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張本勲とは?

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張本 勲
高木公男を乗せてバイクを楽しむ(1959年)

【基本情報】

【国籍】
韓国
【出身地】
日本 広島県広島市
【生年月日】
(1940-06-19) 1940年6月19日(77歳)
身長
体重 181 cm
85 kg
【選手情報】

【投球・打席】
左投左打
【ポジション】
外野手
【プロ入り】
1959年
【初出場】
1959年4月10日
【最終出場】
1981年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


コーチ歴

  • 日拓ホームフライヤーズ (1973)

野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
1990年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


はりもと いさお
張本 勲
【本名】
張 勲 (チャン・フン、장훈)
【生年月日】
(1940-06-19) 1940年6月19日(77歳)
【出生地】
日本 広島県広島市
【国籍】
韓国
【身長】
181cm
【ジャンル】
プロ野球選手俳優
【活動期間】
1966年 -
【主な作品】

修羅の群れ』、『極道・高山登久太郎の軌跡 鉄 KUROGANE』

張本 勲(はりもと いさお、1940年6月19日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手(外野手)、野球解説者野球評論家日本プロ野球名球会会員、韓国野球委員会(KBO)コミッショナー特別補佐官。在日韓国人二世であり、本名は張 勲(読みがな:チャン・フン、ハングル:장훈)。

日本プロ野球史上唯一の3000安打達成者。またNPB唯一の500本塁打300盗塁達成者。さらに史上最多の16度のシーズン打率3割、史上最長の9年連続打率3割の記録保持者。

愛称は「ハリさん」「張さん」、「ハリ」、「ハリやん」。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 生い立ち
    • 1.2 高校時代
    • 1.3 プロ野球選手時代
      • 1.3.1 東映・日拓・日本ハム時代
      • 1.3.2 巨人時代
      • 1.3.3 オリオンズ時代
    • 1.4 引退後
  • 2 選手としての特徴
    • 2.1 打撃
    • 2.2 守備
  • 3 人物
    • 3.1 幼少期の負傷と被爆
    • 3.2 現役時代
      • 3.2.1 トラブル・事件
    • 3.3 交友関係
      • 3.3.1 王貞治との関係
      • 3.3.2 弟分・大杉勝男との関係
      • 3.3.3 大豊泰昭との関係
    • 3.4 在日韓国人として
    • 3.5 サンデーモーニング
    • 3.6 俳優
  • 4 詳細情報
    • 4.1 年度別打撃成績
    • 4.2 タイトル
    • 4.3 表彰
    • 4.4 記録
    • 4.5 背番号
  • 5 関連情報
    • 5.1 著書
    • 5.2 関連書籍
    • 5.3 新聞連載
    • 5.4 出演番組
    • 5.5 出演映画
    • 5.6 その他
  • 6 脚注
    • 6.1 注釈
    • 6.2 出典
    • 6.3 参考資料
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

経歴

生い立ち

両親は韓国慶尚南道昌寧郡大合面出身。1939年、母親は身重のまま、3人の子を連れて当時日本領だった朝鮮から海を越えて内地に渡り、広島で勲を生んだ。一家は六畳一間のトタン屋根バラックに住んだ。4歳の冬、サツマイモを焼くために、土手でとんどを囲んでいた際に、急にバックしてきたトラックを避けようとしたところバランスを崩してしまい、とんどに右半身から飛び込む形になり、右手の親指、ひとさし指、中指以外の自由を失う大火傷を負う。

1945年8月6日、5歳の夏、爆心地から約2kmの広島市段原新町(現在の南区段原)で被爆比治山の影となっていた段原は直接の熱線が届かなかったが、爆風に見舞われ家は倒壊した。この際、学徒勤労動員で比治山の西側にいた、当時14歳だった長姉の点子は、大火傷を負い数日後に亡くなった。点子の最後を看取った張本によれば、担架で運ばれた点子は全身にやけどをしていた。「『熱いよう、熱いよう。』母の懐でうめく点子にブドウを一房もぎ、口元で搾ってあげた。『ありがとう。』消えそうな声が最期だった」と語っている。

終戦後、父親が朝鮮半島に戻り、生活基盤を整えてから一家も呼び寄せることになっていたが、父親が帰国後急死し、またヤミ船が下関沖で転覆した事件を受けて、母親が子供3人の身を案じて帰国を諦めることになった。母親は闇市で牛や豚の臓物を仕入れて自宅で大工や工員相手にホルモン焼き屋を始めた。

