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戊辰戦争とは?

この記事には複数の問題があります改善ノートページでの議論にご協力ください。

  • 出典は脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2014年2月)
  • 中立的な観点に基づく疑問が提出されています。(2008年1月)
戊辰戦争

戦線の変遷
戦争:鳥羽・伏見の戦い甲州勝沼の戦い宇都宮城の戦い北越戦争東北戦争箱館戦争
年月日:
(旧暦)慶応4年1月3日 - 明治2年5月18日
(グレゴリオ暦)1868年1月27日 - 1869年6月27日
場所: 日本
結果:新政府軍の勝利、江戸幕府の完全解体。
交戦勢力
新政府軍
(東征大総督府)  |  旧幕府軍
奥羽越列藩同盟
蝦夷共和国
指導者・指揮官
有栖川宮熾仁親王  |  徳川慶喜
輪王寺宮能久親王

榎本武揚


戊辰戦争


戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩長州藩土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。

明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、列強が条約による内戦への局外中立を解除し、これ以降、同政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められることとなった。

以下の日付は、断りのない限り旧暦で記す。

目次

  • 1 概要
  • 2 鳥羽・伏見の戦い
    • 2.1 開戦に至る経緯
    • 2.2 戦闘の勃発
    • 2.3 鳥羽・伏見の戦いの与えた影響
  • 3 西国および東海の状況
    • 3.1 東海
    • 3.2 東山道(中山道)
    • 3.3 丹波・山陰道
    • 3.4 四国の状況
    • 3.5 中国路の状況
    • 3.6 九州の情勢
  • 4 江戸への進軍
    • 4.1 甲州勝沼および野州梁田の戦い
    • 4.2 江戸城無血開城
    • 4.3 船橋の戦い
    • 4.4 宇都宮城の戦い
    • 4.5 上野戦争
    • 4.6 箱根戦争
  • 5 東北戦争
    • 5.1 新政府の会津藩・庄内藩の処遇
    • 5.2 奥羽越列藩同盟の成立
    • 5.3 輪王寺宮と幻の仙台朝廷
    • 5.4 秋田・庄内戦線
      • 5.4.1 奥羽鎮撫隊の集結
      • 5.4.2 秋田戦争
    • 5.5 白河戦線
    • 5.6 北越戦争
    • 5.7 平潟戦線
    • 5.8 東北戦争の終結
  • 6 箱館戦争
  • 7 戦後処理
  • 8 その他
  • 9 戊辰戦争をテーマにする作品
    • 9.1 TV ドラマ
    • 9.2 ゲーム
  • 10 脚注
  • 11 参考文献
  • 12 関連項目

概要

戊辰戦争中の薩摩藩の藩士(着色写真)。フェリーチェ・ベアト撮影

戊辰戦争は研究者によって次のように規定されている。 「日本の統一をめぐる個別領有権の連合方式と、その否定および天皇への統合を必然化する方式との戦争」(原口清)、「将来の絶対主義政権をめざす天皇政権と徳川政権との戦争」(石井孝)

石井はさらにこれを次の三段階に分けた。

  1. 「将来の絶対主義的全国政権」を争う「天皇政府と徳川政府との戦争」(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城)
  2. 「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権・奥羽越列藩同盟(遅れた封建領主の緩やかな連合体)との戦争」(東北戦争)
  3. 「封禄から離れた旧幕臣の救済」を目的とする「士族反乱の先駆的形態」(箱館戦争)

薩摩藩など新政府側はイギリスとの好意的な関係を望み、トーマス・グラバー(グラバー商会)等の武器商人と取引をしていた。また旧幕府はフランスから、奥羽越列藩同盟・会庄同盟はプロイセンから軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。戦争が早期に終結したため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。

戊辰戦争開始までの経緯および個々の事象については、幕末明治維新および個々の語句を参照。

鳥羽・伏見の戦い

戊辰戦場址碑
戊辰戦争で新政府軍が用いた錦旗(錦の御旗)の模写図。
詳細は「鳥羽・伏見の戦い」を参照

開戦に至る経緯

四侯会議の崩壊以後、薩摩藩は長州藩と共に武力倒幕を志向するようになり、朝廷への工作を活発化させた。慶応3年10月13日、14日に討幕の密勅が薩摩と長州に下される。これを受け、西国と東国で同時挙兵する構想が練られていた。

しかし、慶応3年(1867年)10月14日に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は日本の統治権返上を明治天皇に奏上、翌15日に勅許された(大政奉還)。討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上、取り消された。既に大政奉還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したために倒幕の意味はなくなり、薩摩側も東国に於ける挙兵の中止命令を江戸の薩摩藩邸に伝えた。慶喜は10月24日には征夷大将軍職の辞任も朝廷に申し出る。朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くこととなった。慶喜の狙いは、公議政体論のもと徳川宗家が首班となる新体制を作ることにあったと言われる。

しかし、予定された正式な諸侯会議の開催が難航するうちに、雄藩5藩(薩摩藩越前藩尾張藩土佐藩安芸藩)は12月9日にクーデターを起こして朝廷を掌握、公家の岩倉具視王政復古の大号令を発し、幕府廃止と新体制樹立を宣言した。新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、禁門の変(蛤御門の変)以来京都を追われていた長州藩の復権を認めた。こうして、禁門の変では孝明天皇がいる御所に向かって砲撃をし、孝明天皇から朝敵の宣告を受けていた長州藩藩主・毛利敬親は、明治天皇により朝敵の認定を解除された。

慶喜は辞官納地を拒否したものの、配下の暴発を抑えるため、京都・二条城から大坂城に移った。経済的・軍事的に重要な拠点である大坂を押さえたことは、その後の政局において幕府側に優位に働いた。12月16日、慶喜は各国公使に対し王政復古を非難、条約の履行や各国との交際は自分の任であると宣言した。新政府内においても山内容堂(土佐藩)・松平慶永(越前藩)ら公議政体派が盛り返し、徳川側への一方的な領地返上は撤回され(新政府の財源のため、諸侯一般に経費を課す名目に改められた)、年末には慶喜が再上洛のうえ議定へ就任することが確定するなど、辞官納地は事実上骨抜きにされつつあった。

一方、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上取り消され、それが江戸薩摩藩邸に伝えられたが、相楽総三率いる江戸薩摩藩邸の攘夷派浪士達はこの命令を無視して関東各地での挙兵や江戸の撹乱工作を開始した。12月23日には江戸城西ノ丸が焼失。これも薩摩藩と通じた奥女中の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩の巡邏兵屯所への発砲事件が発生、これも同藩が関与したものとされ、老中・稲葉正邦は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。

一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく会津藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢(総督・大多喜藩松平正質)を京都へ向け行軍させた。

臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主島津茂久)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。 — 討薩表(部分)

戦闘の勃発

小枝橋にて激突する幕府軍と新政府軍。絵の左側に幕府陸軍の日の丸と桑名藩の九曜紋。右側に薩摩藩の旗 、右下に長州藩の旗 が見える。
豊後橋で発生した戦闘

慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。翌3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩邸を襲撃させる、藩邸には三万両余りの軍資金が置かれていたが、薩摩藩士・税所篤が藩邸に火を放ったうえでこれを持ち出し脱出したため、軍資金が幕府の手に渡る事は無かった。同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われている。

新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦した。また、新政府が危惧していた旧幕府軍による近江方面からの京都侵攻もなかった。翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗節刀を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩も迅衝隊・胡蝶隊・断金隊などを編成し、錦旗を賜って官軍に任ぜられた。逆に旧幕府の中の反乱勢力は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺した。こういった背景により1月5日、藩主である老中・稲葉正邦の留守を守っていた淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火しさらに八幡方向へ後退した。1月6日、旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。

この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。

鳥羽・伏見の戦いの与えた影響

戊辰戦争の銃はスナイドル銃、Starr carbine、ドライゼ銃

5日、山陰道鎮撫総督・西園寺公望及び東海道鎮撫総督・橋本実梁が発遣された(西国及び桑名平定)。7日、慶喜追討令が出され、次いで旧幕府は朝敵となった。10日には藩主が慶喜の共犯者とみなされた会津藩桑名藩高松藩備中松山藩伊予松山藩大多喜藩の官位剥奪と京屋敷を没収、3月7日に姫路藩が追加された。藩兵が旧幕府軍に参加した疑いが高い小浜藩大垣藩宮津藩延岡藩鳥羽藩が藩主の入京禁止の処分が下され、これらの藩も「朝敵」とみなされた。ただし、大垣藩は10日の時点で藩主が謝罪と恭順の誓約を出していたことから、13日に新政府軍(中山道総督)の先鋒を務める事を条件に朝敵から外す確約を与えられて4月15日に正式に解除、更には戊辰戦争の功によって賞典禄まで与えられている。なお、同藩の場合、新政府参与に同藩重臣(小原忠寛)がおり、彼のとりなしを新政府・大垣藩双方が受け入れた事が大きい。

11日には改めて諸大名に対して上京命令が出された。これはそれまでの諸侯による「公平衆議」の開催を名目にした上京命令とは異なり朝敵とされた「慶喜追討」を目的としていた。これによって新政府はこれまで非協力的な藩に対して、恭順すれば所領の安堵などの寛大な処分を示す一方で、抵抗すれば朝敵(慶喜及び旧幕府)の一味として討伐する方針を突きつける事になった。特に西日本では慶喜討伐令と上京命令と鎮撫軍の派遣の報を立て続けに受ける事になり、所領安堵と追討回避のために親藩・譜代藩も含めて立て続けに恭順を表明し、鳥羽・伏見の戦いに関わったとして「朝敵」の認定を受けた藩ですら早々に抵抗を諦めて赦免を求める事となった。1月末には藩主が慶喜とともに江戸に逃亡した桑名藩ですら、重臣や藩士達が城を新政府軍に明け渡し、3月には近畿以西の諸藩は完全に新政府の支配下に入った。

9日、長州軍が大坂城を接収、大坂は新政府の管理下に入った。同日東山道鎮撫総督に岩倉具定が任命された。11日、神戸事件が起こり条約諸国と新政府が対峙するが、交渉は成立し25日に条約諸国は局外中立宣言を行い、日本は内戦状態と認定された。20日、北陸道鎮撫総督・高倉永祜が発遣された。また、神戸事件に誘発される形で、堺事件も発生した。

幕府及び旧幕府勢力は近畿を失い薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また旧幕府は国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。また新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始した。

西国および東海の状況

西日本では、新政府軍と佐幕派諸藩との間では福山藩(藩主急逝により態度表明が遅れた)を除きほとんど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。東海地方および北陸地方では尾張藩が勤皇誘引使を諸藩代官へおくり勤皇証書を出させ日和見的立場から中立化に成功した。これらの西国の藩に対し、銃兵と砲兵以外の騎士や弓槍兵、従者を禁止し、新政府の中央司令による軍事編成介入により一挙の近代軍化を強制して諸藩は従わざるを得なかった。

東海

鳥羽・伏見の戦直前の1月2日、新政府は近江方面から旧幕府軍に京都を挟み撃ちにされることを警戒して橋本実梁に大津防衛を命じて、先発として大村藩兵が3日に大津に入る。旧幕府軍は大津侵攻を回避したために挟み撃ちの危険性が減少した5日、新政府は改めて橋本実梁を東海道鎮撫総督に任じた。ところが、東海道沿いの佐幕藩として新政府に警戒されていた彦根藩がこの段階で尊王に藩論を転換させて大津防衛の援軍を派遣しており同藩への出兵の必要性がなくなったことから、9日には大津にて桑名藩の征討に移った。膳所藩水口藩の協力もあって大津など南近江一帯が新政府の掌握下に置かれると、本格的な東進が開始され、22日に四日市に東海道軍が到着すると桑名藩は戦わずに開城した。藩主の座から追われた松平定敬は国許には帰らず箱館まで戦争を続けた。尾張藩は20日、藩主の父・徳川慶勝の「朝命により死を賜る」との命により御年寄列渡辺新左衛門在綱を含む3重臣及び11藩士が処刑されるという青松葉事件がおき、藩論は勤皇に一本化された。2月になると東海道鎮撫総督は東海道先鋒総督兼鎮撫使と改められて東進を開始、東海道最大の雄藩である尾張藩が尊王に転じた事をきっかけに2月末までに小田原藩以西の全ての藩が恭順を誓ったこともあり、大きな衝突もなく東進することが出来た。

東山道(中山道)

1月9日岩倉具定を東山道鎮撫総督に任じ、21日に京都を出発した。なお、大垣藩は鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に属していたが、直後に新政府に対して異心が無いことを表明して東山道軍の先鋒となっている。東山道(中山道)筋の諸藩は定府大名が多く、江戸の居住そのものが旧幕府への加担としての疑惑を持たれたことから、沿道諸藩は対応に苦慮した。だが、多くの藩では国元では抵抗を行わず、藩主が鎮撫総督に恭順の意思を示したことで一旦下された謹慎や所領没収などの処分は解除されている。むしろ、北関東に入ると、諸藩への対応よりも同地において発生した世直し一揆などの動きへの対応に迫られることになった。

丹波・山陰道

すでに鳥羽・伏見の戦中の5日、新政府は西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任じて薩摩・長州藩兵を添えて丹波国に進軍させていた。これは佐幕派の丹波亀山藩の帰順及び鳥羽・伏見に敗戦した場合の退路の確保を目的としたものだったが、園部藩篠山藩田辺藩福知山藩などが次々と新政府軍に降伏。そのまま丹後国に入り宮津藩を開城させたのち、因幡国を通って出雲国に進み、2月下旬には佐幕派の松江藩をも降伏させ、山陰を無血で新政府の傘下に従えた。

四国の状況

公議政体派から勤皇を旨とする武力討幕派へ藩論を統一した土佐藩士・板垣退助迅衝隊を主力部隊として、丸亀藩多度津藩が協力して、讃岐国の旧幕府方高松藩に進軍。戦意を喪失した高松藩側が家老2名に切腹を命じ、正月20日に降伏に及んだ。27日には残る伊予松山藩も開城し、四国を無血開城せしめて勤皇支持に統一された。

ところが、翌28日になって伊予松山城に近い三津浜堅田大和杉孫七郎率いる長州藩軍が上陸した。これは征討府における土佐藩と長州藩の合意に基づく出兵だった。しかし、この情報を知らされていなかった土佐藩本国の部隊は同藩が四国進出を目論むものと考えて激しく反発して協力を拒絶した。新政府内部の調整によって最終的に四国に関しては土佐藩に一任することとなり、3月3日に長州藩軍は三津浜から撤退して本州に帰還した。

中国路の状況

長州藩兵は上京の途中の正月9日に備後福山藩領に侵入し福山城に砲撃を加え、籠城する福山藩兵と銃撃戦を開始するが、家老・三浦義建及び御用係・関藤藤陰は長州に恭順の意を示したことから、勤王の誓詞を提出させた。また新政府の征討令を受けた備前藩が15日に備中松山藩に派兵するが、執政・山田方谷は城を無血開城した。姫路藩は藩主・酒井忠惇(老中)が慶喜とともに江戸へ脱走して留守で、在藩家臣が降伏している。

九州の情勢

正月14日、長崎奉行河津祐邦は秘かに脱走し、佐賀藩大村藩薩摩藩福岡藩などの諸藩により長崎会議所が構成され、治安を担当した。新政府からは澤宣嘉が派遣され、九州鎮撫総督兼外国事務総督に任ぜられて長崎に入った。日田代官所にあった西国郡代窪田鎮勝は17日に脱走。周辺諸藩が接収し、閏4月には日田県が設置された。老中・小笠原長行を世子とする唐津藩は討伐の対象となったが、松方正義がこれを抑え、藩主・小笠原長国が長行との養子関係を義絶するとともに降伏を願い出た。天草の幕府領も程なく薩摩・肥後藩によって接収されている。また、これとは別に薩摩藩は勤王と新政府への支持を表明する誓書の提出を対馬藩以外の九州全藩に求め、2月末までに唐津藩や鳥羽・伏見の戦いで敵対したとされた延岡藩、他の佐幕派である高鍋藩府内藩も含めた全藩がこれに応じており、この時点で九州諸藩は全て勤王に転じたと言える。残された延岡藩の朝敵認定の解除問題も4月に藩主・内藤政挙が上京して短期の謹慎の後に赦免されたことで解決されることになった。

江戸への進軍

甲州勝沼および野州梁田の戦い

詳細は「甲州勝沼の戦い」を参照
錦絵『勝沼駅近藤勇驍勇之図』
伝『1860年 桑港碇泊中の咸臨丸

江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日、幕府主戦派の中心人物・小栗忠順(小栗上野介)を罷免。さらに2月12日、慶喜は江戸城を出て上野寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した。

一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は、本拠地の会津へ戻った。容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。その一方で、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為を取り締まったことで新政府から標的にされていた庄内藩藩主・酒井忠篤は、会津藩と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めた。旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。

新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。

旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとした。しかし東山道を進み信州にあった土佐藩士・板垣退助、薩摩藩士・伊地知正治が率いる新政府軍・約400人は、板垣が率いる迅衝隊が甲州へ向かい、甲陽鎮撫隊より先に甲府城に到着し城を接収した。甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めたが、慶応4年3月6日(同3月29日)、西郷隆盛より開戦の伝令を受けたばかりで結束の高い迅衝隊は新撰組を撃退した。新撰組局長近藤勇は偽名を使って潜伏したが、のち新政府に捕縛され処刑された。

一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(後の衝鋒隊)に対して、朝霧に紛れて三方からの奇襲攻撃をしかけた。幕府軍・約310人は応戦し、梁田宿一帯で市街戦が起こった。最終的には幕府軍の敗北で決着がついた。この戦いは梁田戦争とも呼ばれ、戊辰戦争の東日本における最初の戦いと称される。

江戸城無血開城

詳細は「江戸開城」を参照

駿府に進軍した新政府は3月6日(同3月29日)の軍議で江戸城総攻撃を3月15日とした。しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、イギリス公使ハリー・パークスは新政府に江戸攻撃・中止を求めた。新政府の維持には諸外国との良好な関係が必要だった。また武力を用いた関東の平定には躊躇する意見があった。江戸総攻撃は中止とする命令が周知された。

恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁勝海舟は、幕臣・山岡鉄舟を東征大総督府下参謀西郷隆盛に使者として差し向けて会談、西郷より降伏条件として、徳川慶喜の備前預け、武器・軍艦の引渡しを伝えられた。西郷は3月13日(同4月5日)、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。なお交渉した場所は諸説あり、池上本門寺の東屋でも記録が残っている。翌日3月14日(同4月6日)、高輪の薩摩藩邸で勝は「慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎すること」「江戸城は明け渡しの後、即日田安家に預けること」等の旧幕府としての要求事項を伝え、西郷は総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止となった。結果、4月4日 (旧暦)(同4月26日)に勅使(先鋒総督・橋本実梁、同副総督・柳原前光)が江戸城に入り、「慶喜は水戸にて謹慎すること」「江戸城は尾張家に預けること」等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。同日、慶喜が水戸へ向けて出発した。4月21日(同5月13日)には東征大総督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入った。

船橋の戦い

詳細は「市川・船橋戦争」を参照

慶応4年(1868年)4月11日に行われた江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部・約2000人が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日(5月24日)に市川鎌ヶ谷船橋周辺で新政府軍・約800人と衝突した。この戦いは最初は数に勝る旧幕府軍が有利だったが、戦況は新装備を有する新政府軍へと傾き、新政府側の勝利で幕を閉じた。この戦いは、江戸城無血開城後の南関東地方における最初の本格的な戦闘(上野戦争は同年5月15日)であり、新政府側にとっては旧幕府軍の江戸奪還の挫折と関東諸藩を新政府への恭順に動かした点での意義は大きい。

宇都宮城の戦い

詳細は「宇都宮城の戦い」を参照

江戸城は開城したものの旧幕府方残党勢力は徳川家の聖地である日光廟に篭って兵を募り、そこで新政府軍・約700人と戦うつもりで大挙して江戸を脱走、下野国日光山を目指していた。一方、時を同じくして当時下野国で起きていた世直し一揆を鎮圧するために東山道総督府が下野国宇都宮に派遣していた下野鎮撫・香川敬三(総督府大軍監)は、手勢を引き連れ日光道中を北上中、武蔵国粕壁下総国流山新撰組が潜んでいる噂を聞き有馬藤太を派遣して近藤勇を捕縛した。近藤は板橋に送られたが、香川はそのまま行軍を続け宇都宮に駐屯した。世直しが沈静した直後の4月12日、大鳥圭介伝習隊、幕府歩兵第七連隊、回天隊、新撰組など総勢2,000人の軍隊を引き連れて下総国市川を日光に向けて出発、途中松戸小金宿から2手に分かれ、香川の駐屯する宇都宮城の挟撃に出立した。これを聞いた宇都宮の香川敬三は、一部部隊を引き連れてこれを小山で迎え撃った。兵数と装備で勝る旧幕府軍はこれに勝利、4月19日には宇都宮で旧幕府軍と新政府軍勢力が激突した。翌日には旧幕府軍が宇都宮城を占領するも、宇都宮から一時退却し東山道総督府軍の援軍と合流、大山巌や伊地知正治が統率する新政府軍に奪い返され、もともと目指していた聖地日光での決戦に備えるべく退却した。

上野戦争

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出典:wikipedia
2019/08/17 05:28

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