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新羅とは?

新羅国
新羅國


 | 前57年 - 935年 | 



(新羅の印章)

三国時代後半の576年頃の半島
公用語 新羅語
(古代朝鮮語のひとつ)
宗教 仏教儒教道教巫俗
首都 金城(クムソン、現慶州市)
新羅王
紀元前57年 - 4年 赫居世居西干
【927年 - 935年】
敬順王
変遷
建国 紀元前57年
【仏教伝来】
530年
真興王の領土拡大 551年 - 585年
【半島統一】
676年
【滅亡】
935年

【現在】
韓国
北朝鮮
  1. ^ 『旧唐書』新羅伝
  2. ^ 舊唐書/卷199上
【新羅】

【各種表記】

ハングル: 신라
漢字: 新羅
発音: シ
日本語読み: しらぎ/しんら
ローマ字: Silla
 |  |  |  |  |  |  |  | 

朝鮮の歴史
考古学 | 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 AD
伝説 | 檀君朝鮮
史前 |  | 箕子朝鮮
 |  |  | 
辰国 | 衛氏朝鮮
原三国 | 辰韓 | 弁韓 | 漢四郡
馬韓 | 帯方郡 | 楽浪郡 | 
 |  | 

三国 |  | 伽耶
42-
562
 | 百済
前18-660 | 高句麗
前37-668
新羅
前57-
南北国 |  | 熊津安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892 | 安東
都護府
668-756 | 渤海
698
-926
後三国 | 新羅
-935 | 
百済

892
-936
 | 後高句麗
901
-918
 |  | 女真
統一
王朝
 | 高麗 918- | 
 | 遼陽行省
(東寧双城耽羅)
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 | 日本統治 1910-1945
現代 | 連合軍軍政期 1945-1948
大韓民国
1948- | 朝鮮民主主義
人民共和国

1948-

Portal:朝鮮

新羅(しらぎ/しんら、シルラ、前57年 - 935年)は、古代朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ、サロ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。

朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代(さんごくじだい)、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代(とういつしらぎじだい)、新羅から後高句麗後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代(ごさんごくじだい)という。ただし1970年代以降の韓国では、渤海朝鮮民族の歴史に組み込む意図(朝鮮の歴史観)から、統一新羅時代を南北国時代(なんぼくこくじだい)と称しているので注意が必要である。

目次

  • 1 概要
  • 2 呼称
  • 3 起源
    • 3.1 建国年
    • 3.2 斯蘆国の時代
    • 3.3 朝貢・服属に関して
    • 3.4 「秦韓」と秦の移民政権問題
    • 3.5 新羅王
    • 3.6 新羅金氏王族の匈奴渡来説
  • 4 建国神話
    • 4.1 朴氏の始祖説話
      • 4.1.1 朴氏王朝目録
    • 4.2 昔氏の始祖説話
      • 4.2.1 昔氏王朝目録
    • 4.3 金氏の始祖説話
  • 5 新羅の起源をめぐる隣国での諸説
    • 5.1 日本での伝承
    • 5.2 中国での伝承
  • 6 歴史
    • 6.1 上代
      • 6.1.1 日本との関係
    • 6.2 中代(654〜780年)
    • 6.3 新羅の半島統一
      • 6.3.1 唐の関係
      • 6.3.2 内政と社会情勢
      • 6.3.3 日本との関係
    • 6.4 下代(780〜935年)
      • 6.4.1 恵恭王の時代
      • 6.4.2 宣徳王
      • 6.4.3 元聖王
      • 6.4.4 哀荘王の時代
      • 6.4.5 憲徳王の時代
        • 6.4.5.1 飢饉と地方豪族の反乱
        • 6.4.5.2 日本への賊徒侵攻と弘仁新羅の乱
      • 6.4.6 金憲昌・梵文の反乱
      • 6.4.7 興徳王の時代
        • 6.4.7.1 遣唐使船保護に関する日羅外交
      • 6.4.8 張保皐の乱
      • 6.4.9 景文王
        • 6.4.9.1 日本への賊徒侵攻
      • 6.4.10 憲康王
        • 6.4.10.1 日本への賊徒侵攻
      • 6.4.11 真聖女王
        • 6.4.11.1 日本への賊徒侵攻
    • 6.5 後三国時代
      • 6.5.1 高麗の建国
      • 6.5.2 後百済の政変と新羅滅亡
  • 7 民族
  • 8 王
  • 9 六部
  • 10 政治機構
    • 10.1 官位制度
  • 11 地方行政区分
    • 11.1 九州
    • 11.2 五小京
  • 12 交通
  • 13 文化
  • 14 仏教
  • 15 遺跡
  • 16 補注
    • 16.1 註釈
  • 17 関連項目
  • 18 参考文献
  • 19 外部リンク