子供の時から体が大きく、ガキ大将としていつも大勢の子分を連れて歩いた。広島市立比治山小学校5年のときに町内の野球チーム(同世代のチームではなく、社会人が趣味で集まっていたチーム)に誘われたのをきっかけに野球を始める。当初は右投げ左打ちだったが、右手の怪我の影響で変化球を投げづらかった(鷲掴みにしか出来ない)ことから、サウスポーに転向。利き手を変える大改造を行なった。

水泳が一番得意だったが、進学した段原中学校には水泳部がなく、仕方なく野球部に入部。段原中時代の2年生のときにレギュラーになり、エースで4番打者として広島県大会で優勝した。中学時代は野球とケンカに明け暮れ、『仁義なき戦い』のモデルになったような人たちにも憧れ、「あのまま広島にいたらヤクザになっていたと思う」とも話している。

この頃、広島カープの当時の本拠地広島総合球場の場外の木によじのぼり、よく試合の無料見物をしていたという。その折に覗き見た読売ジャイアンツの宿舎の食事風景が、その後の張本の人生を大きく変えることとなった。戦後の物資不足や飢餓をまだ引きずる時代に、選手たちは分厚い肉を食べ、桐箱に入った贈答品として当時は珍重されることも多かった生卵を3つも4つも茶碗に放り込んでいたのである。以来、張本のプロ野球選手への憧れは増大し、「トタン屋根の長屋から抜け出すにはこれしかない」、「母親に広い家をプレゼントする」、「美味しい食べ物を腹一杯食べる」という夢を胸に来る日も来る日も自宅近くの猿猴川土手に吊るした古タイヤに向かってバットを振り続け、野球へと打ち込んでいった。

高校時代

甲子園出場を夢に、地元の強豪・広島商業広陵高校への入学を希望したが、素行不良との理由で叶わず、野球では全く無名の松本商業高校(現・瀬戸内高校)定時制に進学。入学後1か月ケンカしなかったら普通科に転入させるという約束での入学であった。昼間は学生食堂で働き、夜は学業に勤しんだため、野球をする時間が全く取れず、甲子園出場の夢を叶えられそうにないことを悟る。松本商業の野球部監督が「いっそ広島から出したらどうだ。あの子は化けるよ」と兄にアドバイスし、自身も理髪店で「常勝!平安、浪商」と書かれた雑誌を見て、まず京都平安高校に問い合わせたが、途中からは無理と断られる。その後に大阪の浪華商業高校(浪商高等学校を経て現・大体大浪商)野球部に梁川郁雄と一緒に売り込みに行き、同校に転校した。

浪商では1年の終わり頃に4番になるが、張本が入部する前の部内の暴力事件で1年間の対外試合禁止処分(1年の秋から2年の秋)を受け、この際に恩師である中島春雄も監督の座を退くことになった。

2年の初夏、中島春雄の戦友であり、度々同校を訪ねていた当時読売ジャイアンツ監督の水原茂に、高校を中退して左投手としての入団を勧誘される。張本もその気でいたが、高校だけは卒業して欲しいという兄の意向により、誘いを断る。その直後、オーバーワークにより肩を故障。投手としての未来図を描いていた張本は挫折するも、中島の説得によりその後は打者に専念するようになる。秋の近畿大会で対外試合に初出場。13試合で打率5割6分、本塁打11本という驚異的な成績を残した。

3年時の夏の甲子園直前、部室内での暴力事件が発覚。張本含む数人の休部処分により、チームの甲子園出場は認められた。張本曰くこの件に関しては全くの濡れ衣であるという(事件が起きた際、そもそも部室にいなかった)。張本は竹内監督の韓国人嫌いに端を発した差別としている。また、前監督の中島が退任した後も引き続き中島に教えを乞いに行くことがあり、竹内との関係は良くなかったとも回想している。

同事件により、甲子園の夢を絶たれた張本は自殺も考えたと言うが、野球部の同級生で同じく休部処分を受けた山本集が親身になって相談に乗り、張本は話を聞いてもらっている内に涙が出てきて母校のグラウンドで夜通し走っていたという。

