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戦国時代_(日本)とは?

旧石器時代 | – 紀元前14000年頃
縄文時代 | 前14000年頃 – 前4世紀
弥生時代 | 前4世紀(前10世紀) – 後3世紀中頃
古墳時代 | 3世紀中頃 – 7世紀頃
大和時代 | 前660年? – 710年
飛鳥時代 | 0592年 – 0710年
奈良時代 | 0710年 – 0794年
平安時代 | 0794年 – 1185年
鎌倉時代 | 1185年 – 1333年
建武の新政 | 1333年 – 1336年
室町時代 | 1336年 – 1573年
南北朝時代 | 1336年 – 1392年
戦国時代 | 1467年(1493年)– 1590年
安土桃山時代 | 1573年 – 1603年
江戸時代 | 1603年 – 1868年
幕末 | 1853年 – 1868年
明治時代 | 1868年 – 1912年
大正時代 | 1912年 – 1926年
昭和時代 | 1926年 – 1989年
連合国軍占領下 | 1945年 – 1952年
平成時代 | 1989年 – 2019年(予定)

Category:日本のテーマ史

日本戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。

目次

  • 1 名称
  • 2 始期と終期
  • 3 概要
  • 4 応仁の乱から明応の政変まで
  • 5 明応の政変から信長登場前夜まで
  • 6 信長登場以後
  • 7 戦国大名
  • 8 地域別
    • 8.1 奥羽
    • 8.2 関東
      • 8.2.1 北関東
    • 8.3 中部
      • 8.3.1 甲信
      • 8.3.2 北陸
      • 8.3.3 東海・濃尾
    • 8.4 畿内近国
    • 8.5 山陽・山陰
    • 8.6 四国
    • 8.7 九州
  • 9 軍事
    • 9.1 合戦
    • 9.2 城と築城
  • 10 経済と社会
    • 10.1 「食うための戦争」と民衆
  • 11 文化
  • 12 宗教
  • 13 戦国時代の国土認識
  • 14 参考文献
  • 15 注釈
  • 16 脚注
  • 17 関連項目
  • 18 外部リンク

名称

応仁・文明の乱以後の乱れた世相を、当時の公家が古代中国の「春秋戦国時代」の乱世になぞらえ「戦国の世」と表現したことに由来する。

一条兼良の『樵談治要』の「諸国の守護たる人廉直をさきとすべき事」の条に「諸国の国司は一任四ケ年に過ぎず、当時の守護職は昔の国司に同じといへども、子々孫々につたへて知行をいたす事は、春秋の時の十二諸侯、戦国の世の七雄にことならず」とある。また、近衛尚通の日記『後法成寺尚通公記』の永正五年(1508年)四月十六日の条に「戦国の世の時の如し」とある。「…にことならず」「…の時の如し」という直喩表現からも明らかな通り、当時の公家が使った「戦国の世」という語は、直接的には古代中国の戦国時代を指していた。

武田信玄の『甲州法度次第』の第20条に「天下戦国の上は、諸事をなげうち武具の用意肝要たるべし」とあり、当時の武家も自分たちが生きている時代は「戦国」である、という自覚を持っていたことが伺える。

ただし、江戸時代ベストセラーとなった『日本外史』でも、巻十一に「降りて戦国に至り、この兵各々群雄の分ち領する所となり(中略)之に教へて後戦う者は、武田上杉より過ぐるはなし。故に我が邦の兵の精はこの時に極る」とある(原漢文)。漢文で書かれた『日本外史』でさえ「戦国」という語の出現頻度は意外に少ない。庶民が慣れ親しんだ講談や落語などでは「元亀天正の頃」といった表現の方が一般的であった。日本史の時代区分としての「戦国時代」という術語が一般でも広く使われるようになるのは、明治維新以後である。

始期と終期

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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年10月)

戦国時代の始期と終期についてはいくつかの概念がある。室町時代末期から安土桃山時代にかけて、政権に因む時代区分と平行して「戦国時代」と呼称される。

一般に1467年応仁の乱または1493年明応の政変に始まり、豊臣秀吉関東奥羽惣無事令を発布した1587年、または豊臣秀吉が小田原征伐後北条氏を滅亡させ全国統一の軍事活動が終了した1590年、もしくは奥州で発生した九戸政実の乱を鎮圧し奥州仕置を完成させた1591年までとされることが多い。また、一般に1568年織田信長上洛または1573年の信長による将軍足利義昭追放で室町時代が終了し織豊時代安土桃山時代の始まりとすることが多い。長篠の戦い小牧・長久手の戦いなどがあった安土桃山時代も、戦国時代の末期として含まれるという見方が多い。

従来は1467年に始まった応仁の乱を戦国時代の始期とする見解が有力とされていたが、その後の幕府は衰退しつつも依然中央政権として機能していた。幕府・守護体制が揺らぎ始めた時期は1490年前後であり、1493年の明応の政変により中央政権としての機能が決定的に失われた事が始まりであるとするのが近年の説である。

戦国時代の終期にも複数の見解が並立している。上記の通り戦国時代は室町時代安土桃山時代と重なる年代区分であり、織田信長が安土へ進出して「天下人」へと飛躍した1576年、あるいはさらに後世に進み、関ヶ原の戦いを最後とする見方や、さらに後の大坂の陣を最後とする考え方(元和偃武)、島原の乱を最後とする考え方なども存在する。

戦国時代の始期と終期は地域ごとに異なるとする見解も有力である。この場合、終期は各地域が統一政権の支配下に入った年代を終期とするが、始期は地域ごとに大きく異なっている。

畿内では明応2年(1493年)の明応の政変を戦国時代の始期とし、永禄11年(1568年)の足利義昭と織田信長の上洛を終期とする。

また、関東地方では、享徳3年(1455年)に勃発した享徳の乱によって、利根川を境界に古河公方足利氏と関東管領上杉氏によって東西二分化されて戦国時代が始まり、天正18年(1590年)の豊臣氏による小田原征伐によって戦国時代が終わったとされている。

東北地方では、永享の乱によって陸奥・出羽両国が鎌倉府の支配から離れた永享10年(1438年)が戦国時代の始まりとされ、豊臣氏による天正18年(1590年)の奥羽仕置が戦国時代の終焉とされている。

一方で、中国・四国・九州の西国地域のように具体的な始期を検出できない地域も存在する。

概要

慢性的な紛争状態が続いた時代だが、毎日が戦争状態にあったわけではない。室町幕府によって保証されていた古い権威が否定され始め、守護の支配下にあった者や新興の実力者などが新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。中には家臣が盟主を追放して下剋上により地位を手に入れた者もおり、様々な経歴の戦国大名が登場する。

畿内中央から全国各地の地域に及ぶそれぞれの実力者同士の利害衝突に端を発する衝突が広く日本各地で行われ、旧来の上位権力による制御が困難となった。このような永続的な衝突を可能にする背景は貨幣経済の浸透と充実により国衙荘園の統治機構や畿内中央の首都経済の需要のみには依存しない地域経済が急速に質量ともに発達していき、それまでの無名の庶民が様々な形で成功を収めることができる経済成長期であったことにあり、在地の経済や文化の発展が時代を支えていた。社会構造が急速かつ大幅に変質していき、従前の社会体制の荘園公領制を支えていた職の体系が崩壊すると、それに伴って荘園公領制もこの時期にほぼ形骸化した。経済の急成長に伴い大量に発生した新興地主や新興商人が紛争の絶えない時代に開墾や内外の通商を通じて発展して貨幣経済をさらに拡大する中で自らの実力にふさわしい発言力を社会に対して要求した時代でもあった(豊臣秀吉は「針売り」が出世の始めという伝説がある)。こうした経済発展と頻発する武力紛争に対応して都市部では、農村部などでは惣村という重武装した新興の自治共同体が、それぞれ町人身分と百姓身分の一揆契約に基づく団体として自生・発展を続け、武家領主たちの統治単位も旧来の国衙領や荘園を単位にしたものから、これらの町村へと移行する。戦国大名の領国もこの町村を背景にしたものとして組織されたものであり、後の幕藩体制や近代の地方自治体もこの時誕生した町村を基盤とすることとなる。

応仁の乱から明応の政変まで

応仁の乱の勢力図 1467年
水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲
戦国時代の各時期の勢力図は外部リンクを参照。

元々、足利幕府は南北朝の並立と足利政権を二分した観応の擾乱を治めるために、自派についた大名への恩賞や、南朝や足利直冬などと結び強大な独立勢力と化していた山名氏大内氏らの勢力を維持したまま取り込んだことで、独立的性格を持つ大大名の支持の上に成り立つ不安定さを持つ政権であった。しかし、三代将軍足利義満は南北朝の統一を果たして有力大名の勢力削減に成功し、直属軍を設立するなど将軍権力の強化に成功する。

しかし、さらなる将軍権力の強化を図って強権的手段に出た六代目の足利義教嘉吉の乱で暗殺されて以降、室町幕府は衰勢となり、有力守護大名等に対して統制を効かせるのが難しくなっていく。関東では鎌倉公方古河御所に逃れて古河公方と名乗って関東管領上杉氏との全面戦争(享徳の乱)を引き起こすと、将軍が後任の鎌倉公方として派遣した足利政知も鎌倉にさえ入ることができなかった(堀越公方)。大和加賀でも豪族同士の争乱が起こり、将軍お膝元の京都でも徳政一揆が頻発する有様であった。

こうした中、八代将軍足利義政の跡継ぎを巡る争いが始まり、これに山名氏細川氏ら有力守護大名の権力争い、畠山氏斯波氏の跡継ぎ争いなどが加わって、全国を東西に分けて巻き込む応仁の乱へと至ってしまう。大内氏若狭武田氏など各地の守護大名が上洛し、都を戦場にした争いが十余年も続いた。この戦いは山名氏の衰微、大内ら西軍主力の京都撤退など細川氏が政治的優位を確保して終わったが、双方にとり痛み分けであり、はっきりとした結果が残らなかったため後々までに影響する事になる。乱の最中には、戦争に勝利するために、本拠を空けた守護大名の隙きを突いた朝倉氏など守護代の下克上を許すだけでなく、むしろ積極的に支持して取り込み、他にも敵対陣営の領国を混乱させるため武将を送り込むなど既存の幕府・守護体制を覆す工作を様々に行ったため争いの火種が各地でくすぶり続けた。

とは言え、応仁の乱終結後も幕府の力は暫く残っており、1487年の将軍に敵対する近江守護六角高頼攻め(鈎の陣)には尾張国若狭国など京都近辺の諸大名が従い、1492年足利義材河内攻めにも多くの軍勢が馳せ参じている。だが、この河内攻め最中の1493年4月に管領細川政元による将軍廃立を図った権力簒奪が成功して実権が細川氏に移る事件が発生する(明応の政変)。これにより将軍は傀儡化し、その細川氏も政元の横死後、澄元・晴元父子と高国の二派に分裂して抗争を続けたため幕府は混迷を深めていった。こうして中央政権としての幕府の力は決定的に失われ、将軍はその回復を夢見て各地の大名に身を寄せる存在となり、幕府の直接的な影響力は概ね山城国一国に留まるのみとなってしまう。地方豪族は自ら力を蓄えるか力ある存在に身を寄せるようになり、北条早雲斎藤道三親子など旧来の守護大名でなくとも、実力が幅を利かすようになった状況を捉えて力を蓄え自立し戦国大名となった者も少なくない。

明応の政変から信長登場前夜まで

この明応の政変とは、いわば将軍である足利義材(足利義視の子)を追放し清晃(足利義澄)を将軍としたことだったのだが、これに対して足利義材は政元の元を逃れて地方へと落ち延び、近畿諸国は足利義材派と足利義澄派(細川政元派)と分かれることとなった。細川家もまた、専横を振るった細川政元香西元長薬師寺長忠らによって1507年に暗殺され(永正の錯乱)、政元の養子3人の内、細川澄之細川高国に討たれ、細川澄元派と高国派の2派に分かれて抗争することとなった。この間隙を突いて1509年周防国大内義興が前将軍・足利義尹(よしただ。元の足利義材、後に足利義稙と再度改名)を奉じて上京した。高国は大内義興と組んで義尹を支持すると、澄元は義澄を支持し対立。1511年に義澄が死ぬと、澄元方が劣勢となり、澄元は何度か京と四国を往復するが結果的には権力を奪えず1520年に阿波で死んだ。

以上で見たように政権掌握者は足利氏から細川氏に移り、続いて三好氏が政権を握った。細川氏は形式上は管領家であるから執政権が存在するが、細川氏内臣の三好氏にいたっては阿波撫養の豪族というだけで本来なら政権を執れるはずはない。ここに足利室町幕府の無力化は明確となった。実際、この前後から現代日本人が俗に戦国大名と呼んで親しんでいる武田信玄、上杉謙信北条氏康大友宗麟島津貴久などの華々しい活躍が始まり、全国の戦国騒乱が本格化する。

三好長慶は京周辺を制圧した強大な軍事力をバックとして足利氏を追放する。三好政権の正当性が弱かったために周辺豪族の反発を招き、結局4年で足利義輝に屈服することとなる。三好長慶の死後、幼い当主・三好義継を抱えた三好政権は弱体化し、これを見た義輝は将軍権威の再建に努めるようになった。それゆえ、危機感を覚えた三好政権は義輝を永禄の変で殺害するも、松永久秀・興福寺浅井長政らの協力を取り付けた織田信長が上洛すると、簡単に京を明け渡した(三好長慶から始まる三好政権について、「堺公方」も参照)。

毛利元就による中国支配への契機となった厳島の戦いもこの時期である。

信長登場以後

織田信長

1560年尾張国の織田信長は桶狭間の戦い今川義元を討ち取り、1567年美濃国斉藤氏から奪い、1568年、信長は義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛する。信長は義昭の名で四方大名へ命令を発布、天下人への道を歩み始める。信長が入京して最初にしたことは大津山崎など商業都市を直轄地としたことである。また、イエズス会ルイス・フロイスに京居住・布教を許している(1568年)など京都統治も行っている。

この頃になると、信長の動きに関連して各地方の有力な大名も勢力を伸ばしてゆく。桶狭間の戦いの後に今川氏の庇護下から松平氏の旧領三河を回復した徳川家康、関東の後北条氏、甲斐・信濃の武田氏、北陸の上杉氏、中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏、九州の島津氏などである。これらの大名は信長と同盟を結んだり、あるいは他の大名と同盟を結んで信長に対抗したりした。信長との関係が悪化した将軍の足利義昭が音頭を取り、比叡山本願寺武田信玄上杉謙信朝倉義景浅井長政松永久秀三好三人衆毛利輝元ら反信長派が結集して信長包囲網を築き上げたが各個撃破を受け崩壊、足利義昭は京を追われた(幕府という形態はこの後、備後に細々と続く)。各地で発生した一向一揆と信長の戦いも続き、石山本願寺とは10年間徹底的に抗戦した(石山合戦)。織田信長はこれらの敵対勢力を次々と屈服させ、1582年までには日本中央部を制圧し、天下統一の寸前までを実質的に成し遂げたが、最後は本能寺の変明智光秀に攻められ自害する。

元亀元年頃の戦国大名版図(推定)
関ヶ原の戦い

信長の死後、織田家重臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は本能寺の変が発生するといち早く山崎の戦い明智光秀を倒し、翌年には信長の後継を巡り対立した柴田勝家賤ヶ岳の戦いで破り覇権を確立した。

信長の嫡孫三法師を擁して覇権を確立した羽柴秀吉(豊臣秀吉)であったが、1584年に安土城から信雄を退去させるなど両者の関係は悪化していた。信雄は徳川家康とともに挙兵し、さらには雑賀衆根来衆北条氏政、長宗我部元親、佐々成政らが秀吉包囲網を築きあげたが、戦線が悶着したところで信雄は秀吉に懐柔され家康は撤退、包囲網は解散した(小牧・長久手の戦い)。家康は秀吉に臣従する形となったが豊臣政権で重く用いられている。

秀吉は豊臣姓を賜り関白となるなど朝廷を中心とした日本の伝統的な官位も活用して支配を進めていった。秀吉は惣無事令を発布して日本全土を名目的に統一、更には太閤検地刀狩身分統制令、貨幣統一を行い、1590年には小田原征伐で後北条氏を滅ぼし名実ともに統一を達成した。統一後の1592年1597年には朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)も行ったが、秀吉の死去により退却した。その後李氏朝鮮とは江戸時代初期に対馬宗氏を通じて国交が回復している。

秀吉の死後、豊臣政権五大老の一人徳川家康を中心とする東軍と豊臣政権の五奉行の一人石田三成を中心とする西軍が戦った関ヶ原の戦いで東軍が勝利し、東軍総大将を務めた徳川家康は関ヶ原の戦いの戦後処理として諸大名の転封改易を行い、1603年征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開いた。家康は1605年に将軍職を三男の徳川秀忠に譲り、将軍職は世襲により継承するものであることを諸大名に徹底確認させた。一国一城令に従わせることは、諸大名から軍事的な拠点を奪い戦争をさせないためでもあった。家康はその後も大御所として影響力を持ち、諸大名の転封や改易を積極的に行い、方広寺鐘銘事件を名目に1615年大坂夏の陣(大坂の役)で豊臣秀頼の居城大坂城を攻め豊臣氏を滅ぼす。そして17世紀中期、3代将軍徳川家光が死去し4代将軍徳川家綱が就任した頃より幕府の政治は武断政治から文治政治へと転換してゆく。

戦国大名

詳細は「戦国大名」を参照

戦国大名は、そのほとんどが守護大名守護代国人を出自とする。国司(北畠氏)や公家(土佐一条氏)を出自とする者もいた。まれに低身分から戦国大名となった者もおり、当時の風潮だった下克上の例とされることが多い。

戦国大名は、領国内に一元的な支配を及ぼした。この領国は高い独立性を有すると、地域国家と呼びうる実態を持っていた。こうした戦国大名による地域国家内の支配体制を大名領国制という。戦国大名は、領国内において必ずしも超越的な存在ではなかった。戦国大名は、地域国家内の国人被官層を家臣として組織化していったが、実のところ、この国人・被官層が戦国大名の権力基盤となっていた。戦国大名は、家臣である国人・被官層が結成した一揆関係に支えられて存立していたのであり、国人・被官層の権益を守る能力のない戦国大名はしばしば排除された。

地域別

奥羽

奥羽地方の戦国大名は鎌倉時代から代々土地を所有してきた由緒ある一族が、そのまま戦国大名化した者が多い。例外は若狭武田氏末裔を名乗る蠣崎氏で、津軽海峡沿いの中小豪族を統一した。

奥羽地方は関東の騒乱にほとんど巻き込まれることなく、当然中央の政争の影響もほとんど見られない。戦乱といえば、15世紀前半から南部氏が仙北・鹿角に出兵(この鹿角争奪戦は永禄頃まで続く)、伊達氏の河北地方への侵食など領地争いが目立つ。篠川公方雫石御所も滅ぼされるなど、東北地方といえど、平穏無事ではなかった。また、1522年伊達稙宗奥州探題大崎氏らを差し置いて陸奥守護職に就くなど下克上の芽は見られる。

とは言え、奥羽地方の特に南部では領主間の婚姻が盛んであった上、大名に後継者が不在の場合には一族の庶流出身者よりも他の大名家から養子を迎えることが多かったのが特徴的である。極端なケースでは伊達晴宗の嫡男が外祖父の岩城重隆の後を継ぎ(岩城親隆)、蘆名盛氏に敗れて人質として差し出された二階堂盛義の嫡男が当主の急逝によって急遽蘆名氏の養嗣子として当主になる(蘆名盛隆)といったものがあった。このため、諸大名の確執が合戦に発展した場合でもどちらかが壊滅する前に双方と血縁関係にある第三者が仲介して和解に至るケースが多かった。

1542年には伊達稙宗父子が家督の位置付けを巡って争いを起こして、血縁関係にある奥羽諸大名を巻き込んだ大乱(天文の乱)へ発展した。この乱の過程で、伊達晴宗は国人一揆との契約関係を再確認することで、他の奥羽諸大名に先駆けて戦国大名としての体制を確立することに成功した。

これ以降、家督の相続を巡って相克のあった蘆名・田村・岩城・最上・南部などの諸家では、国人一揆と大名の契約関係の一元化により戦国大名化を果たした。どの戦国大名も従来の大名に替わって室町幕府に「郡検断」「軍勢催促」「段銭徴収」等の諸権力を公認されることで各地域の中心勢力を形成する。彼らは新しい中央政権たる豊臣秀吉の奥州仕置によって既得権益を追認された。

16世紀第4四半期の時点で、安東氏秋田三戸南部氏糠部、奥州探題大崎氏大崎葛西氏登米、羽州探題最上氏最上村山伊達氏信夫伊達置賜刈田柴田宮城蘆名氏会津耶麻大沼河沼西蒲原安積岩瀬二本松氏(畠山氏)が安達田村氏田村石川氏白河結城氏白河相馬氏行方宇多標葉岩城氏楢葉岩城磐前菊田多賀において安堵を実行した発給文書が残っている。

一般的に奥羽地方南部は戦国時代の末期(1580年代)に伊達政宗が登場して軍事的才能をもって地域統合を果たしたとされることが多い。だが、実際にはその直前に常陸国の佐竹義重がこの地域の諸大名を傘下に置いて地域統合を確立しつつあった。政宗の家督継承は佐竹氏が北上して伊達氏と勢力圏が接する状況下で行われ、佐竹氏傘下の諸大名に圧迫された正室の実家(田村氏)の救援に乗り出したことで佐竹義重の奥州支配と対決することになり、やがて自らがその地位を取って代わることになったのである。

関東

関東では京都で応仁の乱が起きる以前より、享徳の乱・長享の乱永正の乱の3つの大乱が立て続けに起こっており、古河公方と関東管領山内上杉家・その庶流の扇谷上杉家が3つ巴になって覇権を争った。

今川氏親の叔父で興国寺城主伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、伊豆国の堀越公方である足利政知の死去に伴う内乱に乗じて1493年に実質堀越公方の足利茶々丸を滅ぼし伊豆を平定。その子孫が北条氏を自称した。この北条氏と上杉氏が関東の覇権を巡って戦い、1546年河越夜戦により上杉氏の勢力が衰えた。1552年、北条氏が古河御所を制圧して古河公方を掌握。山内上杉氏が上野を追われ長尾景虎(後の上杉謙信)を頼ったことから北条氏と長尾氏(のちに上杉氏を継ぐ)とが関東を巡って争った。

関東管領を継承した上杉謙信は一時は北条氏の居城小田原城を攻囲するも奪えなかった。この上杉氏・北条氏の争いは全関東の諸豪族を二分すると、北条氏康里見義堯(上杉陣営)による国府台合戦など、各地で戦いを引き起こした。1579年、上杉謙信が死ぬと常陸の佐竹氏、安房の里見氏、下野の宇都宮氏などが北条氏の侵攻に抵抗したが、北条氏の勢力拡大を抑えることができなかった。更に奥州支配を進める伊達氏によって佐竹義重は南北両方面での戦いを余儀なくされた。

1582年甲州征伐で織田氏、徳川氏、後北条氏が武田氏の甲斐・信濃・駿河へ侵攻するが、同年に発生した本能寺の変の後に後北条氏は織田氏との同盟を破棄して甲斐・信濃へ侵攻(神流川の戦い)、さらに旧武田領を巡り徳川氏、上杉氏、後北条氏、真田昌幸らの間で天正壬午の乱が発生し、甲斐・南信濃を徳川氏、北信濃を上杉氏、上野を後北条氏、沼田領を真田氏が領することで一応の和睦を見た。

豊臣秀吉が惣無事令を発した後の1590年、後北条氏の家臣による真田領への侵攻が惣無事令違反とされ、豊臣氏を中心とする21万人の連合軍を前に北条氏直は小田原城に籠城するも敢え無く落城し後北条氏は滅亡(小田原征伐)、ここに豊臣秀吉による全国統一が完成した。この時、北条陣営に付いた関東の多くの領主が所領を没収され、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/09/24 10:46

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