このキーワード
友達に教える
URLをコピー

後白河天皇とは?

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年9月)
【後白河天皇】

後白河法皇像(宮内庁蔵『天子摂関御影』より)

第77代天皇

在位期間
1155年8月23日 - 1158年9月5日
久寿2年7月24日 - 保元3年8月11日

即位礼
1155年11月22日(久寿2年10月26日)
大嘗祭
1155年12月19日(久寿2年11月23日)
【元号】
久寿
保元
【時代】
平安時代
【先代】
近衛天皇
【次代】
二条天皇
【】

【誕生】
1127年10月18日(大治2年9月11日)
【崩御】
1192年4月26日(建久3年3月13日)
六条殿
大喪儀
1192年5月2日(建久3年3月19日)
【陵所】
法住寺陵
【追号】
後白河院
(後白河天皇)
【諱】
雅仁
【別称】
行真法皇
【元服】
1140年1月18日(保延5年12月27日)
【父親】
鳥羽天皇
【母親】
藤原璋子
【中宮】
藤原忻子
【女御】
藤原琮子
平滋子
【子女】
二条天皇
亮子内親王
好子内親王
式子内親王
守覚法親王
以仁王
円恵法親王
定恵法親王
休子内親王
惇子内親王
恒恵
高倉天皇
静恵法親王
道法法親王
承仁法親王
真禎
覲子内親王
【皇居】
平安宮

後白河天皇(ごしらかわてんのう、1127年10月18日大治2年9月11日〉- 1192年4月26日建久3年3月13日〉)は、日本の第77代天皇(在位: 1155年8月23日久寿2年7月24日〉- 1158年9月5日保元3年8月11日〉)。雅仁(まさひと)。

鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元平治の乱治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇平清盛木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 親王時代
    • 1.2 保元の乱・平治の乱
    • 1.3 二頭政治と法住寺殿造営
    • 1.4 二条親政の確立
    • 1.5 二条親政派の瓦解と憲仁親王擁立
    • 1.6 院政開始と出家
    • 1.7 政権分裂と徳子の入内
    • 1.8 日宋貿易と寺社の統制
    • 1.9 厳島御幸と安元の御賀
    • 1.10 安元の強訴と鹿ケ谷の陰謀
    • 1.11 鹿ケ谷の陰謀後の情勢
    • 1.12 院政停止
    • 1.13 寺社勢力の反発
    • 1.14 動乱の始まり
    • 1.15 高倉上皇と清盛の死
    • 1.16 院政の再開
    • 1.17 叡山潜幸
    • 1.18 新帝擁立と十月宣旨
    • 1.19 法住寺合戦
    • 1.20 平氏追討
    • 1.21 平氏残党の蜂起
    • 1.22 平氏滅亡
    • 1.23 東大寺大仏開眼供養
    • 1.24 頼朝の政治介入
    • 1.25 朝幕交渉
    • 1.26 戦後復興と奥州合戦
    • 1.27 頼朝との対面
    • 1.28 崩御
  • 2 人物
  • 3 系譜
    • 3.1 系図
  • 4 后妃・皇子女
  • 5 在位中の元号
  • 6 諡号・追号
  • 7 陵・霊廟
  • 8 脚注
  • 9 参考文献
    • 9.1 文学作品
  • 10 関連項目

生涯

親王時代

大治2年(1127年)9月11日、鳥羽上皇と中宮・藤原璋子の第四皇子として生まれる。中御門宗忠は「后一腹に皇子四人は、昔から希有の例だ」と評した。

11月14日、親王宣下を受けて「雅仁」と命名される(『中右記』)。2年後に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始された。保延5年(1139年)12月27日、12歳で元服して二品に叙せられる。院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇譲位を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁親王は崇徳帝中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳帝にとってこの譲位は大きな遺恨となった。

