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志村けんとは?

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2020年3月30日 (月) 00:48 (UTC)貼付。(表示終了予定:2020年4月6日 (月) 00:48 (UTC))
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() (むら) けん
【本名】
志村 康徳(しむら やすのり)
【ニックネーム】
けんちゃん、しむけん
【生年月日】
(1950-02-20) 1950年2月20日
日本 東京都東村山市
【没年月日】
(2020-03-29) 2020年3月29日(70歳没)
日本 東京都新宿区
【血液型】
A型
【身長】
166cm
【言語】
日本語
【方言】
標準語
西関東方言多摩弁(コントの役により)
【最終学歴】
東京都立久留米高等学校(現・東京都立東久留米総合高等学校)
【師匠】
いかりや長介
加藤茶(二度目の付き人時代)
【コンビ名】
マックボンボン(解散)
カトケン(正式なコンビではない)
【グループ名】
ザ・ドリフターズ
【相方】
いかりや長介
高木ブー
仲本工事
加藤茶
【芸風】
コント喜劇
【立ち位置】
左端(ザ・ドリフターズ)
【事務所】
イザワオフィス
【活動時期】
1972年 - 2020年
【同期】
ビートたけし
笑福亭鶴瓶 など
【過去の代表番組】

レギュラー番組
天才!志村どうぶつ園
志村でナイト
加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ
ドリフ大爆笑
8時だョ!全員集合
ほか

スペシャル番組
志村けんのバカ殿様
志村けんのだいじょうぶだぁ
6人の村人!全員集合
ほか
【作品】
曲「東村山音頭
【他の活動】
トークバラエティ
【弟子】
上島竜兵
山崎まさや
乾き亭げそ太郎
大悟
【公式サイト】
志村けんプロフィール(イザワオフィスサイト内)
志村けんオフィシャルブログ「Kens BLOG」Powered by Ameba
【受賞歴】

1999年 ゴールデン・アロー賞 芸能賞

志村 けん(しむら けん、1950年2月20日 - 2020年3月29日)は、日本コメディアンお笑いタレント司会者である。ザ・ドリフターズのメンバー。イザワオフィス所属。1972年までの旧芸名および中国語での表記は「志村 健」。本名は志村 康徳(しむら やすのり)。

来歴

1950年2月20日、小学校教諭だった父・憲司(けんじ)と母・和子(かずこ)の三男として東京都北多摩郡東村山町(現:東京都東村山市)に生まれる。二人の兄(長男・知之と次男・美佐男)が大学を卒業して公務員になったが、末っ子の彼は後述の通り異なる人生を歩むこととなった。なお、芸名の「けん」は父親の名前から取ったものである。

幼い頃、父は厳格な人物で、彼の支配する家庭はいつも重苦しい雰囲気に包まれていたが、当時はまだ珍しかったテレビのお笑い番組で漫才落語を観ていた時だけは、嫌な日常を忘れることが出来た。志村は、「その時だけは父も声を出して笑っていた」と語り、そのような体験から、お笑い芸人の世界に憧れを抱くようになり、中学生の頃から本格的にお笑いを仕事とすることを決心する。志村が中学生だった頃の父・憲司は、校長への昇進を目指して勉強に励む毎日を送っており、自身は「つまらない人生だな」と思っていたとのこと。

東村山第二中学校時代は文化祭でよくコントを披露していたといい、所ジョージの遠戚とバンドを組んだこともあった。その後、両親の方針で「お金がかからない都立に行け」との理由から、新設された東京都立久留米高等学校に進学し、同高の第1期生となる。志村の中学校から同高を受験したのは志村を含めて13人で、教師からは「志村は無理だろう」と言われたが、合格したのは志村1人だけだった。同高ではサッカー部に所属し、GKとして在籍した。

