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掛布雅之とは?

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掛布 雅之
阪神タイガース オーナー付きシニア・エグゼクティブ・アドバイザー

MBSラジオ『亀山つとむのスポーツマンデー!』公開録音にて
(2018年12月22日阪神競馬場)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
新潟県三条市
【生年月日】
(1955-05-09) 1955年5月9日(64歳)
【身長
体重】
175 cm
77 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投左打
【ポジション】
三塁手
【プロ入り】
1973年 ドラフト6位
【初出場】
1974年4月7日
【最終出場】
1988年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督歴

  • 阪神タイガース (2016 - 2017)

この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


掛布 雅之(かけふ まさゆき、1955年5月9日 - )は、新潟県三条市生まれ、千葉県千葉市中央区育ちの元プロ野球選手(内野手)。2016年から阪神タイガースの二軍監督を務めた。

大阪府豊中市在住。阪神の主力選手として活躍した現役時代から、阪神ファンやメディアの間で「(4代目あるいは3代目)ミスタータイガース」と呼ばれることがある。

現役引退後の1989年からは、スポーツ報知野球評論家およびスカイ・エー野球解説者を経て、2013年10月21日からゼネラルマネジャー付育成&打撃コーディネーター → 球団本部付育成&打撃コーディネーター(Development Coordinator、略称「DC」)として阪神に復帰。阪神では、2015年までDC、2016年から二軍監督として選手を指導した。2017年11月1日からは、球団史上初のオーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー(Senior Executive Advisor、略称「SEA」)を務める。その傍らフリーの野球解説者タレントとして活動再開している。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 生い立ち
    • 1.2 学生時代
    • 1.3 阪神選手時代
    • 1.4 野球解説者時代
    • 1.5 阪神DC時代
    • 1.6 阪神二軍監督時代
    • 1.7 阪神二軍監督の退任後
  • 2 プレースタイル
    • 2.1 打撃
    • 2.2 守備
    • 2.3 好敵手・江川卓
  • 3 人物
    • 3.1 人物像
    • 3.2 人間関係
  • 4 家族
  • 5 債務問題
  • 6 詳細情報
    • 6.1 年度別打撃成績
    • 6.2 タイトル
    • 6.3 表彰
    • 6.4 記録
    • 6.5 背番号
  • 7 関連情報
    • 7.1 出演番組
      • 7.1.1 現在
      • 7.1.2 過去
    • 7.2 歌
    • 7.3 CM
    • 7.4 テレビゲーム
    • 7.5 漫画作品
    • 7.6 著書
  • 8 脚注
  • 9 関連項目
  • 10 外部リンク

経歴

生い立ち

実母の郷里である新潟県三条市で出生後に、1歳頃から、実父の郷里である千葉市(現在の中央区新宿)で生活。珍しい“掛布”姓のルーツは、祖父の出身地・愛知県犬山市辺りにあるのではないかと話している。“雅之”という名前は、実父が俳優森雅之の大ファンだったことから名付けられた。

2006年に永眠した実父は、第二次世界大戦の前に一時、千葉県千葉商業学校教員の立場で硬式野球部の部長と監督を兼務していた。野球部を甲子園球場での全国大会出場に手の届くレベルへ引き上げたものの、後に諸事情で野球と縁を切っていた。大戦中に中国へ渡ると、終戦を機に郷里へ引き揚げ。職業を転々とした後に、料理店を営んだ。なお、実家があった場所は現在、磯丸水産千葉中央駅前店の敷地になっている。

学生時代

幼少期に剣道を始めると、警察署で稽古に励んでいた。しかし、小学生時代に防具の購入を両親に頼んだところ、両親に拒否されたためやむなく辞めている。実父が第二次世界大戦の後に新制中学校の軟式野球部で監督へ復帰した時期に、実父の下で野球を始める。なお、この時期については、「利き手だった右手を実父から左手に矯正された」という記述の文献が多く見られる。ただし実際には、ペンを持つ時に右手、箸を持つ時に左手を使用。雅之自身も、上記の記述を否定したうえで、「右投げ左打ちになった理由はよく分からない」と述べている。

