるのではないかと考えた広瀬は、監督の鶴岡一人に自ら提案し、8月から外野手(中堅手)に転向した。同年にリーグ10位の打率.296、42盗塁の成績で盗塁王に輝くと、1965年まで5年連続盗塁王となり、リードオフマンとして杉浦忠野村克也皆川睦雄らと南海の黄金時代に大きく貢献した。ダイヤモンド一周/13秒9、50メートル/5秒5の俊足とグラウンドを駆け回る好守で鳴らし、「プロ野球のスピード感を変えた男」ともいわれた。広瀬の活躍は、1964年から日本野球機構シーズン最多盗塁を公式の個人表彰項目とする大きな要因となった。

1963年(同年と翌1964年の2年間のパ・リーグは150試合制)にはリーグ5位の打率.299を記録。187安打を残して最多安打となり、これは1994年イチローに抜かれるまで31年にわたってパ・リーグ記録だった。同年の676打席は2005年に赤星憲広に抜かれるまで日本記録、2010年に西岡剛に抜かれるまでパ・リーグ記録だった。なお、626打数は日本記録である。

1963年オフ、当時あったA級10年選手制度が近かったことから、満額のボーナス目当てに初めて猛練習を自身に課した。後年に「後にも先にもあれほど練習したことは無い」と語るほどの状態で迎えた1964年3月14日の開幕から安打を量産すると、89試合目まで打率4割を維持(1989年にウォーレン・クロマティに抜かれるまでプロ野球最長記録)した。シーズン前半はしばしば3番打者も務め、2本塁打を含む5打数5安打、7打点を記録した試合もあった。しかしシーズン途中の6月17日、尾崎行雄の速球を打ち返して二塁打にした際に左手首を痛め、以降は腱鞘炎に苦しむようになった。手首を痛めてからはスタメンを外れたが、優勝争いを続けるチームのため、治療を続けながら代走で試合に出場。8月中旬には何とかスタメン復帰したものの、右手一本で打つようなシーンも多くなり、後半戦は調子を落とした。それでも最終的には2位に位置した張本勲の打率.328に大きく差をつける打率.366・72盗塁という自己最高の成績で、首位打者と盗塁王を獲得。打率.366は1985年落合博満に抜かれるまで長らく右打者の歴代最高打率だった。また、開幕から100安打到達61試合も、1994年イチローの60試合到達まで日本記録だった。日本シリーズでも打率.345を記録するなど活躍し、チームも日本一を達成した。

1965年もリーグ5位の打率.298を記録、39盗塁を残してチームのリーグ優勝に貢献。同一球団での実働10年となり、A級10年選手制度が適用されたが、南海球団側は広瀬が前年に腱鞘炎を患ったことや同年シーズンも故障で離脱していた時期があったことから、満額のボーナス支払いを渋った。長年主力選手としてチームに貢献してきたプライドを傷つけられた広瀬は、球団と大いに揉めた。結果的にこれが球団側の提示する給与面に不満のあった鶴岡に監督退任を考えさせる一因ともなった。

手首の腱鞘炎で選手寿命を縮めた中西太同様、広瀬もこの故障に長く苦しんだ(当時は腱鞘炎は有効な治療法が確立されていなかった)。広瀬の打法は、手首の強さと速いスイングで、球を出来るだけ手元に引き付けてコンパクトに打ち返すものであったが、中西と同じく、手首の強さは故障の原因ともなる両刃の剣であった。1965年までは通算打率もほぼ3割をキープしていたが(4498打数1345安打、.299)、1966年1967年には欠場・長期離脱で規定打席未達となり、球団側の懸念が当たる格好となっている。1968年にはリーグ5位の打率.294、1969年にはリーグ13位の.284を記録したものの、以後成績を落としていき、盛時の成績を残すことは出来なくなった。

1970年8月2日の対近鉄バファローズ戦(日本生命球場、ダブルヘッダー第2試合)で通算480個目の盗塁を記録し、チームの先輩である木塚忠助の保持していた日本記録を更新する。10月14日の阪急ブレーブス戦では、1試合だけ投手として登板し、二回を2被安打3四球無失点で切り抜けた。これは試合が阪急のワンサイドとなった時点で、兼任監督の野村克也から敗戦処理として「投げてみいひんか」と声をかけられたものだった。

1972年7月1日の西鉄戦で、史上6人目となる通算2000本安打を達成。

現役晩年は左手首の腱鞘炎に加え、右肩を痛めるなど、故障との闘いであった。1973年からは極端に出場機会が減り(後述)、引退を考えたが、球団からは「もうちょっとやってくれ」と言われ、兼任監督であった野村克也からも「ピンチヒッターがおらんやないか」として断られ、現役を続行。1977年に引退した。現役最後の年の7月6日、後期緒戦となる対阪急ブレーブス戦(西宮球場)において、阪急の福本豊が広瀬の保持していた通算盗塁記録を更新する597盗塁を記録。このとき広瀬は中堅手の守備に就いており、「日本新や600盗塁と小さいことをいわず、世界記録をねらってほしい」というコメントを残し、中途で交代して球場を後にしている。

広瀬は1977年のシーズンで引退することを決めており、引退後は1年間渡米してメジャーリーグベースボールを視察する計画を立てていたが、実現しなかった。

引退後

現役引退後は解任された野村克也の後を受け、南海の監督となり、1978年から1980年の3シーズンを務めた。突然の監督要請を受け「球団代表も困り果てていて、何とか引き受けてくれ、という感じで頼まれては、断り切れるものではない」として否応なく引き受けた。野村解任騒動でバラバラになった選手の気持ちをまとめようと「団結と和」を基本理念に掲げスタートを切った。しかし広瀬監督就任の段階で、江夏豊は野村に同調して球団のやり方に納得できないとして広島へ移籍、柏原純一も同様に南海球団に反発して日本ハムへ移籍した。

広瀬の在任中には、金城基泰の抑え転向(1979年に最優秀救援投手)、片平晋作の一塁レギュラー定着(1979年には打率.329をマーク)、村上之宏の新人王(1978年)、などの明るい面もあったものの、野村退団に伴う主力選手の移籍(前述)や、チーム再興の柱と期待していた主砲門田博光のアキレス腱断裂(1979年)もあり、戦力は整わず成績は下位に低迷した。広瀬は、古き良き「鶴岡時代」への回帰を目指し、野村の野球を継承せず、「泥まみれ野球」を標榜、ユニフォームも復古調のものに変更(鶴岡監督時代の象徴でもあった肩と袖の太ラインを復活)することも含め、野村色を一掃した。スコアラーの提出するデータをあまり重視しなかったため、南海に29年在籍した尾張久次は南海を退団して西武ライオンズへ移籍した。藤原満らを中心に「団結と和」は達成されたが成績には結びつかなかった。藤原は「広瀬さんが監督になられて、全く違う野球になった。いいとこだけをうまく継承してもよかったかなとは思いました。」と語っている。

広瀬自身は「誰もおらんからやってくれ、そんな感じだった。」「そのころの南海電鉄には、昔のように資金もないし、球団の人気もない。だから選手を集めることもできない。」「投手不足でマネジャーの上田卓三を現役復帰させたりした。」「楽しい思い出がほとんどない監督生活であった。」などと語っている。

監督辞任後、1981年から1990年にかけてNHK野球解説者(この時は全国中継にも出演)。1990年スポーツニッポン野球評論家も兼務。1991年から古巣・南海の後身であるダイエーの守備走塁コーチに就任。1991年には、大野久(42)、佐々木誠(36)、湯上谷宏(30)と30盗塁以上3人を輩出して大野は盗塁王を獲得、両リーグトップのチーム盗塁(141)を記録した。翌年(1992年)、佐々木誠は首位打者と盗塁王を同時に獲得している(広瀬が達成して以来、史上二人目。1995年イチローも達成)。1992年退任。

1999年野球殿堂入り。

1993年からはNHK広島放送局野球解説者(基本的にローカル放送のみ出演)だったが2015年まで出演。 現在は日刊スポーツの野球評論家を務め、居住地も大阪府から故郷の広島県に移している。

プレースタイル

盗塁術

通算盗塁数は歴代2位の596を残した。シーズン最多盗塁死は1度も記録せず、通算盗塁成功率82.9%(596盗塁123盗塁死)は、300盗塁以上の選手では歴代1位の記録である。「僅差の場面でしか走らない」「打者が2ストライクに追い込まれたら走らない」等、有用な場面でのみ盗塁を仕掛ける職人肌の選手で高い盗塁技術を誇り、1964年3月から5月にかけて31連続盗塁成功と、1968年にシーズン盗塁成功率95.7%(成功44、失敗2)といういずれも日本記録を持っている。

一塁から3メートル80という並外れたリードを取り、スタートしてすぐスピードに乗り、二塁ベースの手前まで全力で走り、短いスライディングで二塁を陥れた。1964年のシーズンに広瀬が4割近い打率を挙げ、さらにあまりにも走るので、日本野球機構は盗塁王を同年から連盟表彰にした。それまで日本では盗塁はあまり評価されておらず、広瀬は盗塁を認知させた最初の選手である。

オリオンズ一番の俊足でプロ野球史上屈指の投手守備を誇った荒巻淳は、1956年9月8日の対南海戦で、一塁に代走で出た広瀬に対し、次打者(木塚忠助)の送りバントで二塁へ送球し野選、次々打者(蔭山和夫)の送りバントで三塁へ送球し再び野選、としたときに受けた衝撃を「バントが転がされた瞬間、アウトにできるか、できないか経験上ピンとわかる。95%は的中します。(このときも)アウトだと確信して二塁・三塁へ送球した。ところがセーフなんです。送りバントで二封できる、三封できる、と私が判断してセーフになったのは広瀬が最初でした」「広瀬は野球革命者なんですよ。たんなる盗塁王とか、脚が速いというだけではなく、彼のスピードは野球を革命しましたよ」と述べている。これを、スポーツライターの近藤唯之は「本塁打革命者は大下弘であり、脚の革命者は広瀬である」と表現している。

セ・リーグの盗塁王柴田勲とは格が違い、1963年の週刊朝日による、広瀬と柴田にダイヤモンドを1周競走させるという企画(別々に走る2人を一緒に走ったかのように写真で合成)では、広瀬が本塁を踏んだとき、柴田はまだ本塁の3メートルほど手前を走っていたという。

通算479盗塁・通算盗塁成功率80.8%を誇る先輩盗塁王である木塚忠助は、広瀬の盗塁を「ぼく(木塚)の全盛時代と彼(広瀬)を比較すれば、スピードとスタートでは負けないと思うけれど、真似できないのは、ベース寸前でも全然スピードの落ちないあのスライディングだ」と評している。

通算350盗塁を記録し、盗塁王も2度獲得している吉田義男は、「広瀬の足は私らとはけた違いに速かった。ベスト3は、広瀬、福本、3番目は…中(利夫)も速かったけど、屋敷(要)かなあ」として、広瀬を1番に挙げている。広瀬と同時代に南海を背負い、福本とも対決してきた野村克也も「福本も確かに速い。だけど、あのバネと速さは、やっぱり広瀬の方が上やと思うね」と述べている。

広瀬の盗塁に「何度ほれぼれしたことか」と賛辞を贈る宇佐美徹也は、出し惜しみせずにもっと走っていれば、通算最多盗塁記録を現役最後の年に目の前で福本に更新されるということもなかったであろうと惜しむが、記録のために走ることはなく、元来淡白な性格で、記録に執着することもなかった。「週刊ベースボール」(1969年5月12日号)誌上でも「記録を必要以上に意識することの多い現在(1969年)のプロ野球選手の中にあって、広瀬のような存在はまことに珍しい(記録の手帖)」と評されている。この姿勢は現役最後まで貫かれ、通算600盗塁が目前に迫っても記録達成にこだわることなく引退した。

大沢啓二は「ここ一番って時にだけ走るわけよ。勝負のかかった大事な場面でな」「試合が終わってみると、あの盗塁が試合を決めたということが多かったな」と語っている。また、阪急ブレーブスの正捕手であった岡村浩二は自身のブログで、現役時代に「この選手は本当に速いな」と感心したのは福本と広瀬、とした上で、「ここで走られたら困る場面で、必ず成功させるのは広瀬さんでした。南海ホークス戦前夜は広瀬選手がケガで休んでいれば良いのにと、何回も思いました」と語っている。同じく、阪急ブレーブスの二塁手であったダリル・スペンサーは、「広瀬が一塁に出たときは、ムダなことはしない。僕はもう二塁ベースに入らない。河野遊撃手も入るな。そして捕手は二塁に投げずに三塁に投げたらいいんだ」と自嘲気味に語ったという。また、杉浦忠は「数字だけを狙っていたら、おそらく毎シーズン100盗塁以上はやっていたでしょう」と述べている。

松下電器時代、監督に「社会人野球の広瀬になれ」と言われ、広瀬と同じ背番号12をもらい、広瀬を見たい一心で大阪球場に頻繁に通ったという福本豊は、「広瀬さんは神様やもん。プロに入ってからもそれは一緒よ。相変わらず雲の上の存在やった」「盗塁や走塁で魅せてくれる足も、守備(センター)の際の動きにしても、広瀬さんのスピードは他の選手とかけ離れていた」と述べている。

盗塁スタイルを福本豊と比較すると、宇佐美徹也が「広瀬ほど余裕のある盗塁を見せた選手はほかに見たことがない」と評した姿が浮かび上がる。

なお、広瀬は福本について、盗塁技術の向上のために試合中も失敗を恐れずに走るべきだという福本の主義には「私の考え方と相容れない」としながらも、「ゲームの中で走ることによって、彼は彼なりの方法で盗塁の技術を極限まで高めた。いかなる接戦の中でも1点を取るために盗塁ができる。そんな域まで上り詰めた男である」「私がとやかく言えるような選手ではない」と評している。

西鉄ライオンズのエース稲尾和久との一瞬を巡る駆け引きは、西鉄打線-杉浦忠の対決とともに、西鉄-南海戦の白眉だった。稲尾は当初、通常の左まわりのけん制で広瀬に対抗したが、広瀬を防ぎ切れず、通常とは逆の右回りのけん制を編み出した。これは、右肩越しに広瀬を視角に捉え視野の右隅に広瀬の爪先が入ったら逆回転のひねりでけん制するもので、稲尾曰く「それほど彼(広瀬)には手こずったということなんだ」「俊敏というよりエキセントリックな盗塁というかなぁ」「彼(広瀬)の足を封じるために、右回りを用いた。彼がランナーのときだけ…」というものであった。広瀬もこれに対抗し、撒き餌を撒くように、稲尾の視界に足を入れ、けん制が来ると、上半身の反動を利用してフルスピードで二塁を奪ったという。

他球団が広瀬の足を封じるのにいかに必死であったかについて次のエピソードがある。

また、塁間で一旦挟まれても、動物的カンと走力でなかなかアウトにならなかった。野村克也は「アイツの挟殺プレーはベンチから見ているだけで楽しかった」と述懐しており、広瀬の挟殺プレー見たさに球場へ足を運んだファンもいたほどだという。

1971年秋のドラフトで近鉄バファローズに入団した梨田昌孝は、晩年の広瀬について「一塁から二塁までは、当初いいようにあしらわれた。広瀬さんにはじめて"プロのすご味"を教えられた」「私の知る広瀬さんは三塁へのスチールが天下一品でした。ところが、ぼくがその三盗をアウトにしたのです。うれしかった…。でも、そのとき、広瀬さんは逆に、時の流れを感じたのかも知れませんね」と振り返っている。

オールスターでも盗塁を7回すべて成功させている。

打撃

野村克也は広瀬について、「野球の天才は2人しか知らない。長嶋茂雄と広瀬や。彼らは何も考えないでもすごいプレーが出来た。」、「野球生活で出会った天才が三人いる。一人は長嶋、一人が広瀬、そしてイチロー。」、「彼(広瀬)は来たタマを自在に打ち返せる技術を持っていた」、「バットの素振りしてるのなんて見たことないですよ」、「バッティングに関しては天才肌」、「ピッチャーから野手に転向したときも、素振りくらいするだろうと思っていたら、全体練習でバッティングをちらほらする程度」などと語っている。

広瀬の打撃フォームは打席内で左膝を深く内に入れた状態で構える独特のもので、同時代の選手でもある豊田泰光は広瀬の打撃フォームの連続写真を見ながら「こんな構えは絶対してはいけない。(中略)普通の人はこのように初めから左ヒザを深く入れていたらとても打てない。」と解説している。豊田はまた、「ミートした直後からバットで打球をコントロールしながら同時に走り出している。体の中心線を守りつつ、他の打者より2歩は先んじていた印象。(中略)内野安打の技術はイチローの比ではなかった。」とも語っている。

広瀬は打率ベストテンの常連で、ベスト5入りは5度記録し、まじめに素振りをしたという1964年は4割に近づいた。広瀬自身、「確かに私は"夢中で打つ"タイプに近かったろう」「(10年目のボーナスが懸っていた1964年のシーズンを除き)工夫も素振りもあまりした記憶がない」、「(腱鞘炎になってから後は)以来、素振りはほとんどしなくなった」「首位打者のタイトルも取ったから、目標達成。あとはもうエエわ、そんな感じ」「まあ、今度生まれ変わったら努力するけど、無頓着にやったのが逆に良かったのかも知れんしなあ」と述べている。

野村は打者をA~D型の4タイプに分け、「A型」を「常にストレートに合わせて変化球に対応する理想型」としているが、広瀬が自著で「(「広瀬は何も考えないで打ちよる」とノムやん(野村)が言っているのは知っているが)何も考えなかったわけではない」と前置きしたうえで「その投手のもっとも速い球にタイミングを合わせて、変化球ならばひと呼吸おいてからバットを振りだす」と述べる打撃スタイルは、まさにこの「A型」である。

広瀬を天才としているのは野村だけではない。南海一筋に選手・コーチを長年勤めてきた堀井数男は広瀬について、「ちょっと特殊で、他の選手には真似できない」「ああいう選手は(もう)出てこない(だろう)」「足が速い、肩がいい、カンがいい、人の打てないボールを打つ、そういう特殊な技能を持っていた」、1953年の首位打者・最高殊勲選手である岡本伊三美は「初めて対戦するピッチャーであったとしても、ストライクであれば1球目からバットの芯で捕えてヒットを打つことができた。残念ながら私(岡本)にはできないことだった。」と述懐している。杉浦忠も「(走塁だけでなく)打撃も天才的」としたうえで、1964年に腱鞘炎で打席に立てないときに、ある試合でピンチランナーに出たところ、味方の攻撃が続き打席が回ってきてしまった際のエピソードを伝え、「なんと、左打席に立つと、センター前にヒットを打った」と驚嘆している。鶴岡一人はそのような広瀬を「天才的だが、ちょっと軽はずみなところがある」と評し、森下整鎮国貞泰汎とともに、チームを引き締めるための「叱られ役」としていた。

また、広瀬が打率4割をキープしていた1964年当時、近鉄バファローズの監督であった別当薫は、「日本一の選手は誰か」との問いに、「みんな長嶋、王と騒ぐが、本当の意味の日本一ということになれば、それは広瀬をおいて他にはない」といい切っている。

広瀬がピークを過ぎてのちに南海に入団してきた門田博光藤原満は、天才プレーヤーとしての広瀬を、「選手としてはとにかく別格でした」(門田)、「広瀬さんはとにかく半端じゃなかった。もうあんな選手は出てこんかもしれないね」(藤原)と表現している。

一方で、記録に執着しない淡白な性格は打撃にも影響し、「勝負の帰趨に自分の一打が関係ないとみると、雑な打ち方をすることがある」(鶴岡一人)というところもあった。

広瀬が活躍した1950-60年代はリーグ平均打率が.240~.250ほどの投高打低の時代であったが、打率傑出度(RBA)(各年度のリーグ平均を考慮して補正した相対的な打率)でみると、広瀬の通算RBAは、7000打数以上の打者(41人)では歴代10位に相当する。これは右打者では長嶋茂雄山内一弘落合博満江藤慎一に次ぎ歴代5位であり、リードオフマンとしては福本豊柴田勲よりも上位である。

1番打者の能力を示す指標の一つである生還率「(得点-本塁打数)÷(出塁数-本塁打数)」をみると、広瀬の通算生還率は.421であり、有能な2番打者と強力なクリーンアップの控えていた福本(.401)や柴田(.370)を上回る(6000打数以上の打者(81人)で通算生還率が4割を超えるのは広瀬と福本のみである)。無用の盗塁企図を削ぎ落とした上でのこの数字は、野村の「(広瀬が三塁走者のときは)ピッチャーゴロでもなんでもいいから、前に転がしたら絶対ホームへかえってくる。なんせ、反射神経がすごかった」や杉浦の「(走者になったときの)彼(広瀬)のスタートを切る勘の良さは天才的」「あの勘の良さは"動物的カン"というしかない」という証言とも符合し、広瀬の際立った得点能力の高さを示している。

快速選手らしく、二塁打、三塁打も多く、通算三塁打(88本)は歴代5位(右打者としては歴代1位)、通算二塁打と三塁打を合わせた数字(482本)は歴代7位(右打者としては山内一弘長嶋茂雄に次ぎ歴代3位)である。

本塁打は通算131本と多くはないが、シーズン2桁本塁打を7度記録しており、ポストシーズンやオールスターゲームを含め大舞台での印象的な本塁打を打っている。

固め打ちやサヨナラ安打も多く、猛打賞は通算169回(歴代9位)、サヨナラ安打は通算14本(長嶋茂雄と並び歴代5位)を記録している。

三振の少ない打者でもあり、通算三振率(三振÷打数).074は、6000打数以上の打者(81人)で7番目、7000打数以上の打者(41人)では川上哲治(.056)、新井宏昌(.060)に次ぎ3番目に低い数字である。また、右打者でありながら、シーズン2桁併殺打を記録した年は1度もない。これは2000本安打を達成した右打者としては唯一である(左打者では福本豊石井琢朗新井宏昌柴田勲(スイッチヒッター)が記録)。

守備

投手から野手に転向した当初は二軍で外野手であり、当時から外野守備には自信を持っていた。その後、内野手に抜擢されたが、鶴岡一人曰く「併殺プレーのトスでも、鉄砲玉のような球を投げるという調子であぶなくて見ていられないくらいだった」という状態だった。コーチの岡村俊昭に徹底的に鍛えられ、三塁手・二塁手としてデビューし、1957年からは木塚忠助の後継遊撃手として定着した。遊撃手時代は強肩かつ守備範囲が広く「木塚二世」といわれたが、エラーも多く、強肩が過ぎて大阪球場の内野スタンドに飛び込みかねない悪送球を何度もした。実際に送球がフェンスを飛び越え、スタンド中段に突き刺さったこともあった。阪神の吉田義男を真似をして「捕球と送球の一体化を目指し」たが、早く投げようとすれば意識すればするほど、ボールよりも手のほうにボールが当たり、指先を突き指ばかりしたという(その後遺症で右手中指は太くなり先は曲がった)。

遊撃手時代の1958年には、最終戦(東映戦)で9回に敗戦に繋がるタイムリーエラーをし、1ゲーム差で西鉄に逆転優勝される一因を演じている。「阪神の吉田が南海にいたら南海は優勝していただろう」とのファンの声を聞いて「穴があれば入りたいくらいだった」「もう遊撃手としての資格はないのか…」と思い詰めたという。なお、同年5月10日の東映戦では、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/10/20 19:54

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