概要

『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。

6世紀中頃に半島中南部の加羅諸国を滅ぼして配下に組み入れた。唐が660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした時には、新羅は唐軍指揮下で参軍した(羈縻支配)。その後、唐が吐蕃と戦争を始めると、反乱を起こして旧百済領全土と旧高句麗の南半分を統治する唐の役所を襲撃して官員を殺戮し(唐・新羅戦争)朝鮮半島の中南部を統一した。首都はほぼ金城(現在の慶尚北道慶州市)にあった。9世紀末には新羅の国力は衰え、百済・高句麗の再興を図る勢力が出て後百済後高句麗との鼎立による後三国時代となり、最終的には後高句麗から起こった高麗に帰順して新羅は滅亡した。

新羅の歴史は、『三国史記』新羅本紀・敬順王紀に記されるように、始祖から第28代真徳女王末年(654年)までを上代、第29代武烈王(金春秋)即位から第36代恵恭王末年(780年)までを中代、第37代宣徳王から滅亡までを下代と分類する。

呼称

当初の「斯蘆」という文字の発音は現代日本語では「しろ」、現代朝鮮語では「サロ」だが、漢字の上古音では「シラ」である。

日本語では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だった。万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音である。これは元来「新羅城」の意味であり、新羅の主邑を指す用語が国を指す物に変化したのではないかという説がある。

起源

建国年

三国史記』「新羅本紀」冒頭の記述に従うと、新羅の建国は前漢孝宣帝五鳳元年、甲子の年であり、西暦に直すと紀元前57年となる。これはいわゆる古代朝鮮の3国(高句麗百済・新羅)の中で最も早い建国であるが、末松保和らの研究によって後世に造作されたものであることが明らかにされている。初期の時代における『三国史記』「新羅本紀」の記載は伝説的色彩が強いが、韓国の学界においては20世紀半ば頃にはこれを史実とする見解が出され、20世紀後半以降には紀年の修正はされているものの出来事は事実が反映されているとし、紀年の修正を行って建国年を3世紀前半まで引き下げる説などが提出されている。しかし、これらは具体的な論拠を欠き説得力に乏しいと評される。

実際に新羅が外国史料にあらわれるのは『三国史記』で物語るよりも、はるかに後の時代であり、中国史料に確認できる新羅の初出記事は、『資治通鑑』巻104・太元2(377年)年条にある、高句麗とともに前秦朝貢したという記事である。中国史料では、高句麗、百済、新羅の順に登場する。『三国史記』において高句麗の建国よりも新羅の建国が早く設定されたのは、著者の金富軾が、慶州出身で新羅王家の一族だったためであると考えられる。金富軾は、新羅王家の一族だったが、高麗王家に仕えて、平壌が高麗から独立した反乱を鎮圧して武勲を上げた人物であった。

『三国史記』が新羅の建国年を紀元前57年としたのは次の論理によると見られる。まず、『漢書』等の記録によれば紀元前108年に、漢の武帝朝鮮半島漢四郡を設置し、昭帝紀元前82年に朝鮮半島南部の真番郡を廃止した。その後最初におとずれる甲子の年(六十干支の最初の年)が紀元前57年となる。それ以前に設定した場合、朝鮮半島の大部分に前漢の郡が設置されていたという記録と衝突してしまうため、これより遡って建国年を設定できなかった。つまり、金富軾は可能な限り古い時代に新羅の建国年を置こうとしたが、紀元前57年がテクニカルな限界であった。

斯蘆国の時代

3世紀ごろ、半島南東部には辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。辰韓の「辰」は斯蘆の頭音で、辰韓とは斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。新羅は、この斯蘆国が発展して基盤となって、周辺の小国を併せて発展していき、国家の態をなしたものと見られている。

4世紀から5世紀にかけての新羅と百済は、高句麗に比べて、国力も領土も弱小であったことに注意すべきであると武光誠は指摘している。当時、新羅領土の2倍である百済があった。また、新羅にとっては北部九州中国四国近畿地方、更には朝鮮半島南部までもを領有していた大和朝廷も脅威であった。

三韓征伐」も参照

朝貢・服属に関して

帰属に関する歴史論争の詳細は「東北工程」及び「辰韓」も参照。

太平御覧』で引用する『秦書』には、377年前秦に初めて新羅が朝貢したと記されており、382年には新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)の朝貢が行われ、その際に新羅の前身が辰韓の斯盧国であることを前秦に述べたとされる。この「楼寒」については王号の「麻立干」を表すものと見られ、該当する王が奈勿尼師今に比定されている。記述から奈勿尼師今の即位(356年)が新羅の実質上の建国年とも考えられている。職貢図では、あるときはの属国であり、あるときはの属国であったと記述されている。

斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉

斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときはに属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して初めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。

また、広開土王碑中原高句麗碑には、時期によって倭、高句麗によって支配を受けていたと書かれている。

「秦韓」と秦の移民政権問題

中国政府のシンクタンクである中国社会科学院は新羅について「中国のの亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している。また、中国の歴史学者の李大龍は、新羅の前身である辰韓は秦韓とも呼ばれ、中国の秦の人が建てた国だから、新羅は中国民族が建てた国だと主張している。

なお、『後漢書』巻85辰韓伝では、以下のように記載される。

耆老自言秦之亡人,避苦役,適韓國,馬韓割其東界地與之。其名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴,相呼為徒,有似秦語,故或名之為秦韓。

〈辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。〉

三国志』魏書巻30辰韓伝では、以下のように記載される。

辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。

〈辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している〉。

晋書』巻97辰韓伝では、以下のように記載される。

辰韓在馬韓之東,自言秦之亡人避役入韓,馬韓割其東界以居之,立城柵,言語有類秦人,由是或謂之爲秦韓。

〈辰韓は馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって来た秦の逃亡者で、馬韓が東界の地を割譲したので、ここに居住したのだと自称している。城柵を立て、言語は秦人に類似しているため、あるいはこれを秦韓とも言う。〉

これらの中国資料によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国という。

また、『北史』巻94新羅伝では、以下のように記載される。

新羅者,其先本辰韓種也。地在高麗東南,居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適,馬韓割其東界以居之,以秦人,故名之曰秦韓。其言語名物,有似中國人。

〈新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高句麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている。〉

水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べている。

辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。

当初は様々な書き方をしていたのを6世紀に正式に「新羅」という表記に統一した。

新羅王

三国遺事』巻三・皇龍寺九層塔条には、

慈藏法師西學。乃於五臺感文殊授法、文殊又云、汝國王是天竺刹利種。王預受佛記。故別有因緣。不同東夷共工之族。

とあり、新羅王はクシャトリヤであり、東夷種族とは異なると主張している。

新羅の王族は一般的に自分たちを少昊金天氏の子孫であるとしていた。

新羅金氏王族の匈奴渡来説

1954年山西省で発見された大唐故金氏夫人墓銘(朝鮮語: 대당고김씨부인묘명)文武王陵碑や新羅の各種金石文などでは、新羅の金氏王族が匈奴から渡来してきたと記録されている。また、韓国の研究者の中には、積石木槨墳(新羅の墓制)の副葬品遊牧民族の副葬品との類似を指摘する意見がある。したがって韓国には、新羅の金氏王族が匈奴から渡来した或いは新羅人は匈奴の血を引いているなどの主張をする人物がいる。これについて、韓国公共放送局KBSドキュメンタリーを報道したこともある。

建国神話

千里馬。大陵苑(テヌンウォン)、天馬塚(チョンマチョン)から出土、5-6世紀頃、国立中央博物館所蔵、慶州

三国史記』新羅本紀によれば、朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系があること、そしてそれぞれに始祖説話を持っていることが伺える。新羅はこの3王統により何度か王朝交代が起きており、それぞれの王統が王位を主にしめていた時代を朴氏新羅(初代赫居世居西干〜)・昔氏新羅(57年・第4代脱解尼師今〜)・金氏新羅(356年・第17代奈勿尼師今〜)と呼ぶ。なお、昔氏新羅時代に初代金氏の王である第13代味鄒尼師今が、また金氏新羅時代には第53代神徳王から3代だけ朴氏から王が出ている。

朴氏の始祖説話

朴氏初代の朴赫居世
辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。建国時に腰に瓠をぶら下げて海を渡って来たことから瓠公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になった。また、瓠公が、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公と朴赫居世を同定する、またはその同族とする説がある。朴赫居世は紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐とした。また、閼英井(南山の北西麓の羅井に比定される)に龍(娑蘇夫人)現れ、その左脇(『三国史記』では右脇)から生まれた幼女が長じ、容姿端麗にして人徳を備えていたので朴赫居世は彼女(閼英夫人)を王妃に迎えた。人々は赫居世と閼英夫人とを二聖と称した。『三国史記』と『三国遺事』によると、朴赫居世と閼英夫人はともに中国から辰韓に渡来した中国の王室の娘娑蘇夫人の子である。

朴氏王朝目録

# 代数 称号 諡号 諱 在位期間 その他
朴氏王朝 | 1 | 赫居世居西干 |  | 赫居世 | 紀元前57年-4年 | 朴氏の始祖
2 | 南解次次雄 | 南解 | 4年-24年 | 
3 | 儒理尼師今 | 儒理 | 24年-57年 | 
 | 5 | 婆娑尼師今 | 婆娑 | 80年-112年 | 
6 | 祇摩尼師今 | 祇摩 | 112年-134年 | 
7 | 逸聖尼師今 | 逸聖 | 134年-154年 | 
8 | 阿達羅尼師今 | 阿達羅 | 154年-184年 | 

昔氏の始祖説話

昔氏初代の昔脱解(第4代脱解尼師今)
倭国東北一千里のところにある多婆那国(現在の兵庫北部等の本州日本海側と比定される)の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。
多婆那国の比定地

この脱解の出身地である多婆那国は、脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、日本列島内の地域に比定されている。比定地は、丹波国但馬国肥後国玉名郡などの説がある。『三国遺事』では龍城国とされる。韓国では龍城国を先住民族アイヌの部族国家とみて、脱解をアイヌとみる説もある。

昔氏王朝目録

# 代数 称号 諡号 諱 在位期間 その他
昔氏王朝 | 4 | 脱解尼師今 |  | 脱解 | 57年-80年 | 昔氏の始祖
9 | 伐休尼師今 | 伐休 | 184年-196年 | 
10 | 奈解尼師今 | 奈解 | 196年-230年 | 
 | 11 | 助賁尼師今 | 助賁 | 230年-247年 | 
12 | 沾解尼師今 | 沾解 | 247年-261年 | 
14 | 儒礼尼師今 | 儒礼 | 284年-298年 | 
15 | 基臨尼師今 | 基臨 | 298年-310年 | 
16 | 訖解尼師今 | 訖解 | 310年-356年 | 

金氏の始祖説話

金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)
脱解尼師今の治世時に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。また、このことに合わせて始林の地を鶏林と改名した。

赫居世神話に現れる六村はのちの新羅六部の前身であると見られており、これらの部と王統がそもそも結びついていないことを示している。また3姓の始祖説話については、それぞれに誕生の形態が異なりながらも姓の由来を説くものであり、3つの有力な集団があって王位を持ちまわっていたということが窺い知れる。これらの始祖説話は紀元前後に繋年されたものではあるが、実際に新羅で姓が用いられるようになったのは6世紀からのことと見られており、後代に整備されたものであるとの可能性もある。いずれにせよ、複数の王統を持つことや、建国初期に倭人勢力との関わりを伝えることなど、高句麗百済の始祖説話体系とは異なり、新羅の特徴的事象となっている。

