このキーワード
友達に教える
URLをコピー

日清戦争とは?

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本清国の間で行われた戦争である。なお、正式に宣戦布告されたのは1894年8月1日であり、完全な終戦は台湾の平定を終えた1895年11月30日とする見方もある。李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に朝鮮半島遼東半島および黄海で両国は交戦し、日本側の勝利と見なせる日清講和条約(下関条約)の調印によって終結した。

講和条約の中で日本は、清国に李氏朝鮮に対する宗主権の放棄とその独立を承認させた他、清国から台湾澎湖諸島遼東半島を割譲され、また巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放す事になった。戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、受け取った賠償金は国内産業の発展に活用されて日本は本格的な工業化の第一歩を踏み出した。

以下「和暦を含む西暦(中国暦)」という形式で年月日を表記する。特に断りがなければグレゴリオ暦である。

目次

  • 1 概要
  • 2 戦争目的と動機
  • 3 前史1:日本の開国と近代国家志向
    • 3.1 西力東漸と「日清朝」の外交政策等
    • 3.2 「日朝」国交交渉の難航とその影響
    • 3.3 「日清」間の国境問題
  • 4 前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢
    • 4.1 朝鮮の開国と壬午事変・甲申政変
    • 4.2 朝鮮情勢の安定化を巡る動き
    • 4.3 日本の軍備拡張
    • 4.4 日本政府内の対朝鮮政策をめぐる路線対立
    • 4.5 朝鮮に関する開戦前年の「日清」関係
  • 5 戦争の経過
    • 5.1 開戦期
      • 5.1.1 朝鮮国内の甲午農民戦争
      • 5.1.2 日清の朝鮮出兵
      • 5.1.3 日本軍の王宮占領・日清開戦
      • 5.1.4 豊島沖海戦・高陞号事件
      • 5.1.5 成歓の戦い
    • 5.2 展開期
      • 5.2.1 大日本大朝鮮両国盟約
      • 5.2.2 平壌の戦い
      • 5.2.3 黄海海戦
      • 5.2.4 第二軍による旅順攻略
      • 5.2.5 第一軍の鴨緑江渡河
      • 5.2.6 東学農民軍の再蜂起と鎮圧
    • 5.3 講和期
      • 5.3.1 冬季作戦大方針の変更と海城攻防戦
      • 5.3.2 陸海軍共同の山東作戦(北洋艦隊の降伏)
      • 5.3.3 遼河平原の作戦(遼東半島全域の占領)
      • 5.3.4 台湾海峡の要衝、澎湖列島の占領
      • 5.3.5 休戦・講和
    • 5.4 三国干渉
    • 5.5 台湾民主国と台湾平定(乙未戦争)
  • 6 年表
  • 7 両国の戦争指導と軍事戦略
    • 7.1 日本
    • 7.2 清
  • 8 戦費と動員
    • 8.1 戦費
    • 8.2 動員(軍夫の大規模雇用)
    • 8.3 軍紀(戦地軍法会議での処罰者数)
  • 9 日本軍の損害
    • 9.1 伝染病の流行
    • 9.2 凍傷
  • 10 民間人の被害
  • 11 戦時経済
  • 12 捕虜
  • 13 影響
    • 13.1 概略
    • 13.2 日本の戦中戦後
      • 13.2.1 近代的な国民国家の形成
      • 13.2.2 財政・公共投資の膨張と経済発展
      • 13.2.3 賠償金の使途
    • 13.3 清の戦後
    • 13.4 朝鮮の戦中戦後
  • 14 その他
  • 15 脚注
    • 15.1 注釈
    • 15.2 出典
  • 16 関連項目
  • 17 参考文献(五十音順)
    • 17.1 統計資料
  • 18 外部リンク

