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星野仙一とは?

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2013年10月)
星野 仙一
楽天監督時代
(2011年3月9日、阪神甲子園球場)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
岡山県児島郡福田町
(現:倉敷市)
【生年月日】
(1947-01-22) 1947年1月22日
【没年月日】
(2018-01-04) 2018年1月4日(70歳没)
【身長
体重】
180 cm
80 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
投手
【プロ入り】
1968年 ドラフト1位
【初出場】
1969年4月13日
【最終出場】
1982年10月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴


野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
2017年
【得票率】
78.6%(112票中88票)
【選出方法】
競技者表彰(エキスパート部門)
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


楽天監督時代(2011年8月30日、こまちスタジアムにて)

星野 仙一(ほしの せんいち、1947年1月22日 - 2018年1月4日)は、日本プロ野球選手監督野球解説者

岡山県児島郡福田町(現:倉敷市)出身。選手時代のポジションは投手中日ドラゴンズ阪神タイガース東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めた。2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督も務めた。2015年より死去まで株式会社楽天野球団取締役副会長を務めた。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入りまで
    • 1.2 プロ選手時代
    • 1.3 引退後
      • 1.3.1 中日監督時代
      • 1.3.2 阪神監督時代
      • 1.3.3 阪神監督退任後
      • 1.3.4 北京五輪監督
      • 1.3.5 楽天監督時代
      • 1.3.6 楽天監督退任後
  • 2 人物
    • 2.1 監督として
    • 2.2 親族
    • 2.3 交友関係
  • 3 詳細情報
    • 3.1 年度別投手成績
    • 3.2 打撃成績
    • 3.3 年度別監督成績
    • 3.4 タイトル
    • 3.5 表彰
    • 3.6 記録
    • 3.7 背番号
  • 4 関連情報
    • 4.1 野球以外での表彰
    • 4.2 著書
      • 4.2.1 単著
      • 4.2.2 共編著
    • 4.3 出演
      • 4.3.1 テレビ番組
      • 4.3.2 ラジオ番組
      • 4.3.3 CM
    • 4.4 ディスコグラフィ
    • 4.5 星野仙一役を演じた俳優・声優
      • 4.5.1 ドラマ
      • 4.5.2 アニメ
  • 5 脚注
  • 6 参考資料
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

経歴

プロ入りまで

高校進学に際しては、当時は岡山東商とともに2強と呼ばれていた岡山県立倉敷工業高等学校への進学を当初希望していた。しかし当時はまだ数回しか甲子園に出場していなかった岡山県立倉敷商業高等学校の野球部部長・角田有三教諭から「君の力で、倉商を甲子園に連れていってくれ」と口説かれて進学した。しかし星野が入学して以降の倉敷商はどんどんと力を付け、志望していた倉敷工以上の成績を残すようになった。

星野が3年生の時に、甲子園を目指して、1964年東中国大会決勝まで進んだが、鳥取県米子南高校に敗れ、甲子園出場は叶わなかった。県内の1学年下には後の横浜大洋ホエールズに入る岡山東商・平松政次がおり、高校時代にも直接対決したことがある。また、ヤクルトスワローズで活躍した松岡弘は、高校時代の1年後輩にあたる。星野が卒業して松岡がエースとなった翌年も夏の県大会準決勝まで進んだが平松擁する岡山東商に日没引き分け再試合で敗れ、倉敷商は甲子園出場を逃している。当時広島東洋カープのエースだった池田英俊のピッチングフォームの分解写真を見て、自分のフォームを研究し、写真を通してではあるが高校時代の目標であり、恩師のような存在と記している。

高校卒業後は明治大学政治経済学部経済学科に進学。大学は東京なら早稲田大学、大阪なら村山実の母校の関西大学と決めていたが、倉敷商の矢吹怗一監督から「おれの母校の明大に行け」と命じられて明治大学に進学したという。野球部では1年生から一軍メンバーとして活躍し、東京六大学リーグで通算63試合に登板し23勝24敗、防御率1.91、199奪三振。1968年度主将。2年生秋には対立教大学戦でノーヒットノーランを記録した。しかし田淵幸一・山本浩司・富田勝の「法大三羽ガラス」率いる法政大学や、谷沢健一荒川尭らを擁する早稲田大学に阻まれ、一度もリーグ優勝には届かなかった。

大学時代は監督・島岡吉郎の薫陶を受け、卒業後も「オヤジ」「明治大学野球学部島岡学科出身」と慕うなど、その後の人生に大きな影響を受けた。その反面、鉄拳制裁も辞さない島岡から殴られることがなかったという。星野曰く、「俺は要領がよかったから」とのことだが、島岡自身は「星野は殴ると理屈をこねそうだったから」と、星野を殴らなかった理由を語っている。島岡からは「命懸けでいけ」、「魂を込めろ」、「誠を持て」の3つの教えを徹底的に仕込まれたという。

プロ選手時代

1968年プロ野球ドラフト会議で、水原茂が監督就任したばかりの中日ドラゴンズから1位指名を受け入団。自身は阪神ファンであったが阪神と明治大学の仲が悪く阪神から指名された場合、社会人野球に行くこととなっていた。少年時代から阪神タイガース投手の村山実に憧れており、村山と同じ背番号11を着けたかったが空いていなかったため、代わりに数字を倍にした22を希望した。入団1年目は5月8日の巨人戦で黒江透修からサヨナラ二塁打、7月10日の滝安治からサヨナラ二塁打を打たれるも、49試合に登板し8勝を挙げる。入団3年目の1971年に中日のエースナンバーである20へ変更した。

1971年に肘を痛めてから速球は影を潜めたが、変化球を駆使し、先発・リリーフとして活躍、チーム事情もあり、14年間の選手生活の中で、先発中心で起用されたのは5年ほどしかない。現役通算で8回の二ケタ勝利(うち15勝以上4回)、2回の二ケタセーブをマークしている。1974年には初代最多セーブのタイトルと沢村賞を獲得するなど、巨人のV10を阻みチーム20年ぶり、2度目のセントラル・リーグ優勝に大きく貢献。優勝を決めた試合では、胴上げ投手となった。ロッテオリオンズとの日本シリーズでは実質的に3度リリーフに失敗するなど振るわず、最終戦となった第6戦目には弘田澄男に決勝タイムリーを打たれ、チームも2勝4敗で敗れた。

1977年は自身最多の18勝を挙げる。

1978年は8月17日に大洋戦で福嶋久晃からサヨナラヒット、9月19日のヤクルト戦で船田和英、9月20日のヤクルト戦で杉浦亨から2試合連続でサヨナラ本塁打を打たれた。

1981年からは投手コーチ補佐を兼任。1982年、自身2度目のリーグ優勝を機に現役引退を決意。引退理由としては体力の限界もあったが監督の近藤貞雄と確執も要因となりリーグ優勝祝勝会の時点ではコーチ就任が濃厚と言われていたがコーチとしても残る事も無くチームを離れ、11月21日のファン感謝デーで「長い間ありがとうございました。私はついに燃え尽きました」と挨拶した同年の日本シリーズでは出場はなくコーチ補佐として出場したが西武ライオンズに2勝4敗で敗れた。1983年4月3日、ナゴヤ球場にて行われた阪急ブレーブスとのオープン戦が引退試合となり、先発として登板。先頭打者の福本豊にレフト前ヒットを打たれている。現役時代の通算成績は、146勝121敗34セーブ。星野は著書の中で「プロのピッチャーとしては200勝に到達できない二流の成績で終わったが、気持ちと気迫と気合いだけは誰にもひけをとらなかった思っている」と記している。引退の際、マウンドへ花束を届けに行ったのは親友である歌手小田和正だった。

ドラフトに際しては、巨人との間に「田淵幸一を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」という約束が事前にあった。しかし、巨人は高校生投手の島野修を1位指名。それを知った星野は「ホシとシマの間違いじゃないか」と言ったという。この出来事が、現役時代から指導者時代に至るまで一貫する打倒巨人のスタンスを形成させたといわれる。通算成績でも、長嶋茂雄王貞治らが活躍したV9時代を含む巨人を相手に、35勝31敗と勝ち越しを記録。巨人キラーとしてその名を轟かせた。対巨人戦30勝以上を記録する投手の中で勝ち越しているのは平松政次川口和久と星野のみ。その中の最高勝率は星野である。星野本人は「野球中継は当時巨人戦が多く、当時の巨人主催試合の試合開始時間が18時20分で、地元の岡山での放送は20時頃に中継が始まるので、その間に監督から投手交代を告げられないように投げていた。家族や友達に自分が投げていることを見せたかった」と語ったことがある。なお巨人が星野のドラフト1位指名を回避した理由は、星野が肩を壊しているという情報を入手したためであった(実際に肩を痛めたことがあったという)。そのことを現役引退後に川上哲治(当時の巨人監督)から告げられ、それ以降は巨人に対するわだかまりが消えたと自著に記している。王貞治には対戦成績195打数62安打、打率3割1分8厘、被本塁打は24本と打ち込まれた一方で、長嶋茂雄は111打数26安打、打率2割3分4厘に抑え込んでいる。

