このキーワード
友達に教える
URLをコピー

新羅とは?

新羅国
新羅國


 | 前57年 - 935年 | 



(新羅の印章)

三国時代後半の576年頃の半島
公用語 新羅語
(古代朝鮮語のひとつ)
宗教 仏教儒教道教巫俗
首都 金城(クムソン、現慶州市)
新羅王
紀元前57年 - 4年 赫居世居西干
【927年 - 935年】
敬順王
変遷
建国 紀元前57年
【仏教伝来】
530年
真興王の領土拡大 551年 - 585年
【半島統一】
676年
【滅亡】
935年

【現在】
韓国
北朝鮮
  1. ^ 『旧唐書』新羅伝
  2. ^ 舊唐書/卷199上
【新羅】

【各種表記】

ハングル: 신라
漢字: 新羅
発音: シ
日本語読み: しらぎ/しんら
ローマ字: Silla
 |  |  |  |  |  |  |  | 

朝鮮の歴史
考古学 | 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 AD
伝説 | 檀君朝鮮
史前 |  | 箕子朝鮮
 |  |  | 
辰国 | 衛氏朝鮮
原三国 | 辰韓 | 弁韓 | 漢四郡
馬韓 | 帯方郡 | 楽浪郡 | 
 |  | 

三国 |  | 伽耶
42-
562
 | 百済
前18-660 | 高句麗
前37-668
新羅
前57-
南北国 |  | 熊津安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892 | 安東
都護府
668-756 | 渤海
698
-926
後三国 | 新羅
-935 | 
百済

892
-936
 | 後高句麗
901
-918
 |  | 女真
統一
王朝
 | 高麗 918- | 
 | 遼陽行省
(東寧双城耽羅)
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 | 日本統治 1910-1945
現代 | 連合軍軍政期 1945-1948
大韓民国
1948- | 朝鮮民主主義
人民共和国

1948-

Portal:朝鮮

新羅(しらぎ/しんら、シルラ、前57年 - 935年)は、古代朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ、サロ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。

朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代(さんごくじだい)、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代(とういつしらぎじだい)、新羅から後高句麗後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代(ごさんごくじだい)という。ただし1970年代以降の韓国では、渤海朝鮮民族の歴史に組み込む意図(朝鮮の歴史観)から、統一新羅時代を南北国時代(なんぼくこくじだい)と称しているので注意が必要である。

目次

  • 1 概要
  • 2 呼称
  • 3 歴史
    • 3.1 起源と神話
      • 3.1.1 朴氏の始祖説話
      • 3.1.2 昔氏の始祖説話
      • 3.1.3 金氏の始祖説話
    • 3.2 新羅の登場と時代区分
    • 3.3 周辺諸国と新羅
    • 3.4 新羅の発展
    • 3.5 中国の発展と三国時代の終焉
    • 3.6 唐の排除と渤海の台頭
    • 3.7 内政と社会情勢
      • 3.7.1 日本との関係
    • 3.8 下代(780〜935年)
      • 3.8.1 恵恭王の時代
      • 3.8.2 宣徳王
      • 3.8.3 元聖王
      • 3.8.4 哀荘王の時代
      • 3.8.5 憲徳王の時代
        • 3.8.5.1 飢饉と地方豪族の反乱
        • 3.8.5.2 日本への賊徒侵攻と弘仁新羅の乱
      • 3.8.6 金憲昌・梵文の反乱
      • 3.8.7 興徳王の時代
        • 3.8.7.1 遣唐使船保護に関する日羅外交
      • 3.8.8 張保皐の乱
      • 3.8.9 景文王
        • 3.8.9.1 日本への賊徒侵攻
      • 3.8.10 憲康王
        • 3.8.10.1 日本への賊徒侵攻
      • 3.8.11 真聖女王
        • 3.8.11.1 日本への賊徒侵攻
    • 3.9 後三国時代
      • 3.9.1 高麗の建国
      • 3.9.2 後百済の政変と新羅滅亡
  • 4 民族
  • 5 王
  • 6 六部
  • 7 政治機構
    • 7.1 官位制度
  • 8 地方行政区分
    • 8.1 九州
    • 8.2 五小京
  • 9 交通
  • 10 文化
  • 11 仏教
  • 12 遺跡
  • 13 補注
    • 13.1 註釈
  • 14 関連項目
  • 15 参考文献
  • 16 外部リンク

