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徳仁とは?

第126代天皇

在位期間
2019年5月1日 - 在位中
令和元年5月1日午前0時0分 - 在位中

即位礼
即位礼正殿の儀
2019年(令和元年)10月22日
皇居 宮殿
大嘗祭
大嘗宮の儀
2019年(令和元年)11月14日15日
於 皇居 東御苑大嘗宮
【元号】
令和: 2019年5月1日 -
内閣総理大臣
一覧参照

【先代】
明仁
【】

【誕生】
1960年(昭和35年)
2月23日 16時15分
(60歳)
日本 東京都千代田区千代田
皇居宮内庁病院
【諱】
徳仁(なるひと)
1960年(昭和35年)2月29日命名
称号
浩宮(ひろのみや)
【印】
(あずさ)
【元服】
1980年(昭和55年)2月23日
【父親】
明仁(第125代天皇、上皇)
【母親】
美智子(上皇后)
【皇后】
雅子
(旧姓名:小和田 雅子)
1993年(平成5年)6月9日 結婚
【子女】
敬宮愛子内親王
【皇嗣】
秋篠宮文仁親王
【皇居】

【栄典】
一覧参照

【学歴】
学習院大学大学院人文科学研究科
博士前期課程修了
【役職】

称号: 天皇


【敬称】
陛下
His Majesty the Emperor
または
His Imperial Majesty (H.I.M.)
皇室




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2019年(令和元年)10月22日
即位礼正殿の儀に臨む天皇徳仁と皇后雅子

徳仁(なるひと(1960年昭和35年〉2月23日 - )は、日本の第126代天皇(在位:2019年令和元年〉5月1日 - )。称号浩宮(ひろのみや)お印(あずさ)敬称陛下勲等大勲位菊花章頸飾

明仁(第125代天皇・上皇)と美智子(上皇后)の第1皇男子(2男1女のうちの第1子)。昭和天皇皇孫皇后雅子(旧姓:小和田)。皇女子敬宮愛子内親王がいる。

戦後、かつ、日本国憲法及び現皇室典範下の生まれで即位した最初の天皇。元号法に基づいて「令和」(れいわ)と改元された。学位を持ち、海外留学の経験を有する。

住居は、東京都港区元赤坂にある赤坂御用地内の赤坂御所(旧:東宮御所)。

略歴

1960年(昭和35年)2月23日16時15分、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女・3人の子女の内、第1子)として、東京都千代田区千代田皇居宮内庁病院にて誕生する。同日は2020年(令和2年)以降、天皇誕生日となる。

御称号は「浩宮」(ひろのみや)、は「徳仁」(なるひと) と、命名された。

1989年(昭和64年)1月7日の自身の名付け親でもあった祖父・昭和天皇の崩御により、父、皇太子明仁親王(当時)の皇位継承(第125代天皇即位)に伴い皇太子(皇位継承順位第1位である皇嗣たる第1皇男子、法定推定相続人)となり、1991年(平成3年)には立太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、即位までは、政府の用いる正式表記では「皇太子」および敬称を冠し「皇太子徳仁親王殿下」と称された。

天皇即位以前、1987年(昭和62年)より2016年(平成28年)まで22回、自身は皇太子として海外訪問の期間または病気療養の期間、父帝から委任を受け国事行為臨時代行を務めた。2016年(平成28年)1月28日には、平成時代の国事行為臨時代行として初の閣僚に対する認証式を行った。

2019年(平成31年)4月30日午後12時の第125代天皇明仁の退位に伴い、令和元年(2019年)5月1日午前0時に、上皇となった父帝・明仁より皇位を継承し日本国憲法および天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づき、第126代天皇に即位する。

皇室男子として珍しく歴史学(主に交通史、流通史)を専門とする。またヴィオラ演奏、登山ジョギングを趣味とし、国民にもその姿をたびたび披露している。

来歴

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父:上皇明仁
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母:上皇后美智子

皇孫時代

1960年(昭和35年)2月23日16時15分、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一皇男子(2男1女のうち第1子)として、東京都千代田区千代田皇居宮内庁病院にて誕生する。身長47センチメートル、体重2540グラム。

旧皇族や旧華族階級でない、いわゆる平民家庭出身の母親であった皇太子妃美智子の意向に沿い、懐妊に際しては母子手帳が発行され、皇居宮殿内の御産殿での出産をせず一般家庭と同様に病院で行うなど、それまでの皇室の慣例によらない、戦後初の内廷皇族の親王(皇孫、皇太子の長男としてほぼ確実に将来において天皇に即位することが確定している男性皇族)誕生は、広く国民に注目された。同年2月29日に命名の儀において祖父帝の昭和天皇が「浩宮 徳仁(ひろのみや なるひと)」と命名した。「浩宮」の称号は四書五経のうちの『中庸』第32章にある「々たる天」、「徳仁」の名は同じく「聡明聖知にして天に達する者」を典拠とする。