この年在日韓国人高校生で構成する日韓親善高校野球の選手に選抜され渡韓し、生まれて初めて「祖国の土」を踏む。主軸打者として韓国各地を転戦、選抜チームも14勝1敗と圧勝した。張本のバッティングは祖国の野球ファンも驚かせ、韓国メディアも大きく報道した。その一方で観衆からパンチョッパリと侮蔑表現で呼ばれ、アウェーであることも実感したという。ここで甲子園出場が叶わず萎えかけていた気持ちを奮い起こした。後年、張本はこのときのことを「甲子園に出場出来なかった事は凄く悲しく悔しかった。でも一時的に日本を離れ、試合を重ねる内に野球に集中できた。それが良かったんです。生きる気力が湧いてきて、心機一転した上で日本に戻り一からやり直す事が出来たんです」と語っている。後に日本のプロ野球を代表する強打者となる張本は、母国訪問での活躍によって祖国でも有名になり、韓国の野球少年にとって憧れの存在となる。

プロ野球選手時代

東映・日拓・日本ハム時代

中日ドラゴンズ東映フライヤーズ一騎討ちになったが、東京への憧れもあり、1959年東映フライヤーズに入団。当時の東映は同郷の先輩である岩本義行を始め、母校である浪商の先輩を多数抱えていた。契約金は200万であった(中日は600万を提示していた)。張本はまだテレビがなくセ・リーグの方が人気があるとは知らなかったため、「わかっていたら中日に入団していたと思う」と話している。なお、この入団と前後して東映の社長で球団オーナー大川博は当時プロ野球の規約で「外国人選手は2人まで」となっていた問題の改正に取り組み、「生まれた時に日本の国籍を持っていた選手」は外国人選手に含めないと改正させている。契約金200万で母親のために広島に念願の一軒家を建てた。若いころ、仲のいい王貞治をこの家に招いたこともある。

松木謙治郎打撃コーチの「打率も残せて、ホームランも打て、盗塁もできる完璧な打者を目指せ」という指導のもと、猛練習に励んだ。松木の回想によると(後述の怪我により)右手をほとんど使えず、ほぼ左手のみのバッティングで、高めの直球しか打てないバッターだったため、右手の強化や打撃フォームや立ち位置の細かい修正(この際にレベルスイングになった)に臨んだ。今では常識となっている野球ネットへのヒッティング練習を導入。また高校時代は投手としての練習しかしていなかったため、野手としての練習は苛烈を極めた。当初は張本の長身と風貌から一塁手として育てる予定だったが、打撃練習の際に怪我のことを初めて知り、即日外野手に回したという。

大川博オーナーの意向もあって1軍に抜擢され、高卒の新人外野手ながら開幕戦スタメンに名を連ねた。デビュー戦は阪急戦で、米田哲也の剛速球に全くついていけず三振、直後の守備でバンザイをして即交代させられた。翌日の阪急戦で第1打席で秋本祐作から二塁打を打ち初ヒット、第2打席で石井茂雄から初本塁打を放つ。6月23日からは4番を打つ。入団1年目からレギュラーに定着し、高卒新人で二桁本塁打の13本塁打を放つなど活躍して新人王を獲得した。

2年目には打率3割をマークし、3年目の1961年には打率.336で21歳にして首位打者となった。4年目の1962年にはMVPと、同年から新設された最高出塁率を獲得した。1963年には自己最高となる33本塁打・41盗塁を記録する。1967年から1970年にかけては4年連続首位打者を獲得。1970年には打率.383、本塁打34本、打点100という自己最高の成績を残している。このうち打率は大下弘が持っていたシーズン最高打率(.3831)を3毛更新するもので、1986年ランディ・バースが更新するまで16年間日本記録であった。

1972年8月19日の西鉄ライオンズ戦で、東尾修投手から史上7人目となる2000本安打を達成。1974年には通算7回目となる首位打者に輝いた。首位打者7度はイチローと並ぶ日本記録である。「安打製造機」の異名を取り、南海ホークス野村克也らと共に1960年代から1970年代パ・リーグで活躍した。

日拓ホームフライヤーズとなった1973年の後期からは、選手兼任でコーチ(ヘッド兼打撃コーチ)を務めた。コーチになった理由は後期から監督になった土橋正幸に「おまえは兼任でヘッドコーチをやれ。選手をまとめろ。2、3年でバトンタッチするから」と言われたためであった。しかし球団は翌1974年に日本ハムに身売り、土橋は退団した。この頃から毎年、ストーブリーグを賑わせた。1974年には大洋とトレード話がほぼまとまりかけながら、御破算となる。1975年前期リーグ終了後には、ロッテが張本獲得に乗り出す。日本ハムの三原脩球団社長が「張本は球界のガンだ」と発言するなど、張本を無理やり放出しようとし、三原社長と中西太監督との間の感情はこじれにこじれた。日本ハム製品が韓国でよく売れていたため、大社義規オーナーとしても“韓国の英雄”である張本の気持ちを無下にはできず、新任の大沢啓二監督も日本ハムから出たい張本の気持ちを変えることはできなかった。

前年のオフに大杉勝男白仁天らが移籍し、張本はこの時について「日本ハムに身売りになって、三原さんが社長になって、娘婿の中西さんが監督になって、土橋さんも球団から去って。チームもバラバラ。みんなチームからいなくなって。自分もチームから出ないと行けないと思った」と述べている。張本が「もし不要なら出してほしい」と直訴すると、三原に「希望する球団に行かせよう」と言われ、強さへの憧れからファンでもあった巨人を挙げた。また、張本は当時阪神タイガース監督の吉田義男に誘われて一時は阪神行きを決意し、家まで用意していたという。しかし突然巨人からも誘われ、しかも決定項として扱われていたため、慌てて吉田に連絡を取ると、吉田は憎まれ口ひとつ言わず「ええ話やないか。巨人に行けよ」と了承した。現在でも吉田とは「あの時、ウチ(阪神)へ来とったら面白かったなあ」という話になるという。

巨人時代

1976年長嶋茂雄監督が「王の前に大砲が欲しい」という希望があり、高橋一三富田勝との交換トレードで巨人へ移籍。憧れであった巨人に入団したことで発奮し、オフやキャンプで徹底した走り込みを敢行した。結果同年自己最高の安打数を更新、翌1977年と続けて高打率を残し、2年連続でリーグ2位の打率を記録。1976年においては、首位打者を獲得した谷沢健一との打率差がわずか1毛(厳密には6糸)で、歴代で最も1位と2位との差が小さい記録である。親友の王貞治と組んだOH砲は、第一期長嶋茂雄監督時代の2度の優勝に貢献した。

1978年には日本記録となる通算16回目のシーズン打率3割を記録。同年7月24日日本プロ野球名球会が設立され、規定(昭和 生まれ、通算2000本安打記録)を満たす張本も入会している。翌1979年は77試合の出場に終わり、打率.263、8本塁打と低迷し戦力構想からも外れた。

オリオンズ時代

1980年、オーナーの重光武雄の強い誘いと3000安打達成したかった張本の意向もあり、ロッテ・オリオンズに移籍。同年5月28日、地元川崎球場での阪急ブレーブスとの対戦において、山口高志投手から日本プロ野球史上初となる通算3000本安打を本塁打で達成。この快挙を記念したメモリアルプレートが同球場に展示された。9月28日には川崎球場でのダブルヘッダーの第1試合、近鉄との対戦において、日本プロ野球史上3人目となる通算500号本塁打を達成した。

翌年の1981年現役引退。現役最後の安打は森繁和から打っている。背番号はプロ1年目から引退まで一貫して10を着用した。そのままロッテの監督に昇格の話もあったが、実現はしなかった。

通算打率は歴代3位(4000打数以上)であり、7000打数以上では歴代1位である。通算打撃部門の全ての上位に名を連ねていることから、日本プロ野球史上屈指の強打者との誉れが高い。通算安打は3085本で日本記録である。自身も通算最多安打を記録していることを誇りに思っており、「イチローがたとえ日米通算4000本安打を記録しても、日本記録保持者は私ですから」とコメントしているが、その理由として、「メジャーリーグの野球は日本の野球よりもシーズンの試合数が多いから、イチローの通算安打は参考記録にしかならない」ことをあげている。なお、張本はイチロー自体を認めていないわけではなく、イチローが記録を更新する際などは度々アメリカまで行って祝福している。

引退後

引退後は、1982年より東京放送(TBSテレビTBSラジオ)野球解説者、スポーツニッポン野球評論家を務める。また、2000年頃よりTBSテレビの『サンデーモーニング』のスポーツコーナー『週刊 御意見番』に大沢啓二(2010年10月の大沢死去)と共にコメンテーター(御意見番)としてレギュラー出演。2006年まではテレビ・ラジオの中継に出演していたが、2007年以降は「週刊 御意見番」への出演に絞る。中継から外れて以降も、各出版社が発売している一部プロ野球名鑑に掲載される解説者・評論家名鑑 では引き続きTBS解説者として掲載されている(2012年からは一部名鑑 でフリー解説者として扱われている)ほか、『サンデーモーニング』公式サイト内同コーナー情報ページでは「TBS野球解説者」と明記されている。