概要

東学農民運動と日清駐兵

1894年(明治27年)1月上旬、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の下で蜂起し農民反乱が勃発した。自力での鎮圧が不可能な事を悟った李氏朝鮮政府は、宗主国である清国の来援を求めた。清国側の派兵の動きを見た日本政府も天津条約に基づいて、6月2日に日本人居留民保護を目的にした兵力派遣を決定し5日に大本営を設置した。日本側も部隊を送り込んできた事を危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めた。しかし、日本政府は朝鮮の内乱はまだ完全には収まっていないとして15日に日清共同による朝鮮内政改革案を提示した。これを拒絶した清国政府が彼我双方の同時撤兵を提案すると、24日に日本は単独で改革を行う旨を宣言しこれが最初の絶交書となった。同時に日本の追加部隊が派遣され、6月30日の時点で清国兵2500名に対し日本兵8000名の駐留部隊がソウル周辺に集結した。

日清開戦

1894年7月上旬、同時撤兵を主張する朝鮮政府及び清国側と、朝鮮内政改革を要求する日本側の間で交渉は平行線を辿ったまま決裂し、14日に日本政府は二度目の絶交書を清国側へ通達した。その一方で日本はイギリスとの外交交渉を続けており、7月16日に日英通商航海条約を結ぶ事に成功した。懸案だった日清双方に対するイギリスの中立的立場を確認した日本政府は、翌17日に清国との開戦を閣議決定し、23日に朝鮮王宮を事実上占拠して高宗から朝鮮独立の意志確認と清国兵追放の依頼を引き出した。この大義名分の下、7月25日の海戦と28日の陸戦によって清国駐留部隊を駆逐しソウル周辺を勢力下に置いた日本は、8月1日に清国に対して宣戦布告した。

戦争の推移

1894年8月から日本陸軍は清国陸軍を撃破しつつ朝鮮半島遼東半島を制圧し、日本海軍は9月の艦隊決戦に勝利した後に旅順港威海衛を攻略して翌年2月に黄海渤海の制海権を掌握した。近代化された日本軍が中国本土へ自由に上陸出来るようになった事で、清国の首都北京天津一帯は丸裸同然となり、ここで清国側は戦意を失った。1895年3月20日から日清両国の間で講和交渉が始まり、4月17日に講和が成立した。両軍の交戦地となったのは、朝鮮半島遼東半島満州最南部および黄海山東半島東端であった。

講和条約の調印

1895年(明治28年)4月17日に調印された日清講和条約の中で、日本は李氏朝鮮の独立を清国に認めさせた。また台湾澎湖諸島遼東半島を割譲させ、賠償金として2億両(1両=銀37g)が支払われた他、日本に対する最恵国待遇も承認させた。講和直後の23日に露仏独三国の外交要求が出された事で、日本は止む無く遼東半島を手放した。5月下旬に日本軍は領有権を得た台湾に上陸し、11月下旬までに全土の平定を終えた後に行政機構を敷いた。台湾の軍政が民政へと移行された1896年(明治29年)4月1日に大本営が解散した。戦争に勝利した日本はアジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、取り分けイギリスとの協調関係を築けるようになった。

戦争目的と動機

日本

‘’’宣戦詔勅’’’ 「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ…」

清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では、朝鮮の独立と改革の推進、東洋全局の平和などが謳われた。しかし、詔勅は名目にすぎず、朝鮮を自国の影響下におくことや清の領土割譲など、「自国権益の拡大」を目的にした戦争とする説がある。 戦争目的としての朝鮮独立は、「清の勢力圏からの切放しと親日化」あるいは「事実上の保護国化」と考えられている。それらを図った背景として、ロシアと朝鮮の接近や前者の南下政策等があった(日本の安全保障上、対馬などと近接する朝鮮半島に、ロシアやイギリスなど西洋列強を軍事進出させないことが重要であった)。

日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争はその意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想した(『蹇蹇録』岩波文庫p277)。