一方、皇位継承とは無縁で気楽な立場にあった雅仁親王は「イタクサタダシク御遊ビナドアリ」(『愚管抄』)と、遊興に明け暮れる生活を送っていた。この頃、田楽猿楽などの庶民の雑芸が上流貴族の生活にも入り込み、催馬楽朗詠に比べて自由な表現をする今様(民謡・流行歌)が盛んとなっていた。雅仁は特に今様を愛好し、熱心に研究していた。後年『梁塵秘抄口伝集』に「十歳余りの時から今様を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。声が出なくなったことは三回あり、その内二回は喉が腫れて湯や水を通すのもつらいほどだった。待賢門院が亡くなって五十日を過ぎた頃、崇徳院が同じ御所に住むように仰せられた。あまりに近くで遠慮もあったが、今様が好きでたまらなかったので前と同じように毎夜歌った。鳥羽殿にいた頃は五十日ほど歌い明かし、東三条殿では船に乗って人を集めて四十日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした」と自ら記している。

その没頭ぶりは周囲からは常軌を逸したものと映ったらしく、鳥羽上皇は「即位の器量ではない」とみなしていた(『愚管抄』)。今様の遊び相手には源資賢・藤原季兼がいたが、他にも京の男女、端者(はしたもの)、雑仕(ぞうし)、江口・神崎の遊女傀儡子(くぐつ)など幅広い階層に及んだ。雅仁の最初の妃は源有仁の養女・懿子だったが、康治2年(1143年)、守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死する。次に妃となったのは藤原季成の女・成子で、2男4女を産むが、終生重んじられることはなかった。

保元の乱・平治の乱

久寿2年(1155年)、近衛天皇が崩御すると、自身の第一皇子であり、美福門院(得子)の養子となっていた守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、立太子を経ないまま29歳で即位した。守仁はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。 本来、新帝践祚 → 即位 → 立太子の順で行われるものが、新帝の即位式以前の同年9月に鳥羽法皇主導によって守仁の立太子が行われたことも後白河天皇即位の性格を示している。10月に藤原公能の娘である藤原忻子が入内し、その翌年には皇子を生むことなく中宮に立てられているが、崇徳上皇・後白河天皇にとって公能は母方の従兄弟にあたり、崇徳上皇に好意的とみられてきた公能ら亡き待賢門院(璋子)の一族(徳大寺家)を新帝の後ろ盾にする意味があった。保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御すると保元の乱が発生した。この戦いでは後見の信西が主導権を握り、後白河帝は形式的な存在だった。乱後、信西は政権の強化に尽力し、保元新制を発して荘園整理・大寺社の統制・内裏再建などを行う。

保元3年(1158年)、守仁(二条天皇)に譲位し、太上天皇となる。これは当初の予定通りであり「仏と仏との評定」(『兵範記』保元3年8月4日条)、すなわち美福門院と信西の協議によるものだった。父の所領の大部分は、美福門院と暲子内親王に譲られたため、後白河上皇は藤原頼長から没収した所領を後院領にして経済基盤とした。また、配流となった崇徳上皇を除いた待賢門院所生の兄弟関係を強めるためにわずか1つしか違わない同母姉の統子内親王を自分の准母(母代わり)として、後に上西門院の女院号を与えている。

二条天皇の即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなど、朝廷内は三つ巴の対立の様相を見せるようになった。

この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し平治の乱が勃発する。12月9日夜、院御所・三条殿が藤原信頼・源義朝の軍勢によって襲撃され、内裏の一本御書所に幽閉される。結果、信西は殺害され信頼が政権を掌握するが、二条親政派と手を結んだ平清盛が武力で信頼らを撃破、後白河院政派は壊滅する。後白河院は乱の最中、幽閉先を自力で脱出して仁和寺に避難していた。この時、争奪の対象になったのは二条天皇であり、後白河院は信西が殺害され政治力を失っていたことから、ほとんど省みられていなかった。

乱後、後白河院は二条親政派の中心だった大炊御門経宗葉室惟方の逮捕を清盛に命じる。 経宗・惟方は、藤原信頼とともに信西殺害の首謀者であり、その責任を追及されたものと推測される。これ以降、後白河院政派と二条親政派の対立は膠着状態となる。