千葉県内にある習志野市立習志野高校への進学後は、石井好博監督の下で、2年時の1972年に「4番・遊撃手」として選手権千葉大会で優勝。当時は都道府県ごとに甲子園球場での全国大会への出場校を決める体制になっていなかったため、代表校を決める東関東大会へ進出すると、千葉県立銚子商業高等学校との決勝戦で根本隆から先制打を放った。チームも2-0というスコアで快勝したが、全国大会では1回戦で東洋大姫路高校に敗れた。3年生だった1973年の夏には、選手権千葉大会の準々決勝で、エースの古屋英夫を擁する木更津中央高校と対戦。延長11回の末に1 - 2xというスコアでサヨナラ負けを喫した。ちなみに、同級生には阿部慎之助の実父がいて、掛布と一緒にクリーンアップを打っていた。また、1975年夏の第56回全国高等学校野球選手権大会でエースとしてチームを初優勝に導いた小川淳司は2学年後輩で、在校中の掛布について「竹刀の袋にバットを入れて毎日自宅に持ち帰っていた」と後に述懐している。

学生時代からNPB入りを志望。NPBのドラフト会議を控えた1973年の秋には、実父や叔父が小川善治に対して、ヤクルトスワローズに雅之を入団させるよう掛け合った。小川が当時ヤクルトの二軍監督を務めていたことや、実父が千葉商業学校の野球部長兼監督時代に小川を指導したことによる依頼であったが、小川は依頼を固辞。そこで実父たちは、同校を継承した千葉県立千葉商業高校硬式野球部の監督経験者である篠田仁を通じて、阪神タイガースへの仲介を依頼した。仲介先が阪神であったのは、篠田が千葉商業高校監督退任後の一時期にトレーニングコーチとして在籍していたことや、この年に現役を退いたばかりの安藤統男が、かねてから篠田や掛布の叔父と懇意にしていたことによる。以上の関係を背景に、篠田の依頼を受けた安藤が雅之の入団テストを球団に申し入れたところ、会議直前の11月に甲子園球場で実施する二軍秋季練習への参加を特別に許された。この練習では球団が雅之用のユニフォームを用意しなかったため、安藤が選手時代に使っていた背番号9のユニフォームを裏返しに着ながら、一軍監督の金田正泰を初めとする首脳陣の前でテストを受けていたという。結局、1週間にわたる練習の後で、当時のスカウト・河西俊雄が「大学や社会人野球のチームから勧誘されても断る」という条件で雅之に契約を打診。雅之自身も「このチャンスを逃してはいけない」との思いで打診を受け入れたことから、ドラフト会議での6位指名を経て、契約金500万円、年俸84万円(金額は推定)という条件で正式に契約した。背番号は、この年まで6年間にわたってウィリー・カークランドが着用していた31

阪神選手時代

1974年には、一軍の内野守備コーチに転じた安藤などから春季キャンプで徹底的な指導を受けた後に、オープン戦へ出場。初めて出場したのは対南海ホークス戦で、この年にドラフト1位で入団した野崎恒男から代打で安打を放った。3月21日の対太平洋クラブライオンズ戦(鳴門球場)では、オープン戦ながら「7番・遊撃手」として初めてスタメンに起用。当時の正遊撃手だった藤田平が自身の結婚式で欠場したことによる起用だったが、太平洋のエースだった東尾修から4打数2安打を記録した。さらに、3日後の対近鉄バファローズ戦(日生球場)にも、「8番・三塁手」として再びスタメンで起用。内野の要であった野田征稔(後にマネージャー)が実母の逝去で急遽帰郷したことによる起用ながら、4打数4安打という活躍で一躍注目された。結局、オープン戦で18打数8安打2二塁打という好成績を残したことから、レギュラーシーズンでも開幕から一軍に定着。高校時代までのポジションだった遊撃に藤田が定着していたことから、三塁手として中央大学からドラフト1位で入団した佐野仙好との間で、三塁のポジションを争った。その一方で、ジュニアオールスターにも出場。一軍公式戦全体では3本の本塁打を放ったものの、チームの高卒新人選手による一軍公式戦でのシーズン最多本塁打(1957年並木輝男が記録した8本)には及ばなかった。