新羅の起源をめぐる隣国での諸説

日本での伝承

日本側では、稲飯命伝承とアメノヒボコ伝承がある。

稲飯命(古事記では「稲氷命」と書く)については、『新撰姓氏録』が新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとしているが詳細不明である。

天之日矛(日本書紀では天日槍と書く)については、記紀や風土記などに伝承がある。天之日矛は新羅の王子だったが王位を弟の「知古」に譲って自分は継がず、日本に帰化したという。彼は最終的に但馬(兵庫県豊岡周辺)に土着し、三宅連氏の祖先となった。天之日矛の渡来は古事記は応神朝、日本書紀は垂仁朝、風土記は神代のこととし、伴信友は天之日矛から多遅麻毛理までの世代数から計算して天之日矛の渡来は孝霊天皇の時代のことと推定している。いずれにしろ、なぜ新羅風の名前でなく純然たる和風の名前なのかは謎である。

天之日矛のルーツについては、日本側の伝承によれば日本から渡った稲飯命の開いた新羅王朝家の子孫である。また半島側の資料からも、新羅の王族である朴氏・昔氏・金氏の三始祖のうち昔氏の始祖脱解の出生については倭国東北1千里(当時の1里はおよそ500m)という。昔脱解は船で渡った倭人と見られ、その出生地は諸説あって現在の日本の但馬、丹波、肥後のいずれかの地域とされるが、但馬(兵庫県北部)と推定する向きが多く、天之日矛が祭られる豊岡と一致する。豊岡等の地域を基点に倭から半島へ、そして半島から倭へと倭人の移動があった可能性が比定される。

中国での伝承

隋書新羅伝によれば、3世紀の中頃、魏の将軍毌丘倹が高句麗を撃破し、高句麗王の憂位居(東川王)は沃沮に逃亡した。憂位居はその後、高句麗に帰還したが、沃沮に残留した部隊があり、彼らは南下して辰韓の先住者を破り新羅を建国したという。別の伝承によれば、その王はもと百済人で、海から逃げて新羅に入り、ついにその国に王となった。祚を伝えて真平王に至った。その先には百済に附庸していたが、のち百済が高句麗を征するのに因って、高句麗人は戎役に堪えられず、あい率いてこれに帰したので、ついに強盛を致し、因って百済を襲い、迦羅国を附庸とした。

歴史

以下本節の月日はすべて旧暦、年は当該旧暦年を西暦に単純置換したものである。

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三国時代、4~5世紀半ばの朝鮮半島
左は韓国の教科書で見られる範囲、右は日本の教科書で見られる範囲。半島西南部の解釈には諸説がある。

1145年に完成した『三国史記』の「新羅本紀」では、始祖から真徳女王までを上代武烈王から恵恭王までを中代宣徳王から敬順王までを下代と呼んでいる。一方日本の朝鮮史研究においては、新羅が半島を統一した時期を統一新羅時代と呼んでいる。

上代

新羅は長く高句麗に従属していたが、5世紀中頃からその支配下を脱却しようとしてこれと争うようになった。その傍らでは辰韓諸国に対する支配力を高め、加羅諸国の領有をめぐっては百済とも対抗する姿勢を明らかにし、ここに三国が相競う様相を顕われ始めた。さらには広開土王碑の銘文や日本の「三韓征伐」伝承にも垣間見られるように、新羅は倭国による断続的な侵攻にさらされ、その結果として何らかのかたちで倭国の支配下にあった期間もあったと考えられている。

倭・倭人関連の朝鮮文献」および「三国時代 (朝鮮半島)」も参照

「新羅本紀」による新羅の建国は前57年だが、実際の建国は356年と考えられている。以下は『三国史記』や『日本書紀』が記すそれぞれの王の治世における事績である。

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