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応仁の乱とは?

応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1478年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏斯波氏の家督争いから、細川勝元山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。

目次

  • 1 背景
    • 1.1 足利義政の8代将軍就任
    • 1.2 細川氏・山名氏の連携と、管領畠山持国の隠居
    • 1.3 管領細川勝元と畠山義就の対立
    • 1.4 足利義政の関東政策と斯波氏
    • 1.5 足利義政と政所執事
    • 1.6 足利義視の還俗と義尚誕生
    • 1.7 文正の政変
  • 2 前哨戦
    • 2.1 御霊合戦
  • 3 本戦
    • 3.1 大乱前夜
    • 3.2 各勢力の動向
    • 3.3 開戦と足利義視の西軍攻撃
    • 3.4 大内政弘の入京
    • 3.5 足利義視の西軍入り
    • 3.6 細川勝元と山名宗全の死去
    • 3.7 足利義政の隠居と和睦交渉
    • 3.8 終息
  • 4 戦乱の影響
    • 4.1 幕府・守護権力の変化
    • 4.2 公家の没落
    • 4.3 京都の被害
    • 4.4 京都の復興
    • 4.5 戦術の変化
  • 5 後世の評価と研究
    • 5.1 拡大の要因
    • 5.2 軍記による描写
  • 6 地方の戦乱
    • 6.1 摂津・河内・和泉・山城
    • 6.2 大和
    • 6.3 近江・美濃
    • 6.4 越前・尾張・遠江
    • 6.5 播磨・備前・美作
    • 6.6 備後・安芸
  • 7 脚注
    • 7.1 注釈
    • 7.2 出典
  • 8 参考文献
    • 8.1 中央関係
    • 8.2 地方関係
  • 9 関連項目
  • 10 外部リンク

背景

足利義政の8代将軍就任

鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、相次ぐ戦乱の結果、力をつけてきた国人・商人・農民などの台頭によって、その既得権益を侵食されつつあった。また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は成立当初から将軍の権力基盤は脆弱であり、三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)などの宿老の影響を強く受けていた。また、同じようにその宿老や守護大名も例外ではなく、領国の守護代や有力家臣の強い影響を受けていた。

こうした環境は当時、家督相続の方式が定まっていなかったことも相まってしばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった。

室町幕府は、4代将軍足利義持の弟であり、籤引きによって選ばれた6代将軍足利義教が専制政治を敷いて守護大名を抑えつけ将軍の権力を強化したが、嘉吉元年(1441年)に赤松満祐暗殺されてしまう(嘉吉の乱)。この混乱を収束させたのは管領細川持之畠山持国であった。しかし、嘉吉2年(1442年)細川持之は隠居し翌年死去、7代将軍は義教の嫡子である9歳の義勝も就任1年足らずで急逝、義勝の同母弟である8歳の足利義政が、管領に就任していた畠山持国邸における衆議により次期将軍に選ばれ、文安6年(1449年)に正式に将軍職を継承した。

細川氏・山名氏の連携と、管領畠山持国の隠居

管領であった畠山持国は、足利義教に隠居させられていたが嘉吉の乱の際に武力で家督を奪還しており、義教によって家督を追われた者達を復権させ勢力を拡大した。また、子が居なかったため弟の持富を養子に迎えていた。しかし、永享9年(1437年)に義夏(後の畠山義就)が生まれたため、文安5年(1448年)に持富を廃嫡して義夏を家督につけた。これは義政にも認められており、義夏は偏諱を授けられている。そして、畠山持国、足利義政、義政の乳母今参局は一致して斯波氏家臣の争いに介入し、宝徳3年(1451年)の織田郷広の尾張守護代復帰を支援した。しかしこれは越前・遠江守護代甲斐常治の意を受けた日野重子(義政の母)の反対により頓挫した。

さらに、畠山家内部でも重臣神保氏遊佐氏は持富の廃嫡に納得せず、持国の甥で持富の子弥三郎を擁立するべきと主張した(持富は宝徳4年(1452年)に死去)。このため享徳3年(1454年)4月3日畠山持国は神保国宗を誅殺した。この畠山氏の内紛に対し、細川勝元山名宗全、そして畠山氏被官の多くが、勝元と宗全の下に逃れた畠山弥三郎・政長兄弟を支持し、8月21日に弥三郎派が持国の屋敷を襲撃、難を逃れた畠山持国は8月28日に隠居させられ、義就は京都を追われ、足利義政は弥三郎を家督継承者と認めなくてはならなかった。

一方で、弥三郎を匿った細川勝元の被官の処刑も命ぜられ喧嘩両成敗の形も取られた。しかし山名宗全はこの命令に激怒し、処刑を命令した義政とそれを受け入れた勝元に対して反発した。足利義政は宗全追討を命じたが、細川勝元の嘆願により撤回され、宗全が但馬国に隠居することで決着した。12月6日に宗全が但馬国に下向すると、13日に義就が軍勢を率いて上洛して弥三郎は逃走、再び畠山義就が家督継承者となった。なお、文安4年(1447年)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあった。

管領細川勝元と畠山義就の対立

翌享徳4年3月26日(1455年4月12日)に畠山持国は死去し、畠山義就が畠山氏の家督を相続した。義就は弥三郎派の勢力を一掃するため、領国内で活発な弾圧を行った。この最中、義就は義政の上意と称して軍事行動を行ったため、義政の信任を次第に失った。さらに義就は勝元の所領である山城国木津を攻撃、細川勝元は弥三郎を擁立することで義就の追い落としを計画した。一方で山名宗全は長禄2年(1458年)に赦免、同年に義就と共に八幡神人討伐に参陣した頃から親義就派となっていった。

長禄3年(1459年)には弥三郎が赦免され、上洛を果たした。弥三郎は程無く死去、政長が勝元と弥三郎派の家臣団に擁立され、寛正元年(1460年)9月20日には義政によって政長の畠山氏家督が認められ、義就は追放された。義就は河内嶽山城に籠もって徹底抗戦を図ったため義政は追討軍を発し、義就を攻撃させた(嶽山城の戦い)。しかし義就は寛正4年(1463年)4月15日まで攻撃を耐え抜き、嶽山城が落城した後は紀伊国、次いで吉野へ逃れた。

足利義政の関東政策と斯波氏

一方、関東では、享徳3年(1455年)に幕府に叛旗を翻し享徳の乱を起こした鎌倉公方(後に古河公方)足利成氏を討伐するため、長禄元年(1457年)足利義政は、異母兄の足利政知を新たな鎌倉公方として関東に派遣したが政知は鎌倉へ下向出来ず、長禄2年(1458年)伊豆国堀越に留まった(堀越公方)。足利義政は斯波義敏を始めとする成氏追討軍を派遣しようとしたが、義敏が執事の甲斐常治と内乱(長禄合戦)を起こしたため更迭、息子の松王丸(義寛)を斯波氏当主に替えた。

更に寛正2年(1461年)、足利義政は斯波氏の家督を松王丸から、足利政知の執事である渋川義鏡の子・斯波義廉に替え、堀越府の軍事力強化を企図した。しかし渋川義鏡が扇谷上杉家上杉持朝と対立し、その後失脚したため、足利義政は斯波義敏の復権を画策した。

詳細は「武衛騒動」を参照

足利義政と政所執事

畠山氏や斯波氏の他にも、富樫氏小笠原氏六角氏でもお家騒動が起こっている。幕府はこれらの調停も行ったが、対応が首尾一貫せず、守護家に分裂の火種を残した。この政策を主導したのは、義政側近の伊勢貞親であった。伊勢貞親は室町幕府政所執事であり、将軍権力の向上を図ったものであった。

更に、寛正4年(1463年)8月、義政の母日野重子が没し、大赦が行われ、畠山義就、武衛騒動で失脚した斯波義敏ら多数の者が赦免された。この前後の一貫性のない幕府・朝廷の対応を興福寺別当尋尊は「公武御成敗諸事正体無し」と批判している。しかし、この大赦には、斯波義敏の妾と伊勢貞親の妾が姉妹であることや、細川勝元への牽制などの動機があった。

ところが、この伊勢貞親の政策の裏では、中央から遠ざかっていた山名宗全が斯波義廉に接近、畠山義就、伊予国や安芸国で細川勝元と対立する大内政弘とも提携、反勢力の中核となっていった。また、嘉吉の乱鎮圧に功労のあった山名宗全は主謀者赤松氏の再興に反対していたが長禄2年(1458年)、勝元が宗全の勢力削減を図って長禄の変に赤松氏遺臣が功績を建てたことを根拠に赤松政則加賀守護職に取立てたことから両者は激しく対立し、後に勝元が養子で宗全の末子豊久を廃嫡したことが応仁の乱の一因となったともされる。

足利義視の還俗と義尚誕生

足利義政は29歳になって、正室である日野富子や側室との間に後継男子がないことを理由に将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立った。禅譲を持ちかけられた義尋はまだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍職就任の要請を固辞し続けた。しかし、義政が「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させることはない」と起請文まで認めて再三将軍職就任を説得したことから寛正5年11月26日(1464年12月24日)、義尋は意を決して還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移った。

寛正6年11月23日(1465年12月11日)、義政と富子との間に足利義尚(後に義煕と改名)が誕生する。実子・義尚の将軍職擁立を切望する富子は宗全に接近し、義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍した。義視の後見人である勝元と義尚を推す宗全の対立は激化し将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に2分する事態となり、衝突は避け難いものになっていった。

文正の政変

文正元年(1466年)7月23日、足利義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏宗家・武衛家の家督を突然、斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。8月25日には越前尾張遠江守護職も与えている。さらに、足利義政の側近は、謀反の噂を流して足利義視の追放、誅殺を図った。

これに対し、斯波義廉と縁戚関係にあった山名宗全は一色義直土岐成頼らと共に足利義視と斯波義廉を支持し、足利義視は後見人である細川勝元を頼った。勝元は宗全と協力して足利義視の無実を訴え、9月6日、足利義政は伊勢貞親を近江国に追放、側近であった季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則も失脚して都を追われた。14日に斯波家の家督は斯波義廉に戻された。この政変により、足利義政の政治力は著しく低下した。

詳細は「文正の政変」を参照

前哨戦

御霊合戦

「応仁の乱勃発地」の石碑(京都市上京区御霊前通烏丸東入、上御霊神社鳥居前)

文正元年(1466年)12月、畠山義就が突如大軍を率いて上洛し、千本地蔵院に陣取った。これは、文正の政変の結果に満足しない山名宗全、斯波義廉の支援をうけたものであった。足利義政はこの動きに屈し、文正2年1月2日(1467年2月6日)、畠山政長(管領)や、細川勝元に断ることなく、将軍邸の室町御所に畠山義就を招いた。追い討ちをかけるように足利義政は正月恒例の管領邸への「御成」を中止し、3日後の5日に畠山義就が宗全邸で開いた酒宴に出席、その席で義政は畠山義就の畠山氏総領を認め、畠山政長に春日万里小路の屋敷の明け渡しを要求させる。畠山政長は反発して管領を辞任し、後任に山名派の斯波義廉が就任した。

細川勝元は室町御所を占拠して足利義政から畠山義就追討令を出させようとするが、富子が事前に察知して山名宗全に情報を漏らしたため失敗した。政局を有利に運んだ山名宗全は自邸周辺に同盟守護大名の兵を多数集め、内裏と室町御所を囲み足利義政に畠山政長や細川勝元らの追放を願い出た。これを知った細川勝元・畠山政長・京極持清はそれぞれ御所の西側・北側・南側に布陣して御所への攻撃を企てた。足利義政は細川勝元の追放は認めなかったが、諸大名が一方に加担しないことを条件に畠山義就による畠山政長への攻撃を認めた。

文正2年(1467年)1月18日(2月22日)、政長は無防備であった自邸に火を放つと兵を率いて上御霊神社(京都市上京区)に陣を敷いた。一方義就は後土御門天皇後花園上皇伏見宮貞常親王(上皇の実弟)を一つ車に御乗せして室町御所に避難させた。義政は畠山氏の私闘への関わりを禁じるが、宗全や斯波義廉(管領)、山名政豊(宗全の孫)、朝倉孝景らは義就に加勢した。一方勝元は義政の命令に従って援軍を出さなかった。このため勝元は「弓矢の道」に背いたと激しい非難を受けた。

御霊社は竹林に囲まれ、西には細川が流れ、南には相国寺の堀が位置した。義就側は釈迦堂から出兵して政長を攻撃した(御霊合戦)。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけ、自害を装って逃走した。勝元邸に匿われたと言われる。

室町御所が山名軍に占拠されたために、勝元は形式上は幕府中枢から排除された。だが、勝元は京都に留まり続けただけでなく、非常事態を口実に細川京兆家の当主として、独自に管領の職務である軍勢催促状や感状の発給や軍忠状の加判などを自派の大名や国人に行わせた。

本戦

大乱前夜

御霊合戦の後、細川勝元は四国など領地9カ国の兵を京都へ集結させるなど緊張が高まった。文正2年(1467年)3月5日には元号が文正から応仁に改元された。4月になると、細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。京都では細川方の兵が宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。

片や宗全は5月20日に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。山名方は斯波義廉(管領)の管領下知状により指令を行っていた。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。兵力は『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されているが、誇張があるという指摘もされている。京都に集結した諸将は北陸信越東海九州筑前豊後豊前が大半であった。

地理的には、細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加えその近隣地域にも自派の守護を配置していたため、当初から東軍が優位を占めていた。西軍は山名氏を始め、細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める周辺地域の勢力が参加していた。当初の東軍の主力は、細川家、斯波家、畠山家と、京極持清、赤松政則、武田信賢であり、西軍の主力は、山名家、斯波家、畠山家、義政の側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や、土岐成頼、大内政弘であった。

一方、関東や九州では鎌倉公方少弐氏らによりたびたび大規模な紛争が発生しており、中央の大乱より前に戦乱状態に突入していた(関東については享徳の乱を参照)。

各勢力の動向

応仁元年(1467年)の勢力図
水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲

応仁の乱は先述の通り御霊合戦を契機に前半は京都を中心とした山城一帯が主戦場となっていたが、次第に地方へ戦線が拡大していった。鎌倉府が管轄する関東地方八ヶ国と伊豆甲斐は享徳の乱が勃発していたが、足利義政が送り込んだ堀越公方に対し、古河公方側は西軍と連携する動きもあった。更に、文明7年には関東管領上杉顕定の実父でその後見人でもあった越後守護上杉房定が、西軍の能登守護・畠山義統と共に東軍の畠山政長が領する越中を攻撃するという事件も起きている。

東軍は将軍・義政や後土御門天皇・後花園法皇を保護下に置き、将軍牙旗や治罰院宣を駆使して「官軍」の体裁を整えており、西軍は結果的に「賊軍」の立場に置かれていた。しかし、正親町三条家阿野家葉室家などのように将軍姻戚の日野家と対立する公家の一部は義視と共に西軍に投じており、さらに西軍は「西陣南帝」と呼ばれた小倉宮後裔を担ぐなど朝廷も一時分裂状態に陥った。

宗教勢力の動きでは蓮如率いる浄土真宗本願寺派の活動が知られ、文明5年に東軍の加賀半国守護・富樫政親の要請を受けて下間蓮崇率いる一向一揆が政親方に加担。本願寺派と敵対する浄土真宗高田派と結んだ西軍の富樫幸千代と戦い、翌文明6年に幸千代を破っている。ただこの一件が後に加賀一向一揆を勃発させる遠因となった。

下表に東軍(細川方)と西軍(山名方)に各々参加した守護大名や国人を列挙する。

※◆は西軍から東軍へ寝返った武将、★は東軍から西軍へ寝返った武将、×は応仁の乱終戦までに死去した武将を示す。

【氏族】
【領国】
【東軍】
【西軍】
備考
足利氏 奉公衆
奉行衆領 | 足利義政(第8代将軍)
足利義尚(第9代将軍) | 足利義視(義政の弟)★
(足利義材→第10代将軍)
 | 将軍家
伊勢氏 山城



三河
 | 伊勢貞親(政所執事)×
伊勢貞宗(貞親の嫡子)
伊勢盛定(後北条氏の祖)
蜷川親元(政所執事代)
戸田宗光
松平信光(徳川氏の祖) | 伊勢貞藤(貞親の弟)





 | 政所執事
将軍養育係
七頭



吉良氏 三河 | 吉良義真(西条家) | 吉良義藤(東条家) | 御一家
渋川氏 肥前 |  | 渋川教直(九州探題・肥前守護) | 御一家
斯波氏 越前・遠江




尾張 | 斯波義敏(大野系当主)
斯波義寛(義敏の子)
斯波持種(大野家)×
甲斐敏光(越前遠江守護代)◆
朝倉孝景
織田敏定(清洲家) | 斯波義廉(管領・渋川系当主)




織田敏広(尾張守護代・岩倉家) | 管領(1467-77年)
足利氏庶流・三管領家
武衛騒動も参照


畠山氏 河内・紀伊
越中

能登 | 畠山政長(管領・尾州家)
神保長誠(越中紀伊郡守護代)
遊佐長直(河内守護代)

 | 畠山義就(総州家)
畠山政国(義就の猶子)×
遊佐就家
畠山義統(能登守護) | 管領(-1467,73,77年-)
足利氏庶流・三管領家
大和



 | 筒井順永
成身院光宣(順永の兄)×
十市遠清
箸尾為国 | 越智家栄
古市胤栄
古市澄胤(胤栄の弟)

 | 
細川氏 摂津・丹波
讃岐





和泉

備中
淡路
阿波・三河



伊予
土佐
 | 細川勝元(管領・宗家)×
細川政元(勝元の子)
細川政国(典厩家・政元後見)
安富元綱(執事)×
安富元家
内藤元貞(丹波守護代)
細川四天王(讃岐守護代等)
細川常有(和泉上半国守護)
細川政久(和泉下半国守護)
細川勝久(備中守護)
細川成春(淡路守護)
細川成之(阿波三河守護)
東条国氏(三河守護代)×
三好長之(阿波郡守護代)
三好之長(長之の子)
細川賢氏(伊予守護)
細川勝益(土佐守護代)
長宗我部文兼 |  | 管領(1468-73年)
足利氏庶流・三管領家
赤松氏 播磨・備前
美作・加賀



 | 赤松政則(侍所所司)
浦上則宗(侍所所司代)
宇野政秀(赤松分家)
小寺則職
松田元成 | 有馬元家(赤松分家)×



 | 七頭・四職
侍所所司(1471年-)




山名氏 但馬・播磨


因幡
伯耆・備前

石見・美作
備後・安芸 | 






山名是豊(宗全の子) | 山名宗全(宗家)×
山名教豊(宗全の子)×
山名政豊(教豊の子)
山名豊氏(因幡守護)
山名教之(伯耆備前守護)×
山名豊之(教之の子)×
山名政清(教之の子)
 | 七頭・四職
1474年以降は東軍
播磨・備前・美作は
赤松氏に奪還された
安芸


 | 小早川煕平(沼田家)×
小早川敬平(敬平の子)

吉川経基
 | 小早川盛景(竹原家)
小早川弘景(盛景の子)
小早川弘平(弘景の子)
毛利豊元★ | 
武田氏 若狭・丹後



安芸 | 武田信賢(若狭丹後守護)×
武田国信(信賢の弟)
逸見繁経×
粟屋賢家

 | 



武田元綱(安芸分郡守護)★ | 
一色氏 丹後・伊勢

尾張
三河

 |  | 一色義直(宗家)
一色義春(義直の子)
一色義遠(尾張分郡守護)
一色政照(三河分郡守護)
一色時家 | 七頭・四職
足利氏庶流




六角氏 近江


 | 六角政堯(→近江守護)×


 | 六角亀寿丸(宗家)
山内政綱(亀寿丸後見)
伊庭貞隆 | 佐々木氏嫡流



近江

 | 朽木貞綱
蒲生貞秀 |  | 
京極氏 近江・隠岐




出雲
飛騨 | 京極持清(侍所所司)×
京極勝秀(持清の嫡男)×
京極孫童子丸(勝秀の嫡男)×
京極政経(持清の三男)
多賀高忠(侍所所司代)
尼子清定(出雲守護代)

 | 

京極乙童子丸(勝秀の子)★
京極政光(持清の次男)★×
多賀清直

三木久頼★× | 七頭・四職
侍所所司(-1466年)
佐々木氏庶流
京極騒乱も参照




飛騨



 | 姉小路基綱(古川家)
姉小路之綱(向家)
江馬左馬助
内ヶ島為氏 | 姉小路勝言(宗家・小島家)★



 | 飛騨国司家




土岐氏 美濃




伊勢 | 

富島光仲
長江景秀×
長江利景(景秀の子)
土岐政康(伊勢守護→解任) | 土岐成頼(美濃守護)
斎藤利藤(美濃守護代)
斎藤妙椿(利藤の後見)
斎藤妙純(利藤の弟)
石丸利光
 | 七頭






伊勢 | 関盛元 | 長野政高★ | 
北畠氏 伊勢


 | 北畠教具(伊勢守護)×
北畠政郷(教具の子)
木造教親(北畠分家)× |  | 伊勢国司家



仁木氏 伊勢
伊賀
丹波 | 
仁木政長(伊賀守護)
仁木成長(丹波仁木氏) | 仁木教将(伊勢仁木氏)


 | 足利氏庶流



今川氏 駿河 |  | 今川義忠(駿河守護)★× | 足利氏庶流(吉良氏分家)
小笠原氏 信濃

 | 小笠原政秀(信濃守護・鈴岡家)
小笠原家長(松尾家) | 小笠原清宗(府中家)
 | 
木曾氏 木曽
 | 木曾家豊 |  | 
富樫氏 加賀
 | 富樫政親(加賀半国守護)◆ | 富樫幸千代(政親の弟) | 
大内氏 長門・周防
豊前・筑前
石見


 | 大内道頓(政弘の伯父)◆
内藤武盛(長門守護代)◆
仁保盛安
吉見信頼
 | 大内政弘(宗家)
内藤弘矩
陶弘護(周防守護代)
益田兼堯
相良正任 | 
河野氏 伊予 | 河野教通(宗家) | 河野通春(予州家) | 
少弐氏 豊前・筑前

 | 少弐教頼(筑前守護)×
少弐政資(教頼の子) |  | 
宗氏 対馬 | 宗貞国(対馬守護) |  | 
大友氏 豊後・筑後 | 大友親繁(豊後筑後守護) |  | 
菊池氏 肥後 | 菊池重朝(肥後守護) |  | 
肥後 | 阿蘇惟歳 | 相良為続★ | 
島津氏 薩摩・大隅
日向

 | 島津立久(宗家)×
島津忠昌(立久の子)


 | 島津季久(豊州家)
島津久逸(伊作家)★
島津国久(薩州家)★
島津友久(相州家)★ | 
伊東氏 日向 |  | 伊東祐堯★ | 

その他

開戦と足利義視の西軍攻撃

応仁元年(1467年)5月、細川勝元派である元播磨守護家の赤松政則が播磨国へ侵攻、山名氏から

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出典:wikipedia
2019/05/26 10:12

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