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文化大革命とは?

【文化大革命】

紅衛兵の歓呼に答礼する毛沢東(1966年8月18日)

【種類】
大衆政治運動
【目的】
毛沢東が復権するための大規模な権力闘争。また、資本主義化しようとする党内の派閥に対する原理主義・教条主義的な闘争。
【対象】
中華人民共和国
【結果】
多数の人命が失われ、また国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期停滞をもたらした。一方で毛沢東主義を世界に印象づけ、当時の学生運動や大衆運動、政治に大きな影響を与えた。
【発生現場】
中国
【期間】
1966年5月 - 1976年10月終結(1977年8月説もある)
【指導者】
毛沢東林彪四人組
【関連団体】
中国共産党
【文化大革命】

【各種表記】

繁体字: 文化大革命
簡体字: 文化大革命
拼音: Wénhuàdàgémìng
【発音:】
ウェンホアタークーミン
日本語読み: ぶんかだいかくめい
英文: Cultural Revolution
中華人民共和国


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論文・著作
実践論
矛盾論
毛主席語録
遊撃戦論
持久戦論

関連項目
中国共産党
文化大革命
ナクサリズム


文化大革命(ぶんかだいかくめい)とは、中華人民共和国1966年から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた、中国共産党中央委員会主席毛沢東主導による文化運動である。全称は無産階級文化大革命(簡体字: 无产阶级文化大革命, 繁体字: 無產階級文化大革命)、略称は文革(ぶんかく)。

名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という文化の改革運動だった。実際は、大躍進政策の失敗によって国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲った毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動や大衆を扇動して政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための官製暴動であり、中国共産党内部での権力闘争だった。それを毛自身がスチューデント・パワーベトナム戦争への反戦運動などに沸騰する世界と巧みに結びつけた。それにより毛沢東自身の著書「毛主席語録」は三十カ国以上に翻訳される大ベストセラーとなり、世界に農本思想的な「毛沢東思想」を強く印象づけ、各国の知識人やフランス五月革命などの政治・社会運動、対抗文化にも大きな影響を与えた。文化大革命終結後の1978年、鄧小平は中国の新しい最重要指導者となり、文化革命に関連する毛沢東主義の政策を徐々に解体した。また鄧小平は、文化大革命によって疲労した中国経済を立て直すために、改革開放を開始することによって市場経済体制への移行を試みた。

合計すると、文化大革命での推定死者数は数十万人から2,000万人に及ぶ。大量虐殺と共食いも特定の地域で発生した。たとえば、広西虐殺(カニバリズム)と内モンゴル人民革命党粛清事件。文化大革命の最中、「板橋ダム決壊事故」も発生した。

概要

当時の中華人民共和国の経済は大躍進による混乱ののち、党中央委員会副主席国家主席に就任して実権を握った(実権派と呼ばれる)劉少奇や鄧小平共産党総書記が、市場経済を部分的に導入し(このため、実権派はまた走資派とも呼ばれた)回復しつつあったが、毛沢東はこの政策を、共産主義を資本主義的に修正するものとして批判していた。「中国革命は、(劉や鄧のような)走資派の修正主義によって失敗の危機にある。修正主義者を批判・打倒せよ」というのが毛沢東の主張であった。そのころ、毛沢東を支持する学生運動グループがつくられ、清華大学附属中学(日本の高校に相当)で回族(イスラム教を信仰する中国の少数民族)の張承志によって紅衛兵と命名された。

毛沢東の腹心の林彪共産党副主席は指示を受け、紅衛兵に「反革命勢力」の批判や打倒を扇動した。実権派や、その支持者と見なされた中国共産党の幹部、知識人、旧地主の子孫など、反革命分子と定義された層はすべて熱狂した紅衛兵の攻撃と迫害の対象となり、組織的・暴力的な吊るし上げが中国全土で横行した。劉や鄧が失脚したほか、過酷な糾弾や迫害によって多数の死者や自殺者が続出し、また紅衛兵も派閥に分れて抗争を展開した。さらに旧文化であるとして文化浄化の対象となった貴重な文化財が甚大な被害を受けた。