二頭政治と法住寺殿造営

後白河院政派と二条親政派の対立は、双方の有力な近臣が共倒れになったことで小康状態となり、「院・内、申シ合ツツ同ジ御心ニテ」二頭政治が行われた(『愚管抄』)。蔵人頭・中山忠親の『山槐記』によると、国政の案件は後白河院と二条帝に奏上され、前関白藤原忠通が諮問に答える形で処理されていた。永暦元年(1160年)10月になると、後白河院は焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として、法住寺殿の造営に取り掛かる。六波羅の南、東七条末の地には、摂関期に藤原為光が法住寺を創建したが早くに衰退し、信西の邸(平治の乱で焼失)や藤原清隆・紀伊二位の御堂などが建ち並んでいた。造営は播磨守に重任した藤原家明が担当し、藤原信頼の邸を移築することで進められた。10余町の土地を囲い込み、大小80余堂を壊したことから、多くの人々の恨みを買ったという(『山槐記』永暦2年4月13日条)。

10月16日、後白河院は法住寺殿の鎮守として日吉社熊野社を勧請する。これについて『今鏡』は「神仏の御事、かたがたおこしたてまつらせ給へる、かしこき御こころざしなるべし」としている。新日吉社は、競馬流鏑馬など武士の武芸が開催される場となり、新熊野社は、熊野詣に出発する前の精進・参籠の場となった。17日に早速、勧請したばかりの新熊野社に参籠して、23日、初めての熊野詣に出発する。この参詣には清盛も同行している。熊野詣は以後34回にも及んだ(実際に記録で確認できるのは28回)。熊野詣の最中の11月23日、美福門院が薨去した(『山槐記』同日条)。即位以来、美福門院派との協調に神経を遣っていた後白河にとっては束縛からの解放であり、二条を抑えて政治の主導権を握ることも夢ではなくなった。法住寺殿の造営も順調に進み、翌永暦2年(1161年)4月13日、完成した御所に移り住んだ(『山槐記』同日条)。

二条親政派にとって、後ろ盾の美福門院を失ったことは大きな打撃だった。一方「清盛モタレモ下ノ心ニハ、コノ後白河院ノ御世ニテ世ヲシロシメスコトヲバ、イカガトノミオモヘリ」とあるように、後白河院が政務を執ることに不安を抱き、否定的な見解をする者も少なくなかった。後白河院には芸能に堪能な側近が多い反面、鳥羽院政以来の伝統的貴族や実務官僚とのつながりは希薄で、その支持基盤は必ずしも強固なものではなかった。後白河院の寵愛は、専ら上西門院の女房・小弁局(平滋子)にあり、皇后・忻子や女御・琮子は全く無視されていた。三条公教(琮子の父)・徳大寺公能(忻子の父)も相次いで死去しており、後白河院と閑院流の関係は疎遠になっていたと考えられる。この時期の状況として『平家物語』には「院の近習者をば、内よりいましめあり。内の近習者をば、院よりいましめらるるの間、上下おそれをののいて、やすい心なし。ただ深淵にのぞむで、薄氷をふむに同じ」とあり、両派の緊張関係がうかがえる。

二条親政の確立

9月3日、滋子は後白河院の第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)を出産するが、その誕生には「世上嗷々の説(不満・批判)」があった(『百錬抄』)。15日、憲仁立太子の陰謀が発覚し、院政派の平時忠平教盛平基盛藤原成親藤原信隆らが二条帝により解官される。これ以降、後白河院は政治決定の場から排除され、国政は二条帝と藤原忠通の合議により運営されることになる。

12月17日、藤原育子が入内する。育子は閑院流出身(徳大寺実能の女)で藤原忠通の養女だった。翌応保2年(1162年)2月19日、育子が中宮に冊立されると閑院流の藤原実長が中宮権大夫となり(大夫の九条兼実は14歳で名目のみ)、清盛も内裏を警護して二条支持の姿勢を明確にしたため、後白河院政派は逼塞を余儀なくされる。3月には配流されていた大炊御門経宗が帰京を許され、入れ替わるように6月23日、実長の密告により二条帝呪詛の容疑で源資賢・平時忠が流罪となった。鳥羽院政を支えていた貴族の認識では二条帝が正統な後継者であり、後白河院はあくまで暫定という位置づけだった。

院政を停止された後白河院は、信仰の世界にのめり込む。応保2年(1162年)正月の熊野詣では、千手観音経千巻を読んでいた時に御神体の鏡が輝いたので、「万の仏の願よりも千手の誓いぞ頼もしき、枯れたる草木もたちまちに花咲き実なると説ひたまふ(多くの仏の願いよりも、千手観音の誓願は頼りに思われる。一度千手におすがりすれば、枯れた草木さえも蘇って花咲き実が熟る、とお説きになられている)」と今様を歌い、千手観音への信仰を深くしている(『梁塵秘抄口伝集』)。

長寛2年(1164年)12月17日、後白河院は多年の宿願により、千体の観音堂・蓮華王院を造営する。造営は清盛が備前国を知行して行った。後白河院は落慶供養の日に、二条帝の行幸と寺司への功労の賞を望んだが、二条帝が全く関心を示さなかったため「ヤヤ、ナンノニクサニ」と嘆いたという(『愚管抄』)。蓮華王院・新日吉社・新熊野社には荘園が寄進され、後白河院の経済基盤は強化される。二条帝は後白河院の動きに警戒感を募らせていたが、翌永万元年(1165年)6月25日、病状の悪化で順仁親王(六条天皇)に譲位、7月28日に崩御した。

二条親政派の瓦解と憲仁親王擁立

六条天皇は母の身分が低いことから中宮・育子が養母となり、摂政近衛基実を中心にして体制の維持が図られた。しかし政権は不安定で、後白河院政派はしだいに息を吹き返していく。12月25日、後白河院は憲仁に親王宣下を行い、清盛を親王勅別当とする。院政期に親王宣下されるのは原則として正妃所生の皇子のみであり、憲仁は皇位継承の有資格者として位置づけられた。永万2年(1166年)7月26日に基実が急死すると、嫡子の近衛基通が幼少のため、松殿基房が新たに摂政・氏長者に任じられた。この時に清盛は、殿下渡領を除く摂関家領を実娘で基実後家の盛子に相続させているが、後白河院はこの措置を容認していたと考えられる。主柱であった摂関家と平氏が後白河院政派に鞍替えしたことで、二条親政派は完全に瓦解した。

後白河院は二条親政派を切り崩すと同時に、自派の勢力拡大を強力に推し進める。7月に源資賢が参議に補されたのを皮切りに、8月には藤原成親・藤原光隆が参議、藤原成範平頼盛が従三位となるなど、院近臣が次々に公卿に昇進した。一方、外戚でありながら離反した閑院流に対しては冷淡な態度をとり、権大納言の徳大寺実定・藤原実長が辞任している。実定は安元3年(1177年)にようやく還任するが、実長は生涯散位のまま留め置かれた。

10月10日、後白河院は清盛の協力を得て、憲仁親王の立太子を実現する。立太子の儀式は摂関家の正邸・東三条殿で盛大に執り行われ、九条兼実が東宮傅(とうぐうのふ)、清盛が春宮大夫となり、摂関家・平氏が憲仁を支えていることを誇示するものとなった。11月、後白河院は清盛を内大臣とする。院近臣の昇進は大納言が限界であり、近衛大将を兼ねずに大臣になったことも極めて異例で、破格の人事だった。さらに藤原実長が辞任した後の権大納言には、藤原師長を抜擢する。師長は保元の乱で配流されたが琵琶の才能を認められ、日和見的傾向の強い上流貴族の中では最も後白河院に忠実な人物だった。

院政開始と出家

後白河法皇像(京都妙法院蔵)

後白河院は人事の刷新を済ませると、御所の拡張と軍事力の整備に乗り出した。法住寺南殿は信頼の邸宅を移築したものだったが、手狭で儀式に対応しにくいことから、仁安2年(1167年)正月19日、新しく建て替えられた。法住寺殿は、儀式用の法住寺南殿、憲仁の住む七条上御所、後白河院・滋子の住む七条下御所などに区分され、政治の中枢として機能する。28日には六条天皇の朝覲行幸があり、叙位・除目が行われた。

5月10日、後白河院は清盛の長男・平重盛に対して東山東海山陽南海道の山賊・海賊追討宣旨を下す(『兵範記』)。これにより、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任された。重盛は憲仁親王立太子の儀式で後白河院の警護に当たり、9月の熊野詣にも供をするなど、平氏一門の中では後白河院に近い立場にあった。清盛は家督を重盛に譲っても、依然として大きな発言力を有していたが、仁安3年(1168年)2月、病に倒れる。後白河院は熊野詣から戻る途中だったが、日程を早めて浄衣のまま六波羅に見舞いに駆けつけており、その狼狽ぶりがうかがえる。九条兼実も「前大相国所労、天下大事只此の事に在る也。この人の夭亡の後、弥よ以て衰弊か」(『玉葉』2月11日条)と政情不安を危惧している。摂関以外の臣下の病では異例の大赦が行われ、19日、反対派の動きを封じるために松殿基房の閑院邸において六条天皇から憲仁親王への譲位が慌しく執り行われた(高倉天皇)。病の癒えた清盛は政界から身を引き、福原に別荘を造営して退隠する。

大嘗会などの即位の行事が一段落して、年が明けた仁安4年(1169年)正月、後白河は12度目の熊野詣に向かう。2月29日には賀茂社にも詣でるが、これらは出家の暇乞いのためであったという(『梁塵秘抄口伝集』)。3月13日には高野山に詣で、帰路の途中の20日、福原の清盛の別荘に立ち寄る。この時に行われた千僧供養は、以後の恒例行事となった。帰京して嘉応と改元された4月、滋子に建春門院の院号を宣下し、6月17日、法住寺殿において出家、法皇となる。出家の戒師など8人の役僧は、全て園城寺の門徒だった。11月25日、新帝の八十嶋祭が行われ、平重盛の室・経子が勅使役として公卿を引き連れて六波羅から出立する。後白河院は滋子とともに七条殿の桟敷で行列を見送っており、平氏との協力体制は磐石なものに見えた。

政権分裂と徳子の入内

嘉応元年(1169年)12月23日、延暦寺が藤原成親の配流を要求して強訴する(嘉応の強訴)。後白河院が成親を擁護したのに対して、延暦寺と友好関係にある平氏は非協力的な態度を取り、事態は紛糾する。翌嘉応2年(1170年)2月には終息したものの、双方の政治路線の違いが浮き彫りとなった。4月19日、後白河院は東大寺で受戒するために奈良に御幸する。清盛も合流して翌20日に並んで受戒するが、これは康治元年(1142年)の鳥羽法皇と藤原忠実の同時受戒の例に倣ったものだった(『玉葉』『兵範記』)。御幸から戻った21日、後白河院は平重盛を権大納言、成親を権中納言・検非違使別当に任じる。後白河院と平氏の間に生まれた溝もひとまず解消し、高倉天皇元服の儀式に向けて準備が進められていった。

しかし10月21日、参内途中の摂政・松殿基房の車を平重盛配下の武士が襲撃する事件(殿下乗合事件)が起こり、元服定は延期となってしまう。盛子が摂関家領を相続して以来、基房は平氏に大きな不満を抱いていたが、この事件により更なる関係悪化が懸念された。30日、後白河院は近臣・藤原光能を福原に遣わしている(『玉葉』同日条)。九条兼実は「何事なるかを知らず」とするが、殿下乗合事件の処理について清盛と協議するためだった可能性が高い。12月9日、基房が太政大臣となったのは、事件で被害を受けたことへの慰撫と考えられる。翌嘉応3年(1171年)正月3日、摂政・大臣・公卿・平氏一門が臨席する中、天皇元服の儀式が執り行われた。

後白河院政は内部に利害の異なる諸勢力を包摂していたため、常に分裂の危機をはらんでいた。前年のような混乱を避けるためには政権内部の結束が不可欠だったが、そのような中で政権の強化・安定策として浮上したのが、高倉帝と清盛の女・徳子の婚姻である。承安元年(1171年)7月26日、後白河院は清盛から5頭と麝(じゃ)1頭を贈られる(『百錬抄』)。10月23日には滋子とともに福原に招かれて歓待を受けるが、これらは清盛による徳子入内の働きかけと見られる。後白河院にとって、院政確立のために平氏の支援は必要だったが、平氏の発言力が増大して主導権を奪われることは避けたかったものと推測される。

12月2日、入内定が法住寺殿で行われ、徳子は後白河院の猶子として入内することになった(『玉葉』『兵範記』)。白河法皇の養女として鳥羽天皇に入内した待賢門院の例が用いられたが、「かの例頗る相叶はざる由、世以てこれを傾く」(『玉葉』11月28日条)と周囲からは疑問の声が上がった。九条兼実は「法皇の養女では天皇と姉妹の関係になり、忌むべきものだ」(『玉葉』12月14日条)と非難している。徳子入内への反発は大きかったが、この措置で後白河院は徳子を自己の影響下に組み込み、発言力を確保することができた。14日、徳子は法住寺殿に参上して滋子の手により着裳の儀を行い、大内裏へと向かった。

日宋貿易と寺社の統制

後白河院と清盛の間には、政治路線の違いなど解消できない対立が存在したが、両者には旧来のしきたりや偏見にとらわれず目新しいものを好むという共通点もあった。後白河院は清盛の進める日宋貿易に理解を示し、貴族の反対を抑えてその拡大に取り組んだ。

嘉応2年(1170年)9月20日、後白河院は福原に御幸して宋人と会う(『百錬抄』『玉葉』同日条)。日宋貿易は民間で活発に行われ博多には宋人が居住し、越前国の敦賀まで宋船が来航することもあった。しかし畿内まで宋人が来ることは異例であり、外国人との接見は宇多天皇の遺戒でタブーとされた行為であったことから、九条兼実は「我が朝延喜以来未曽有の事なり。天魔の所為か」と仰天した。平氏は代々、博多と大輪田泊をつなぐ瀬戸内海航路の整備・掌握に力を入れていたが、清盛の力だけで宋船を畿内まで入港させることは困難であり、後白河院の助力が必要だった。同年5月25日、藤原秀衡鎮守府将軍に任じられているのは、日宋貿易における重要な輸出品である金を貢納させる狙いがあったと見られる。前述したように清盛は承安元年において後白河にヒツジとジャコウジカを献上しているが、いずれも日本には生息しない動物であり日宋貿易によってもたらされたものと思われる。

承安2年(1172年)9月になると、宋から後白河院と清盛に供物が届けられた。その送文には「日本国王に賜ふ物色、太政大臣に送る物色」と記されていた。「日本国王」は後白河院を、「太政大臣」は清盛を指していたが、「国王」は中国皇帝が周辺諸国に授ける臣下の称号で「賜ふ」というのも日本を見下した文言であり、「頗る奇怪」であると非難の声が上がった。また供物を送ったのが皇帝・孝宗ではなく皇帝の兄で明州刺史であった趙伯圭だったこともあり、貴族は相互に差別の無い外交に反するとして、品物は受け取らず返牒も出すべきではないと反発した(『玉葉』9月17日、22日条)。

しかし、翌承安3年(1173年)3月3日、左大臣・大炊御門経宗の計らいで返牒が出され、答進物が送られることになった。返牒は藤原永範が草案を作成し、藤原教長が清書した。内容は進物の美麗珍重を褒めたもので、後白河は蒔絵の厨子に入れた色革30枚・蒔絵の手箱に収めた砂金百両、清盛は剣一腰・物具(鎧)を送った(『百錬抄』3月3日条、『玉葉』3月13日条)。これ以降、日宋貿易は公的な性格を帯びて本格化していく。輸入品である宋銭は国内に大量に流入して、重要な交換手段となった。

後白河院が日宋貿易と並んで、積極的に取り組んだのが寺社の統制である。有力寺社はこの時期に荘園領主として発展し、各地で国司と紛争を引き起こしていたが、その中で特に強大だったのが「南都北嶺」と並び称された南都興福寺と比叡山延暦寺だった。興福寺と延暦寺は、藤原鎌足の墓がありながら天台宗である多武峯の帰属を巡って鋭い対立関係にあったが、承安3年(1173年)6月に抗争が激化して「昔より以降、南北大衆蜂起の中、今度より勝ること莫し」という情勢となった(『玉葉』6月23日条)。

後白河院は紛争の調停に乗り出し、両寺に大衆の蜂起停止を厳命していたが、6月25日に興福寺が多武峯を襲撃して、鎌足の御影堂までも焼き払った。さらに張本の差し出し・僧綱の召還命令に対しても「三千衆徒張本なり」(『玉葉』7月21日条)と応じなかったため、後白河院は法勝寺八講への興福寺僧の公請を停止し、興福寺別当・尋範らを解任した(『百錬抄』6月26日条、29日条)。