1990年野球殿堂入り。

2001年にスタートしたプロ野球マスターズリーグでは、東京ドリームスに選手兼任コーチとして所属し、試合にも出場している。中々ヒットが打てなかったが、2005年に5年越しの初安打を放った。もっとも本人は「(投手の)星野伸之(元オリックス)が手加減してくれた」とコメントしている。

臨時コーチを何度も務めている。中日の沖縄秋季キャンプの臨時コーチを務めた1992年には、一旦挫折しかけた大豊泰昭一本足打法を完成させるきっかけを作っている。自身の著書で、監督の打診を受けたことがあったものの「入り込んでしまうからやめた方がいい」と母親に猛反対されたので断ったと記している。ロッテのゼネラル・マネージャーだった時期の広岡達朗から、ボビー・バレンタイン監督の下でのヘッド兼打撃コーチの打診を受けたことがあったが、張本がトップ(監督)でやりたいと言って断っている。週刊文春の連載「阿川佐和子のこの人に会いたい」に登場した際(2015年10月1日号)は、球団は言えないが3球団から監督の要請があったことを明かしている。

1982年に発足した韓国プロ野球統括団体であるKBOのコミッショナー特別補佐官を2005年まで務めた。2007年、民間人に与えられる韓国最高の勲章「無窮花章」が授与された。韓国プロ野球創設の際の組織作り・人材派遣などの支援等、日韓のスポーツ界並びに在日韓国人社会の発展に貢献した功績によるものだった。「無窮花章」は日本の勲一等にあたる。日本のスポーツ選手として韓国の文化勲章を受けた唯一の人物となる。

韓国の野球発展にも多大な功績を残し、1982年から始まった韓国プロ野球は、李容一初代事務総長、李虎憲同次長、張本の3人で立ち上げたものという。張本は「わたしにとって日本プロ野球は『育ての親』、逆に韓国プロ野球にとってわたしは『生みの親』になる」と語っている。

選手としての特徴

打撃

バットを高く構えて捕手寄りに倒して始動し、水平に振り抜く独特の打法から、右へ左へと自在にボールを打ち分けた。このため上記の「安打製造機」のほか、「広角打法」、「スプレー打法」、「扇打法」という代名詞でも知られた。村田繁(元パ・リーグ事務局長)は張本について、「広角打法の最高峰を極めた打撃王であると認定していい」と評している。通算RCWIN傑出度では王貞治に次ぐ歴代2位の数値を記録するなど、打撃面においては歴代屈指の成績を残した。猛打賞も歴代1位の251回を記録している。

東映入団1年目から20年連続シーズン100安打以上を放っており、打率3割以上を16回マークした。脚も速く、1963年に41盗塁(広瀬叔功の45に次ぐ2位)したのを筆頭に、通算で319盗塁を記録している。通算400本塁打以上かつ通算300盗塁以上を記録しているのは張本と秋山幸二の2人のみである。また、通算での「トリプルスリー」(3割300本塁打300盗塁)を達成しており、この記録も日本プロ野球史上で張本ただ一人であり、通算3000本安打以上と合わせれば史上唯一の「クアドラプルスリー」でもある。一方、1シーズンでのトリプルスリーの達成は1度もない。惜しかったのは1963年で、33本塁打、41盗塁を記録したが、最も得意分野のはずの打率で3割に届かず(.280)、達成を逃した。また下記の打点王・本塁打王と同じように盗塁王を獲得したことはなかった。

現役時代は多くのシーズンで首位打者以外のタイトル争いにも絡み、毎年打撃部門で上位に位置していたが、本塁打王と打点王のタイトルは1度も獲得できなかった。特に野村克也にタイトル争いで負けた事が多く、1962年・1963年には本塁打と打点の両方の部門とも2年続けてリーグ2位に終わり、いずれも野村に二冠を許している(1962年はわずか5打点差。張本は前年の1961年も打点でリーグ2位)。1965年も打点で野村に次いでリーグ2位に位置し、1966年に至っては再び野村に本塁打王と打点王を取られるなど、打率・本塁打・打点の部門すべてでリーグ2位だった。キャリアにおいて本塁打でリーグ2位を3回、打点でリーグ2位を5回記録し、打率でもリーグ2位を5回記録している。通算1676打点は、打点王のタイトルを獲得していない選手の中では史上最多である。

