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戦艦とは?

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アメリカ海軍の戦艦「アイオワ

戦艦(せんかん、: battleship)とは、軍艦の艦種の一つである。巨大な艦砲と堅牢な装甲を備え、海戦が主に砲撃戦主体であった時代に海戦の主力となることに特化していた。第二次世界大戦頃までは、各国の軍事力の象徴的存在であり、世界のパワーバランスを左右する戦略兵器ともされていた。しかし第二次世界大戦において真珠湾攻撃マレー沖海戦などで航空戦力の有用性が示されると、海戦の主役の座を航空母艦に譲った。

第二次世界大戦後は、戦艦は運用機会や存在意義自体が失われてしまい、現在では戦艦と呼称される艦を運用する国はない。

目次

  • 1 概要
  • 2 歴史
    • 2.1 概説
      • 2.1.1 日本
    • 2.2 初期の戦艦(1892年-1904年)
    • 2.3 最初の戦闘(1904年-1905年)
    • 2.4 ドレッドノートの出現(1906年)
    • 2.5 超弩級戦艦へ発展(1912年)大艦巨砲主義へ
    • 2.6 第一次世界大戦(1914-1918年)
    • 2.7 建艦競争と軍縮条約
    • 2.8 軍縮条約破棄後の建造
    • 2.9 第二次世界大戦
    • 2.10 第二次世界大戦後から現在
  • 3 装備・船体
    • 3.1 主砲と砲弾
    • 3.2 副砲と高角砲
    • 3.3 甲鉄板(装甲)
    • 3.4 水中防御
    • 3.5 機関
  • 4 戦艦(および戦艦と名のつく艦)の種類
  • 5 「戦艦」以外の巨砲搭載艦船
  • 6 アメリカ海軍公式略号
  • 7 脚注
    • 7.1 注釈
    • 7.2 出典
  • 8 関連項目
  • 9 参考図書

概要

史上最大の戦艦大和宿毛湾沖標柱間で公試中、1941年(昭和16年)10月30日撮影。

軍艦の艦種としての戦艦は、その強大な艦砲による火力と堅牢な防御力により、敵艦船の撃滅を主任務とした。多数の大口径砲を搭載し、敵艦の砲弾が命中しても耐える装甲を装備した。そのため極めて大型になり、第二次世界大戦までは、大型航空母艦を除けば最大の軍艦だった。

戦艦は、高価かつ当時の先端技術が結集した兵器であるため「主力艦」とも呼ばれる大型戦艦の艦隊を編成して維持する国は、豊かで科学力に優れた列強国に限られた。戦艦が出現した19世紀後半から20世紀半ばにかけては、戦艦の保有隻数などが国力のシンボルとされ、政治・外交の局面でも重視された。

より大口径の砲を備えた、強力な戦艦を持つ国が有利とする当時の各国海軍の戦術思想を大艦巨砲主義という。しかし第二次世界大戦においては、マレー沖海戦をはじめとした航空機が戦艦を撃沈した例がたび重なり、大艦巨砲主義の破綻と航空機の有用性が実証された。そのため海軍の主力艦は航空母艦に移行し、戦艦は決戦兵器としての価値を大きく損なった。第二次大戦後においては、新兵器であるミサイルが艦砲に変わる存在となると更にその価値を損なった。東西冷戦期には大規模な艦隊同士の海戦などもなく、もはや過去の存在となった戦艦は、各国とも順次退役し、除籍されていった。

現在では、本格的な戦艦を現役艦として運用する国はない。しかしアメリカ、イギリス、日本などでは、かつて活躍した戦艦が記念艦や、記念施設として保存され、かつての栄光を今に伝えている。

歴史

概説

戦艦が登場する以前、海戦において主力艦としての地位を占めたのは、17世紀に出現した戦列艦(ship of the line)である。戦列艦は単縦陣の戦列を形成する艦のことで、帆走の為の帆装が上甲板を占めていた為、一般的には主兵装たる50門(18世紀半ばからは60門)以上の大砲を舷側に搭載していた。当時の海戦では砲撃によって沈没に至ることは少なく、砲撃や切り込み隊で航行・戦闘能力を奪った後に捕獲するのが一般的だった。1805年のトラファルガー海戦で、イギリス地中海艦隊司令長官ネルソン提督の旗艦となったヴィクトリー(Victory)は、戦列艦の代表的なものである。

19世紀になって、大砲の威力が向上してくると、大型の戦列艦の舷側に多数の大砲を並べる形式は、防御の面で重大な欠点になった。1853年から始まったクリミア戦争では、3層甲板に多数の砲を並べた木造戦列艦が炸裂弾に対して脆弱であることが明らかになった。

戦艦の始祖とされる世界初の装甲艦グロワール

そこで戦列艦より小型で、乾舷の低いフリゲートに装甲防御を施した装甲艦(甲鉄艦)が考案され、戦艦の始祖とされるフランスの装甲艦「グロワール」(Gloire)が誕生した(1859年に進水)。この艦は、木造船体の舷側に最厚部119 mmの装甲を装着し、舷側に16cm砲30門を装備した機帆兼用艦である。

イギリスはこれに対抗して、1860年に鉄製船体を持つ「ウォーリア」(Warrior)を進水した。この艦以降、装甲艦は徐々に、汽走専用化、船体大型化、大砲大型化、装甲強化が進み、後に戦艦、巡洋戦艦、大型装甲巡洋艦などへ発展する。

1886年に竣工したコロッサス級装甲艦は後装填式連装30.5cm砲2基(計4門)と鋼鉄製船体を持つ。後装填施条砲により砲撃威力と命中精度が著しく向上した。

1892年に竣工したイギリスの「ロイヤル・サブリン級戦艦」(Royal Sovereign)型は、前後部に連装34.3cm砲を1基ずつ露砲塔に装備し、最厚部457 mmの装甲を舷側に装着した。また凌波性に優れた高乾舷を持ち、近代戦艦のはじめとされる。

前弩級戦艦の基準となったマジェスティック

1895年に竣工したイギリスの「マジェスティック」(Majestic)型は、2基の砲塔を全面装甲式とし、貫通力を向上させかつコンパクトな30.5cm連装砲を採用した。

以後、これが、弩級戦艦の出現まで、近代戦艦の基本形態とされ(現在は前弩級戦艦と呼ばれる)、強国では多数の近代戦艦をそろえた艦隊を作るようになった。また、多くの海軍国で、戦艦の「定義」を、暗黙ながら、

  1. 建造時に開発・製造可能な最大の大砲(主砲)を搭載している
  2. 自艦に搭載した主砲弾の被弾に耐えられる装甲を有している

と考えるようになった。しかし後に政治的事情や金銭的・環境的事情からこれに当てはまらない艦もあった。

戦艦の初期戦術は近距離戦であり、副砲で敵艦上部構造を砲撃し、発射速度が劣る主砲は水平射撃で舷側水線部の装甲実体弾徹甲榴弾で撃ち抜き大浸水をもたらす戦術であった。しかし戦艦の装甲の進歩が徹甲弾の貫通性の進歩より進んだため、敵艦の舷側水線部を撃破することは次第に困難になった。

その後、技術の進歩による主砲の発射速度と遠距離砲撃能力の向上に伴い、優速の艦隊を組み、また主砲で榴弾も射撃し敵艦に多数命中させ上部構造を破壊し無力化する戦術も考案された。第一次大戦になると、砲弾の徹甲性能向上および大落下角射撃と、短時間に多数の徹甲榴弾の砲撃を行い、敵艦の水平防御を撃ち抜き内部で爆発させる戦術が発達した。対策として砲塔および甲板全体にわたる厚い水平防御も必要となった。

日露戦争は鋼鉄艦同士による初めての本格的な海戦が行われた戦争であり、列強はその戦訓を取り入れて、遠距離戦での主砲の攻撃力向上を中心とする戦艦の改良を図った。この戦訓を最も早く取り入れた英国は、従来艦の倍以上の主砲を片舷に指向できる戦艦ドレッドノート(Dreadnought)を日本海海戦の翌年に竣工させた。この戦艦は従来の同規模の戦艦と比べて、高速航行可能で2倍以上の火力を備えるため海戦において有利となり、一夜にしてそれまでの世界の戦艦は旧式化した。 そのため、これ以前の戦艦(計画・建造中、竣工・就役直後の戦艦を含む)を前弩級艦、同程度の性能を有する戦艦を弩級艦として区別する。

戦艦ドレッドノート登場の直後に英国では、戦艦並みの火力と、巡洋艦並みの速度をあわせもつ艦として、巡洋戦艦が登場する。なおイギリスの巡洋戦艦は、概念としては巡洋艦であり、戦艦のレベルの装甲防御力を持たない。一方ドイツの巡洋戦艦は、比較的、装甲防御力を考慮し、代わりに巨砲の搭載を追求しなかった。

巡洋戦艦の登場の結果、第一次大戦のユトランド沖海戦においては、ほぼ、高速の巡洋戦艦同士の撃ち合いとなり、置き去りにされた前弩級・弩級戦艦は戦闘に参加出来なかった。加えて、海戦の帰趨は装甲防御の劣るイギリスの巡洋戦艦が大打撃を受け、沈没が相次いだ。

このユトランド沖海戦の戦訓は、「戦艦は速度が不足し、巡洋戦艦は防御力が不足している」と認識された。以降建造された戦艦は高速化と航続性能が向上され、巡洋戦艦の防御力は当初より大幅に向上し、やがて両者の区別がつかないまでに発展していく。そのような戦艦の防御力と巡洋戦艦の速度を兼ね備えた艦を、「高速戦艦」(ポスト・ジャトランド型)と呼ぶ。

しかし加熱する建艦競争によって起きた前弩級戦艦、弩級戦艦、巡洋戦艦、高速戦艦という目まぐるしい軍艦の発達について来られる国は少なくなっていった。第一次世界大戦より後に新造戦艦を就役させる事ができたのは、アメリカ、日本、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアだけだった。

より大型に、より高性能になっていく戦艦は、建造費も高騰していき、融通のきかない使い勝手の悪い艦になっていった。機雷、魚雷(を搭載する水雷艇駆逐艦)、そして潜水艦というより安価な兵器が、次第に戦艦の脅威となっていく。そして航空機の登場が、戦艦にとどめを刺す事になる。第一次世界大戦は航空機が軍事に導入された初めての戦争でもあり、以後の海軍は航空兵力に護衛された艦隊ないし航空兵力による単独攻撃という新しい局面に対応することになる。第二次世界大戦においては、水上艦は航空戦力に対して単独では対抗できないことが明らかになる。航空戦力の優位性を世界に初めて知らしめたのはイギリスによるイタリア・タラント空襲と日本による真珠湾攻撃である。これらは停泊中の艦船に対する攻撃であるが、日本がマレー沖海戦において戦闘航行中の戦艦(イギリス海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」と僚艦「レパルス」)を航空戦力のみで撃沈して航空機の有用性を確固たるものにした。その後の海戦における戦艦の行動は、自国の航空部隊の掩護下(アメリカ海軍)または航空機の活躍出来ない夜間(レイテ沖海戦の西村艦隊)などに限定されるようになり、やがて戦艦は消えていく事になる。又ドイツ軍の誘導滑空爆弾フリッツXによるイタリア海軍のローマ (戦艦)撃沈は、将来格下の巡洋艦以下の艦艇にも搭載可能になるであろう誘導対艦ミサイルで戦艦の主砲射程外から戦艦を撃破可能である事を予感させた。アメリカ海軍のみは、上陸支援目的で長く戦艦を使い続けたものの、もはや戦艦を新造する事は無くなった。遅れて巡洋艦も減勢し、戦艦を直接無力化した空母はジェット機搭載の為に巨大化して米国以外では減勢し、その後は巨大化した駆逐艦(後述の初期戦艦より大排水量化しつつある)以下の水上戦闘艦や、戦艦の終焉と相前後して現れた水上艦連続任務期間と同等の連続潜水任務期間に達する原子力潜水艦を含む潜水艦と、ターボファン化と空中給油の実用化で搭載量や航続距離が増した軍用機や、誘導能力を得たミサイルが、かつて戦艦が行っていた戦術(制海・哨戒・沿岸攻撃)・戦略(戦略核兵器や砲艦外交)任務の多くを引き継いだ。

日本

装甲艦「東」

日本では、明治初年の海軍創設時から日清戦争あたりまで、フランス製装甲艦「」を「甲鉄」と呼称していたことから、装甲艦を砲塔甲鉄艦と呼んでいた。1894年、富士型2隻(1897年竣工の富士八島)をイギリスに発注するに当たり、排水量1万トン以上の艦を「一等戦艦」、1万トン以下の艦を「二等戦艦」と正式に定めた。日露戦争終戦後まもなく、等級を廃して「戦艦」という艦種が定められた。日露戦争で活躍した戦艦「富士」(1897年竣工、イギリス製、12,533t、30.5cm砲4門)は、ロイヤル・サブリン級戦艦を原型としている。また、日本海海戦時の連合艦隊旗艦「三笠」(1902年竣工、イギリス製、15,140t、30.5cm砲4門)は、これをさらに改良強化したものである。

初期の戦艦(1892年-1904年)

初期の戦艦は、排水量1万-1万5千t、24-34cm(30.5cm=12inが最も多かった)の主砲4門を搭載し14-19ノットの速度だった。この頃、戦艦を建造していたのは、イギリスフランスドイツ帝国アメリカイタリアロシア帝国オーストリア・ハンガリー帝国の7カ国。

日本は日露戦争の前にイギリスから6隻の戦艦を購入した。日本以外にも戦艦を他国から購入した国は、隣国間で紛争の多かったトルコギリシア、南米で競争関係にあったアルゼンチンブラジルチリ。海軍復興に邁進(まいしん)するスペイン。ヨーロッパ諸国に対抗する為北洋艦隊等の近代的海軍を創設した中国清朝である。

これらの戦艦は砲戦距離数千mでの目視による直接射撃を想定して建造されていた。

最初の戦闘(1904年-1905年)

世界で最初に戦艦同士の本格的な戦闘が行われたのは、1904年日露戦争だった。日露戦争の初期の黄海海戦には、日本連合艦隊の戦艦4隻+装甲巡洋艦2隻とロシア第一太平洋艦隊(旅順)の6隻の戦艦が対戦し、翌年の日本海海戦では、日本の連合艦隊の戦艦4隻+装甲巡洋艦8隻と、ロシア第2及び第3太平洋艦隊(バルチック艦隊)の戦艦8隻他が対戦した。いずれも日本の連合艦隊の勝利に終わった。黄海海戦では逃走するロシア艦隊と追いかける日本艦隊の間で、距離1万m以上の遠距離砲戦が起こった。

ドレッドノートの出現(1906年)

戦艦ドレッドノート

日露戦争での黄海海戦と日本海海戦(1905年)の戦訓から、戦艦の主砲による遠距離砲撃力が海戦の雌雄を決すると認識された。これを受けて1906年に主砲の門数を倍以上に増やし、主砲だけで戦うという画期的な建艦思想に基づいて設計された戦艦「ドレッドノート」(Dreadnought、18,110t、30.5cm砲10門)」が英国で建造された。ドレッドノートの出現により、それ以前に建造された戦艦だけでなくイギリスを含めた建造中の戦艦までもが一挙に時代遅れとなった。ドレッドノート以前の戦艦は前弩級戦艦(pre-dreadnoughts)と呼ばれる。これ以後各国で建造される戦艦は「ドレッドノート」に準じた「弩級戦艦」(ド級戦艦、dreadnoughts)となり、列強国の保有戦艦は前弩級から弩級への転換を迫られた。中小国の海軍は無理をしながら戦争抑止力として、1-3隻の弩級または超弩級戦艦を購入した。

超弩級戦艦へ発展(1912年)大艦巨砲主義へ

「ドレッドノート」完成のわずか6年後に、弩級戦艦を大きく上回る攻撃力を有するオライオン級戦艦(1912年、22,200t、34.3cm砲10門)がイギリスで誕生した。弩級戦艦より強力な火力を持つ事から「超弩級戦艦」(super dreadnoughts)と呼ばれた。これにアメリカが35.6cm砲戦艦を、フランスが34cm砲戦艦を整備し、イギリスから巡洋戦艦「金剛」を購入した日本も以後は35.6cm砲戦艦「扶桑型」「伊勢型」を整備し始めて超弩級戦艦時代が到来した。

また、列強以外ではチリ海軍がアルゼンチン・ブラジルに先駆けて「金剛」と同じく35.6cm砲を搭載する戦艦「アルミランテ・ラトーレ級」2隻(1915年、28,600トン、35.6cm砲10門)を発注し差をつけた。また、ブラジルやギリシャやトルコも超弩級戦艦の建造を列強に発注するが資金難や大戦の勃発などの事情により建造依頼は取り消された。

こうした流れの中でも主砲の大口径化は進み、オライオン級の3年後には更に大口径の主砲を持つクイーン・エリザベス級(1915年、29,150t : 38.1cm砲8門)がイギリスで完成。これ以降もより大きな艦体に、より大きな主砲を積む戦艦を建造する傾向が第一次大戦後にも続いた。これを「大艦巨砲主義」と呼び、日本の大和型(基準排水量:64,000t、46cm砲9門)がその頂点に達した。また英独日では、弩級戦艦や超弩級戦艦と同等の攻撃力を持つが軽防御高速力の巡洋戦艦も建造された。

第一次世界大戦(1914-1918年)

第一次世界大戦では、当時世界第一位の戦艦・巡洋戦艦保有国家であるイギリスと、第2位のドイツが敵対した。大戦前からこの二国は激しい建艦競争を行っていた。だが戦艦・巡洋艦戦力では劣るドイツは艦隊の保全を図ったため、大規模な海戦の機会はなかなか訪れなかった。ドイツのUボートによる通商破壊戦や、欧州から離れた戦線においてフォークランド沖海戦などの主力同士とは言いがたい戦力での海戦が起きたのみであった。

1916年ユトランド沖海戦は、第一次世界大戦で最大、かつ唯一の本格的な主力艦同士の戦いであったものの、高速な巡洋戦艦同士の遊撃戦となり、主力の戦艦部隊が本格的に交戦する事なく終わった。英国艦隊は数的には優勢だったが、戦闘では英国巡洋戦艦の防御力の弱さが露呈し、「インビンシブル」(1908年竣工、17,373t、30.5cm砲8門)、「インディファティガブル」(1911年竣工、18,500t、30.5cm砲8門)、「クイーンメアリー」(1913年竣工、26,770t、34.3cm砲8門)の3隻がドイツの砲火を浴びて爆沈した。ドイツ側は巡洋戦艦「リュッツオー」(1916年竣工、26,318t、30.5cm砲8門)が多数の被弾による浸水で放棄された。イギリス巡洋戦艦が大損害を被ったのは、主砲射程距離を延伸させるため英、独艦とも艦砲の仰角を大きくとれるようにしたので、遠距離から飛来する砲弾は落角が垂直に近くなり、当時の戦艦や巡洋戦艦では薄弱だった水平面の装甲を貫通されたためである。この戦訓はのちの戦艦設計に大きな影響を与えた。

イギリスは、ユトランド沖海戦後も変わらず、主力艦戦力では、ドイツを圧倒した。戦争末期にはドイツは起死回生を図り全艦隊で出撃しようとしたが、勝ち目の無い戦いに出る事を厭う水兵たちがこれを拒否した。結局、1度きりしか生じなかった主力艦どうしの艦隊決戦は、大戦に何ら影響を与えるものではなかったのである。だが各国は戦艦や巡洋戦艦の設計の問題という観点でしか戦訓を見ようとせず、艦隊決戦が戦局に影響を与えなかった事実は顧みられる事が無かった。

建艦競争と軍縮条約

装甲艦ドイッチュラント
新戦艦ダンケルク

第一次世界大戦の終了直後には、ユトランド沖海戦の戦訓を取り入れた主力艦の熾烈な建造競争が、残された大海軍国である米・英・日で始まった。日本においても戦艦による艦隊決戦構想により41センチ砲搭載の戦艦8隻、巡洋戦艦8隻からなる「八八艦隊」の建造が計画されたが、1922年ワシントン海軍軍縮条約が締結され、新規建造が制限されると、列強各国の建艦競争は一応の終息を迎えた。これを海軍休日(Naval Holiday)と呼ぶ。

ワシントン海軍軍縮条約においては建造中の未完成戦艦の廃艦が求められたが、ここに日本と諸外国との間で「陸奥」を完成艦として保有を認めるか未完成艦として廃艦するかの駆け引きも起こった。

同条約においては航空母艦の所有排水量にも各国ごとの枠が設けられたが、当時航空母艦はまだ生まれたばかりの艦種であり各国ともその枠に大きな余裕があったため、廃艦とした未完成の戦艦や巡洋戦艦を航空母艦に改装して完成させる例が見られ、その結果としてレキシントン級航空母艦や「赤城」、「加賀」、「ベアルン」といったそれまでになかった大型の航空母艦が生まれた。しかし当時はまだ航空母艦艦載機の攻撃力・航続距離など性能全体が低く、実戦で戦果を示す機会もなかったため航空母艦は補助的な艦として見られており、海軍の主力は引き続き戦艦であるとみなされていた。

1934年に同条約が破棄されるまでの間、各国は既存艦の近代化改装などで現有艦の質的向上に力を注いだが、欧州では敗戦後、造船能力を取り戻しつつあるドイツ1933年ポケット戦艦ドイッチュラント級を建艦したことと、ロンドン軍縮条約に参加しなかったことで1933年から新戦艦建造の権利をフランスイタリアが得たことで、ドイツ・フランス・イタリア三国で建艦競争が勃発した。

フランスが「ダンケルク級」を造れば、イタリアは「コンテ・ディ・カブール級」と「カイオ・デュイリオ級」の近代化改装と「ヴィットリオ・ヴェネト級」の建艦に着手し、ドイツも「シャルンホルスト級」と「ビスマルク級」を造った。その後、ドイツ・イタリアの15インチ砲戦艦に対抗するためにフランスはダンケルク級の二番艦「ストラスブール」の重装甲化と正38cm砲戦艦「リシュリュー級」の建艦に踏み切った。ロンドン軍縮条約によって1937年まで新戦艦建造ができなかった英国は、欧州の中型戦艦対策に唯一速力で対抗可能な既存の巡洋戦艦「フッド」とレナウン級2隻の小改装により当座をしのいだ。

軍縮条約破棄後の建造

ワシントン条約の破棄後は、再び列強による戦艦建造が始まり、アメリカ合衆国ノースカロライナ級サウスダコタ級アイオワ級、イギリスのキング・ジョージ5世級、日本の大和型などの巨艦が建造された。又、再軍備宣言をしたドイツも前述の通りにダンケルク級への対抗としてビスマルク級を建造した。この時期に建造された戦艦は軒並み27ノット以上と速力も速く、のちに航空母艦を中心とした艦隊を編成する場合にも運用が可能だった。

第二次世界大戦

軍縮条約によって保有数を制限された各国にとって、第二次世界大戦前の時点において戦艦は艦隊の華であるのみならず、国力そのものであり、その主力艦としての希少価値は史上例を見ないものであったが、いざ戦争が始まると、戦場の主役は既に航空機に移っていることが明らかとなった。

  1. 大西洋方面では、枢軸国軍とイギリス海軍の戦力差が大きく、戦艦「ビスマルク」の沈没やヴェーザー演習作戦において大型艦艇の損害を出したドイツ海軍に対し、ヒトラーがその後の活動を制限したために大きな海戦が行われなかった。
  2. 地中海でタラント港に停泊していたイタリア海軍の戦艦にイギリス海軍の空母艦載機が大損害を与えた(タラント空襲)。
  3. 1941年太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において日本海軍の空母艦載機が真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊の戦艦の大半を撃沈した。
  4. マレー沖海戦において、作戦行動中のイギリス最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を日本海軍の基地航空隊が撃沈した。

以上のことから艦隊における主力は航空機とそれを運用する航空母艦となり、戦艦の役割は制空権を確保した状態での陸上目標砲撃や空母機動部隊の防空支援といった副次的任務に移っていった。これは戦艦の主砲は大口径砲にもかかわらず機動力に優れていること、敵の攻撃目標として目立つ巨大な艦体と攻撃に耐えしのぐだけの防御力を持ち合わせていること、対空砲火の威力を増したVT信管の発明などの理由がある。実例としては以下のようなものがある。

  1. 開戦当初、日本の機動部隊の護衛部隊の主力は高速の金剛型戦艦であった。その後、大戦後半からアメリカ機動部隊の防空用にアイオワ級戦艦を初めとする新型戦艦が投入され、防空任務に絶大な威力を発揮した。
  2. マリアナ沖海戦において日本側は前衛部隊に4隻の戦艦を配置し、これによって敵攻撃隊の攻撃を吸収し、正規空母を含む本隊への被害を減じようと企図した。
  3. 真珠湾攻撃後の帰途に行われた、アメリカ軍ウェーク島基地に対する日本軍軽巡洋艦等による艦砲射撃
  4. ガタルカナル戦における、戦艦金剛、榛名による飛行場への夜間砲撃
  5. 欧州戦線でのノルマンディー上陸作戦時や、太平洋戦線での硫黄島、沖縄攻略時などに実施された連合軍の艦砲射撃
  6. 大戦末期に釜石市や浜松市等に行われた、連合軍の夜間艦砲射撃

太平洋では戦場の主役が空母機動部隊となった一方で、欧州では戦力の不均衡や燃料の枯渇により戦艦が活用された作戦は少ない。ただし、ドイツ戦艦ティルピッツがノルウェーに在泊し、敵水上艦艇と一度も砲火を交えることなく連合軍の援ソ船団に圧力をかけ続けた例など、戦艦が抑止力としてある程度機能した。

第二次世界大戦後から現在

UGM-109 トマホークミサイルを発射する「ウィスコンシン」(1991年、湾岸戦争時)。戦艦最後の戦場となったこの戦いで、アイオワ級は艦砲射撃とトマホークミサイルによる対地攻撃や、RQ-2無人偵察機による着弾観測等を実行した。

イギリスは1946年に「ヴァンガード」を、フランスは1950年に「ジャン・バール」を完成させ(既に戦前から起工されている)、戦後も国の威信と象徴を示すものであり続けた。しかし実用艦としては既に時代遅れになっており、就役期間の大半を予備艦として使われ、退役した。

前記を例外として、第二次世界大戦以降はそもそも大規模な海戦それ自体が行われなくなった事もあり、戦艦の建造は行われなくなった。戦後、ソビエト連邦の台頭により冷戦が始まった頃には、ミサイルの実用化がなされ、主砲による艦隊戦は有効性を失ってしまった。旧ソ連はミサイルを主武装とする艦を大量に建造して、空母を主力とするアメリカに対抗し、ミサイル巡洋戦艦といえるキーロフ級ミサイル巡洋艦(実際、ジェーン海軍年鑑には巡洋戦艦として掲載)を就役させるに至るが、巨砲を主武装とする戦艦とは性格が異なる艦である。

また、チリブラジルアルゼンチンの3国は自国の戦艦を退役させた後、代艦としてブルックリン級軽巡洋艦を購入している。国の威信と象徴を表す艦としても戦艦は不経済と考えられ、巡洋艦でも十分であると考えられたのである。

しかし陸軍及び海兵隊が行う、水際上陸作戦支援には戦艦の砲撃力は依然有効であり、また、第二次世界大戦後に著しく発達したミサイルは、徹甲弾に対する防御を前提とした重装甲を持つ戦艦に対しては決定的なダメージを与えられないとされ、戦艦が再評価される場面もあった。アメリカは第二次大戦以降、朝鮮戦争ではアイオワ級の4隻すべてを、ベトナム戦争では「ニュージャージー」を現役復帰させ上陸作戦の支援に使用した。その後アイオワ級は予備役として保管(モスボール)されていた。1980年代レーガン政権下で、「強いアメリカ」の象徴として三度、4隻とも現役に一時的に復役し、「ミズーリ」と「ウィスコンシン」は湾岸戦争で出動した。これらは最後の現役戦艦であり、トマホーク巡航ミサイルを搭載するなど近代化改装が施されていた。しかしあくまで大戦期の旧式艦の再利用である事が、戦艦の価値・使用法が限定的な事を示している。1990年代初頭には全ての戦艦が退役し、2006年までに全ての艦が除籍された。最後の戦艦であった「アイオワ」も現在はロサンゼルスの港にて記念艦として、余生を送っている。

純粋な戦艦とは異なるが、1990年代後半にアメリカ海軍でアーセナル・シップと呼ばれる艦の開発計画があった。アーセナル・シップは大量のミサイルを搭載し対地攻撃に活躍する艦となる予定だったため、アメリカ海軍はこれを『21世紀の戦艦』と銘打っていた。しかし、予算・世界事情の変化などで計画はほぼ立ち消え状態となっている。


装備・船体

主砲と砲弾

艤装中の大和
右より46センチ砲弾(九一式徹甲弾)、46センチ三式弾、46センチ砲弾(九一式徹甲弾)本体(被帽なし)、41センチ砲弾(九一式徹甲弾)、36センチ砲弾(九一式徹甲弾)

主砲は戦艦を戦艦たらしめる最重要の武装である。敵艦を圧倒するために大きく高威力の砲弾をより遠くへより正確に発射する必要がある。砲の大きさは、メートル法で設計製作された大和型であれば「45口径46センチメートル砲」、ヤード・ポンド法で設計製作されたアイオワ級であれば「50口径16インチ砲」と表現するのが正確である。「○口径」が砲身の長さを表す口径長(後述)、「○センチメートル」または「○インチ」が「砲身内径≒砲弾直径」である。

メートル法で設計製作された砲であっても、砲身内径を、インチで表現して切りの良い数字に近づけるのが通例。例えば、メートル法の提唱国であるフランスの戦艦主砲は当然にメートル法で設計・製造されているが、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/02/18 14:05

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