三谷博並木頼寿月脚達彦編集の『大人のための近現代史』(東京大学出版会2009年)の言い方では、朝鮮は「それ以前の近世における国際秩序においては中国の属国として存在していた。それに対して近代的な国際関係に入った日本国は、朝鮮を中国から切り離そう、独立させようといたします。いわば朝鮮という国の国際的な地位をめぐる争いであったということ」となる。

清国

宣戦詔勅「朝鮮ハ我大清ノ藩屏タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外共ニ知ル所タリ…」

西欧列強によるアジアの植民地化と日本による朝鮮の開国・干渉とに刺激された結果、清・朝間の宗主・藩属(宗藩)関係(「宗属関係」「事大関係」ともいわれ、内政外交で朝鮮の自主が認められていた。)を近代的な宗主国と植民地の関係に改め、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留めようとした。

前史1:日本の開国と近代国家志向

日清戦争について1)江華島事件(外交面)を、2)1890年代の日本初の恐慌(経済面)を、3)帝国議会初期の政治不安(内政面)を起点に考える立場がある。ここでは、最も過去にさかのぼる1)江華島事件の背景から記述する。

西力東漸と「日清朝」の外交政策等

19世紀半ばから東アジアは、西洋列強の脅威にさらされた。その脅威は17世紀の西洋進出と違い、経済的側面だけでなく、政治的勢力としても直接影響を与えた。ただし、列強各国の利害関心、また日清朝の地理と経済条件、政治体制、社会構造などにより、三国への影響が異なった。

詳細は「阿片戦争」および「アロー戦争」を参照

大国の清では、広州一港に貿易を限っていた。しかし、アヘン戦争(1839 - 42年)とアロー戦争(1857 - 60年)の結果、多額の賠償金を支払った上に、領土の割譲、11港の開港などを認め、また不平等条約を締結した。このため、1860年代から漢人官僚曽国藩李鴻章等による近代化の試みとして洋務運動が展開され、自国の伝統的な文化と制度を土台にしながら軍事を中心に西洋技術の導入を進めた(中体西用)。したがって、近代化の動きが日本と大きく異なる。たとえば外交は、近隣との宗藩関係(冊封体制)をそのままにし、この関係にない国と条約を結んだ。

詳細は「黒船来航」および「明治維新」を参照

日本では、アメリカ艦隊の来航(幕末の砲艦外交)を契機に、江戸幕府鎖国から開国に外交政策を転換し、また西洋列強と不平等条約を締結した。その後、新政府が誕生すると、幕藩体制に代わり、西洋式の近代国家が志向された。新政府は、内政で中央集権文明開化富国強兵などを推進するとともに、外交で条約改正、隣国との国境確定、清・朝鮮との関係再構築(国際法に則った近代的外交関係の樹立)など諸課題に取り組んだ。結果的に日本の近代外交は清の冊封体制と摩擦を起こし、日清戦争でその体制は完全に崩壊することとなる。

詳細は「李氏朝鮮#攘夷と開国」を参照

朝鮮では、摂政大院君も進めた衛正斥邪運動が高まる中、1866年(同治5年)にフランス人宣教師9名などが処刑された(丙寅教獄)。報復として江華島に侵攻したフランス極東艦隊(軍艦7隻、約1,300人)との交戦に勝利し、撤退させた(丙寅洋擾)。さらに同年、通商を求めてきたアメリカ武装商船との間で事件が起こった(ジェネラル・シャーマン号事件)。翌1867年(同治5年)、アメリカ艦隊5隻が朝鮮に派遣され、同事件の損害賠償と条約締結とを要求したものの、朝鮮側の抵抗にあって同艦隊は去った(辛未洋擾)。大院君は、仏米の両艦隊を退けたことで自信を深め、旧来の外交政策である鎖国と攘夷を続けた。

「日朝」国交交渉の難航とその影響

1868年(明治元年、同治7年)末、日本の新政府は、朝鮮に王政復古を伝える書契を渡そうとした。しかし朝鮮は、従来の形式と異なり、文中に宗主国清の皇帝だけが使えるはずの「皇」と「勅」の文字があったため、書契の受け取りを拒否した。数年間、日朝の国交交渉が進展せず、この余波がさまざまな形で現れた。

詳細は「日清修好条規」、「征韓論」、および「明治六年政変」を参照

1871年(明治4年)9月13日(同治10年7月29日)、対日融和外交を主張した李鴻章の尽力により、日清修好条規および通商章程が締結された。この外交成果を利用して日本は、清と宗藩関係にある朝鮮に対し、再び国交交渉に臨んだ。しかし、それでも国交交渉に進展が見られない1873年(明治6年、同治12年)、国内では、対外戦争を招きかねない西郷隆盛の朝鮮遣使が大きな政治問題になった。結局のところ10月、明治天皇の裁可で朝鮮遣使が無期延期とされたため、遣使賛成派の西郷と板垣退助江藤新平など5人の参議および約600人の官僚・軍人が辞職する事態となった(明治六年政変)。翌年2月、最初の大規模な士族反乱である佐賀の乱が起こった。

詳細は「江華島事件」および「日朝修好条規」を参照

日本が政変で揺れていた1873年(明治6年)11月(同治12年9月)、朝鮮では、閔妃一派による宮中クーデターが成功し、鎖国攘夷に固執していた摂政の大院君(国王高宗の実父)が失脚した。この機に乗じて日本は、1875年(明治8年)2月(同治14年1月)に森山茂を朝鮮に派遣したものの、今度は服装(森山:西洋式大礼服を着用、朝鮮:江戸時代の和装を求める)など外交儀礼を巡る意見対立により、書契交換の前に交渉が再び中断した。

日本は朝鮮半島沿岸の測量を名目に軍艦2隻を派遣して軍事的圧力を掛けるも、直接は効果がなく、依然交渉は停滞していた。同年9月20日(光緒元年8月21日)、軍艦「雲揚」が江華島周辺に停泊していたところ、朝鮮砲台から発砲を受け戦闘が始まった。12月(11月)、日本は、特命全権大使に黒田清隆を任命し、軍艦3隻などを伴って朝鮮に派遣した結果(砲艦外交)、翌1876年(明治9年)2月(光緒2年2月)に日朝修好条規が調印された。

「日清」間の国境問題

詳細は「台湾出兵」および「琉球処分」を参照
宮古島島民遭難事件」も参照

日清両国は、1871年(明治4年、同治10年)に日清修好条規を調印したものの、琉球王国の帰属問題が未解決であり、国境が画定していなかった(1895年、日清戦争の講和条約で国境画定)。しかし、後記の朝鮮での勢力争いと異なり、1871年宮古島島民遭難事件を契機とした1874年(明治7年、同治13年)の台湾出兵でも、1879年(明治12年、光緒4年)の第2次琉球処分でも、海軍力で日本に劣ると認識していた清が隠忍自重して譲歩したことにより、両国間で武力衝突が起こらなかった。ただし、台湾出兵(清は日本が日清修好条規に違反したと解釈)と琉球処分(清からみて属国の消滅)は、清に日本への強い警戒心と猜疑心を抱かせ、その後、日本を仮想敵国に北洋水師(艦隊)の建設が始まるなど、清に海軍増強と積極的な対外政策を執らせた。そして、その動きが日本の軍備拡張を促進させることになる。

前史2:朝鮮の混乱とそれをめぐる国際情勢

朝鮮の開国と壬午事変・甲申政変

朝鮮政府内で開国・近代化を推進する「開化派」と、鎖国・攘夷を訴える「斥邪派」との対立が続く中、日本による第二次琉球処分が朝鮮外交に大きな影響を与えた。日本の朝鮮進出と属国消滅を警戒する清が、朝鮮と西洋諸国との条約締結を促したのである。その結果、朝鮮は、開国が規定路線になり(清によってもたらされた開化派の勝利)、1882年5月22日(光緒8年4月6日)、米朝修好通商条約調印など米英独と条約を締結した。しかし、政府内で近代化に努めてきた開化派は、清に対する態度の違いから分裂してしまう。後記の通り壬午事変後、清が朝鮮に軍隊を駐留させて干渉するようになると、この清の方針に沿おうとする穏健的開化派(事大党)と、これを不当とする急進的開化派(独立党)との色分けが鮮明になった。党派の観点からは前者が優勢、後者が劣勢であり、また国際社会では清が前者、日本が後者を支援した。

詳細は「壬午事変」を参照

1882年(明治15年)7月(光緒8年6月)、首都漢城で、処遇に不満を抱く軍人たちによる暴動が起こった。暴動は、民衆の反日感情、開国・近代化に否定的な大院君らの思惑も重なり、日本人の軍事顧問等が殺害され、日本公使館が襲撃される事態に発展した。事変の発生を受け、日清両国が朝鮮に出兵した。日本は、命からがら帰国した公使の花房義質に軍艦4隻と歩兵一箇大隊などをつけて再度、朝鮮赴任を命じた。居留民の保護と暴挙の責任追及、さらに未決だった通商規則の要求を通そうとの姿勢であった。8月30日(7月17日)、日朝間で済物浦条約が締結され、日本公使館警備用に兵員若干の駐留などが決められた(2年後の甲申政変で駐留清軍と武力衝突)。

日本は、12月に「軍拡八カ年計画」を決定するなど、壬午事変が軍備拡張の転機となった。清も、旧来と異なり、派兵した3,000人をそのまま駐留させるとともに内政に干渉するなど、同事変が対朝鮮外交の転機となり、朝鮮への影響力を強めようとした。たとえば、「中国朝鮮商民水陸貿易章程」(1882年10月)では、朝鮮が清の属国、朝鮮国王と清の北洋通商大臣とが同格、外国人の中で清国人だけが領事裁判権と貿易特権を得る等とされた。その後、朝鮮に清国人の居留地が設けられたり、清が朝鮮の電信を管理したりした。なお同事変後、日本の「兵制は西洋にならいて……といえども、……清国の各軍に比し、はるかに劣れり」(片仮名を平仮名に、漢字の一部を平仮名に書き換えた)等の認識を持つ翰林院張佩綸が「東征論」(日本討伐論)を上奏した。

詳細は「甲申政変」を参照

1884年(明治17年、光緒10年)、ベトナムを巡って清とフランスの間に緊張が高まったため(清仏戦争勃発)、朝鮮から駐留清軍の半数が帰還した。朝鮮政府内で劣勢に立たされていた金玉均など急進開化派は、日本公使竹添進一郎の支援を利用し、穏健開化派政権を打倒するクーデターを計画した。12月4日(10月17日)にクーデターを決行し、翌5日(18日)に新政権を発足させた。その間、4日(17日)夜から竹添公使は、日本の警護兵百数十名を連れ、国王保護の名目で王宮に参内していた。しかし6日(19日)、袁世凱率いる駐留清軍の軍事介入により、クーデターが失敗し、王宮と日本公使館などで日清両軍が衝突して双方に死者が出た。

政変の結果、朝鮮政府内で日本の影響力が大きく低下し、また日清両国が協調して朝鮮の近代化を図り、日清朝で欧米列強に対抗するという日本の構想が挫折した。なお、日本国内では、天津条約が締結される1か月前の1885年(明治18年)3月16日時事新報』に脱亜論(無署名の社説)が掲載された。

詳細は「天津条約 (1885年4月)」を参照

1885年(明治18年)4月18日(光緒11年3月4日)、全権大使伊藤博文と北洋通商大臣李鴻章の間で天津条約が調印された。同条約では、4か月以内の日清両軍の撤退と、以後、朝鮮出兵の事前通告および事態収拾後の即時撤兵が定められた。なお、この事前通告は自国の出兵が相手国の出兵を誘発するため、同条約には出兵の抑止効果もあった。

朝鮮情勢の安定化を巡る動き

ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)
日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている。

旧来、朝鮮の対外的な安全保障政策は、宗主国の清一辺倒であった。しかし、1882年(明治15年、光緒8年)の壬午事変前後から、清の「保護」に干渉と軍事的圧力が伴うようになると(「属国自主」:1881年末から朝鮮とアメリカの間で結ばれた条約では、朝鮮側の提示した条約草案の第一条で「朝鮮は清朝の属国である。」とされ、岡本隆司がその清朝関係を「属国自主」と呼んだ。)、朝鮮国内で清との関係を見直す動きが出てきた。たとえば、急進的開化派(独立党)は、日本に頼ろうとして失敗した(甲申政変)。朝鮮が清の「保護」下から脱却するには、それに代わるものが必要であった。

清と朝鮮以外の関係各国には、朝鮮情勢の安定化案がいくつかあった。日本が進めた朝鮮の中立化(多国間で朝鮮の中立を管理)、一国による朝鮮の単独保護、複数国による朝鮮の共同保護である。さらに日清両国の軍事力に蹂躙された甲申政変が収束すると、ロシアを軸にした安定化案が出された(ドイツの漢城駐在副領事ブドラーの朝鮮中立化案、のちに露朝密約事件の当事者になるメレンドルフのロシアによる単独保護)。つまり、朝鮮半島を巡る国際情勢は、日清の二国間関係から、ロシアを含めた三国間関係に移行していた。そうした動きに反発したのがロシアとグレート・ゲームを繰り広げ、その勢力南下を警戒するイギリスであった。イギリスは、もともと天津条約(1885年)のような朝鮮半島の軍事的空白化に不満があり、日清どちらかによる朝鮮の単独保護ないし共同保護を期待していた。そして1885年(光緒11年)、アフガニスタンでの紛争をきっかけに、ロシア艦隊による永興湾(元山沖)一帯の占領の機先を制するため、4月15日(3月1日)に巨文島を占領した。しかしイギリスの行動により、かえって朝鮮とロシアが接近し(第一次露朝密約事件)、朝鮮情勢は緊迫してしまう。ロシアはウラジオストク基地保護のために朝鮮半島制圧を意図した。

朝鮮情勢の安定化の3案(中立化、単独保護、共同保護)は、関係各国の利害が一致しなかったため、形式的に実現していない。たとえば、第一次露朝密約事件後、イギリスが清の宗主権を公然と支持し、清による朝鮮の単独保護を促しても、北洋通商大臣の李鴻章が日露両国との関係などを踏まえて自制した。もっともイギリスは、1891年(明治24年)の露仏同盟やフランス資本の資金援助によるシベリア鉄道建設着工などロシアとフランスが接近する中、日本が親英政策を採ると判断し、対日外交を転換した。日清戦争前夜の1894年(明治27年)7月16日日英通商航海条約に調印し、結果的に日本の背中を押すこととなる。結局のところ朝鮮は、関係各国の勢力が均衡している限り、少なくとも一国の勢力が突出しない限り、実質的に中立状態であった。

日本の軍備拡張

明治維新が対外的危機をきっかけとしたように帝国主義の時代、西洋列強の侵略に備えるため、国防、特に海防は重要な政治課題の一つであった。しかし財政の制約、血税一揆士族反乱を鎮圧するため、海軍優先の発想と主張があっても、陸軍(治安警備軍)の建設が優先された。ただし、1877年(明治10年)の西南戦争後、陸軍の実力者山縣有朋が「強兵」から「民力休養」への転換を主張(同年12月「陸軍定額減少奏議」など)するなど、絶えず軍拡が追求されたわけではない。

軍拡路線への転機は、1882年(明治15年、光緒8年)に朝鮮で勃発した壬午事変であった。事変直後の同年8月、山縣は煙草税増税による軍拡を、9月岩倉具視は清を仮想敵国とする海軍増強とそのための増税を建議した。12月、政府は、総額5,952万円の「軍拡八カ年計画」(陸軍関係1,200万円、軍艦関係4,200万円、砲台関係552万円)を決定した(同年度の一般会計歳出決算額7,348万円)。同計画に基づき、陸軍が3年度後からの兵力倍増に、海軍が翌年度から48隻の建艦計画等に着手した。その結果、一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、翌1883年(明治16年)度から20%以上で推移し、「軍拡八カ年計画」終了後の1892年(明治25年)度の31.0%が日清戦争前のピークとなった。

軍拡路線が続いた背景には、壬午事変後の国際情勢があった。たとえば、1888年(明治21年)に山縣は、内閣総理大臣伊藤博文に対し、次のように上申した。

我国の政略は朝鮮を……自主独立の一邦国となし、……欧州の一強国、事に乗じて之〔朝鮮〕を略有するの憂いなからしむに在り。 — 「軍事意見書」

現実に1884年(明治17年、光緒10年) - 翌年の清仏戦争(ベトナムがフランスの保護領に)、1885年(明治18年、光緒11年) - 1887年(明治20年、光緒13年)のイギリス艦隊による朝鮮の巨文島占領(ロシア艦隊による永興湾一帯の占領の機先を制した)、露朝密約事件(ロシアと朝鮮の接近)、ロシアのシベリア横断鉄道敷設計画(1891年(明治24年)起工)があった。

その上、1884年(明治17年、光緒10年)の甲申政変(日清の駐留軍が武力衝突)、1886年(明治19年、光緒12年)の北洋艦隊(最新鋭艦「定遠」と「鎮遠」等)来航時の長崎事件など、清と交戦する可能性もあった。ただし当時、日清間の戦争は、海軍力で優位にある大国の清が日本に侵攻するとの想定で考えられていた(1885年(明治18年光緒11年)に就役した清の「定遠」は、同型艦「鎮遠」とともに当時、世界最大級の30.5cm砲を4門備え、装甲の分厚い東洋一の堅艦であり、日本海軍にとって化け物のような巨大戦艦であった)。

なお、1885年(明治18年)5月、兵力倍増の軍拡計画にそった鎮台条例改正により、編成上、戦時三箇師団体制から戦時六箇師団体制に移行した。さらに1888年(明治21年)5月、6つの鎮台が師団に改められ、常設六箇師団体制になった(1891年に再編された近衛師団を追加して常設七箇師団体制)。機動性が高い師団への改編は、「国土防衛軍」から「外征軍」への転換と解釈されることが多いものの、機動防御など異なる解釈もある。1890年代に入ると、陸軍内では、従来の防衛戦略に替わり、攻勢戦略が有力になりつつあった。しかし、海軍力に自信がなかったため、後記の通り、日清戦争の大本営「作戦大方針」に制海権で三つの想定があるように、攻勢戦略に徹しなかった。戦時中も、元勲第一軍司令官の山縣有朋陸軍大将は、同じく元勲の井上馨宛てに次のように書き送った。

平壌陥落は実に意外の結果……引き続き〔黄海〕海戦大捷これまた予想の外……(注:漢字の一部を平仮名に書き換えた)

軍拡の結果、現役の陸軍軍人・軍属数は、西南戦争前年の1876年(明治9年)に39,315人であったのが、日清戦争前年の1893年(明治26年)に73,963人となった。現役の海軍軍人・軍属数は1893年が13,234人(1876年が不明)であり、軍艦の総トン数は1876年の14,300tから1893年の50,861tに増加した。一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、1876年度に17.4%(陸軍11.6%、海軍5.8%)であったのが、1893年度に27.0%(陸軍17.4%、海軍9.6%)となった。

日本政府内の対朝鮮政策をめぐる路線対立

1889年、内閣総理大臣に就任した山縣有朋は、安全保障の観点からロシアの脅威が朝鮮半島に及ばないように朝鮮の中立化を構想した。それを実現するため、清およびイギリスとの協調を模索し、とりわけ清とは共同で朝鮮の内政改革を図ろうとした。

しかし、そうした山縣首相の構想には、閣内に強い反対意見があった。安全保障政策で重要な役割を果たす3人の閣僚、つまり外務大臣の青木周蔵、陸軍大臣の大山厳、海軍大臣の樺山資紀が異論を唱えたのである。青木外相は日本が朝鮮・満洲東部・東シベリアを領有し、清が西シベリアを領有するとの強硬論を唱え、大山陸相は軍備拡張に基づく攻勢的外交をとるべきとし、樺山海相は清とイギリスを仮想敵国にした海軍増強計画を立てていた。もっとも、3大臣の反対意見は抑制された。なぜなら、軍備拡張に財政上の制約があったからである(結局のところ、予算案の海軍費は樺山海相が当初計画した約10分の1にまで削減)。また海軍内には、敵国を攻撃できるような大艦を建造せず、小艦による近海防御的な海防戦略も有力であった。そして何より当時、政治と軍の関係は、山縣など元勲の指導する前者が優位に立っていた

1892年、再び首相に就任した伊藤博文は、日清共同による朝鮮の内政改革という山縣の路線を踏襲した。ただし、第2次伊藤内閣第1次山縣内閣と同じように首相と異なる考えの閣僚が存在し、日清開戦直前に外務大臣(陸奥宗光)と軍部(参謀次長川上操六陸軍中将)の連携が再現されることとなる。

朝鮮に関する開戦前年の「日清」関係

甲申政変後に締結された天津条約(1885年)により、以後の朝鮮出兵が「日清同等」になった。しかし、このことは、朝鮮での「日清均衡」を意味しなかった。清は、軍事介入で甲申政変の混乱を収拾させ、また親清政権が誕生したことにより、朝鮮への政治的影響力をさらに強めた(日本は親日派と目された独立党が壊滅)。軍事的にも、朝鮮半島と主要港が近い上に陸続きで、出兵と増派に有利であった(日本は制海権に左右され、しかも海軍力で劣勢)。したがって天津条約は、日本が清との武力衝突を避けている限り、朝鮮での清の主導権を温存する効果があった。たとえば、日清戦争前年の1893年(明治26年、光緒19年)、日本公使大石正巳の強硬な態度により、日朝間で防穀令事件が大きな外交問題になったとき、伊藤首相と北洋通商大臣の李鴻章との連絡・協調により、朝鮮が賠償金を支払うことで決着がついた(その後、更迭された大石に代わり、大鳥圭介が公使に就任)。

このように開戦前年の伊藤内閣は、清(李鴻章)の助けを借りて朝鮮との外交問題(防穀令事件)を処理しており、武力で清の勢力圏から朝鮮を切り放そうとした日清戦争とまったく異なる対処方針をとっていた。しかし翌1894年(明治27年、光緒10年)、朝鮮で新たな事態が発生し、天津条約締結後初めて朝鮮に日清両国が出兵することとなる。

戦争の経過

両軍の進撃経路

開戦期

朝鮮国内の甲午農民戦争

詳細は「甲午農民戦争」を参照

1890年代の朝鮮では、日本の経済進出が進む中(輸出の90%以上、輸入の50%を占めた)、米・大豆価格の高騰と地方官の搾取、賠償金支払いの圧力などが農村経済を疲弊させた。1894年(光緒20年)春、朝鮮で東学教団構成員の全琫準を指導者に、民生改善と日・欧の侵出阻止を求める農民反乱甲午農民戦争(東学党の乱)が起きた。5月31日(4月27日)、農民軍が全羅道首都全州を占領する事態になった。朝鮮政府は、清への援兵を決める一方、農民軍の宣撫にあたった。なお、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/07/05 11:31

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「日清戦争」の意味を投稿しよう
「日清戦争」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

日清戦争スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「日清戦争」のスレッドを作成する
日清戦争の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail