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明仁とは?

(明仁から転送)
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【明仁】

天皇時代、正装の上皇明仁

第125代天皇

在位期間
1989年1月7日 - 2019年4月30日
昭和64年1月7日午前6時33分 -
平成31年4月30日午後11時59分

即位礼
即位礼正殿の儀
1990年(平成2年)11月12日
皇居 宮殿
大嘗祭
大嘗宮の儀
1990年(平成2年)11月22日23日
於 皇居 東御苑大嘗宮
【元号】
昭和: 1989年1月7日
平成: 1989年1月8日 -
2019年4月30日
【内閣総理大臣】
一覧参照

【先代】
昭和天皇
【次代】
今上天皇
【】

【誕生】
1933年(昭和8年)12月23日
午前6時39分(85歳)
日本東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区) 宮城内産殿
【諱】
明仁
1933年(昭和8年)12月29日命名
称号
継宮(つぐのみや)
【印】

【元服】
1952年(昭和27年)11月10日
【父親】
昭和天皇
【母親】
香淳皇后
【皇后】
美智子(正田美智子)
1959年(昭和34年)4月10日大婚
【子女】
今上天皇(浩宮徳仁親王)
秋篠宮文仁親王(礼宮文仁親王)
黒田清子(紀宮清子内親王)
【皇居】
皇居 御所
東京都千代田区千代田1-1
【栄典】
大勲位



























【学歴】
学習院大学教育終了
【副業】
魚類学者
【親署】

称号: 上皇


【敬称】
陛下
His Majesty the Emperor Emeritus
皇室




黄櫨染御袍を着用した、天皇時代の上皇明仁
即位礼にて、高御座に立つ上皇明仁
1990年(平成2年)11月12日

明仁(あきひと、1933年昭和8年〉12月23日 - )は、日本の第125代天皇(在位: 1989年〈昭和64年〉1月7日 - 2019年平成31年〉4月30日)、上皇(在位: 2019年令和元年〉5月1日 - )。皇族称号継宮(つぐのみや)、お印(えい)。敬称陛下勲等大勲位菊花章頸飾

第124代天皇・昭和天皇香淳皇后の第一皇子大正天皇の皇孫かつ明治天皇の皇曾孫。

日本国憲法および現皇室典範下で初めて即位し、即位翌日より「平成」と改元された。東京都即位の礼を挙げた最初の天皇。また、憲政史上初めて譲位し上皇となった天皇である。住居は、皇居吹上御苑内にある吹上仙洞御所。

目次

  • 1 人物
    • 1.1 科学者として
      • 1.1.1 発見したハゼ
  • 2 来歴
    • 2.1 幼少時代
    • 2.2 青年以降
      • 2.2.1 沖縄県訪問に際して
    • 2.3 即位以降
    • 2.4 譲位の意向
  • 3 退位
  • 4 逸話
    • 4.1 青年以降
    • 4.2 即位後
    • 4.3 人物に関するもの
      • 4.3.1 乗り物に関すること
        • 4.3.1.1 日産自動車(主に旧プリンス自動車)とのかかわり
    • 4.4 発言
  • 5 病歴
  • 6 栄典
    • 6.1 日本
    • 6.2 日本以外
  • 7 系譜
    • 7.1 上皇の男系直系
    • 7.2 オルターナティブ形式
  • 8 后妃
  • 9 皇子孫
    • 9.1 皇子女
    • 9.2 皇孫
  • 10 世界各国訪問歴
  • 11 著書
  • 12 脚注
    • 12.1 注釈
    • 12.2 出典
  • 13 参考文献
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

人物

1933年(昭和8年)12月23日東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)宮城(現:皇居)内の産殿にて、父:昭和天皇、母:香淳皇后夫妻の第五子かつ第一皇子(皇男子)として誕生。

1952年(昭和27年)に皇室典範規定に基づき18歳で成年。1959年(昭和34年)に正田美智子と婚姻し浩宮徳仁親王(第126代天皇)・礼宮文仁親王(現・秋篠宮文仁親王)・紀宮清子内親王(現・黒田清子)の二男一女をもうける。

1989年(昭和64年)1月7日に実父である昭和天皇の崩御に伴い皇位継承し、第125代天皇となる。

2019年(平成31年)1月現在、85歳である。高齢だが年間約1,000件の書類に目を通して署名・捺印し、各種行事に約200回出席し(いずれも平成23年度)、20件近くの祭儀を執り行うなど精力的に活動している。しかし、2015年(平成27年)に施設訪問の一部を皇太子徳仁親王同妃および文仁親王同妃に引き継いでいる。

2019年(令和元年)5月1日を以て皇位を皇太子徳仁親王に譲り、上皇となる。

科学者として

魚類学者としても知られハゼ分類学的研究者である。日本魚類学会に属して自ら研究して書いた論文28編を同学会誌に発表。1992年(平成4年)には『Science』誌に"Early cultivators of science in Japan"という題で寄稿している。また2000年(平成12年)、2008年(平成20年)、2016年(平成28年)には、日本国外の雑誌『Gene』に第一著者として論文が掲載されている。

魚類学における業績は各国で評価され学界において以下に記述する役職に就いている。

この他にも1998年(平成10年)にはロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞、2007年(平成19年)の欧州5か国訪問ではスウェーデンウプサラ大学名誉学員に列せられた。また長年のハゼの分類学的研究に対する貢献を称え、新種のハゼの一種の命名に、1992年(平成4年)には Platygobiopsis akihito と、2005年(平成17年)には Exyrias akihito2007年(平成19年)にはハゼの新属にアキヒト属 (Akihito) と、彼の名を織り込んだ献名がなされた。

民族学者である梅棹忠夫は、1971年(昭和46年)8月26日の仲間内の食事会にて「この前、皇太子殿下にご進講に行った。皇太子殿下の植物学に対する造詣はたいしたもの。立派に東大京大教授が務まる。帝としてはどうか知らないが、学者としては一流だ。」と述べている。

発見したハゼ

来歴

幼少時代

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父・昭和天皇
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母・香淳皇后

1934年(昭和9年)、誕生翌年に母・香淳皇后に抱かれる継宮明仁親王(当時)

1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分、宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。昭和天皇香淳皇后の第5子にして初の皇子(第一皇男子)であった。称号「継宮」(つぐのみや)、名前「明仁」(あきひと)は、父・昭和天皇による命名で、いずれも明治3年1月3日(1870年2月3日)の明治天皇の即位に際して発せられた詔勅「大教宣布」より「…立極垂統、列皇相承、之述之…宜治教以宣揚惟神之大道也…(「極(皇位)」を立て「統(皇統)」を垂れ、列皇(歴代天皇)は相承し、之を継ぎ之を述べ…よろしく治教を明らかにし以て「惟神(かんながら)」の大道を宣揚すべき也)」に出典を求め、命名されたものである。お印の「榮」は文字で、「草花が盛んに茂る様子」を意味する。国内の沸き立ち方は並々ならぬものがあり、北原白秋作詞・中山晋平作曲で奉祝歌「皇太子さまお生まれなつた」まで作られた。

1936年(昭和11年)3月29日皇室の伝統的慣習に基づき、満2歳で両親の元を離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって養育される。当初は週に一度の日曜日には宮中に参内し両親との面会の機会もあったが、1か月を過ぎる頃から日曜日も東宮仮御所で過ごすようになった。学習院就学時代は山梨勝之進院長の下で教育を受け、内舎人・信国鉄蔵を師として剣道を練成した。

1944年(昭和19年)、第二次世界大戦の戦火の拡大により、初めは栃木県日光市田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で翌1945年(昭和20年)8月15日にラジオでの父帝による玉音放送を聴き、終戦を迎えた。終戦後に帰京。

1946年(昭和21年)10月から1950年(昭和25年)12月まで、父・昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ばせる」という新しい皇太子への教育方針に従い、アメリカ合衆国の著名な児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(日本では「ヴァイニング夫人」として知られている)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。

青年以降

1952年(昭和27年)11月10日、皇居・表北ノ間で立太子の礼と皇太子成年式が挙行された。同日、大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。

1953年(昭和28年)3月30日から同年10月12日までの半年余りにわたり、初の外遊。ヨーロッパ12か国およびアメリカ・カナダを歴訪。同年6月2日イギリスエリザベス2世女王の戴冠式へ父・昭和天皇の名代として参列。このとき地位は皇太子であったが、昭和天皇名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行った。後年、2007年(平成19年)の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行っている。しかしこの外遊の結果、(皇太子という身分とはいえ特別待遇されることはなく)学習院大学の単位が不足し進級できず、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学問を続ける。

外遊からの帰国直後の同年12月に、結核の感染を診断される。このとき、ストレプトマイシンなどの特効薬が発見されており、それの投与による治療を受け、1957年(昭和32年)までにほぼ治癒した。このことは長らく公にされていなかったが、2009年(平成21年)3月に行われた、第60回結核予防全国大会の挨拶にて、自ら明かした。

1957年(昭和32年)8月19日、避暑で訪れた軽井沢のテニストーナメントで日清製粉グループ会長(当時)であった正田英三郎の長女・正田美智子と出会う。テニスを通して交際を深めた。宮内庁職員の作品展に「女ともだち」と題した彼女の写真を出品した。しかし皇太子が積極的に正田美智子との結婚を考えていると分かると、皇室内外から猛反対を受けた。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の著作『入江相政日記』には、「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん」と母・香淳皇后秩父宮妃勢津子高松宮妃喜久子の両親王妃と共に昭和天皇に訴えたという内容の記述がある。

1959年(昭和34年)1月14日納采の儀が、同年4月10日結婚の儀が執り行われた。明治以降では初の皇族・華族以外からの皇太子妃であり、また成婚に至る過程が報道されたこともあって、市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム」が起る。成婚のパレードは盛大に行われ、国民の祝福を受けた。2人の成婚の様子を見るために、当時高価であったテレビも普及し始めた。また婚礼を祝して「祝典行進曲」が作曲された。同年7月15日に、美智子妃の懐妊が発表された。

1960年(昭和35年)2月23日に第1子・第一男子浩宮徳仁親王が誕生。3月には妹・清宮貴子内親王が、明仁親王の学友だった島津久永と結婚した。同年9月22日から同年10月7日にかけて、美智子妃を伴ってアメリカ合衆国を16日間にわたり訪問した。

1965年(昭和40年)11月30日、第2子・第二男子礼宮文仁親王が誕生。1969年(昭和44年)4月18日、第3子・第一女子紀宮清子内親王が誕生。

沖縄県訪問に際して

沖縄県祖国復帰(沖縄返還)が実現して3年後の1975年(昭和50年)、沖縄国際海洋博覧会に際し、父・昭和天皇も大正期の皇太子時代に訪問した沖縄県を立太子後、初めて訪問。海洋博の写真を収めた書籍「海 その望ましい未来」、海洋博の記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に参列した皇太子および同妃の姿が収録される。

この訪沖についてはいくつかの事件もあった。同年7月17日、美智子妃を伴いひめゆりの塔に献花のため訪れたところ、その場に潜んでいた過激派2人(沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功と共産主義者同盟のメンバー)から火炎瓶1本を投げつけられる(ひめゆりの塔事件)。同日夜、皇太子は「沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来へつなぐ。」と県民の心情を思う異例の談話を発表している。

なお、この訪問については同事件の犯人の所属するもの以外にも、各種政治団体が「訪沖阻止」などを叫んで全国で集会、県学連、全学連などが1000人単位のデモなどを行ったほか、沖縄入りした皇太子および同妃の自動車に空き瓶などを投げつけるなどのテロ(犯人は公務執行妨害で逮捕)を行ったが、皇太子および同妃に怪我などはなく、つつがなく予定を終了した。皇太子は当時より沖縄に関心をよせ 琉歌を研究し、琉歌8首を発表している。

1976年(昭和51年)1月18日の閉会式にも揃って訪沖している。

1987年(昭和62年)にも、沖縄海邦国体を前に病臥した父・昭和天皇(昭和天皇が在位中の天皇として史上初めて沖縄に行幸する予定だった)の名代として沖縄を訪れ、同年10月24日、南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇の言葉を代読した。当時の西銘順治沖縄県知事は「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う。」と談話を発表した。

即位以降

1989年(昭和64年)1月7日、父・昭和天皇の崩御を受け、即座に歴代2位の年長となる55歳で即位(現行の皇室典範により、「践祚」と「即位」が統合されたため、従前の「践祚」に相当)。同日、皇位継承の儀式(剣璽等承継の儀)を執り行い、翌8日元号法に基づき「平成」に改元した。9日に執り行われた即位後朝見の儀では「国民とともに日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」とのおことばを発した。

諒闇が明けた1990年(平成2年)の即位の礼に際して、京都御所(京都府京都市上京区)から皇居(東京都千代田区)へ高御座が運ばれるなど大掛かりな準備が行われ、同年11月12日即位礼正殿の儀が執り行われた。祖父の大正天皇・父の昭和天皇とも即位の礼を京都御所で挙行しており、関東の地で即位した初めての天皇となる。同日、即位の礼祝賀御列の儀としてオープンカーでのパレードが行われ、皇居から赤坂御所までの4.7kmの道のりを、約12万人の市民が祝福した。同年11月22日・23日、皇居内で大嘗祭が執り行われた。

1992年(平成4年)10月、中華人民共和国政府の招待で同国に行幸する。日中関係史中国大陸に渡ったのは歴代天皇で初の出来事だったが、当時の中国外交部長(外務大臣)で昭和天皇の大喪の礼にも出席した銭其シンは回顧録で天皇訪中は六四天安門事件での西側諸国の対中制裁の突破口という側面もあったと明かしている。

1999年(平成11年)に即位10周年を迎え、同年11月20日御即位十年をお祝いする国民祭典が開催され、同日夜には二重橋で祝賀の声に応えた。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。

1993年(平成5年)には、沖縄県行幸を果たした。この折には予定になかったひめゆり学徒隊の慰霊碑への訪問を行った。2003年(平成15年)までに、47都道府県のすべてを巡幸している。

2009年(平成21年)11月12日、政府主催の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/05/16 17:44

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