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戦国時代_(日本)とは?

旧石器時代 | – 紀元前14000年頃
縄文時代 | 前14000年頃 – 前10世紀
弥生時代 | 前4世紀 – 後3世紀中頃
古墳時代 | 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 | 0592年 – 0710年
奈良時代 | 0710年 – 0794年
平安時代 | 0794年 – 1185年
王朝国家 | 10世紀初頭 – 12世紀後期
平氏政権 | 1167年 – 1185年
鎌倉時代 | 1185年 – 1333年
建武の新政 | 1333年 – 1336年
室町時代 | 1336年 – 1573年
南北朝時代 | 1336年 – 1392年
戦国時代 | 1467年(1493年)– 1590年
安土桃山時代 | 1573年 – 1603年
江戸時代 | 1603年 – 1868年
鎖国 | 1639年 – 1854年
幕末 | 1853年 – 1868年
明治時代 | 1868年 – 1912年
大正時代 | 1912年 – 1926年
昭和時代 | 1926年 – 1989年
GHQ/SCAP占領下 | 1945年 – 1952年
平成時代 | 1989年 – 2019年
令和時代 | 2019年 –

Category:日本のテーマ史

日本戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。

名称

応仁・文明の乱以後の乱れた世相を、当時の公家が古代中国の「春秋戦国時代」の乱世になぞらえ「戦国の世」と表現したことに由来する。

一条兼良の『樵談治要』の「諸国の守護たる人廉直をさきとすべき事」の条に、「諸国の国司は一任四ケ年に過ぎず、当時の守護職は昔の国司に同じといへども、子々孫々につたへて知行をいたす事は、春秋の時の十二諸侯、戦国の世の七雄にことならず」とある。また、近衛尚通の日記『後法成寺尚通公記』(近衛尚通公記)の永正5年(1508年)4月16日条に「戦国の世の時の如し」とある。「…にことならず」「…の時の如し」という直喩表現からも明らかな通り、当時の公家が使った「戦国の世」という語は、直接的には古代中国の戦国時代を指していた。

武田信玄の『甲州法度次第』の第20条に「天下戦国の上は、諸事をなげうち武具の用意肝要たるべし」とあり、当時の武家も自分たちが生きている時代は「戦国」である、という自覚を持っていたことが伺える。

ただし、江戸時代ベストセラーとなった『日本外史』でも、巻十一に「降りて戦国に至り、この兵各々群雄の分ち領する所となり(中略)之に教へて後戦う者は、武田上杉より過ぐるはなし。故に我が邦の兵の精はこの時に極る」とある(原漢文)。漢文で書かれた『日本外史』でさえ「戦国」という語の出現頻度は意外に少ない。庶民が慣れ親しんだ講談や落語などでは「元亀天正の頃」といった表現の方が一般的であった。日本史の時代区分としての「戦国時代」という術語が一般でも広く使われるようになるのは、明治維新以後である。

始期と終期

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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年10月)

戦国時代の始期と終期については、いくつかの概念がある。室町時代末期から安土桃山時代にかけて、政権に因む時代区分と平行して「戦国時代」と呼称される。

全国一律の始期と終期
一般に1467年応仁の乱または1493年明応の政変に始まり、豊臣秀吉関東奥羽惣無事令を発布した1587年、または豊臣秀吉が小田原征伐後北条氏を滅亡させ全国統一の軍事活動が終了した1590年、もしくは奥州で発生した九戸政実の乱を鎮圧し奥州仕置を完成させた1591年までとされることが多い。また、一般に1568年の織田信長上洛または1573年の信長による将軍足利義昭追放で室町時代が終了し織豊時代安土桃山時代の始まりとすることが多い。長篠の戦い小牧・長久手の戦いなどがあった安土桃山時代も、戦国時代の末期として含まれるという見方が多い。
従来は、1467年に始まった応仁の乱を戦国時代の始期とする見解が有力とされていたが、その後の幕府は衰退しつつも依然中央政権として機能していた。幕府・守護体制が揺らぎ始めた時期は1490年前後であり、明応2年(1493年)の明応の政変により中央政権としての機能が決定的に失われた事が始まりであるとするのが、鈴木良一が提唱して近年に有力になった説である。
戦国時代の終期にも複数の見解が並立している。上記の通り戦国時代は室町時代安土桃山時代と重なる年代区分であり、織田信長が安土へ進出して「天下人」へと飛躍した1576年、あるいはさらに後世に進み、関ヶ原の戦いを最後とする見方や、さらに後の大坂の陣を最後とする考え方(元和偃武)、島原の乱を最後とする考え方なども存在する。
地域ごとの始期と終期
戦国時代の始期と終期は地域ごとに異なるとする見解も有力である。この場合、終期は各地域が統一政権の支配下に入った年代を終期とするが、始期は地域ごとに大きく異なっている。
畿内では明応2年(1493年)の明応の政変を戦国時代の始期とし、永禄11年(1568年)の足利義昭と織田信長の上洛を終期とする。
また、関東地方では、享徳3年(1455年)に勃発した享徳の乱によって、利根川を境界に古河公方足利氏と関東管領上杉氏によって東西二分化されて戦国時代が始まり、天正18年(1590年)の豊臣氏による小田原征伐によって戦国時代が終わったとされている。
東北地方では、永享の乱によって陸奥・出羽両国が鎌倉府の支配から離れた永享10年(1438年)が戦国時代の始まりとされ、豊臣氏による天正18年(1590年)の奥羽仕置が戦国時代の終焉とされている。
一方で、中国・四国・九州の西国地域のように具体的な始期を検出できない地域も存在する。

概説

慢性的な紛争状態が続いた時代だが、毎日が戦争状態にあったわけではない。室町幕府によって、保証されていた古い権威が否定され始め、守護の支配下にあった者や新興の実力者などが新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。中には家臣が盟主を追放して下剋上により地位を手に入れた者もおり、様々な経歴の戦国大名が登場する。

畿内中央から、全国各地の地域に及ぶそれぞれの実力者同士の利害衝突に端を発する衝突が広く日本各地で行われ、旧来の上位権力による制御が困難となった。このような永続的な衝突を可能にする背景は貨幣経済の浸透と充実により国衙荘園の統治機構や畿内中央の首都経済の需要のみには依存しない地域経済が急速に質量ともに発達していき、それまでの無名の庶民が様々な形で成功を収めることができる経済成長期であったことにあり、在地の経済や文化の発展が時代を支えていた。社会構造が急速かつ大幅に変質していき、従前の社会体制の荘園公領制を支えていた職の体系が崩壊すると、それに伴って荘園公領制もこの時期にほぼ形骸化した。経済の急成長に伴い大量に発生した新興地主や新興商人が紛争の絶えない時代に開墾や内外の通商を通じて発展して貨幣経済をさらに拡大する中で自らの実力にふさわしい発言力を社会に対して要求した時代でもあった(豊臣秀吉は「針売り」が出世の始めという伝説がある)。こうした経済発展と頻発する武力紛争に対応して都市部では、農村部などでは惣村という重武装した新興の自治共同体が、それぞれ町人身分と百姓身分の一揆契約に基づく団体として自生・発展を続け、武家領主たちの統治単位も旧来の国衙領や荘園を単位にしたものから、これらの町村へと移行する。戦国大名の領国もこの町村を背景にしたものとして組織されたものであり、後の幕藩体制や近代の地方自治体もこの時誕生した町村を基盤とすることとなる。

戦国時代通史

細川政元と明応の政変(明応・文亀年間)

細川政権 (戦国時代)」および「明応の政変」を参照
細川政元
足利義稙

長享3年(1489年)3月に足利義尚の没後、翌延徳2年(1490年)7月に将軍位に就いた足利義材(→義尹→義稙。以下義稙で統一)は、将軍主導の専制政治を展開し、延徳3年(1491年)に再び六角征伐を行い、その後明応2年(1493年)2月には畠山氏の内紛に介入し河内親征を行った。

しかし同年4月、義稙との関係が悪化していた細川政元らが明応の政変と言われるクーデターを起こし、新たに足利義澄(義遐→義高→義澄。以下義澄に統一)を擁立し11代将軍に据えた。義稙は政元により幽閉されたが6月に脱出し、畠山尚順の守護管国の越中へ逃亡した。義稙は北陸を拠点に列島各地へ上洛作戦への奉仕を呼びかけ、義稙が動座した北陸では越中守護代・神保長誠の他、能登守護・畠山義統、越前守護・朝倉貞景、加賀守護・富樫泰高らが義稙に恭順の姿勢を示した。さらに西国の諸大名からは大友氏大内氏菊池氏島津氏らも義稙に加勢し、義澄・政元は義稙の多数派工作の前に苦境に追い込まれていった。このように明応の政変を契機に将軍家は義稙系と義澄系の2系統に分裂した。応仁・文明の乱後も各地の大名・武将たちにとって将軍は自分たちの棟梁、集うべき中核であると認識されていたため、この対立は地方での抗争と連動し列島規模で紛争を引き起こしていった。

伊勢宗瑞(北条早雲)

義稙に恭順した北陸の大名の中には越後守護の上杉房定も含まれており、越後上杉氏出身で山内上杉氏を嗣いでいた上杉顕定も義稙に味方した。伊豆守護でもあった顕定は堀越公方足利茶々丸を庇護していたが、この茶々丸を義澄の指示で伊勢宗瑞が攻撃したため上杉氏と伊勢氏(後北条氏)との争いが始まった。両者の対立は戦国期・関東の中心的な政治対立として永く続いていった。

明応8年(1499年)、義稙は北陸から上洛作戦を開始した。1月、義稙方の尚順は紀伊から出兵し河内十七箇所で義澄方の畠山基家を討ち取り、義稙も近江まで兵を進めたが、六角氏に敗れたため同年中に周防・大内義興の許へ移座した。

九州ではそれ以前から続いていた大内氏と大友氏の抗争に、将軍家との関係が絡んで対立が深刻化していった。明応5年(1496年)11月に義稙派の少弐政資高経父子が大内領の筑前に侵攻したのを皮切りに義澄派と義稙派の戦いが始まった。明応9年(1500年)、大内氏と抗争を繰り広げていた大友親治は義稙の周防下向に伴い義澄派へ転向し、大内義弘菊池能運少弐資元阿蘇惟長らも同調した。義澄・政元方も調略を行い義稙の周防移座後、越後守護の上杉房能と尾張守護の斯波氏と和睦して北陸の義稙派をけん制するなど義稙、義澄双方による多数派工作が列島規模で展開された。文亀元年(1501年)閏6月には、義澄・政元は朝廷を動かし義興に対して治罰の綸旨を獲得した。同じ頃、義稙派の大内氏と義澄派の大友氏が豊前で激突していたが、9月以降に義稙が和睦調停を行い停戦に合意した。

両細川の乱(永正年間)

永正の錯乱」を参照
細川高国

永正元年(1504年)12月、畠山尚順と畠山基家の後継者である畠山義英の両畠山氏が和睦し、両者とも足利義稙方に与同し足利義澄・細川政元に反抗した。これを受けて義稙は永正3年(1506年)2月に周防からの上洛作戦を計画したが、それより早く永正2年(1505年)11月に細川政元が両畠山氏を攻撃、撃破したため作戦は回避された。

永正4年(1507年)6月、政元は後継者争いのもつれから細川澄之派の内衆に暗殺された。「天下無双之権威、丹波・摂津・大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護也」と京兆家の守護任国の丹波・摂津・讃岐・土佐以外の国々にも支配を及ぼしていた政元の死は、新たな政治対立を招来した。即ち足利将軍家だけでなく、細川京兆家もまた澄元系(細川澄元細川晴元)と高国系(細川高国-細川晴国細川氏綱)に分裂し、この抗争は各地方の紛争と連動しながら展開していくのである。

大内義興

政元を暗殺した澄之は同年8月澄元派の高国に討ち取られ、京兆家の家督は澄元に定まった。しかし、この京都での政変を好機と捉えた周防の義稙と大内義興が上洛作戦を決行。これに澄元との関係が悪化していた高国が合流し、永正5年(1508年)4月、義澄と澄元は近江に没落し、代わって義稙が将軍に復帰した。翌永正6年(1509年)6月、澄元方は上洛作戦を実施し、澄元方の三好之長は近江から出陣し京都を見下ろす如意ヶ嶽に着陣した。しかし阿波・讃岐では京都の政争と連動し忩劇が発生しており阿波衆は渡海出来ず、敗れた澄元は義澄を近江に残して阿波に逃れた。

澄元は永正8年(1511年)再び上洛戦を開始した。澄元陣営は畠山総州家の義英が遊佐印嬰を派遣した他、四国からは細川政賢、和泉上半国守護・細川元常、淡路守護・細川尚春、播磨守護の赤松義村、その他義澄方の近江勢も加勢した。これに対し義稙・高国・義興は一旦丹波に退いた後、京都に進軍し船岡山で澄元軍を撃破した。またこの合戦の直前、義澄は近江で死没しており、明応の政変以来続いてきた「二人の将軍」による全国的な抗争は終息を迎えた。

澄元は船岡山合戦後も京都復帰を窺い続けたが、細川成之細川之持没後の細川讃州家立て直しのため、しばらく阿波を離れられない状態が続いた。しかし永正15年(1518年)の義興の帰国後、義稙と高国の関係が不和になった状況を捉えて、澄元は永正16年(1519年)に3度目の上洛戦を開始した。澄元は将軍の義稙を自陣営に引き入れることに成功した他、四国勢・赤松氏も澄元に加勢した。澄元勢の侵攻を止められなかった高国は近江に没落したが、澄元に通じていた義稙は京都に留まり永正17年(1520年)5月1日、義稙は澄元の京兆家家督の相続を承認した。しかし高国は六角氏の支持を得て反抗作戦を敢行し、同5月5日、等持院の戦いで澄元方の主力である三好之長を破り自害させ、6月には澄元も阿波で病死した。一度は高国を見限った義稙は再び高国と共に政務に復帰したが、永正18年(1521年)に出奔し大永3年(1523年)に阿波で亡くなった。

堺公方府の興亡(大永・享禄年間)

大物崩れ」および「堺公方」を参照
足利義晴
三好元長

永正18年/大永元年(1521年)、高国は阿波に出奔した義稙に代えて播磨から足利義澄の長男、足利義晴を招聘し12代将軍に就任させた。大永5年(1525年)、高国は家督を嫡男の細川稙国に譲ったが10月に亡くなり、再び政務に復帰した。

高国政権は、高国と細川家の内衆との関係が拗れたことにより崩壊に向かった。大永6年(1526年)7月、高国は内衆の香西元盛の阿波の細川澄元の嫡男・細川晴元方への内通を疑い自害させた。これをきっかけに元盛の兄弟の波多野稙通柳本賢治が高国から離反し晴元に通じ、足利義維(義賢→義維→義冬。以下義維で統一)を擁する晴元は12月に畿内へ先遣隊を渡海させた。晴元方は上洛戦を前に入念な調略を行っていた。高国派の但馬守護・山名誠豊を因幡守護・山名豊治に攻撃させ、同じく高国派の伊勢国司・北畠晴具をけん制するため、伊勢の国衆を高国不支持で纏め上げていた。更に高国と懇意であったはずの六角氏とも縁談を進めるなど広範囲なものだった。

晴元勢は大永7年(1527年)2月の桂川合戦に勝利し、高国は義晴と共に近江に逃れた。高国主導の政治体制は崩壊し、同年3月に堺に上陸した義維・晴元の堺公方府と近江の義晴・高国が対峙する両公方体制が成立した。同年10月、義晴と高国は近江の六角定頼・越前の朝倉宗滴とともに上洛戦を行ったが、京都を奪還することは出来ず義晴と高国は再び近江に退いた。その後地方を流浪した高国は享禄3年(1530年)に播磨の浦上村宗の支援を得て上洛戦を開始。翌享禄4年(1531年)、高国と村宗は摂津で晴元方の諸城を攻略し近江の六角定頼も高国に与同し上洛の姿勢を見せた。劣勢になった晴元は阿波より三好元長を召喚し高国・村宗と対峙させた。元長は高国・村宗と共に従軍していた播磨守護・赤松晴政を離脱させることにより高国・村宗勢を崩壊させることに成功。天王寺の戦いで高国・村宗勢を撃破し、高国を自害させた。しかし堺公方府内では政権構想について意見の対立があり、その結果公方府は瓦解し晴元は義維ではなく義晴を推戴することになった。

三好長慶の覇権(天文年間)

三好政権」を参照
三好長慶
尼子晴久

高国政権と堺公方府の崩壊を経て細川晴元は政権を獲得した。しかし足利義晴は享禄年間以降、内談衆を組織して親政政治を開始しており、細川氏の抗争に対して中立の立場をとるようになっていた。また近江の六角定頼が政権内で発言力を高めており、幕府内での晴元の存在感は希薄であった。

天文年間の動乱は畿内の細川京兆家と、中国地方の大内氏と尼子氏の抗争が連動しながら展開していった。晴元は大内義隆と提携し(永正年間には細川高国と共に義稙政権を支えていた大内氏だが、大永3年(1523年)に起こった寧波の乱によりその関係は決裂していた)、六角定頼山名祐豊赤松晴政土佐一条氏も晴元‐大内陣営に参画。一方、高国後継を称する細川氏綱による氏綱派は畠山稙長尼子晴久安芸武田氏若狭武田氏因幡・山名氏河野氏香宗我部氏が連携して晴元-大内陣営に対抗し、畿内・近国のみならず西国をも含んだ動乱に発展した。

天文7年(1538年)、旧高国派による反抗作戦が現出し始めた。畠山尚順の後継者である畠山稙長と山陰の尼子晴久が連携し上洛戦を計画。畿内でも旧高国派による攻撃が丹波と山城国の宇治で起こった。天文12年(1544年)には細川尹賢の子である細川氏綱が和泉で挙兵。天文16年(1547年)に行われた舎利寺の戦いでは敗北したものの、翌天文17年(1548年)に晴元方の有力武将・三好長慶が氏綱方に転向し、氏綱派の主力として晴元に対抗した。

長慶勢は天文18年(1549年)の江口の戦いで晴元方を破り、晴元は義晴の嫡男で12代将軍に補任されていた足利義輝(義藤→義輝。以下義輝に統一)と共に近江に没落した。長慶は当初、京兆家家督を継承した氏綱を推戴したが、その後自らが政治を主導するようになった。中国地方では天文20年(1551年)に晴元派の大内義隆が家臣の陶晴賢に攻められ自害した一方、氏綱派の尼子晴久は8ヵ国の守護に補任され中国地方最大の大名に成長した。翌天文21年(1552年)には、将軍・義輝が長慶と和睦が成り帰洛した。しかし、それに反発した細川晴元は出奔し、なおも長慶に対して抵抗を続けた。また一度は長慶と和睦した義輝も翌天文22年(1553年)には再び対立し、義輝は晴元と共に東山霊山城に入城して長慶に対抗したが、敗れて再度近江に滞在することになった。

1540年代までは、戦国時代とは言いながらも国ごとの纏まりは簡単に崩せないという常識が存在し、それぞれが互いの地域の秩序を認め合っていた。しかしこれ以降は、それまでと違い近隣の国々への出兵と領土拡大、奴隷狩りや略奪などを行う侵略的な大名たちが現れるようになっていった。

永禄の変(弘治・永禄年間)

永禄の変」および「東大寺大仏殿の戦い」を参照
足利義輝
大友義鎮(大友宗麟)
伊達晴宗

将軍・足利義輝が近江に出奔後、三好長慶は畿外の晴元方勢力を平定し勢力を拡大させていった。 永禄元年(1558年)、近江に滞在中の義輝は上洛戦を行った。長慶も四国勢を召喚して対抗したが、11月に六角義賢の仲介により両者は和睦し義輝の京都復帰が5年ぶりに実現した。

帰洛後、なおも一程度の全国の支配権を維持していた義輝は地方政策転換の姿勢を明確に表した。それまで幕府は、九州では九州探題渋川氏を将軍に最も近い権威とし、奥州では奥州探題大崎氏を地域の武家秩序の要として据えていた。幕府は天文12年(1543年)に大友義鑑が九州探題補任に関する礼銭について打診したり、伊達稙宗が奥州探題の補任を求めてもこれを応じることはなかった。しかし永禄2年(1559年)大友義鎮を九州探題に、伊達晴宗を奥州探題にそれぞれ補任し、義輝の京都復帰を受けて上洛した上杉謙信に対し関東管領上杉憲政の進退について一任するなど、義輝は室町幕府を頂点とし、地方の有力大名を取り込む新たな武家秩序を構築していった。 しかし永禄8年(1565年)5月、長慶の没後三好家の家督を相続した三好義継らが行った御所巻が争いに発展し、その中で義輝は討死してしまった。永禄9年(1566年)には阿波から渡海した足利義栄(義親→義栄。以下義栄に統一)が畿内に入り、義継を担ぐ三好三人衆は義栄の将軍就任に向けて活動を始めた。

これに対して畠山高政を筆頭とした反三人衆方は、義輝の弟である足利義昭(足利義秋→義昭。以下義昭で統一)を擁立する動きを活発化させ各地の大名に協力を求めた。さらに義継や三好政権の有力武将だった松永久秀も三人衆と反目し反三人衆方に転向した。こうして義栄擁立を目指す三好三人衆と、義昭を将軍位に就けようとする畠山氏・松永氏ら反三人衆方との政治対立が紛争を引き起こしていった。

その後、義栄は永禄11年(1568年)3月に将軍に補任された。ただ阿波出身で幕府奉行衆とのつながりを持っていなかった義栄は幕府機構を整備出来ず、上洛して政務を執ることは無かった。義栄は摂津富田普門寺に留まり続け、補任した同年9月には病没した。

一方、永禄の政変の直後、大和興福寺から脱出した義昭は、逃亡先の越前から諸国の大名に上洛への協力を呼びかけた。これに尾張織田信長が供奉の意向を示し永禄11年(1568年)に上洛戦を開始した。擁立を目指してきた義昭が信長と共に上洛戦を開始したのを受け、反三人衆方は義昭と信長に合流。同年10月、義昭は第15代室町幕府の将軍に就任した。

織田信長の天下へ(元亀年間)

織田政権」および「信長包囲網」を参照
織田信長
足利義昭

永禄13年/元亀元年(1570年)1月、織田信長は畿内・近国他、諸国の大名に触状を発し朝廷・将軍への出仕のための上洛を求めた。しかし越前の朝倉義景は出仕を拒否したため、信長は同年4月の義景に討伐を目的にした越前征伐を行ったが浅井長政の裏切りにより遠征は失敗に終わった。6月には近江・野村で朝倉・浅井連合軍と合戦し徳川家康と共に撃破したが、義景と長政はその後、三好三人衆、本願寺・顕如らと信長包囲網を形成し対抗した。信長は西方の本願寺と三好三人衆、東方の朝倉氏と浅井氏からの圧力を受け、さらに甲斐武田信玄も義景らの催促を受け元亀3年(1572年)10月に甲斐から西方に出兵し、信長と反信長方との緊張は増した。

さらに将軍・義昭と信長の関係にも亀裂が入った。信長は元亀3年末から翌元亀4年(1573年)正月頃、義昭に「異見十七ヶ条」を上程し義昭の政務を厳しく批判した。同年2月、義昭は信長の成敗を目的に挙兵し、信玄も「公儀の御威光を以て」上洛を目指した。だが信玄は4月、信州・駒場の陣中で病没してしまい、義昭は7月に山城・槙島で信長に敗れ京都から追放された。天正に改元後の8月-9月、信長は朝倉・浅井氏を滅亡させ、11月には河内・若江城の三好義継も信長軍に攻撃され自害した。

こうして室町幕府の時代は終わり、安土桃山時代に移行した。

戦国大名

詳細は「戦国大名」を参照

戦国大名は、そのほとんどが守護大名守護代国人を出自とする。国司(北畠氏)や公家(土佐一条氏)を出自とする者もいた。まれに低身分から戦国大名となった者もおり、当時の風潮だった下克上の例とされることが多い。

戦国大名は、領国内に一元的な支配を及ぼした。この領国は高い独立性を有すると、地域国家と呼びうる実態を持っていた。こうした戦国大名による地域国家内の支配体制を、大名領国制という。戦国大名は、領国内において必ずしも超越的な存在ではなかった。戦国大名は、地域国家内の国人被官層を家臣として組織化していったが、実のところ、この国人・被官層が戦国大名の権力基盤となっていた。戦国大名は、家臣である国人・被官層が結成した一揆関係に支えられて存立していたのであり、国人・被官層の権益を守る能力のない戦国大名はしばしば排除された。

地域別

奥羽

奥羽地方の戦国大名は、鎌倉時代から代々土地を所有してきた由緒ある一族が、そのまま戦国大名化した者が多い。例外は若狭武田氏末裔を名乗る蠣崎氏で、津軽海峡沿いの中小豪族を統一した。

奥羽地方は、関東の騒乱にほとんど巻き込まれることなく、当然中央の政争の影響もほとんど見られない。戦乱といえば、15世紀前半から南部氏が仙北・鹿角に出兵(この鹿角争奪戦は永禄頃まで続く)、伊達氏の河北地方への侵食など領地争いが目立つ。篠川公方雫石御所も滅ぼされるなど、東北地方といえど、平穏無事ではなかった。また、1522年伊達稙宗奥州探題大崎氏らを差し置いて陸奥守護職に就くなど下克上の芽は見られる。

とは言え、奥羽地方の特に南部では領主間の婚姻が盛んであった上、大名に後継者が不在の場合には一族の庶流出身者よりも他の大名家から養子を迎えることが多かったのが特徴的である。極端なケースでは伊達晴宗の嫡男が外祖父の岩城重隆の跡を継ぎ(岩城親隆)、蘆名盛氏に敗れて人質として差し出された ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/08/09 11:15

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