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日活とは?

【本社所在地】
日本
113-0033
東京都文京区本郷三丁目28番12号
北緯35度42分21.75秒 東経139度45分42.84秒 / 北緯35.7060417度 東経139.7619000度 / 35.7060417; 139.7619000座標: 北緯35度42分21.75秒 東経139度45分42.84秒 / 北緯35.7060417度 東経139.7619000度 / 35.7060417; 139.7619000
【設立】
1912年9月10日
業種
情報・通信業
法人番号
4010001000011
【事業内容】
映画の製作、宣伝、配給、興行
【代表者】
代表取締役社長執行役員 佐藤直樹
【資本金】
35億3,475万円
【売上高】
78億4000万円(2019年02月28日時点)
【営業利益】
2億0600万円(2019年02月28日時点)
【経常利益】
2億0700万円(2019年02月28日時点)
【純利益】
1億5600万円(2019年02月28日時点)
【純資産】
67億9500万円(2019年02月28日時点)
【総資産】
111億6900万円(2019年02月28日時点)
【従業員数】
197名
【決算期】
2月末日
【主要株主】
日本テレビ放送網(株) 35.4%
スカパーJSAT(株) 28.4%
【主要子会社】
(株)ジャンゴフィルム 100%
【関係する人物】
後藤猛太郎
【外部リンク】
http://www.nikkatsu.com/

日活(にっかつ)は、日本映画製作、配給会社である。

社名は創立時の名称である「日本活動冩眞株式會社」(にほんかつどうしゃしんかぶしきがいしゃ)の略称に由来する。

概要

本社は東京都文京区本郷3-28-12。調布市日活撮影所を有している。撮影所内ではかつて日活芸術学院(1975年 - 2013年)を運営していたが、城西国際大学に事業譲渡している。ミニシアターシネリーブル池袋、シネ・リーブル梅田、シネ・リーブル神戸(三宮)、シネ・リーブル博多駅(福岡県)を所有し、千葉県印西市シネマコンプレックスシネリーブル千葉ニュータウンを所有していたが、2009年4月から、東京テアトルとの業務提携により、運営を東京テアトルに委託している。また、スカパー!プレミアムサービスケーブルテレビ局向けにチャンネルNECOレインボーチャンネルを、スカパー!(東経110度CS放送)向けにチャンネルNECOを放送している。

かつては東宝東映松竹と並び称される映画会社だった時代もあり、一時は映画館のほかホテル・ゴルフ場・ボウリング場をもつ総合レジャー企業を志向していた時期もあったが、設立当初から経営危機・和議申請・会社更生法申請・様々な企業に買収・転売されるなど苦難の歴史をたどり続けた。1970年代 - 1980年代後半には経営の苦しい中日活ロマンポルノの名称で映画製作業務を続け、助監督の採用を続けていた。当時採用した助監督は、その後監督に昇進し、今日の日本映画を支えている。

詳細は「日活ロマンポルノ」を参照

会社自体は日本最古の歴史を誇るが、戦時中に新会社の大映に製作部門を譲渡し、日本の大手撮影所建設としては現時点で最後である1954年に撮影所を建設し、ゼロから製作を再開したこと、その際に五社協定包囲網に抵抗しながら新人発掘で乗り切ったこと、製作再開まもなくから十数年間、青春映画アクション映画を得意としたことなどから、老舗としてよりはニューパワーとして位置づけられ語られることが多い。これは、遥かに後発の大映が、実質的に旧日活の製作部門を継承しているために「伝統」の文字を冠させられることが多いのと対照を成している。

沿革

創業 - 戦前

1912年3月、国家当局の要請を受けた京都横田商会の横田栄之助の尽力により、資本金1000万円をもとに横田商会吉沢商店福宝堂エム・パテー商会の国産活動写真商社4社が合併して「日本活動フィルム株式會社」として創立(初代社長は後藤猛太郎)。

この「日本活動フィルム株式會社」は、株式市場で「活フイ」と略称されたため、「これから発展しようという会社が“フイ”になってはいかん」と社長の後藤猛太郎縁起を担ぎ、元号が大正へと変わった後の9月10日に、社名を「日本活動冩眞株式會社」と改称し、略称を「日活」とした。以後、時代劇の名門映画会社として、京都の撮影所で尾上松之助を看板スターとした。

1913年、東京向島水神に、ガラスステージを備えた現代劇(新派)の撮影所を建設。

1914年10月、ロシア文学を原作とする『復活』が公開され大ヒット。女弁士が「カチューシャの唄」を歌い、大評判となった。現代劇映画だったが、カチューシャ役は歌舞伎女形役者である立花貞二郎が演じるものであり、まだ映画女優は存在しなかった。

病弱だった立花が死去すると、向島撮影所では大阪の舞台から東猛夫を招いて女役に当たらせるが、やがて「写実を本位とする映画劇に女形は不適当である」との声が高まり、舞台女優中山歌子が「映画女優」として加入することとなる。

1922年12月30日、女形が出演する最後の作品『京屋襟店』が封切られた。これを契機にこの年暮に向島撮影所の女形を交えた新派役者10数人(13人とも)が、国活(国際活映)に移籍。日活はこれを機に向島から女形を一掃、新劇の舞台協会と提携して「ピカ一スタア」と呼ばれた岡田嘉子を時代劇女優に迎え、ほかに瀬川つる子ほか数人の女優に加え、溝口健二阿部豊ら新進監督が腕を振るい始める。

1926年、尾上松之助が死去。以後京都撮影所では、山本嘉一河部五郎大河内傳次郎らが人気を博すが、サイレントからトーキーに移行した辺りに日活を去り、独立プロを追われた阪東妻三郎片岡千恵蔵嵐寛寿郎入江たか子らが参入。この時期業績が下降し、経営権を巡る争奪戦が勃発。東宝・松竹両社が株式の相当数を抑え、かつ両社から一定数の重役を迎えるなど両属状態に陥った。

1942年戦時統合により製作部門が切り離され、新興キネマ大都映画とともに大映(大日本映画製作株式会社)に移管、映画製作から一旦撤退。業績の良かった配給部門だけが残った。

映画会社としての再生 - 映画黄金時代

1945年4月、大映から直営館29館を譲り受け90館になり、11月、「日活株式会社」に社名変更。製作部門を持たない日活は、終戦直後は大映の映画、その後はアメリカ映画の興行を専門にしていた。戦後復興期が終わると人気に(かげ)りが出てきていたアメリカ映画の興行は、5割を越える高いフィルム賃借料が足枷(あしかせ)となり利益が出なかった。その上、〔1951年 - 1952年、〕外国映画の輸入権限がGHQから日本政府に移り、洋画配給がセントラル映画社(CMPE)からメジャー各社の日本支社と日本の配給会社に移されると、メジャー各社の横暴が顕著になり、洋画大作は松竹東宝系でロードショー公開、日活には小物や余り物映画といった扱いで、日活の業績は急速に悪くなっていった。活況である映画製作会社とは対照的に、映画の興行部門は製作・配給会社の直営館や大手興行会社の大都市封切館を除くと、映画館の新築ブームで競争相手が増加しているため経営状態は悪かった。1952年、経営不振の新東宝から日活への資本提携の打診は、製作部門を持たず製作再開を考慮中だった日活が新東宝の製作・配給部門を手に入れる千載一遇のチャンスだったが、東宝の強行な反対によって頓挫する。また、赤字からかろうじて脱していた東映が、1953年マキノ光雄の果断によって製作した『ひめゆりの塔』の空前の大ヒットにより急成長するのを日活は横目で見ていた。映画製作再開論者の江守清樹郎常務が洋画興行の劣勢を挽回するために、慎重派の堀久作社長を説得した。1953年7月8日、堀は日活の株主宛に「映画製作再開のお知らせ」を送付。同年9月1日、堀は記者会見で「月2本のカラー映画製作」という基本方針を発表。1954年6月29日、製作再開第1作『国定忠治』が公開。

撮影所の1期工事竣工〔1954年3月〕の前後から、山根啓司製作部長が中心となって、監督や映画スタッフの引抜きを本格化させる。しかし、既に前年1953年9月10日、引抜き防止策である「五社協定」が5社長会議〔松竹・東宝・大映・東映・新東宝〕で調印。製作スタッフに比べ、俳優の引抜きは順調にはいかず、江守も「スター不在の日活」だったと認める状態が当分の間続く。再開後しばらくは新国劇新劇の俳優に依存していたが、その状態から脱するために新人発掘、ニューフェイスの育成、他社の主役のみではなく脇役も勧誘、また、本数契約のスターと日活も本数契約を交わしたり、移籍をお願いした。

新人のニューフェイスなどを登用せざるを得なくなり、宍戸錠名和宏長門裕之らを起用。やがて石原慎太郎原作の「太陽族」映画が当たると、石原裕次郎小林旭浅丘ルリ子待田京介赤木圭一郎二谷英明岡田真澄川地民夫和田浩治葉山良二中原早苗笹森礼子清水まゆみ小高雄二青山恭二筑波久子らを起用した若者向けの低予算のアクション映画中心の会社に路線変更した。また劇団民藝と提携し俳優を確保した。興行収益が好調な上に事業多角化を推進したため、業績は堅調。これによって石原、小林、赤木、和田による「日活ダイヤモンドライン」と中原、芦川、浅丘、笹森、清水、吉永小百合による「日活パールライン」を看板に掲げた。

日活による引抜き、または、自らすすんで移籍した主な俳優・スタッフ

出典:井上雅雄「日活の映画製作再開と「五社協定」」『戦後映画の産業空間: 資本・娯楽・興行』谷川建司、森話社、2016年7月7日、28 - 29頁。 ISBN 978-4-86405-098-2。

斜陽時代

本格的なテレビ時代の到来と日本の映画産業全体の斜陽化のあおりを受けた上に、北原の引退、赤木の急逝、アクション映画のマンネリ化、企画不足、裕次郎・旭の二大スターの肥満等による人気低下、堀久作社長のワンマン体質からくる過剰な不動産投資、1967年(昭和42年)には堀に反発した江守専務ら映画製作の中枢者を強引に退陣させる等、放漫経営などが次々に災いして1960年代には業績は急激に悪化していった。

その頃に浜田光夫高橋英樹松原智恵子和泉雅子といったいわゆる「日活グリーンライン」と呼ばれる新人スター達を生み出し、青春映画路線は後のアイドル映画の礎を築いたが、退潮を食い止めることは出来ず、主要劇場・事業所を次々と売却してしまう。1965年入社の渡哲也を軸とするアクション路線の立て直し(裕次郎主演作のリメイクが多い)、さらには新人監督を多く起用してのニューアクション路線も、業績下降の歯止めとはならなかった。

日活黄金時代の立役者となったベテランスタッフも多くが退社、独立し、日活を離れた。1969年(昭和44年)には撮影所を、1970年には日比谷の本社ビルをも明け渡した後、同じ不採算で同根の大映と配給部門を合体してダイニチ映配を設立する。しかし、この弱者連合はすぐに行き詰まり、翌1971年(昭和46年)には堀社長が退陣し、息子の堀雅彦が社長に就任する。

にっかつ時代、ロマンポルノ路線

1971年8月、『八月の濡れた砂』(同時上映『不良少女魔子』)を最後に日活アクション映画(1968年以降は、日活ニューアクションと呼ばれた)は終焉。ダイニチ映配を解消し大映と袂を分かった後は、9月18日から日活系独自で『朝霧』(和泉雅子主演、撮影は1968年)を封切、これを以って映画製作を一時中断する。

その後、労働組合との協議により、採算面から低予算の成人映画(ポルノ映画)製作に踏み切り、同年11月から正式に、「日活ロマンポルノ」と銘打った成人映画路線をスタートさせた(路線第1弾の作品は『色暦大奥秘話』、同時上映『団地妻 昼下りの情事』)。

大手の映画会社が、本格的なポルノ映画に着手するのは世界にも例がない。これにより、これまでの上述の日活映画スターたち及び一部のスタッフは事実上フリーになった(フリーになったプロデューサーたちが設立したのがNCP=ニュー・センチュリー・プロデュースである)。 なお、裕次郎はポルノ路線転換前に石原プロモーションを立ち上げ、日活とは決別している。

1975年に堀雅彦が社長を辞任し、副社長の村上覚が社長に就任する。これによって、戦前より会社経営を担ってきた堀親子が退陣となった。この時期に、日活労働組合出身の根本悌二がいきなり専務取締役に就任する。

1978年7月、東京証券取引所一部に上場していた日活株は、資本金を上回る累積赤字を出し債務超過に陥ったため、上場廃止の危機に直面した。そこで同社は、当時宮尾すすむ出演のCMで知られ、安売り紳士服チェーンとして一世を風靡していた「流通卸センター(ROC)」と提携。同社の系列会社や香港の投資会社「キャリアン・インベストメンツ」、落合莞爾の経営していた東京債権ファイナンス等に対して第三者割当増資を行うことで債務超過を脱し、上場廃止に直面していた難局を乗り切った。その余勢で同年9月には調布の撮影所を買い戻し、それを機に社名を株式会社にっかつに変更する。

アダルトビデオの隆盛に押され、1980年代後半にはロマンポルノ上映館に足を運ぶ人は右肩下がりとなり、にっかつはロマンポルノに見切りをつけ、1988年7月1日、これまでのロマンポルノ上映館を「ロッポニカ」に改名し、配給会社のにっかつ映画配給株式会社を「株式会社シネ・ロッポニカ」に変更した上で「ロッポニカ」レーベルで一般向け映画の製作・配給を再開する。ロッポニカの名称は当時六本木に本社があったことに由来する。

1989年ケーブルテレビ(CATV)向けのコンテンツ供給会社「にっかつ映像コミュニケーションズ」を設立。「ロッポニカ」終了後、にっかつが経営していた成人映画専門上映館(以下、成人館)新日本映像作品を上映していたが、ロッポニカ金沢、シネロマン博多、ロッポニカ旭川、シネロマン千葉、シネロマン名古屋、ロッポニカ帯広、ロッポニカ秋田、ロッポニカ下関、ロッポニカ佐賀などを閉館して徐々に撤退、整理の方向に進んでいった。2008年4月、シネロマン池袋、ロッポニカ高松の2館の営業を譲渡し、ロマンポルノ開始以来所有していた成人館、全て他社に譲渡もしくは閉館となった。現在、旧日活直営館で「ロッポニカ」の名が残るのは高松市と三重県四日市市の成人館のみである。

経営母体流転時代

1992年、創立80周年を記念して製作した超大作『落陽』が記録的な不入りとなり、翌1993年(平成5年)、会社更生法の適用を申請し事実上倒産。大手ゲーム会社ナムコ(後のバンダイナムコエンターテインメント)会長兼社長の中村雅哉が経営支援に乗り出した。更生計画認可後の1997年(平成9年)、社名を元の日活株式会社に戻した。

2005年4月21日、ナムコが日活株式のUSENへの譲渡を検討していることを発表するが、USENの企業体質に対して日活労働組合が難色を示し、USENは買収を断念する。同年9月7日インデックス・ホールディングス(以下インデックス)がナムコ保有の日活株式の取得を発表、インデックスが労働条件の維持を表明し、日活労働組合も同意し、同年9月中に日活はインデックスグループ傘下の子会社となった。同年11月1日をもってインデックスの会長・落合正美が日活会長に、ナムコの中村雅哉は非常勤の名誉顧問になった。中村は、2008年10月に名誉顧問も退任した。 社長には、徳間グループ傘下だったころの大映のプロデューサーから、譲渡合併後の角川大映映画(後の角川書店(映像事業)。旧・角川映画)に転じ、大映労組の副委員長から製作担当の取締役となっていた佐藤直樹が名乗りを挙げた。

日テレ資本参加 - 現在

2009年1月23日、インデックス・ホールディングスは保有株式の34.00%を、日本テレビに譲渡した。これにより、日活はインデックスの子会社から持分法適用会社になった。その後、インデックスはアミューズメントメディア総合学院にも、保有株式を譲渡した。その後、スカパーJSATにも譲渡するなどして、保有していたすべての株式を譲渡した。現在は日テレが筆頭株主、スカパーJSATが27パーセントを保有する第二位の株主となっており、日テレとスカパーJSATホールディングス持分法適用関連会社である。

タカラトミーがメインスポンサーとなり、2009年4月から放送開始したテレビ番組『レスキューファイアー』では、『電撃!! ストラダ5』以来35年ぶりにテレビ特撮ドラマの映像制作を手がけている 。

2014年7月、日活と東宝東和がゴールデン・アジアレーベルを設立。第1弾はチャウ・シンチー監督の『西遊記〜はじまりのはじまり〜』が2014年11月21日に公開された。

年譜

大正年間

昭和戦前

浅草公園六区の根岸興行部の残党である根岸寛一(映画監督根岸吉太郎の大叔父にあたる)が多摩川撮影所の所長に就任。
東京有楽町の日本劇場(日劇)を直営するが、失敗し撤退。この一件で大株主の福田英助(都新聞社主)が経営陣に突きつけた経営責任を巡り社内は紛糾し、中谷社長が辞任。
この一件で堀が推し進めていた東宝との提携は無効となる。大株主の福田一派の告発によるものだが、松竹大谷竹次郎はこれに乗じて、堀の資金源だった千葉合同銀行より日活債権の買取へ動く。
逮捕後程なく、松竹が日活分裂のために元日活京都撮影所長の永田雅一に出資していたダミー会社の第一映画社が解散。永田は同じく松竹系の新興キネマ京都撮影所所長に就任。
経営陣はこうした松竹、東宝の動きに対し中立的な立場から大阪の興行主・森田佐吉を社長に、東京の興行主・大蔵貢を常務に据えた。しかしながら、大蔵が松竹と通じていたため、利益相反行為で問題となる。

1940年代

1950年代

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