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明石家さんまとは?

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明石家(あかしや) さんま
笑福亭一門定紋である「五枚笹」

【本名】
杉本(すぎもと) 高文(たかふみ)
【ニックネーム】
さんまちゃん
さんちゃん
お笑い怪獣
ミスター27時間テレビ
週末のレモネード(自称)

【別名義】
笑福亭さんま(旧名)
【生年月日】
(1955-07-01) 1955年7月1日(65歳)
【出身地】
日本奈良県奈良市
【血液型】
B型
【身長】
172 cm
【言語】
日本語
【方言】
関西弁
【最終学歴】
奈良県立奈良商業高等学校
(現・奈良県立奈良朱雀高等学校)
【師匠】
2代目笑福亭松之助
【事務所】
吉本興業(マネジメント)
オフィス事務所(個人事務所)
【活動時期】
1974年 -
【同期】
島田紳助
オール巨人
桂小枝
【現在の代表番組】
レギュラー番組
痛快!明石家電視台
踊る!さんま御殿!!
ホンマでっか!?TV
さんまのお笑い向上委員会
ヤングタウン土曜日
ほか
スペシャル番組
さんまのまんま
FNS27時間テレビ
明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー
さんま・玉緒のお年玉あんたの夢をかなえたろかスペシャル
さんタク
明石家さんまのコンプレッくすっ杯
明石家さんまの転職DE天職
さんまの東大方程式
さんま&女芸人お泊まり会
ほか
【過去の代表番組】
オレたちひょうきん族
笑っていいとも!
あっぱれさんま大先生
明石家マンション物語
恋のから騒ぎ
さんまのSUPERからくりTV
ほか
【配偶者】
大竹しのぶ(1988年 - 1992年)
【親族】
IMALU(実娘)
【受賞歴】


明石家 さんま(あかしや さんま、1955年〈昭和30年〉7月1日 - )は、日本お笑いタレント司会者吉本興業所属。本名は 杉本(すぎもと) 高文(たかふみ)で、番組企画・構成等では本名名義でクレジットされることもある。和歌山県串本町出身、奈良県奈良市育ち。

元々は落語家を志して2代目笑福亭松之助の弟子となり、高座名・笑福亭さんまとしてデビューするが、師匠の推薦でタレントに転向し、屋号を明石家に変えた。1970年代後半から現在まで芸能界の第一線で活躍を続けている国民的お笑いスターの1人であり、ビートたけしタモリと並び「お笑いBIG3」の1人に称される。

来歴

1955年に和歌山県串本町の水産加工業の次男として生まれる。その後3歳の時に奈良県に転居。出身小学校である奈良市立鼓阪小学校には、小学生当時に捕まえたムササビが展示されている。また、当時は「ムササビを捕まえた少年」として話題になった。教師の薦めで東大寺学園中学校を受験したが不合格となり、その後奈良市立三笠中学校に進学した。奈良県中学生相撲大会で2位になったことがある。一方、中学時代に相撲部に入部していた期間は「1週間程度」とさんま本人が後年テレビ番組で話している。 奈良商業高校時代は授業を抜け出してパチンコに興じ、得た収入を仲間に分配していた事を後にラジオで告白している。

弟子入り

1974年2月、高校3年の時に笑福亭松之助に弟子入り。入門の動機は、花月劇場で見た松之助の新作落語が面白かったからだという。初めて顔を合わせた際、松之助に「なぜ僕を選んだのか」と入門の理由を問われたさんまは「センスがよろしいから」と、素直な気持ちを伝えたつもりだったが、これに対し松之助は「そら、おおきに」と返答。この日すぐ松之助はさんまを自身の仕事先であるラジオ局に連れて行った。

高校卒業後の3月に正式に内弟子修行を開始。入門生活は丸刈りにされること以外はあまり厳しくなく、放任主義だったとのこと。下積み時代は兵庫県西宮市今津久寿川町「第一久寿川荘」に在住。高座名は「笑福亭さんま」が与えられた。

しかし半年もしないうちに内弟子修行を放り出して、当時交際していた女性と共に上京し、東京で一旗揚げようと試みる(いわゆる「さんま駆け落ち事件」)。松之助は入門当初よりも痩せていくさんまを見て、「女ができたな」と理解し、「若い時にはいろいろある」として、さんまの思うままにさせた。しかし、東京での生活はうまくいかず、さんまは一時帰阪した際、松之助から借りていた本を返すという口実で、松之助宅を訪ねたが、松之助はさんまを一切叱ることなく、明るい声でさんまを激励した。このときは正式な弟子復帰に至らなかったが、松之助は「さんまが帰ってくるから、よろしゅう頼むわなぁ」と上方落語界や吉本興業への根回しをしており、直後にさんまと交際していた女性が別の男性と結婚し、さんまは内弟子修行に戻ることを決意して、なんば花月の松之助の楽屋を訪ねた際、松之助は「何もいうな、ついてこい!」と、師弟で初めて食事に行ったラーメン店にさんまを連れ出した。

関西ローカル時代

さんまは1976年1月、テレビデビューを果たす。「11PM」の読売テレビ制作担当日(大阪イレブン)にて放送された、20歳を迎える上方落語家をスタジオに集めてトークする企画「落語家の成人式」に、さんまは屋号をそれまで名乗っていた笑福亭ではなく明石家さんまとして、同期の桂小枝らと出演することになった。番組内では、進行役の海原千里(上沼恵美子)から、「性の四十八手以外に知っている技がある人は?」という質問・フリに対し、さんまだけが手を挙げ「逆さ十文字落としでぇーす」と答えて技を説明した。スタジオは爆笑だったが司会の藤本義一に、「さんまかいわしか知らんけどな、テレビで言うてええことと悪いことがあんねや。それぐらい覚えて出て来い!」と本番放送中にも関わらず叱責される。しかし、番組に出演していた横山やすしに「飲みに行こ!」と気に入られ、翌日やすしは吉本興業の社員に対し「さんまは面白い」と売り込んでくれたと言う。この放送を見ていた松之助は、のちにさんまを大いに絶賛している。松之助は「人と同じことして売れるはずがない」として、着物ではなく「赤いブレザーを着ていけ」と指示し、出演者の多くが着物姿の中、忠告に従って営業用の赤いブレザーを着用して放送に臨み、よく喋ったさんまは目立った存在だった。

吉本興業社員・佐敷愼次は、当時のさんまに「口数が少なくて人見知りするタイプ。ところが、人と交わると別人のように変わって輝く」という印象を持っていた。そこで佐敷は松之助に「さんまを(座布団から)立たせたい」と打診。これはさんまに落語をやめさせ、漫談家やテレビタレントとして育成したいという意味であったが、松之助はそれから間もなくして、落語家からタレントに転身させた。同時に正式に笑福亭ではなく、当時の松之助門下の多くが名乗っていた明石家の屋号に変更し、11PM出演時と同様に明石家さんまとして漫談家に転身した。兄弟子の明石家小禄と漫才コンビを組んだり、松本竜介とコンビ結成する前の島田紳助らとイベント司会などの営業活動を行っていたほか、舞台ではB&Bのりお・よしおザ・ぼんちらとのコントユニット「ビールス7」での活動も行っていた。

小禄との漫才では、小禄のアドリブで小林繁(当時は読売ジャイアンツ投手)の投球フォームを披露するように振られ実際に形態模写を行ったところそれが客にウケ、徐々に人気が高まった。

そうした活躍が桂三枝の目に留まり、毎日放送の人気番組「ヤングおー!おー!」に定期的に出演するようになり、1978年頃からレギュラー出演を果たす。三枝の愛称「サニー」にあやかって「チャッピー」と愛称を付けられ、三枝の愛と厳しさに育まれながら、次第に頭角をあらわす。林家小染月亭八方桂きん枝桂文珍の番組内ユニット「ザ・パンダ」を改編して、さんまを加入させた「サニーズ・オオサカスペシャル(S.O.S)」を立ち上げ、諸先輩を差し置いて1コーナーを任されるまでになり、単独でレコードが発売されるなど、やがて関西を中心にアイドル的な人気となる。

