日本新党(にほんしんとう、英語: Japan New Party)は、かつて存在した日本の政党。略称は日本新、日新、JNP。
1992年5月に細川護煕が、既成の政治・行政を打破する構想を掲げて結成した。スローガンは「責任ある変革」。
1993年7月の衆議院議員総選挙で35人が当選し、細川が非自民連立政権の首班となって政権交代を実現した。しかし、政治改革実現後の連立与党の分裂により、細川内閣は1994年4月に退陣し、同年12月に自由民主党・日本社会党・新党さきがけの自社さ連立政権(村山内閣)に対抗して旧連立与党(社会党・さきがけを除く)などが結成した新進党に参加したため、結党からわずか2年半で消滅した。
結党当初は現職の国会議員がおらず、国政の経験も、いわゆる三バン(ジバン=後援会組織、カンバン=知名度、カバン=選挙資金)も無い新人議員が多かったこともあり、議員よりも党事務局が主導する体制であった。代表である細川の個人的な人脈と人気に頼った「個人商店」とも揶揄され、党の運営資金も細川が自宅や別荘等の私財を担保にした借金が主なものであった。
いっぽうで、議員候補を公募で選んだり、女性の政治参加を促すためにクオータ制(党役員構成のうち、女性枠が20パーセントを下回らないという制度)を導入したり、女性のための政治スクールを開設するなど、既成政党には無い斬新なシステムを取り入れた運営でもあった。
1992年5月9日 、前の熊本県知事であった細川護煕が『文藝春秋』に「『自由社会連合』結党宣言」を発表し、55年体制下で停滞・固定化している既成の政治・行政を打破し、新しい政策を進めていく体制の実現のため、新党を結成して10年以内の政権交代を目指す構想を掲げた。細川は参加者を呼びかけ、松下政経塾関係者、ブレーントラスト、知事時代の秘書、後援者などの人材が集まりはじめた。
5月18日には最初の会議が開かれて決定機関として常任政務委員会を設置し、ここで基本政策、党則、選挙対策、党名などを決定していった。「自由社会連合」は仮称であり、改めて政党名を公募し、全国から200を超える党名候補が集まった。細川やプランナーなど5名がその中から選考して平成新党と日本新党の2つに絞った上で、細川の知り合いの外交官の意見により、英語名が国際的に通用すると判断した日本新党(JAPAN NEW PARTY)を党名とすることに決まった。5月22日に正式に党を結成して東京都選挙管理委員会に届け出、代表には細川が就任した。6月には東京都港区高輪に本部を設置した。
発足から2か月後、まだ組織も十分に整わない中での7月26日の第16回参議院議員通常選挙では比例区で3,617,235票 (7.73%) を獲得し、擁立した公認候補者17人のうち細川及び小池百合子・寺沢芳男・武田邦太郎の4人が当選した。
1993年1月の新潟県白根市市長選では日本新党の単独推薦候補者が、自民党と日本社会党両党の推薦候補者を破って当選を果たし、地方でもその人気の高さを示した。なお、同年6月23日には党組織委員長や党総務委員長を務めた実質党ナンバー2の松崎哲久を「党員としての適格に著しく欠ける」という理由で除名するなどのトラブルもあった。
いっぽう、国会では政治改革関連法案の不成立により政局が動き、宮沢内閣の内閣不信任案が成立、宮沢喜一首相は6月18日に衆議院を解散した(いわゆる嘘つき解散)。6月21日には武村正義らが自民党から離党して新党さきがけを、6月25日には羽田孜らが自民党から離党して新生党を結成した。そんな中、6月27日の1993年東京都議会議員選挙では初めての本格的な地方選に挑み、22人の公認候補者を擁立、20人が当選、推薦を含めて27人と都議会の第3勢力に躍り出た。
7月3日には新党さきがけと政策合意を締結した。また、両党間の幹部の間では将来の合併が模索され、後に一つの政党になることを発表した。
7月18日の第40回衆議院議員総選挙では細川や小池百合子は参議院から衆議院に転出するなど追加公認を含めて57人を擁立、35人が当選した。なお、この中には党が公募し、それに応募した約500人の中から選ばれた2人が立候補したが、結局、枝野幸男1人が当選するに留まった。選挙後の7月19日に新党さきがけと衆院院内会派であるさきがけ日本新党を結成することを発表。52人の第5勢力となった。
1993年7月23日には「政治改革政権」構想を発表、キャスティングボートを行使する形で小選挙区比例代表並立制の導入など連立政権参加の条件を非自民勢力と自民党に提示した。両勢力ともに受け入れを表明したが、結局、非自民を掲げて選挙戦を戦った議員の意向や新生党代表幹事であった小沢一郎が細川に首相就任を打診し、細川が受諾したことで非自民勢力と連立政権を組むことになった。こうして8月9日、38年ぶりの政権交代が実現し、政治改革を掲げる細川を首班とする非自民・非共産8党派連立内閣(細川内閣)が発足した。
9月16日には民主改革連合と参院院内会派である日本新党・民主改革連合を結成。11月18日には新生党と参院院内会派である日本・新生・改革連合を結成。さらに1994年2月4日には参院会派「民社党・スポーツ・国民連合」と統一会派である新緑風会を結成し、他党との連携を次々と深めていった。
一方、1994年1月には紆余曲折の末ではあるが政治改革4法が成立した。ただ、政治改革が実現したことによって連立政権は目標を失うと同時に消費税を国民福祉税と衣替えして税率を7%に引き上げようとした「国民福祉税構想」騒動などがおこり、求心力を失っていった。また、小沢と武村の政治路線に関する対立も激しくなっていき、小沢は内閣改造を細川に進言し、細川は武村を更迭しようとするなど、新党さきがけとの関係も険悪化していった。ただ、党内には新党さきがけとの合併路線を維持しようと模索する議員もいた。そんな中、自民党は細川の佐川急便グループからの借入金処理問題を徹底的に追求した。細川は対応に苦慮し、辞意を漏らすようになり、4月8日には正式に首相辞意を表明した。同日、日本新党は新党さきがけとの衆院会派を解消した。
4月20日には離党した親さきがけ系の小沢鋭仁ら3人の議員が院内会派であるグループ青雲を結成した。
4月25日に細川内閣は総辞職した。同日、羽田孜が首班指名を受けた直後、日本新党は新生党、民社党、自由党、改革の会と衆院院内会派である改新を結成した。しかし、これに対して社会党と新党さきがけは反発し、新党さきがけは表向きは閣外協力に転じ、実質的には野党となった。4月28日には羽田孜内閣が発足。閣僚1人を輩出した。
5月20日には離党した親さきがけ系の前原誠司ら4人の議員が院内会派である民主の風を結成した。5月22日には社会民主連合が解散して江田五月と阿部昭吾が日本新党に合流した。5月31日にはグループ青雲と民主の風は新党さきがけに合流した。
6月25日に羽田内閣は総辞職した。6月30日には自民・社会・さきがけによる村山内閣が発足し日本新党は下野した。
1994年9月28日には非自民勢力による衆院会派である改革が結成されたが、海江田万里ら4人の議員は参加せず、院内会派である民主新党クラブを結成した。そして10月30日に日本新党は第一回党大会を東京プリンスホテルで開催し、小選挙区制導入にともなう二大政党政治の実現に向けて、「新・新党」に参加するため解党を決定した。結局、この第一回党大会が解党大会となった。
12月9日に日本新党は解党し、12月10日に新進党が結成された。
政権与党時(1994年)
()内は就任前の党役職
(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
存続期間は非常に短かったものの、無党派層の支持を獲得してブームを起こし、短期間ながらも政権交代を実現したことのインパクトは大きかった。自民党政権が長期継続し、野党第一党(社会党)に政権交代を実現する力は無く、続く中規模政党(公明党・共産党・民社党)が住み分けていた55年体制が崩壊し、政権交代の緊張感が生まれた。政治改革による衆議院議員総選挙への小選挙区比例代表並立制の導入もあって、既成政党はそのあり方を見直さざるを得なくなり、ブームの再来を期待した新党の発足や離合集散も相次いだ。
立憲民主党代表の枝野幸男や東京都知事の小池百合子など、日本新党で初当選を果たした議員は2018年現在もなお各方面で強い影響力を及ぼしている。