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日本正教会とは?

(日本正教会から転送)
【日本ハリストス正教会】

府主教座のあるニコライ堂(東京都千代田区神田駿河台)。正式名称は東京復活大聖堂。現在の姿は関東大震災による上部ドームと鐘楼の崩壊後、1929年に再建されたもの。日本における代表的なビザンティン建築。首都圏の多くの正教会信徒が集う教会である。

【創設者】
亜使徒ニコライ
自治教会の承認 1970年(モスクワ総主教庁アメリカ正教会による承認、ただしコンスタンディヌーポリ総主教庁は承認せず)
現在の首座主教 ダニイル主代郁夫
【府主教庁所在地】
東京
【主な管轄】
日本
奉神礼の言語 文語体
【聖歌伝統】
ロシア聖歌ほか
【暦】
ユリウス暦
【概算信徒数】
9,619人(2014年現在)
【公式ページ】
日本正教会ホームページ
函館ハリストス正教会
復活聖堂
豊橋ハリストス正教会
聖使徒福音記者聖マトフェイ聖堂

日本ハリストス正教会(にほんハリストスせいきょうかい)は、キリスト教の教会。自治独立が認められている正教会所属教会のひとつである。ハリストスは「キリスト」の意(こうした独自の表記・翻訳については後述する)。英語表記は"Orthodox Church in Japan"である(略号はOCJ)。

通称・略称として日本正教会とも呼ばれる。1970年以前、自治正教会となっていなかったころにも、日本の正教会は日本人正教徒およびロシア人正教徒から「日本正教会」と呼ばれていた。

正教会は一カ国に一つの教会組織を置くことが原則だが(日本正教会以外の例としてはギリシャ正教会ロシア正教会ルーマニア正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉しているわけでは無く、同じ信仰を有している。

正教会の教義や、全正教会に共通する特徴については「正教会」を参照

19世紀後半(明治時代)に、ロシア正教会の修道司祭聖ニコライ(のち初代日本大主教)によって正教の教えがもたらされ、これがその後の日本ハリストス正教会の設立につながった。聖ニコライによって建立されたニコライ堂(東京復活大聖堂)、函館復活聖堂豊橋聖使徒福音記者マトフェイ聖堂は、国の重要文化財

本項では日本ハリストス正教会で用いられている用語を断りなく用いることがある。

目次

  • 1 現況
    • 1.1 組織
    • 1.2 日本全国の主な聖堂
    • 1.3 聖堂内部の特色(考証上の注意)
  • 2 歴史
    • 2.1 明治時代
      • 2.1.1 伝道の基本方針と日本の情況
      • 2.1.2 伝道のはじめ
      • 2.1.3 東京を拠点とした教勢拡大
      • 2.1.4 明治中期以降:対露感情悪化の中で
      • 2.1.5 日露戦争からニコライの晩年まで
    • 2.2 大正・昭和時代
      • 2.2.1 ロシア革命という激震のあおり
      • 2.2.2 関東大震災とニコライ堂の再建
      • 2.2.3 母教会との関係と戦時下の邦人主管者問題
      • 2.2.4 戦後から1970年まで
      • 2.2.5 ニコライ列聖・自治教会成立-現在
      • 2.2.6 1970年以降の他正教会との交流年表
      • 2.2.7 東京復活大聖堂教会の成立
      • 2.2.8 宣教師ニコライの全日記刊行
    • 2.3 関連:設計監督者の系譜
  • 3 世俗的政治問題に対する姿勢
  • 4 聖書・祈祷書等にみられる独自の翻訳・用語体系
  • 5 信者の亡骸の扱い
  • 6 脚注
  • 7 主要参考文献
  • 8 関連項目
  • 9 外部リンク

現況

2010年現在、日本ハリストス正教会の信者は1万人ほどである。ほとんどの信者は日本人であるが、日本に在住する外国人信徒も都市部などでは見受けられる。

組織

正教会の教会機構図解

東京大主教区(大主教座:東京)、東日本主教区(主教座:仙台市)、西日本主教区(主教座:京都市)の3主教区からなる。東京大主教座が同時に日本府主教座を兼ね、日本教会のいわば本山にあたる。

2012年9月現在の「東京の大主教・全日本の府主教」はダニイル主代郁夫。「仙台の大主教」はセラフィム辻永昇。「西日本の主教」は全日本の府主教ダニイル主代郁夫が兼任している。

日本ハリストス正教会は1970年以降、ロシア正教会の庇護下に自治正教会の地位にある。これは同じくロシア正教会の系列にあるウクライナ正教会とほぼ同格とされる地位であり、首座主教たる府主教の承認をモスクワ総主教が行うほかは、国内教会の指導・管轄につき、完全な自律・自治を行っており、財政面でもロシア正教会から完全に独立している。

奉神礼での祈祷文はごく一部の例外(主教の祝福に対する答礼の言葉「イス・ポラ・エティ・デスポタ:ギリシャ語」や、一部の教会スラヴ語聖歌など)を除き日本語である。奉神礼においては日本正教会訳聖書という独自の翻訳聖書を用いる(後述)。

神品(正教会の聖職者)のほとんどは日本人であり、日本の正教会はロシアから宣教されたにもかかわらず、その歴史の当初から現在に至るまで一貫して、ロシア人神品の数は少ない。

教会の分布を見ると、日本正教会の草創期に仙台の人士が活躍したこともあって、東北太平洋海運の拠点港である石巻流通関連地域(河川流通:北上川流域、海運:三陸海岸)を中心とした宮城県北部から岩手県南部に多くの教会がある。また、北関東両毛地区にもやや密集地がある。全体的には東日本太平洋側に多くの教会が分布しているが、北は北海道、南は鹿児島に至るまで全国的にも展開している。現在、聖堂ないし会堂を持たない教会も含めて、日本全国に60あまりの教会がある。

東京都駒込と目黒とに、モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ聖堂があるが、これはロシア正教会に直属するものであり、日本正教会所属の教会ではない。駐日ポドヴォリエではロシア系参祷者が多いこともあり奉神礼教会スラヴ語を中心に行なわれているが、若干の日本人信徒のために日本語も一部で用いられる。

日本全国の主な聖堂

京都ハリストス正教会
生神女福音聖堂

聖堂内部の特色(考証上の注意)

鹿沼ハリストス正教会の聖堂内部。正面にイコノスタシス

ロシア系正教会の伝統を継承しているため、日本正教会の聖堂内には長椅子がほとんど使用されていない。身体障害等の事情がない限り、正教会の奉神礼復活を象徴する姿勢として立って行うことが基本であるためである。長椅子ではない椅子が若干数置いてあったり壁際に長椅子がわずかに置かれていたりすることもあるが、多くは高齢者のためのものであり、参祷者が多く聖堂が混雑する際にはほとんどが片付けられるか折りたたまれるかされることが多い。

一方、ギリシャ系正教会やアメリカの正教会には椅子や長椅子が置かれていることが多い(例:ギリシャテッサロニキ聖デメトリオス(ディミトリオス)聖堂)。しかしこのような事例でも、本格的なイコノスタシスがそなえられていることが多いために、ほとんどの場合で西方教会の内観とはかなり異なった情景を呈していることに注意が必要である。また長椅子が置いてある地域の教会であっても、西方教会よりは圧倒的に参祷者が起立姿勢を維持する時間は長い。

稀にロシア系正教会、その流れを汲む日本正教会の内観に、長椅子とカトリック教会のような祭壇を設定し、西方教会とほとんど異ならない情景描写を行う各種映像・画像媒体(映画・漫画など)があるが、こうした表現には初歩的な考証が欠けていると言える。日本正教会やアメリカ正教会など、ロシア系の伝統を引く正教会の聖堂を描写するに際しては、西方教会と大きく異なる内観を多くの正教会の聖堂が有していることに留意して考証を行う必要がある。

歴史

明治時代

亜使徒聖ニコライパナギアを首からさげ、クロブークを被り、リヤサを着用している。

明治時代の日本正教会は、日本に正教を伝道したニコライ・カサートキンに多くを負っている。奇しくもニコライ・カサートキンは明治最後の年である明治45年(1912年)に永眠しており、明治時代の日本正教会は常にニコライ・カサートキンと共にあったことになる。

伝道の基本方針と日本の情況

当初からニコライは「日本人への伝道」を志して修道司祭となっており、活動を領事館付き司祭の枠にとどめる考えはなかった。ニコライは日本語を熱心に学び、日本人を対象とする布教を積極的に行った。派遣した19世紀後半、および20世紀初頭の開明的なロシア正教会上層部もまた同様の考えであり、「在日ロシア人のための教会」を建設するのではなく「日本人による正教会」を建てることが目指されることとなった。この基本方針はその後のニコライの様々な行動に一貫している。

日本語奉神礼に用いる現在の日本ハリストス正教会の姿は、現地の言語を大事にする正教会の伝統と、ニコライや日本人伝教者ら伝道に携わった人々・機関の方針の延長線上に位置づけられるものであり、正教会の古代から近世に至るまでの伝統が近現代において実を結ぶ過程であったといえる。

明治時代の日本における、西欧文明・近代化への学習熱を利用する事の出来たキリスト教他教派(西方教会)に比べ、文明を学ぶ対象とはされていなかったロシアから来たニコライと、近代合理主義の影響の薄い正教会には大きなハンデが課されており(現在でこそ近代合理主義の見直しの観点から正教が評価される機会もあるが、当時はこうした事情はハンデであった)、本国ロシアの無理解から支援も滞りがちであったが、伝道にあたってはニコライが育成した日本人信徒が主体となって教会を支え続けた。

伝道のはじめ

パウェル沢辺琢磨

1868年(明治元年)、箱館(北海道函館市)で三人の日本人が信徒になったのがはじめ。箱館は当時外国人に公開されていた港のひとつであり、帝政ロシアの領事館が置かれていた。キリスト教はまだ禁止されていたが、領事館の附属礼拝堂付の司祭であるニコライを沢辺琢磨酒井篤礼・浦野太蔵の三人が秘密裡に訪れ、1868年、教理を学び洗礼を受けるに至った(後に沢辺は初の日本人司祭となり、酒井も司祭になる。)。

最初の日本人信徒のうち、沢辺琢磨はニコライのもとを訪れた当初、「『異国の邪教を広める者』を斬ろう」としていたようである。だがニコライの説諭を聞き、正教の教えを受けるに及んで正教信仰を受け入れるに至った。この経緯を使徒パウロ(スラヴ語読み:パウェル)になぞらえて「パウェル」の聖名を与えられた。

東京を拠点とした教勢拡大

建立当初のニコライ堂

函館でしばらく宣教を行っていたが東京での宣教を切望していたニコライは、のちに修道司祭アナトリイが函館に着任すると函館をアナトリイに任せ、上京。1872年に神田駿河台の土地2300坪を買い、宣教の拠点とした。1874年5月には布教会議を東京で開催する。神田には神学校を設けた。1880年にはニコライは主教叙聖され、ここからニコライは司祭輔祭をロシア正教会から派遣される主教を待たずに叙聖することができるようになり、日本人神品増加の環境が整った。1891年には大聖堂(東京復活大聖堂 ・通称:ニコライ堂)を建設し、ここを布教の根拠とした。布教範囲は全国に及んだが、東北地方での浸透が著しい。ニコライは日本の寺院の檀家制度のような、一村まるごとを改宗させるという手法で、着実に布教を進めていった。

山下りん(26歳頃)

出版事業に重きを置いたニコライにより、各種祈祷書・聖歌譜が日本語に活発に翻訳されていった。1882年に帰国したイリナ山下りんにより各地の聖堂のイコンが描かれていった。また日本に着任していた修道司祭アナトリイの甥でもありピアノ・チェロの奏者でもあったヤコフ・チハイが同年頃に来日し、聖歌教師として聖歌の普及に努めた。ヤコフ・チハイの弟子には小原甲三郎、インノケンティ金須嘉之進(きす・よしのしん)、東海林重吉などがあり、ヤコフ・チハイとともに聖歌指揮・聖歌譜の翻訳・作曲に従事した。同時期に活躍した聖歌指揮者としてディミトリィ・リオフスキィがいる。正教会は急速に教勢を拡大していった。

明治時代、ロシア人の伝道従事者が少なかった(明治時代一貫して、ロシア人神品は日本全国でも4人を超えることはなかった)ことを考えれば、驚異的な宣教の成果であった。最盛期には100人を超えていた日本人伝教者(神品ではないが専従職の伝道担当者)を始めとする日本人教役者が伝道の核を担ってきたと聖ニコライは1910年に述べている。同時代のロシア人司祭からも1880年代のペテルブルク主教区宣教委員会総会で、日本での伝道成果は日本人伝教者達によるものであるとする報告がなされていた。

明治中期以降:対露感情悪化の中で

大津事件にみられるように日本の対露感情は悪化していく中、ロシア正教会から伝道された日本正教会もまた各地で迫害を受けることになる。

大津事件の際、ニコライ主教は襲撃されたロシア皇太子(のちのニコライ2世)を輔祭河村伊蔵を伴って見舞い、ロシア皇太子の対日感情の緩和に努め、この危機にあたって日本と戦争しないようにくれぐれも父皇帝に伝えるよう願った。ニコライが日本政府内に多くの知己を得ていたことと併せて、このことはロシア人であるにもかかわらず個人としてのニコライは日本政府からおおむね信頼を得る結果となった。

しかしながら日本正教会全体の状況の厳しさは変わらなかった。日本人正教徒達は各地でロシア帝国のスパイであるとの嫌疑をかけられ、住居からの追放や、神父への襲撃、墓石や教会建物の破壊行為が各地で起こった

正教側は、正教はロシア専有の宗教ではなく世界の聖公使徒教会であると主張していたが(これは世界の正教会と共通する見解)、世間からは「露教」と誤解する向きが根強かった。1894年ギリシャ正教会のディオニシオス大主教が来日してニコライ主教と日本人信徒ともに奉神礼を行った事を、「(ギリシャ正教の大主教とニコライ主教と)わが日本正教会信徒が一堂の内にて同一の信仰を保ち、同一の奉神礼を執行し、一の主なる神を讃美し、わが正教会の信仰と奉神礼とはギリシャ正教会のそれと同一であって、世界到るところの正教会、聖にして公たる使徒伝来の基督教会の一枝であることを如実に証明し得た」と記し、「正教会が蒙っていた冤罪を雪ぐべき好機会」であったと記した長司祭三井道郎の回想記の一節にも、当時の日本正教会が置かれた状況が垣間見える。

日露戦争からニコライの晩年まで

1904年日露戦争開戦。この時ニコライは日本人信徒達から懇請を受け、在日ロシア人達による共に帰国することの勧めを断って日本にとどまり、苦難の下にあった日本人正教徒達を激励し続けた。ニコライは内面では、度重なるロシア軍の惨敗の知らせと停滞する祖国:ロシア帝国の姿に、自らの日記において苦悩を吐露し、ニコライ堂奉神礼からも主教祈祷から退いているが、それでもニコライは信徒達には「諸君は皇軍のために祈れ」と指導し、あくまで日本人の指導者・日本の正教会の主教という姿を貫き通すことになる。

他方、日本正教会はロシア人捕虜のケアを行い、「日本人のための日本正教会」が「日本人のためだけの日本正教会」ではないことを行動で示した。

だがニコライが個人的な信頼を日本政府内で得ていようと、そして日本正教会が日本政府と協力してロシア人捕虜のケアを行おうと、反露的な機運は日本正教会にも向けられていった。日比谷焼打事件の際には東京復活大聖堂とその関連施設も暴徒に襲撃されるところであり、あわや火をかけられるところであった。この時は戒厳令の下に出動した近衛兵の護衛により教会の各施設も難を逃れた。

こうした逆境にもかかわらず、1911年、ニコライが大主教に昇叙された年には、日本正教会の教勢は教会数265箇所、信徒数31,984名、神品数41名、聖歌隊指揮者15名、伝教者121名に達した。これは当時の日本にあってカトリック教会に次ぐ規模であった。

明治最後の年、1912年に大主教ニコライは永眠、76歳であった。この時、明治天皇から恩賜の花輪が与えられた。外国人宣教師の葬儀に際して時の天皇から花輪が与えられるのは異例のことであった。

大正・昭和時代

斜里ハリストス正教会の現在の会堂である生神女福音会堂の遠景。1912年(大正元年)に始まる、日本正教会最北の教会(北海道斜里郡斜里町)である。現会堂は1979年に建てられた。

昭和時代は世界大戦との関連で日本の諸教会が苦難を経験しており、日本正教会もその例外ではなかった。しかし、日露戦争に代表される日露関係の悪化と、日本における対露感情の悪化、および無神論を標榜するロシア革命の勃発、そして母教会であるロシア正教会に大規模な弾圧を加えるソ連の成立は、他教派より相対的に長い20世紀後半までの苦難という結果を日本正教会にもたらした。

ロシア革命による混乱は日本正教会にとどまらず、ロシア正教会の影響下にあった世界中の正教会に及び、その残滓は今も世界中の正教会の相互関係における課題を残している。このような苦難の時代を経つつも、日本における正教信仰は途絶える事は無かった。

ロシア革命という激震のあおり

無神論を標榜するボリシェヴィキによって1917年にロシア革命が勃発しソ連が成立すると、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約以降、数次にわたって更新されてきた日露協約にみられる極めて短い日露協商の時代は終わりを告げた。これ以降、1991年ソ連崩壊に至るまで、日本正教会は「反露感情」のみならず「反共感情」にもさらされていくことになる。正教会は実際には共産主義国家から大弾圧を受けている被害者であり、共産主義者はこぞって正教会の「後進性」を批判しており正教会に一切の好意を持っていなかったにもかかわらず、日本正教会及びその関係者は「親露=容共」というあらぬ嫌疑をかけられてしまうこととなった。この困難な時期に最初に直面したのは大主教ニコライの後継者であったセルギイ・チホミーロフ主教(のち府主教)であった。

爆破され崩れゆく救世主ハリストス大聖堂

ロシア正教会はソ連では大規模な弾圧を受けており、ソロヴェツキー諸島の修道院群はレーニンの命令で強制収容所に転用され、救世主ハリストス大聖堂1931年スターリンの命令でダイナマイト爆破された。日本正教会の初代京都主教を務めたペルミの聖アンドロニクは、生き埋めにされた上で銃殺されるという特異な致命を遂げたことで知られている。1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、その他信徒多数が処刑されたが、1918年から1930年にかけてみれば、およそ4万2千人の聖職者が殺され、1930年代にも3万から3万5千の司祭が銃殺もしくは投獄された。1937年1938年には52人の主教のうち40人が銃殺された。

ロシア正教会#共産主義政権による弾圧の概要」も参照

これほどの弾圧がロシア正教会に加えられつつも日本における「ロシア=ソ連」という通俗的観念はぬぐいがたいものがあり、共産主義政権による被害者である正教会が通俗的には共産主義者の仲間と見なされてしまうという、極めて理不尽な情況が生まれた。

またロシア革命以降、ロシア正教会は共産主義政権との対峙・交渉、及び自教会の維持のみで精一杯となり、他国の正教会を支援する余裕を失い、欧米をはじめとした各地の教会組織に混乱が起こった。他国に起こったこうした事情は日本とても例外ではなく、母教会であるロシア正教会からの日本正教会への財政的支援も消滅した。この時点での日本正教会はいまだ財政的にすぐに自立出来る状態にはなく、給与を支払うことができなくなった多くの伝教者を解雇せざるを得なくなり、教勢は衰えた。一例として、アレクセイ河野次郎が熱心に支援し、その息子ペトル河野通勢が長野在住時代に通っていた長野ハリストス正教会復活会堂1921年に閉鎖された事が挙げられる。

なお、ロシア革命から日本に逃れてきた多くの白系ロシア人が日本正教会での信仰生活に加わり、教会によっては2009年現在に至るまで、一定の在日ロシア人系コミュニティを教会内に形成している。特に東京のニコライ堂と、神戸ハリストス正教会にその傾向が顕著である。

関東大震災とニコライ堂の再建

日露戦争およびロシア革命の余震がまだ大きく続く中、日本正教会は1923年関東大震災ニコライ堂が崩落し首都内のいくつかの聖堂も失うという極めて大きな打撃を被った。関東大震災で散逸もしくは焼失したとみられる史料も多く(大震災前のニコライ堂の、コンドルによる修正前のミハイル・シチュールポフによる原設計図など)、その損失は測り知れない。なお、大震災の惨状についてはペトル河野通勢による、ニコライ堂も含めたスケッチ・銅版画が残されている。

これほどの打撃にもかかわらず、セルギイ・チホミーロフ大主教(役職当時)はよく日本正教会を支え、1929年、ニコライ堂を再建した。再建にはセルギイ大主教の全国行脚の甲斐もあってか千島から台湾に至るまでの信者達からの多額の献金があり、これ以降、日本正教会が財政的に自立していく契機の一つとなった。この時、海外の正教会からもニコライ堂の再建に対して多額の献金があったこと、国内においては信徒達以外からもニコライ堂の文化的価値に共鳴した異教徒たちからの少なくない献金があったことが、セルギイ・チホミーロフにより言及されている。

現在に至る、再建されたニコライ堂の姿。崩落したドームは形状を変えて復興され、大震災時に高かった鐘楼が倒壊してドームを破壊したことを鑑み、鐘楼は低く抑えられている。また、大震災時に火災が発生したことを反省し、元々少なかった木造部分もほとんど石造に変更された。

大聖堂の成聖式には全国から信者や関係者が集まり、3千人以上が集まったと伝えられている。参加した教役者の数は、大主教セルギイとハルビンの主教ネストルを含み総勢39名であったと記録されている。震災後の東京復興委員会代表となった中川望(元大阪府知事)も式典に参加していたが、彼は正教徒であった。

また聖公会主教ジョン・マキム博士も祭服着用の上で参加した。

ロシア革命以降停滞を余儀なくされていた日本正教会に対し、神学教育等の面で協力していたのは日本聖公会であった。20世紀前半、日本正教会と日本聖公会の間には比較的友好的な協力関係があった。「両教会とも、ローマ教皇教皇首位権に否定的でありつつ、ある程度伝統的な教会である」「ロマノフ朝ハノーヴァー朝の縁戚関係」等の要因により、世界的に正教会と聖公会の合同への機運が高まっていたことも背景にあった。戦後すぐの時期まで両教会の友好的関係は続いていく。しかしながら20世紀後半には世界的な両教会の合同の気運も消滅し、日本にあっても両教会の協力関係はその後継続せず、2009年現在では両教会の関係は特に深いものではなくなっている。

母教会との関係と戦時下の邦人主管者問題

1931年大主教セルギイは府主教に昇叙された。だがこのころから、日本正教会にはある動揺が広がりつつあった。共産主義政権の下で弾圧されその影響下にあるロシア正教会の意思・決定の正当性およびその真贋に疑義を持つ人々は少なくない中、モスクワ総主教庁との連絡を断たない府主教セルギイに対する疑問の声が上がりつつあった。

ソ連当局の監視下にあるモスクワ総主教庁との関係を巡り、見解の差異が教会内に生じて動揺が起こるといった現象は、西欧・米国をはじめとして全世界的に各地正教会にほぼ例外なくみられたが、日本正教会もその例外ではなく教会に亀裂が生じた。

問題が複雑になったのには国内の事情だけではなく、在外ロシア正教会というソ連からの亡命ロシア人が中心になって結成した小さくない教会組織が1922年9月13日にセルビアスレムスキ・カルロヴツィ(Sremski Karlovci: Сремски Карловци) を中心に設立され、モスクワとの対決姿勢を鮮明にしていたことにも起因していた。

出典:wikipedia
2018/06/21 15:40

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