1975年には、藤田の前の正遊撃手だった吉田義男が、一軍監督としてチームに復帰。シーズン当初は、吉田の方針で右打者の佐野と併用されたため、掛布のスタメン出場は右投手の登板が予想される試合に限られていた。掛布は後に、「三塁のポジション争いで『ライバル』と感じたのは当時の佐野だけだった」と語っている。しかし、掛布がやがて正三塁手として定着したため、佐野は外野手に転向。掛布自身は高卒2年目にして、一軍公式戦100試合出場と2桁本塁打を達成した。

1976年王貞治を上回る打率5位に食い込んでブレイクし、同年のベストナインに選ばれる。掛布は、「打撃ベストテンで王さんの上に立てたことが大きな自信になった」と語っている。さらに翌1977年にも大活躍し、応援歌「GO! GO! 掛布」も売り出された。この人気に応援団は掛布の打席でヒッティングマーチを演奏するようになった。一説に阪神在籍選手では掛布が最初と言われる。最初の応援歌は「GO! GO! 掛布」のサビであったが、のちに変更された。

1979年には、ミスタータイガースと呼ばれていた田淵幸一が移籍した後の主砲としてチーム新記録となる48本塁打(それまでのチーム記録は藤村富美男の46本。その後1985年にランディ・バースが54本で更新したが、日本人選手としては現在も球団記録)を放ち本塁打王となる。シーズン終了後に結婚。

1980年には、早稲田大学の大物三塁手だった岡田彰布が入団したことから、シーズン前には三塁のポジションを岡田と争う可能性が報じられていた。このような報道に対して、既にチームの中心選手であった掛布には、岡田に対して佐野ほどのライバル意識は感じていなかったという。しかし実際には、シーズン中に左膝を痛めた影響で、一軍公式戦への出場は70試合にまで減少。成績も前年を大幅に下回ったことから、シーズン終了後には、「掛布を南海に放出、投手数名とトレード」「トレード相手は門田博光」といった内容の「スクープ」が、大阪で発行されるスポーツ紙の1面に出るまでに至った。球団は即座に否定したものの、江夏豊や田淵幸一の放出劇がまだ記憶に新しい頃で、ガセネタでは済まされない内容であった。掛布自身も大きな衝撃を受け、そうした話が出ないようにするよう摂生に努め、翌年から1985年までは5年連続で全試合出場を果たすこととなり、トレードの話も白紙となった。

1982年1984年にも本塁打王、1982年には打点王に輝くなど、田淵に代わる新たな「ミスタータイガース」として人気を博した(なお、当時は移籍した田淵はミスタータイガースではないとして、掛布が藤村富美男村山実に続く3代目ミスタータイガースと呼ばれていたが、田淵が打撃コーチとして阪神に復帰して以降は、田淵を3代目、掛布を4代目と呼ぶことが増えている)。1980年代前半は不動の4番打者。また、同学年でもある江川卓との対決は、両者が全盛期だった1980年代前半の名勝負と言われた。1984年に本塁打王を獲得した際には中日ドラゴンズ宇野勝と激しく争い、最後の直接対決2連戦では両者が全打席で敬遠を受けてタイトルを分け合った。この敬遠の応酬についてはセ・リーグ会長が両監督(安藤統男と山内一弘)に注意し、最終的には記者団に謝罪するほどであった。

1985年には3番・バース、4番・掛布、5番・岡田彰布からなるクリーンナップの一角を担って強力打線を形成し、リーグ優勝・日本一に貢献した。同年の対読売ジャイアンツ戦では槙原寛己からバックスクリーン3連発(掛布はバックスクリーン左に入ったため、賞金をもらい損ねていたが、スポンサーの計らいでもらっている)ではバースに続いて本塁打を叩き込み、この年の象徴のように語られている。また、吉田監督は日本シリーズ制覇の会見で、日本一になった要因を聞かれた際「ウチには日本一の四番(打者)がいますから」と答えている。

1986年4月20日、対中日戦でルーキー斉藤学投手から手首に死球を受けて骨折、連続出場が663試合で途切れた。後年の述懐では、この負傷でそれまで張り詰めていた緊張の糸が切れ、怪我を言い訳にする「弱い自分」が出てきてしまったという。5月中旬に復帰するが、11日後には甲子園球場の巨人戦で三塁守備の際にバウンドが変化した打球に当たって右肩を負傷し、1ヶ月近く欠場。さらに8月26日には骨折で三たび戦列を離脱し、復帰できたのはシーズン終了間際だった。このシーズン後半以降、華麗なバッティングは影を潜めることとなる。

1987年は腰痛で成績が低迷し、チームの調子と歩を合わせることになった。約1ヶ月登録を抹消され、6月にはプロ入り以来初めての2軍落ちも経験した。同年3月に飲酒運転で逮捕され当時オーナーだった久万俊二郎に「大ばか野郎」「欠陥商品」と厳しく断じられた。

1988年も故障続きでかつての打棒は甦らず、9月14日に現役引退を表明。10月10日、阪神甲子園球場でのホーム最終戦が「引退試合」となり、多くのファンに見送られてグラウンドを去った。通算349本塁打は阪神の球団最多記録である。

引退に際しては、その若さを惜しんで複数の球団からオファーがあったことをのちに明かしている。ヤクルトスワローズ監督の関根潤三からは、将来は阪神に戻ってもよいという条件を示され、横浜大洋ホエールズ監督の古葉竹識からは「背番号31を用意する」と誘われた。長嶋茂雄からは「一年間2軍にいて、じっくりと体を鍛えて気持ちを切り替えれば」というアドバイスがあったなど、掛布の身の振り方を尊重した内容であったが、田淵がかつてトレードに際して「今度はお前だぞ。お前は、江夏や俺のように途中で縦縞のユニフォームを脱ぐようなことはするなよ」と言った言葉が頭にあり、現役を続けるなら阪神でなければならないと考えて固辞。引退試合のあとコーチだった中村勝広から「最近は阪神の歴代の主力選手が、こんな引退試合をしたことはなかった。新しい阪神の歴史を作ったな。惜しまれながら球場全員が涙する。お前が道筋を作ったおかげで、これからはこうやって阪神の選手が辞めていくことができるだろう」という言葉をもらったと述べている。

野球解説者時代

引退後は1989年から2015年までは報知新聞の野球評論家、1989年から2008年までは日本テレビ読売テレビの野球解説者、2009年から2012年まではMBSラジオの野球解説者(2009年のみゲスト解説、2010年から専属)、2013年から2015年まではサンテレビスカイ・エーの野球解説者を務めた。

2013年までは、アメリカマイナーリーグの臨時コーチを務めただけで、プロ野球を本格的に指導した経験はなかった。東北楽天ゴールデンイーグルスの発足当初(2004年秋)には監督の就任要請を受けたが辞退。結果として、田尾安志が初代監督に就任した。掛布自身は後に、球団オーナーの三木谷浩史と会談していたことを告白。自身が望む監督像をめぐって、経営上の収益が出せることを強く求めた三木谷との間で意見が食い違ったことを、辞退の原因に挙げている。また、ロッテオリオンズ川崎球場から千葉マリンスタジアムに移転する際に千葉出身の掛布が監督候補に挙がり、オーナー代行とも一度話したことがあったが、「野球観が合わない」との理由で物別れに終わったという。(最終的には八木沢荘六が監督に就任)。

阪神DC時代

阪神DC時代
(2015年8月29日、阪神鳴尾浜球場にて)

2013年10月21日には、阪神球団からの発表で、新設のゼネラルマネージャー付育成&打撃コーディネーター(DC)に就任することが判明。現役引退から25年振りに阪神へ復帰するとともに、同年11月の秋季キャンプから打撃や内野守備の指導を始めた。ただし、DCは非常勤扱い・背番号およびベンチ登録なしの特別職であるため、就任後も野球解説者・評論家としての活動を継続。また、契約上ユニフォームのうちズボンの着用しか認められなかったことから、選手への指導中には球団から支給されるジャンパー、トレーニングウェア、シャツを上着に用いていた。

なお、現役引退当時のコーチでもあったゼネラルマネージャーの中村が2015年9月23日に急逝したことから、球団では同年10月1日付の人事異動で当面の間ゼネラルマネージャー職を廃止。この廃止を機に役職を「球団本部付育成&打撃コーディネーター」に変更した。

しかし、「掛布さんとは野球観が合う」という金本知憲がその直後から一軍監督へ就任したことを受けて、球団社長の南信男が二軍監督への就任を要請。10月21日には、DCの立場でフェニックスリーグに帯同していた掛布が、前日(20日)にこの要請を受諾したことが一部で報じられた。

阪神二軍監督時代

阪神球団は2015年10月26日に、掛布を二軍監督として正式に契約。翌27日には、二軍監督へ就任することや、現役時代と同じ背番号31を着用することを正式に発表した。契約期間は2年で、掛布が阪神のユニフォームを正式に着用するのは、現役引退以来27年振り。阪神の選手や首脳陣が背番号31を着用するのは、林威助外野手の退団(2013年)以来2年振りであった。

二軍監督の就任後は、厳しいプロ意識を若手選手に植え付けながら、選手の自主性を重んじる指導でチームの底上げに尽力。DC時代から指導してきた伊藤隼太中谷将大原口文仁などを一軍へ定着させたほか、2016年の春季キャンプでは、新人外野手の高山俊に対するマンツーマン指導によって、高山によるセ・リーグ新人王獲得への礎を築いた。2017年には、新人内野手の大山悠輔に対して、金本による長期育成計画の下で3月から英才教育を実施。大山は、7月から一軍へ昇格すると、8月終盤から一軍公式戦のスタメンで4番打者を任されている。その一方で、右打者だった大和によるスイッチヒッターへの転向や、故障で戦線を離脱していた糸井嘉男西岡剛のリハビリなど、中堅・ベテラン選手のサポートにも力を注いだ。

二軍監督への在任中は、現役時代からのネームバリューの高さを背景に、球団主催のウエスタン・リーグ公式戦で二軍なのにもかかわらず、満員札止めや1万人台の観客動員が相次いだ。2016年の終盤以降は、現役選手時代の経験から若手選手に猛練習を求める金本との間で、育成方針やウエートトレーニングに対する認識の違いが徐々に露呈。阪神球団も、翌2018年に向けたチーム方針の転換や二軍首脳陣の世代交代を視野に、「二軍監督としての掛布の役割は、契約期間の2年間で十分に果たされた」と判断した。このため、2017年シーズン終盤の9月8日には、同年10月31日の契約期間満了を機に二軍監督としての契約を更新しないことを通告。2018年シーズンからオーナー付アドバイザーへ就任することを要請する一方で、9月10日には、2017年シーズン限りで二軍監督を退任することを正式に発表した。さらに、二軍監督として最後に采配を振る主催試合(9月28日のウエスタン・リーグ対広島最終戦)で使用する球場を、阪神鳴尾浜球場(スタンドの収容人数500人)から甲子園球場(二軍戦で開放する内野スタンドに28,465席を設置)へ急遽変更。平日のデーゲームにもかかわらず、7,131名もの観衆が内野スタンドで見届けたこの試合を、監督在任中最多の16得点による大勝で締めくくった。なお、試合後のインタビューでは、自身初の監督生活を「僕を若返らせてくれた2年間だったが、ちょっと短かったかな。ただ、若い選手たちが着実に力を付けてきている。その意味では、非常に濃い2年間だった」という表現で述懐。その後にナインが胴上げの場を設けようとしたが、監督在任中にチームをウエスタン・リーグ優勝へ導けなかったことを背景に、「胴上げとは勝者(優勝チームの監督)や現役を退く選手がされるものであって、自分はその身ではない」という理由で胴上げを固辞した。

なお、上記の最終戦の後には、掛布を支えた古屋英夫野手チーフ兼育成コーチ(元二軍監督)・久保康生投手チーフコーチ・今岡真訪打撃兼野手総合コーチが相次いで退団。この時点で掛布は二軍監督としての契約期間を残していたが、後任の監督が決まるまでは、山田勝彦二軍バッテリーコーチが二軍監督代行として指揮を執った。2017年10月23日には、山田が2018年シーズンから一軍バッテリーコーチ、一軍作戦兼バッテリーコーチの矢野燿大が二軍監督へ異動することが球団から発表された。

阪神二軍監督の退任後

阪神球団は2017年10月27日に、「オーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー(SEA)」という役職をフロントに新設したことや、同年11月1日付で掛布がSEAへ就任することを発表した。掛布が(阪神を含む)プロ野球球団でフロントの役職に就くことは初めてで、チーム編成に関するオーナーへのアドバイスや、(二・三軍を含む)他球団の視察などの役割を担う。2018年からは、SEAとしての活動と並行しながら、サンテレビやスカイ・エー、MBSラジオ(ゲストとして)の阪神戦中継で3年振りに解説を再開している。また、日本テレビ読売テレビの阪神戦のゲスト解説者としても10年振りに復帰する。

プレースタイル

打撃

早い時期にレギュラーの座を獲得したが、レギュラー定着から数年間は中距離打者であった。しかし、チームの主砲であった田淵が1978年のオフに移籍したことで、長距離打者になる道を選ぶ。長距離打者としては小柄な部類に属する掛布は、猛練習による肉体改造と打法の改良に取り組み、強靱な体と長距離打者としての打法を身に付けることで打球をスタンドまで叩き込んだのである。同僚だったランディ・バースは「バッティングは引っ張っても打てたし、流しても打てたからね。完璧だったよ。日米野球だったと思うけどジョージ・フォスター(元シンシナティ・レッズの大打者)が彼のバッティングを見て、『このチビは、なんであんなにボールを飛ばせるんだ!』って聞いてきたことがあったほどだぜ。なにしろ腰の回転が凄かった。腕力はなかったけど、下半身の回転で打つ選手でミートも上手かった。右投手も左投手も苦にしなかったね。」と評している。しかしこの打法は体への負担も大きく、選手寿命を縮める一因ともなった。掛布自身、「体が大きくない僕が、ホームランを30本、40本まで増やすためには肉体的にはかなりの無理をしていた」と述べている。甲子園球場で本塁打を量産するために、左打者にとっては厄介な存在であった浜風と喧嘩するのではなく、逆に利用しようと研究を重ね、逆方向であるレフトスタンドへ本塁打を量産する、独特かつ芸術的な流し打ちを身に付けた。以降、レフトへの本塁打が飛躍的に増え、球界を代表するホームランバッターの一人となった。

本塁打は「狙って打つもの」と考えており、「ホームランの打ち損じがヒット」というイメージを持っていた。ただし、負傷による不調から復帰した1981年には「4番として全試合出場」を目標としたため、本塁打を意識しない打撃に徹した。その結果、フル出場を果たすとともに打率も.341という高い数字(自身の最高打率)を残したが、そのオフのイベントでファンから「もうちょっとホームランを見たい」(この年の本塁打は23本)と言われたことがきっかけで再び本塁打を意識した打撃に変更したという。掛布は引退後に、この1981年が「一番自分らしかったのかもしれない」と語り、「今でも自分がホームランバッターとは思っていない。(1981年のバッティングをやれれば)違うバッティング、違う掛布があったのかな、という思いが今でも強い」という。

セリーグ審判部長を務めた田中俊幸は、著書『プロ野球 審判だからわかること』で、攻守の技術に優れ審判に対する態度も良かった選手として、掛布を高く評価している。特に打撃面では、「掛布の打球はバットに当たった瞬間、ほんの一瞬だが消えた」と証言している。これは、「掛布がボールを手元まで呼び込み、それを速いスイングにのせて弾きかえすので、ボールがバットにへばりついている間、見えなくなったのではないか」と推測し、「闘魂ドラマに出てくるようなワザ」と称している。

投手の癖を観察して球種を予測する事を途中からしなくなった。これは、大洋時代の野村収と対戦した際に、「癖を見破っている」と思って打ちに行ったところ、頭部への死球となり、癖を見て判断することへの怖さが生じたからだと述べている。

江川卓は著書『江川流マウンドの心理学』(廣済堂出版、2003年)で「掛布の弱点はインコース高め」と指摘し、掛布自身も対談で「インコースは弱い」と認めている。しかし、「4番打者の強さ」を相手投手に見せつけるため、インコースに投げられたボールのコントロールミスをライトスタンドへの強烈な本塁打にすることを意識していた。引退への発端となった1986年の死球の際も、ライトに引っ張る本塁打を打つためにインコースを待っていて起きたと述べている。

現在は手首の保護目的でリストバンドを着用している選手が少なくないが、これを一番最初に始めたのが掛布である。一方、父親の教えもあり、バッティンググローブを使用せず素手でバットを持つことに引退までこだわり続けた。ただし守備時はグラブの下に手袋をはめており、バッティングの際はその手袋を尻ポケットに入れていた。その様子がサルのしっぽに似ているとやくみつるが漫画のネタにしたことがある。現役後半にはローカットタイプのストッキングを愛用。それが掛布スタイルの代名詞となった。

プロ15年間、公式戦ではサヨナラ本塁打を打ったことが一度もなく、サヨナラ安打も1本のみである。オールスターゲームには強く、1978年には3打席連続本塁打の記録を残している。また、1981年にも第2戦から第3戦にかけて3打席連続本塁打を記録しており、そのうち2本目が公式戦では記録しなかったサヨナラ本塁打であった。現役最終年の1988年4月26日にはプロ時代唯一のランニングホームランを記録している。

守備

守備については、現役時代にダイヤモンドグラブ賞を6度受賞。これに関して、プロ野球記録の調査・分析で知られた宇佐美徹也は「ほかに特にうまい選手がなく恵まれた感じが強い」と記している。吉田義男は初任監督時代の掛布の守備を「やや粗雑だが肩は強かった」と記し、ジョージ・アルトマンハル・ブリーデンといった体格が大きかったり捕球技術に優れたりした一塁手に恵まれたことで、成長が促されたと評している。

好敵手・江川卓

高校時代、練習試合で作新学院と対戦する機会があったが、江川が登板する前に掛布は死球を受けて交代したため、直接の対戦はなかった。もしこのとき打席に立っていたらトラウマになってプロ入り後も打てなかったのではないか、と掛布は語っている。プロ入り後、ある時期まで江川は掛布に対する初球は必ずカーブを投げた。しかし、掛布はそれを見送り、ストレートを待って勝負したという。また、一度だけ江川が掛布を敬遠したとき(1982年9月4日、甲子園球場での試合)にはその球が異常に速かったという。掛布と江川の通算対戦成績は、167打数48安打で打率.287、14本塁打21三振33打点。このうち本塁打数は山本浩二と並んで江川の最多被本塁打打者である。

掛布は江川について「ストレートへの強いこだわりを持ったボールを感じさせてくれた唯一の投手」という評価をしている。また、お互いが相手との対戦が自身の調子を測る「バロメーター」となっていたことを認めている。

人物

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この元プロ野球選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。出典を明記するためにご協力をお願いします。(2010年6月)

人物像

酒癖は悪いが、ギャンブルとタバコは全くやらない。

現役時代から球界屈指の大変な車好きとして知られる。実物の車のみならず、模型やラジコンカーも好み、自身のカスタムカーには31のゼッケンを入れていたほどである。現役時代は車内が「一人になれる空間」として大事で、独身時代にはガレージの車にしばらく座って合宿所の部屋に戻ることもしていたという。

現役時代には、美津和タイガーが製造・販売する「虎印」ブランドのバットやグラブを愛用。同社のアドバイザリースタッフとして、事あるごとに職人へ細かい注文を出しつつも、野球用品メーカーとしての技術や対応を高く評価していた。1985年には、シーズン前の2月20日に同社が破産した後も、シーズン終了まで「虎印」のバットを使用。その経験から、解説者や阪神のDCに転身してからも、野球道具にこだわりを持つことを若手選手に求めている。ちなみに、DCへの就任直後には、「虎印復活」と銘打った美津和タイガー(破産後新たに設立した会社)の記者発表会へ同席。自身の名を冠した復刻モデルの製造・販売のPRに一役買っていた。

現役時代の1985年から、債務処理に関する問題(詳細は後述)が報じられるようになった2009年頃までは、サイドビジネスを手広く展開していた。そのきっかけは、美津和タイガーの破産で再就職先を探す必要に迫られた元社員への一時的な受け皿として、大阪府豊中市にある自宅の近くにスポーツカジュアル用品店の「スポーツハウス・フィールド31」を開いたことにある。ただし、阪神選手としての年俸ではスタッフとして雇用した元社員全員の給料を賄い切れなかったことから、自宅

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出典:wikipedia
2019/08/12 02:38

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