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明治維新とは?

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年1月)
明治天皇の東京行幸
フランス新聞雑誌ル・モンド・イリュストレ』1869年2月20日刊行号内の挿絵

明治維新(めいじいしん、: Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制法制宮廷身分制・地方行政金融流通産業経済文化教育外交宗教思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。

目次

  • 1 改革までの経緯
  • 2 改革の時期
  • 3 改革の理念
    • 3.1 五箇条の御誓文
    • 3.2 五榜の掲示
  • 4 改革の組織
    • 4.1 中央政府
      • 4.1.1 首都の位置
      • 4.1.2 行政
      • 4.1.3 立法
      • 4.1.4 司法
    • 4.2 宮中
    • 4.3 地方行政
  • 5 改革の内容
    • 5.1 岩倉使節団の影響
    • 5.2 改革された諸制度
      • 5.2.1 軍隊
      • 5.2.2 身分制度
      • 5.2.3 経済産業
      • 5.2.4 思想
      • 5.2.5 宗教
      • 5.2.6 法律
      • 5.2.7 文化
      • 5.2.8 教育
      • 5.2.9 外交政策
  • 6 改革の結果
    • 6.1 列強に座した日本、それを先鞭としたアジア
    • 6.2 エジプトとの比較論
  • 7 脚注
    • 7.1 注釈
    • 7.2 出典
  • 8 参考文献
  • 9 関連項目
  • 10 外部リンク

改革までの経緯

戊辰戦争中の薩摩藩藩士(着色写真)。フェリーチェ・ベアト撮影
四国連合艦隊による下関砲撃(馬関戦争)

明治維新は、黒船来航に象徴される欧米列強の経済的・軍事的進出に対する抵抗運動(攘夷運動)に起源を持つ。阿片戦争以後、東アジアで欧米による帝国主義の波が強まる中で、長年の国是であった鎖国体制を極力維持し、旧来の体制を維持しようとする思想が現れた。しかし江戸幕府は、朝廷の意に反する形で開国・通商路線を選択したため、攘夷運動は尊王論と結びつき、朝廷の権威のもと幕政改革と攘夷の実行を求める尊王攘夷運動として広く展開されることとなった。

一方、開国・通商路線を是認する諸藩の中にも、いわゆる雄藩を中心に、幕府による対外貿易の独占に反対し、あるいは欧米列強に対抗すべく旧来の幕藩体制の変革を訴える勢力が現れた。これらの勢力もまた朝廷を奉じてその要求を実現させようとしたため、幕末は京都を舞台に朝廷を巡る複雑な政争が展開されることとなった。尊王攘夷運動は、薩英戦争下関戦争などにおいて欧米列強との軍事力の差が改めて認識されたことで、観念的な攘夷論を克服し、国内統一・体制改革(近代化)を優先して、外国との交易によって富国強兵を図り、欧米に対抗できる力をつけるべきだとする「大攘夷」論が台頭し、尊王攘夷運動の盟主的存在だった長州藩も開国論へと転向していくことになった。

幕府は、公武合体政策の下朝廷の攘夷要求と妥協しつつ旧体制の存続を志向したため、次第に雄藩らの離反を招いた。また、黒船来航以来の威信の凋落もあって国内の統合力を著しく低下させ、幕末は農民一揆が多発するようになった。このような情勢の中、諸侯連合政権を志向する土佐藩越前藩らの主張(公議政体論)や、より寡頭的な政権を志向する薩摩藩の主張など、幕府を廃し、朝廷の下に権力を一元化する国内改革構想が現れてくることとなる。また、それは旧弊な朝廷の抜本的な改革を伴う必要があった。結果として、この両者の協力により王政復古が行われ、戊辰戦争による旧幕府勢力の排除を経て権力を確立した新政府は、薩摩・長州両藩出身の官僚層を中心に急進的な近代化政策を推進していくこととなった。

改革の時期

明治天皇御真影。キヨッソーネによって描かれたコンテ画を丸木利陽が写真撮影したもの(明治21年1月)

開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)となる。しかし、一般的にはその前年にあたる慶応3年(1867年)の大政奉還王政復古以降の改革を指すことが多い(維新体制が整う以前の政治状況については幕末の項で扱うものとする)。終了時期についても、廃藩置県の断行(明治4年、1872年)、西南戦争の終結(明治10年、1877年)、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立(明治22年、1889年)までとするなど諸説ある。

この期間の政府(一般的には慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古以後に成立した政権)を特に明治政府(めいじせいふ)、新政府(しんせいふ)、維新政府(いしんせいふ)などと呼称することが多い。「藩閥政府」と揶揄されることもあるが、中級官僚以上でも旧親藩・旧幕臣などから採用された者も少なくなく、一概に一部雄藩のみが主導したともいえない。当時の人々からは主に大政奉還と廃藩置県を指して御一新と呼ばれていた。

改革の理念

五箇条の御誓文

詳細は「五箇条の御誓文」を参照
幟仁親王が揮毫した御誓文の原本
「大政奉還図」 邨田丹陵

江戸幕府による大政奉還を受け、王政復古によって発足した明治新政府の方針は、天皇親政(旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国を指す)に追いつくための改革を模索することであった。その方針は、翌慶応4年(1868年)3月14日に公布された五箇条の御誓文で具体的に明文化されることになる。合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の涵養などである。なお、この『五箇条の御誓文』の起草者・監修者は「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を全く新たに入れた総裁局顧問・木戸孝允(長州藩)であるが、その前段階の『会盟』五箇条の起草者は参与・福岡孝弟(土佐藩)であり、更にその前段階の『議事之体大意』五箇条の起草者は参与・由利公正(越前藩)である。

その当時はまだ戊辰戦争のさなかであり、新政府は日本統一後の国是を内外に呈示する必要があった。そのため、御誓文が、諸大名や、諸外国を意識して明治天皇が百官を率いて、皇祖神に誓いを立てるという形式で出されたのである。さらに国民に対しては、同日に天皇の御名で「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が告示され、天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、国民も旧来の陋習から捨てるように説かれている。

これらの内容は、新政府の内政や外交に反映されて具体化されていくとともに、思想的には自由民権運動の理想とされていく。

また、この目的を達するための具体的なスローガンとして「富国強兵」「殖産興業」が頻用された。

五榜の掲示

五箇条の御誓文を公布した翌日、幕府の高札が撤去され、辻々には暫定的に江戸幕府の統治政策を踏襲する「五榜の掲示」が立てられた。儒教道徳の遵守、徒党や強訴の禁止、キリスト教の禁止、国外逃亡の禁止などを引き継いだ内容が掲示された。これら条項は、その後の政策のなかで撤廃されたり、自然消滅して効力を失うに至る。

改革の組織

中央政府

首都の位置

首都については、当初京都では旧弊(京都の歴史上のしがらみ)が多いとして、大阪遷都論が大久保利通を中心として唱えられた。しかし、大阪遷都論には反対が多く、江戸城明け渡しもあり、江戸を東京とすることで落ちついた(→東京奠都の項目を参照)。遷都についての正式な布告があったわけではなく、明治天皇の2度の東京行幸により太政官も東京に移され、東京が事実上の首都と見なされるようになった。

行政

形式的には、明治維新は律令制の復活劇でもあった。幕藩体制の崩壊に伴い、中央集権国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称を復活させた。

王政復古の大号令において、幕府摂政関白の廃止と天皇親政が定められ、天皇の下に総裁議定参与の三職からなる官制が施行された。総裁には有栖川宮親王、議定には皇族公卿と薩摩・長州・土佐・越前などの藩主が、参与には公家と議定についた藩主の家臣が就任した。しかし、明治天皇はまだ年少であるため、それを補佐する体制がすぐに必要となった。

そこで、慶応4年閏4月21日政体書公布により、太政官を中心に三権分立制をとる太政官制(七官制政体書体制)が採られ、さらに翌年(明治2年)7月には、版籍奉還により律令制の二官八省を模した二官六省制が発足した。なお、明治2年の主な組織(一部のみ)と役職者は次の通りである。

  1. 輔相(三条実美)
  2. 議定(岩倉具視徳大寺実則鍋島直正)
  3. 参与(東久世通禧木戸孝允大久保利通後藤象二郎副島種臣板垣退助)

そして、明治4年7月の廃藩置県の後には正院左院右院による三院制が採られた。

具体的な行政機構としては、太政官神祇官を置き、太政官の下に各省を置く律令制が模写されたものの、その後も民部省から工部省が分離したり、刑部省から司法省への改組など幾多の改変を必要とし、安定しなかった。また立法府である左院(のち元老院)・右院や地方官会議なども設置・廃止が繰り返された。明治中央官制の改革は明治18年(1885年)の内閣制度発足をもってようやく安定する。

立法

憲法発布略図 明治22年 橋本(楊洲)周延画

また、立法府に関しては木戸孝允らが明治初年から議会開設を唱えていたが、議会制度を発足させるためには、官制改革・民度・国民教育などが未成熟であり、時期尚早であったため、大久保利通を中心に「有司専制」と呼ばれる薩長藩閥による官僚を中心とした改革体制が維持された。しかし、自由民権運動の高まりや、諸制度の整備による改革の成熟などもあり、明治14年(1881年)に「国会開設の詔」が出され、同時に議会制度の前提として伊藤博文らによる憲法制定の動きが本格化し、憲法審議のため枢密院が設置された。明治22年(1889年)に大日本帝国憲法公布、翌年帝国議会が発足し、アジアでは初の本格的な立憲君主制・議会制国家が完成した。

司法

宮中

廃藩置県と太政官制の改革を経て中央集権体制が整ったことで、ようやく旧幕府時代の制度を改革する準備が整った。ほぼ同時に宮中の改革も行われ、旧来の宮中職や女官は廃され、士族を中心とした侍従らが明治天皇を武断的な改革君主にふさわしい天皇に養育することとなった。幕末期には病弱であった明治天皇も、士族による養育のためか健康も回復し、西洋的立憲君主としての心得も学び、「明治国家」の元首としてふさわしい存在になっていく。特に憲法制定過程における枢密院審議においては、そのすべてに臨御し、また国会開設前後の立憲政治未成熟期に首相が頻繁に辞任・交代した際も、政局の調停者として重要な役割を担った。

地方行政

琉球王国最後の国王・尚泰王

明治新政府は、幕府から受け継いだ天領と「朝敵」となった諸藩からの没収地に行政官を派遣して直轄地とした。つまり、地方行政としては、徳川家を駿府藩に移封し、京都長崎函館を政府直轄の「府」とした以外は、原則として以前の藩体制が維持されていた。しかし、富国強兵を目的とする近代国家建設を推進するためには、中央集権化による政府の地方支配強化は是非とも必要なことであった。

まず、明治元年姫路藩酒井忠邦版籍奉還建白書を提出。続いて明治2年1月20日に薩摩・長州・土佐・肥前の藩主らが、版籍奉還の上表文を新政府に提出した。これに各藩の藩主たちが続き、6月に返上申請が一段落迎えると、全藩に版籍奉還を命じた。この版籍奉還により旧藩主たちが自発的に版(土地)・籍(人民)を天皇に返上し、改めて知藩事に任命されることで、藩地と領主の分離が図られ、重要地や旧幕府直轄地に置かれた府・県とともに「府藩県体制」となる。

しかし、中央集権化を進め、改革を全国的に網羅する必要があることから、藩の存在は邪魔となり、また藩側でも財政の逼迫が続いたことから自発的に廃藩を申し出る藩が相次いだ。明治4年旧7月14日(1871年8月29日)に、薩摩・長州藩出身の指導者である大久保利通と木戸孝允らにより廃藩置県が実施され、府県制度となり(当初は3府302県、直後に整理され3府72県)、中央政府から知事を派遣する制度が実施された。このとき、知藩事たちは東京への居住を義務付けられた。なお、令制国の地名を用いなかったために、都市名が府県名となった所も少なくない。

薩摩藩島津久光が不満を述べた以外は目立った反撥はなく(すでに中央軍制が整い、個別の藩が対抗しにくくなっていたこと、藩財政が危機的状況に陥り、知藩事の手に負えなくなったこと、旧藩主が華族として身分・財産が保証されること、などが理由とされる)、国家の支配体制がこのように電撃的、かつ画期的に改変されたのは明治維新における奇蹟ともいえる。

なお、旧幕府時代、名目上は独立国でありながら実質上薩摩藩の支配下にあった琉球王国に関しては、廃藩置県の際に「琉球藩」が設置されて日本国家内に取り込まれることとなり、明治12年(1879年)に沖縄県として正式に県に編入された(この間の経緯は一般に琉球処分と称される。旧琉球国王の尚氏も旧藩主と同様、華族となった)。(→ 沖縄県の歴史)

改革の内容

岩倉使節団の影響

左から木戸孝允山口尚芳岩倉具視伊藤博文大久保利通

1871年12月23日から1873年9月13日にかけて維新政府は不平等条約改正ならびに西洋の諸制度を研究するため岩倉具視を正使、大久保利通木戸孝允伊藤博文らを副使とする岩倉使節団を欧米へ派遣した。使節団は条約改正には失敗するものの、西洋の諸制度の研究・吸収には成功し、この後の維新の動きに大きな影響を与えた。一方、日本国内においては「留守政府」と呼ばれた日本残留組の西郷隆盛井上馨大隈重信板垣退助江藤新平大木喬任らの手によって、次々と改革は進んでいった。このような改革には積極的に西洋文明の先進制度が取り入れられ、その過程で、「お雇い外国人」と呼ばれる外国人が、技術指導、教育分野、官制・軍制整備など様々な分野で雇用され、近代国家建設を助けた。

改革された諸制度

留守政府が行った主な改革としては、学制改革地租改正徴兵令太陽暦の採用、司法制度の整備、断髪令などがある。ただし、これらの改革は急激に行われたため矛盾も少なくなく、士族や農民の不満を招いたため、後の征韓論につながったともいわれる。欧米使節から帰国した岩倉や大久保が明治六年政変によって征韓論を退け、さらに大久保の下に内務省が設立されたことで諸改革の整理が行われることになる。ただし留守政府の行った改革のほとんどは政変後も存続し、明治維新の根幹の政策となっていった。

軍隊

1930年代の海軍省

徴兵令を導入し、近代的な常備軍を最初に作ろうとしたのは大村益次郎であったが、彼が暗殺されてしまったため、山縣有朋に引き継がれた。明治3年、徴兵規則が作られ、翌年の明治4年に廃藩により兵部省が全国の軍事力を握ることとなり、明治5年には徴兵令が施行され、陸軍省海軍省が設置される。こうして近代的な常備軍が創設された。

身分制度

最大の士族反乱西南戦争を描いた『鹿児島暴徒出陣図』 月岡芳年

江戸幕府下の武士百姓町人(いわゆる士農工商)の別を廃止し、「四民平等」を謳った。しかし、明治4年に制定された戸籍法に基づき翌年に編纂された壬申戸籍では、旧武士階級を士族、それ以外を平民とし、旧公家大名や一部僧侶などを新たに華族として特権的階級とすると同時に、宮内省の支配の下に置くことになった。

華族と士族には政府から家禄が与えられ、明治9年の秩禄処分まで支給された。同年、廃刀令が出され、これにより士族の特権はなくなり、のちの不平士族の反乱(佐賀の乱萩の乱秋月の乱神風連の乱)につながる。しかしこれらの反乱はいずれもほどなくして鎮圧され、1877年に維新の元勲の一人である西郷隆盛が率いた最大の士族反乱であった西南戦争が鎮圧されると、士族による反乱は後を絶った。

経済産業

浮世絵に描かれた横浜の鉄道と船

維新を進めるに当たり、大きな問題となったのが税収の確保であった。それまでの年貢は収量を基本とする物納が基本であり、また各藩領において税率の不均衡があったことから、土地を基本とする新たな税制が構想された。1871年には田畑永代売買禁止令が廃止されて土地の売買が可能となり、さらに1874年に地租改正条例が布告されることで土地は私有となり、土地所有者に地券が発行されることとなって、所有する土地に対し地租が課せられることとなった。これにより、土地の所有権が初めて法的に認められたことによって土地の売買や担保化が容易になり、私有財産権が完全に確立することで資本主義の発展の基礎条件が成立した。

富国強兵殖産興業のスローガンの下、工部省(のちに内務省)が中心となり、政府主導の産業育成が始まる。富岡製糸場をはじめとする官営模範工場が作られるなど、西洋式工業技術が導入された。しかし西南戦争後の財政難のため、1880年には「官営工場払下概則」が制定され、造幣局や通信、軍事関係を除く官営工場や鉱山が民間に払い下げられていった。これによって民間の工業は大きく発展することとなり、1890年ごろから産業革命が進行し、工業化が進展していくこととなった。

金融制度でも旧幕府時代の貨幣制度を改めて、通貨単位として「」を導入(明治4年(1871年)。新貨条例を参照)、また国立銀行条例による国立銀行(ナショナルバンク)を経て、通貨発行権を独占する中央銀行としての日本銀行設立(明治15年、1882年)など、資本主義的金融制度の整備も行われた。

流通分野では、1871年には前島密によって郵便制度が創設され、1872年には新橋駅から横浜駅間において日本初の鉄道が開通し、電信網の整備や船舶運輸(民間の郵便汽船三菱会社と国策会社の共同運輸会社の競合を経て日本郵船会社)などの整備も行われた。これらの資本活動には、職を失った代わりに秩禄を得た華族の資産による投資活動も背景にあった。

思想

幕末から活発になっていた佐久間象山などの「倫理を中核とする実学」から「物理を中核とする実学」への転回が行われ、横井小楠の実学から物理を中核とする福澤諭吉文明論への転回といった思想史の転換が行われた。これに民間の知識人やジャーナリズムが連動し、文明開化の動きが加速する。

明治新政府は国民生活と思想の近代化も進め、具体的には、福澤諭吉・森有礼西周西村茂樹加藤弘之らによる明六社の結成と『明六雑誌』、福沢諭吉の『学問のすすめ』や中村正直の『西国立志編』『自由之理』が刊行され、啓蒙活動が活発になった。また土佐藩の自由民権運動の動きと連動して中江兆民植木枝盛馬場辰猪といった革新的な勢力と、佐々木高行元田永孚井上毅品川弥二郎といった官吏の保守的な勢力との対立が鮮明になってきた。

教育機関の整備では始めは大学寮をモデルにした「学舎制」案を玉松操平田鐵胤矢野玄道渡辺重石丸らの神道学者に命じて起草させたが、大久保利通や木戸孝允の意向の下、明治中期からは方針を変えて近代的な教育機関の整備が行われるようになり、幕末以来の蘭学塾漢学塾、それに幕府自身が造った洋学教育機関である開成所蕃書調所が直接の誘因となって、明治期の高等教育が出発した。

維新まで松前藩による支配下にあり開発の進んでいなかった北海道の開発にも明治政府は着手し、1869年にはそれまでの蝦夷地から北海道と改名し、同年開拓使が置かれて、積極的な開発が進められた。北海道の札幌農学校や、三田育種所など、各種の学校や研究所が相次いで設置された。このように、ありとあらゆるインフラが整備されていった。

宗教

廃仏毀釈により破壊された石仏。川崎市麻生区黒川。

宗教的には、祭政一致の古代に復す改革であったから、慶応3年(1867年)旧暦正月17日に制定された職制には神祇を七科の筆頭に置き、3月 (旧暦)には神仏習合を廃する神仏分離令が布かれた。そして当時の復古的機運や特権的階級であった寺院から搾取を受けていると感じていた民衆によって、仏教も外来の宗教として激しく排斥する廃仏毀釈へと向かった。

また、キリスト教(耶蘇教)は、新政府によって引き続き厳禁された。キリスト教の指導者の総数140人は、(66人)、津和野(28人)、福山(20人)に分けて強制的に移住させた。

慶応4年4月21日、勅命により湊川神社楠木正成を祭ったのをはじめとして、それまでは賊軍とされ、顧みられることが少なかった新田義貞菊池武時名和長年北畠親房北畠顕家ら南朝の忠臣を次々と祭っていった。

明治2年(1869年)12月7日には、キリスト教信者約3,000人を、金沢以下10藩に分散移住させた。しかし、明治4年(1871年)旧11月、岩倉具視特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、耶蘇教禁止令、殊に浦上四番崩れを初めとする弾圧が、当時のアメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリス女王ヴィクトリアデンマーククリスチャン9世ら欧州各国から激しい非難を浴び、条約改正の交渉上障碍になるとの報告により、明治5年(1872年)に大蔵大輔の職にあった井上馨は、長崎府庁在任時に関わったことから、明治5年正月に教徒赦免の建議をした。

しかし、神道国教化政策との絡みや、キリスト教を解禁しても直ちに欧米が条約改正には応じないとする懐疑的な姿勢から来る、政府内の保守派の反対のみばかりでなく、主にキリシタン弾圧を利用して、神道との関係を改善させる思惑があった仏教を初めとした宗教界や一般民衆からも「邪宗門」解禁に反対する声が強く紛糾したものの、明治6年(1873年)2月24日禁制の高札を除去し、その旨を各国に通告した。各藩に移住させられた教徒は帰村させ、ようやく終結した。

法律

法の支配実現のため、初代法務大臣江藤新平が推進した司法制度整備により、いち早く、1872年に証書人代書人代言人が創設された。明治初期の日本は、不平等条約撤廃という外交上の目的もあり、民法刑法商法などの基本法典を整備し、近代国家としての体裁を整えることが急務であったことから、法学研究目的での海外留学を積極的に推し進めたほか、いわゆるお雇い外国人としてフランスの法学者ギュスターヴ・エミール・ボアソナードを起用するなどし、フランス法および ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/06/11 16:16

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