概要

『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。

6世紀中頃に半島中南部の加羅諸国を滅ぼして配下に組み入れた。唐が660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした時には、新羅は唐軍指揮下で参軍した(羈縻支配)。その後、唐が吐蕃と戦争を始めると、反乱を起こして旧百済領全土と旧高句麗の南半分を統治する唐の役所を襲撃して官員を殺戮し(唐・新羅戦争)朝鮮半島の中南部を統一した。首都はほぼ金城(現在の慶尚北道慶州市)にあった。9世紀末には新羅の国力は衰え、百済・高句麗の再興を図る勢力が出て後百済後高句麗との鼎立による後三国時代となり、最終的には後高句麗から起こった高麗に帰順して新羅は滅亡した。

新羅の歴史は、『三国史記』新羅本紀・敬順王紀に記されるように、始祖から第28代真徳女王末年(654年)までを上代、第29代武烈王(金春秋)即位から第36代恵恭王末年(780年)までを中代、第37代宣徳王から滅亡までを下代と分類する。

呼称

当初の「斯蘆」という文字の発音は現代日本語では「しろ」、現代朝鮮語では「サロ」だが、漢字の上古音では「シラ」である。

日本語では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だった。万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音である。これは元来「新羅城」の意味であり、新羅の主邑を指す用語が国を指す物に変化したのではないかという説がある。

歴史

起源と神話

三韓」および「辰韓」も参照

新羅の前身は朝鮮半島南東部にあった辰韓十二国のうちの1つ、斯蘆国である。文献史料からは正確な建国の時期については明確にわからない。『三国史記』「新羅本紀」冒頭の記述に従うと、新羅の建国は前漢孝宣帝五鳳元年、甲子の年であり、西暦に直すと紀元前57年となる。これはいわゆる古代朝鮮の3国(高句麗百済・新羅)の中で最も早い建国であるが、末松保和らの研究によって後世に造作されたものであることが明らかにされている。初期の時代における『三国史記』「新羅本紀」の記載は伝説的色彩が強いが、韓国の学界においては20世紀半ば頃にはこれを史実とする見解が出され、20世紀後半以降には紀年の修正はされているものの出来事は事実が反映されているとし、紀年の修正を行って建国年を3世紀前半まで引き下げる説などが提出されている。しかし、これらは具体的な論拠を欠き説得力に乏しいと評される。

中国史料では、高句麗、百済、新羅の順に登場する。『三国史記』において高句麗の建国よりも新羅の建国が早く設定されたのは、著者の金富軾が、慶州出身で新羅王家の一族だったためであると考えられる。金富軾は、新羅王家の一族だったが、高麗王家に仕えて、平壌が高麗から独立した反乱を鎮圧して武勲を上げた人物であった。

『三国史記』が新羅の建国年を紀元前57年としたのは次の論理によると見られる。まず、『漢書』等の記録によれば紀元前108年に、漢の武帝朝鮮半島漢四郡を設置し、昭帝紀元前82年に朝鮮半島南部の真番郡を廃止した。その後最初におとずれる甲子の年(六十干支の最初の年)が紀元前57年となる。それ以前に設定した場合、朝鮮半島の大部分に前漢の郡が設置されていたという記録と衝突してしまうため、これより遡って建国年を設定できなかった。つまり、金富軾は可能な限り古い時代に新羅の建国年を置こうとしたが、紀元前57年がテクニカルな限界であった。

『三国史記』が伝える建国神話によれば、慶州盆地に朝鮮(『三国史記』の文脈では箕子朝鮮を指すと見られる)からの移民が住む6つの村(閼川楊山、突山高墟、觜山珍支、茂山大樹、金山加利、明活山高耶)があり、その六村が卵から生まれた赫居世を王に推戴したのが新羅の始まりであるという。

新羅の建国神話では他の朝鮮諸国と異なり、特異なことに三姓の王の交代という形をとる。即ち初代赫居世に始まる朴氏、第4代脱解に始まる昔氏、第13代味鄒に始まる金氏(始祖は味鄒より数代前の閼智とされる)である。その内容の伝説的色彩が強いことや、実際に新羅で姓が使われ始めるのが6世紀に入ってからである点などから、これらの神話は基本的に史実としては扱われない。しかし三姓がそれぞれに異なる由来を語り、6つの村(後の新羅六部の前身とも考えられる)が関わる独特の建国神話は、新羅王権の成立過程の複雑な様相を反映したものであるかもしれない。

朴氏の始祖説話

朴氏の初代とされているのは赫居世(赫居世居西干)である。辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越えた頃、彼の出生が神秘的であったことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。そして王号を居西干、国号を徐那伐とした。赫居世は紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐とした。また、閼英井(南山の北西麓の羅井に比定される)に龍(娑蘇夫人)現れ、その左脇(『三国史記』では右脇)から生まれた幼女が長じ、容姿端麗にして人徳を備えていたので赫居世は彼女(閼英夫人)を王妃に迎えた。人々は赫居世と閼英夫人とを二聖と称した。なお、『三国遺事』には赫居世と閼英夫人はともに中国から辰韓に渡来した中国の王室の娘娑蘇夫人の子であるとする伝承が伝えられており、『三国史記』敬順王条末尾では編者金富軾が中国の接待官から類似の話を聞いた記録が残されている。また、赫居世の臣下には倭国から来たとされる瓠公がおり、辰韓が属国であると主張する馬韓王に対峙させたという説話がある。

昔氏の始祖説話

昔氏初代は脱解(第4代脱解尼師今)である。『三国史記』によれば、倭国東北一千里のところにある多婆那国の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生んだが、多婆那は不吉であるとして卵を捨てるように命じた。王妃は捨てるに忍びず、絹の布で卵を包み、宝物と共に箱に入れて海に流した。その後金官国に流れ着いたが、金官国の人々は警戒してこれをとりあげなかった。次いで辰韓の阿珍浦に流れ着き、そこに住んでいた老婆が箱を拾って開けると、中から一人の男の子が出てきたので、育てることにした。男の子は成長するに従い身長九尺にもなり神の如き風格を備えた。姓氏がわからなかったので、ある人が、箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」と名付けるのが良いとした。学問を身に着けた脱解は瓠公の邸宅を見て吉兆の地であると判断し、相手を騙して土地を取り上げた。これが後の新羅の拠点である月城になった。新羅の第2代王南解は脱解が賢者であるのを見て娘(阿孝夫人)を与え、第3代の儒理王は死に際して脱解に後事を託した。こうして脱解が王となった。

金氏の始祖説話

金氏始祖とされている金閼智は第13代味鄒(味鄒尼師今)の7世祖であるとされる。脱解の治世に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞こえたので、夜明けになって瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。報告を受けた脱解が役人に小箱を回収させ開かせると、中から小さな男の子が現れた。容姿が優れていたので脱解は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。また、このことに合わせて始林の地を鶏林と改名した。後に金氏が新羅王となると、その始祖である閼智にちなんで国号も鶏林とした。

新羅の登場と時代区分

以下本節の月日はすべて旧暦、年は当該旧暦年を西暦に単純置換したものである。 新羅が実際に外国史料にあらわれるのは『三国史記』で物語るよりも後の時代であり、文献史料で確認できる新羅の初出記事は、『資治通鑑』巻104・太元2(377年)年条にある、高句麗とともに前秦朝貢したという記事である。これのことから、4世紀頃が国家形成における画期であったと見られ、文献史学的には概ね建国の時期として扱われる。考古学的には積石木槨墳という新たな墓制の登場をもって新羅の成立と見る。積石木槨墳は木槨の上に20から30センチの石を積み、その上をさらに土を盛った構造の墳墓であり円墳または複数の円墳が複合した双円墳集合墳の形態を取る。また、新羅が「成立」した4世紀頃は、原三国時代に置いて文化的差異が曖昧であった弁韓と辰韓の考古学的遺物が明確に分化する時期でもあり、それまで小国の連合体がひしめき合っていた朝鮮半島島南部はこの頃から、おおよそ洛東江を境にして東側は新羅、西側は伽耶として異なる政治的・文化的な領域を明確に形成し始める。

476年頃の朝鮮半島。

三国史記』「新羅本紀」の記述に依れば、新羅人は始祖から真徳女王までを上代武烈王から恵恭王までを中代宣徳王から敬順王までを下代と呼んでいたという。現代の研究者による概説書は概ね新羅による統一以前と統一以後(統一新羅)で記述を分ける。

周辺諸国と新羅

377年の前秦への遣使が高句麗と共同で(高句麗の影響下で)行われたことに見られるように、新羅の登場は高句麗と密接にかかわっている。初期の新羅は高句麗に対し相当程度従属的な地位にあった。382年に新羅は再度単独で前秦への遣使を行っているが、これもその地理的条件から見て、高句麗の承認があって初めて可能であったものと考えられる。同時に新羅は建国初期から倭人の脅威にも晒されていた。『三国史記』「新羅本紀」は建国初期からたびたび倭人の侵入があり戦いを繰り返していたことを記録している。また、西隣の百済、それに同調する伽耶諸国とも対立しており、それらに対して倭が軍事支援を行っていたとも伝えられる。

4世紀末から5世紀にかけてこうした状況は『三国史記』や『日本書紀』のような歴史書、韓国で発見された中原高句麗碑などの発掘史料、そして何よりも広開土王碑など多くの史料によって良く示されている。広開土王碑は新羅を高句麗の属民として描くとともに、この時期に朝鮮半島で行われた大きな戦いを記録している。それによれば高句麗は古より百済を「属民」としていたが391年に倭国が百済を「臣民」としたために出兵し倭軍を撃退した。その戦いの中、400年頃には新羅の王都が倭軍に占領されたために高句麗が新羅に出兵し、倭軍を蹴散らし「任那加羅」まで追ったという。この広開土王碑文の解釈を巡っては様々な議論があるが、『三国史記』や『日本書紀』にこれらと対応すると見られる記録として、新羅が高句麗と倭の両方に王子宝海(卜好)と美海(未斯欣)を送ったことが伝えられる。また、中原高句麗碑は高句麗が新羅領内で人夫を徴発していたことを記録している。同碑文は高句麗王と新羅寐錦(王)の関係を兄弟の関係とし、高句麗王を兄とした明確な上下関係を表現している。

新羅が国力を増し、高句麗からの自立を図るようになるのは5世紀の半ば頃からである。450年、新羅が高句麗の辺将を殺害するという事件が起きた。これによって高句麗が新羅征討を計画したが、新羅が謝罪したため一旦問題は収まった。しかし、454年には高句麗が新羅領に侵入して戦闘となり、翌年には高句麗と百済の戦いで百済へ援軍を送るなど新羅は次第に高句麗に対する自立姿勢を明確にしていった。

新羅の発展

5世紀末頃から新羅は国力の増強に向けて改革を継続し、大きな飛躍を遂げた。5世紀末、新羅は慶州盆地の丘陵に月城と呼ばれる王城を築いた。この盆地には喙部、沙喙部、牟梁部、本彼部、習比部、漢岐部と称する6地域(新羅六部)があり、それぞれ自律的な政治集団を形成しつつ、対外的には王京人として結束するという連合体を形成した。特に喙部、沙喙部は突出して大きな力を持っていた。西暦500年に即位した智証麻立干(在位:500年-514年)は、それまで不定であった国号を正式に新羅とし、王号を旧来の麻立干から王へと変更したとされる。この時代に王という称号が使用されたことは503年の日付を持つ『迎日冷水碑』で智証(本文では至都蘆、智証の異表記)が「葛文王」を称していることや、524年の日付を持つ『蔚珍鳳坪碑』において法興王(在位:514年-540年)が「寐錦王」と称していることから確認できる。新羅史を上古、中古、下古の三期に区分する『三国遺事』は智証王の時代を画期と見なし、上古と中古の境界とする。ただし、この時代の新羅王権が政治的連合体としての性格を強く持っていたこともこれらの碑文からうかがわれる。『迎日冷水碑』は有力者の資産問題に関する裁定を下したことを記録した碑文であるが、その中で裁定を下した集団のメンバーは「七王」と呼ばれており、全員が王とされていた。

智証王の跡を継いだ法興王は更なる改革を続け、520年に「律令」を発布し、独自の官位制を整えた。さらに140年ぶりとなる中国(南朝、)への遣使を行い、522年には大伽耶(高霊)と婚姻を結ぶなど、周辺地域への対外活動を活発化させ、532年に伽耶地方の金官国を降伏させて併呑し、さらに536年には独自の年号である「建元」を制定した。また、彼は527年、仏教導入し、新羅における仏教の端緒を開いたという。「法を興す」という彼の名はこの業績にちなんでおり、この王は廃仏派の群臣たちと対峙して処刑された異次頓、伝説的な僧侶阿道とともに新羅仏教の三聖人に数えられている。こうして新羅の国家体制の整備と勢力拡大に大きな功績を残した法興王であるが、先に述べた『蔚珍鳳坪碑』では犯罪者に杖刑を裁定する際の裁定者としてやはり「牟即智(法興)/寐錦王」と「従夫智/葛文王」が登場しており、複数の「王」が併存する体制が継続していたことが確認できる。こうした体制は『三国史記』などの記録には無く同時代史料によって確認できるものである。

こうした国制の整備を経て、6世紀中頃には急激な領域拡大が可能となった。真興王(在位:540年-576年)の時代、新羅は高句麗と争い、551年に小白山脈を超えて高句麗の10郡を奪った。さらに翌552年には高句麗と百済の争いの中で漁夫の利を得る形で漢城(現:ソウル)を手中に収めて「新州」を置き、朝鮮半島の西海岸に勢力を伸ばした。漢城は元々百済の首都であったが、475年に高句麗によって奪われた都市であり、新羅の行動は百済との関係悪化を招いた。しかし553年、百済の聖王が率いる軍勢を新羅軍が撃破し、聖王を戦死させたことで漢城周辺の確保は確定した。562年には伽耶地方の大伽耶を滅ぼして占領し、洛東江下流域の伽耶諸国が新羅の支配下に入った。この時代、領土の拡大に伴い地方統治組織が整備される一方で、王都では仏教の隆盛とともに寺院建築、仏教儀礼が盛んとなり、花郎と呼ばれる貴人の私邸をリーダーとする青年組織が制度化されるなど、新羅国家の制度的な基礎が整っていった。

この国力増強を背景として、564年に北斉に朝貢し、その翌年「使持節東夷校尉楽浪郡公」に冊立された。次いで568年に南朝にも朝貢した。こうした独力による南北両王朝との外交関係の構築は新羅が高句麗や百済と並んで東アジアの中で確固たる地位を確保したことを象徴するものであった。こうした新羅の拡張と中国王朝との関係構築は、その両者によって挟まれる高句麗に脅威を与え、高句麗が570年に始めて倭国に使者を送って外交関係の構築を模索するなど、国際関係の変化をもたらした。

中国の発展と三国時代の終焉

589年、が中国を統一し、数世紀にわたる中国の南北朝時代が終わった。高句麗と百済、そしてやや遅れて新羅が隋に朝貢し、朝鮮三国を包含する隋を中心とした国際秩序が形成されたことで、朝鮮半島における安全保障上の環境が激変した。とりわけ隋と国境を接する高句麗はその軍事的圧力を強く受け、度重なる隋の侵攻を受けるようになる。しかし隋の高句麗遠征は失敗に終わり、これも一因となって王朝は倒れ618年に新たにが興った。新羅はすぐに、高句麗、百済と同じように唐から冊封を受けた。各国は互いの国を非難しあい、新羅も百済と高句麗が連年攻め込んできていることを訴えて唐の歓心を得ようとした。唐は当初三国の和解を促しつつ情勢の安定化を試みたが、やがて640年代に入ると隋代に失敗した高句麗への遠征を再び繰り返すようになった。

こうした事態に対応して、各国で権力の集中と国家体制の整備が進むようになった。高句麗では642年に淵蓋蘇文がクーデターを起こして実権を握り、唐の侵攻に備えた。一方百済では義慈王(在位:641年-660年)が即位し、高句麗のクーデターと同じ642年に新羅に侵攻した。新羅は大きな敗北を喫し、伽耶地方を中心に40城余りを失い、さらに大耶城(慶尚南道陝川)の失陥の際には城主が妻子もろとも殺害された。この城主の妻は新羅の王族金春秋の娘であり、この事件は新羅の政界に大きな衝撃を与えた。新羅では一連の敗北を「大耶城の役」と呼び、城主一家の死にこだわり続けることになる。翌年には高句麗と百済が和睦を結び、さらに倭国とも連携する動きも生じて新羅は国際的に孤立することとなった。敗戦の後、新羅では王位にあった善徳女王、金春秋、そして旧金官国の王族に連なる金庾信が結束して新たな指導体制を敷き始めた。これらのことから642年は最終的に676年の新羅による朝鮮半島統一に帰着する東アジアの大変動が始まる画期となったと評される。

高句麗と百済からの圧迫を受けて、新羅は643年に唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを要求された。このことが契機となって、新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、上大等の毗曇が女王の廃位を求めて反乱を起こした。ほぼ同じ頃に善徳女王が急死した。毗曇の反乱は結局半月程度で鎮圧され、その後金春秋(後に武烈王となる)は新たに真徳女王を立てて唐との関係構築を模索した。金春秋は中国の律令制度を取り入れる改革を始め、650年にはそれまで新羅独自で用いていた年号(太和)を廃止し、唐の年号を用いるなどして、唐との連携を強めていった。

新羅は655年にも高句麗と百済から攻撃を受け、唐に救援と出兵を依頼した。唐は658年から高句麗遠征を行ったが、隋代と同じく度重なる失敗に終わった。このため唐は高句麗を征服するにあたってまず百済を先に攻略することを決定し、660年に海路から百済を攻撃した。新羅もこれに呼応して百済に出兵し、百済の将軍堦白を撃破した。百済の首都泗沘が唐によって攻略され、最後の拠点熊津も攻撃を受けて百済は滅亡した。百済の遺臣は倭国や高句麗の支援を頼みに反乱を起こしたが、倭国から派遣された援軍が663年に白村江の戦いで大敗し、百済復興も失敗した。南北から高句麗を包囲した唐は百済遺臣の反乱を鎮圧する前から高句麗への攻撃を行ったが、これも失敗に終わった。しかし、高句麗の実質的な支配者淵蓋蘇文が666年に死去すると、その息子たちの間で不和が生じ、これに乗じた唐は667年に更なる高句麗遠征を開始した。新羅の文武王(在位:661年-681年)は唐に呼応して30人の将軍と共に高句麗に攻め入った。

668年に唐軍が高句麗の首都平壌を陥落させ、高句麗は滅亡した。唐軍は20万とされる捕虜を連れ帰り、新羅軍もまた7000人の捕虜を得て王都へと戻り先祖廟に高句麗と百済の滅亡を報告した。

唐の排除と渤海の台頭

唐は一連の征服に伴い、旧百済領に熊津都督府を、旧高句麗領に安東都護府を設置して羈縻州として組み込むと共に、新羅の文武王を鶏林大都督として朝鮮半島全域を支配下に置くことを目論んだ。唐の脅威に対抗すべく、新羅は高句麗最後の王である宝蔵王(在位:642年-668年)の外孫とされる安勝を「高句麗王」(後に「報徳王」)に封じて庇護下に置き、「高句麗の使者」を倭国に朝貢させた。以後しばらくの間、新羅の使者が帯同して高句麗使が倭国へ送られた。これは新羅が高句麗を保護下に置いていることを外交的に示威する行為であり、「報徳王」の冊立とともに、新羅王権の正統性を内外に示し、唐が設置した安東都護府に対抗する姿勢を明らかにするものであった。

また、新羅は旧百済領の一部を事実上併呑していたが、唐は百済故地に置いた熊津都督府の都督に旧百済王族の扶余隆を据え、新羅王と会盟を行わせ、制圧した城や遺民の返還を要求した。新羅は謝罪使を派遣し、朝鮮半島全体を羈縻州とする唐の論理を逆手にとって「百済と新羅は共に唐の羈縻州であり境界をわかつべきではない」と主張して自らの行動を正当化した。その後、670年にも軍事行動を起こして旧百済領に侵攻し、672年に2度目の謝罪使を派遣するなど、侵攻と謝罪を繰り返しつつ勢力を扶植した。これに対し唐は674年に新羅征討軍を起こし、翌675年に新羅は3度目の謝罪使を派遣したが唐皇帝高宗(在位:649年-683年)の逆鱗に触れ、文武王の官職剥奪の問題にまで進展した。新羅は謝罪外交と並行して更なる軍事的処置を取り、676年には伎伐浦で唐軍を破って事実上旧百済領全域の支配を掌握することに成功した。この事態に、唐は同年中に熊津都督府を遼東の建安城に、安東都督府も遼東城に後退させた。唐はなお新羅征討を計画したが、チベット吐蕃の勢力拡張によって朝鮮半島に兵力を回す余裕がなくなり、678年に新羅征討を断念した。こうして新羅は朝鮮半島中部以南から唐の勢力を排除し、またこれによって存在意義を失った安勝の高句麗亡命政権も684年に取り潰した。

旧高句麗領には新たに旧高句麗遺民や靺鞨などが中心となって渤海が興った(698年)。渤海は唐の退潮による東北アジアの権力の空白を埋める形で現在の中国東北地方(満州)南部、朝鮮半島北部、ロシア沿海州に相当する地域に勢力を広げた。8世紀には黒水部に対する渤海の勢力拡張を巡る紛争から塔と渤海の対立が深まり、732年に渤海が唐の登州(現:山東省蓬莱市)を襲撃して武力衝突に発展した。唐は新羅に渤海攻撃を要請し、新羅はこれを受け入れた。新羅による攻撃はほとんど戦果がなかったが、唐と新羅の関係は改善し、翌年に新羅は渤海攻撃の功績によって浿江以南の地を冊封された。一方の渤海は、8世紀後半の文王の頃にはかつての高句麗の後継者であることを意識して「高麗国王」をなのるようになった。共に国力を増強していた新羅と渤海の間では緊張が高まり、このことが両国の対唐・対日本関係にも影響を及ぼした。

内政と社会情勢

統一新羅の成立と共に官僚制度の改革が図られた。降伏した百済・高句麗の王族、貴族を格下げした上で官位制度の中に組み入れ、律令制を取り入れながら政治形態を変化させていった。官吏の養成機関として国学という教育機関が置かれた。また、州・郡・県を基本と為す郡県制を基本とした地方支配体制が整えられた。旧新羅・任那・加羅領に3州、旧百済領に3州、旧高句麗領に3州の9つの州が置かれ、これらと副都五京によって地域支配が行われた。

唐の律令制度を取り入れながらも、位階などの名称は旧称のままで残されたりもしたが、8世紀半ばには唐風に改められている。唐の影響は非常に大きく、この頃、先祖伝来の姓や従来的な名もまた、全て漢族乃至中元風に改められている。

745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生し、社会が疲弊していた。755年には新羅王のもとへ、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった。このときに、日本の九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた。しかし、その移民の数が多いため、天平宝字3年(759年)9月、天皇は大宰府に、新羅からの帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよとする勅を出した。翌年には、帰国を希望しなかった新羅人13人を武蔵国に送還した。また、飢饉や疫病によって、後述する新羅の賊が発生したともされる。

日本との関係

日羅関係」も参照

668年以降、日本は遣新羅使を派遣。672年壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇)は、親新羅政策をとった。また、次代の持統天皇(在位690年697年)も亡夫の天武天皇の外交方針を継ぎ、同じく親新羅政策を執った。但し、親新羅と言っても対等の関係は認めず、新羅が日本に従属し朝貢するという関係であり、新羅は日本への朝貢関係をとった。

持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)にも帰化した新羅人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/02/10 10:59

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「新羅」の意味を投稿しよう
「新羅」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

新羅スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「新羅」のスレッドを作成する
新羅の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail