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新庄剛志とは?

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
福岡県福岡市南区
【生年月日】
(1972-01-28) 1972年1月28日(46歳)
身長
体重 181 cm
76 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
外野手(主に中堅手)、内野手
【プロ入り】
1989年 ドラフト5位
【初出場】
NPB / 1991年9月10日
MLB / 2001年4月3日
【最終出場】
MLB / 2003年6月27日
NPB / 2006年10月26日(日本シリーズ第5戦)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


しんじょう つよし
新庄 剛志
【本名】
同じ
【別名義】
SHINJO
【生年月日】
(1972-01-28) 1972年1月28日(46歳)
【出生地】
日本長崎県下県郡美津島町(現:対馬市)
【血液型】
A型
【職業】
タレント、元プロ野球選手
【活動期間】
野球関連 / 1990年 - 2006年
芸能関連 / 2007年 -
【配偶者】
大河内志保(2000年 - 2007年)
【事務所】
エージェントオフィスタクト(マネジメント契約)
【公式サイト】
LHSF_COLONY
【主な作品】


【受賞】

#栄典・野球以外での表彰」を参照


新庄 剛志(しんじょう つよし、1972年1月28日 - )は、長崎県下県郡美津島町(現:対馬市)生まれ、福岡県福岡市南区出身の元プロ野球選手(外野手内野手、右投右打)、タレント実業家クリエイター(商品プロデューサー画家など)、地方競馬全国協会 (NAR) の馬主。元妻はタレントの大河内志保紺綬褒章受章(2007年)。

記録より記憶に残る選手」と称されることがある。愛称は「プリンス」など(後述)。

1993年阪神タイガース球団歴代最年少での先発4番打者としての出場を記録(2017年終了時点)。2001年より日本人野手(投手以外)として初めてメジャーリーグベースボール(以下:MLB)へ在籍し、2002年日本人選手として初めてワールドシリーズへ出場。2004年よりの北海道日本ハムファイターズ時代の登録名は「SHINJO」であり、表記法をイニシャル以外でのアルファベットとしたのは日本プロ野球(以下:NPB)において初めてである。

2001年より2009年までは個人事務所・株式会社剛ゴーエンタープライズに所属し、アワーソングスクリエイティブと業務提携してタレント活動等を行う。2008年に株式会社レハサフ(後述)を設立して2013年の会社閉鎖まで経営する。タレント活動等のマネジメントをレハサフが行っていた期間を経て、2012年プラファーと、2013年よりはエージェントオフィスタクトとマネジメント契約を結んでいる。

2010年ごろよりインドネシアバリ島へ移住している。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 阪神時代
      • 1.2.1 亀新フィーバー
      • 1.2.2 MLBへの移籍表明
    • 1.3 メッツ時代
    • 1.4 ジャイアンツ時代
    • 1.5 メッツ復帰
    • 1.6 日本ハム時代
      • 1.6.1 新庄劇場
    • 1.7 現役引退後
  • 2 特筆事項
    • 2.1 現役引退について
    • 2.2 エアブラシアートについて
    • 2.3 モトクロス競技について
  • 3 人物
    • 3.1 人物像
    • 3.2 社会への影響
    • 3.3 社会貢献活動
    • 3.4 対人関係
    • 3.5 ファッション・美容・趣味・嗜好
      • 3.5.1 ファイターズスタイル
    • 3.6 メディア出演詳細
    • 3.7 新庄語録
    • 3.8 愛称
    • 3.9 パーソナルデータ
  • 4 野球選手としての特徴
    • 4.1 守備
      • 4.1.1 内野守備
      • 4.1.2 外野守備
      • 4.1.3 投手挑戦
    • 4.2 打撃
    • 4.3 走塁
    • 4.4 評価
    • 4.5 野球用具
  • 5 詳細情報
    • 5.1 年度別打撃成績
    • 5.2 ポストシーズン打撃成績
    • 5.3 年度別守備成績
    • 5.4 表彰
    • 5.5 記録
    • 5.6 背番号
    • 5.7 登録名
    • 5.8 登場曲
  • 6 関連情報
    • 6.1 栄典・野球以外での表彰
    • 6.2 展覧会
    • 6.3 個展
    • 6.4 競走馬:タノシンジョイ
    • 6.5 プロデュース商品
    • 6.6 プロデュース映画作品
    • 6.7 出演
      • 6.7.1 テレビ番組
      • 6.7.2 ラジオ番組
      • 6.7.3 CM
      • 6.7.4 広告
      • 6.7.5 ファッション関連
    • 6.8 音楽作品
    • 6.9 関連CD・VHS・DVD
    • 6.10 著書
    • 6.11 関連書籍
    • 6.12 登場する作品
  • 7 脚注
    • 7.1 参考資料の略称
    • 7.2 注釈
    • 7.3 出典
  • 8 関連項目
  • 9 外部リンク

経歴

プロ入り前

福岡県で造園業を営む家庭の第2子(長男)として、長崎県の母親の実家にて誕生。体重は3680グラムあり、生後10か月で歩きだす。小学時代に8回も交通事故に遭うが、幸い大怪我は負わずにすむ。しかし中学時代の授業中に左手小指を切断寸前の大怪我を負い、自身はこれがもし右手であったなら間違いなくプロへは進めなかったであろうと語っている。小学1・2年時には町内のサッカーチームへ所属。後にソフトボールを経て野球へのめりこむきっかけは、漫画・アニメ『キャプテン』との出会いでもある。

新庄の父親は自身が果たせなかった夢から、息子には何が何でもプロ野球選手になって欲しかったという。足の速さと肩の強さは幼い頃から身につけており、6歳時には既に大人よりも遠くまで石を投げられるほどであった。やがて父親から野球を教わり始める。小学時代(2年時より)の日課である自宅近くの坂道でのキャッチボールでは、新庄を坂上に立たせて父親が坂下から思い切り球を投げ、後ろにそらすと(その位置で待っていればボールは転がり戻ってくるが)「横着せずにボールが戻ってくる前に追いつけ」と言って坂上まで走らせていた。父親によると新庄は泣きながらも決して弱音を吐かなかったという。小学高学年時には家業を手伝い、重い石碑等を持つ作業で体力をつける。

長丘ファイターズ結成

小学3年時より始めたソフトボールでは、6年時5月の町内対抗大会でのサヨナラ負けが決定するプレーの判定をした審判員に泣きながらひとり食ってかかり、なだめる監督にも誤審を訴え続けた。こんなにも負けず嫌いな子供は見たことがないと驚き、その様子を見るに見かねた監督が、そんなに悔しいのなら自分が監督を引き受けるから少年野球チーム(軟式の学童野球)を創ってその悔しさを晴らそうと持ちかけると、新庄は2日でメンバーを集め、ユニフォームのデザインやチーム名命名も担当して「長丘ファイターズ」というチームが誕生する(1983年5月)。同チームへは後年に、さらに後にプロ入りする古本武尊、当時には既に現役俳優池松壮亮の二人が同学年として在籍する。キャプテンエース4番打者の新庄は目立ちたがり屋で、ノーステップでのジャンピングスローをよくやっていたという。同チームのコーチを買って出た新庄の父親はここでも手加減なしで、至近距離の猛ノックを浴びせ、新庄は泣きながらも最後までこれについていき、その様子は、監督が「子供がかわいそうなくらい厳しく見ていられない時もあった」と語ったほどである。同チームは結成後1か月余りで福岡県大会(出場64チーム)の第3位に入賞する。

福岡市立長丘中学校時代には軟式野球部に所属。当時の監督も新庄の小学時から走力・肩力が桁外れと評すなど実力を認めていたが、一度だけ試練を与えるため、2年時の全国中学校軟式野球大会ベンチ入りメンバーから外す。大会遠征から帰宅した新庄は自室に閉じこもり泣いていたというが、「監督は恩人」とプロ入り後に振り返っている。

1987年、高校は父親からの薦めもあり西日本短期大学附属高等学校へ一般生として入学し、硬式野球部員として寮生活を送る。同部には2学年先輩として後にプロ入りする石貫宏臣柴原浩が、2学年後輩として後に社会人野球選手からプロボクサーとなる荒木慶大が在籍。3年時の1989年1番中堅手として挑んだ第71回全国高等学校野球選手権福岡大会の4回戦・筑紫丘戦(久留米市野球場)で、練習試合を含む高校時代初のサヨナラ安打を記録(8回コールドゲーム)。決勝の福岡大大濠戦(久留米)では、生涯初のサイクル安打を達成するも敗戦。高校時代に部の全国大会出場は叶わず。

同年のプロ野球ドラフト会議にて阪神タイガースから5位指名を受ける(外野手として)。この際の能力評価は横溝桂スカウトによると「打力:B、走力:A、肩力:特選A」であり、横溝のスカウト歴で高校生選手の肩に「特選A」をつけたのは新庄のみである。新庄がファンであった読売ジャイアンツ(以下:巨人)のスカウトからは「3位までには指名できる」と告げられていたこともあり、新庄父子ともに順位の低さを憂いて入団するかどうかを検討する(指名を受けられなかった場合は、九州産業大学への推薦入学が決定していた)。そして最終的に父親から「お前が行けなかった甲子園でプレーできるだろう」と助言を受けたことにより決意して入団する。なお新庄を担当した阪神のスカウトは渡辺省三であり、後述のエピソードを参照。背番号は「63」と決まる。

阪神時代

 | 
この節の加筆が望まれています。

1990年 - 1991年
1年目の1990年は二軍で過ごし、腰痛の影響もあり出場36試合・打率.074(安打2)・本塁打および打点なし。守備は中堅手から、シーズン中に自らコンバートを志願して内野遊撃手へ転向する。9月から11月にはフロリダ州レイクランドでの秋季教育リーグへ派遣される。1991年も秋口まで二軍で過ごし、キャリアにおいて唯一となる二軍規定打席に到達して打率.246・本塁打9・打点39を記録。そして一軍監督中村勝広ら首脳陣により見いだされ、9月9日に初の一軍昇格。翌10日、東京ドームでの巨人戦で9回表の代打としてプロ初出場を果たし、香田勲男から初打席初安打初打点を記録する。16日、広島市民球場での広島東洋カープ戦で7番・遊撃手としてプロ初先発出場

亀新フィーバー

詳細は「亀新フィーバー」を参照
1992年
この年より守備位置登録が内野手へ変更となる。3月に欧州で実施予定であったバルセロナオリンピック野球キューバ代表壮行試合の対戦チームメンバーに選出されるも、キューバ代表側の都合で遠征中止となる。シーズン開幕は二軍となり、40人枠(当時)からも外れるも、同枠の中に故障者が出た場合の特例として4月に嶋田章弘と入れ替わる。5月に一軍の主砲で三塁手トーマス・オマリーが故障離脱したのを機に、急遽の三塁守備練習後に昇格し、26日の横浜大洋ホエールズ戦(阪神甲子園球場)で7番・三塁手としてこの年の初出場。第1打席で有働克也の初球を左翼席へプロ初本塁打してこれが決勝打となり、初のヒーローインタビューを受ける。この初本塁打をはじめとして、2日後の初代「ミスタータイガース」と称される藤村富美男が亡くなった日のナイターで決勝打を含むプロ初猛打賞を記録し、シーズン初出場から12試合連続安打、得点圏打率10割を保った期間もある活躍などにより、次代のミスタータイガースとなることを期待するマスコミの記事が出始める。そして一軍に定着して「(虎の)プリンス」という愛称が浸透してゆく。この年の打順は主に5 - 7番。守備は遊撃手を経て、7月4日に一軍では初めて就いた中堅手に定着する(NPBでの公式戦の外野守備は全て中堅)。7月17日のジュニアオールスターゲーム(東京ドーム)に遊撃手として出場。9月16日、優勝争いが山場を迎えていた広島戦(甲子園)の両チーム無得点8回表二死満塁の守備で、山崎隆造の右中間へのライナーを中堅から走り込みダイビングキャッチしてピンチを防ぎ、そのまま0-0で迎えた9回裏の攻撃では大野豊からプロ初サヨナラ安打となる本塁打を放つ(後述も参照)。試合後のヒーローインタビューでは「優勝です!」と宣言する。
前述のようにこの年、前年まで低迷していたチームは最終戦の1試合前まで優勝争いをする(最終順位は2位)。この躍進は、右中間守備コンビを組む亀山努らと共に活躍したことから亀山・新庄の頭文字をとり「亀新フィーバー」と称される。当時に入寮している球団寮・虎風荘(当時は甲子園球場に隣接)へ届く新庄宛のファンレターは1日につき段ボール1個分あったという。また寮や新庄の行く先々へ連日殺到する若い女性ファンを指して「新庄ギャル」と報道され、寮の前の混雑により球場からの帰寮もままならない状況となった際には、梅本正之寮長などが新庄をホテルへ一時的に住まわせるなどの対策を施す。シーズン打率.278・本塁打11を記録するも規定打席に僅かに及ばず、新人王を選定する記者投票でも同僚の久慈照嘉に5票及ばず次点となる。11月の日米野球に初出場してロジャー・クレメンスとも対戦するも無安打に終わる。翌1993年の年俸は当年の520万円から2200万円に上がり、323%増の昇給率は当時の球団歴代最高である(2007年→2008年の桜井広大が346%で更新。金額・昇給率は推定。)。
1993年
この年より背番号を「5」に変更。打席時応援歌北村照文金森永時と背番号5の外野手に引き継がれている曲に変更され退団まで使用される。春季キャンプより再び遊撃手へコンバートされるもキャンプ中にコンバート中止となる(後述)。2月下旬のオープン戦でのヘッドスライディングの際に左肩を故障した影響でシーズン初出場は5月中旬となり、中堅手として2番と7番以降を除く打順で起用される。10月1日、甲子園での中日ドラゴンズ戦でプロ初の先発4番打者として出場。21歳8か月3日での先発4番は球団歴代最年少記録である(2017年終了時点)。この年に初めての規定打席へ到達。初のシーズン100安打も達成(高卒4年目までの達成はドラフト制以降の球団史上3人目)して打率.257、オマリーと並びチーム最多の23本塁打を記録し、ベストナイン初受賞。守備ではリーグ外野手最多13補殺(キャリア最多タイ)を記録しゴールデングラブ賞初受賞。
1994年
