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日露戦争とは?

日露戦争(にちろせんそう)露:Русско-японская война(ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー)は、1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日にかけて大日本帝国ロシア帝国との間で行われた戦争である。朝鮮半島満州の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされ、満州南部と遼東半島がおもな戦場となったほか、日本近海でも大規模な艦隊戦が繰り広げられた。最終的に両国はアメリカ合衆国の仲介の下で調印されたポーツマス条約により講和した。

講和条約の中で日本は、朝鮮半島における権益を全面的に承認されたほか、ロシア領であった樺太の南半分を割譲され、またロシアが清国から受領していた大連旅順租借権を移譲された。同様に東清鉄道旅順 - 長春間支線の租借権も譲渡された。なお、賠償金については一切の要求を認められなかった。

目次

  • 1 戦争目的と動機
  • 2 関与国・勢力
  • 3 背景
    • 3.1 朝鮮半島をめぐる日露対立
    • 3.2 日英同盟
    • 3.3 開戦に至るまでの議論・世論
    • 3.4 直前交渉
    • 3.5 各国の思惑
    • 3.6 外貨調達
  • 4 経過
    • 4.1 開戦時の両軍の基本戦略
    • 4.2 開戦
    • 4.3 旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦
    • 4.4 旅順攻略
    • 4.5 奉天会戦
    • 4.6 日本海海戦
    • 4.7 講和勧告と樺太攻略
    • 4.8 講和へ
    • 4.9 年表
  • 5 影響
    • 5.1 日本
    • 5.2 ロシア
    • 5.3 西欧
    • 5.4 アメリカ
    • 5.5 清朝
    • 5.6 大韓帝国
    • 5.7 モンテネグロ公国
    • 5.8 その他各国
    • 5.9 「開戦に関する条約」の創設
  • 6 その後の日露関係
  • 7 発行物
  • 8 日露戦争を題材とした作品
    • 8.1 小説
    • 8.2 詩
    • 8.3 映画
    • 8.4 テレビドラマ
    • 8.5 漫画
    • 8.6 ゲーム
  • 9 脚注
    • 9.1 注釈
    • 9.2 出典
  • 10 参考文献
    • 10.1 歴史書
      • 10.1.1 戦時史料
    • 10.2 従軍記・回想録
    • 10.3 近年刊行の関連書籍
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

戦争目的と動機

戦場全域の俯瞰図

大日本帝国の動機

大日本帝国はロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、日本帝国の安全保障を堅持することを主目的とした。開戦後に明治天皇の名により公布された『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』でも、大韓帝国の保全が脅かされたことが日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機に挙げている。他方、2月10日の開戦の詔勅に続くはずだったとみられる詔勅草案もあり、ここでは信教の自由を強調し開戦の不幸を強調している。

朕先に、憲法の条章に由り、信教の自由を保明せり。汝有衆、各々自らその信依する所を選み、之に案ずるを得ると共に、また、よく他の言依する所を尊重し、互いに相犯すなきを要す。

此の次、不幸にして露国と釁端を開けり。朕が平素の志に違い、戦を宣するに至りたるの事由は、朕既に業に之を示せり。事少しも宗教と相関せず、朕が信教に対する一視同仁は、更に平時に薄ることあるなし。汝有衆、よく朕が意を体し、信仰帰依の如何を問わず、互いに相親み相愛し協力同心以て、朕が意を空うするなきを期せよ。

ロシア帝国の動機

ロシア帝国は満洲および関東州租借権・鉄道敷設権などの利権の確保、満州還付条約不履行の維持(満州に軍を駐留)、朝鮮半島での利権拡大における日本の抵抗の排除、直接的には日本側からの攻撃宣戦布告を戦争理由とした。

戦争の性格

日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また2国間のみならず帝国主義(宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。このことから、横手慎二は日露戦争は第0次世界大戦(World War Zero)であったとしている。

関与国・勢力

日本側 ロシア側
戦争参加国・勢力

大日本帝国

 | 

ロシア帝国
モンテネグロ公国(ただし宣戦布告はしたが、戦闘には参加せず)


支持勢力

大韓帝国
(一進会をはじめとする親日派知識人と親日派両班)

 | 

大韓帝国
(高宗をはじめとする支配者階級と親露派・独立派知識人)


同盟国・支援国

イギリス帝国(日英同盟)
アメリカ合衆国
清の旗 大清帝国
(厳正中立を宣言していたが、ロシアの事実上の植民地となっている東三省を回復すべく暗に協力したとの説あり。袁世凱は配下の北洋軍閥を用いて諜報や馬賊隊編成などで日本に協力、諜報将校を日本軍の特別任務班に派遣)

 | 

フランス(露仏同盟)
ドイツ帝国
大清帝国(露清密約、開戦後同年5月18日に破棄。張作霖など一部の馬賊は協力)


観戦武官

第一軍司令部と観戦武官

日露両陣営には欧米と南米諸国から数多くの観戦武官が派遣されていた。日本側には13か国から合計70名以上が来訪しており、その国籍はイギリスアメリカ合衆国ドイツオーストリアスペインイタリアスイススウェーデンブラジルチリアルゼンチンオスマン=トルコであった。同盟国であるイギリスからが最多で、エイルマー・ホールデンをはじめ33名を数えた。アメリカからはマッカーサー元帥の父親であるアーサー・マッカーサー・Jrが赴任していた。

観戦武官のレポートはそれぞれの国で物議を醸した。特に機関銃が戦場を支配していたことと騎兵が無用の長物と化していたことは、いまだにナポレオン戦争時代の幻想を引きずっていたヨーロッパ軍人の間では受け入れがたく、東洋特有の事情として一蹴された。やがて彼らは第一次世界大戦でその現実に直面することになった。

背景

朝鮮半島をめぐる日露対立

大韓帝国冊封体制から離脱したものの、満洲を勢力下に置いたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシア高宗を通じ、売り払われた鍾城慶源鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦対馬占領事件があったため)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。

当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。1904年(明治37年)2月23日、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするため日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結。大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では独自改革が難しいと判断した進歩会は、日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。

一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる。

日英同盟

ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。これにより、ロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。

近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下に置く必要があるとの意見が大勢を占めていた。朝鮮を属国としていたとの日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア・フランス・ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力はなく、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順大連1898年(明治31年)に租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を作るなど、満州への進出を押し進めていった。

1900年(明治33年)、ロシアは清で発生した義和団の乱(義和団事変、義和団事件)の混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置いた。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず、駐留軍の増強を図った。ボーア戦争を終了させるのに戦費を調達したため、国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況であったイギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902年(明治35年)に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。なおこの同盟は、ロシアでは反ロシア条約と呼ばれる。日本が2国以上と戦うときは、イギリスの参戦を義務づける条約となっていたことから、露清密約による清国の参戦は阻止された。そのうえ、この同盟は太平洋海域において日本がロシアより排水量比で大きな海軍力を持つことを義務づけている。日英同盟によってロシア帝国は満州から撤兵を開始したが、大日本帝国を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった。

開戦に至るまでの議論・世論

龍岩浦事件」も参照
反ロシアの風刺地図。慶應義塾大学の学生が作った(1904年)

日本政府内では小村寿太郎桂太郎山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文井上馨ら戦争回避派との論争が続き、1903年(明治36年)4月21日京都にあった山縣の別荘・無鄰菴で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰庵会議」が行われた。桂は、「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること」「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず」という対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。桂はのちにこの会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、のちの日露交渉に反映されることになる。

同じく4月、ロシア系企業の「朝鮮木商会社」が韓国側に鴨緑江山林事業の開始を通告し、5月になってロシア軍は鴨緑江河口の龍岩浦(竜巌浦)に軍事拠点を築きはじめた(龍岩浦事件)。

日本とロシアの緊張関係が高まるなか、メディアや言論界でも盛んに論争が行われた。6月12日、アレクセイ・クロパトキン陸軍大臣が訪日し、国賓として迎えられた。訪日の目的は外遊だったため、軍高官との交流はあったものの正式に行われた交渉はひとつもなかった。新聞各紙はクロパトキン訪日が関係好転の契機となることに期待し、当初は好意的にさまざまな憶測を報じたが、実質的な成果がないことに失望した。また、同時期にベッサラビアで行われたユダヤ人に対するポグロムの情報が日本に入り、ロシア不信の論調が高まるようになった。

