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掛布雅之とは?

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掛布 雅之
阪神DC時代
(2015年8月29日、阪神鳴尾浜球場にて)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
千葉県千葉市中央区
(新潟県三条市生まれ)
【生年月日】
(1955-05-09) 1955年5月9日(63歳)
【身長
体重】
175 cm
77 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投左打
【ポジション】
三塁手
【プロ入り】
1973年 ドラフト6位
【初出場】
1974年4月7日
【最終出場】
1988年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督歴

  • 阪神タイガース (2016 - 2017)

この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


掛布 雅之(かけふ まさゆき、1955年5月9日 - )は、千葉県千葉市中央区出身の元プロ野球選手(内野手)。2016年から阪神タイガースの二軍監督を務めた。

新潟県三条市の生まれで、大阪府豊中市在住。阪神の主力選手として活躍した現役時代から、阪神ファンやメディアの間で「(4代目あるいは3代目)ミスタータイガース」と呼ばれることがある。

現役引退後の1989年からは、スポーツ報知野球評論家およびスカイ・エー野球解説者を経て、2013年10月21日からゼネラルマネジャー付育成&打撃コーディネーター → 球団本部付育成&打撃コーディネーター(Development Coordinator、略称「DC」)として阪神に復帰。阪神では、2015年までDC、2016年から二軍監督として選手を指導した。2017年11月1日からは、球団史上初のオーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー(Senior Executive Advisor、略称「SEA」)を務める。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 生い立ち
    • 1.2 アマ時代
    • 1.3 プロ野球選手時代
    • 1.4 引退後
    • 1.5 阪神DC時代
    • 1.6 阪神二軍監督時代
    • 1.7 阪神二軍監督の退任後
  • 2 プレースタイル
    • 2.1 打撃
    • 2.2 守備
    • 2.3 好敵手・江川卓
  • 3 人物
    • 3.1 人物像
    • 3.2 人間関係
  • 4 家族
  • 5 債務問題
  • 6 詳細情報
    • 6.1 年度別打撃成績
    • 6.2 タイトル
    • 6.3 表彰
    • 6.4 記録
    • 6.5 背番号
  • 7 関連情報
    • 7.1 出演番組
      • 7.1.1 現在
      • 7.1.2 過去
    • 7.2 歌
    • 7.3 CM
    • 7.4 テレビゲーム
    • 7.5 漫画作品
    • 7.6 著書
  • 8 脚注
  • 9 関連項目
  • 10 外部リンク

経歴

生い立ち

母親の実家・三条市で生まれ、1歳の頃から父親の郷里千葉市の現・中央区新宿で育つ。珍しい“掛布”姓のルーツは、祖父の出身地・愛知県犬山市辺りにあるのではないかと話している。“雅之”という名前は父親が俳優森雅之の大ファンだったことから名付けられた。父親は戦前、千葉商業の教員を務め、野球部監督として甲子園まであと一歩のところまで進んだが、諸事情で野球とは縁を切っていた。戦後は中国から引き揚げ、職業を変えた後、郷里で料理店を営んだ。実家があった場所は現在、磯丸水産千葉中央駅前店となっている。父親は2006年に亡くなった。

アマ時代

幼少期に剣道を始め、警察署での稽古に励んでいたが、小学校時代に防具を買ってもらおうと親にねだったところ拒否され、やむなく辞めている。父親が中学の野球部監督として復帰した時期に、父のもとで野球を始める。この際、父親に利き手を矯正されたとする文献が多いが、実際は矯正はされておらず、本人でも右投げ左打ちになった理由はよく分からないとしている。なお、ペンを持つときは右手、箸を持つときは左手を使用する。

習志野高2年生時には石井好博監督のもと、四番打者、遊撃手として1972年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、東関東大会決勝で優勝候補筆頭の銚子商と対戦。根本隆投手から先制のきっかけとなる安打を放ち、2-0で快勝。しかし甲子園では1回戦で東洋大姫路高に敗退(東洋大姫路高にはのちに阪神でチームメイトとなる山川猛がおり、この試合で満塁本塁打を放った)した。3年生時の1973年夏は県予選準々決勝で、エース古屋英夫を擁する木更津中央に、延長11回の熱戦の末1-2xでサヨナラ負け、甲子園には届かなかった。同期で、一緒にクリーンアップを打っていたのは、巨人阿部慎之助の父である。当時、掛布は竹刀の袋にバットを入れて毎日自宅に持ち帰っていたと、2学年下の小川淳司(1975年夏優勝投手)は述べている。

同年秋、父親が千葉商業高校の野球部長兼監督だった頃の教え子でヤクルト二軍監督だった小川善治に入団を頼み込んだが断られ、千葉商の野球部監督経験者の篠田仁にプロ球団への仲介を依頼。篠田は懇意にしていた阪神タイガース安藤統男(同年限りで現役引退し、コーチ)に口利きを頼んだ結果、金田正泰監督へ話が伝わり、2軍のキャンプに帯同した(事実上の入団テストと言われている)。ドラフト6位指名。契約金500万円、年俸84万円で契約。

プロ野球選手時代

入団後、1974年の春季キャンプで徹底的に鍛えられる。オープン戦初出場は対南海ホークス戦。掛布と同年の南海ドラフト1位野崎恒男から代打でオープン戦初安打を放つ。オープン戦初スタメンは3月21日の対太平洋クラブライオンズ戦(鳴門球場)。中軸を打つショートの藤田平が結婚式で休みのため7番・ショートでの代役だったが、東尾修から4打数2安打を記録した。そして3日後の対近鉄バファローズ戦(日生球場)では内野の要であった野田征稔(後にマネージャー)が母を亡くして帰郷。再び掛布が代役で8番・三塁手として出場することになり、その試合で4打数4安打の大活躍を見せる。オープン戦が終わってみれば18打数8安打2二塁打の活躍で開幕1軍入りを果たし、高卒1年目にして1軍に定着する。同年のジュニアオールスターにも出場した。高卒新人としての1軍での本塁打は3本で、球団記録の8本(1957年並木輝男)には及ばなかった。

高校時代は遊撃手であったが、当時の阪神では藤田平が不動のレギュラーだったことから、三塁手となる。掛布と同年のドラフト1位である佐野仙好も三塁手であったため、ポジション争いが生じた。1975年に監督に就任した吉田義男は当初、相手が右投手のときには左打者の掛布、左投手のときには右打者の佐野と起用を分けたが、やがて掛布が正三塁手として定着する。佐野は外野手に移った。掛布は、ポジション争いでライバルだと感じたのはこのときの佐野だけだと語っている。1980年早稲田大学の大物三塁手だった岡田彰布が入団し、マスコミが「ポジション争いか?」と騒いだときも、掛布はすでに中心選手としての余裕があり、佐野ほどのライバル意識は感じていなかったという。

1976年王貞治を上回る打率5位に食い込んでブレイクし、同年のベストナインに選ばれる。掛布は、「打撃ベストテンで王さんの上に立てたことが大きな自信になった」と語っている。さらに翌1977年にも大活躍し、応援歌「GO! GO! 掛布」も売り出された。この人気に応援団は掛布の打席でヒッティングマーチを演奏するようになった。一説に阪神在籍選手では掛布が最初といわれる。最初の応援歌は「GO! GO! 掛布」のサビであったが、のちに変更された。

1979年には、ミスタータイガースと呼ばれていた田淵幸一が移籍した後の主砲としてチーム新記録となる48本塁打(それまでのチーム記録は藤村富美男の46本。その後1985年にランディ・バースが54本で更新したが、日本人選手としては現在も球団記録)を放ち、本塁打王となる。同年オフに結婚。しかし、翌1980年は左膝の負傷のために70試合の出場にとどまり、成績も低下した。同年オフに、さるスポーツ紙の大阪版に「掛布を南海に放出、投手数名とトレード」という「スクープ」が1面に出たことがあった。球団は即座に否定したものの、江夏豊や田淵幸一の放出劇がまだ記憶に新しい頃で、ガセネタでは済まされない内容であった。掛布自身も大きな衝撃を受け、そうした話が出ないようにするため摂生に努め、翌年から1985年までは5年連続で全試合出場を果たすこととなった。

1982年1984年にも本塁打王、1982年には打点王に輝くなど、田淵に代わる新たな「ミスタータイガース」として人気を博した(なお、当時は移籍した田淵はミスタータイガースではないとして、掛布が藤村富美男村山実に続く3代目ミスタータイガースと呼ばれていたが、田淵が打撃コーチとして阪神に復帰して以降は、田淵を3代目、掛布を4代目と呼ぶことが増えている)。1980年代前半は不動の4番打者。また、同学年でもある江川卓との対決は、両者が全盛期だった1980年代前半の名勝負と言われた。1984年に本塁打王を獲得した際には中日ドラゴンズ宇野勝と激しく争い、最後の直接対決2連戦では両者が全打席で敬遠を受けてタイトルを分け合った。この敬遠の応酬についてはセ・リーグ会長が両監督(安藤統男と山内一弘)に注意し、最終的には記者団に謝罪するほどであった。

1985年には3番・バース、4番・掛布、5番・岡田彰布からなるクリーンナップの一角を担って強力打線を形成し、リーグ優勝・日本一に貢献した。同年のバックスクリーン3連発(掛布はバックスクリーン左に入ったため、賞金をもらい損ねていたが、スポンサーの計らいでもらっている)ではバースに続いて本塁打を叩き込み、この年の象徴のように語られている。また、吉田監督は日本シリーズ制覇の会見で、日本一になった要因を聞かれた際「ウチには日本一の四番(打者)がいますから」と答えている。

1986年4月20日、対中日戦でルーキー斉藤学投手から手首に死球を受けて骨折、連続出場が663試合で途切れた。後年の述懐では、この負傷でそれまで張り詰めていた緊張の糸が切れ、怪我を言い訳にする「弱い自分」が出てきてしまったという。5月中旬に復帰するが、11日後には甲子園球場の巨人戦で三塁守備の際にバウンドが変化した打球に当たって右肩を負傷し、1ヶ月近く欠場。さらに8月26日には骨折で三たび戦列を離脱し、復帰できたのはシーズン終了間際だった。このシーズン後半以降、華麗なバッティングは影を潜めることとなる。

1987年は腰痛で成績が低迷し、チームの調子と歩を合わせることになった。約1ヶ月登録を抹消され、6月にはプロ入り以来初めての2軍落ちも経験した。同年3月に飲酒運転で逮捕され当時オーナーだった久万俊二郎に「大ばか野郎」「欠陥商品」と厳しく断じられた。

1988年も故障続きでかつての打棒は甦らず、9月14日に現役引退を表明。10月10日、阪神甲子園球場でのホーム最終戦が「引退試合」となり、多くのファンに見送られてグラウンドを去った。通算349本塁打は阪神の球団最多記録である。

引退に際しては、その若さを惜しんで複数の球団からオファーがあったことをのちに明かしている。ヤクルトスワローズ監督の関根潤三からは、将来は阪神に戻ってもよいという条件を示され、横浜大洋ホエールズ監督の古葉竹識からは「背番号31を用意する」と誘われた。長嶋茂雄からは「一年間2軍にいて、じっくりと体を鍛えて気持ちを切り替えれば」というアドバイスがあったなど、掛布の身の振り方を尊重した内容であったが、田淵がかつてトレードに際して「今度はお前だぞ。お前は、江夏や俺のように途中で縦縞のユニフォームを脱ぐようなことはするなよ」と言った言葉が頭にあり、現役を続けるなら阪神でなければならないと考えて固辞。引退試合のあとコーチだった中村勝広から「最近は阪神の歴代の主力選手が、こんな引退試合をしたことはなかった。新しい阪神の歴史を作ったな。惜しまれながら球場全員が涙する。お前が道筋を作ったおかげで、これからはこうやって阪神の選手が辞めていくことができるだろう」という言葉をもらったと述べている。

引退後

引退後は1989年から2015年までは報知新聞の野球評論家、1989年から2008年までは日本テレビ読売テレビの野球解説者、2009年から2012年まではMBSラジオの野球解説者(2009年のみゲスト解説、2010年から専属)、2013年から2015年まではサンテレビスカイ・エーの野球解説者を務めた。

2013年までは、アメリカマイナーリーグの臨時コーチを務めただけで、プロ野球を本格的に指導した経験はなかった。東北楽天ゴールデンイーグルスの発足当初(2004年秋)には監督の就任要請を受けたが辞退。結果として、田尾安志が監督に就任した。掛布自身は後に、球団オーナーの三木谷浩史と会談していたことを告白。自身が望む監督像をめぐって、経営上の収益が出せることを強く求めた三木谷との間で意見が食い違ったことを、辞退の原因に挙げている。また、ロッテオリオンズ川崎球場から千葉マリンスタジアムに移転する際に千葉出身の掛布が監督候補に挙がり、オーナー代行とも一度話したことがあったが、「野球観が合わない」との理由で物別れに終わったという。

阪神DC時代

2013年10月21日には、阪神球団からの発表で、新設のゼネラルマネジャー付育成&打撃コーディネーター(DC)に就任することが判明。現役引退から25年振りに阪神へ復帰するとともに、同年11月の秋季キャンプから打撃や内野守備の指導を始めた。ただし、DCは非常勤扱い・背番号およびベンチ登録なしの特別職であるため、就任後も野球解説者・評論家としての活動を継続。また、契約上ユニフォームのうちズボンの着用しか認められなかったことから、選手への指導中には球団から支給されるジャンパー、トレーニングウェア、シャツを上着に用いていた。

なお、現役引退当時のコーチでもあったゼネラルマネジャーの中村が2015年9月23日に急逝したことから、球団では同年10月1日付の人事異動で当面の間ゼネラルマネジャー職を廃止。この廃止を機に役職を「球団本部付育成&打撃コーディネーター」に変更した。

しかし、「掛布さんとは野球観が合う」という金本知憲がその直後から一軍監督へ就任したことを受けて、球団社長の南信男が二軍監督への就任を要請。10月21日には、DCの立場でフェニックスリーグに帯同していた掛布が、前日(20日)にこの要請を受諾したことが一部で報じられた。

阪神二軍監督時代

阪神球団では、2015年同月26日に、掛布を二軍監督として正式に契約。翌27日には、二軍監督へ就任することや、現役時代と同じ背番号31を着用することを正式に発表した。契約期間は2年で、掛布が阪神のユニフォームを正式に着用するのは、現役引退以来27年振り。阪神の選手や首脳陣が背番号31を着用するのは、林威助外野手の退団(2013年)以来2年振りであった。

二軍監督の就任後は、厳しいプロ意識を若手選手に植え付けながら、選手の自主性を重んじる指導でチームの底上げに尽力。DC時代から指導してきた伊藤隼太中谷将大原口文仁などを一軍へ定着させたほか、2016年の春季キャンプでは、新人外野手の高山俊に対するマンツーマン指導によって、高山によるセ・リーグ新人王獲得への礎を築いた。2017年には、新人内野手の大山悠輔に対して、金本による長期育成計画の下で3月から英才教育を実施。大山は、7月から一軍へ昇格すると、8月終盤から一軍公式戦のスタメンで4番打者を任されている。その一方で、右打者だった大和によるスイッチヒッターへの転向や、故障で戦線を離脱していた糸井嘉男西岡剛のリハビリなど、中堅・ベテラン選手のサポートにも力を注いだ。

二軍監督への在任中は、現役時代からのネームバリューの高さを背景に、球団主催のウエスタン・リーグ公式戦で満員札止めや1万人台の観客動員が相次いだ。2016年の終盤以降は、現役選手時代の経験から若手選手に猛練習を求める金本との間で、育成方針やウエートトレーニングに対する認識の違いが徐々に露呈。阪神球団も、翌2018年に向けたチーム方針の転換や二軍首脳陣の世代交代を視野に、「二軍監督としての掛布の役割は、契約期間の2年間で十分に果たされた」と判断した。このため、2017年シーズン終盤の9月8日には、同年10月31日の契約期間満了を機に二軍監督としての契約を更新しないことを通告。2018年シーズンからオーナー付アドバイザーへ就任することを要請する一方で、9月10日には、2017年シーズン限りで二軍監督を退任することを正式に発表した。さらに、二軍監督として最後に采配を振る主催試合(9月28日のウエスタン・リーグ対広島最終戦)で使用する球場を、阪神鳴尾浜球場(スタンドの収容人数500人)から甲子園球場(二軍戦で開放する内野スタンドに28,465席を設置)へ急遽変更。平日のデーゲームにもかかわらず、7,131名もの観衆が内野スタンドで見届けたこの試合を、監督在任中最多の16得点による大勝で締めくくった。なお、試合後のインタビューでは、自身初の監督生活を「僕を若返らせてくれた2年間だったが、ちょっと短かったかな。ただ、若い選手たちが着実に力を付けてきている。その意味では、非常に濃い2年間だった」という表現で述懐。その後にナインが胴上げの場を設けようとしたが、監督在任中にチームをウエスタン・リーグ優勝へ導けなかったことを背景に、「胴上げとは勝者(優勝チームの監督)や現役を退く選手がされるものであって、自分はその身ではない」という理由で胴上げを固辞した。

なお、上記の最終戦の後には、掛布を支えた古屋英夫野手チーフ兼育成コーチ(元二軍監督)・久保康生投手チーフコーチ・今岡真訪打撃兼野手総合コーチが相次いで退団。この時点で掛布は二軍監督としての契約期間を残していたが、後任の監督が決まるまでは、山田勝彦二軍バッテリーコーチが二軍監督代行として指揮を執った。2017年10月23日には、山田が2018年シーズンから一軍バッテリーコーチ、一軍作戦兼バッテリーコーチの矢野燿大が二軍監督へ異動することが球団から発表された。

阪神二軍監督の退任後

阪神球団は2017年10月27日に、「オーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー(SEA)」という役職をフロントに新設したことや、同年11月1日付で掛布がSEAへ就任することを発表した。掛布が(阪神を含む)プロ野球球団でフロントの役職に就くことは初めてで、チーム編成に関するオーナーへのアドバイスや、(二・三軍を含む)他球団の視察などの役割を担う。2018年からは、SEAとしての活動と並行しながら、サンテレビやスカイ・エー、MBSラジオ(ゲストとして)の阪神戦中継で3年振りに解説を再開している。また、日本テレビ読売テレビの阪神戦のゲスト解説者としても10年振りに復帰する。

プレースタイル

打撃

若手の時期は中距離打者であった。しかし、チームの主砲であった田淵が1978年のオフに移籍したことで、長距離打者になる道を選ぶ。あまり体格に恵まれていなかった掛布は、猛練習による肉体改造と打法の改良に取り組み、強靱な体と長距離打者としての打法を身に付けることで打球をスタンドまで叩き込んだのである。同僚だったランディ・バースは「バッティングは引っ張っても打てたし、流しても打てたからね。完璧だったよ。日米野球だったと思うけどジョージ・フォスター(元シンシナティ・レッズの大打者)が彼のバッティングを見て、『このチビは、なんであんなにボールを飛ばせるんだ!』って聞いてきたことがあったほどだぜ。なにしろ腰の回転が凄かった。腕力はなかったけど、下半身の回転で打つ選手でミートも上手かった。右投手も左投手も苦にしなかったね。」と評している。しかしこの打法は体への負担も大きく、選手寿命を縮める一因ともなった。掛布自身、「体が大きくない僕が、ホームランを30本、40本まで増やすためには肉体的にはかなりの無理をしていた」と述べている。甲子園球場で本塁打を量産するために、浜風と喧嘩するのではなく利用しようと研究を重ね、レフトスタンドへ本塁打を量産する独特の芸術的な流し打ちを身に付けた。以降、レフトへの本塁打が飛躍的に増え、球界を代表するホームランバッターの一人となった。

本塁打は「狙って打つもの」と考えており、「ホームランの打ち損じがヒット」というイメージを持っていた。ただし、負傷による不調から復帰した1981年には「4番として全試合出場」を目標としたため、本塁打を意識しない打撃に徹した。その結果、フル出場を果たすとともに打率も.341という高い数字(自身の最高打率)を残したが、そのオフのイベントでファンから「もうちょっとホームランを見たい」(この年の本塁打は23本)と言われたことがきっかけで再び本塁打を意識した打撃に変更したという。掛布は引退後に、この1981年が「一番自分らしかったのかもしれない」と語り、「今でも自分がホームランバッターとは思っていない。(1981年のバッティングをやれれば)違うバッティング、違う掛布があったのかなという思いが今でも強い」という。

セリーグ審判部長を務めた田中俊幸は、著書『プロ野球 審判だからわかること』で、攻守の技術に優れ審判に対する態度も良かった選手として掛布を高く評価している。特に打撃面では、掛布の打球はバットに当たった瞬間、ほんの一瞬だが消えたと証言している。これは、掛布がボールを手元まで呼び込み、それを速いスイングにのせて弾きかえすので、ボールがバットにへばりついている間、見えなくなったのではないかと推測し、「闘魂ドラマに出てくるようなワザ」と称している。

投手の癖を観察して球種を判断することを途中からしなくなった。これは、大洋時代の野村収と対戦した際に、「癖を見破っている」と思って打ちに行ったところ、頭部への死球となり、癖を見て判断することへの怖さが生じたからだと述べている。

江川卓は著書『江川流マウンドの心理学』(廣済堂出版、2003年)で「掛布の弱点はインコース高め」と指摘し、掛布自身も対談で「インコースは弱い」と認めている。しかし、「4番打者の強さ」を相手投手に見せつけるため、インコースに投げられたボールのコントロールミスをライトスタンドへの強烈な本塁打にすることを意識していた。引退への発端となった1986年の死球の際も、ライトに引っ張る本塁打を打つためにインコースを待っていて起きたと述べている。

手首の保護目的でリストバンドを着用してプレーした野球選手は、掛布が初めてである。一方、父親の教えもあり、バッティンググローブを使用せず素手でバットを持つことに引退までこだわり続けた。ただし守備時はグラブの下に手袋をはめており、バッティングの際はその手袋を尻ポケットに入れていた。その様子がサルのしっぽに似ているとやくみつるが漫画のネタにしたことがある。現役後半にはローカットタイプのストッキングを愛用。それが掛布スタイルの代名詞となった。

プロ15年間、公式戦ではサヨナラ本塁打を打ったことが一度もなく、サヨナラ安打も1本のみである。オールスターゲームには強く、1978年には3打席連続本塁打の記録を残している。また、1981年にも第2戦から第3戦にかけて3打席連続本塁打を記録しており、そのうち2本目が公式戦では記録しなかったサヨナラ本塁打であった。現役最終年の1988年4月26日にはプロ時代唯一のランニングホームランを記録している。

守備

守備については、現役時代にダイヤモンドグラブ賞を6度受賞。これに関して、プロ野球記録の調査・分析で知られた宇佐美徹也は「ほかに特にうまい選手がなく恵まれた感じが強い」と記している。吉田義男は初任監督時代の掛布の守備を「やや粗雑だが肩は強かった」と記し、ジョージ・アルトマンハル・ブリーデンといった体格が大きかったり捕球技術に優れたりした一塁手に恵まれたことで、成長が促されたと評している。

好敵手・江川卓

高校時代、練習試合で作新学院と対戦する機会があったが、江川が登板する前に掛布は死球を受けて交代したため、直接の対戦はなかった。もしこのとき打席に立っていたらトラウマになってプロ入り後も打てなかったのではないか、と掛布は語っている。プロ入り後、ある時期まで江川は掛布に対する初球は必ずカーブを投げた。しかし、掛布はそれを見送り、ストレートを待って勝負したという。また、一度だけ江川が掛布を敬遠したとき(1982年9月4日、甲子園球場での試合)にはその球が異常に速かったという。掛布と江川の通算対戦成績は、167打数48安打で打率.287、14本塁打21三振33打点。このうち本塁打数は山本浩二と並んで江川の最多被本塁打打者である。

掛布は江川について「ストレートへの強いこだわりを持ったボールを感じさせてくれた唯一の投手」という評価をしている。また、お互いが相手との対戦が自身の調子を測る「バロメーター」となっていたことを認めている。

人物

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人物像

酒癖は悪いが、ギャンブルとタバコは全くやらない。

現役時代から球界屈指の大変な車好きとして知られる。実物の車のみならず、模型やラジコンカーも好み、自身のカスタムカーには31のゼッケンを入れていたほどである。現役時代は車内が「一人になれる空間」として大事で、独身時代にはガレージの車にしばらく座って合宿所の部屋に戻ることもしていたという。

現役時代には、美津和タイガーが製造・販売する「虎印」ブランドのバットやグラブを愛用。同社のアドバイザリースタッフとして、事あるごとに職人へ細かい注文を出しつつも、野球用品メーカーとしての技術や対応を高く評価していた。1985年には、シーズン前の2月20日に同社が破産した後も、シーズン終了まで「虎印」のバットを使用。その経験から、解説者や阪神のDCに転身してからも、野球道具にこだわりを持つことを若手選手に求めている。ちなみに、DCへの就任直後には、「虎印復活」と銘打った美津和タイガー(破産後新たに設立した会社)の記者発表会へ同席。自身の名を冠した復刻モデルの製造・販売のPRに一役買っていた。

現役時代の1985年から、債務処理に関する問題(詳細は後述)が報じられるようになった2009年頃までは、サイドビジネスを手広く展開していた。そのきっかけは、美津和タイガーの破産で再就職先を探す必要に迫られた元社員への一時的な受け皿として、大阪府豊中市にある自宅の近くにスポーツカジュアル用品店の「スポーツハウス・フィールド31」を開いたことにある。ただし、阪神選手としての年俸ではスタッフとして雇用した元社員全員の給料を賄い切れなかったことから、自宅近くの通称「ロマンチック街道」沿いに個人事務所の「掛布企画」名義で「ほっとこーなー」という広島風お好み焼き店も開いた。広島風お好み焼き店になったのは、プロ入り後初めての広島遠征をきっかけに、本場の広島風お好み焼きを好んだことによるという。なお、一時は京阪電気鉄道天満橋駅付近で「参拾壱 ほっとこーなー」という地鶏の店を営んだほか、「掛布企画」とは別に「掛布」というプロダクション会社を設立。「スポーツハウス・フィールド31」については、スタッフ全員の進路が決まったことを機に閉店している。

解説を行う際は選手の名を言うときは語尾に「~君」と敬称を付けることが多いが、外国人選手のときにはそれが付かないことが主。ただ阪神のDCになってからは阪神の選手に関して敬称をつけて呼ばなくなっている。また、「非常にこう」「やはりこの〜」「〜ですね、ええ」などといったフレーズを多用。末尾は「ええ」「はい」で完了することが多い。また「ファースト」を独特の発音で「ホワスト」「ホワァースト」と言う癖があり、掛布のものまねで知られる松村邦洋が好んで掛布独特の発音を再現している。

サイン色紙に常に記す言葉は「いつもあこがれ」である。

人間関係

2年目の1975年6月に甲子園球場の対ヤクルト戦で、1点ビハインドの6回表2死満塁の場面に三塁ゴロをトンネルし、そこから大量失点を招いて敗れた。試合後、ロッカールームに入れず、扉の前でしゃがみ込んでいたところに先発投手の江夏豊が通りがかり、「なにしてんだ、バカ。気にするな」と声を掛けたという。

長嶋茂雄のことを敬愛している。デビューした年の5月21日の対巨人戦でプロ入り初安打を記録したとき、掛布は三塁を狙ったが長嶋にタッチアウトされた。しかし、「憧れの長嶋」にタッチされたことが嬉しくてたまらなかったという。長嶋は掛布の結婚披露宴で「君には巨人戦で数多くのホームランを打たれて悔しい思いもした。だが、君は千葉の後輩なんだ。悔しいが、誰にも負けない大きな拍手を、心から君のホームランには贈っている」とスピーチし、掛布も「長嶋巨人を倒すことが長嶋が最も喜ぶことだ」と考えたという。

新人時代、対巨人戦で安打で出塁した際、王貞治に「いつあんなバッティング覚えたんだ」と声を掛けられ、「あぁ、見てくれていたんだ」と自信がついたという。王とあまり言葉は交わさず、そのときだけ声をかけられた。一方、長嶋茂雄は三塁で「君はいくつなんだ?」などといった声をかけてきたとのこと。

長嶋が評論家に転じたのち、スランプに陥っていた掛布は長嶋に電話で助言を求めたことがある。すると長嶋曰く「そこにバットある? あったら振ってみて」。首をかしげながら掛布は素振りの音を電話越しに長嶋に聞かせた。音を聞いた長嶋は「雑念を取り払え、無心で振れ!」と言う。今度は無心でバットを数度振り、音を聞かせる。すると「そうだ、今のスイングだ。忘れるな!」と言い、電話は終わった。その後、掛布はスランプを脱したという。

ライバルであった江川卓とは、現役当時はオールスターゲームの際に会話する程度であった。しかし、引退後にともに解説者として仕事をするようになってから親交が深まり、現在は親友の間柄となっている。

現役時代、ともに主力選手であった岡田彰布との間で不仲説やそれぞれの「派閥」があるような記述が当時のスポーツ紙などでみられた。これについて岡田は2008年の著書で、入団後に飲食をともにしなかったことは事実としながらも不仲説は否定しており、そうしたマスコミの記述を「一緒に行かないから=仲が悪いと決めつけられても困る」と批判的に記している。岡田は、掛布の引退試合の際に「後は頼むぞ」と言われたことが、「初めての2人の本音の会話だったかもしれない」と述べている。

巨人の阿部慎之助の父親は掛布の習志野高時代の同級生

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出典:wikipedia
2018/11/16 14:02

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