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明治神宮野球場とは?

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明治神宮野球場
Meiji Jingu Stadium

明治神宮野球場
(2016年撮影)

【施設データ】

【所在地】
東京都新宿区霞ヶ丘町3番1号
【座標】
北緯35度40分28.46秒 東経139度43分1.69秒 / 北緯35.6745722度 東経139.7171361度 / 35.6745722; 139.7171361座標: 北緯35度40分28.46秒 東経139度43分1.69秒 / 北緯35.6745722度 東経139.7171361度 / 35.6745722; 139.7171361
【起工】
1925年(大正14年)12月
【開場】
1926年(大正15年)10月23日
【所有者】
明治神宮
【グラウンド】
ロングパイル人工芝
【ダグアウト】
ホーム - 一塁側
ビジター - 三塁側
【照明】
照明塔 - 6基
照度 投捕間3000Lx
内野2300Lx
外野1700Lx
【建設費】
53万円
【設計者】
小林政一
【旧称】
STATESIDE PARK(1945年 - 1952年)
【使用チーム ・ 開催試合】

主なアマチュア関連
プロ野球の使用チーム

【収容能力】

31,805人 (内野:-席、外野:-席)

【グラウンドデータ】

【球場規模】
グラウンド面積:12,659m
両翼 - 97.5 m(約319.8 ft)
中堅 - 120 m(約393.7 ft)
左右中間 - 112.3m
【フェンス】
3.3 m (約10.83ft)
ラバーフェンス:1.8 m
金網フェンス:1.5 m

明治神宮第二球場
Meiji Jingu Sub Stadium

明治神宮第二野球場
(2016年10月29日撮影)
【施設データ】

【所在地】
東京都新宿区霞ヶ丘町3番2号
【座標】
北緯35度40分33.6秒
東経139度42分58.1秒

【開場】
1961年(昭和36年)
【所有者】
明治神宮
【グラウンド】
人工芝
【設計者】
不明
【使用チーム ・ 開催試合】


【収容能力】

5,600人

【グラウンドデータ】

【球場規模】
両翼 - 91 m(約298.6 ft)
中堅 - 116 m(約380.6 ft)
【フェンス】
不明

明治神宮野球場(めいじじんぐうやきゅうじょう)は、東京都新宿区明治神宮外苑に所在する野球場

所有者は宗教法人明治神宮であり、「神宮球場(じんぐうきゅうじょう)」の通称で知られている。ここではメイン球場のほか、隣接する神宮第2球場(兼明治神宮外苑ゴルフ練習場西練習場)についても触れる。

目次

  • 1 概要
  • 2 歴史
    • 2.1 建設から戦前まで
    • 2.2 第二次世界大戦前後
    • 2.3 プロ野球球団の本拠地へ
    • 2.4 相次ぐ改修
    • 2.5 建て替え計画
    • 2.6 年表
  • 3 プロ野球
    • 3.1 東映の使用
    • 3.2 ヤクルトの本拠地
    • 3.3 ロッテの使用
  • 4 優先使用権
  • 5 施設概要
    • 5.1 明治神宮野球場
      • 5.1.1 球場データ
      • 5.1.2 グラウンド
      • 5.1.3 スタンド
      • 5.1.4 スコアボード
      • 5.1.5 広告
      • 5.1.6 売店
      • 5.1.7 ギャラリー
    • 5.2 明治神宮第二球場
  • 6 天覧・台覧試合
  • 7 事故
  • 8 胴上げ
  • 9 硬式野球以外での使用
    • 9.1 コンサート
  • 10 交通機関
  • 11 脚注
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

概要

1926年(大正15年)に開場以来、アマチュア野球においては大学野球の主要球場として長年使用され、六大学野球のほか東都大学野球1部リーグおよび入れ替え戦を中心に今日まで使用されている。

他にも高校野球の東東京大会および西東京大会や全日本大学野球選手権大会明治神宮野球大会の他、社会人野球(JABA東京スポニチ大会。過去には都市対抗野球大会、現在も東京都予選が)、日本リトルシニア全日本選手権など多くのアマチュアの大会が開催されている。日本国内では阪神甲子園球場とならんで「野球の聖地」とうたわれる野球場でもある。

アマチュア専用として初期はプロ野球公式戦での使用は認められなかったが、徐々に緩和され現在では東京ヤクルトスワローズ専用球場(本拠地球場)として使用している。

なお、本来の表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない『明治神宫野球場』であるが(正面玄関上の球場名の文字看板はこの表記)、一般には常用漢字の「宮」が使用されている(球場公式サイトも同様)。

歴史

建設から戦前まで

神宮球場が完成したのは1926年(大正15年)である。明治神宮外苑に明治神宮外苑競技場(現在は国立霞ヶ丘陸上競技場に改築)などの運動施設が建造されるなか建設された。当時の金額で総工費は53万円、うち明治神宮奉賛会が48万円を出費し、東京六大学野球連盟が5万円を本工事に寄付。敷地造成工事に着手したのは1925年(大正14年)12月で、翌年1月に起工式、10月23日に竣功式が行われ、摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)と閑院宮載仁親王が臨席し、初試合として東京対横浜の中等学校代表および東京六大学選抜紅白試合が行われた。東京六大学はこの年の秋季よりリーグ戦の一部の試合で使用し、1927年(昭和2年)からはこの球場を会場として都市対抗野球大会も始められた。

なお、建設されるはるか前、江戸時代は江戸幕府に使えた甲賀者の「百人組」が住んでいた居住地「青山甲賀町」だった。与力、同心の屋敷、鉄砲射撃場などがあったとされ、射撃場のあった場所がちょうど外野ライト前に当たる。忍者頭高峰家の屋敷があった場所が、現在の球団クラブハウスに当たる。

早慶戦などで収容能力に不足が見られたため、1931年(昭和6年)には東京六大学野球連盟が工費55万円を負担して内野・外野スタンドを増築、球場正面を除いて外形が現在の形となった。収容人員は29,000人から58,000人(松内則三の実況アナウンスでは「6万の観衆、内野外野のスタンドに詰めかけまして」という表現が見られる)に増えている。東京六大学はこの年からリーグ戦の全試合を神宮球場で開催するようになり、1932年(昭和7年)には東都大学野球連盟のリーグ戦も開催され始めた。

建設の経緯、および明治神宮が管理運営するというスタイルから、戦前は「アマチュア野球の聖地」とされ、プロ野球の使用は論外という雰囲気があった。読売新聞社長の正力松太郎は「将来プロにする」ということを伏せて全日本チーム(後に読売ジャイアンツとなる)を組織し、1934年(昭和9年)に米国メジャーリーグの招待試合を神宮球場で開催した。正力は翌年2月に右翼に切りつけられる事件に見舞われたが、犯人が取り調べで述べた動機には「読売がアメリカの野球チームを招き神聖な神宮球場を使ったこと」が、天皇機関説支持とともに挙げられており、当時の風潮がうかがえる。

第二次世界大戦前後

日中戦争勃発後の1938年(昭和13年)には都市対抗野球大会が完成直後の後楽園球場に会場を移し、さらに1943年(昭和18年)には太平洋戦争の激化により文部省からの通達で、東京六大学と東都は共に解散となってしまった。1945年(昭和20年)5月には、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)によって被災し、火災によって一部が崩れ落ちた。

日本の敗戦後には、日本占領軍であるアメリカ軍により接収され、連合国軍専用球場として 「Stateside Park(ステイトサイド・パーク)」の名称で使用された。

それでも終戦年である1945年(昭和20年)には日本人の使用にも開放され、東京六大学OB紅白試合、オール早慶戦、職業野球東西対抗戦などが行われた。このうち、東西対抗戦はプロ野球発足後に当球場で初めて開催されたプロの試合である。1946年(昭和21年)からは東京六大学と東都が復活、春季は神宮球場での試合は認められなかったが秋季から一部の試合で開放されている。帝国主義者を養成してきた東京大学に球場を使用させないというのも接収が1952年まで続いた理由の1つであった。

1946年(昭和21年)5月から6月にかけ連合国軍により修復工事が行われ、照明設備が新たに設置され内野にも天然芝が敷かれている。この時期には球場初のプロ野球公式戦、全日本大学野球選手権大会の前身である大学野球王座決定戦、第1回目のプロ野球日本選手権シリーズ第1戦(当時の呼称は「日本ワールドシリーズ」)などが開催されている。東京六大学は上井草球場などと併用してリーグ戦を行っていたが、1950年(昭和25年)秋季より全試合での開催を認められている。ただし連合国軍による接収が解除されて明治神宮に返還されたのは、サンフランシスコ条約の発効間近である1952年(昭和27年)3月のことである。

プロ野球球団の本拠地へ

連合国軍による接収解除後は内野天然芝と照明が撤去され、バックネット裏前列に1953年(昭和28年)から放送が開始されたテレビ放送席が新設されている。1962年には相撲場跡地に第2球場が完成した。

1962年(昭和37年)からは閉鎖される駒澤野球場の代わりとして東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)が使用を開始し、次いで1964年(昭和39年)に後楽園球場から国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)が、東映と入れ替わるように移転している。これらの動きには学生野球界は強く反対したものの、結局は認められた(詳細は後述)。

相次ぐ改修

東映の使用開始時の1962年にはバックネット裏の増築、ナイター設備新設、ラッキーゾーンの設置といったプロ基準に合わせる改修を施した。さらに1967年(昭和42年)にはホームベースを動かすなど当時の標準的な球場に近づける大改修が行われた。その後幾たびも改修が重ねられ、個別座席・人工芝グラウンド・照明塔・電光スコアボードなどが取り入れられている。

収益を優先する観点から、1981年に一度は廃止されたフェンス広告をのちに再開した。またコンサートなど大型イベントの開催も行うなどの動きもある。

収益の高いプロ野球を人気の低下が見られる学生野球より優先しようとする意見もあるが、優先度の変化のみで学生野球優先の方針は維持されたまま現在に至っている(詳細は後述)。2007年(平成19年)11月24日からは大規模な改修工事を実施し、2008年(平成20年)3月6日に竣工式が行われた。スコアボードの全面フルカラーフリーボード化やフィールドの拡張、ロングパイル人工芝への張替えなどを行った。総工費は約15億円。

2011年(平成23年)シーズンからボールカウントの表示方式を、日本国内で旧来使用されていた「SBO」(上からストライク、ボール、アウト)順から、国際ルールに則した「BSO」順に変更した。当球場のカウント表示はコンピューターグラフィックスを使用しているため(後述)表示部分 (ハードウェア)の改修は必要なく、ソフトウェアの更新などで対応した。同年には内野席に、2013年には外野席にウッドデッキ調の特別席が設置された。

2013年オフからは3年計画でスタンドの老朽箇所の改修と、耐震補強工事を実施する。施工業者は安藤ハザマ。工事は継続的に野球の試合に利用できるようにするため、シーズンオフ(年度下半期)のみに限定し、2016年3月の完全竣工時に耐震改修促進法に基づく耐震認定の検定を受ける。第1期(2013年度)は内野正面スタンド部(屋根を除く)、第2期(2014年度)は1・3塁側内野スタンドと正面スタンドの屋根、第3期(2015年度)は外野席の改修を行う。また外壁の改修は耐震補強工事に従って順次行う。正面スタンドは一部が耐震補強壁となることから歴史性を忍ばせ、耐久性に優れたレンガ素材を使用した壁面を使用する。正面スタンドの大屋根は鉄製からテフロン製テント膜に変更される。

また正面スタンドの大屋根は現在の鉄骨骨組を補強した際は、2階席から視界が遮られてしまうので、鉄骨の骨組みを盛替えて改修する。屋根の軽量化を図るためにこれまで使用していた鉄板からテフロン膜を使用することで、最小限の構造部材でくみ上げられるような形状とする。

建て替え計画

現球場は築90年を超え、老朽化や耐震補強が課題となっており、上記の通り2013年から3年計画による工事を実施(上述以外では2015年に人工芝の張替を施工)しているが、2013年ごろから、東京都が2021年から神宮外苑の再開発を行う構想を打ち出していると、複数の報道機関が報じた。この報道がなされた2013年現在はまだ地権者との話し合いが行われている段階だった。

2015年4月1日2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催後に、明治神宮外苑をスポーツの聖地とするための再開発を進める一環として、近接の秩父宮ラグビー場(区境を跨ぎ港区にある)との土地交換で新球場を建設する計画を明らかにした。

計画案としては、まず東京大会前までに現ラグビー場を撤去・解体し、開催期間中は暫定的に駐車場として利用する。大会終了後、正式に新球場の建設工事に取り掛かり、完成後に現在の神宮球場を撤去・解体する。また現在の神宮球場の跡地に新ラグビー場を建設する方針である。

また第2球場についても、再開発をするにあたり解体する予定で、工事中も野球・ラグビーなどが滞りなく、可能な限り開催できるようにすべく、新たな球技場の建設を予定している。

その後、2017年7月に当初の計画案から順番を入れ替えた形で秩父宮ラグビー場、神宮球場の順に建て替える方向で調整が進められていることが明らかになった。新たな計画案では東京大会前までに神宮球場に隣接する第2球場を解体し、東京大会後からその跡地にラグビー場を建設する。現在の秩父宮ラグビー場は新ラグビー場が完成するまで利用し、新ラグビー場の完成後に現在の秩父宮ラグビー場を撤去・解体し、その跡地に新球場を建設する。新球場完成後に現在の神宮球場は撤去・解体されスポーツ関連施設に生まれ変わるが、現在の神宮球場の一部を活用して新ラグビー場の観客席などを拡張する予定である。

年表

プロ野球

東映の使用

1961年(昭和36年)、東映フライヤーズ(現: 北海道日本ハムファイターズ)の本拠だった駒澤野球場が、東京オリンピック(1964年)の開催に伴い東京都から用地返還を求められたため、閉鎖されることになった。東映は次の本拠を探す中で、明治神宮側へ神宮球場の隣に建設中だった第2球場の使用を申し出た。一度は断られたものの原因を作った都に仲介を持ちかけ、結局は学生野球の試合が開催される場合それを優先すること、6月から9月にナイターで試合を行うことなどを条件に、1962年から神宮球場の方を使用することが認められた。あくまでも仮の処置であり、後楽園球場や東京スタジアム(1962年6月完成)と併用する形で、主催試合数の半数近くが神宮で開催され事実上の専用球場とされた。球場別試合数では神宮が多かったものの、これは半数以上の試合開催を求める現在の日本プロフェッショナル野球協約では認められない試合数である(1962年:神宮32試合、後楽園24試合、東京3試合、その他6試合、1963年:神宮31試合、後楽園26試合、東京18試合)。

その年、パ・リーグ優勝を果たした東映は日本シリーズ阪神タイガース戦の主催3試合中第3、4戦の2試合を開催。第5戦は学生野球優先の取り決めもあり後楽園球場で開催された。また1963年(昭和38年)には東京オリンピックの協賛チャリティーというサブタイトルでオールスターゲームを初開催した。

1964年(昭和39年)から国鉄スワローズが神宮球場を正式に専用球場としたため、その年の東映は日程の余裕が出る後楽園球場で主に試合を開催し(後楽園46試合、神宮25試合、その他3試合)、翌1965年(昭和40年)より正式に後楽園球場を専用球場として結果的に入れ替わることになった。ただし試合数を段階的に減らしながらも1980年(昭和55年)まで準本拠地として使用している。

ヤクルトの本拠地

1963年(昭和38年)のシーズンには、後楽園球場を専用球場としていた国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)も地方開催扱いで数試合開催した。

シーズン終了後、国鉄球団は第2球場を専用球場にしたい意向を明らかにし、産経新聞社フジテレビジョンが主体となって30,000人収容の球場とする具体的な改装計画まで明らかにしたものの、日本学生野球協会は反対の意向を表明。更に学生野球が将来神宮球場から追い出され、第2球場に追いやられるのではという噂まで流布し、国会の文教委員会でも問題となり、更には右翼団体までもが介入し今村均元陸軍大将までもが神宮プロ野球進出反対運動に担ぎ出されたという。結局、第2球場はアマチュア専用にしたいという管理者の意向や、プロ側が要求する球場設備を満たすための拡張用地の確保が既に無理なこともあり、第2球場の使用は却下され改修工事は第1期工事で中断となった。代わりに、国鉄の専用球場として1964年(昭和39年)のシーズンより神宮球場の通年使用が認められた。

これは、国鉄を実質的に経営していたフジテレビに対して後楽園球場のテレビ中継権が与えられていなかったこと(主催球団を問わず日本テレビが独占していたが、1962年には駒沢球場廃止との兼ね合いから、東映主催試合に限りNETテレビの中継が認められた)と、それに付随してフジテレビが国鉄戦テレビ中継を強化したかったこと等も絡んでいる。プロ使用への反対はすぐになくなったわけではなく、1965年2月の衆議院体育振興特別委員会では自民党川崎秀二議員が「外苑の経済的維持が困難なら、国立野球場にしてもよいのではないか。またプロ球団に貸さなくても外に財源の道はあるのではないか」と質問したり、予算委員会で愛知揆一文部大臣が「プロ野球の根拠地となることは歓迎できない」と発言するなど、保守系の議員から国会で反対する意見が出されていた。

国鉄はプロ野球球団で初めて神宮球場を専用球場にしたものの、球場側には東映と同様に学生野球を優先することを求められた。そのため神宮でのデーゲームは例年、学生野球の行われない時期(4月上旬・6月下旬・8月中・9月上旬)に限定される(8月については2012年までは暑さのため自発的に行わなかったが、2013年以後、17時開始の薄暮という形でデーゲームを組む試合が数回ある。2015年には7月にも17時開始の薄暮デーゲームがある)。2004年(平成16年)まで毎年5月下旬に行われていた千葉マリンスタジアムでの公式戦は、同時期に神宮で行われる早慶戦の開催を考慮したものである。一般的にプロ野球では試合前の練習を球場のグラウンドで行うが、神宮球場では日中に学生野球の試合が行われる際に外野側場外にある軟式野球場や屋内練習場を使って行われる。2008年(平成20年)までは試合開始時間をずらすことも行われた(詳細は後述)。

1978年(昭和53年)にはヤクルトスワローズ(1974年に改称)が初めてリーグ優勝したものの、東京六大学が優先され日本シリーズ(対阪急戦)は後楽園球場で振り替え開催された。その後東京六大学、東都大学両野球連盟との調整により、1992年と翌1993年の日本シリーズ(いずれもヤクルト-西武戦)では、ヤクルトのホームゲームが初めて神宮球場で開催された(デーゲーム。これに伴い大学野球はナイトゲーム開催)。以降、日本シリーズのヤクルト主管試合は全て神宮での開催となっている。1992年には、日本シリーズの表彰式終了直後に六大学野球の試合が行われたため、普段よりはるかに多い観客が六大学の試合を観戦したというエピソードが残っている。1995年(平成7年)以降は日本シリーズがナイター開催となったため、シーズン中同様に大学野球はデーゲームで開催されている。このほかにも1970年代初め頃まで大学野球との日程の絡みで、消化試合を神宮で行えず川崎球場や東京スタジアム、横浜公園平和野球場(現・横浜スタジアム)を借りて行った事例もある。

神宮球場はヤクルトの本拠地ではあるが昔はビジターチームのファンが多かった。レフトスタンドは大抵の試合でビジターチームのファンで埋まり、特に読売ジャイアンツ阪神タイガース広島東洋カープ戦の際にはライトスタンドを除いてこれらビジター側のファンが大半を占めることも珍しくなかった。古田敦也が監督就任時に「東京」ヤクルトスワローズへの改称やユニフォームの一新など、「神宮をヤクルトファンで満員にしよう」の合言葉のもと進めた「F-PROJECT」発足の理由の1つとして、この状況が挙げられる。その甲斐もあり、近年ではレフト側にヤクルト応援席ができる試合も登場するなど、ヤクルトファンがスタンドを埋めることも少なくはない。

ロッテの使用

1972年(昭和47年)オフの東京スタジアムの閉鎖に伴い本拠地を失ったロッテオリオンズは、金田正一監督在任時代の1973年(昭和48年)から川崎球場に移転する前年の1977年(昭和52年)まで主催公式戦の一部を神宮球場で開催した。

1973年当時、ロッテは都内での試合数確保の観点から、年20試合程度を当球場で開催する意向だった。ところが、ヤクルト球団、東京六大学野球連盟・東都大学野球連盟との日程調整で折衝するも折り合いがつかず、年6試合(その後10試合に増加)の開催にとどまざるを得なかった(その後、1974年4試合に一度減るも、1975年6試合、1976年8試合と微増。1977年はジプシー期間中で最大の12試合を行った)。

1973年のパ・リーグ(前期)でロッテは南海と熾烈な優勝争いを展開。優勝がかかった6月の対日拓ホーム3連戦では1試合あたり6万人ものファンが詰めかけロッテ優勝の瞬間を見届けようとしたが、ロッテは惜しくも前期優勝を逃している(この頃のロッテについてはジプシー・ロッテを参照)。

優先使用権

球場正面外観
スコアボード裏側

神宮球場が他の球場と決定的に違うのは、学生野球(東京六大学と東都)に優先使用権が認められていることである。これは神宮球場の建設と拡張に東京六大学連盟の尽力や資金提供があったという事実からである。また、所有者の明治神宮がアマチュア野球を優先してきたという歴史的な経緯もある。しばしば他の一般的なプロ野球の本拠地球場になっている球場と同じように「神宮球場はスワローズの本拠地で大学野球は間借りしている」と誤解されることがあるが、スワローズ側が間借りしているのが正しい(ただし他の球団の本

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出典:wikipedia
2018/10/18 23:04

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