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文系とは?

(文系から転送)

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文系(ぶんけい)と理系(りけい)とは、主に高等教育(あるいはその準備段階としての中等教育最後期)において学問を大まかに二分類する際に用いられる用語である。それぞれ文科系(ぶんかけい)、理科系(りかけい)とも呼ばれ、両者を合わせて文理(ぶんり)という。

目次

  • 1 概要
  • 2 文系と理系とを特徴づける性質
    • 2.1 数理科学の応用
    • 2.2 業績評価の違い
    • 2.3 論文様式の違い
    • 2.4 研究適齢期
  • 3 歴史と現状
    • 3.1 歴史
    • 3.2 現状
      • 3.2.1 専門教育の準備段階において
      • 3.2.2 専門教育において
        • 3.2.2.1 学位(修士号・博士号)取得状況とその扱い
        • 3.2.2.2 専門化と学際化
      • 3.2.3 社会とのかかわり
  • 4 文系と理系とをめぐる観念的な印象
    • 4.1 数学のできない「普通の」文系、それ以外の「特殊な」理系
    • 4.2 文系は優雅、理系は律儀
    • 4.3 文系は言葉で考える
    • 4.4 文系は前提の吟味をしない
    • 4.5 理系は会話下手
      • 4.5.1 理系男子は結婚できない
    • 4.6 理系にはオタクが多い
    • 4.7 男子は理系、女子は文系
  • 5 文系人気・理系人気
  • 6 文理別・学部別収入に関する調査
    • 6.1 日本
    • 6.2 海外
  • 7 政治における文系と理系
    • 7.1 日本
      • 7.1.1 政界
      • 7.1.2 官界
    • 7.2 海外
  • 8 文系的と捉えられることが多い学問
  • 9 理系的と捉えられることが多い学問
  • 10 脚注
  • 11 関連項目

概要

伝統的に、文系とは主に人間の活動を研究の対象とする学問(主に人文科学社会科学に分類される)の系統とされ、理系とは主に自然界を研究の対象とする学問(およそ自然科学に分類される)の系統とされてきた。しかし現在では、研究対象よりもむしろ課題解決のために用いる手法で分類されることが多い。たとえば金融工学社会工学は、研究対象こそ「人間の活動」であるが、研究対象をほとんど同じくする経済学社会学とは異なり一般には理系とみなされる。

個別の学問分野がいずれに属するのかについては、文系的と捉えられることが多い学問理系的と捉えられることが多い学問を参照のこと。

有意な成果や果実を得るためには総合的な知見や能力が重要であるため、実際のところは、研究の現場において研究者自身が文理の別を強く意識する機会はなく、自分の専門分野がどちらに属するかをことさらに強調することもない。ただ自らの興味や社会の要請に従って、扱う問題をあらゆる手法の中から適切なものを選んで解決した結果、用いた手法がたまたま「文系的」であったか「理系的」であったかという違いに過ぎない。

しかしながら、教育現場では便宜上、生徒・学生を文系と理系に分けて扱うことが多く、高等教育の普及につれてその区別を知る者が大半を占めるようになった。どちらの分野も直接的であれ間接的であれ社会において重要な役割を果たしているが、実際には社会でしばしば「文系」「理系」の区別は利用され、そこに属する者の性向や思想信条、男女比、年収に有意な差があるなどと論じられることがある。

文系と理系とを特徴づける性質

細胞生物学者の太田次郎が「どうも、文科と理科というのは、(中略)旧制高校時代にはそれなりにはっきりしていたが、しだいにその区別がぼやけてきたような感じがする」と述べているように、近年では昔に比べると文系・理系のそれぞれに特有の性質というのが明確ではなくなってきている。しかしながら、それでもなお、依然として文系・理系の区別は社会にも教育・研究の現場にも根強く残っている。ここでは、いまだ失われていない文理それぞれの特徴を洗い出し、見ていく。

数理科学の応用

一般に、理系の学問は数学との親和性が高いため、「理数系」と呼ばれる場合もある。物理学計算機科学はまさしくその代表であるし、化学生物学のように数学とはかけ離れているように思える分野も、実際には数学と密接に関連する物理学を基礎として成り立っており、突き詰めて研究していけばやがては物理学、あるいは数学上の問題に帰着する(生物物理学なる分野も存在する)。高分子化学分子生物学は純粋数学、とりわけ幾何学解析学等の研究成果を直接応用する(特に分子生物学に対する位相幾何学の貢献は計り知れない)し、ナビエ-ストークス方程式のような非線型微分方程式の研究が進めば気象学工学など幅広い分野を刺激するだろう。また理系分野全体にわたって種々の統計手法は重視される。一方で、法学文学歴史学等は、まだ数学・物理学との密接な関係が見出されておらず、政治学言語学においても、数理的手法の応用は(増えつつあるが)まだまだ限定的である。このように、数学や物理学との繋がりの深さは理系分野に特徴的である。