「 | 肫肫たる其の仁、淵淵たる其の淵、浩たる其の天。苟くも固に聡明聖知にして天に達する者ならざれば、 其れ孰か能くこれを知らん。 | 」

—『中庸』第32章


それまでの傳育官制度を事実上廃止し、両親である皇太子同妃による育児・子育ても、国民の関心の的となった。中でも、生後7か月の徳仁親王から離れて皇太子同妃が14日間の公務訪米の際に、皇太子妃美智子が世話係へ書き置いた育児メモ「ナルちゃん憲法」は、子供を預けて勤労する一般家庭の母親たちの育児指針としても共感を呼んだ。

1964年(昭和39年)4月13日、学習院幼稚園に入園する。同年11月1日には着袴の儀を行う。両親である皇太子同妃は、専任の養育係を置かず、子育てを行った。ただし、東宮侍従濱尾実が、徳仁親王が1歳3か月の時から初等科5年生まで、専任の養育係に準ずる存在として養育および教育に貢献している。徳仁親王は濱尾を「オーちゃん」と呼び、濱尾家の子ども達とも親しく遊んでいた。両親の下で、弟・礼宮文仁親王、妹・紀宮清子内親王とともに育つ徳仁親王の様子は、報道を通じてしばしば公表され、一般国民の感覚に近寄った戦後の幸福な家庭像を描くとともに、新しい皇室像の形成にも大きく寄与した。

1966年(昭和41年)4月8日、学習院初等科に入学する。この頃から稲田悦子参与の指導でフィギュアスケートを始める(大学生の時にスピードスケートに転向)。学習院高等科時代は、正規の授業のほか、「『将来の天皇』としての素養を身につけさせる」という目的の下で、東宮御所におけるご進講の形で「歴代天皇の御事跡」や古事記日本書紀といった皇室史に関わる日本神話万葉集平家物語など日本の古典文学から比較神話学文化史文化人類学時事問題などを幅広く学習した。「帝王学」の一環と考えられる。学習院大学では音楽部に所属しヴィオラを担当した。在学中の1980年(昭和55年)2月23日、満20歳で成年式を執り行った。

1982年(昭和57年)3月に学習院大学文学部史学科を卒業した(文学士)。その後、同大学大学院人文科学研究科博士前期課程に進学。それまでの多くの皇族が、生物学を中心とした自然科学を専攻したのに対して、徳仁親王は史学中世の交通史・流通史という人文科学社会科学に近い分野を専攻した。

1983年(昭和58年)から1985年(昭和60年)にかけて、オックスフォード大学マートン・カレッジに留学して、テムズ川の水運史について研究。1988年(昭和63年)には、学習院大学大学院人文科学研究科の博士前期課程修了した(人文科学修士)。この間、1987年(昭和62年)10月3日から10月10日には昭和天皇の病気療養と父・皇太子明仁親王の外国訪問が重なり、初めて国事行為臨時代行に就いた。

昭和時代の末より、徳仁親王の伴侶たる親王妃候補について様々な憶測が報道されるようになり、1986年(昭和61年)10月18日、来日中のスペイン王女エレナ・デ・ボルボーン・イ・デ・グレシアの歓迎パーティーに親臨した際、外務省に勤務する女性国家公務員であった小和田雅子と知り合う(後述→#結婚までの経緯)。

皇太子時代

1989年(昭和64年)1月7日、祖父・昭和天皇崩御を受け、父・皇太子明仁親王が第125代天皇に即位した。これに伴い、皇位継承順位が1位となり、徳仁親王は皇太子(皇嗣たる皇子/皇男子、法定推定相続人)となった。また、それまで両親および弟妹の家族と同居していたがこれを機に別居、独立した。

父帝即位の礼などを経て、1991年(平成3年)2月23日、満31歳となった日に立太子の礼が執り行われた。また同日、皇太子の印とされる「壺切御剣」を父帝から親授された。

1993年(平成5年)1月19日、皇室会議において婚姻の相手に小和田雅子(当時:外務省北米局北米二課職員)を内定。同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。

小和田雅子との成婚までの経緯

皇后雅子
詳細は「皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀」を参照

1986年(昭和61年)10月18日、東宮御所で催されたスペイン国王フアン・カルロス1世の娘エレナ王女歓迎の茶会に、外務省条約局長だった小和田恆とともに招かれた、恆の長女で外務公務員I種試験に合格して間もない小和田雅子と初対面を果たす。1987年(昭和62年)4月25日には、高円宮憲仁親王同妃久子が高円宮邸に徳仁親王と小和田雅子を招き、親交を深めるきっかけを作った。