紅衛兵の暴走は毛沢東にすら制御不能となり、毛は1968年に上山下郷運動(下放)を主唱し、都市の紅衛兵を地方農村に送りこむことで収拾を図る。その後林彪は毛と対立し、1971年9月毛沢東暗殺計画が発覚したとされる事件が起き、飛行機で国外逃亡を試みて事故死する(林彪事件)。林彪の死後も「四人組」を中心として文革は継続したが、1976年に毛沢東が死去、直後に四人組が失脚して、文革は終息した。

犠牲者数については、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第十一屆三中全会)において「文革時の死者40万人、被害者1億人」と推計されている。しかし、文革時の死者数の公式な推計は中国共産党当局の公式資料には存在せず、内外の研究者による調査でも40万人から1000万人以上と諸説ある。大革命によって、1億人近くが何らかの損害を被り、国内の大混乱と経済の深刻な停滞をもたらした。一方で毛沢東は大躍進政策における自らの失策を埋め合わせ、その絶対的権力基盤を固め、革命的でカリスマティックな存在を内外に示した。より市場化した社会へと向かおうとする党の指針を、原点の退行的な「農本的主義」へと押しもどし、ブルジョワの殲滅を試みた。また大学と大学院によるエリート教育を完全否定したため、西側諸国の文化的成熟度から後退し長期にわたる劣勢を強いられることになった。

鄧小平率いる改革派が政権を握ったことにより段階的な毛沢東主義の解体が始まる。1981年、中国共産党は文化大革命が「中華人民共和国の創設以来、最も厳しい後退であり、党、国家、そして国民が被った最も重い損失を負う責任がある」と宣言した。

展開

文化大革命は大きく3段階に分けられる。第1段階は1966年5月16日の「五一六通知」伝達から1969年の第9回党大会で林彪が文化大革命を宣言するまで。第2段階は1973年8月の第10回党大会における林彪事件の総括まで。第3段階は毛沢東の死の直後、即ち1976年10月6日の四人組逮捕までである。

期間については、林彪・四人組ら文革派は1969年の文革呼号の成功までが文化大革命であり、その後は文革路線を維持する継続革命段階に入ったとしているが、一般には周恩来を標的として1976年まで続いた批林批孔運動の時期も含める。

発端

中華人民共和国での思想統制は1949年の建国前後にすでに始まっていたが、1960年代前半の中ソ論争により中華人民共和国国内で修正主義批判が盛んになったため、独自路線としての毛沢東思想がさらに強調されるようになっていった。

1965年11月10日姚文元は上海の新聞『文匯報』に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、京劇海瑞罷官』に描かれた海瑞による冤罪救済は反革命分子らの名誉回復を、悪徳官僚に没収された土地の民衆への返還は農業集団化・人民公社否定を意図するものと批判して、文壇における文革の端緒となった。毛沢東はまもなく、本来は無関係だった彭徳懐解任と海瑞の罷免を強引に結びつけ、『海瑞罷官』は彭徳懐解任を暗に批判した劇という印象が急速に形成された。

1966年5月16日に党中央政治局拡大会議は「中国共産党中央委員会通知」(五一六通知)を通過した。この通知は『海瑞罷官』を擁護したとみなされた彭真らを批判し、新たに陳伯達康生江青張春橋からなる新しい文化革命小組を作るものであったが、同時に中央や地方の代表者は資本階級を代表する人物であるとして、これらを攻撃することを指示した。同月、北京大学構内に北京大学哲学科講師で党哲学科総支部書記の聶元梓以下10人を筆者とする党北京大学委員会の指導部を批判する内容の壁新聞(大字報)が掲示され、次第に文化大革命が始まった。

1966年6月1日に『人民日報』は「横掃一切牛鬼蛇神」(一切の牛鬼蛇神を撲滅せよ)という社説を発表した。この社説の中で「人民を毒する旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣を徹底的に除かねばならない」(これを「破四旧」と呼ぶ)と主張した。この社説を反映して、各地に「牛棚」(牛小屋)と呼ばれる私刑施設が作られた。

1966年8月の第8期11中全会での「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)で文化大革命の定義が正式に明らかにされた。

文化大革命について最もはっきり述べているのは1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。その報告には、

党内の資本主義の道を歩む実権派は中央でブルジョワ司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とを持ち、各省市自治区および中央の各部門に代理人を抱えている。(中略)実権派の奪い取っている権力を奪い返すには文化大革命を実行して公然と、全面的に、下から上へ、広範な大衆を立ち上がらせ上述の暗黒面を暴き出すよりほかない。これは実質的にはひとつの階級がもうひとつの階級を覆す政治大革命であり、今後とも何度も行われねばならない

と書かれており、林彪は文化大革命を、国内の反動的勢力に対する新たな階級闘争としてとらえていたことがわかる。なお、前半部分は1965年に周恩来が政治報告で意見した内容と同一であり、当時の毛沢東の認識と一致している。

毛沢東は大衆の間で絶大な支持を受け続けていたが、1950年代人民公社政策や大躍進政策の失敗によって1960年代には指導部での実権を失っていた。文化大革命とは、毛沢東の権威を利用した林彪による権力闘争の色合いが強いが、実権派に対して毛沢東自身が仕掛けた奪権闘争という側面もある。特に江青をはじめとする四人組は毛沢東の腹心とも言うべき存在であり、四人組は実は毛沢東を含めた「五人組」であったとする見方もある。

毛沢東はのちに「実権派は立ち去らねばならないと決意したのはいつか」とのアメリカ人ジャーナリストエドガー・スノーの問いに対し、「1965年12月であった」と答えている。

国家主席打倒

中国共産党主席と中国国家主席
毛沢東共産党主席 (左) と中国国家主席劉少奇 (右) は対立にあった

1966年8月5日、毛沢東は「司令部を砲撃せよ」と題した大字報(壁新聞)を発表し、公式に紅衛兵に対し、党指導部の実権派と目された鄧小平劉少奇国家主席らに対する攻撃を指示する。また紅衛兵による官僚や党幹部への攻撃が「造反有理(上への造反には、道理がある)」のスローガンで、正当化された。

劉や鄧などの支持者、彭徳懐元帥・賀竜元帥らの反林彪派の軍長老に対しては、紅衛兵らによって過酷な糾弾や中傷が行われた。「批闘大会」と呼ばれる吊し上げが連日のように開催され、実権派や反革命分子とされた人々は会場で壇上に引き出され、三角帽子をかぶらされ、殴打され、自己批判が強要された。連日の吊し上げや暴行に憔悴した著名な文化人の老舎傅雷翦伯賛儲安平などは自ら命を断った。また、劉少奇や彭徳懐をはじめとする多くの共産党要人が、迫害の末に健康を害し、軟禁されてまともな治療も受けられないまま「病死」していった。

革命委員会

実権派(走資派)らを打倒するために文革派(造反派)らによって全国各地に「革命委員会」が成立した。これにより地方の省、自治区、市などの地方機関や地方の党機関から革命委員会に権力が移譲されていったが、上海市武漢市など一部の地方では実権派と文革派との間で奪権闘争と呼ばれる衝突事件も発生した。

紅衛兵の結成

天安門広場で毛主席語録を掲げる紅衛兵(1967年)
詳細は「紅衛兵」を参照

原理主義的な毛沢東思想を信奉する張承志ら学生たちによって1966年5月以降紅衛兵と呼ばれる団体が結成され、特に無知な10代の少年少女が続々と加入して拡大を続けた。

しかし、次第に毛沢東思想を狂信的に掲げて暴走した彼らは、派閥に分かれ反革命とのレッテルを互いに貼り武闘を繰り広げ、共産党内の文革派にも統制できなくなり、紅衛兵は中南海紫禁城核開発関連の軍事施設への侵入を試み、毛沢東の護衛を担当する8341部隊はこれを撃退していた。1967年2月までには中国政府は人民解放軍を投入して紅衛兵を排除することを決定し、同年9月5日に毛沢東は中央軍事委員会主席として中国に秩序を回復させることを人民解放軍に命じ、人民解放軍と紅衛兵の武力衝突が起き、広西チワン族自治区では人民解放軍が紅衛兵を大量に処刑した。

1968年には、青少年たちは農村から学ぶ必要があるとして大規模な徴農と地方移送である上山下郷運動(一般的には下放と呼ばれる)が開始された。多くの青少年は過酷な環境に適応できなかったために亡くなった。

紅衛兵運動から下放収束までの間、中華人民共和国の高等教育は機能を停止し、この世代は教育上および倫理上大きな悪影響を受け、これらの青少年が国家を牽引していく年齢になった現在も、中華人民共和国に大きな悪影響を及ぼしていると言われる。