6月24日、日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書が内閣に提出された(七博士建白事件)。万朝報紙上で非戦論の論陣を張っていた幸徳秋水は「社会が学者を養っているのは開戦の建白を提出させるためではない」と批判した。実際、この時点では開戦論にまで言及する言論は少数派だったが、ロシアによる7月に成立した龍岩浦租借条約によってロシア南下の危機感は現実的なものとなった。さらに、非戦論のよりどころとなっていたロシア側の満州撤兵論者セルゲイ・ヴィッテ大臣が失脚し、南下政策の撤回に希望が持てなくなった。非戦派の万朝報が社説で「最後の期限」とした第三次撤兵期限が履行されなかった10月8日を境に、日本の新聞各紙の論調は開戦論一辺倒となった。

直前交渉

開戦時の戦力比較(露・日:歩兵66万対13万、騎兵13万対1万、砲撃支援部隊16万対1万5千、工兵と後方支援部隊4万4千対1万5千、予備部隊400万対46万)

1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害されるおそれのある妥協案に興味を示さなかった。さらにニコライ2世やクロパトキンも主戦論に同調した。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もなかった。ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、戦争によって負けることはないにせよ、ロシアが疲弊することを恐れて戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなかった大臣会議議長(のちの十月詔書首相相当になるポスト)に左遷された。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。

日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるため、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。同日、駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。日本側は2月8日に旅順口攻撃を行い、2月11日に大本営を設置、3月15日に元老松方正義井上馨らが帝国軍人援護会を結成した。

各国の思惑

帝政ドイツは心情的には帝政ロシア側であったが、具体的な支援は行っていない。

外貨調達

戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠であり、日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心した。当時、政府の戦費見積もりは4億5,000万円であった。日清戦争の経験で戦費の3分の1が海外に流失したため、今回は1億5,000万円の外貨調達が必要であった。この時点で日銀の保有正貨は5,200万円であり、約1億円を外貨で調達しなければならなかった。外国公債の募集には担保として関税収入を充てることとし、発行額1億円、期間10年据え置きで最長45年、金利5パーセント以下との条件で、高橋是清(外債発行団主席)は桂総理・曾禰蔵相から委任状と命令書を受け取った。

開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1,000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。これは、当時の世界中の投資家が、日本が敗北して資金が回収できないと判断したためである。特にフランス系の投資家はロシアとの同盟(露仏同盟)の手前もあり、当初は非常に冷淡であった。またドイツ系の銀行団も慎重であった。

是清は4月にイギリスで、額面100ポンドに対して発行価格を93.5ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1か月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行の成算を得た。当時の香港上海銀行ロンドン支店長はのちのイギリス首相デーヴィッド・キャメロンの高祖父であり、高橋が戦費調達のためイギリスを訪れた際には、この支店長から助力を得たというエピソードがある。またロンドンに滞在中であり、帝政ロシアを敵視するアメリカのドイツ系ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得て、ニューヨークの金融街から残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得した。

第1回は1904年5月2日に仮調印にこぎつけた。結果、当初の調達金利を上回る6パーセントでの調達(割引発行であるため実質金利は7年償還で約7パーセント)となったが、応募状況はロンドンが大盛況で募集額の約26倍、ニューヨークで3倍となり大成功の発行となった。1904年5月に鴨緑江会戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると国際市場で日本外債は安定し、第2回の1904年11月の6.0パーセント(償還7年で実質約7.4パーセント)を底として、1905年3月の第3回ではドイツ系の銀行団(M・M・ヴァールブルク&COなど)も参加し、4.5パーセントでの借り換え調達に成功した。この3月および続く7月の募集でパンミュア・ゴードンが引受に参加している。11月の第5回には公開市場で募集、利率を4パーセントに下げ、無担保で消化できた。このときから是清はロスチャイルドへ根回しをしていた。好条件はベアリング家の貢献もあった。

終戦後、1907年の第6回ではN・M・ロスチャイルド&サンズロチルド・フレールも参加している。後者は1910年新たに4億5,000万フラン貸したが、1951年9月末で4億3,432万8,700フランが未償還であった。

結局日本は、1904年から1907年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1億3,000万ポンド(約13億円弱)の外貨公債を発行した。このうち最初の4回、8,200万ポンドの起債が実質的な戦費調達資金であり、あとの2回は好条件への切り替え発行であった。しかし、切り替えのために鉄道国有法を制定する必要があった。なお日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であり、いかに巨額の資金調達であったかが分かる。この公債は、第一次世界大戦のあとまで残ることとなった。

国の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2,629万円とされる。

経過

日露戦争の経過
朝鮮半島を進軍中の日本軍歩兵(1904年撮影)

開戦時の両軍の基本戦略

日本側
海軍第一艦隊第二艦隊をもって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅ないし封鎖し、第三艦隊をもって対馬海峡を抑え制海権を確保する。その後、陸軍第一軍をもって朝鮮半島へ上陸、在朝鮮のロシア軍を駆逐し、第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。さらにこれらに第三軍第四軍を加えた四個軍をもって、満洲平野にてロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストックの攻略まで想定。海軍によるロシア太平洋艦隊の殲滅はヨーロッパより回航が予想されるバルチック艦隊の到着までに行う。
1904年2月11日大本営が設置された。このときは1903年の大本営条例の全部改正により軍事参議院が設置され、戦時においても初めて軍令機関が陸海軍並列対等となったことから、陸軍の参謀総長、海軍の海軍軍令部長の両名ともに幕僚長とされた。
ロシア側
陸軍は日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定。鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させる。迎撃戦で日本軍の前進を許した場合は、日本軍を引きつけながら順次ハルビンまで後退し、補給線の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる。海軍は太平洋艦隊は無理に決戦をせず、ヨーロッパ方面からの増援を待つ。ただしロシア側ではこの時期の開戦を想定しておらず、旅順へ回航中だった戦艦オスリャービャが間に合わなかったなど、準備は万全と言えるものではなかった。

開戦

児玉源太郎
満州で撮影されたロシア軍の第23砲兵旅団の写真
仁川沖海戦で炎上するロシア艦(右がヴァリャーグ)
鴨緑江に架けた仮設橋を渡る第一軍部隊
遼陽会戦でロシア軍の使用した観測気球の気嚢

日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。この奇襲自体がロシア側からも非難されないのは、当時は攻撃開始の前に宣戦布告しなければならないという国際法の規定がなかったためである。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが、大きな戦果はなかった。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。2月23日には日本と大韓帝国の間で、日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書が締結される。

ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし、日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の旗艦である戦艦ペトロパヴロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが(後任はヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将)、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。

一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。これに対し日本海軍は、第三艦隊に代わり上村彦之丞中将率いる第二艦隊の大部分を引き抜いてこれに当たらせたが捕捉できず、ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。このとき捕虜となった日本海軍の少佐は、戦後免官となった。

旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦

詳細は「黄海海戦 (日露戦争)」および「遼陽会戦」を参照

黒木為楨大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日 - 5月1日の戦闘で、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁をひとつ間違えたのではないかと疑ったという。第二軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利した。

旅順要塞に対して陸軍は3月上旬までは監視で十分であると判断していたが、その後3月14日、北上する2個軍の後方に有力な露軍戦力を残置するのは危険と判断し、2個師団からなる攻城軍を編成することを決定した。しかし、海軍側としては陸軍の援助なしの海軍独力による旅順の処理を望んだようで、事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたと伝えられる。4月6日に行われた陸軍の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文には「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文があるように、4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執し続け、閉塞作戦失敗後は機雷による封鎖策に転換し、4月12日 - 13日に実施されたが失敗した。

ロシアバルト海艦隊(バルチック艦隊)の極東回航がほぼ確定し、追い詰められた海軍は開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。このような経緯により要塞攻略を主任務とする第三軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった乃木希典大将が命された。

6月20日現地総司令部として満州軍総司令部が設置され、大本営から指揮権が移された。6月8日に大連に到着した第三軍司令部は、すでに上陸していた第一、第十一師団(ともに第二軍より抽出された)を麾下に加えて前進を開始し、6月26日までに旅順外延部まで進出した。7月12日には伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請が入る。8月7日より海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向けて砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。

これを受けて、旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こった。この海戦で旅順艦隊が失った艦艇はわずかであったが、今後出撃できないような大きな損害を受けて旅順へ引き返した(黄海海戦コルサコフ海戦)。ロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈する(常陸丸事件)など活発な通商破壊戦を続けていたが、8月14日に日本海軍第二艦隊に蔚山沖で捕捉された。第二艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与え、その後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)。旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていたが、日本側ではそれが確認できず第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を8月19日に開始した。しかし、ロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大損害を受け失敗に終わる。

8月末、日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。8月24日 - 9月4日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。10月9日 - 10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する(沙河会戦)。こののち、両軍は遼陽と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。

10月15日にはロジェス

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出典:wikipedia
2019/08/23 19:59

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