打席に立っている際、一塁ランナーが盗塁すると激怒した。一塁にランナーがいる場合、一塁手が一塁に張り付いた状態になるため一二塁間が広くなり、安打が出る確率が高くなるからだという。また、打席に入る時には凄んだ表情で相手投手に向けてバットを突き出す仕草を良くしていた。当時は投手を威嚇するためといわれていたが、後に本人は「あくまでも両サイドを見分けるための目安だった」と語っている。

現役時代に打撃のコツについて教えを乞いに行ったことがある。その相手は当時近鉄に在籍していたジャック・ブルームで、張本はブルームの外角打ちの上手さに感心し、外角打ちのコツを聞きに行った。それに対してブルームは、「外角を打つにはまず内角打ちが上手くなければいけない。それは、外角に的を絞っているときに内角にストレートが来ると絶対に手が出ないからだ。相手投手は、こっちが内角打ちが上手いと、内角に投げるのを嫌がって外角に投げてくる。そこを狙い打つのだ」と回答。その後、張本は首位打者の常連となっている。

また、張本はブルームからセーフティーバントのコツも教わった。それは「バックスイングをしてバントなんてしないように見せろ」というものだった。これにより、張本自身の述懐によると21回試みたセーフティーバントのうち20回を成功させたという。1970年に当時のシーズン最高打率記録を樹立した際にも、最後の打席でセーフティーバントを決めている。しかし当時のマスコミから「ホームランも打てるバッターがなぜバントで打率を稼ごうとするのか」という批判を受けて、多用はしなかった。そのことについて張本は、2003年のインタビューで「なぜこれ(セーフティーバント)を多用して4割打たなかったのかなぁと後悔してるんです」と述べている。バントの上手さについては王貞治からも認められており、2003年のキャンプでは川崎宗則にセーフティーバントの指導をした。川崎は後年に「張本さんといえば『豪打』のイメージでしたが、あれでセーフティーバントの確率がぐっと上がった。僕のヒットの何本も、張本さんのおかげで打てたようなものです」と語っている。

打撃のコツについては、後年、バッターボックスでの構えについて「雨の日の立ち小便」(リラックスしながら腰を落とす)のように構えるとよい、と語ったこともある。現役時代、天才または運と呼ばれたことに対して、「ある日突然バッティングの才能が目覚めるなんてことは絶対ない。半狂乱になってバットを振って振って振りまくった人だけに打撃の極意というものは見えるんです」と語っている。キャンプなどでも張本は布団の横にバットを置いていて、夜もたびたび起き上がって素振りをしていたという。山崎正之は張本とキャンプで相部屋になった際に、張本が毎夜寝ている自分の数十センチ上で素振りを繰り返すため、寝るに寝られず睡眠不足になり、「あれほど不気味な風の音を聞いたことはない」と振り返っている。後年、張本は落合博満が三冠王を獲得した頃に自分の手について「柔らかいでしょう。とてもたくさん素振りしているような手ではないですよね」と語っていることに対して、「あれは落合の謙遜。彼の手は本当にバットを振り込んだ手だ」と述べている。

守備

守備では主に、打撃への負担が比較的少ない左翼を守った。打撃や走塁においては傑出した成績を残した張本だったが、守備は得意ではなく、とりわけ守備力が低下した巨人時代にはファンから「守っても安打製造機」と揶揄されるほどお粗末なプレーが目立った。前述の通り、幼少時のヤケドの影響と高校時代の左肩の故障という二重苦のため、現役中は一貫して思うような守備ができなかったという。障害のため右手が完全に開かなかったため、特注のグラブで守備を行っていた。

このようなハンディがありながらも、守備率を示すRF(刺殺+補殺+失策)÷試合数の数値では、1964〜1967年(24歳〜27歳時)に4年連続で2点以上(これは平均以上の数値であり、2.5を越えれば一流と言われる)を記録し、1959年(19歳時)の1.41から大幅に上昇させている。

ただし、1975年にパリーグで導入されたDH制のため1年間守備が免除された後、巨人に移籍し左翼の守備に返り咲いた翌年の1976年以降は、守備力の衰えが顕著になる。例えば1966年(26歳時)には、外野部門(100試合以上出場)でRFが2.08(3位)、刺殺数233(4位)、補殺11(2位)、エラー1(2位)と高い数値を記録していたにもかかわらず、巨人に移籍した1976年(36歳時)にはRFが1.37(12位)、刺殺数167(9位)、補殺4(8位)、エラー7(13位)と、数値が大幅に下落している。

阪神との1962年の日本シリーズ第7戦の(1点リードから同点に追い付かれた)10回裏にベンチに下げられ、その後12回裏に日本一決定の瞬間を迎えるという経験をしている。また、巨人時代、レフトにライナーやゴロが飛ぶと、遊撃手の河埜和正がカバーに入ることが多かった。リードして迎えた試合終盤には、守備固め二宮至と交代させられることが何度もあった。長嶋監督に失策の理由を聞かれた時には、「あれは空中イレギュラーです」と答えていたという。

人物

幼少期の負傷と被爆

来歴の節で記したように、幼少期に大火傷を負っている。右手以外は完治したものの、右手のみに後遺症が残り、親指・人差し指は完全に伸びず、薬指と小指は癒着したままである。野球を本格的に始めてからは誰にも見せないようにしていた。プロ1年目のオフ後、母親と談笑しているときに「この指がまともだったら、もっと良い成績が残せるのになぁ」と呟いたところ、母親が号泣してしまった。まずいことを言ったと反省した張本はそれ以降、家族にも右手を晒さなくなった。

NHKの番組で張本の右手を取り上げる企画が予定されたが、張本は拒否。その後、NHKの解説者を務めていた川上哲治にだけ、現役引退後の座談会で右手を見せたが、川上は「よくもそんな手で…」と涙を流しながら絶句していたという。

プロ野球出身者で直接の被爆により被爆者健康手帳を交付されたのは、張本と濃人渉の2人のみである。

被爆者であることを、ずっと隠していた。思い出すのが怖くて野球に没頭し、バットを振り続けることで、当時の記憶を心の片隅に追いやってきたという。しかし2005年頃に「原爆の落ちた場所を知らない」とテレビ番組で発言した若者に怒りを覚え、被爆体験を語り始めるようになった。2006年8月15日放送のテレビ朝日系『徹子の部屋』に出演した際には、被爆体験や幼少期の生活、母に対する思いなどを語った。それをきっかけとして「われわれの世代が戦争を、そして原爆でやられた体験を語り残さなければならんのです」と答えたという。その後は多くのメディアで被爆体験を話している。

2014年には、原爆で失った長姉の点子の写真を張本が長年探していることを知った点子の同級生から、張本のもとに点子の写真が届いている。張本はこの写真を寝室の枕元に置き、母の遺影と向き合うよう飾っているという。

現役時代

ロッテへ移籍した1980年、当時の監督だった山内一弘金田正一など多くの評論家が酷評した落合博満の特異な打撃フォームを「素晴らしい、このままのスイングで打てる」と絶賛していた。その後、落合は三冠王に3度輝いたが、当時から張本は落合の非凡な才能を見抜いていたことが証明された形となる。

現役時代、毎日午前3時または4時頃に起きてバットを振り、引退するまで子どもとは別の部屋だったという。張本は「スポーツ選手で、豪気・豪快・強気の人が大成功した例は少ないです。やはり臆病で繊細で神経質な人のほうが成功する。イチロー、落合博満、長嶋茂雄、王貞治、金田正一も、みんなそういうタイプ。豪快に見えているだけで、陰では毎日こつこつ練習しています。豪気な人は、すぐできてしまう素質と力があるから『そんなもんすぐできるよ』と安心するし、油断するきらいがあるんですよ」と語っており、「我々みたいに小心者で臆病なやつは、不安だから毎日やる。その積み重ねが結局力になったんだろうと思いますね」と振り返っている。また、野球選手で一番大事なことは「自分を疑う」ことであり、例えその日に4打数4安打を記録したとしても、たまたまだと思って、常に自分を疑うことが大事だという旨のことを述べている。

単打狙いでありながらホームラン数が多いことからもわかるように非常に腕っぷしが強く、中学時代に練習場の奪い合いで、一級上のサッカー部のキャプテンを瀕死にさせたことがあり、中学時代から高校生を超えてヤクザのチンピラとケンカしたという。現役時代に「野球はルールのあるケンカだ」と話す など、気性が激しい一面があり、以下のような話がある。

土橋正幸は、自身より5歳年下の張本に「マウ
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出典:wikipedia
2018/04/20 05:28

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