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弥生時代とは?

旧石器時代 | – 紀元前14000年頃
縄文時代 | 前14000年頃 – 前4世紀
弥生時代 | 前4/前10世紀 – 後3世紀中頃
古墳時代 | 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 | 0592年 – 0710年
奈良時代 | 0710年 – 0794年
平安時代 | 0794年 – 1185年
王朝国家 | 10世紀初頭 – 12世紀後期
平氏政権 | 1167年 – 1185年
鎌倉時代 | 1185年 – 1333年
建武の新政 | 1333年 – 1336年
室町時代 | 1336年 – 1573年
南北朝時代 | 1336年 – 1392年
戦国時代 | 1467年(1493年)– 1590年
安土桃山時代 | 1573年 – 1603年
江戸時代 | 1603年 – 1868年
鎖国 | 1639年 – 1854年
幕末 | 1853年 – 1868年
明治時代 | 1868年 – 1912年
大正時代 | 1912年 – 1926年
昭和時代 | 1926年 – 1989年
GHQ占領下 | 1945年 – 1952年
平成時代 | 1989年 – 2019年
令和時代 | 2019年 –

Category:日本のテーマ史

弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。

2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。

弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。

目次

  • 1 名称
  • 2 概要
  • 3 時期区分
  • 4 定義の変遷
    • 4.1 江戸時代から
    • 4.2 1884年(明治17年)
    • 4.3 1898年(明治31年)
    • 4.4 1916~21年(大正5~10年)
    • 4.5 1936〜7年(昭和11〜12年)
    • 4.6 1950年代
    • 4.7 1970〜1980年代
    • 4.8 1990年以降
  • 5 弥生文化の発生と展開
  • 6 政治
    • 6.1 戦乱の時代(受傷人骨と環濠集落・高地性集落)
      • 6.1.1 受傷人骨
      • 6.1.2 環濠集落・高地性集落
    • 6.2 倭国大乱
    • 6.3 地域勢力と大型墳丘墓の出現
  • 7 人々の生活
    • 7.1 水田農耕
    • 7.2 家畜利用
    • 7.3 狩猟・漁労
      • 7.3.1 狩猟
      • 7.3.2 漁労
        • 7.3.2.1 縄文貝塚の衰退と弥生時代の漁労
        • 7.3.2.2 淡水漁労の開始
        • 7.3.2.3 各地の漁労活動
    • 7.4 道具類
      • 7.4.1 石器
      • 7.4.2 青銅器
      • 7.4.3 鉄器
      • 7.4.4 土器
      • 7.4.5 木器
    • 7.5 集落
    • 7.6 墓制
    • 7.7 中国との通交
    • 7.8 朝鮮半島との関係
  • 8 弥生人の特徴
  • 9 弥生時代の終焉と古墳時代への移行
  • 10 脚注
  • 11 参考文献
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

名称

弥生式土器

「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する。当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となった。

概要

弥生時代の稲作(国立科学博物館展示の模型)。
弥生人と弥生犬の復元模型(国立科学博物館)

紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州四国本州に広がった。初期の水田は、佐賀県唐津市菜畑遺跡福岡県板付遺跡那珂遺跡群(福岡市博多区)、江辻遺跡群(糟屋郡粕屋町)、曲り田遺跡(糸島市)、野多目遺跡群(福岡市南区)などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米等の存在が北部九州地域に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。

1981年(昭和56年)、弥生時代中期の遺跡として青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から広範囲に整然とした水田区画が見つかっている。その後、弥生時代前期には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、中期には、中央高地松本盆地千曲川流域までひろがった。中部地方の高地にひろがるまでには200年という期間がかかったが、その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育たないということが挙げられる。水稲農耕は、全般的にはかなりの速さで日本列島を縦断伝播の後、波及したといえる。

水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物貯蔵穴を作った。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。 道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。

弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用で穀物の備蓄が可能となったが、社会構造の根本は旧石器時代と大して変わらず、実力社会であった。すなわち水稲農耕の知識のある者が「族長」となり、その指揮の下で稲作が行われたのである。また、水稲耕作技術の導入により、開墾用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果としてやがて各地に小さなクニが生まれ、1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」後漢から、3世紀前半には邪馬台国女王(卑弥呼)がに朝貢し、国王であることを意味する親魏倭王金印を授けられた。

一方、南西諸島樺太北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、ついでグスク時代、樺太・北海道では続縄文時代、ついで擦文時代(さつもん)が続いた(また、本州東北地方では、青森県垂柳遺跡のように弥生時代前期の水田の事例もあるものの、一般的には中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、北海道に準じ続縄文文化が展開したとの見方もある)。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国・本州を指す。南西諸島の歴史については、沖縄県の歴史奄美群島の歴史先島諸島の歴史も参照のこと。

弥生時代後期・終末期の2、3世紀ごろは、やや冷涼な気候であった。また、3世紀は海退期(弥生の小海退)があり、海が退いていき海岸付近のが干上がり、その底に溜まっていた粘土の上に河が運んできた砂が溜まっていく時期であった。

時期区分

弥生時代の始まりをいつの時点とすべきかは、諸説ある。

そもそも弥生時代とは、弥生式土器が使われている時代という意味であった。ところが、弥生式土器には米、あるいは水稲農耕技術体系が伴うことが徐々に明らかになってくると、弥生時代とは、水稲農耕による食料生産に基礎を置く農耕社会であって、前段階である縄文時代(狩猟採集社会)とはこの点で区別されるべきだとする考え方が主流になっていった。

そのような中、福岡市板付遺跡において、夜臼式土器段階の水田遺構が発見され、従来縄文時代晩期後半と考えられていた夜臼式土器期において、すでに水稲農耕技術が採用されており、この段階を農耕社会としてよいという考えが提出された。その後、縄文時代と弥生時代の差を何に求めるべきかという本質的な論争が研究者の間で展開され、集落の形態や墓の形態、水田の有無、土器・石器など物質文化の変化など様々な指標が提案された。

現在ではおおよそ、水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。従って、弥生時代前期前半より以前に(夜臼式土器に代表されるような刻目突帯文土器と総称される一群の土器形式に示された)水稲農耕技術を伴う社会が(少なくとも北部九州地域には)成立していたとされ、従来縄文時代晩期後半とされてきたこの段階について、近年ではこれを弥生時代早期と呼ぶようになりつつある。なお土器についた穀物圧痕の研究が進み、稲作技術は、遅くとも縄文時代後期までには列島にもたらされていたことが分かっている。また、水稲農耕の導入についても北部九州の一部地域では縄文晩期前半にまでさかのぼる可能性が指摘されているが、明確な遺構が発見されておらず、推測の域を出ない。

弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の3期に分けられていたが、近年では上記の研究動向をふまえ、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。また、北部九州以外の地域では(先I - )I - Vの5(6)期に分ける方法もある。(早期は先I期)前期はI期、中期はII - IV期、後期はV期にそれぞれ対応する。(早期は紀元前5世紀半ば頃から)前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで続いたと考えられている。

2003年、国立歴史民俗博物館(歴博)の研究グループは、炭素同位体比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとする説を提示した。これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる。

早期(先I期)
前期(I期)
中期(II - IV期)
後期(V期)
早期前半
早期後半
前期前半
前期中葉
前期後半
中期前半
中期中葉
中期後半
後期前半
後期後半
縄文
晩期
弥生
早期
弥生
前期
弥生
中期
弥生
後期
弥生
終末
前1000
前900
前800
前700
前600
前500
前400
前300
前200
前100
0
100
200

時期区分を視覚的にしてみたが、少しずれていることに注意。最上段は歴博グループによる炭素年代、二段目はこれを前期(黄)・中葉(緑)・後期(青)に等分したもの、三段目は従来の年代観、四段目は一世紀ごとの目安。

定義の変遷

弥生時代の定義は発掘調査の進展に伴い、大きく変化してきている。そのため、文字資料から情報を得る場合、どの時点でどのような認識が主流だったのかを確認しておく必要がある。

江戸時代から

先住民と渡来人の交替があったとする人種交替説が主流で、日本人は中国人や朝鮮人など大陸のアジア人と同種であると認識されていた。当時、海外の著名人の著作物も同様の認識で書かれている。

1884年(明治17年)

弥生式土器が発見されたが、当初は縄文式土器の一様式と認識されていた。

1898年(明治31年)

弥生式土器が複数発見され、縄文土器との比較から別種とされ、土器の発見場所から弥生時代という名称が生まれた。

1916~21年(大正5~10年)

縄文土器と弥生土器の違いは何であるかや、年代的な先後関係については論争があったが、1916年(大正5年)に発見された鹿児島県指宿市橋牟礼川遺跡で、濱田耕作が行った発掘調査により、縄文土器が弥生土器より下の包含層から出土し、年代的に古いということが層位学的に確認された。この時濱田耕作が弥生土器だと認識していた土器は、実は古墳時代後期の「成川式土器」という南九州独特の土器様式であることが後に判明するが、縄文土器と弥生土器の違いが年代差であることや、「縄文時代から弥生時代へ」という変遷の認識はこの時から始まった。

1936〜7年(昭和11〜12年)

奈良県唐古遺跡で行われた発掘調査で弥生式土器と共に農耕具が発見されたことから、弥生式土器の時代に農耕が行われていたことが明らかになり、弥生時代は農耕社会であるとされた。 また、土器の変遷から時代をはかる「土器編年」が確立した。

1950年代

弥生時代の人骨が出土するようになり、その特徴と縄文人骨との相違点から、渡来系の人骨であるとされた。

などが発生する。

1970〜1980年代

弥生時代が稲作を主体とする時代であることが定説になり、弥生時代の特徴は、稲作・農耕・高床式住居・布の服・戦争などであり、渡来人によってもたらされたという考えが一般的となった。

1990年以降

目覚ましい発掘調査の進展により、それまで弥生時代の特徴とされていた

などが縄文時代に既に存在していたことがわかった。また、遺伝子の研究という新しいアプローチから下記の事が判明している。

文化伝搬の地域差が激しく、人種も完全に入れ替わってはいないこともわかり、弥生時代と縄文時代を明確に分割することが困難となり、開始年代やそもそもの定義について議論が起きている。

弥生時代の意義は稲作の始まりにあるのではなく、稲作を踏まえて国家形成への道を歩み始めることが重要とする見解が示されるようになり、水稲農耕を主とした生活によって社会的・政治的変化が起きた文化・時代を弥生文化、弥生時代とする認識が生まれていった。

この新たな弥生時代の定義によれば、西日本の弥生文化こそが典型的な弥生文化であって、東日本のものはそれとは大幅に異なる別文化であるとする見解が示される様になった。この弥生併行期の東日本の文化については「縄文系弥生文化」、「続(エピ)縄文」、「東日本型弥生文化」など研究者によって様々な呼称が与えられており、定まった名称はない。

ただしこの新たな定義については、自らの研究領域が弥生時代の定義から外れる事になる東日本の研究者からの強い反発がある。

弥生文化の発生と展開

縄文時代後期、西日本では生業の一部として既に農耕が行われていたが水田農耕の本格的な開始は紀元前10 - 9世紀の九州北部が最初とされる。紀元前9世紀の板付遺跡の環壕集落では既に集落内に階層差が存在したことが確認されている。

北部九州に弥生文化が発生して約250年後、弥生文化は西日本各地に伝播し始め、高知平野では紀元前8世紀、山陰・瀬戸内では紀元前7世紀に弥生時代が始まり、畿内の河内平野では紀元前750〜550年頃の間に弥生時代が始まったとされている。紀元前6世紀には濃尾平野、伊勢湾地域にまで拡散したが、弥生文化の拡散は濃尾平野、伊勢湾地域でいったん止まってしまう。

東日本には紀元前3世紀、関東地方西部に初めて弥生文化が定着したことが、小田原市の中里遺跡の発掘によって確認されている。中里遺跡では集団の編成方法や運営、生活技術などに畿内の影響が指摘されており、近畿中央部からの入植によって弥生文化の扶植が図られたことが明らかになっている。その後紀元前2世紀には関東地方西部一円に弥生文化が拡散した。

これよりさかのぼって、紀元前4世紀の津軽・砂沢遺跡、紀元前3世紀の垂柳遺跡で水田稲作の痕跡が確認されているが、水田農耕によって社会変化が起きた痕跡は確認されておらず、弥生文化には含まれない。

弥生文化/弥生時代は関東地方西部を東限とし、新潟県から千葉県を結ぶラインより西側にのみ存在したとされている。

弥生時代の研究では、弥生文化発生時の担い手が誰であったのかが議論になっている。考古学では九州の研究者は北部九州在来の縄文人が弥生化したと考えるのに対し、近畿の研究者の多くは渡来人が主体的な役割を果たしたとしている。人類学の埴原和郎は北部九州に渡来人が来て、稲作を始め、クニを作ったとしている。その後人口の増加とともに東へ移動し古墳時代には西日本一帯に広がったとする。埴原よると現代でも弥生〜古墳時代の人口動態の影響があるという。すなわち西日本は渡来系(弥生系)人種、北海道(アイヌ)、沖縄は縄文系人種、東日本はその両者が混雑した中間種であるとしている。

政治

戦乱の時代(受傷人骨と環濠集落・高地性集落)

弥生時代は、縄文時代とはうってかわって、集落・地域間の戦争が存在した時代であった。武器の傷をうけた痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在などは、戦争の裏付けである。また、集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落なども、集落や小国家間の争いがあったことの証拠であると考えられてきた。

受傷人骨

弥生時代前期の墓には、人骨の胸から腰にかけての位置から十五本の石鏃が出土した例がある。多くの石鏃が胸部付近に集中して見つかる墓の事例は、瀬戸内海を中心とする西日本一帯に比較的多く見られる。かつては、戦闘の際に矢を何本も射込まれてやっと倒れた人物と解釈されることが多く「英雄」などとも呼ばれたが、近年では、矢を特定の部位に集中して射込まれていることの不自然さから、刑罰として処刑されたとか、何らかの儀礼的行為の際の犠牲(生贄)となって胸に矢を射込まれたなどといった解釈もある。平和的な解釈としては、埋葬の際に副葬品として鏃を胸のあたりに埋納したと考える者もいる。

北部九州では、前期から中期にかけて銅剣銅戈・石剣・石戈の切っ先が棺内から出土することが多い。こうした例は、武器を人体に刺突した際に先端が折れて体内に残ったものと解釈される。しかし武器の先端を折りとって副葬品として棺内に埋納するという風習があったのではないかといった反論をする者もいる。佐賀県吉野ヶ里遺跡や福岡県筑紫野隈・西小田遺跡などでは、中期前葉の男性甕棺数が女性の倍にも達する事実があり、男性が戦闘に参加する機会が多い事を示すと考えられる。甕棺内に頭部を切断された胴体だけが埋葬されていたと考えられる事例が見つかっており、戦闘の際に敵に首を切られた死体を持ち帰り、埋葬したものと理解されている。戦争やテロの時に敵の首を取る慣習は、戦国時代や幕末でも続いていたが、その始まりは弥生時代にあった。しかしこのような例が本当に戦闘の犠牲者なのかは論証されておらず、何らかの儀礼的行為によるものと主張する者もいるが、未だ論証されていない。

受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠である。例えば額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっているが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、戦闘による受傷者である可能性は極めて高い。また人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されているが、これらは武器による受傷人骨であることが明らかである。このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではないが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦争が頻繁に起こったであろう事は確実といわれている。

また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半から中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められる事が特徴的である。弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされる。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられている。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少する。

大規模な集団殺戮を示す遺跡としては、鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡が代表的である。日置川と勝部川の合流点の南側に弥生中期から村が形成され、弥生後期後葉に戦争の結果とみられる状況で集落が廃絶したと思われる(住居跡は未発掘)。東側の溝(防御施設と港の機能を兼ねていたか)から100人分を超える人骨が見つかり、少なくとも10体、110点の人骨に殺傷痕が見られた。人骨は女性や老人や幼児も含めて無差別に殺されており、刀剣による切り傷がついた骨、青銅の鏃が突き刺さった骨がある。治癒痕はなく、骨に至る傷が致命傷となってほぼ即死したと思われる。出土状況も凄惨で、溝に多数の死体が、埋葬ではなく折り重なって遺棄されている。遺物も、原型を保った建築物の一部や、様々な生活用品が、通常の遺跡ではありえないほど大量に出土している。死者の中に15〜18歳の若い成人女性がおり、額に武器を打ち込まれて殺されている。殺戮した後、死体の処理と施設の破壊を兼ねて、死体や廃棄物で溝を埋め立てたものと思われる。略奪はしただろうが、破壊した住居や不要な生活用品は捨てられた。通常なら再利用や腐朽で失われるものが、保存条件もよくて大量に残存した。虐殺以後は集落は復興せず、現代まで水田として利用された模様である。

なお虐殺死体が弥生時代に増加すること及びそれらを研究することが専門の研究者にとっても大きな精神的負担になっていることを、松木武彦は新聞の評論で述べている。

環濠集落・高地性集落

環濠集落・高地性集落は、集団同士の争いに備えた防衛集落であったと考えられてきた。環濠集落の北限は、太平洋側では千葉県佐倉市の弥生ムラ、日本海側では新潟県新八幡山である。ただ、秋田市地蔵田B弥生ムラが4軒の家を柵で囲んでおり、これを入れるとすると日本海側の防御集落の北限がさらに北上する。これにより戦争による緊張感は広く全国的で、日本海側の方が北まで広がっていたのではないかと考える者もいる。

しかし、これには反論が存在する。北部九州から伊勢湾沿岸までには、環濠集落・高地性集落、矢尻の発達、殺傷人骨、武器の破損と修繕などの戦争に関わる可能性のある考古学事実が数多くそろっており、戦争があったと推定されるが、南九州・東海・南関東・長野・北陸・新潟は、戦争があったと考えられる考古学的事実の数が比較的少ない。北関東と東北には戦争があった可能性を示す考古学事実はほとんどない。遠江、静岡県浜松市には環濠集落はあるが、登呂などの静岡市周辺の大規模な弥生ムラには環濠はなく、戦争があった可能性は薄い。神奈川県逗子市周辺は農耕的性格を示していながらも食料採集にも大きく依存していたことを示しており、戦争はなかったと考えられる。北関東と東北地方の広い範囲は、米の生産高が低かったからこそ戦争とは無関係であったのであろうと推測する説もある。

さらに、環濠集落の出現は、未だ戦闘の証拠がほとんどない弥生時代早期にさかのぼる事(福岡県江辻遺跡、同那珂遺跡群など)、受傷人骨などの事例から戦乱が頻発したと考えられる前期後半 - 中期前半、特に中期初頭以降の北部九州ではむしろ環濠集落の事例は少ない事、しばしば環濠を掘削する際に排出された土を利用して環濠の外側に盛り土をした痕跡のある事例が報告されているが、環濠の外側に盛り土をすることによって外敵を有利にしてしまう(盛り土を矢避けにしたり盛り土の上から攻撃できる)事などから、環濠集落と戦乱とを直接的に関連づける、すなわち環濠集落を防衛集落と考えるのではなく、環濠を掘削するという大規模な土木作業を共同で行うことによって共同体の結束を高めることが目的であった、又は環濠によって集団を囲い込むことによって集団意識を高めることが目的であったとする議論も提出されてきている。しかし弥生時代後期の高地性集落にしばしば環濠が掘削されていること、環濠内に逆茂木(さかもぎ)と呼ばれる防御施設が設置された事例が認められること(愛知県朝日遺跡など)などから、環濠自体に防御的な機能を持たせた事例が多い事もまた明らかである。環濠の性格については地域・時期によって異なる意味づけを持たせるべきではないかといった主張がある。

一方、古くから防衛集落と目されてきた集落の類型として、高地性集落が挙げられる。高地性集落は、弥生時代中期後半 - 末(IV期後半 - 末)、そして後期中葉 - 末(V期中葉 - 末)に瀬戸内沿岸から大阪湾にかけて頻繁に見られるもので、弥生時代の一般的な集落からみて遙かに高い場所(平地からの比高差が50〜300メートル以上)に営まれている集落のことである。北部九州から北陸・中部・東海地域などといった広い範囲に分布する。1970年代までは、畿内IV期がおおよそ北部九州の後期前半、畿内V期が後期後半に併行するとされ、実年代では紀元50年 - 250年ごろに比定されていた。

史書にある、いわゆる倭国大乱は、各種の史書に記載された年代がおおよそ2世紀後半 - 末に当たり、当時の年代観ではおおよそ畿内IV期末 - V期前半期に該当していた。このため、高地性集落の盛行は倭国大乱を原因とするものだという理解が主流であった。畿内と九州の年代の併行関係が是正されると、倭国大乱は畿内V期後半 - 末に該当する。畿内IV期の高地性集落とは時代的に整合的でないとされ、これらは倭国大乱とは無関係とする意見が主流を占めるようになった。畿内IV期の高地性集落については、この時期に史書には記載されない戦乱があったという主張が多いが、背景に戦乱を想定する必要はないという意見も見られる。後者の場合、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといったさまざまな議論が行われている。一方、後期後半期の近畿の高地性集落(大阪府和泉市観音寺山遺跡、同高槻市古曾部遺跡などは環濠を巡らす山城)については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めている。

倭国大乱

魏志倭人伝には、卑弥呼邪馬台国を治める以前は、諸国が対立し互いに攻め合っていたという記述がある。また、後漢書東夷伝には、桓帝霊帝の治世の間、倭国が大いに乱れたという記述がある(倭国大乱)。

近年、畿内の弥生時代IV・V期の年代観の訂正により、これらはおおよそ弥生時代後期後半 - 末(V期後半 - VI期)に併行するという考えが主流になった。この時期には、畿内を中心として北部九州から瀬戸内、あるいは山陰から北陸、東海地域以東にまで高地性集落が見られること、環濠集落が多く見られることなどから、これらを倭国大乱の証拠であるとする考え方が有力となっている。

ところが、前代に比べて武器の発達が見られず、特に近接武器が副葬品以外ではほとんど認められないこと、受傷人骨の少なさなどから、具体的な戦闘が頻発していたと主張する研究者はあまり多くない。倭国大乱がどのような争いであったのかは未だ具体的に解明されていないのが現状である。

邪馬台国畿内説では、北部九州勢力が大和へと移動したことを示す物的証拠は考古学的にはほとんど認められないとしており、近年ではむしろ北部九州勢力が中心となって、鉄などの資源の入手や大陸からの舶載品などを全国に流通させていた物流システムを畿内勢力が再編成し直そうとして起こった戦いであったという。一方、邪馬台国九州説では、弥生時代後期中葉以降に至っても瀬戸内地域では鉄器の出土量は北部九州と比べて明らかに少なく、また、鉄器製作技術は北部九州と比べて格段に低かった。倭国大乱の原因については、古事記日本書紀等の神武天皇の東征の記述と結びつけ、北部九州勢力が大和へと移動してヤマト朝廷を建てたとする。

地域勢力と大型墳丘墓の出現

時代が下るにつれ、大型集落が小型集落を従え、集落内で首長層が力を持ってきたと考えられている。首長層は墳丘墓に葬られるようになった。このことは身分差の出現を意味する。弥生時代後期になると墓制の地域差が顕著となっていく。 近畿周辺では方形低墳丘墓がつくられ、山陰(出雲)から北陸にかけては四隅突出墳丘墓が、瀬戸内地方では大型墳丘墓がそれぞれ営まれた。

吉備地域
瀬戸内地方のなかでも吉備と呼ばれる岡山県広島県東部の地域では、弥生時代後期の最大級の墳丘墓は、岡山県倉敷市楯築墳丘墓(最大長約80メートル)である。この地域では首長の葬送儀礼には、特殊器台形土器と特殊壺形土器が数多く使用された。これらの土器は、吉備地方で発生後、美作備前備中備後の地域に分布する。その発達の中心は、備中南部の平野であった。そして、これらの地域の周辺地域では使用されていないのが特徴である。
山陰地域
中国山地の三次で発生したと推定され、出雲地域で発達した四隅突出型の墳丘墓(大きなものは約45メートル×約35メートル)が現れる。これらは後の古墳時代に匹敵する土木建築を駆使したもので、その分布は山陰の出雲地方や北陸の能登半島にまで拡がっている。出雲地域に存在する安来・西谷の両墳丘墓集積地には台形土器と壺形土器。出雲と吉備の両地域に同盟関係が生まれていたことを示していると考えられている。

これらの墓の特徴が寄り集まって後代の古墳(前方後円墳など)の形成につながったとされている。

弥生時代の地域勢力は、北部九州・吉備・山陰・近畿・三遠(東海)・関東の勢力に大別することができる。時代の進行とともに連合していき、一つの勢力が出来ていった、と考えられる。水田農耕発展のために農地の拡大と農具となる鉄の獲得のため、また地域間の交易をめぐる争いのために戦いが起こり時代が進行していった。近畿では、環濠集落は、弥生前期末に現れ、中期以降に普及した。

人々の生活

水田農耕

登呂遺跡(2012年7月15日撮影)

日本人の主食は、弥生時代に水稲耕作を始めてからお米を常食としていたと考えられてきたが、1917年(大正6年)内務省、明治11年大蔵省による全国食料調査の結果から、市部・市街地及び郡部・村落部の順に米を食べる量が段々少なくなっていることなどから、必ずしもそうではないともされる。

では、弥生水田の収穫量はどのくらいであったのか。弥生時代前期は下田・下々田、中期は下田・下々田、後期(登呂)中田・下田。収穫量は多いとは言えない。一日あたりの米の摂取量は先進地帯でも前期は1勺程度、中期で6勺〜1合程度、後期でも2合を超えることはなかった。デンプン質不足量をドングリなどの堅果類で補っていた。

家畜利用

弥生時代には水田農耕が行われるが、大陸における農耕がブタウマウシなど家畜利用を伴うものであったのに対し、弥生時代の研究においては長らく家畜の存在が見られなかったため「欠畜農耕」であるとも理解されていた。これに対し、1988年・1989年に大分県大分市下郡桑苗遺跡で関係のイノシシ頭蓋骨3点、ブタ頭蓋骨が出土した。イノシシ類頭蓋骨に関しては西本豊弘が形質的特徴からこれを家畜化されたブタであると判断し、以来弥生ブタの出土事例が相次いだ。また、1992年には愛知県の朝日遺跡で出土したニワトリ中足骨が出土している。

弥生ブタの系統に関しては、縄文時代からイノシシの飼養が行われてはいるものの、イノシシからブタに至る過渡的な個体の出土事例がなく、また日本列島では島嶼化によりイノシシ個体のサイズに大小があるのに対し、弥生ブタはこの地域差からかけはなれた個体サイズであるため、弥生ブタは大陸から持ち込まれたとも考えられている。

弥生ブタの系統の検討には、ミトコンドリアDNA分析を用いた分析も行われている。2000年の小澤智生による分析では12点の試料のうち11点がニホンイノシシと判定された。2003年の石黒直隆らが小澤とは異なる手法を用いて分析を行い、10点の試料のうち6点は現生ニホンイノシシと同一グループ、4点は東アジア系家畜ブタと同一グループに含まれるとし、両者で異なる結果がでている。なお、石黒らは加えて後者のグループは西日本西部の一部の地域に限られて分布している点も指摘している。 また、縄文時代に狩猟に用いられたイヌに関しては、大陸から食用家畜としてイヌが導入された。

狩猟・漁労

狩猟

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漁労

縄文貝塚の衰退と弥生時代の漁労

縄文時代の関東地方では東京湾岸などで大規模な貝塚が形成され、クロダイスズキ漁を中心とする縄文型内湾漁労が行われていた。関東地方では縄文晩期に貝塚数が減少し、弥生時代前期には縄文型貝塚が消滅するに至る。一方、三浦半島など外洋沿岸地域では引き続き外洋漁労が行われている。外洋漁労の痕跡を残す洞穴遺跡では外洋沿岸岩礁アワビサザエ、外洋性回遊魚のカツオサメ、外洋沿岸魚のマダイが出土している。アワビは縄文時代において出土事例が少なく、弥生時代には潜水漁が行われていたとも考えられている。遺物では漁具として釣針(もり)、ヤスなどが出土しており、特に縄文後期に東北地方太平洋岸で特異的に見られる回転式銛頭が出土している点が注目される。

弥生中期には全国的に内湾干潟の貝類であるハマグリイボキサゴを主体とする貝塚の形成が行われるが、小規模で数も少ない。漁労においても大陸から渡来した管状土錘を使用した網漁が行われ、網漁は後に増加・多様化し、瀬戸内海で特に発達した。また、内湾型の漁労としてイイダコ蛸壺漁も行われている。

こうした縄文以来の漁労活動が継続した関東においても弥生中期には稲作農耕社会が成立する。稲作農耕と漁労の関係を示す遺跡として神奈川県逗子市池子遺跡がある。池子遺跡は弥生中期の集落遺跡で、稲作農耕と外洋漁労の痕跡を示す貝塚が共に見られる。池子遺跡では銛漁やカツオ

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出典:wikipedia
2019/06/18 16:03

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