初のメディアでのレギュラー番組は、1978年の毎日放送「ふれあい広場決定版」。

全国区のスターに

東京での初仕事は1978年のフジテレビの正月特番の「はつもうで、三枝の爆笑ヒットパレード」だった。そして、この番組に出演した際に当番組プロデューサーだった横澤彪と出会い、「スター千一夜」に出演するなど、その後横澤が担当した多くの番組に重用される事になる。同じ頃の1979年10月にはニッポン放送で「明石家さんまのオールナイトニッポン」などレギュラーをもつなど徐々に東京にも進出しはじめ、1980年代に入ると、漫才ブームに乗っかって「THE MANZAI」等に出演して、春風亭小朝と即興漫才を披露したり、1980年放送開始の「笑ってる場合ですよ!」でレギュラーとなる。そして1981年にスタートした「オレたちひょうきん族」へのレギュラー出演。同年放送スタートの「さんまのサタデーナイトショー」(テレビ東京)で、冠番組を獲得している。1984年4月からは「笑ってる場合ですよ!」の後番組の「笑っていいとも!」にも金曜日にレギュラー出演するなど、大阪中心から東京中心に活躍の場を移していくとともに、当時はまだまだ下に見られていた東京での大阪芸人としての地位を築いていく。東京での初めてのドラマ出演は1980年10月からTBS系列で半年間放送した「天皇の料理番」だった。

1985年、第1回東京国際映画祭において、タモリとともに司会を務める。後日、その司会ぶりが「ふざけた司会者」・「ソフィー・マルソー知っとるケと言う始末」と新聞紙面上で非難される。そのため元々2回目以降もずっと総合司会を任される予定だったが、1回で降板になった。

この時期、特に多忙を極め、大阪と東京を週に何往復もしていたが、1985年8月12日、「MBSヤングタウン」レギュラー出演のため、伊丹行きの日本航空123便に搭乗する予定だったが、搭乗前の仕事である「ひょうきん族」の収録が早めに終わり、一便早い全日空の便に振り替えたため、その墜落事故の難を逃れた。同日の「ヤングタウン」では、「いつも使ってる便やから…」とショックを隠せず、この経験を機に、東京―大阪間の移動などは新幹線を利用するようになった。また、この経験から生まれたさんまの座右の銘が「生きてるだけで丸儲け」であり、娘IMALUの名前の由来になっている。この当時1年3ヶ月「同棲」関係のあった「東京の愛人」とのツーショット写真が掲載されるも明るく陽気に笑い飛ばし、大きなスキャンダルになることもなかった。

1986年7月よりTBSテレビドラマ男女7人夏物語』、1987年10月よりその続編である『男女7人秋物語』に主演し、いずれも最高視聴率が30%を越えるなど名実ともに国民的スターとなる。

1987年4月、ナムコ(現在のバンダイナムコエンターテインメント)がファミリーコンピュータ用ソフト『さんまの名探偵』を発売し、人気を博す。しかし吉本興業が水面下で本人の許可を取らずにメーカーに制作・発売を許可したため、事実を知ったのは発売後だった。

同年の7月18日 - 7月19日にかけて生放送された『第1回FNS27時間テレビFNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島』の総合司会をタモリと共に担当。深夜のコーナーでフライデー事件で謹慎していたビートたけしが登場。これをきっかけにしてフジテレビが、タモリとビートたけしにさんまを加えた形で、正月にゴルフ番組をしようとする企画が生まれ、そのタイトルが「BIG3」となり、結果的にこの3人がBIG3とよばれるようになった。翌1988年は司会を辞退したが、1989年にも『FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島'89』の総合司会を再びタモリと共に担当した。

結婚・そして離婚

1988年10月、男女七人夏物語で共演し、秘密裏に交際していた大竹しのぶと結婚。翌1989年、IMALUが誕生。

1989年10月で『ひょうきん族』が放送終了すると同時に、しばらくは育児に専念するために仕事をセーブするようになり、全国ネットのレギュラー番組も『笑っていいとも』金曜日、『さんまのまんま』、『あっぱれさんま大先生』のみとなり、ゴールデン帯のレギュラー番組が一時期なくなっていた。また1991年にはOVA『リリが見たやさしい虹』を原案および声優(ジョー役)として参加(リリ役は大竹しのぶ)。また絵本としてもさんま名義で出版(ストーリーは脚本家君塚良一が作っていた)するなど家庭的なイメージを見せていたが、しかしそれにより5年連続して1位だったNHKの『好きなタレント調査』で15位にまで急落するなど、一時的に人気に陰りが見えていた。

1992年9月、大竹しのぶと離婚。しばらくは8億5千万円の豪邸が中々売却できずに、「同情するなら家買って」など自虐ネタなどもギャグにしていた。結局数年後3億円まで落として売却されたために5億円の借金が残り、死ぬか喋るしかない状況に追い込まれた。そのため1992年4月から、『さんまのからくりTV(1996年4月から『さんまのSUPERからくりTV』)』、1993年4月から『さんまのナンでもダービー』、1994年4月からは『恋のから騒ぎ』がそれぞれ放送開始するなど仕事の量も増やしはじめ、前述の好感度調査も1995年には6年ぶりに1位になり、1998年以降は再び連続して1位になっている。

1995年夏、テレビ朝日系列で『明石家さんま超世界紀行~緑の大地モンゴルに夢を追った少年とさんまの物語』で苦手と公言していた紀行番組に挑戦しモンゴルでロケ敢行。しかし後に広い草原を横断するあまりの過酷なロケに、もう二度としたくないと振り返っていた。また同じ頃には番組スタッフの確執をきっかけに1995年9月をもって、金曜レギュラーとして11年半出演した『笑っていいとも!』を降板(ただし、その後も2014年3月の番組終了まで定期的にゲストとして出演していた)。

男女七人秋物語以降は、主演としてのドラマ出演も控えていたが、1990年代後半には年一のペースで主演するようになる。

その他では1996年1月10日にはフジテレビの人気刑事ドラマ「古畑任三郎」シーズン2の初回スペシャルでは古畑の部下である今泉巡査の知り合いでやり手の弁護士・小清水潔を演じる。しかしながらセリフが多く、それを覚えられないさんまに対し、主演の田村正和が撮影中に「今度間違えたら自分が帰りますよ」と言ったという。しかし、その直後に田村自身が「古畑任三郎」の中では初めてとなるNGを出してしまい、さんまが「あんた、これ貸しな。これでおあいこや」と田村に冗談交じりに発言した。その事でスタッフ一同は凍りつき、さんまはスタッフに別室に呼び出され、「あれはダメなの」と叱られ、その後は絶対にNGが出せない状況の中でなんとか無事に撮影を終了した。なお第一シーズンは平均視聴率は10%半ばだったが、この放送は視聴率25%をたたき出し古畑を人気シリーズへとを高める役割を果たした。

大御所芸人として

90年代までは『いいとも』金曜日の雑談コーナーや『車庫入れ事件』に代表されるように、BIG3の立ち位置でもビートたけしタモリにいじられる役割が多かったが、90年代後半あたりから、ナインティナインはじめ一回り以上離れている後輩芸人がどんどん出てきて、お笑いBIG3の一人として大御所の立場に変化しはじめると、後輩芸人に対してお笑いに対してよりストイックになり、そのために本番中であろうがあまりのダメ出しの多さに「めちゃイケ」にゲスト出演した際にナインティナインの岡村隆史から『お笑い怪獣』と呼ばれだしたりして、それがさんまを表す代名詞として定着した。同じ頃、SMAPと親交を深め、多く共演しだすようになり、特番はじめ年一回のレギュラーとして2000年から2016年までは中居正広と『さんま・中居の今夜も眠れない』で共演、2003年からは正月特番として木村拓哉とは『さんタク』で共演している。

2003年、自身としては初めての戦争ドラマに挑戦したTBSドラマの『さとうきび畑の唄』に主演。平成15年度文化庁芸術祭テレビ部門大賞受賞作品するなど極めて高い評価をうけた。しかし、戦争映画特有な過酷なロケに対して自身は「もう二度と戦争ドラマには出たくない」と語っており、ドラマ内の名セリフ「こんな事をするために生まれてきたんじゃないんですよ」を自らパロディにしたりして笑い話にしたりしている。

2009年に愛娘のIMALUが芸能界デビュー。当初は猛反対していたが、デビューするにあたっては発表前日に突然元妻の大竹から聞かされた後は諦念し、「とにかく人の倍は努力せなあかん」とアドバイスを送った。

2012年4月8日、なんばグランド花月にて行われた、「吉本興業創業100周年特別公演・伝説の一日」の4回目に出演。大トリとして、「さんまの駐在さん」が25年ぶりに復活した。本公演には、当時のレギュラーメンバーであった月亭八方間寛平村上ショージジミー大西の他に、今田耕司岡村隆史桂三枝西川きよし笑福亭松之助など総勢51名が出演した。

還暦以降

2015年7月、還暦を迎える。それを記念してフジテレビで『さんまでっか!?TV』、毎日放送で『痛快!明石家電視台 明石家さんま生誕年SP』などが放送され、番組はさんまのゆかりの芸人らが出演し思い出に花を咲かせた。 なお、還暦を迎えるにあたっての心境として、千原ジュニアをゲストに迎えた2011年7月2日放送の『さんまのまんま』にて、「いつ(お笑い芸人を)辞めるって決めてるんですか?」と質問されたさんまは「60歳くらいでと思てるよ、テレビはね」と答え、60歳でテレビ引退を示唆、他番組でも「上がいつまでも居座ってどかないと新しいものが生まれない」「60歳でテレビのレギュラー番組を辞めて、仲間たちと舞台をしたい」と本気で若手に譲る意向を見せていた。しかし、吉本幹部はじめ芸人仲間の反対、特に爆笑問題太田光に「ぼろぼろになるまでやって欲しい。いま辞めたら、かっこよ過ぎる」などと言われ、結局撤回した。

2018年にはジミー大西の半生をドラマ化した『Jimmy~アホみたいなホンマの話~』をNETFLIXでプロデュース。これまで構成や企画としての番組参加はあるが、プロデューサーとしての番組制作に携わるのは初めてだった。当初は小出恵介がさんま役を演じ、前年に実際にクランクアップまでされていたが、配信開始直前に小出が不祥事を起こす。そのためお蔵入りの危険もあったが、一番最初にオファーされていた玉山鉄二が代役として、さんま役のシーンすべて取り直して再編集した形で当初の予定より1年延期して2018年夏に配信された。さんま自身は本編には出演しなかったものの、毎話のオープニング解説と最終話のラスト後に制作秘話を振り返る形で出演した。なお、さんまは小出についてニューヨークまで会いに行くなど、特にわだかまりはないと発言している

2019年2月22日、師匠の松之助が死去。翌23日、COOL JAPAN PARK OSAKAのこけら落としにおいて『さんま・岡村の花の駐在さん』に出演し、桂文枝・月亭八方と、闘病中のエピソードを披露した。舞台後通夜に出席し、翌日の葬儀にも参列した。

人物

所属事務所吉本興業。節税と自身のマネージメントを目的とした自宅兼個人事務所「オフィス事務所」も設けており、仕事やギャランティー管理はこちらで行っている。そのため基本的に芸能マネージメント業務は行なっておらず、オフィス事務所にはさんま以外は所属する前提ではない。

師匠は笑福亭松之助。松之助の兄弟子にあたる6代目笑福亭松鶴の弟子の笑福亭仁鶴笑福亭鶴光笑福亭鶴瓶などは従兄弟弟子にあたる。

家族

1988年9月に大竹しのぶと結婚。1989年9月、大竹との間に長女・いまるが誕生する。大竹には死別した先夫との間に息子の二千翔(にちか)がいたが、さんまは実の息子同様に接した。その際、お父さんとは呼びにくいという事で、いまるともども「ボス」と呼ばせ、離婚後もそう呼ばせている。また、1992年9月に大竹と離婚。離婚直前に二人で見た映画が、仲の良かった夫婦が最後に喧嘩の果てに殺し合いになる内容である『ローズ家の戦争』ということをしばしばネタにしている。離婚後も両者とも再婚することは無く、そのため大竹との仲は良好で良き友人として接しており、番組で共演する事が多い。後に長女・いまるは芸名「IMALU」として2009年に芸能界にデビューした。

芸名・愛称

松之助に弟子入りした当初は「笑福亭さんま」を名乗ったが、「さんま」という芸名は、奈良のさんまの実家が水産加工業を営んでいたことから命名された。命名時、同期の島田紳助が師匠の島田洋之介・今喜多代に芸名を「紳助」と決められた時、さんまは「その名前やったら絶対売れへん」とからかい、紳助は落ち込んだが、そのすぐ後に「さんま」という芸名を貰った話を聞いて「こいつ、終わったな」と逆に大笑いされたというエピソードがある。

師匠・松之助の助言により、落語家から漫談家に転向した際に亭号を「明石家」に変更している。「明石家」は松之助の本名「明石徳三」から貰い受けたもので、当時は松之助門下の多くが「明石家」を名乗っていた。松之助はのちに、長男に明石家のんき、次男にパーポ明石と芸名を付けている。

愛称は一般人や芸能界でも年上には「さんまちゃん」と呼ばれる事が多い。年齢が近い所ジョージアルフィーのメンバー、桑田佳祐などからは「さんちゃん」「明石家さん」、島田紳助からは「杉本」と本名で呼ばれる事も多かった。後輩からは「さんまさん」「さんま師匠」がほとんどで、年齢の近く仲が良かった後輩を含めて「兄さん(あるいは兄やん)」と呼ばれる事はあまりなく、ダウンタウン浜田雅功ハイヒール今田耕司などごく少数だけである。またジミー大西前田政二などの付き合いが古く年の離れた後輩からは「若」、その他一部芸人からは畏怖を込めて「お笑い怪獣」とも呼ばれている。

2020年6月6日のヤングタウンから週末のレモネードと自称している。

身体的特徴

出っ歯」の代表的人物としても有名。冠番組のロゴマークやマスコットで、この出っ歯があしらわれることも多い(「からくりTV」「お笑い向上委員会」など)。「ファーーッ!」という甲高い引き笑い(息を吸い込みながら笑うこと)も特徴的。

デビュー当時から、60歳を超えた現在に至るまで痩躯である。ヘビースモーカーである反面、小食かつ下戸である。

交友関係

吉本では1980年代から特に村上ショージ間寛平Mr.オクレジミー大西らと番組で共演することが非常に多い。またデビュー当初から島田紳助松本竜介オール阪神らとは一緒に遊んだり、営業に一緒に出演する機会が多く、結婚前は私生活でもお互いの家に出入りする仲であった。紳助が芸能界を引退した後は、実際に会うことは無いが電話がかかってきたりして番組内でしばしば紳助とのエピソードについて言及することがある。吉本以外の芸能人でもゴルフや麻雀仲間としてガダルカナル・タカ笑福亭笑瓶アンジャッシュ児嶋一哉などとプライベートでの親交がある。

ドラマ共演を機に家族ぐるみの付き合いになることがあり、大竹しのぶとはドラマ共演を機に交際に発展し、佐藤浩市とも「恋も2度目なら」の出演を機にプライベートで毎年正月にオーストラリアに旅行に行ったり、バラエティやドラマで共演を重ねた木村拓哉からは『オジキ』と呼ばれるほど慕われる存在となっている。

スポーツ関連では、2002年に阪神タイガース監督に星野仙一が就任した際、『さんまのまんま』で「優勝したらパレードに参加して土下座します」と明言し、その翌年の2003年に優勝。さんまは約束通り11月3日のパレードに参加する予定だった。ところが星野監督が辞意を表明した為、「自分がおふざけで行くわけにはいかない」と参加を辞退したが、代わりにそのパレードの当日に『さんまVS星野!笑いと涙の日本シリーズスペシャル・2時間しゃべりたおし』(朝日放送制作)でさんまが司会をつとめ星野を始め主力選手が出演した。それをきっかけに両者がお互いに交流があった板東英二を通じて親交を深め、2018年に星野が亡くなるまで正月に前述の佐藤浩市ら共にオーストラリアに行くほどの仲になっていった。

アナウンサーについては番組アシスタントとして共演する事の多いフジテレビの女子アナの多くと親交を持っている。その他では長年ラジオを担当している関係でアシスタントをしていたハロプロモーニング娘メンバーの卒業コンサートに出向いたりして交流を持っている。

趣味

趣味を幅広く持ち、テレビでスポーツ観戦を初めゴルフ競馬漫画などの読書、麻雀などがある。また若い時は自らの野球チームを持つなど野球は見るのもやるのも好きである。読売ジャイアンツの大ファンで、長嶋茂雄信者でもある。ちなみに、地元関西の阪神タイガースオリックスバファローズに所属する選手やOB、関西出身の他球団の選手たちも自身の番組に呼ぶことがある。特にスポーツ観戦は仕事で家を空ける時以外は、例え深夜であろうとBSやCSのスポーツ中継をリアルタイムで観戦している。サッカーヨーロッパの各リーグおよびUEFAチャンピオンズリーグUEFAヨーロッパリーグや野球のMLBアメリカンフットボールNFL ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/08/06 16:01

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