ただし、同じ理系であっても、全分野で一様に高度な数学を用いるとは限らない。工学博士の森博嗣は、解剖学者の養老孟司と対談した際、「総じていえば、実験科学に高度な数学は不要でした」と述べ、たとえば自身の専門であるコンクリートの研究においては「研究の六割方は実験」「微積分も不要」「文系の人でもできる作業」などと発言した。しかしその後

「どうしてその強度が発現するのか」が研究者の視点であって、そうなると数学が必要になります。 — 森博嗣による発言、『文系の壁―理系の対話で人間社会をとらえ直す』(養老孟司、PHP新書、2015)24頁

とも述べ、実験科学においても突き詰めて研究していけば数学が必要になることも認めている。

また、後に述べるように、文系分野における数学・物理学の活用は皆無ではない。それら例外については文系的と捉えられることが多い学問を参照のこと。

業績評価の違い

太田次郎は、研究業績の評価について、文理間では大きな違いがあると指摘している。いわく、

理工系では、ふつう論文第一主義である。オリジナルな研究論文を、いつ、何編、発表したかが問題であって、その他の業績は付随的にしか扱われない。たとえば、その専門分野で一般に認められている著書を書いたにしても、あまり評価されないことが少なくない。啓蒙書や専門向きのテキストなどは、業績としてはノー・カウントにされることが多い。先端の研究をまとめた総説にしても、論文ほどには認められない。 — 太田次郎、『文科の発想・理科の発想』(講談社現代新書、1981)15頁

とのことであり、少なくとも理工系においては「一次情報第一主義」がとられているという。また、理系の多くの分野は、研究に際して高額な実験器具や測定器具があったほうが有利であり、そのための研究費は論文数にほぼ比例して支給されるので、研究費を求める理系の研究者はとにかくたくさんの論文を量産しなければならない。 一方、文系においては事情はかなり異なる。太田によれば、

この点は、文科系とはたいへん違うように思われる。大学の同僚に聞いてみると、文科系では、著書は論文より大きな評価を受けるのがふつうの由である。(中略)研究の集大成的な著書の方が価値が高いと考えられるようである。 — 太田次郎、『文科の発想・理科の発想』(講談社現代新書、1981)15頁、中略は引用者

とのことであり、論文をこまめに発表することは「悪いとは言われない」が、基本的に業績評価の中心は総説であって、むしろ論文のほうが業績評価においてマイナーな扱いを受けることさえあるという。

論文様式の違い

1973年にノーベル医学・生理学賞を受賞したローレンツ(動物行動学者)の論文について、太田は「きわめて文科的な表現の仕方」と評している。なぜなら、

彼の著書や論文には、図や表がほとんどなく、気の短い人には耐えがたいと思えるほど、淡々と観察結果とそれに基づく自分の考えが記されている。 — 太田次郎、『文科の発想・理科の発想』(講談社現代新書、1981)18頁

からだという。当時生物学の最先端であった分子生物学の専門家からは、観察結果のみを図や表を用いて簡潔にまとめ、考察も極力排したような論文が好まれる傾向にあり、また理系の他の分野についても

理工系の論文の大部分は、単なるデータの報告に過ぎず、それから著者の考え方や人間像を推測するのは、とうてい無理であり、また初めからこんなことは問題となっていないということができよう。 — 太田次郎、『文科の発想・理科の発想』(講談社現代新書、1981)19頁

などといわれるように、ほとんど考察の無い図表のみの論文が多い。このように、論文の様式も文理では大きく違うものである。

研究適齢期

理系の研究者の場合、一般に若い頃の方が画期的な成果を出しやすい。数学者の広中平祐が「数学は、若いうちにやらないと駄目である」と発言したように、数学や理論物理学の分野では、二十代がピークとされ、三十代半ばを過ぎると新たな成果は稀になる。顕著な業績をあげた学者というのは、三十歳くらいですでに傑出していることが多い。

数学や理論物理学ほどではないものの、実験科学の分野でも、アイデアは若いときに出て、その後はそれを実証したり、さらに幅を広げるという人生を送ってきた研究者が多い。

一方、文系の学問の場合は必ずしもそうではないという。太田次郎によれば、

基本的な文献や資料を調べて、研究を進め、さらに集大成して、初めて一つの業績となる分野もあるように思われる。また、長期間の学習を重ねて、ものを見る眼がしだいに養成される分野もあるであろう。 — 太田次郎、『文科の発想・理科の発想』(講談社現代新書、1981)80頁

とのことで、「どうも、理科系と文科系では、一般に勝負の速さに違いがあるように感じている」という。

歴史と現状

歴史

学問を文系と理系に分けることの起源がおそらく日本にあるということは、多くの論者が指摘しているところである。太田次郎は、文系と理系の区別について、「おそらくその起源は、旧制高校の制度にあると思われる」と述べた。山梨大学講師(当時)で理学博士の藤井康男によれば、「おそらくわが国だけの分け方ではないかと思う」とのことである。また藤井は、「外国の事情をよく調べたことはないのだが、」とことわったうえで、「外人と話してみてわかることは、彼らは文科とか理科とかをあまり口にしないということである」とも述べている。

どうも外国では、この文科、理科というものの区別が日本ほどはっきりしていないような気がする。少なくともそういった名前の分け方はないようである。 — 藤井康男、『文科的理科の時代 新・学問のすすめ』(福武書店、1982)12頁

日本においては、第2次・高等学校令(大正7年勅令第389号)の第8条に「高等学校高等科を分ちて文科及理科とす」(原文は平仮名部分がカタカナ)という規定があった。明治中期から第二次世界大戦降伏前は、旧制高等学校は、旧制大学で教育を受けるための準備教育を行う場としての位置づけが大きかった。高等学校の高等科においては、学修する外国語(英語およびドイツ語が大半)によって、「文科甲類」「文科乙類」「理科甲類」「理科乙類」などに分け、「文科」「理科」のどちらで学んだのか、学んだ外国語は何であったかによって、旧制大学で学ぶ専攻分野に大きく左右した。

東京工業大学教授で社会学が専門の橋爪大三郎によれば、学問を文系と理系とに区別することの本来の動機は、予算がかかる学問の学生数を制限することだという。

そもそもこんな区別があるのは、発展途上国の特徴である。黒板とノートがあればすむ文系にくらべ、理系は実験設備に金がかかるので、明治時代の日本は、学生数をしぼらざるをえなかった。そこで数学の試験をし、文系/理系をふり分けることにした。入試問題が別々なので、その前の段階で文系/理系を選択しなければならない。 — 橋爪大三郎、『橋爪大三郎の社会学講義2』(夏目書房、1997)63頁

近代の日本において、大学教育に対する準備教育の課程を「文科」と「理科」に区分したことは、現代における文系と理系の区分に事実上引き継がれている。現代において文系を文科系と、理系を理科系と呼ぶのは、旧制高等学校の区分けの名残である。「系」の語が付与されているのは、「文科」「理科」という学科組織に基づく分類によっていないからである(なお、現代においても「高等学校」および「中等教育学校の後期課程」に「理数科」という学科があり、この場合、「理数科」を卒業した場合は、「理数科卒業」となる。ただし、大学進学に際し文系の学部・学科・課程への入学制限は、一切ない)。

現状

専門教育の準備段階において

ひとりの人間の発達史において、文系・理系の区分が初めて明確に意識されるようになるのは、一般には大学受験に備える高校の高学年からである。しかしながら、大学受験という一回のチャンスに人生が大きく影響されるという考えが根強い日本では、幼いころから「この子は算数や理科が得意だから理系」「この子は社会や国語を好むから文系」などと言われるようである。(後述)

旧制高校の廃止に伴い「文科」「理科」のあからさまな区分を廃した現代の日本の大学では、入学試験学部単位、学科単位あるいは専攻単位といった細かい区分のもと行うことが多く、それぞれ入試科目や試験制度をきめ細やかに設定することも多い。とはいえ、文系学問を専攻する学部・学科どうし、理系学問を専攻する学部・学科どうしでそれぞれ比較すると、多少の差異はあれども入試科目のパターンはそれぞれ似通っていることが多い。国公立大学の個別試験や私立大学の入学試験では、文系ならば英語国語の2教科を必須とした上で数学地理歴史(大学によっては公民も選択可能)のいずれか1科目から選択させることが一般的であり、理系ならば英語、数学の2教科を必須とした上で理科のうちいずれか1~2科目を選択させることが一般的である。国公立大学の入学試験にはこのほかに大学入試センター試験の受験が必須とされるが、ここでも文系は地理歴史と公民を合わせて2科目受験することが要求される一方理系は1科目で許されたり、同様に理科に関しても文系は理系よりも科目数ないしは試験範囲を少なくして良いなど、入試科目構成が文理それぞれで定型化してしまっている現状がある。

このような事情もあって、「高等学校」および「中等教育学校の後期課程」などにおいて、大学進学を希望する生徒が授業を履修する際には、大学の入学者選抜に対応するために、生徒の希望学部・学科・専攻の入試科目に応じて、生徒の履修科目が文系型または理系型になるように、教員や保護者が指導することが慣習化し、学習塾もこれを受けた事業を展開している。

文系と理系に分かれるさい、最大の要因となるのは数学の得手・不得手であるとされている。「理系」分野へ進学を希望する場合、入学試験科目の一つに数学が課せられることが多い反面、「文系」では数学が選択できないか、選択できても必須でない大学が圧倒的に多く、また数学を必須とする大学でも文系の場合には配点が低めに設定されている。このことから「数学が出来ないから理系をやめて文系を目指そう」と考える者が少なくない。一方、理系の大学入試で国語が独立科目として必須とされる例は東京大学京都大学などほんのわずかしかなく、選択できるのもごくごく一部の私立大学のみにとどまっている。数学と地理歴史の選択制をとっている入試が多い文系に比べると、理系の入試は科目選択の幅が小さく、見方を変えればそれは苦手科目を抱えてしまった際の逃げ道が少ないということにもなる。

理系の入試においてほぼ必ず数学が課せられている現状に対しては、太田次郎による次のような批判がある。

演算が不得意であっても、空間感覚がすぐれていたり、言語に対する感覚がすぐれている人は少なくない。そんな人が、入試でふるい分けられて、理科系へ進めないのは、残念なことである。 — 太田次郎、『文科の発想・理科の発想』(講談社現代新書、1981)99頁

京都大学経済学部のように、入学試験を文系受験生用と理系受験生用に分け、それぞれ異なる科目構成で行う大学・学部も存在する。

専門教育において

旧制高等学校は、戦後になって新制大学教養部として大学に組み込まれた。多くの大学で教養部が廃止された現在においても、その名残から文系理系のどちらかに大学教育の内容を分ける習慣がある。多くの大学では、1・2年次の教養科目の選択パターンが文系学部同士・理系学部同士でそれぞれ酷似していたり、必修授業の一部を文系学部全体・理系学部全体の合同で行ったりする。また法科大学院には理系学部出身者を優先的に入学させる「理系枠」なるものがあるなど、専門課程を過ぎても「文系」「理系」の括りは何かにつけて付いて回る。

しかしながら西欧圏では、学問分野は基本的に自然科学・人文科学・社会科学の3つに大別される。文系と理系は、日本の歴史的な事情によって形成された便宜的な分類である。実際に事物を深く学修・研究しようとすると、文系と理系という二者択一の区分法に、限界が見て取られることは多い。太田次郎は

どうも、文科系と理科系という分け方は、あまりに粗雑であるし、その分け方にもとづいて、高校や大学で教育が行われるというのは、現代的でないように思われる。もっとカリキュラムを多様化して、様々な選択ができるようにした方が、現在の学問により適合するであろう。 — 太田次郎、『文科の発想・理科の発想』(講談社現代新書、1981)99頁

と指摘している。

日本では、文系・理系という見方が高等学校の段階で厳密に区別されてしまうことが多いため、学部ごとにある特定分野の知識について社会化された学生が集まってしまい、大学受験以降にて広く学問や社会を見渡すようなリベラルアーツ的視点を促す教育・研究活動につなげにくいといった批判がある。

現在、文系の方が理系よりも学生の数が多い。内訳としては、社会科学が140万人と一番多く、続いて工学が44万人、人文科学が40万人である。理・工系合わせた学生は52万人で、全体の約5分の1である。医・歯・薬学は厚生労働省の医療政策との兼ね合いから定員が制限され、大学独自に増員できないため割合としては僅かである。

学位(修士号・博士号)取得状況とその扱い

日本では理系のほうが文系に比べて修士・博士課程に進学する割合や意識が高く、博士号取得者の8割が理系である。これは卒業後の就職・採用事情と大きく関係しており、理科系大学生は大学院修了者も含めての技術職や研究職の募集に関しても往々にしてあり、研究室の教員の紹介などのルートもあるのに対して、文科系には大学院修了見込者用求人や研究職の募集自体が極端に少なく、文科系卒業生が一般的に就職する就職先の職場では経理や営業現場でのOJTを重視する傾向にあるためと見られる。文系とされる博士号取得者は欧米には多数存在する一方で、日本では付与条件や取得状況が極端に厳しく、これが海外留学生の受け入れにおいてしばしば問題とされる。

専門化と学際化

旧制高校には全寮制のところが多く、しかも文系と理系の学生がひとまとまりに同居する形であったため、文系・理系の学生たちは最低限の知識を共有することができ、互いの交流を通して「全人的な影響」を受け、「文科と理科のカオスなかに若い燃えたぎる生命が打ち込まれ、陶冶され、そして磨かれてい」った。ところが、旧制高校は「エリート教育だから」という理由で戦後の学制改革により廃止され、学生運動対策として学生寮もどんどん壊された結果として、現在の大学が輩出する人材は戦前に比べて文系・理系のどちらかへとより偏り、後述のごとき「会社人間」が蔓延することにつながっている。

近代以後、学問各分野における専門知識の増大により、自然科学社会科学人文科学などの異なる分類の学問間のみならず、同じ分類にされている学問内においても研究の相互理解が困難になりつつある。このような状況は、最近はじまったことではなく20世紀当初からあったとC. P. スノーは “The two cultures and a second look” の中で述べている。

また専門化と同時に隣接分野の融合(学際化)も起こっており、言うなれば「○○系寄りの□□系」、「□□系寄りの○○系」といった分野も存在するため、これが同一学問系内における更なる乖離を生み出している。

学際化が文系と理系にまたがると文理融合(ぶんりゆうごう)と呼ぶ。また、そのような分野が文系・理系の両方にわたることを強調して学際系と呼称することもある。なお、工学的知見と文系諸学問の知見の双方が扱われる分野を「文工融合(ぶんこうゆうごう)」と呼ぶ者もいるが、あまり普及した言葉とは言えない。

社会とのかかわり

文系・理系の区別は、社会生活にも大きな影響を与えている。橋爪大三郎によれば、大学が社会へ送り出す人材が文系と理系とに専門化されることにより、個の力が弱まり、大組織中心の社会が形成されるという。

会社に就職してから、理系の人間は研究所や現場で新製品の開発にたずさわり、文系の人間は営業・経理・人事・総務・労務など、製品の販売や会社の管理にたずさわる。手分けをして会社を支えましょうという、予定調和なのだ。知識が偏っているから、独立しようにも一人では何もできない。会社を飛び出してベンチャービジネスを起こそうというタイプの人間は、だからほとんどいなくなる。文系/理系の区別は、卒業生の知識を偏らせ、会社に依存させるための仕組みなのである。 — 橋爪大三郎、『橋爪大三郎の社会学講義2』(夏目書房、1997)64頁

技術系の最高資格である技術士一次試験での共通科目受験免除の条件の一つとして理科系の学部学科卒が挙げられている。またNASA宇宙飛行士に応募するためには理系出身でなくてはならない。

過去には太平洋戦争末期に行われた学徒出陣において、理科系学生には技術要員として徴兵猶予が継続された一方、文科系学生は士官候補生として動員された。

文系と理系とをめぐる観念的な印象

学問の分類として生じた文理の区別は、時として、それぞれに属する「人間」の区別に転用されることがある。「文系の人」と「理系の人」に対して持つイメージは人によってさまざまだが、中には広く一般に定着しているものもある。しかしそれらはどうしてもステレオタイプに陥りがちで、扱いには万全の注意を要する。ここでは文系論・理系論の執筆に特に熱心とみられる識者の意見を中心にとりあげ、各論者に対する誤解の生じぬよう、前後の文脈をできるだけ排さず慎重に見ていく。

数学のできない「普通の」文系、それ以外の「特殊な」理系

世間でいうところの「文系の人」とは、「理数系科目、とりわけ数学が嫌いな人、苦手な人」とされており、対する「理系の人」とは、「理数系科目、とりわけ数学が嫌いではない人、苦手ではない人」であるとされている。

森博嗣によれば、文系に進んだ人の多くは、子供のころにひとたび算数・数学で躓くと「自分は算数には向いていない」「数学なんてものは無意味なものだ」と決めつけ、自分を守るために、無意識のうちに算数や数学から自分を少しずつ撤退させていったと考えられる。応用物理学者の志村史夫によれば、自分が「文科系の人」であるか「理科系の人」であるかは、学校でそのように思わされた結果の「自認」でしかなく、自ら進んでそのような分類に飛び込んでいったのではなく学科の成績によってそのように分類されただけなのだ、という。

本節冒頭に示したような定義によれば、たとえば専攻している学問が理工系であっても、その人が「理系の人」であるとは限らない。志村によれば、理工系学生の中にも数学や物理が嫌いあるいは苦手という学生は少なくない。森もまた、理系の学生が数学などの能力に限界を感じたときに「自分は文系なのかな」と意識し始めると述べている。

両論者はともに「理系の人」とは「文系の人」に属さない者(いってみれば「その他」あるいは「補集合」)であるとの認識を持っているが、なかでも志村は、

自分のことを「理科系」だと意識(自認)する人よりも、自分のことを「文科系」だと意識(自認)する人の方が多いような気がします。 — 志村史夫、『文系?理系?―人生を豊かにするヒント』(ちくまプリマ―新書、2009)9頁

と、世の中は「文科系の人」が大半を占めていると主張したうえで、志村の専門である物理学を例にとり

「物理は難しい」ということが、確かに、日本の“社会通念”になっているようですので、「物理はやさしい」などといったら「ヘンなヤツ、嫌なヤツ」と思われてしまうのを恐れる — 志村史夫、『文系?理系?―人生を豊かにするヒント』(ちくまプリマ―新書、2009)63~64頁

という傾向が日本の学生たちの間にあることを指摘し、日本において「理科系の人」(すなわち、理数科目が不得意ではない人)が「文科系の人」から特殊な存在として見られていることを示した。

森博嗣は、文系の人間は数学や物理から逃避する傾向にあるが、理系の人間は特に国語や社会科から逃避しているわけではないと述べている。理系の人の多くは、単に「ものを覚える」という勉強が面倒なのでやらないだけで、「やる気になれば、いつでもできるもの」と考えているので決して苦手意識を持ってはいないのだという。そのうえで、次のような興味深い指摘をしている。

文系の人が「理系の人間は変わっている」と思っているほど、理系の人は「文系の人間は変わっている」とは考えない。文系と理系を意識するのも、文系の人のほうが多いはずだ。 — 森博嗣、『科学的とはどういう意味か』(幻冬舎新書、2011)31頁

一方、物理学の博士号を持つサイエンスライターの竹内薫は、これに関して森とは別の考えを持っているようである。竹内は「理系に属する人間には、自分が理系であるというだけで文系に属する人間を見下す者が多い」と指摘している。そのような人間は、文系人間こそが異質な存在であると考えているか、もしくは自分自身が異質な者であることを強く意識したうえでそれを逆手に取って優越感に浸っていると考えられ、いずれにせよ森の主張には沿わない。

文系は優雅、理系は律儀

文系・理系間のイメージの違いというものは、つい最近になって生じたものではない。たとえば、一般に文系の人間は、理系の人間に比べると「暇そう」な印象を持たれているようであるが、それは今も昔も大きくは変わらないものであった。旧制高校から東京大学理学部へ進んだ太田次郎は、旧制高校時代を次のように述懐している。

一般に、文科生は、文学や哲学の書物を読みあさり、授業に出席する時間も少なく、当時の言葉でいう「だべっている」時間が多かった。それに対して、理科の学生は、こつこつ勉強する時間が長かった。(中略)したがって、比較的時間にゆとりのある文科生の方がいわゆる教養書を読んでいて、優雅さと共に深みがあった。 — 太田次郎、『文科の発想・理科の発想』(講談社現代新書、1981)9~10頁、中略は引用者
「理科系は実験があるからさぼるわけにはいかない」というのは、理科系の学生が文科系の学生の優雅な生活を羨ましがりながら発する言葉である。 — 太田次郎、『文科の発想・理科の発想』(講談社現代新書、1981)136頁

藤井康男は、太田によるこの論評について「読んでいて笑い出した」と心からの賛同を表明したうえで、次のように呼応した。

なんとなく文科系の人はひげを生やしていて、声もどす低くて、大人っぽくて、女なんかも早く知っていて、影があって、世間を知らないわれわれ理科の理屈づくめのひよこに比べたらえらく大人の感じがした。 — 藤井康男、『文科的理科の時代 新・学問のすすめ』(福武書店、1982)13頁
理科系の連中は、その間に呻吟しながらドイツ語の単語を暗記したり、微分積分の解法に頭を悩ましたり、いろいろと忙しかったのではないかという気がする。 — 藤井康男、『文科的理科の時代 新・学問のすすめ』(福武書店、1982)14頁

文系学生には理系学生に比べて自由に使える時間が多く、それゆえに遊びがちであることは、竹内薫らも指摘しているとおりである。しかし太田によれば、これはなにも学生に限った話ではない。教員や研究者(学者)にも同様の傾向がみられるという。

文科系の学者は、優雅な反面、不精な人が少なくないので、律儀で几帳面な理科系の人から見れば、(後略) — 太田次郎、『文科の発想・理科の発想』(講談社現代新書、1981)20頁、後略は引用者
学生だけでなく、教官の方もそうである。実験的な研究を進めようとすれば、大学にいなければならない。文科系の教官のように、講義のない日は、悠然と自宅の書斎にいるというわけにはいかない。(中略)理科の人は、きちんと研究室へ出かけるので、考え方も律儀になり易いのかも知れない。 — 太田次郎、『文科の発想・理科の発想』(講談社現代新書、1981)137~138頁、中略は引用者

このほかにも太田は「文科系の人々には、一般に整理嫌いであるか整理が得意ではない傾向が強い」とも述べたうえで、「文系の人間=優雅で不精」、「理系の人間=律儀で几帳面」という対比を強調している。

さらに太田は、理系の学生や研究者が文系のそれらと比べて律儀になりやすい理由も分析している。その理由とはすなわち「理系の研究者はコンスタントに論文を出し続けることが要求される」ということであって、これにより「もともと律儀の人がますますこまめになってくる」のだという。さらに太田によれば、理系分野においてこのような基準で業績評価が行われている現状は、大学教官を単なる「論文かせぎ」に走らせ、私生活を犠牲にしてでも「最終電車まで研究室で実験を続けたり、しばしば研究室の中で仮宿泊をしたり、涙ぐましい追われるような生活を続け」ることを強いる。よって、理科系の人間には気分的な余裕がなく、文科系ほどに優雅ではないのだという。

文系は言葉で考える

森博嗣は、養老孟司との対談において、「文系の人は『人間は言葉で考えている』と思っているようだが、僕は言葉で考えていない。思考の大部分は映像で、数字を扱う場合は座標や形で考える。」などと前置きしたうえで、

文系の人は、自分のわからないことを言葉で解決しようとします。たとえば、独楽は回っているから倒れない、自転車は走っているから倒れない、ということを「理屈」だと思い込んで納得し、それで解決済みにしてしまう。回っている物がなぜ倒れないのか、走っているとなぜ倒れないのかは考えようとしません。 — 森博嗣による発言、『文系の壁―理系の対話で人間社会をとらえ直す』(養老孟司、PHP新書、2015)30頁

と述べ、文系は物事を言葉で割り切る傾向にあるとした。

森は直後に「文系を非難しているわけではない」と釈明し、「多くの社会的活動では、言葉で割り切った方が処理は速いでしょうし、相手も同じ文系なら説得しやすいのでしょう」と分析を添えている。

文系は前提の吟味をしない

養老孟司は、森博嗣との対談において、「特に日本の文系に言えることですが、彼らは前提の吟味をしませんね」と発言している。それに続く発言では、

僕は弁護士に、「憲法違反と言うけれど、そもそも憲法の前提は何でしょう」と尋ねたんです。ところが、弁護士は「憲法の前提なんて考えたこともない」と言う。憲法のない状態から憲法を作ったからには、何のために憲法を作るのかという前提があったはずなんです。だけど、日本ではそれを吟味しようとしません。 — 養老孟司による発言、『文系の壁―理系の対話で人間社会をとらえ直す』(養老孟司、PHP新書、2015)35頁

として、法を扱う専門家たる弁護士が法の前提を理解していないことを引き合いに出しながら「前提をきちんと把握する」ことの重要性を訴えている。

複雑系や自然哲学などを専門とする博士(学術)の鈴木健は、社会科学の問題を人間の細胞の話から論ずるようになったことの動機として

これまでの社会科学は見えない前提のもとに議論を積み重ねてきていますが、僕はこれに違和感がありました。当然、政治哲学や経済思想は、既存の前提を破壊して新たな土台を築こうとしていますが、それすらも何らかの前提のもとに成り立っているわけです。 — 鈴木健による発言、『文系の壁―理系の対話で人間社会をとらえ直す』(養老孟司、PHP新書、2015)120頁

と述べ、社会科学の前提をとことん追求していくともはや社会科学の外にその前提を求めなければならないと指摘している。

理系は会話下手

竹内薫は、「誰もが大体同じ」く持っている理系人間のマイナスイメージとして、「コミュニケーションが下手」「会話に専門用語がバンバン出てくる」などを挙げた。竹内によれば、文系人間は「幅広く色々なものに興味があり、会話の引き出しも多い」ため、「色々な話に対応でき、自分から話題を振ることもできる」という基本的なコミュニケーション能力を備えているが、一方で理系人間は、「専門分野に特化し」「一つのことを突き詰めている」ために引き出しが少なく、「喋ること、書くことなど、コミュニケーションを最初から諦めている人が多い」うえに、さもなければ「相手が関心のないことを延々と話す」のだという。

毎日新聞科学環境部による『理系白書』(2006年刊)は、二十代のある理系学生が、研究室でスキー合宿に出かけた際、たまたまリフトで隣り合ったスキー客に、師事する教授の名を片っ端から挙げて自慢したが、その客は誰一人として知らなかったという話に続けて、「研究室がすべて」の世界に生きていたという彼自身による悔悟を紹介した。また、薬学の博士号を持つ小説家の瀬名秀明は、大学院時代を振り返り「実験室に何時間いるかで評価される雰囲気もあった」と研究室にこもりがちであったことを指摘したうえで、研究費の獲得や社会に向けての情報発信は教授の仕事なので「若い研究者たちは、必要に迫られない限り、外との付き合いをせずに済む。それで世界が完結するんです。」と述べた。このように、理系の若い研究者は専ら研究室・実験室に軸足を置いた生活を送っており、専門家同士の交流が人間関係のすべてとなっているために、非専門家との交流に慣れていないのだという。

理系男子は結婚できない

さらに竹内は、理系の男性は「女性に対して奥手が多い」とまで言い切り、

コミュニケーション能力が低いからか、相手を喜ばせてあげようというサービス精神が少ない気がするのだ。理系に進む女性が少ないので、普段から接し慣れていないというのもあるかもしれない。 — 竹内薫、『理系バカと文系バカ』(PHP新書、2009)74頁

と述べた。理系に進む女性が少ないために、会話の引き出しが少なく専門の話しかできない理系男性と話を合わせられる女性が少なく、結局理系男性は女性と会話できないのだという。

『理系白書』においても、理系男性の結婚の問題が取り上げられている。ある理系研究者Aは、大学院修士課程修了までの6年間、同級生に女性が一人もいなかった。29歳でポスドクとして渡米する時点では婚約者がいたが、「恋愛に関して経験不足だった」せいでうまくいかなかったという。外資系企業に勤めるエンジニアBは、「およそ女性が喜びそうなものには興味がない」と語り、30人の職場に独身女性が2人しかいないことから「恋愛に限っていえば、理系は損」と断言した。

『理系白書』によれば、結婚情報サービス大手の「ツヴァイ」における男性個人会員のうち、「事務系会社員」や「公務員」はそれぞれ15%程度しかいないが、「技術系会社員」は40%もおり、「彼らの焦りを映しているようにも見える」という。しかし、「ツヴァイ」アドバイザーの女性によると、理系男性は総じて女性たちからのウケが良くないらしく、「初デートから、難しい専門の話ばかり」などと戸惑われるという。

『理系白書』は、理系人が結婚できない原因として、単に学校や職場に女性が少ないことだけでなく、「適齢期」には大学院生もしくは身分の不安定なポスドクであることが多いことも挙げた。

理系にはオタクが多い

『理系白書』によれば、「理系人をオタクと同じようなイメージでとらえる人がいる」とのことである。ここでいうオタクとは、「数学オタク」や「機械オタク」の意味ではなく、サブカルチャーに精通し、アニメやゲームなどのキャラクター産業を大量に消費する者を指している。

しかし、毎日新聞が取材した限りでは、秋葉原の大手フィギュアショップ「海洋堂」に入り浸る客のうち、文系・理系のどちらが多いのかは確認できなかったという。利用客の一人は毎日新聞の取材に対し「フィギュアのファンに文系も理系も関係ない」と語った。

東京大学で「オタク文化」の講義を担当したという評論家の岡田斗司夫は、

文系のオタクもいれば、理系のオタクもいる。ただ、文系の人はオタクであることに気後れして、自分がそうであることを隠すんですね。理系の人は隠すという発想がない。 — 岡田斗司夫による発言、『理系白書 この国を静かに支える人たち』(毎日新聞科学環境部、講談社文庫、2006)134頁

と述べ、「だから理系が目立つのではないか」と推測する。東京大学の学生に関していえば、1年生においては「アニメオタク」の数に文理差はないが、文系の人は学年が上がるごとに「社会性みたいなものを身につけて」オタク仲間から離れていくという。

しかし岡田によれば、理系の生活とオタク的趣味は相性がいいという。

研究室での実験に拘束されると、自分の自由時間は毎日、深夜から明け方までということになりがちだ。おもしろいテレビ番組はないし、友人ともおしゃべりできない。その点、自分一人で没頭できる趣味は、理系の生活パターンにとって自然で、都合がいいというわけだ。 — 岡田斗司夫による発言を毎日新聞科学環境部がまとめたもの、『理系白書 この国を静かに支える人たち』(毎日新聞科学環境部、講談社文庫、2006)134頁

男子は理系、女子は文系

リケジョ」も参照

小学校高学年から思春期にかけて、男の子は算数(数学)・理科が、女の子は英語・国語が得意、あるいは好きだとするイメージがある。実際、国内の多くの大学では理系学部は入学者・在籍者に占める女子の比率が有意に低く、同じ理系学部内での比較においても生物学系・農学系・医歯薬系学科より物理学系・機械系・電気電子系学科の女子比率が明らかに低い。このような現状が「女子は文系科目のほうをより得意とする」とするイメージを増強している可能性はある。

文系人気・理系人気

文理選択は将来の学部選択・専門分化を通じて職業選択に影響する。特に医師歯科医師薬剤師建築士など資格取得に学歴を要求するような職業は、たいてい人気が高いこともあり大学入学の1~2年前からすでに準備していなければならない。したがって、本人の学問に対する興味そのも

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出典:wikipedia
2018/12/02 23:25

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