付き人から芸能界デビューを経てドリフ入り

1968年2月、高校卒業間際にいかりや長介の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願する。由利徹コント55号ザ・ドリフターズ(以下ドリフ)のいずれに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選んだ(高校二年時に実際に由利徹のもとを訪ね弟子入りを志願したが、断られている)。雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも、門前払い同然の扱いで、容赦なく突き放されたが、それでも食い下がったため根性を買われ、「バンドボーイ」が辞めてメンバーに欠員が出たらという条件で仮採用された。いかりやは後に「帰宅すると勝手に居ただけで待っててくれと言った覚えはない」と語った。一週間後に呼び出された後楽園ホールで、いかりやから正式に採用を告げられた志村が、「じゃあ(高校)卒業したら来ます!」と答えると、「バーカ、明日から行くんだよ、青森に!」と言われ、翌日から青森巡業などへ同行させられるなどすぐに多忙となり、高校卒業式は当日の午前中だけ時間を貰い慌ただしく式に出席し、仕事に戻った。

加藤茶の付き人となるも1年余りで一度脱走し、バーテンダーなどのアルバイトをしていた。仲間が伝えるのを忘れていたため、脱走したとメンバー内で騒がれていた。戻って来た時にはいかりやの家に行きづらかった事から、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、「二度も弟子入りする奴は、よくよく好きなんだろう」と出戻りを認めてくれた。その後、しばらく加藤の付き人兼加藤家居候となる。

1972年、22歳の時に井山淳とお笑いコンビ・「マックボンボン」を結成し、「志村健」の芸名で芸能界デビュー。井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から足で顔面にツッコミを入れるなど、身体を張ったネタを披露し、歌謡ショーの前座として人気を獲得していく。10月には早くもコンビの名前を冠したテレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』(『シャボン玉ホリデー』の後番組で、後に放送時間を変更の上で『シャボン玉ボンボン』に改題)に出演が決まり、芸能界デビューが冠番組となる幸運となるが、知名度の低さ、ネタの少なさもあり人気は低迷(いかりやはテレビのレギュラーが決まる前からそのことを危惧していた)。12月31日放送分で番組は打ち切りとなり、この時点で井山が脱退(失踪)。コンビはその後自衛隊出身の福田正夫を相方に迎え心機一転を図るが、福田はそもそも芸能界志望ではなく、ネタ合わせも全く身が入らない有様で、結局自然消滅へと向かう。

志村はその後ドリフターズの付き人に戻ったが、戻った直後の1973年12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入する。

1974年3月31日をもって荒井注が脱退し、4月1日に正式にドリフのメンバーとなる。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバー豊岡豊の加入、及び、すわしんじの昇格も検討していたが、志村の順番であったことと加藤の推薦により若手の志村が起用された。当時、志村は24歳だった。

「東村山音頭」でヒット

ドリフメンバーとなり、楽器はギターを担当するようになった。

ドリフの正メンバーになって2年間ほど(この頃の芸名は「志村ケン」の表記もあった)は、ギャグがあまりウケず、志村にとってスランプの時代であった。

転機となったのは、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。きっかけは1976年3月6日新潟県民会館での公開生放送での同コーナーで、新潟にちなんだ歌として「佐渡おけさ」を全員で歌い、その後にゲストやドリフメンバーの故郷の歌をそれぞれ歌うという趣向だった。そこで志村は地元の「東村山音頭」を披露することになり、制作段階でリメイクを施して4丁目が完成。これに手応えを感じ、さらにリーダーのいかりやが3丁目を作詞・作曲し、志村の作詞・作曲による1丁目が加えられて、この3曲を本番でまとめて歌った。すると「毎回このコーナーの最後に歌った方がいい」ということになり、ついには各丁目ごとの衣装が作られるまでになり、特に1丁目は毎回様々な衣装で観客や視聴者を笑わせた。志村の「東村山音頭」は東村山市の知名度向上にも大きく寄与した(詳しくは後述)。

いかりやがツッコミであるドリフではボケを担当することが多いが、マックボンボン時代はツッコミであり、『全員集合』でいかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、いかりやの代役としてツッコミを担当したこともある。『全員集合』の後半コントなどでも女性歌手や加藤をボケに立て、自身がツッコミに回るコントもあった。カトケンのコンビでは基本的に加藤がボケで志村がツッコミを担当した。1980年代後半以降の自らの冠番組でもツッコミが相当あり、現在も『バカ殿様』でダチョウ倶楽部相手にツッコミを入れて落とすことがある。『NHK紅白歌合戦』の応援コーナーでビートたけしとコントを演じた際も、たけしのボケに志村がひたすらツッコミで回していた。

