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日本の国旗とは?

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日本の国旗


【用途及び属性】

【縦横比】
2:3
【制定日】
1870年2月27日(明治3年)、1999年8月13日(平成11年)改
【使用色】

日本の国旗(にっぽんのこっき、にほんのこっき)は、法律上は日章旗(にっしょうき)と呼ばれ、日本では古くから、また今日でも一般的に日の丸(ひのまる)と呼ばれるである。

1999年(平成11年)に公布・施行された「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)の規定によれば、の形は縦が横の3分の2の長方形日章直径は縦の5分の3で中心は旗の中心。色地は白色、日章は紅色とされている。上下・左右対称である。

日章旭光意匠化した旗については旭日旗を参照。

目次

  • 1 国旗として扱われる以前の歴史
    • 1.1 古代から中世
    • 1.2 近世
  • 2 日本の国旗としての歴史
    • 2.1 幕末
      • 2.1.1 船舶用国籍旗としての制定
      • 2.1.2 国旗としての汎用化
      • 2.1.3 賊軍の旗
    • 2.2 明治から昭和・終戦まで
      • 2.2.1 商船規則
      • 2.2.2 陸軍御国旗
      • 2.2.3 海軍御国旗
      • 2.2.4 国旗としての使用と法律制定の検討
    • 2.3 占領下における日章旗の掲揚禁止
    • 2.4 国旗国歌法以前の法令による扱い
    • 2.5 国旗国歌法の成立
    • 2.6 教育現場の日章旗掲揚をめぐる国会議事
  • 3 日章旗のデザイン
    • 3.1 正式規格
    • 3.2 特例の日章旗
    • 3.3 日章旗と軍用の旗
    • 3.4 税関旗
    • 3.5 日章旗の造形に関する逸話
    • 3.6 日章旗とデザインが似ている旗
  • 4 国民感情
    • 4.1 積極的な掲揚
    • 4.2 反対意見
  • 5 国章損壊罪についての議論
  • 6 日本の国旗を参考にした国
  • 7 その他
  • 8 符号位置
  • 9 参考文献
  • 10 脚注
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

国旗として扱われる以前の歴史

古代から中世

日本人の古代信仰として古神道に分類される原始宗教では自然崇拝精霊崇拝を内包しており、特に農耕や漁労において太陽信仰の対象としてきた。皇祖神天照大神太陽神である。弥生時代から古墳時代(大和時代)にかけて祭器として使われた内行花文鏡の模様は太陽の輝きをかたどったものと言われ、三種の神器の一つ八咫鏡をこの鏡とする説もある。初代神武天皇東征の時に生駒山で敗北するが、私は日の神の子孫として日に向かって(東に向かって)戦うのはよくない、日を背にして(西に向かって)戦おう、と言って熊野(または伊勢)に迂回して近畿地方の征服を成し遂げた。第10代崇神天皇は、宮廷内に祀られていた天照大神を宮廷外で祀るようになり、第11代垂仁天皇の時に初代斎宮倭姫命によって伊勢に鎮座した。伊勢神宮の祭祀は、未婚の内親王を天照大神の御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)として斎王を立てるようになった。

第33代推古天皇の時に聖徳太子皇帝煬帝へ、「日出處天子…」で始まる国書を送っている。また、飛鳥時代末期に国号を「日本」(日ノ本)と命名したところからも、太陽(日の出)を意識しており、「日が昇る」という現象を重視していたことが窺える。第40代天武天皇壬申の乱の時に伊勢神宮を望拝した。これが勝利に結びついたと考えられ、在位中に伊勢神宮の遷宮を制度化し、第41代持統天皇の時に第1回目の式年遷宮が行われた。日本の国家統治と太陽の結びつきはますます強くなった。

この太陽を象った旗を用いるようになったのは、645年(大化元年)の大化の改新以後、天皇による親政が確立された頃からと考えられる。文献としては、797年(延暦16年)の『続日本紀』の中にある文武天皇701年(大宝元年)の朝賀の儀に関する記述において、正月元旦に儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあり、これが日の丸の原型で最も古いものといわれているが、白地に赤丸ではなかったと見られている。

世界中で歴史的に太陽で描かれることは少なく、太陽は黄色または金色、それに対して白色または銀色で表すのが一般的である。日本でも古代から赤い真円で太陽を表すことは一般的ではなかったと思われる。例えば高松塚古墳キトラ古墳には東西の壁に日象・月象が描かれているが、共に日象は金、月象は銀の真円で表されている。第42代文武天皇の即位以来、宮中の重要儀式では三足烏をかたどった銅烏幢に日月を象徴する日像幢と月像幢を伴って飾っていたことが知られるが、神宮文庫の『文安御即位調度之図』(文安元年記録)の写本からは、この日像幢が丸い金銅の地に赤く烏を描いたものであったことが確認されている。また世俗的にも『平家物語』などの記述などからも平安時代末期の頃までの「日輪」の表現は通常「赤地に金丸」であったと考えられている。

赤い真円で太陽を表現する例としては、古くは時代の帛画にある(上記の日像幢と同様、内側に黒い烏を配するもの)。日本では法隆寺玉虫厨子背面の須弥山図に、赤い真円の日象が確認できる。これは平安時代の密教図像などにも見出される表現であり、大陸から仏教とともにもたらされた意匠であろうと推測される。

日本で「白地赤丸」が日章旗として用いるようになった経緯は諸説あり正確には不明である。

一説には源平合戦(治承・寿永の乱)の結果が影響していると言われている。平安時代まで、朝廷の象徴である錦の御旗は赤地に金の日輪、銀の月輪が描いてある。平安時代末期に、平氏は自ら官軍を名乗り御旗の色である赤旗を使用し、それに対抗する源氏は白旗を掲げて源平合戦を繰り広げた。古代から国家統治と太陽は密接な関係であることから日輪は天下統一の象徴であり、平氏は御旗にちなんで「赤地金丸」を、源氏は「白地赤丸」を使用した。平氏が滅亡し、源氏によって武家政権ができると代々の将軍は源氏の末裔を名乗り、「白地赤丸」の日の丸が天下統一を成し遂げた者の象徴として受け継がれていったと言われる。 なお、日本では「紅白」がめでたい配色とされてきた。一説には民俗学的にハレとケの感覚(ハレ=赤、ケ=白)にあるとする説や、これも源平合戦に由来するとする説などがある。

現存最古の日章旗としては、山梨県甲州市の裂石山雲峰寺所蔵のものが知られている。これは天喜4年(1056年)に後冷泉天皇より源頼義へ下賜されたという伝承があり、「御旗」(みはた)と呼ばれて、頼義三男の新羅三郎義光から、義光の系譜に連なる甲斐源氏宗家甲斐武田家に代々伝えられて家宝とされてきた。『甲斐国志』では長さ六尺四布とあるが、現在は約1/4が欠損している。この伝承が事実であれば、遅くとも11世紀半ばには「白地赤丸」の日の丸が存在していたことになる。真偽のほどは不明ではあるが、中世前半に遡る遺例として貴重であろう。また同じく中世の日章旗とされるものとしては、奈良県五條市の堀家に伝わる後醍醐天皇下賜のものが知られる。

近世

江戸期には、「白地に赤丸」は意匠のひとつとして普及していた。江戸時代の絵巻物などにはしばしば白地に赤丸の扇が見られるようになっており、特に狩野派なども赤い丸で「旭日」の表現を多用するようになり、江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されるに到っていた。徳川幕府は公用旗として使用し、家康ゆかりの熱海の湯を江戸城まで運ばせる際に日の丸を立てて運ぶなどした。そこから「熱海よいとこ日の丸たてて御本丸へとお湯が行く」という唄が生まれたりした。

『江戸図屏風』(1624~1644。黒田日出男によれば1634~1635、松平信綱の命による製作。)。日本丸を改造した大龍丸などの幕府船団が日の丸の幟を立てている。
『御船図』安宅丸。19世紀に描かれた想像図には、船尾部に複数の日の丸が見える。

近世における船旗関連の資料としては、寛永期(1624~1644年)に描かれた江戸図屏風の幕府船団の幟がある。船団中央には、日本丸を改造し改名した大龍丸などが描かれており日の丸の幟を立てている。また、1635年(寛永12年)に江戸幕府が建造した史上最大の安宅船「天下丸」(通称「安宅丸」)で「日の丸」の幟が使用されているのが知られている。東京国立博物館が所蔵する『御船図』(江戸時代・19世紀作)にも安宅丸が描かれており、船尾に複数の日の丸の幟が描かれている。江戸幕府の所持船の船印として、一般には徳川氏の家紋「丸に三つ葉葵」を用いたが、将軍家の所持船には日の丸を用いることもあった。

また、1673年(寛文13年)に、江戸幕府が一般の廻船天領からの年貢米(御城米)を輸送する御城米廻船を区別するために「城米回漕令条」を発布した際、その中で「御城米船印之儀、布にてなりとも、木綿にてなりとも、白四半に大なる朱の丸を付け、其脇に面々苗字名是を書き付け、出船より江戸着まで立て置き候様、之を申付けらる可く候」と、御城米廻船の船印として「朱の丸」の幟を掲揚するように指示し、幕末まで続いた。

18世紀末から19世紀にかけてロシアの南下政策を警戒した幕府が蝦夷地天領化・北方警備等のため派遣した御用船(商船・軍船など)も日の丸を印した旗や帆を使用していた。

日本の国旗としての歴史

幕末

船舶用国籍旗としての制定

国旗としての日の丸は、幕末に船舶用の国籍標識(惣船印)として導入され、その後に船舶用に限らず国籍を示す旗として一般化した。幕末における船舶用としての制定経緯としては、次の二つの説がある。

島津斉彬提唱説
日の丸を掲げる幕府海軍昇平丸

歴史学者松本健一国文学者暉峻康隆など、複数の学者の唱えるこの説が定説とされている。 1854年(嘉永7年)3月の日米和親条約調印後、日本船を外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗(日本惣船印)を制定する必要が生じた。幕臣達は当初「大中黒」(徳川氏の先祖である新田氏の旗。白地に黒の横一文字)を日本惣船印に考えていたが、薩摩藩主島津斉彬、幕府海防参与徳川斉昭らの進言によって、「日の丸」の幟を用いることになり、1854年8月2日(嘉永7年7月9日)、老中阿部正弘により布告された。

島津斉彬は老中首座の阿部正弘に、日の丸を日本国惣船印に用いるべきだという建白書を提出するにあたって、水戸藩の徳川斉昭、宇和島藩伊達宗城佐賀藩鍋島閑叟といった有力大名たちにも同意を得ていた。 しかし反対意見も少なくなかった。とくに守旧派の幕府体制にこだわる人々には「日本国」という意識が乏しく、惣船印は徳川の「中黒」 を用いればよいではないかとする意見も少なくなかった。しかし開明的な藩主たちの後押しを得て、「日の丸」が日本国の惣船印に定められたのである。

1854年8月4日(嘉永7年7月11日)、「日の丸」を日本国総船印に定める、とする布達には、次のように書かれている。

大船製造については、異国船に紛れざるよう、日本国総船印は白地日の丸幟相用い候よう仰せいだされ候。かつ、公儀御船は白絹布交の吹き流し中柱へ相立て、帆の儀は白地中黒に仰せ付られ候。

島津斉彬は鹿児島城内から見た桜島から昇る太陽を美しく思い、これを国旗にしようと家臣に言ったといわれている。また薩摩藩から洋式軍艦「昇平丸」を幕府へ献上するため、1855年1月(安政2年2月)江戸へ回航された際、日の丸が船尾部に掲揚された。これが日の丸を日本の船旗として掲揚した第一号とされる。

海事史学者の石井謙治は斉彬提唱説を取り上げつつも、日の丸が幕府の御用船旗に用いられた事実から、日の丸が日本船の船印に提唱されたのは自然のこととしている。

幕閣・斉昭提唱説
日の丸を掲げる幕府海軍鳳凰丸。なお、白地中黒の帆は幕府船の標識。

海事学者の安達裕之は、上記の説を俗説に過ぎないとしている。『水戸藩史料』等の幕閣や斉昭の書簡・仕様帳といった当時の史料から、安達が考察した日の丸制定の経緯は次のようになる。

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)の黒船来航は、これまで低調であった大船建造の禁廃止による西洋船建造を推進させた。この際に問題とされたのが外国船との識別方法で、同年9月初旬(同年8月)に従前より「白地中黒」(白地に黒の横一文字)を幕府船の船印にした浦賀奉行が、蒼隼丸・下田丸の代船(後の鳳凰丸)へ白地中黒とは別に日の丸を掲げることを起工前に検討しており、日の丸を日本船の船印にすることを企図している。

1853年10月6日(嘉永6年9月4日)に老中が浦賀奉行作成の鳳凰丸の図面を評定所一座・勘定奉行大目付目付に渡し、惣船印に日の丸を採用することを諮問している。これに対して評定所一座や大目付目付は、白地中黒を惣船印、日の丸は幕府船の船印にすることを、また勘定奉行は惣船印に白地中黒の帆印、幕府船に白黒の吹貫を提案した。彼らが日の丸を不可とした理由は、御城米船や銀・銅を運搬する幕府御用船に日の丸を200年近く伝統的に用いたこと、日の丸の紅が退色し易いことを挙げている。

その後、外交問題処理が優先され評議は中断したが、鳳凰丸が1854年6月6日(嘉永7年5月10日)に竣工し、幕府は惣船印の決定を迫られた。幕府は、勘定奉行・勘定吟味役・目付からなる大船製造掛に昨年9月の評議案を審議させ、惣船印を白黒の吹貫、帆印を白地中黒、幕府船を日の丸幟との答申を得た。1854年6月29日(嘉永7年6月5日)に老中首座阿部正弘が幕府海防参与徳川斉昭へこの答申を諮問した所、斉昭は白地中黒は徳川氏の先祖である新田氏の印で、日の丸は国名である日本を示す印であり、逆にするべきと提言した。その後1ヶ月余りの間に斉昭と幕府の間で折衝が行われた結果、斉昭の意見が容れられ、1854年8月2日(嘉永7年7月9日)に白地日の丸幟を「日本惣船印」とすることが通達された。竣工したばかりの「鳳凰丸」には日の丸の旗が掲げられ、白地中黒の帆が装備された。

また、石井行夫は安達説を踏襲しつつ、「鳳凰丸」が「昇平丸」よりも早く日の丸を掲げるため公試の一部を省略したこと、浦賀奉行から提出された日の丸の試案が存在したことを取り上げている。

国旗としての汎用化

1858年(安政5年)、幕府目付岩瀬忠震下田奉行井上清直は、日章旗を掲げて神奈川沖に停泊中のポーハタン号に渡り、孝明天皇の勅許が無いまま、日米修好通商条約に調印・署名した。

1859年(安政6年)、幕府は縦長の幟(正確には四半旗)から横長の旗に代えて日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出した。日章旗が事実上「国旗」としての地位を確立したのはこれが最初である。

1860年(万延元年)、日米修好通商条約批准書交換のため、外国奉行新見豊前守正興を正使とする幕府使節団アメリカ合衆国に派遣され、アメリカ軍艦ポーハタン号と日章旗を掲げた咸臨丸に分乗して太平洋を横断した。使節団はサンフランシスコに到着後、更に陸路・海路を経由してワシントンD.C.に到着し、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見して批准書の交換を終えた。その後、使節団一行はニューヨークを訪問するが、日章旗と星条旗が掲げられたブロードウェイパレードする模様が伝えられている。これが国旗として日本国外で初めて掲げられた日章旗とされる。

こうして、「日本国惣船印」は国旗とほとんど同じような使い方をされることになり、次第に「国印」(1863年(文久3年))と呼び方が変わっていった。

賊軍の旗

日の丸を掲げる幕府陸軍の部隊(1864年)

幕府海軍に続き、1862年(文久2年)に創設された幕府陸軍も軍旗に日の丸を採用したことが、2年後の第二次長州征伐頃の幕府陸軍を描いた1864年10月8日付『イラストレイテド・ロンドン・ニュース』の挿絵より伺える。以降も幕府陸軍は日の丸を軍旗として使用していた。

戊辰戦争においては、鳥羽・伏見の戦いの2日目の慶応4年1月4日に、薩長を中心とする軍勢が朝廷から「錦の御旗」を授けられて正式に官軍(天皇朝廷の軍)になったのに対し、それ以降の旧江戸幕府軍は賊軍朝敵となり、戦局に決定的な影響を与えた。旧幕府方の彰義隊会津藩(白虎隊など)、奥羽越列藩同盟の一部などは、自分たちの共通の旗として上述の「御国総標」たる日章旗を掲げて戦った。

明治から昭和・終戦まで

商船規則

1870年2月27日(明治3年1月27日)制定の商船規則(明治3年太政官布告第57号)に「御國旗」として規定され、上述の幕府による「御国総標」を継承して日本船の目印として採用された。規格は現行とは若干異なり、縦横比は7対10、日章は旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1ずれた位置とされていた。この日を記念して国旗協会は国旗制定記念日を制定し、国旗掲揚の日としている。

陸軍御国旗

陸軍御国旗の意匠

1870年6月13日(明治3年5月15日)制定の陸軍国旗章並諸旗章及兵部省幕提灯ノ印ヲ定ム(明治3年太政官布告第355号)に「陸軍御国旗(陸軍御國旗)」として旭日旗が定められた。

海軍御国旗

日本海軍については、1870年10月27日(明治3年10月3日)制定の太政官布告「海軍御旗章国旗章並諸旗章ヲ定ム」(明治3年太政官布告第651号)において、各種の旗章の一つとして艦尾に掲揚する海軍御国旗として白布紅日章が定められ、幕末から使用されていた日の丸が引き続き使用された。また、幕末には「国印」と呼ばれるようになっていた日の丸は、同布告のとおり、国際法にもとづいて「国旗」と呼ばれるようになった。

国旗としての使用と法律制定の検討

以後、日章旗は国旗として扱われるようになったが、「国旗」としての法的な裏付けは太政官布告のままであり、法令として存在しなかった。1931年(昭和6年)2月、第59回帝国議会において全11条及び附則からなる「大日本帝国国旗法案」が衆議院議員石原善三郎により提案され、同年3月26日衆議院本会議において可決された。しかしながら貴族院送付後の3月28日、会期終了に伴う帝国議会閉会により審議未了廃案となり、続く第60回帝国議会に再提出されたものの衆議院解散により再度廃案となり、結局成立しなかった。

1936年ベルリンオリンピックにおいては、朝鮮出身の孫基禎が日本代表として男子マラソンに出場し優勝した際に、日本統治下の京城(現在のソウル)で創刊された東亜日報は日章旗を黒く塗り潰した写真を掲載してそれを報じ11ヶ月の停刊処分を受けた。

占領下における日章旗の掲揚禁止

1945年連合国軍総司令部(GHQ)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止された。この間、商船旗としては国際信号旗E旗に基づいた旗が代用された。祝日に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、1949年(昭和24年)1月1日にマッカーサーは日本の国旗の使用を自由とする旨の声明を発表。これより正式に日章旗の自由掲揚が認められるようになった。

国旗国歌法以前の法令による扱い

第二次世界大戦後から1999年(平成11年)の国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)制定までの間、「反・日の丸」を主張する勢力(日本教職員組合日本共産党などの革新勢力)は、日章旗の国旗としての法的正当性に疑義を唱えてきた。これに対し日章旗を国旗と認める勢力(自民党日本会議などの保守派)は、日章旗が日本国旗であることは一種の慣習法と考えられることなどを主張、その根拠として前出の商船規則、大喪中ノ国旗掲揚方のほかにも複数の法令の条文中に「国旗」の文字が使用され「日本国旗が存在することが当然の前提とされている」ことを挙げていた。国旗国歌法制定前の法律で日本国旗を意味する「国旗」の文字を含んでいた事例は次のとおり(当該条文は後に部分的に文言が改正されたものもあるがここでは初制定時のものを掲載。国会の審議を経ない命令(政令以下)での使用例は省略。旧字体新字置換)。

  • 船舶法(明治32年法律第46号)第2条「日本船舶ニ非サレハ日本ノ国旗ヲ掲クルコトヲ得ス」ほか複数条項に登場
  • 海上保安庁法(昭和23年法律第28号)第4条第3項「海上保安庁の船舶は、番号及び他の船舶と明らかに識別し得るような標識を附し、国旗及び海上保安庁の旗を掲げなければならない。」
  • 保安庁法(昭和27年法律第265号)第83条第1項「保安庁の使用する船舶は、番号及び他の船舶と明らかに識別し得るような標識を付し、国旗及び長官の定める旗を掲げなければならない。」
  • 自衛隊法(昭和29年法律第165号)第102条第1項「自衛艦その他の自衛隊の使用する船舶は、長官の定めるところにより、国旗及び第四条第一項の規定により交付された自衛艦旗その他の旗を掲げなければならない。」
  • 商標法(昭和34年法律第127号)第4条第1項第1号「国旗菊花紋章勲章褒章又は外国の国旗と同一又は類似の商標」

国旗国歌法の成立

平成初期から学校の入学式卒業式における日章旗掲揚に係わる問題が頻発、掲揚に反発する日本教職員組合全日本教職員組合所属教職員と管理職教職員のトラブルから高校校長に自殺者が出るに至った。背景には教育現場における日の丸掲揚と君が代斉唱に対する反対運動があった。このことに対処するため、1999年(平成11年)には国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)が公布され、正式に国旗として定められた。

詳細は「国旗及び国歌に関する法律」を参照

なお、大喪時の掲揚方法は、大喪中ノ国旗掲揚方(大正元年閣令第1号)に定められている。

教育現場の日章旗掲揚をめぐる国会議事

国旗国歌法成立後も一部の教育現場において国旗掲揚に対する賛成派と反対派の対立が続いた。このため、2006年10月31日には衆議院の教育基本法に関する特別委員会において自民党の稲田朋美議員から学習指導要領の国旗・国歌条項にのっとって教職員には入学式、卒業式において国旗に向かって起立し国歌を斉唱する職務上の義務があるかどうかとの質問が出された。この質問に対して伊吹文明文科大臣と民主党藤村修議員の両名とも教職員にはその義務があると答えている。

日章旗のデザイン

日章旗の制式
附則の認める日章旗

正式規格

国旗国歌法の本則における日章旗の制式は、縦横比を2対3、旗の中心(対角線の交点)を中心とし、縦の長さの5分の3を直径(縦を2とした場合r=0.6)とした円(日章、日輪)を描き、白地に紅色の日章とするのが正式である。なお、日章の色に定められている「紅色」は、JIS慣用色名としてはマンセル色体系で 3R 4/14 であるが、より明色に見える朱色系の金赤(同 9R 5.5/14)が使われることも実際には多い。

特例の日章旗

長らく慣行(商船規則で定められた制式)として、縦横比を7対10とし、日章を旗の中心より旗竿側に100分の1近づけた点を中心として描くものが使用されてきたため、国旗国歌法の附則第3項で当分の間この制式も用いることができる旨の特例が定められている。両者の縦横比を最小公倍数に換算すると、本則:14対21、特例:14対20となり、本則の方がやや横長(あるいは特例の方が縦長)となる。この違いを取り上げる意見には、日章と白地のバランスとしては特例の方が安定している、風にはためく時の見栄えは日章が旗竿に寄っている方が美しい、とするものもある。

なお、1998年の長野五輪では、「円の直径が縦の2/3(本来は3/5)」の日の丸を掲げた。この比率は1962年の日本宣伝美術会展での永井一正ほか2名による提案でもあったが、1964年東京五輪では採用が見送られた(2020年の東京五輪では1999年に法制化された「3/5」を使用予定)。

日章旗と軍用の旗

帝国陸軍の歩兵連隊の軍旗
詳細は「旭日旗」、「軍旗#大日本帝国陸軍」、「軍艦旗」、および「自衛隊の旗」を参照

大日本帝国の国軍および天皇の軍隊として建軍された日本軍(陸海軍)の軍旗として、帝国陸軍は1870年6月13日(明治3年5月15日)の明治3年太政官布告第355号とにおいて、日章旗とは別に「陸軍御国旗」として16条の光線(十六条旭日旗)を放つ図案を意匠とする旗(「旭日旗」、日章が旗の中央)を日本史上初めて考案・採用・制定した。1879年、明治12年太政官布告第130号においてこの「陸軍御国旗」は旭日の意匠はほぼそのままに、寸法を小さくし房をつけたものに変更され名称を「軍旗」とし改めて制定された。

他方、帝国海軍については、1870年10月27日(明治3年10月3日)制定の太政官布告「海軍御旗章国旗章並諸旗章ヲ定ム」(明治3年太政官布告第651号)において、艦尾用の海軍御国旗及び船首旗章として白布紅日章が定められ、幕末以来の単純な日の丸が使用されていた。しかし、帝国陸軍より19年後の1889年に、明治22年勅令第111号において帝国陸軍の軍旗である旭日旗を模倣するかたちで、日章位置が異なる十六条旭日旗(日章が旗の左辺寄り)を軍艦旗として、また艦首旗として日章旗を制定し直した。

ポツダム宣言受諾による日本軍の解体により軍旗及び軍艦旗は廃止されたが、自衛隊の設立に伴い陸上自衛隊は帝国陸軍の軍旗とは意匠を一部変更した八条旭日旗を「自衛隊旗」として、海上自衛隊は帝国海軍と同一意匠の「自衛艦旗」を1954年(昭和29年)にそれぞれ制定した。自衛隊旗及び自衛艦旗は自衛隊法施行令(昭和29年政令第179号)の別表第一で規定されている。なお、自衛隊の航空機等に記されている国籍マークは、旧日本軍時代と同様の白の縁取りが施された日の丸が使用されていた(旧日本軍時代は白の縁取りが無い場合もあった)が、近年低視認性とステルス性の為F-35では赤丸や白の縁取り以外の国籍マークが行われるようになってきた。また自衛隊の戦闘服でも、近年低視認性の為、赤丸や白の縁取り以外の国籍マークが取り付けられるようになってきた。