この年より外野手登録へ戻り、そのままキャリアを終える。1番中堅で開幕して、その後打順は6番・7番・3番で起用される。自身の後援会「新庄会」発足記念の「新庄ナイター」となった5月13日のヤクルトスワローズ戦(甲子園)で、高津臣吾からプロ初となるサヨナラ満塁本塁打を記録。7月のオールスターゲームにファン投票セ・リーグ最多得票で初選出され、第1戦(西武ライオンズ球場)にて代走として初出場し、球宴初盗塁を記録。この年は石嶺和彦と並びチーム最多の17本塁打、同じくチーム最多の205塁打を記録。守備ではリーグ外野手最多289刺殺(キャリア最多)を記録しゴールデングラブ賞受賞。
1995年
中村監督が途中休養となり藤田平代行となる中、主に6・7番中堅で起用され、当年のみチームに復帰した山内一弘打撃コーチの指導のもとで打撃フォーム改造を試みる。
本塁打性打球が応援旗に当たり二塁打と判定
6月20日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)にて、1点差を追う9回表の先頭打者として佐々木主浩から放った左翼フェンス最上部付近への大飛球が、観客により振られている応援旗(新庄の名前入り)に包まれた後にグラウンドへ落下。そして内野へと送球され、その間に新庄は三塁まで達する。この出来事に対し審判団は協議の末、公認野球規則3.16(妨害と同時にボールデッド。審判員は妨害がなければ競技はどのような状態となったかを判定するとの旨)に従い、二塁打と判定する。妨害がなければ柵越えしていたかどうかは微妙であり、阪神側の抗議後に審判員からの場内説明がなされると、左翼席からグラウンドへ多量のメガホンやごみに加え、太鼓・ごみ箱なども投げ込まれ、侵入者もでる事態となり、出場選手は一旦ベンチへ引きあげる。中断後、試合はそのまま敗れる。この件について自身は2年後の取材では「一生懸命応援してくれているので仕方ないですよ」と語る(なお後の北海道日本ハムファイターズ時代2004年4月にも、自身の大飛球を東京ドーム右翼席最前列の観客により捕られた際に、同様の二塁打の判定がなされている〈「幻の本塁打一覧」を参照〉)。
この年は右足関節捻挫・右膝打撲などで出場選手登録抹消を繰り返し規定打席に到達できず、この年から打率が4年連続して2割4分を切る。
引退騒動
オフの11月19日、契約更改交渉後会見にて「野球に対するセンスがないって見切った」と突然の現役引退宣言を行う。予想される真の引退理由として報じられた当オフの出来事は、故障の治療に専念しようとしていた時に藤田平・新監督により四国黒潮リーグへ出場させられた件や、慕っている柏原純一打撃コーチの退団により球団への不信感を募らせて、横浜ベイスターズへのトレードを志願するも拒否された件などである。新庄は引退宣言を撤回するよう川島廣守セ・リーグ会長や渡辺省三スカウト(後述を参照)などからも説得を受け、宣言後に父親の病気が悪化したことを母親より伝え聞き、最終的に父親を勇気づけるために現役続行を決断。21日に宣言を撤回して契約更改した後の会見にて「ユニフォームを着ている姿を見せるのがオヤジへの一番の薬だと思ったんです。自分の人生どうこうじゃなく、命にはかえられませんから」と説明し謝罪する。なお新庄は球団へ引退を申し入れるにあたり、地元福岡の後援会「福岡剛虎会」からの了解を得るなどの手続きを踏んでいる。また引退宣言の際の「センスがない」発言については、著書に「1995年シーズン中に足首の故障で二軍落ちしていた練習日に、故障状態の深刻さから自身で判断して開始時間に合わせグラウンドへではなくトレーナー室へ行った行動について、当時二軍監督であった藤田から頭ごなしに遅刻であると咎められた際に正座の罰を受けた件をきっかけに、藤田とは野球観が合わないと考えるようになっていった。しかしどうせ辞めるのなら人のせいにはしたくないとの考えから、発表する理由を『センスがない』にすれば打撃成績も悪かったのである程度は納得してもらえると思った」との旨を記している(「藤田平#引退後」も参照)。この騒動の頃より、プロ1年目のアメリカ・教育リーグでの経験をきっかけに抱きだしたMLBへの移籍志望が強くなる(志望の旨は騒動以前に球団へ伝達済み)。引退を宣言した他の理由として、後年の取材では「引退して野茂さん(野茂英雄)のように大リーグに挑戦したい気持ちもあった」と告白している。なお翌1996年の年俸はプロ入り以来初の減額となる。
1996年
開幕より5月下旬まで1番中堅。その後打順は9月上旬までは主に6・7番、そして藤田監督が途中休養に入り、柴田猛代行から4番で起用される。4月の中旬に自身初の4試合連続本塁打、29日からの横浜3連戦1・3戦目の2試合で初回先頭打者本塁打(1戦目が自身初の先頭打者弾)を記録。10月9日のシーズン最終戦(対中日・甲子園)1回裏には、4番の自身と9番(代打)の塩谷和彦が満塁本塁打を共に金森隆浩から放ち、チーム1イニング2満塁本塁打というNPB史上初の記録を残す。シーズン打率.238・本塁打19。共にキャリア最高となる四球55・出塁率.335を記録する。ゴールデングラブ賞受賞。オフに派遣され所属したハワイ・ウィンターリーグヒロ・スターズには、後に日本ハムで再び仕えるトレイ・ヒルマンが監督として、ニューヨーク・メッツ(2001年)で再び同僚となるベニー・アグバヤニが選手として在籍していた。
1997年
吉田義男新監督のもと5月下旬まで3番中堅。その後打順は1番・7番・6番・5番で起用される。
応援ボイコット
7月のオールスターゲームにファン投票外野手部門第2位で選出され、シーズン打率2割1分台の状態で出場するが、第1戦(大阪ドーム)で自身の打席ごとのセ・リーグ応援団による応援ボイコットと一部の観客による「新庄帰れ」コールが起こる。自主的に応援する者もいたが、ペットボトル・メガホンがグラウンドへ投げ入れられたことによる試合中断もあり、スタンドのある横断幕には「新庄剛志 そんな成績で出場するな 恥を知れ」と書かれていた。この件について自身は後年の現役引退会見においても「あの時のショックな気持ちは未だに忘れない。(自身は引退するが)選手は一生懸命プレーしているので、例え不調であっても応援して欲しい」という旨を訴えている。また当試合後のエピソードも参照。
この年は公式戦でも自身のみへの応援ボイコットを受け、クリーンナップを組んだ桧山進次郎と共に三振を量産する(キャリア最多120三振)。キャリア唯一となるシーズン全試合出場を果たし、本塁打は20本記録して4年ぶりの20本台となる。守備ではリーグ外野手最多13補殺(キャリア最多タイ)を記録しゴールデングラブ賞受賞。オフにTBSスポーツマンNo.1決定戦 第4回プロスポーツマン大会』へ出場し、MONSTER BOX(巨大跳び箱)に挑んだ際に跳び箱で左膝を強打負傷。残りの競技をリタイアし、その後のゴールデングラブ賞授賞式では立っているのも辛い状態となる。
1998年
6番中堅で開幕して、その後打順は7・8番など主に下位で起用される。この年はオープン戦のセ・リーグ・スター大賞を受賞するもシーズンでは極度の打撃不振に陥り、通算100本塁打まで残り3本としての開幕であったが、シーズン1号および記念本塁打達成は7月となる。10月8日に甲子園で横浜がリーグ優勝を決めた試合では、最終回二死から佐々木主浩の前に空振り三振に倒れ、最後の打者となる。シーズン打率.222(リーグ規定打席到達者最低)・本塁打6・打点27と、それぞれ規定打席到達年度ではキャリア最低となる。守備ではリーグ外野手最多タイ12補殺を記録しゴールデングラブ賞受賞。翌1999年の年俸はプロ入り以来2度目の減額となる。
投手挑戦
詳細は「#投手挑戦」を参照
秋季キャンプから野村克也新監督の発案により、外野手との兼務(二刀流)を目指して投手としての練習を開始する。
1999年
オープン戦の2試合に登板するも左膝を痛めたため、投手挑戦を断念する。
この故障によりシーズン初出場は4月中旬となり、左太股痛も抱えながらシーズンを送る。1990年代後半から現役引退まで、ほぼ常に脚・腰・右腹直筋などの中のどこかに故障を抱えることとなる。3番中堅で多く起用されるが、打順は4番・6番・8番など特に変動が激しい年となる。5月27日、首位攻防の中日戦(富山市民球場アルペンスタジアム)にて、三重殺(無死一二塁から三塁ゴロ)をとられたり、守備では満塁からの中前安打を後逸し3失点となる失策を犯した後、7点を追う攻撃でチーム初得点となる2点本塁打を放つなど二度得点に絡み、さらに6-7と1点差まで追い上げた最終回の攻撃では宣銅烈から9球粘り中前安打して一打同点の場面をつくる。結果チームは敗れ「僕のせいで負けた」と語り、良くも悪くも目立ったこの試合は、数週間後に敬遠球をサヨナラ安打した試合(後述)と共に「新庄デー」などと報じられ、当時の新庄の代表的エピソードとして取り上げられる。
敬遠球をサヨナラ安打
6月12日、首位攻防の巨人戦(甲子園)12回裏同点一死一三塁の攻撃(投手:槙原寛己、捕手:光山英和)で、敬遠球を打ちサヨナラ安打を記録。初球の外角への外し方がやや甘い投球を見逃し、自身は「これくらいの球(外し方)なら打てる」と感じ2球目の同様の投球を打ち、三遊間を抜いて左翼前へ転がした。外し方の甘い投球が来るように、初球の前よりバッターボックス内の三塁側の白線付近で構えておき、遊撃手が二塁ベース寄りに守っていて大きく空いた三遊間を狙ったという。巨人側から「打つ際に踏み込んだ左足がバッターボックスからはみ出しており反則打球ではないか」という抗議があったが、球審の田中俊幸は「バッターボックスの白線に左足のかかとは残っていた(はみ出した足が白線を踏んでいれば反則打球にはならない)」とこれを退けた。自身は実行3日前の広島戦で敬遠された際にバットを出せば届くのではないかと感じ、予め柏原純一打撃コーチ(現役時代に敬遠球を打ち本塁打にした経験がある)、尻無浜啓造打撃投手と大きく外された投球を打つ練習を行っていた。また野村監督とも柏原を通し状況により実行許可のサインをもらえるよう打合せていて、実行直前にサインが出されていた。なお巨人側のこの敬遠策は走者三塁となったための満塁策であるが、前イニング同点の場面での阪神の攻撃においても先頭・新庄の三塁打が出たため満塁策がとられ、後続は三者凡退するという経緯があった。新庄のこのプレーは引退後の2015年に行われた阪神球団創設80周年特別企画でのファンに対するインターネットアンケート「思い出のシーン ベスト10」にて第6位に選出される。この試合では他にも、リードされた直後の8回の攻撃で同点ソロ本塁打を放つなど、6打数4安打2打点を記録。12回の守備では、前回の攻撃での代打起用で内野手が足りなくなった事情でプロ初の二塁に就く。ヒーローインタビューでは、最後の質問に対して「明日も勝つ!」と宣言し、そのままお立ち台を離れ自らインタビューを締める。しかし翌13日の同対戦でチームは敗戦。自身も前夜から一転して上原浩治から3打席連続三振を喫するなど5打数無安打に終わる。自身は前夜の取材では、敬遠球を打つのは一度きりと宣言していたが、この日の試合前にも大きく外された投球を打つ練習を行っている。以降しばらくの間、新庄を敬遠する際には相手捕手が投手に対して投球前ごとに大きく外すようジェスチャーを送る姿が見られる。
7月のオールスターゲーム第2戦(甲子園)で黒木知宏から記録した自身球宴初安打が、全セ・リーグ通算1000本目の安打となる。第3戦・2リーグ制発足50周年記念試合(倉敷マスカットスタジアム)では岩本勉から球宴初本塁打を放つなど全セの全2打点を記録して、初のMVPを獲得(「新庄劇場#阪神時代」も参照)。9月10日の巨人戦(甲子園)で決勝本塁打を放ち、再びお立ち台で「明日も勝つ!」と宣言するも、今度は翌日から12連敗(球団歴代最長タイ〈2016年終了時点〉)を喫する。この年はチームに復帰した恩師である柏原打撃
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出典:wikipedia
2018/07/05 16:48

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