この頃、沢田研二とのコント内でのやり取り、息の合ったコンビネーションが絶大な人気を呼ぶ(詳細は#沢田研二との関係を参照)。

1979年には加藤茶との「ヒゲダンス」、1980年には「♪カラスの勝手でしょ〜(童謡『七つの子』の替え唄)」が人気を博した。

1981年2月18日仲本工事居作昌果と共に競馬のノミ行為容疑で任意聴取を受け書類送検されたことが発覚。当時の新聞の社会面やトップを飾り、朝日新聞の見出しは「ノミ馬券だョ!全員集合」であった。賭金が多額だった仲本と居作は略式起訴罰金刑となったが、志村は賭金が1万6千円と少額だったことから起訴猶予処分になった。この事件で仲本とともに1か月間謹慎となり、以降しばらく『全員集合』などへの出演を見合わせ、当時ドリフ全員で出演していた永谷園ふりかけのCMも、志村・仲本を除く3人のみが出演しているバージョンに改められた。また、『ドリフ大爆笑』で加藤茶とのコントで、加藤の馬を使ったボケに対して「俺あんまり馬で良い思い出ないんだよ」と語り、加藤が苦笑いで「俺随分働いたっけねあの時」と述べたことがあるなど、他のコントでも、加藤が志村に対してノミ行為のことをけしかけて笑いを取るという場面があった。この時志村が仲本・居作と同様に略式起訴され罰金刑となっていたら、競馬法の規定で馬主になることはできなかった。

冠番組へ

1985年に『全員集合』が終了。1986年に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタート。加藤がボケで、志村がツッコミを担当する。その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』、『志村けんのだいじょうぶだぁ』(現在は単発不定期で放送中)、現在も続く『志村けんのバカ殿様』などで、ドリフメンバー以外(田代まさし松本典子桑野信義石野陽子ダチョウ倶楽部)との活動が多くなる。この頃から「変なおじさん」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなる。

1988年大晦日には、山中秀樹と共にニュース番組『デイトライン特別版』のキャスターを担当した。しかし、1992年頃から数年間に渡り一時的な低迷期を迎える。ただしドリフターズとしての出演や志村名義でのゴールデンタイムの番組はタイトルを変更しながらも継続されており、当時と比較するとやや低迷気味と解釈される部分があった。

1996年にはゴールデンタイムのレギュラーから深夜枠で『志村〝X〟』『志村〝XYZ〟』『Shimura〝X〟天国』を2000年まで担当した。

死亡説

1996年9月頃、突如として「志村けん死亡説」が全国的に流布する。パソコン通信などを通じて広まった。

噂は尾ひれがついて拡大し、「群馬県赤城国際カントリークラブで急性心筋梗塞を起こし急死した」「尾瀬を観光中に尾瀬沼に落ちて溺死した」「たばこの吸い過ぎが原因の肺がんで、栃木県がんセンターで死んだ」「栃木県の国道交通事故に巻き込まれて事故死した」「死んだことは四十九日法要が過ぎてからでないと公表されない(この時期に亡くなった渥美清が遺言に「四十九日法要が済むまで公表するな」と書いていたことからとされる)」「今放送している番組は生前に撮り溜めしたもの」などと具体的な内容の噂に発展。栃木県立がんセンターが「志村(康徳)さんは入院していない」という異例の声明を出すに至り、9月28日には本人がインターホン越しに記者会見し、健在をアピールする事態になった。

この時期、志村は健康体で、入院が必要な大きな病気やケガもしておらず、噂の発生原因は不明だが、「志村のゴールデンタイムの全国ネット番組が終了したことで志村が自殺したのではないか?」「収入が無くなって死んだ」などという噂が週刊誌などでも広まった。騒動が収まったのち、高木ブーが自身が聞いた発生説として「この時期に『しむらけん』という人が北関東地方で亡くなり、それが志村と混同されたからだ」と語っている(志村の本名は康徳であり志村けんは芸名である)。