殺戮と弾圧

文化大革命中、各地で大量の殺戮や内乱が行われ、その犠牲者の合計数は数百万人から1000万人以上ともいわれている。またマルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。

内モンゴル自治区においても権力闘争に起因し多くの幹部・一般人を弾圧、死に追いやった内モンゴル人民党事件が起こり、モンゴル人ジェノサイドが発生しほか、旧貴族階級などの指導階級を徹底的に殺戮した。新疆でもウイグル人による抗議活動が完膚なきまでに弾圧された。

毛沢東の1927年に記した

革命は、客を招いてごちそうすることでもなければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえ目のものではない。革命は暴動であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動である。

という言葉が『毛主席語録』に掲載され、スローガンとなって、多くの人々が暴力に走った。

五七幹部学校

1968年10月に『人民日報』社説が黒龍江省の「五七幹部学校」をほめる社説を載せてから、各地に下放のための施設である五七幹部学校が作られた。「五七幹部学校」の名前は、1966年5月7日に毛沢東が林彪あてに書いた手紙(「五七指示」と呼ばれる)にちなむ。従来「牛棚」に送られていた幹部は、1960年代末から1970年代はじめにかけて、家族と分かれて地方の五七幹部学校に送られ、そこで農作業などの労働をさせられた。

国家主席の廃止論争

詳細は「国家主席の廃止」を参照
ホーカー・シドレー トライデント1E型機(中国民航の同型機)

林彪は1966年の第8期11中全会において党内序列第2位に昇格し、単独の副主席となった。さらに1969年の第9回党大会で、毛沢東の後継者として公式に認定された。しかし、劉少奇の失脚によって空席となっていた国家主席廃止案を毛沢東が表明すると、林はそれに同意せず、野心を疑われることになる。

1970年頃から林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に批判されることになる。さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。

林彪事件

詳細は「林彪事件」を参照

1971年9月、南方を視察中の毛沢東が林彪らを「極右」であると批判、これを機に林彪とその一派が毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告との説)逃亡した。9月13日中国人民解放軍イギリスホーカー・シドレー トライデント旅客機でソビエトへ逃亡中、モンゴルのヘンティー県イデルメグ村付近で墜落し林彪を含む搭乗者が全員死亡した。操縦ミス、燃料切れまたは逃亡を阻止しようとした側近同士の乱闘および発砲による墜落、もしくは人民解放軍の地対空ミサイルによる撃墜などの説がある。

なお、逃亡の報を受け毛沢東は「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ、好きにさせれば良い」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後1973年に党籍剥奪された。

1970年代

1970年代に入ると、内戦状態にともなう経済活動の停滞によって、国内の疲弊はピークに達し、それに合わせるかのように、騒乱は次第に沈静化して行った。

そのような中で、中ソ対立によりソビエト社会主義共和国連邦との関係が悪化したままの中華人民共和国と、ベトナム戦争の早期終結を目的に、ベトナム民主共和国を牽制しようと目論んだアメリカ合衆国が秘密裏に接近し、それを機にアメリカ合衆国を始めとする西側諸国の関係改善が進んだ。

その結果、1971年には、従来中華民国中国国民党政府が保有していた国際連合における「中国の代表権」が、アジア・アフリカ諸国を中心にイギリスフランスイタリアといった一部の西側諸国の支持すら受けて、中華人民共和国に移った(アルバニア決議)。

1972年には、アメリカ合衆国のリチャード・ニクソン大統領訪中し毛沢東と会談を行ったほか、日本の田中角栄首相も中華人民共和国を訪問、第二次世界大戦以来の戦争状態に終止符が打たれて、日本との間で国交が樹立されるなど、文革中の鎖国とも言えるような状況も次第に緩和されていった。

林彪の死後、周恩来の実権が強くなり、また1973年には鄧小平が復活した。五七幹部学校に追いやられていた知識人はその多くが都市に戻ってきた。しかし、文化大革命はその後も継続され、周恩来らと四人組の間で激しい権力闘争が行われた。

批林批孔運動

マルクス主義無神論を掲げる中華人民共和国は、「儒教は革命に対する反動である」として儒教を弾圧の対象とした。特に1973年8月から1976年まで「批林批孔運動」を行い、林彪と孔子及び儒教を否定し、徹底的に罵倒した。多くの学者は海外に逃れ、中国に留まった ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/07/27 00:12

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