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慶應義塾大学とは?

【慶應義塾大学】

慶應義塾図書館・旧館(国の重要文化財)

慶應義塾大学 (東京都)
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慶應義塾大学 (日本)
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【大学設置】
1920年
【創立】
1858年
【学校種別】
私立
【設置者】
慶應義塾
【本部所在地】
東京都港区三田二丁目15番45号
北緯35度38分56.2秒 東経139度44分34.5秒 / 北緯35.648944度 東経139.742917度 / 35.648944; 139.742917座標: 北緯35度38分56.2秒 東経139度44分34.5秒 / 北緯35.648944度 東経139.742917度 / 35.648944; 139.742917
【学生数】
33,500
【キャンパス】
三田(東京都港区)
日吉(神奈川県横浜市港北区)
矢上(神奈川県横浜市港北区)
信濃町(東京都新宿区)
湘南藤沢(神奈川県藤沢市)
芝共立(東京都港区)
浦和共立(埼玉県さいたま市緑区)
新川崎タウンキャンパス(神奈川県川崎市幸区)
殿町タウンキャンパス(神奈川県川崎市川崎区)
鶴岡タウンキャンパス(山形県鶴岡市)
慶應丸の内シティキャンパス(東京都千代田区)
慶應大阪シティキャンパス(大阪市北区)
【学部】
文学部
経済学部
法学部
商学部
医学部
理工学部
総合政策学部
環境情報学部
看護医療学部
薬学部
【研究科】
文学研究科
経済学研究科
法学研究科
社会学研究科
商学研究科
医学研究科
理工学研究科
政策・メディア研究科
健康マネジメント研究科
薬学研究科
経営管理研究科(ビジネススクール)
システムデザイン・マネジメント研究科
メディアデザイン研究科
法務研究科(法科大学院)
【ウェブサイト】
https://www.keio.ac.jp/ja/

慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語: Keio University)は、東京都港区三田二丁目15番45号に本部を置く日本私立大学である。1920年に設置された。大学の略称慶應(けいおう)、慶大(けいだい)。「應」が旧字体のため、報道などでは「慶応」と表記されることが多い。

概説

文久2年(1862年)江戸築地鉄砲洲中津藩中屋敷内の蘭学塾(慶應義塾)。画面中央左側築山下の平地

慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に安政5年(1858年)冬に開校した蘭学塾を起源に持つ大学である。慶應4年/明治元年(1868年)に木村摂津守の世話により、新銭座(現在の港区浜松町)の有馬家控屋敷跡に移転し、年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めた。福澤は明治六大教育家に数えられ、福澤が開校した慶應義塾は同じく六大教育家に数えられる中村正直同人社近藤真琴攻玉塾(現:攻玉社中学校・高等学校)とともに三大義塾と称された。

明治4年(1871年)、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。1873年(明治6年)に「慶應義塾医学所」を開設。1873年(明治6年)に修業年限を定めて正則・変則両科を新設、1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1879年(明治12年)に専門教育課程として夜間法律科(旧制専修学校へ改組:後の専修大学)、理学科支那語科簿記講習所を設置。1890年(明治23年)に大学部(文学・理財・法律の三科)を開設。明治31年に政治科を開設。1917年(大正6年)大学部に医学科を開設して付属大学病院を開院、北里柴三郎が開設に尽力。1920年(大正9年)には大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)の一つとして新発足し、文学・経済学・法学・医学の4学部からなる総合大学となり、予科・大学院を付設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として慶應義塾評議員会が設けられた。1942年(昭和17年)に中国大陸および南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとしたことがあり(獣医畜産専門学校)、1947年(昭和22年)には獣医師法により指定認可されていた。1944年(昭和19年)に「藤原工業大学」が寄附され工学部を開設。1957年(昭和32年)に商学部を開設。1990年(平成2年)、湘南藤沢キャンパス総合政策学部環境情報学部を開設。2008年(平成20年)4月に「共立薬科大学」が合併したことにより、新たに薬学部と薬学研究科を設置。

明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した。1920年(大正9年)に日本の私立大学では早稲田大学と共に最も古い段階で大学令に基づく大学となった(詳しくは旧制大学参照)。現在の大学は10学部、大学院は14研究科となっている。

同窓会三田会と称され、国内の大学同窓会の中では最古かつ最大級の学閥である。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
東館に刻まれているラテン語で書かれた福澤の言

大学の特徴

塾訓、目的

詳細は「慶應義塾」を参照

慶應義塾には、「慶應義塾の目的」という文章が伝わっている。これは、1896年(明治29年)11月1日に、紅葉館で開催された懐旧会(慶應義塾出身者との懇親会)において、福澤諭吉が行った演説を基に、福澤自身が書き直したものである。

また慶應義塾では、塾訓である「独立自尊」を教育の基本に置く。

教育および研究

図中央に有馬家控屋敷(有馬侶四郎)とあるのが慶應義塾に当たり、東には浜御殿がある。江川英龍の「江川太郎左衛門鉄砲調練所」が隣接しており、この江川家屋敷に「分塾」があった。
尾張屋清七版芝愛宕下絵図

「義塾」の「義」は社会公共のため協力して事を行うという意味があり、これを念頭に置いている。大きな柱は「医療」と「研究」である。蘭学から適塾(後の大阪大学)、慶應義塾医学所北里柴三郎による伝染病研究所北里研究所、満鉄衛生研究所までの歴史を汲む慶應義塾伝統の学問に立脚する医学は今日、ハーバード大学医学大学院と1890年(明治23年)以来の長年の研究リンクを持ち、伝染病研究所を母体とする歴史を持つ理化学研究所と連携、協力を行っている。終戦後は旧中島飛行機株式会社青年学校へ基礎学科の研究室を約十年間移し、研究活動を行っていた(のちの武蔵野分校)。グローバルCOEプログラム取得や慶應医学賞設立も行っている。大学部時代の各学科の特徴としては、「四書五経」などの研鑽を積んだのち、数学を基礎学とした有形学から入って、無形の学へ進む編成が成されており、この伝統は当世の各学問分野においても根付いている。実学の精神である、「実証に基づく理論的、合理的な科学(サイエンス)」(窮理図解)や「自我作古」の精神等から伝統的な学術研究に加え、医療、産官学連携や知財活動などを通した研究を行っており、科学研究費補助金は全体の10%に過ぎない。戦前には枢密顧問官へ定期的に器量人を輩出、昨今は日本人宇宙飛行士を2名輩出している。文系では、その他官公私立大などが行うマスプロ教育を忌避しており、ゼミナールを中心とした少人数教育を一貫して追求している。

兵法
1895年(明治28年)日清戦争威海衛の戦い戦勝祝賀の慶應義塾炬火行列大運動会(カンテラ行列)
慶應義塾では新銭座時代から心身共に健康を保つ手段として学生の体育を奨励し、1892年(明治25年)の體育會創設によって専門家を雇って指導にあたらせた。初めは乗馬が主であり、1878年(明治11年)から剣術稽古が始まり、明治27年には神道無念流根岸信五郎を師範に招いた。のち柔術端艇、陸海軍操練、弓術徒歩の各部が加わった。明治29年徴兵令適用により学校に兵式訓練が課せられるに至るが、これより先に慶應義塾では兵式操練が行われており、1892年(明治25年)12月、大日本帝国陸軍(旧陸軍)から銃剣その他兵器の払い下げに特別の便宜を与えられ、1893年(明治26年)夏頃までには「慶應義塾生徒隊」を結成し、1894年(明治27年)春東京府下で初めて発火演習を行った。なお、1898年には陸軍の軍旗(旭日旗)を製作している高級軍装品店より特別の許可をもってこれを購入。旭日旗自体はそのままに、竿頭は塾章であるペンマーク(軍旗では菊花紋章)に、房を浅葱色(常備歩兵連隊の軍旗では紫色)に変え、さらに福澤諭吉によって「慶應義塾生徒隊」の文字が書かれ(軍旗では連隊の隊号を記入)、翌1899年3月15日に福澤別邸において隊旗授与式が行われている。昭和12年には「慶應義塾特設防護団」が組織され、昭和14年には上海に研究所、北京に公館を創立。中国南洋への学生研究旅行団が派遣され、昭和16年には帝都学校報国隊結成などを見、卒業年限の短縮が実施された。日露戦争では帝国軍人援護会を支援し、第二次世界大戦に突入すると学生は学窓を離れて工場、農村に生産増強の勤労奉仕に挺身し、表彰を受けた。
塾生皆泳
かつては、全学部学科において水泳が必修科目であり、「塾生皆泳」なるスローガンの下、水泳で50メートル泳法ができないと単位を取得できず、シーズンスポーツで水泳を選択することが義務付けられていた。複数の卒業生が、自著や対談の中で単位を取るのに水泳の特訓をしたと回想している。海軍軍人の長男(小泉信吉)を戦争で失った経験から小泉信三がこのような制度を作ったとされている。また、かつては体育実技において複数の競技が必修となっており、男子学生の場合、武道、球技、水泳(上記)、陸上競技を半期の内に大学の定めたローテーションに従って受講する必要があった。このような高校式の体育の授業を行っていた総合大学はきわめて珍しい。
旧海軍地下壕
地下壕入り口(日吉キャンパス)
戦中の様子を窺うことのできる重要な資料として、大日本帝国海軍(旧海軍)との間には深い関わりがあり(当時の塾長は小泉信三)、1944年3月に軍令部第三部が日吉校舎に入ると、次いで寄宿舎に連合艦隊司令部が、後に海軍省・航空本部・艦政本部の地下壕が構築され、日吉は実質的な海軍の中枢となった。太平洋戦争(大東亜戦争)における、台湾沖航空戦レイテ沖海戦大和 (戦艦)の出撃命令などは全てこの日吉台地下壕から発せられたものであった。この経緯としては、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発すると、大学内でも配属将校はもちろん、特別高等警察(特高)が来るようになる。授業では自由主義共産主義は厳しく弾圧され、国防論などの軍国主義的な講義が増え、教練も次第に厳しくなっていった(慶應義塾は当時の小泉信三塾長などが学究的に共産主義に不協和なスタンスをとったため、特高などによる監視はそれほど厳しくはなく、塾生は比較的自由に学問に取り組むことができた)。また、初代塾長岡本周吉(幕府海軍艦長)らが海軍兵学校の教官を務めたほか、明治期の卒業生は海軍関係者も多く、築地海軍兵学寮海軍主計学校に転じた者も多い。海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、まず1943年12月の学徒出陣が挙げられる。文系学生の徴兵猶予が無くなり、在学中でも20歳に達すると徴兵されたことから、校舎のほとんどが空き教室となっていた。小泉信三の長男信吉の同級生が軍令部第三部第五課に在籍しており、本土空襲に備えて移転先を探していた軍令部の依頼を取り次ぐ形で、日吉校舎の貸与を小泉学長に願い出ている。また文部省からも各大学に余裕のある建物を国に貸与するよう通達もでていたことから小泉学長もこれを承諾した。一方、連合艦隊は1944年4月に軽巡洋艦大淀を連合艦隊旗艦と定め木更津に停泊していたが、6月のマリアナ沖海戦の敗北後、陸上移転を進めることとなった。候補地には大倉山の精神文化研究所、町田の玉川学園、横浜航空隊、そして日吉の慶應義塾校舎が挙がったとされているが、連合艦隊司令長官豊田副武大将に通信参謀附士官が意見を求められた際に、自分が寮生として過ごした日吉の寄宿舎を推薦したところ、早速上陸して参謀長草鹿龍之介中将とともに視察した。また連合艦隊情報参謀だった中島親孝中佐も、親戚に塾員がいて運動会の見物で現地を知っていたことから日吉移転を強く勧めた。ここで言う慶応義塾の寄宿舎とは1937年に完成した谷口吉郎東工大助教授の設計によるもので、鉄筋コンクリート3階建て、セントラルヒーティングと各階に水洗トイレを備えた北寮・中寮・南寮の3棟の寮舎と、炊事・浴室・娯楽室を含む別棟からなり、ローマ風呂と称された浴室からは綱島、川崎が一望できたという。寄宿舎が鉄筋コンクリート製で堅固なこと、高台で電波状態が良いことから日吉が選定され、1944年9月21日、連合艦隊司令部は日吉寄宿舎に移転、将旗を掲げた。南寮の2階に長官執務室と寝室が、中寮の1階食堂が作戦室に充てられたという。連合艦隊司令部移転に先立つ1944年8月より寄宿舎近辺よりまむし谷に向けて連合艦隊司令部地下壕の建設が開始された。10月には海軍省人事局が記念館の東側に海軍人事局地下壕を建設し、完成を待つこと無く12月に海軍省経理局とともに日吉に移転、翌年2月に壕内に移転した。また線路を挟んで反対側、普通部校舎の南側、現在の日吉の丘公園のある高台にも1945年1月から艦政本部が地下壕を建設している。1945年7月、それまで第一校舎で業務していた軍令部第三部がまむし谷東側の地下壕に移転、空襲で焼け出された東京通信隊、航空本部も同居した

学風および特色

カリキュラム制定をはじめとする近代的教育システムのほとんどを日本で最初に導入した学校として知られている。日本の学校で最初に定額の授業料を納入させたのは慶應義塾であり、これは福澤諭吉の発案である。また、古来日本の風習には無かった演説を初めて取り入れ、明治8年には日本最初の演説会堂三田演説館が建てられた。

島原藩藩邸中屋敷黒門。
明治4年(1871年)3月慶應義塾を新錢座から三田に移した。
学問の魁/佐久間象山
旧制4学校記念碑
(三田キャンパス)
慶應義塾本館
明治24年(1891年)
福澤先生胸像(日吉キャンパス)
中央道路銀杏並木(日吉キャンパス)
慶應義塾」も参照

沿革

2010Happy Mail