その後

1997年後半以降、バラエティ番組のゲストとして呼ばれることが多くなる。また、子供の時にテレビで志村を見て育った芸能人などから再び注目され始め、第3の人気ピークを迎えた。ただし以前のピーク時とは異なり、重鎮的なポジションで扱われる立場となったこともあり、全盛時と比べれば露出度は穏やかなものであった。

1998年12月30日、『21世紀プロジェクト〜年越し30時間テレビ 今日だけお見せ数々の名番組大集合!〜』後半部では、加藤と共に出演した。

一方、1985年の『全員集合』の終了後、シリアスな俳優として新境地を開いたいかりやや加藤と路線を異にし、『古畑任三郎』の犯人役のオファーを断るなど、一貫してコントやバラエティ以外のテレビ番組や映画で俳優として出演しないことを信条としていた志村だったが、1999年には映画『鉄道員(ぽっぽや)』に俳優として出演した。自宅の留守番電話高倉健直々の出演依頼のメッセージが残されていたため、「高倉の申し出があったのに出演しないとは言えなかった」と出演の理由を明かしている。この時の録音テープは、家宝としてその後も大切に保存しているという。なお、その映画で担当した役は原作にはないシーンで原作に登場しない人物である。その後、「鉄道員」出演以降は一部の声優業を除いて映画には1度も出演した事が無かったが、2020年12月に公開される映画「キネマの神様」(原作は原田マハによる同名小説)にて俳優である菅田将暉とダブル主演を務めるが告知され実に「鉄道員」以来約20年ぶりに映画出演を果たす予定となっていた。しかしながら、新型コロナウイルスに感染したことで辞退を余儀なくされ、結局出演を果たせぬまま2020年3月29日に合併症の肺炎で死去した。

『バカ殿』で共演していた東八郎に「東はいい歳になってもなぜ馬鹿な演技ができるのでしょうか」と尋ねた時、東から「芸人が本当は利口だと思わせようとしたり、文化人面(づら)したりするようになったらおしまい」と言われた。志村はこの言葉に深く感銘を受け、東に尊敬の念を抱いていたと何度も発言している。

1990年代半ばあたりまでの志村は非常に照れ屋で、フリートークが苦手だったため、トーク主体のバラエティ番組への出演はほとんどなかった。トークバラエティ番組に出た際は歓迎されたが、やはりツッコミが主な仕事だった(これは他のドリフメンバーにも共通する特徴だった)。当初はほとんどがコント用のかつらにメイクをした姿(「変なおじさん」「バカ殿」など)での出演だったが、これはそれまでコント一筋だった志村にとって、バラエティ番組に出演することは勝手が分からず気恥ずかしいという気持ちからである。「自分自身のことを語るトーク番組の出演は苦手であり、地声は低音である」と、2002年5月29日に放送された『わたしはあきらめない』でも語っている。しかし、その後は様々なトーク番組に頻繁にゲスト出演する経験を経て、素顔・コント用メイクのどちらでも出演するようになった。

2001年、「けん♀♂けん」名義で研ナオコとのデュエット曲「銀座あたりでギン!ギン!ギン!」をリリース。2002年4月、「バカ殿様とミニモニ。姫」として活動。持ちギャグの「アイーン!」を冠した曲を歌った。

2001年12月、盗撮事件による謹慎が解けたばかりだった田代まさしが男性宅の風呂を覗き見および覚醒剤所持で再び逮捕されたことに対し、田代の芸能界復帰を支援していた志村は桑野信義と共に「あいつは最低なことをしたのだから芸能界から消えてもらいたい」と田代を突き放すコメントをした。しかし、2009年11月、志村の楽屋に田代が訪れて土下座をしたことを自身のブログで報告し、ブログ上で田代にエールを送った。

2004年4月15日、自身がMCを務める『天才!志村どうぶつ園』が放送開始。元来の動物好き、シャイで涙もろい志村の人柄をそのまま活かし、人気番組となる。当初は木曜日午後7時台の放送だったが、2007年4月から土曜日午後7時台に枠移動した。

2004年12月7日、東京都三鷹市内の自宅に泥棒が侵入し、時計宝石類1000万円相当と現金40万円を盗まれる被害に遭った。本人は会見で「迷惑だねぇ」と困惑の色を隠せなかったが、のちに「ちゃんと仕事して金稼いで下さい」と犯人にコメントし、最後に「だいじょうぶだぁー」と締めた。後に『天才!志村どうぶつ園』でこの事件が取り上げられた際、ペットの犬たちは人懐こいため泥棒に吠えなかったことが明かされ、「番犬にならない」と苦笑した。また、ホームセキュリティに加入していたにも関わらず、警備員が駆けつける前に盗難被害に遭ったことも話題となった。当時、志村は『発掘!あるある大事典Ⅱ』の収録の為、大阪に行っている最中に起きた出来事である。似たような事件が2年前小出義雄宅でも起こっており、約500万円の現金が盗まれている。小出は「警察には被害届を出さない代わりに、その金を元手に商売するか、まっとうに仕事をしろ!」と犯人にアピールした。志村のコメントは小出のアピールを引用したものと思われる。

2005年ビートたけしと組んで1時間半のコント番組『たけし☆志村 史上最強の爆笑スペシャル!!』を制作。ダチョウ倶楽部やたけし軍団の一部も参加した。番組の最後には、志村の三味線とたけしのタップダンスの競演が披露された。

2006年4月、「理想のお笑い」を追求すべく、東京芸術劇場で『志村魂(しむらこん)』と銘打った舞台を上演する。前半に「バカ殿様」とコント1本、後半は藤山寛美の作品『一姫二太郎三かぼちゃ』をラサール石井がリメイクした舞台を上演した。

2007年6月には、東京芸術劇場と中日劇場で第2弾『志村魂2』を上演。第1弾の演目に加え、「津軽三味線」が上演された。2008年5月から7月にかけては、全国で第3弾『志村魂3』を上演。後半に藤山寛美の作品『人生双六』をリメイクした舞台を上演した。

2009年7月には、銀河劇場と中日劇場で第4弾『志村魂4』を上演。2010年7月から8月にかけては、全国で第5弾『志村魂 -初午の日に-』を上演し、後半に『初午の日に』を上演した。2011年7月には、銀河劇場で第6弾『志村魂 -初午の日に-再び!』を上演。

2012年6月から7月にかけては、全国で第7弾『志村魂 -先づ健康-』を上演し、後半に『先づ健康』を上演した。

2015年11月23日に「一番のファン」だった実母が老衰のため死去。96歳没。ブログではたびたび「母に感謝す」と記していた志村は「天国からまだまだ応援見守って下さい」などのコメントを発表した。

2020年1月に、同年3月30日放送開始のNHK連続テレビ小説エール』でテレビドラマに初出演することが報じられ、山田耕筰をモデルとする役で、4月27日放送分から登場予定。

体調不良

2016年8月19日肺炎で入院したことが判明した。これに伴い、8月20日および21日に予定されていた公演『志村魂』の大阪・新歌舞伎座公演は中止することになった。その後、8月31日に退院している。それまでは1日に3箱のたばこを吸うほどのヘビースモーカーであったが、この件にショックを受け、その後禁煙をした。

2020年2月22日に都内で開かれた誕生日パーティーで胃の切除手術を受けたことを告白。その際に志村は詳細を語らず、胃癌だったのではないかと出席者から心配の声があがったが、所属事務所によると、健康診断でみつかったポリープ切除の内視鏡手術で1月に4日間入院していたとのことで、直接的に仕事に影響を及ぼすことはなかった。

新型コロナウイルスへの感染と死去

2020年3月17日に倦怠感を訴え、自宅で静養。19日に発熱と呼吸困難の症状が出始め、翌20日に訪問診察をしたところ重度の肺炎と診断され、東京都港区内の病院に緊急入院となった。入院後、21日に人工呼吸器に切り替えた段階から意識はなかった。入院の際に新型コロナウイルスの検査を実施したところ、23日に陽性と判明した。24日に人工心肺が必要と診断を受けて、新宿区内の病院へ転院してECMOを装着。入院時には肺に影も見られ、一時は気道を確保する気管挿管の処置も取られた。また、同日には保健所による調査で、17日が発症日であることと濃厚接触者の特定が完了したが、感染経路については不明とされている。検査結果を受け、同年12月公開予定だった自身初の主演映画『キネマの神様』のクランクインが延期となり、3月26日、同作への出演を辞退したことを所属事務所が発表した。

2020年3月29日午後11時10分、新型コロナウイルスによる肺炎のため、入院先の国立国際医療研究センター病院で死去した。70歳没。

その他

2000年代になってから健康オタク、動物愛好家としても知られ、お笑いタレントとしてのみならずコメンテーター的存在としても活動していた。ただし、トーク主流のテレビ番組のあり方については、持論として、いくつかの雑誌などでのインタビューで疑問符を投げかけていた。また、テレビ不況についても嘆いており、自身のコントでも「クイズ番組が多すぎる」「時代劇が不振」と苦言を呈していた。

2006年より自身のブログを更新していた。ブログでは日々の生活などが書き込まれており、60代からは体調の変化について書き込まれることも増えていた。2015年11月25日のブログでは、母・和子が11月23日に亡くなったことを明かした。

お笑いの賞レースやコンテストで審査員を務める事もあり、コント専門ながら漫才の大会であるTHE MANZAI2014では審査員として出演した。また、歌ネタ王決定戦でも第2回、第3回大会で審査員を務めた。

エピソード

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この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2008年2月)

音楽

ソウル・ミュージックファンクジャズなど、あらゆる分野の音楽に興味を示し、自宅には膨大な数のレコードやCDのコレクションがある。「ヒゲダンス」で使用されたBGMがテディ・ペンダーグラスの「Do Me」のリフループしたものであったり、「ドリフの早口ことば」が当時、渡辺音楽出版が発売権を買い付けたシュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」の印象に、ウィルソン・ピケットの「Don't Knock My Love」のバックトラックをはめ込んだものだったりしたが、これは当時ソウル・ミュージックを好んで聴いていた志村が探し出して推薦したものである。更に志村加入後に発売されたドリフターズのシングル「ドリフのバイのバイのバイ」では、志村によるソウルフルな合いの手も聞かれる。また、かつて音楽誌『jam』でソウル・アルバムのレビューを書いていたこともある。

ドリフにおける担当はギター(初期はキーボード)。過去のバンド演奏でキーボードを弾いている姿が見られるが、高木ブーは「ギターだった俺が荒井の担当だったキーボードになって、ギターしか弾けない志村がギター担当になった」と発言している。番組内でビートたけしのタップダンスに合わせて三味線を弾いたり、コントで霊媒師を演じた時には琵琶ギターのテクニックの一つであるチョーキングを披露するなど、バンドマンとしての技能が見られた。

なお、『志村けんの全員集合 東村山音頭』はザ・ドリフターズ名義の曲として、唯一加藤以外がソロボーカルとなる曲である。

中学以来のビートルズファン。このためか、中学時代に畑でバンドをやっていたという(兄談)。ビートルズの日本公演を観に行った際、持参したカメラで1枚のみ隠し撮りをしており、その写真をパネル化してテレビ番組で公開したことがある。その写真ではジョン・レノンが丸いサングラスをかけており、1966年7月2日公演と分かる。同日の公演は、音源・映像とも、公式には一切収録されていない。

津軽三味線を趣味としており、上妻宏光の指導を受けて短期間で上達、舞台(『志村魂』など)の後半で度々披露していた。きっかけは、上妻の楽曲「紙の舞」を聴いて感銘を受けた志村が、その曲が弾けるようになりたいと上妻に指導を頼み込んだことにある。当初、上妻は「紙の舞」は非常に高度な技術が要求されるため、志村には基礎的なじょんから節から教えようと思っていたにもかかわらず、予想を超えるスピードで志村が「紙の舞」を習得してしまったという逸話がある。志村は、この上妻の楽曲「紙の舞」を舞台で度々演奏した。

ドリフメンバーとの関係

いかりや長介に弟子入りする際には、『芸能人名鑑に記載されていたいかりやの自宅住所を見て自ら押しかける』という手段を取ったことを志村自らが明らかにしている。

だがそのいかりやと志村は一時期(1989年から1990年代初め頃)不仲だった。当時の『ドリフ大爆笑』で

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出典:wikipedia
2020/04/01 08:40

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