その後、興福寺は処分の撤回を求めていたが、10月29日に張本の覚興が配流されたため、11月3日に強訴と延暦寺攻撃の方針を固めて宇治に向かい、天台座主の配流・覚興の召還・七大寺の所領奪取を図る延暦寺僧の禁獄を要求した。後白河院は官兵を出動させて入京を阻止する一方、使者を遣わして大衆の説得を試みるが交渉は平行線をたどり、7日の春日祭は延引となり、11日に予定されていた熊野詣の進発も危ぶまれる事態となった。ここに至って後白河院は官宣旨を発し、東大寺・興福寺以下南都15大寺ならびに諸国末寺荘園の没官という前例にない厳しい処罰を下す(『百錬抄』『玉葉』)。南都15大寺領は2ヵ月後に返還されるが、後白河院の強硬な政治姿勢は寺社に強い衝撃を与えた。平氏は大和国の国検・盛子の摂関家領相続で興福寺とは対立関係にあったため、この強訴では後白河院に同調して迅速に行動したようである。

厳島御幸と安元の御賀

承安2年(1172年)、法住寺殿の南に滋子御願の新御堂が建てられることになり、2月3日に上棟式が行われた(『百錬抄』『玉葉』同日条)。これに先立つ嘉応2年(1170年)4月19日、後白河院は東大寺で受戒するため奈良に向かう途中、宇治の平等院に立ち寄り、本堂で見取り図を閲覧している(『兵範記』同日条)。承安元年(1171年)11月にも滋子を連れて再訪しているので(『玉葉』11月1日条)、平等院をモデルに造営する計画だったと思われる。しかし、諸国からは御願寺造営で重い賦課が課せられたという訴えが相次ぎ、工事は難航した。承安3年(1173年)10月21日、御堂の完成供養が行われ、最勝光院と名付けられる(『百錬抄』『玉葉』同日条)。その華麗と過差は先例を越えるもので(『玉葉』)、「土木之装麗、荘厳之華美、天下第一之仏閣」(『明月記』嘉禄2年6月5日条)と称されるほど、大規模なものだった。

承安4年(1174年)3月16日、後白河院は滋子を伴って安芸国厳島神社に参詣するため京都を出発、福原を経由して26日に到着した。交通手段は福原で清盛が用意した宋船であった可能性が高い。天皇もしくは院が后妃を連れて海路を渡り、遠方まで旅行することは前代未聞であり、吉田経房は「已無先規、希代事歟、風波路非無其難、上下雖奇驚、不及是非」(『吉記』3月16日条)と驚愕した。厳島参詣には清盛に対する政治的配慮の面もあるが、単純に滋子を連れて霊験殊勝な厳島神社を見物したいという願望・好奇心が大きな動機だったと考えられる。後白河院には后妃が何人かいたが、遠方に連れて行ったり、桟敷で共に並んで行列を見物したりするのは、滋子に限られていた。

厳島神社では回廊の下の波や山の緑といった風景を楽しみ、内侍の巫女の舞を見て「伎楽の菩薩が舞の袖をひるがえすのも、このようであったろうか」と感嘆する。やがて巫女が「我に申すことは必ず叶うであろう、後世のことを申すのは感心である。今様を聞きたい」と託宣を告げたので、「四大声聞いかばかり、喜び身よりも余るらん、われらは後世の仏ぞと、確かに聞きつる今日なれば(四大声聞の方々はどれほど身に余る喜びを感じただろう、釈尊から後世において仏に成り得ると、確かに保証の言葉を聞いた今日であるから)」と今様を歌う。後白河院は感極まって涙を抑えられなくなり、清盛は「この御神は後世の願いを申すことをお喜びになります」と説明した(『梁塵秘抄口伝集』)。

帰京後の7月8日、久我雅通が右大将を辞任する。後任人事では平重盛と花山院兼雅が候補に上がるが、「禅門の心重盛にあり」と清盛の意向が大きく作用した結果、重盛が任じられた(『玉葉』7月9日条)。翌安元元年(1175年)2月、雅通が死去して内大臣が空席となる。後白河院と平氏の間で調整が行われたためか後任はすぐに決まらず、11月10日になってようやく藤原師長が任じられることが決定した(『玉葉』同日条)。師長の後任の大納言には重盛が、重盛の後任の権大納言には藤原成親が昇格している。院近臣と平氏の対立抑止のためには、互いの勢力の均衡を保つことが重要だった。

安元2年(1176年)に後白河院は50歳を迎え、3月4日から6日にかけて法住寺殿で賀宴が催された(『百錬抄』『玉葉』『安元御賀記』)。この時期の天皇・院は短命で50歳に達することは稀であり、白河法皇の康和の例に倣って盛大に執り行われた。宴には後白河院・滋子・高倉帝・徳子・上西門院・守覚法親王・関白・大臣・公卿・平氏一門が出席し、初日は舞と楽が披露され、翌日には船を浮かべて、管弦や蹴鞠が行われた。最終日の後宴では高倉が笛を吹き、人々を感嘆させた。賀宴が無事に終わると、後白河は四条隆季を使者として「此度の御賀に、一家の上達部、殿上人、行事につけても、殊にすぐれたる事おほし。朝家の御かざりと見ゆるぞ」と清盛に院宣を下す。清盛は金百両を入れた白銀の箱を返礼として送った(『安元御賀記』)。皮肉にもこの賀宴は、後白河院と平氏の協力関係を誇示する最後の行事となった。

賀宴後の3月9日、後白河院は滋子を連れて摂津国有馬温泉に御幸する(『百錬抄』)。4月27日には比叡山に登り、天台座主・明雲から天台の戒を受け、延暦寺との関係修復を図った。しかし、6月に滋子が突然の病に倒れ、看護の甲斐もなく7月8日に薨去した。相前後して高松院・六条上皇・九条院も死去しており、賀宴の華やいだ空気は一変して政局は混迷に向かうことになる。

安元の強訴と鹿ケ谷の陰謀

滋子の死去によって、後白河院と平氏の関係は悪化の兆しを見せ始める。10月23日、四条隆房が後白河院の第九皇子(後の道法法親王)を抱えて参内、11月2日には平時忠も第十皇子(後の承仁法親王)を連れて参内し、2人とも高倉帝の猶子となった。九条兼実は「儲弐(皇太子)たるべきの器か」(『玉葉』10月29日条)と憶測しているが、これは後白河院による高倉帝退位工作の一環と考えられる。成人天皇の退位自体は白河・鳥羽院政期にもあったことで珍しくはなかったが、平氏にとって徳子に皇子が生まれる前の退位は絶対に認められるものではなかった。2人の皇子が高倉帝の猶子となったのは、後白河院と平氏の対立を回避するための妥協策と思われるが、これは問題の先延ばしに過ぎず、両者の対立は徐々に深まっていく。

12月5日に除目が行われ、院近臣の藤原成範・平頼盛が権中納言となる。空席となった参議には蔵人頭の西園寺実宗藤原長方が昇任したため、後任の蔵人頭の人事が焦点となった。ここで後白河院は、院近臣の藤原定能・藤原光能を押し込んだ。定能は道綱流、光能は御子左家の出身で長く公卿を出していない家系であり、位階上臈の藤原雅長平知盛を超えたことについて、九条兼実は「希代」と評している(『玉葉』同日条)。一方、翌安元3年(1177年)正月14日には平氏による巻き返しがあり、平重盛・宗盛がそれぞれ左大将・右大将となり、両大将を平氏が独占した。ただし宗盛は滋子の猶子で、後白河院との関係は良好だった。2月3日の宗盛の拝賀には殿上人・蔵人を前駆として遣わしている。3月14日には福原に御幸、千僧供養に参加して滋子の菩提を弔った。

平氏との関係は修復されたかに見えたが、ここで新たな要素として延暦寺が登場する。加賀国目代・藤原師経が白山の末寺を焼いたことが発端で、当初は目代と現地の寺社によるありふれた紛争にすぎなかったが、白山の本寺が延暦寺であり、師経とその兄である加賀守・藤原師高の父が院近臣の西光だったため、中央に波及して延暦寺と院勢力との全面衝突に発展した。3月28日、後白河院は師経を備後国に配流するが、延暦寺の大衆はあくまで師高の配流を求め

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2019/10/19 09:54

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「後白河天皇」の意味を投稿しよう
「後白河天皇」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

後白河天皇スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「後白河天皇」のスレッドを作成する
後白河天皇の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail