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日本ハムファイターズとは?

(日本ハムファイターズから転送)
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  • 独自研究が含まれているおそれがあります。(2011年2月)
  • 宣伝広告的であり、中立的な観点で書き直す必要があります。(2012年3月)

北海道日本ハムファイターズ
会社名 株式会社北海道日本ハムファイターズ
創設年度 1946年
ロゴデザイン

所属リーグ

パシフィック・リーグ


歴代チーム名

セネタース(1946年)
東急フライヤーズ(1947年)
急映フライヤーズ(1948年)
東急フライヤーズ(1949年 - 1953年)
東映フライヤーズ(1954年 - 1972年)
日拓ホームフライヤーズ(1973年)
日本ハムファイターズ(1974年 - 2003年)
北海道日本ハムファイターズ(2004年 - 現在)


本拠地
札幌ドーム(北海道札幌市豊平区)

収容人員 固定客席:40,476人
フィールドシート:202人
車椅子用席:117人
ファミリーシート:50人
立ち見・VIP席:不明
フランチャイズの遍歴

東京都(1952年 - 2003年)
北海道(2004年 - 現在)


永久欠番

100:大社義規



獲得タイトル
アジアチャンピオン(1回)

2006


日本一(3回)

リーグ優勝(7回)

セ・パ交流戦優勝・最高勝率(1回)
(2015年以降は最高勝率)


成績(タイトル以外)
アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝)

日本シリーズ出場(7回)(太字は勝利した年)

クライマックスシリーズ(9回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)

4勝5敗


プレーオフ(2004-2006)(2回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)

1勝1敗


プレーオフ(前後期制)(2回)
(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)

1勝1敗




球団組織
オーナー 末沢寿一
運営母体 日本ハム
監督 栗山英樹

株式会社北海道日本ハムファイターズ
HOKKAIDO NIPPON-HAM FIGHTERS
種類
株式会社
【略称】
HNF
【本社所在地】
日本
062-8655
北海道札幌市豊平区羊ケ丘1番地
(札幌ドーム内)
【設立】
2003年8月
業種
サービス業
法人番号
3430001028820
【事業内容】
プロ野球球団の運営
【代表者】
畑佳秀(取締役オーナー)
竹田憲宗(代表取締役社長)
【資本金】
2億円(2017年12月31日時点)
【純利益】
21億2300万円(2017年12月期)
【純資産】
79億7200万円(2017年12月31日現在)
【総資産】
116億9800万円(2017年12月31日現在)
【決算期】
12月末日
【主要株主】
日本ハム
ほか(#グランドパートナーを参照。)
【関係する人物】
大社啓二(取締役オーナー代行)
【外部リンク】
http://www.fighters.co.jp/
特記事項:2004年に日本ハム球団株式会社より、プロ野球球団運営権を譲受。
日本ハム球団株式会社
NIPPON-HAM BASEBALL CLUB
種類
株式会社
【略称】
HNF
【本社所在地】
日本
106-0032
東京都港区六本木6-1-20
【設立】
1946年12月18日
業種
サービス業
法人番号
3430001028820
【事業内容】
プロ野球球団の運営
【代表者】
清算人 山崎信也
【資本金】
1000万円(特別清算実施時点)
【決算期】
12月末日
【主要株主】
日本ハム 100%
【関係する人物】
大社義規
特記事項:(法人名遍歴)
設立当初「セネタース野球協会」
1946年「東急ベースボール倶楽部」
1948年「東急大映野球」
1949年「東急ベースボール倶楽部」
1954年休眠会社扱い。運営母体は事実上「東映興業」へ移譲。
1973年「日拓ホーム野球」
1974年「日本ハム球団」
2004年6月14日付をもって特別清算
※新法人「株式会社北海道日本ハムファイターズ」の新設

北海道日本ハムファイターズ(ほっかいどうにっぽんハムファイターズ、英語: Hokkaido Nippon-Ham Fighters)は、日本プロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。

北海道フランチャイズとし、本拠地札幌ドームとしている。旭川スタルヒン球場や、函館オーシャンスタジアム帯広の森野球場釧路市民球場でも毎年公式戦を開催している(後述)。

千葉県鎌ケ谷市にあるファイターズタウンには、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地であるファイターズスタジアムや、室内練習場、選手寮があり、関東地方におけるチームの拠点となっている。

目次

  • 1 球団の歴史
    • 1.1 東京時代
      • 1.1.1 セネタース - 日拓時代
      • 1.1.2 日本ハム時代
        • 1.1.2.1 後楽園時代
        • 1.1.2.2 東京ドーム時代
    • 1.2 北海道時代
      • 1.2.1 ヒルマン監督時代
      • 1.2.2 梨田監督時代
      • 1.2.3 栗山監督時代
  • 2 所属選手・監督・コーチ
  • 3 チーム成績・記録
    • 3.1 その他の記録
    • 3.2 2000安打達成者
    • 3.3 無安打無得点試合達成投手
    • 3.4 サイクル安打達成打者
  • 4 歴代本拠地
  • 5 歴代監督
  • 6 永久欠番
  • 7 ユニフォームの変遷
    • 7.1 ユニフォーム(一軍)
      • 7.1.1 東京時代
      • 7.1.2 札幌時代
      • 7.1.3 限定ユニフォーム
      • 7.1.4 復刻ユニフォーム
    • 7.2 ユニフォーム(二軍)
  • 8 球団旗の変遷
  • 9 マスコット
  • 10 チームの特徴
    • 10.1 東京時代
    • 10.2 札幌時代
      • 10.2.1 情報システム
      • 10.2.2 球団の観客増加戦略
      • 10.2.3 ドラフト戦略
  • 11 チームスローガン
    • 11.1 東京時代
    • 11.2 札幌時代
  • 12 主なキャンプ地
  • 13 主な出資企業
    • 13.1 ゼネラルパートナー
    • 13.2 グランドパートナー
  • 14 主な歴代の球団歌・応援歌
    • 14.1 年度別イメージソング
  • 15 応援スタイル
  • 16 キーワード
    • 16.1 深夜のダブルヘッダー
    • 16.2 7種類のユニフォーム
    • 16.3 オールスター組織票問題
    • 16.4 ラッキー7を他イニングに
    • 16.5 本拠地移転後の東京ドームの公式戦
    • 16.6 東京の球団から地域密着球団へ
    • 16.7 新球場建設構想
  • 17 放送
    • 17.1 テレビ
    • 17.2 ラジオ
    • 17.3 インターネット中継
    • 17.4 補足
  • 18 脚注
    • 18.1 注釈
    • 18.2 出典
  • 19 関連項目
  • 20 外部リンク

球団の歴史

東京時代

セネタース - 日拓時代

1945年11月6日、戦時中の1943年に解散した東京セネタース(1935年創立)の中心人物だった横沢三郎がセネタース再興を目指し、新規に「セネタース( Senators企業名:セネタース野球協会)」を設立。再発足した日本野球連盟に加盟。1946年度のリーグ戦にゴールドスターと共に新球団として参加した。大下弘飯島滋弥白木義一郎など即戦力選手を集めたが、横沢個人で立ち上げた球団だったため財政的に厳しく、ユニフォームは戦前の阪急軍のお下がりという状態だった。旧華族西園寺公一オーナーに付け、銀座キャバレー経営者で高利貸しを兼ねていた織手登スポンサーになったものの、結局資金不足に陥り、横沢はたった1シーズンで球団経営を諦めざるを得なくなった。

東急・東映社史ではセネタースを「青鞜」と表記する場合がある。

1946年9月27日の対ゴールドスター戦(西宮球場)で、宿舎付近は雨が降っていたため、選手は試合中止と思い込んで移動しなかったが試合は行われ、これがプロ野球初となる放棄試合とみなされ、0-9で敗戦した。苅田久徳を可愛がっていた猿丸元(のち、東急球団代表) が五島慶太の子分で、猿丸が五島に球団経営を勧め、同年12月18日東京急行電鉄(東急)に球団権利金24万円を合わせ、合計35万円でチームを売却した。セネタースと東急との仲介の労をとったのは小西得郎浅岡信夫黒川渉三である。運営法人として、「株式会社東急ベースボール倶楽部」を設立。翌1947年の1月7日、球団名を「東急フライヤーズ(とうきゅうフライヤーズ、Tokyu Flyers)」とした。当時の東急はまだ大東急と呼ばれていた時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。当時の同社取締役経理部長であった大川博がオーナーに就任した。こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。

1948年4月9日、これまでプロ球界入りを画策して国民野球連盟にも接近し大塚アスレチックスといくつかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映野球が経営に参加し、企業名を東急大映野球、チーム名を「急映フライヤーズ(きゅうえいフライヤーズ、Kyuei Flyers )」に改称した。しかし、同年12月1日、金星スターズを別途買収することが決まった大映はフライヤーズの運営から手を引き、同月21日に球団名とチーム名は約1年で元の東急フライヤーズに戻った(大映ユニオンズを参照)。

この年、大映野球と合同したため、選手の人数が大幅に増加し、二軍を創設。チーム名は「急映チックフライヤーズ( Kyuei Tic Flyers )」となる。「チックフライヤーズ」は、急映のフライヤーズに大塚アスレチックス( Otsuka Athletics )のチックを絡ませた名称だった。

フランチャイズ(本拠地)制度が試験導入され、ホームグラウンド(専用球場)を東京都文京区後楽園球場とする(1952年より、正式導入される)。

1949年シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。

1950年

パ・リーグ参戦初年度のシーズンは8球団中6位。その後パ・リーグでは、しばらくBクラスに低迷。

1952年

大下弘との契約が難航、結局契約はこじれ、大下はシーズン途中に西鉄ライオンズに移籍。

1953年

9月、東急沿線の世田谷区駒沢公園に自前の駒澤野球場(駒沢球場)が完成し、後楽園球場から移転。奔放なプレースタイルから「駒沢の暴れん坊」の異名を取った。

1954年

1月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていた東映に球団運営を委託。同年2月1日、東映は子会社の東映興業株式会社 に球団を移管(東急ベースボール倶楽部は休眠会社として存続)。チーム名を「東映フライヤーズ(とうえいフライヤーズ、Toei Flyers ※東映フライヤーズ野球団とも)」に変更。球団保有…東急ベースボール倶楽部・球団運営…東映興業の二社体制となる。この体制は、1964年の東映の東急グループ離脱後も続いた。

1959年

後に3000本安打を達成する「安打製造機」張本勲が入団。新人王に輝き、チームは初のAクラス(3位)入りを果たす。

1960年

12月、前巨人の水原茂が監督就任。水原が巨人監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、京都や銀座にバー「おそめ」を開いていた上羽秀の恋人でもあった俊藤浩滋(後の映画プロデューサー)を呼ぶ。水原とは飲み友達だった俊藤はマキノ雅弘ら映画人とも知合いで、大川にも可愛がられていた。この招聘工作をきっかけに、水原は監督就任した。

1961年

それまで近鉄と最下位争いをしていた東映が、監督の水原の指揮で終盤まで南海との優勝争いとなった。南海のエースの杉浦忠が離脱したこともあり、マスコミは東映が有利としていたが、10月11日からの対南海5連戦で3勝した方が優勝という状況で、東映は3連敗で10月15日に優勝を逃し、優勝した南海と2.5ゲーム差の2位に終わる。張本が初の首位打者を獲得。

1962年

東京オリンピック(1964年)の整備計画のために駒沢球場が取り壊されることになった。試合会場の確保に悩まされたが紆余曲折の末に新宿区明治神宮野球場を学生野球のオフシーズンのみ借り、学生野球のシーズンは後楽園など他の球場を借りることで解決した(通常は神宮への移転とみなされる。この年の東映主催の日本シリーズのうち、第3・4戦は神宮、第5戦は学生野球と日程が重複したため、取決め上後楽園で開催した)。同年年頭、大川はワシントンハイツ多摩川園のいずれかへの新球場建設の将来構想を語った が、結局は実現しなかった。水原監督の下で土橋正幸尾崎行雄の両エースが活躍し、初のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも阪神タイガースを4勝2敗1引き分けで破り、念願の日本一に輝く。これが東映時代の唯一の優勝となった。このシリーズの最優秀選手 (MVP)土橋正幸種茂雅之の2名が選出されているが、MVPが2名選出されたのは日本シリーズ史上唯一である。張本が球団史上初のMVP、尾崎が新人王を受賞。

1964年-1967年

国鉄スワローズの神宮進出に伴って後楽園球場での試合が多くなり、1965年に正式に後楽園へ再移転することになった。1960年代後半に入り、張本の他、大杉勝男白仁天毒島章一大下剛史ら強打者を擁した。しかし、チームはAクラスこそ入るものの優勝からは遠ざかっていた。大川は野球が好きで、当時の東映の新作の広告には「映画は東映 野球も東映」というキャッチコピーも添えてはいたが、もともと無駄な補強費を使わなかった大川は球団に金を使いたがらなかった。元巨人の名監督ということで年俸の高かった水原は1967年に監督を解任された。

1968年

大下弘が監督に就任。大川オーナーは「門限なし、罰金なし、サインなし」という球史に残る"三無主義"を打ち出す。人のいい大下監督はこれを実行。大人の集団だった当時のチームに「門限なし、罰金なし」は特に問題にはならなかったが「サインなし」は致命的な大問題だった。既に川上巨人のような緻密な野球が主流となりつつあった時代に、大下監督が現役だった昭和20年代のような野武士野球をやって勝てるわけがない。大下はシーズン途中で休養。結果、球団史上初の最下位に終わり、東映は完全に時代に取り残された。

1969年

チームは4位に終わる。

1970年

黒い霧事件」発生。エースの森安敏明が永久追放を受け、映画産業の斜陽なども響いて人気が低迷していく。張本が日本プロ野球記録(当時)となる打率.383を記録し、4年連続の首位打者、大杉が最多本塁打・最多打点の2冠を獲得するも、エースを失った影響は大きく、チームは5位に沈む。

1971年

名物オーナーだった大川が急逝。岡田茂が東映本社社長に、大川の長男、毅が球団オーナーに就任。岡田の盟友で球団所有権を有する東急社長の五島昇と共に、大川色が強く年間3億円の赤字が出ていて不採算だった球団を手放すこととなる(五島は野球が嫌いだった)。

当初売却先としてはパイオニアが候補となっていたが、翌年10月21日にパイオニア側が買収を断念する。

1973年

1月16日、東京急行電鉄は球団を保有していた東急ベースボール倶楽部を東映に譲渡。東映は、岡田・五島共通の知人である西村昭孝 の経営する不動産会社日拓ホームへ球団を売却。売却額は3億円だった。商号は日拓ホーム野球株式会社、チーム名を日拓ホームフライヤーズ(にったくホームフライヤーズ、Nittaku Home Flyers )に改称(同年2月7日のパ・リーグ実行委員会で球団名変更を承認)。新オーナーの西村は低迷したパ・リーグに活気を取り戻そうと7色のユニフォームを開発するなどして球団運営に様々な新機軸を試みたが、チームは前期5位・後期3位の総合5位に終わる。パ・リーグに将来はないと見切って、1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策したが調印寸前で反故にされ、西村は球界に嫌気が差して球団経営を放棄。わずか1シーズンで球団を身売りすることとなった。なお夕刊フジの報道によると、日拓を含む複数の若手起業家のグループが中心となって、フライヤーズの球団経営を1年ごとに代えていく方針があったとされる計画も模索されていた。パリーグは「黒い霧事件」によるダメージが大きすぎて、1970年代に入るとセリーグとの人気の差は埋めがたくなっていた。

日本ハム時代

後楽園時代
1973年

11月19日に日本ハムへ売却。「プロ野球の発展を通じてスポーツを振興し、青少年の育成、そして社会に貢献していきたい」という思いから球団経営に乗り出す。法人名は「日本ハム球団株式会社」となり、オーナーに大社義規、球団社長に三原脩、監督に中西太が就任。新ニックネームを一般公募し、12月17日、公募で選ばれた新ニックネーム「ファイターズ」が発表され、球団名は「日本ハムファイターズ(にっぽんハムファイターズ、Nippon Ham Fighters )」となる。

1974年

前後期ともに最下位。総合最下位に終わる。張本が7度目の首位打者獲得。三原社長は、フライヤーズ時代の主力一掃を狙い、大規模なトレードに着手した。同年オフ、大杉がヤクルト、白が太平洋クラブ、大下剛史広島東洋カープにそれぞれ移籍した。ヒーローインタビューを日本で初めて開始する。

1975年

前・後期共に4位ながら、2年連続の総合最下位に終わった。高橋直樹が17勝、大杉との交換で入団した小田義人が首位打者を争うも太平洋に移籍した白にわずかに及ばず。同年オフ、張本が高橋一三富田勝との交換で巨人に移籍。中西は解任され、大沢啓二が監督に就任した。

1976年

小田義人と新外国人のウォルター・ウィリアムス、巨人から移籍した富田勝が打率ベストテン入りするも、前期4位・後期5位の総合5位。

1977年

前期4位・後期4位で2年連続の総合5位に終わる。

1978年

ボビー・ミッチェルが本塁打王、南海から移籍の柏原純一も活躍し、チーム成績は、総合3位。ファイターズになってから初のAクラスとなる。

1979年

高橋直樹が20勝を挙げ、島田誠が1回3盗塁をはじめ55盗塁を記録するも結果は2年連続の総合3位。

1980年

新人の木田勇が22勝で最多勝獲得、MVP・新人王などタイトル投手部門を独占、打線も柏原、トニー・ソレイタトミー・クルーズクリーンナップが活躍、後期は最終戦を前に後期優勝にあと1勝までこぎつけた。しかし、満員の後楽園で行われた10月7日の対近鉄最終戦(10.7決戦)では3回から登板した木田が打ち込まれて敗戦、残り試合を全勝した近鉄に逆転優勝を許した。結果的には前後期ともに2位、総合3位。オフには高橋直樹と広島・江夏豊の交換トレードを行う。

1981年

前期は4位に終わるも後期優勝。プレーオフで前期優勝のロッテを3勝1敗1分で破り、東映時代から数えて19年ぶり通算2度目のリーグ優勝。日本シリーズは、同じ本拠地を使用する巨人との対戦となったため、全試合が同一球場で行われた。井上弘昭が活躍するもクルーズの故障離脱が響き2勝4敗で敗退となった。

打撃陣では本塁打・打点の2冠王となったソレイタにプレーオフMVPの柏原とクルーズのクリーンナップに加え、島田や菅野、高代といった小兵選手も活躍した。投手陣では木田こそ10勝止まりだったが、間柴茂有が15勝0敗の成績で戦後初の無敗投手(規定投球回到達投手)となったほか、岡部憲章が防御率1位、高橋一三も14勝を挙げた。江夏も広島時代から3年連続でセーブ王 となった。

1982年

後期に優勝するものの、プレーオフで前期優勝の西武に1勝3敗で敗れ、総合2位に終わる。シーズン途中に骨折し、復帰は絶望とみられていた工藤幹夫がプレーオフ第1・3戦に先発し、「一世一代の大芝居」として話題を呼ぶ。工藤幹夫が20勝で最多勝。高橋里志が防御率1位。

1983年

パ・リーグの1シーズン制が再開、結果は優勝した西武に大差をつけられたもののAクラスの3位。二村忠美が新人王。江夏が3年連続最多セーブ。オフに、江夏が西武に移籍。

1984年

植村義信が監督に就任するも最下位に低迷し6月27日に解任。終盤は大沢が代行を務めるも10年ぶりの最下位に終わった。オフには中日ドラゴンズから三沢淳を獲得。

1985年

高田繁が監督就任するが、首位西武と23ゲーム差の5位に終わった。

1986年

首位西武と13.5ゲーム差で2年連続の5位。新外国人のトニー・ブリューワが.321の打率をあげる。

1987年

新人の西崎幸広が15勝を挙げる活躍を見せ、チーム成績は3年ぶりのAクラスとなる3位。同年をもって、後楽園球場は閉鎖。同地(文京区後楽)で建設中の東京ドームへ巨人とともに移転することとなる。オフに大宮龍男田中富生大島康徳曽田康二との交換トレードで中日に移籍。

東京ドーム時代
東京ドーム(1988年から2003年の本拠地。2004年以後は準本拠地として使用)

1988年から2003年までは後楽園球場の後継球場である東京ドームを使用。この頃になると西崎幸広柴田保光らが投手王国を形成。観客動員のアイディアとして「カップルシート」、「ビアシート」などのチケット販売や近藤貞雄発案といわれる「キスをしたら入場無料」、「仮装で来たら入場無料」「同一カード3連戦に指定日なし(例:「○月1日・2日・3日」と書かれており、この内だったら切符一枚につき一度、何時でも入場可)」といったイベントなどを打ち出す。しかし、この16年間でリーグ優勝は1回もなかった。

1988年

東京ドーム元年となった88年は投手陣は西崎、松浦宏明が最多勝、河野博文が防御率1位の活躍でチーム防御率も1位だった。しかし、打撃陣はチームの大砲であったブリューワが腰痛により1年を棒に振り、前年度ベストナインの白井一幸も試合中に骨折など怪我人が続出、トレードで移籍してきた大島康徳、急遽獲得したマイク・イースラーの奮闘があったもののチーム打率、得点数、盗塁数がリーグ最下位という貧打で、2年連続3位となるも62勝65敗3分と負け越す。観客動員数が過去最高の245万8500人を動員する。オフに高代延博と広島鍋屋道夫滝口光則とのトレードを行い、大洋から若菜嘉晴を無償トレードで獲得。高田が監督辞任、後任監督は近藤貞雄が就任した。

1989年

前年腰痛で1年を棒に振ったブリューワが復活し打率3割を超え、西崎は16勝

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出典:wikipedia
2018/12/09 16:10

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