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応神天皇とは?

第15代天皇

在位期間
応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日

【時代】
弥生時代
摂政
神功皇后
【先代】
仲哀天皇
神功皇后(摂政であり、女帝説もある)
【次代】
仁徳天皇
【】

【誕生】
宇瀰
【崩御】
明宮(一説に大隅宮)
【陵所】
惠我藻伏崗陵
【別称】
誉田天皇
誉田別尊
誉田別天皇
胎中天皇
品陀和気命
大鞆和気命
品太天皇
凡牟都和希王
【父親】
仲哀天皇
【母親】
神功皇后
【皇后】
仲姫命
【子女】
仁徳天皇
額田大中彦皇子
大山守皇子
菟道稚郎子皇子
八田皇女
雌鳥皇女
稚野毛二派皇子(継体天皇の高祖父)
隼総別皇子
草香幡梭皇女他多数
【皇居】
不明(『日本書紀』)
軽島豊明宮(『古事記』)
難波大隅宮(行宮)

応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)は第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)。学術的に確定しているわけではないが、4世紀末から5世紀初頭に実在した可能性が高いと見られている。

目次

  • 1 略歴
  • 2 名
  • 3 事績
    • 3.1 即位
    • 3.2 近江行幸
    • 3.3 甘美内宿禰の讒言
    • 3.4 渡来人
    • 3.5 菟道稚郎子の立太子
  • 4 系譜
    • 4.1 系図
  • 5 后妃・皇子女
  • 6 年譜
  • 7 皇居
  • 8 陵・霊廟
  • 9 伝承
    • 9.1 誕生
    • 9.2 氣比神宮参詣
    • 9.3 日向髪長媛
    • 9.4 吉備行幸
    • 9.5 武庫水門の火災
  • 10 信仰
  • 11 考証
    • 11.1 実在性
    • 11.2 諡号か実名か
    • 11.3 系譜
    • 11.4 紀年
    • 11.5 新王朝説
  • 12 脚注
  • 13 参考文献
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

略歴

仲哀天皇の第四皇子。母は神功皇后。異母兄に麛坂皇子忍熊皇子がいる。神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、または蚊田(応神天皇紀。かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)で生まれたとされる。仲哀天皇が崩御して十月十日後のことである。胎中天皇という異名が示す通り生まれながらの君主であり、これに抵抗した異母兄たちが叛乱を起こしたものの神功皇后によって鎮圧された。即位まで母の神功皇后摂政。神功皇后摂政3年に太子となった。

即位2年、仲姫命を皇后として大鷦鷯尊(仁徳天皇)らを得た。他にも多くの妃や皇子女がいた。即位6年、近江へ行幸。『古事記』によればこのとき宮主矢河枝比売を娶り菟道稚郎子八田皇女を得たと言う。在位中には様々な渡来人の来朝があった。韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。名のある渡来人には弓月君阿直岐王仁阿知使主といった人物がおり、弓月君は秦氏の祖である。『古事記』によると和邇吉師(王仁)によって論語千字文、すなわち儒教漢字が伝わったという。また即位37年、阿知使主と子の都加使主は縫製の女工を求めるため呉(東晋あるいは)に派遣されたという。即位40年、大鷦鷯尊大山守皇子に相談の上で菟道稚郎子を立太子。即位41年に111歳で崩御。『古事記』に130歳。

漢風諡号である「応神天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

事績

即位

『日本書紀』によれば母后摂政(神功皇后)が崩御した翌年に即位。即位2年3月、仲姫命を立后。子に大鷦鷯尊(仁徳天皇)らがいる。また皇后の姉の高城入姫命との間には大山守皇子らを得た。『日本書紀』によると即位3年10月に「蝦夷をもって厩坂道作らしむ」、即位5年8月に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、即位7年9月に「高麗人・百済人・任那人・新羅人、並(ならび)に来朝(まうけ)り。時に武内宿禰に命して、即位11年10月に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。剣池は奈良県橿原市石川町の石川池という。『古事記』にも同様の記事が見え、「この御世に、海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。また新羅人参渡(まいわた)り来つ。ここをもちて建内宿禰命引い率て、堤池に役ちて、百済池(くだらのいけ)を作りき」とある。

近江行幸

即位6年2月、天皇は近江国に行幸し、途中の菟道野(宇治)で歌を詠んだという。

古事記』によると菟道野から北上して木幡村に到った天皇は道端で美しい少女と出会った。何者か問うと少女は和弭比布礼能意富美(わに の ひふれのおみ)の娘の宮主矢河枝比売(みやぬし やかえひめ)と名乗った。天皇は翌日の帰り道に必ず少女の家に寄ると約束し、少女も父に事情を報告した。翌日、天皇は酒を注ぎながら長い歌を詠み、宮主矢河枝比売を娶った。こうして生まれたのが皇太子となる菟道稚郎子と異母兄の皇后となる八田皇女である。

甘美内宿禰の讒言

即位9年4月、武内宿禰を百姓の監察に筑紫へ遣わした際、その弟の甘美内宿禰が兄を廃そうとして天皇に讒言した。それは武内宿禰が筑紫三韓を率いて天下を奪おうとしているというものだった。武内宿禰は神功皇后の新羅出兵や天皇の即位に尽力した功臣である。しかし天皇は甘美内宿禰を疑わず武内宿禰を誅殺するため使いを出した。驚き嘆いた武内宿禰だったが、真根子(壱伎直祖)という者が自ら進み出て身代わりとなって死んだ。武内宿禰はひとり悲しみながらも南海を通って帰国し天皇の前で甘美内宿禰と抗弁して争った。判断がつかなかった天皇は磯城川のほとりに出て探湯で二人を戦わせることにした。武内宿禰が勝ち、敗れた甘美内宿禰は兄に殺されそうになった。命だけは天皇の勅によって救われたが、その身は紀直らの祖に隷属民として授けられたという。

渡来人

即位14年、弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を上奏し援軍を求めた。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、その民は加羅に留まっていた。そこで葛城襲津彦を派遣したが三年経っても弓月君の民を連れて帰還することはなかった。そこで即位16年8月、新羅の妨害を防いで弓月君の民の渡来させるため平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が派遣され新羅国境に軍を展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

即位15年8月、百済の阿花王(阿莘王)が良馬二頭を阿直岐(あちき)に付けて献上した。この阿直岐は阿直岐史の祖であり、経典が読めたので菟道稚郎子の師となった。天皇はさらに優れた人物を望み、阿直岐から推薦された王仁(わに)を即位16年2月に呼び寄せた。王仁は書首(ふみのおびと)の祖である。『古事記』にも同様の記事が見えるが、百済の王は照古王(近肖古王)とされ、阿知吉師(阿直岐)は牡馬と牝馬を献上し、阿直史らの祖となったとある。また天皇が「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので「命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師は文首等の祖。また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」とある。この論語と千字文の貢進がそれぞれ儒教と漢字の伝来とされている。

即位20年9月、「倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、その子都加使主、並びに己が党類十七県を率いて渡来。即位37年、阿知使主と都加使主は縫製女工(きぬぬいおみな)を求めるため呉へ派遣され、倭王の朝貢にも比定される。またこれらは神功皇后紀における『魏志』と現存しない『起居注』の引用を除けば『日本書紀』における中国関連最初の記事である。

菟道稚郎子の立太子

晩年の即位40年1月8日、天皇は大山守命大鷦鷯尊を呼び寄せ「お前たち、子どもは愛おしいか?」と尋ねた。二人が肯定すると次に「年長と年少ではどちらがより愛おしいか?」と尋ねた。大山守命が年長だと答えると天皇は不機嫌になった。そこで大鷦鷯尊が空気を読んで「年長は多く年月を経て既に成熟しており心配ありません。しかし年少は未だ未熟であり大変心配で愛おしいものです」と答えた。天皇は「その通りだ」と大変喜んだ。天皇はかねてから年少の菟道稚郎子を立太子しようと思っていたので、年長の二皇子の気持ちも知りたいと思いこの問いをしたのだった。24日、天皇は菟道稚郎子を皇太子とし、大鷦鷯尊は太子の補佐役として国事を仕切らせ、大山守命には山川林野を任せた。大山守命はこれを不服に思い翌年に天皇が崩御すると反乱を起こすこととなる。また菟道稚郎子は即位を拒否し、大鷦鷯尊との譲り合いの末に自決した。結局、帝位を継いだのは大鷦鷯尊だった(仁徳天皇)。

系譜

系図

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 | 豊城入彦命 | 
 | [毛野氏族] | 

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 | 10 崇神天皇 | 
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 | 11 垂仁天皇 | 
 | 12 景行天皇 | 
 | 日本武尊 | 
 | 14 仲哀天皇 | 
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 | 倭姫命 | 
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 | 13 成務天皇 | 
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 | 彦坐王 | 
 | 丹波道主命 | 
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 | 山代之大
筒木真若王
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 | 迦邇米雷王 | 
 | 息長宿禰王 | 
 | 神功皇后
(仲哀皇后) | 
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 | 15 応神天皇 | 
 | 16 仁徳天皇 | 
 | 17 履中天皇 | 
 | 市辺押磐皇子 | 
 | 飯豊青皇女 | 
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 | 18 反正天皇 | 
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 | 24 仁賢天皇 | 
 | 手白香皇女
(継体皇后) | 

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 | 菟道稚郎子皇子 | 
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 | 23 顕宗天皇 | 
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 | 25 武烈天皇 | 

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 | 19 允恭天皇 | 
 | 木梨軽皇子
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 | 20 安康天皇

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 | 21 雄略天皇 | 
 | 22 清寧天皇 | 

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 | 春日大娘皇女
(仁賢皇后) | 


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 | 稚野毛
二派皇子
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 | 意富富杼王 | 
 | 乎非王 | 
 | 彦主人王 | 
 | 26 継体天皇 | 
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 | 忍坂大中姫
(允恭皇后) | 



応神天皇は後に男系断絶した仁徳天皇皇統と現在まで続く継体天皇皇統の共通の男系祖先である。そのため後世に皇祖神として奉られることになった。早くから神仏習合がなり八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られ各地の八幡宮に祭られた。平安時代後期以降は清和源氏桓武平氏など皇別氏族の武家が武功を立てる際に氏神として大いに神威を発揮したことで武神弓矢八幡」として崇敬を集めた。

后妃・皇子女

年譜

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

皇居

日本書紀』では他の天皇に必ず記載されている即位後の遷都記事がなく、神功皇后磐余若桜宮(奈良県桜井市池之内)をそのまま使っていたことになる。行宮としては難波大隅宮(なにわのおおすみのみや。現在の大阪市東淀川区大隅、一説に同市中央区)がある。崩御した地は大隈宮とも明宮ともされる。『古事記』では軽島之明宮を皇居としている。現在は応神天皇の皇居として軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや、現在の奈良県橿原市大軽町)が比定されている。

陵・霊廟

(みささぎ)の名は惠我藻伏崗陵(恵我藻伏岡陵:えがのもふしのおかのみささぎ)。宮内庁により大阪府羽曳野市誉田6丁目にある遺跡名「誉田御廟山古墳」に治定されている。墳丘長約420メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円

『日本書紀』には陵名の記載はないが、雄略紀に「蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田陵」とある。『古事記』には「御陵は川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡にあり」とある。『延喜式諸陵寮には「惠我藻伏崗山陵」として「兆域東西五町、南北五町、陵戸二烟、守戸三烟」と見える。誉田御廟山古墳は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に次ぐ(第2位の規模)5世紀初造営ともいわれる大前方後円墳である。ただし考古学の絶対年代はよほど強力な史料などが出ない限り、常に浮動的であることに注意する必要がある。2011年宮内庁により考古学者らの立ち入り調査が認められた。

上記とは別に、大阪府堺市北区百舌鳥本町にある遺跡名「御廟山古墳」が宮内庁により百舌鳥陵墓参考地(もずりょうぼさんこうち)として治定されており、応神天皇が被葬候補者に想定されている。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

伝承

※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。

誕生

応神天皇こと誉田別尊の誕生は神秘に彩られている。出生前の仲哀天皇8年、母の気長足姫(神功皇后)は筑紫橿日宮で神託を行い「海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」という託宣を受けた。父帝はこれに背いたため天神地祇は皇后のお腹の中にいた皇子に三韓を与えることにした。まもなく父帝は崩御し、皇后は託宣を現実のものとするため新羅遠征を行い成功させた。皇后は遠征と出産が重ならぬよう月延石や鎮懐石と呼ばれる石をお腹に当てて出産を遅らせた。父帝が崩御してちょうど十月十日後に筑紫で誕生した皇子は誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名付けられた。その腕の肉が弓具の(ほむた)のように盛り上がっていた事に由来し「ほむた」の音に「譽田」の字をあてたものだという。母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので「胎中天皇」とも称された。誉田別尊を君主と認めない異母兄の坂王忍熊王の策謀は皇后と武内宿禰らに平定され、皇太后となった母の摂政のもと誉田別尊は四歳で太子となった。

氣比神宮参詣

神功皇后摂政13年2月8日、十四歳の誉田別尊は武内宿禰に連れられ禊のため角鹿(敦賀)の笥飯大神に参詣した。角鹿は父帝が笥飯宮を設け母后が熊襲征伐と新羅遠征へ出発した地であり、太子の角鹿参詣によって一連の出征が終わったと解釈できる。このとき太子の誉田別尊と大神の去来紗別尊(いざさわけのみこと)が互いの名を交換したという説話がある。『書紀』は分注に一伝として「誉田別尊の元の名は去来紗別尊といい氣比神宮の笥飯大神と名前を交換して譽田別尊の名を得たのであろうが、他に所見なく未詳」としている。『古事記』でも同様の説話があるが、さらにその続きとして「魚(な)と名(な)の交換」の説話がある。「名の交換」とはこれの誤伝とする説が有力である。詳しくは「氣比神宮」参照。17日、太子が角鹿から戻ると母后は大殿で宴を開き、祝いの酒を飲み交わして歌を詠んだ。

これに対し武内宿禰が太子に代わって返歌をした。

日向髪長媛

即位11年、日向国の諸県君牛諸井(もろがたのきみ うしもろい)の娘に髪長媛という国色之秀者(かおすぐれたるひと)がいるという奏上があった。天皇は喜び、この娘を娶りたいと思った。即位13年3月、日向に使者が派遣され髪長媛は畿内へ召されることとなった。9月、髪長媛が日向から到着したので桑津邑に留まらせていたところ、大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)が髪長媛を見る機会があった。大鷦鷯尊はたちまちその美しさに感動して恋心を持ってしまった。それを知った天皇は初めて髪長媛を呼び寄せた宴席に大鷦鷯尊も参加させ、髪長媛を指差して歌を詠んだ。

これは髪長媛を譲ることを意味しており、喜んだ大鷦鷯尊は返歌をした。

大鷦鷯尊と髪長媛はすぐに懇ろとなり、二人きりとなって歌を詠みあった

吉備行幸

即位22年春3月5日、難波の大隈宮に行幸。14日、高台に登り遠望した。その時、妃の兄媛(えひめ)が西の方を望んで嘆いた。なぜ嘆いているのかを問うと故郷の父母が恋しいからだと兄媛は答えた。兄媛は吉備氏の娘であり故郷の方角を見て望郷の念にかられたのだった。そこで兄媛の里帰りの希望を許し、淡路の御原の海人八十人を水手として集めた。そして4月に大津から吉備に向かう兄媛を見送って歌を詠んだ

秋になって天皇は吉備へ行幸することにした。9月6日に淡路で狩りをし、小豆島を経て10月10日に吉備の葉田葦守宮に至った。そのとき兄媛の兄の御友別が出迎えて一族総出で食事を奉った。天皇は御友別の謹惶(かしこまり)を喜び、その子孫たちに吉備国を割いて封じることにした。彼らが吉備上道臣、下道臣祖などの祖となった。また織部(はとりべ)が兄媛に与えられた。

古事記』では対応する伝承が応神記ではなく仁徳記にあり、兄媛は黒日売という名で登場する。美人であったため妃として召されたが皇后の嫉妬を受け実家の吉備に逃げ帰ったという。天皇は淡路島に行くと称して行幸し、淡路からさらに吉備へと向かい黒日売との逢瀬を遂げたと伝えられる。兄の御友別にあたる人物は登場せず、黒日売が自ら大御飯(おおみけ)を献上する。

武庫水門の火災

即位5年10月、伊豆国へ命じて長さ十丈の船を造らせた。この船を「枯野」という。船が軽く速く進む様子から名付けられたというが、それなら「軽野」と呼ぶはずであり後代に訛ったのではないかと日本書紀では推察されている。時は経ち即位31年8月、「枯野」は老朽化のため解体されることになった。材木は塩を作るための薪にされた。塩は諸国に配られ、それを資金源として作られた新たな五百艘の船が武庫水門に集った。ところが武庫水門に停泊していた新羅の使者の失火により多くの船が失われてしまった。新羅王は謝罪して技術者を献上した。猪名部(いなべ)の祖先とされる。焼け残りの材木は琴にされ、その音が遠くまでよく音が聞こえたので天皇は歌を詠んだ。

古事記』では対応する伝承が応神記ではなく仁徳記にあり、河内の菟寸河にあった大木を「枯野」にしたと書かれている。この木の影は朝には淡路島を、夕方には高安山を隠すほど巨大で、船になってからは淡路島の寒泉(しみず)を飲料水として運ぶ役目を担ったと言う。そして「この船、破れ壞れ、以ちて塩を焼き、其の焼け残れる木を取りて琴を作るに、其の音、七里に響きき」とある。新たな造船と続く失火については記載がない。

信仰

詳細は「八幡神」を参照

誉田別命(応神天皇)が崩御して久しい ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/07/20 20:42

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