こうして親王妃候補の一人となった雅子の母方の祖父・江頭豊は銀行員であったが、四大公害病の筆頭である水俣病を引き起こした日本窒素株式会社のメインバンクから水俣病患者の保証部門として新設されたチッソに派遣されその後、社長に就任したことやメディアスクラムの被害、雅子自身の外交官の仕事への熱心さから、親王妃候補から外れた。しかし、この間も徳仁親王の念頭には雅子の存在があり、他の妃候補が同様のメディアスクラムの被害を受けるなどして次々と辞退したことと徳仁親王の希望もあり他の親王妃候補と平行して話が進んだ。宮内庁内の反対の流れを大きく変えたのは元最高裁判所判事であり当時宮内庁参事であった団藤重光の「江頭氏は再建のため日本興業銀行からチッソに入った。再建できなければ被害者への補償も不可能になった。水俣病の発生について法的責任はない」との見解であった。前宮内庁長官の富田朝彦は後に「和解案を裁判所が提出するとか、前向きの形といいますか、取り組みといったものが出てまいりまして、それでいまの藤森昭一長官ともその情勢をいろいろと話し合って、もうここまでくればいつまでも見守るという態勢ではないだろうと。そろそろいい時期にきたかなと、こういうふうになってきたのが大体の経緯です」と述べている。

また、天皇明仁と皇后美智子(いずれも当時)は「皇太子が選んだ相手との話を進めてもらいたい」との大御心を宮内庁に伝えたとされる。小和田雅子が英国留学から帰国した後に、藤森昭一宮内庁長官の依頼を受けた、元外務次官柳谷謙介が宮内庁と小和田家の仲介役を務め、1992年(平成4年)8月16日、柳谷邸にて徳仁親王と雅子が再会し、交際も再開した。同年10月3日に宮内庁新浜鴨場でのデートで徳仁親王が求婚した。小和田家側は辞退したが、徳仁親王は雅子に「天皇皇后両陛下も温かくお迎えするとおっしゃって下さっている」旨を伝えた。そして12月12日に東宮仮御所において雅子は婚約の受諾を伝えた。12月25日に東宮仮御所で、徳仁親王は雅子を天皇と皇后に紹介し歓談した。

翌1993年(平成5年)1月6日午後8時45分、報道協定が解除されたため、テレビ各局は通常番組を中断して雅子が皇太子妃に内定したことを報道した。同年1月19日、皇室会議(議長:宮澤喜一内閣総理大臣/宮澤改造内閣)において「皇太子徳仁親王と小和田雅子の婚姻」が全員一致で可決され、同日二人による記者会見が行われた。翌日からは多数の企業が祝賀広告を新聞に掲載するなど国民は祝賀ムードに包まれた。同年4月12日の納采の儀(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。その他の有力候補には天皇の学友で元華族男爵明石元紹の長女がおり、1988年(昭和63年)秋の秋篠宮文仁親王のダブル婚約の動きがあったが明石家の辞退でこの話は立ち消えた。その後最も有力といわれた妃の候補には旧皇族久邇邦昭の長女(香淳皇后の大姪)がおり、数回見合いをして電話やファックスのやり取りを重ね前年には旧皇族の久邇家も当人も了承し内定寸前まで話が進んだが、皇太子自身が小和田雅子への思いを捨てきれず破談となった。

同日、午前8時30分から2時間55分にわたってNHK(日本放送協会)が中継放送した「皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀」の平均視聴率は30.6%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した。そして成婚パレードの沿道には約19万人が集まり、そのテレビ中継の最高視聴率は79.9%を記録するなど、盛大な祝福を受けた。また当日は、「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」が制定されて休日となった。また各地で神輿・山車が繰り出され、提灯行列や花火の打ち上げや餅つき、国営公園の無料開放などが行われた。

皇太子妃雅子との成婚以降

成婚8年後の2001年(平成13年)12月1日、妃雅子との間に第1子で長女の敬宮愛子内親王が誕生した。

皇太子となってからは、たびたび外国を訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、公務の傍ら1991年(平成3年)9月には、イギリスの名門の一つであるケンブリッジ大学から名誉法学博士号を授与されている。そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の研究を続けている。学習院女子大学国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。

2004年(平成16年)5月10日、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる「人格否定発言」)。同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。同年7月に妃雅子が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。

2007年(平成19年)3月27日、定期健康診断十二指腸ポリープが発見された。同年5月には良性と診断されたが、同年6月6日に十二指腸ポリープの内視鏡による切除手術を東京都文京区東京大学医学部附属病院で受けた。同年11月1日、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。日本の皇族が国連などの常設の国際機関の役職に就くのは初である。

2009年(平成21年)11月8日から11月20日まで来日した彭麗媛が団長を務める中国人民解放軍総政治部の歌舞団が東京と札幌で中国歌劇『木蘭詩編』を学習院大学で公演した際に皇太子は私的に会場に行啓し2階VIP席で彭麗媛と隣り合わせの席で台覧して言葉を交わしており、彭麗媛の夫の習近平天皇特例会見と同様に「中華人民共和国による皇室の政治的利用」と批判されることになった。

2013年(平成25年)3月6日、米国ニューヨーク国連本部で開かれた「水と災害に関する特別会合」で、英語で基調講演を行った。同会合は、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)など世界的な水災害の増加を受け国連で初めて開催された会合である。

2016年(平成28年)1月28日、父帝・明仁皇后美智子(当時)とともに第二次世界大戦戦没者慰霊を目的としたフィリピン訪問のために不在であったことから、第3次安倍第1次改造内閣経済財政担当大臣甘利明から石原伸晃へ交代したことに伴う閣僚の認証官認証式を国事行為臨時代行の形で執り行った。

2017年(平成29年)6月16日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法公布、同年12月1日開催の皇室会議(議長:安倍晋三内閣総理大臣)及び12月8日開催の第4次安倍内閣の定例閣議で同法施行期日を規定する政令が閣議決定され、徳仁親王が2019年5月1日に、第126代天皇に即位する日程が確定された。

天皇即位

2019年(平成31年)4月30日午後12時、天皇の退位等に関する皇室典範特例法に従って第125代天皇明仁が退位すると同時に、(令和元年)5月1日午前0時、皇太子徳仁親王が直ちに第126代天皇に即位した。先帝・明仁は同日、上皇となった。

第120代仁孝天皇以来およそ202年ぶり、かつ、一世一元の制となった明治以降初めて、先帝からの譲位に伴い即位した天皇となった。また、59歳(数え60歳)での即位は、第49代光仁天皇の61歳(数え62歳)に次ぐ、歴代で2番目に高齢での即位である。

天皇の即位の日及び即位礼正殿の儀の行われる日を休日とする法律により、2019年5月1日は「天皇の即位の日」、同年10月22日は「即位礼正殿の儀が行われる日」とされ、共に同年限りで祝日扱いの休日となる。

なお皇太子徳仁親王の天皇即位に伴い、「皇太子」は、1926年(大正15年/昭和元年)12月25日の大正天皇の崩御による昭和天皇の即位から1933年(昭和8年)12月23日の父・継宮明仁親王の誕生するまで以来86年ぶりで、現行の皇室典範の下では初めて「空位」となった。一方で、皇位継承順位第1位の皇嗣となった、弟・秋篠宮文仁親王には、2020年(令和2年)4月19日に(立太子の礼に代わって)立皇嗣の礼が行われる予定。

即位の日、天皇は赤坂御所から皇居宮殿に向かい、即位の礼最初の儀式である「剣璽等承継の儀」に臨んだのち、皇后雅子をはじめ、皇嗣妃となった文仁親王妃紀子ら、成年の女性皇族も加わって行われた「即位後朝見の儀」において、天皇として初めて「おことば」を述べた。5月4日には新天皇の即位を奉祝する一般参賀が、皇居で行われた。

5月9日、国会衆議院は、即位に祝意を示す「賀詞」を全会一致で議決した。5月15日、参議院も同様の「賀詞」を全会一致で決議し、日本共産党も、衆議院では条件付きで、参議院では異論なしに賛成した。

5月9日、離任する駐日中華人民共和国大使の程永華と即位後初の外国賓客の引見を行い、国際親善の公務を開始した。

5月10日、財務省は、天皇陛下御即位記念貨幣(一万円金貨幣および五百円バイカラー・クラッド貨幣)を発行することを発表した。

2019年(令和元年)10月22日、皇居宮殿正殿・松の間にて即位の礼の中心儀式である即位礼正殿の儀が執り行われた。

同年11月9日皇居前広場にて開催された「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」に際し、皇后とともに二重橋に姿を見せた。

同年11月10日、皇居から赤坂御用地までオープンカーによるパレードを行う「祝賀御列の儀」(しゅくがおんれつのぎ)が執り行われた。

同年11月14日及び15日に、一世一度の宮中祭祀である大嘗祭(だいじょうさい)の中心儀式・「大嘗宮の儀」(だいじょうきゅうのぎ)を実施。