巨人キラーと同時に阪神キラーでもあり、対巨人戦を上回る通算36勝を阪神から挙げている。1973年10月20日、9年ぶりの優勝を目指す阪神に対し完投勝利を挙げた。しかし星野本人は阪神と優勝争いしていた巨人に優勝させたくないと考え、この試合では「負けてもええわ」「オレの球を打ってくれ」の気持ちで投げていた。しかし、阪神打線は凡打を重ね敗戦し、巨人はV9を達成した(星野自身も、試合途中で髙木守道に「こんなチームに勝たすことはない」とその無気力投球を咎められ、以後は気持ちを入れ替えて真剣に投げたという)。

珍プレーとして有名な宇野ヘディング事件が起きた時にマウンドに立っていたのも星野だった(1981年8月26日、対巨人戦(後楽園球場)、打者は山本功児)。宇野勝のエラーにより得点を許したため、星野はカバーに入っていたホームベース後方でグラブを叩きつけた。その当時、巨人は前年より連続試合得点記録を更新し続けており、この時星野は、後輩の小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」を賭けていたためである(捕手の中尾孝義談)。

星野はテレビ番組で「監督に逆らえる選手がいないのがさびしい。選手交代された時に『大丈夫です。まだやれます』という気持ちがある選手が欲しい」と語ったことがある。逆に当時の首脳陣であった近藤貞雄稲尾和久は自著で「打ち込まれてしまって星野自身が投手交代をベンチに要求してくるので交替させてやったら、さも交替させられたことが悔しそうにグローブを投げ捨てた」と述懐している。近藤は「プライドの高い投手だった。盛りを過ぎてからでも、自分があくまでエースのつもりだった。」と記している。

引退後

中日監督時代

1983年から1986年までNHK野球解説者日刊スポーツNumber野球評論家を務め、1985年には大塚範一野中ともよとともにNHK総合テレビサンデースポーツスペシャル』の初代キャスターに就任。

1986年シーズンオフ、同年途中で休養した山内一弘の後任として、中日の監督に就任。背番号は77(川上哲治が巨人監督としてこの背番号でV9を達成したことに肖ったもの)。NPB史上初の戦後生まれの監督となった。球団からの監督要請を受ける時、「召集令状がきた」と感じたといい、「笑ってください」と注文をつけてきたカメラマンに対し「これから戦場へ行くのだ。笑えるか」と真剣に怒ったというエピソードが存在する。総合コーチに木俣達彦、投手コーチに池田英俊、二軍監督兼寮長に岡田英津也を招聘した。就任後は谷沢健一に水面下で引退を勧告し、谷沢は引退。ロッテから落合博満を4対1のトレードで獲得するなど大胆な補強を行い、ドラフトでも1986年近藤真一1987年立浪和義といった即戦力に成り得る高校3年生を他球団との競合の末1位で獲得。今中慎二山崎武司上原晃音重鎮大豊泰昭など主力級が3年間で入団する。投手では川畑泰博江本晃一宮下昌己、打者では仁村徹彦野利勝小松崎善久中村武志といった実績のない若手を次々と起用して成功した。山本昌アメリカ合衆国への留学で才能を開花、先発投手郭源治をリリーフエースに、遊撃手の宇野を二塁手に、捕手の中尾を外野手に配置転換させるなどチームカラーを一新する。特にレギュラー捕手だった中村への叱り方は厳しいもので、試合中に星野に殴られた中村が鼻血を出してプレーしているということもあったという。山本によると第一政権で抜擢された若手で鉄拳を浴びていないのはおそらく立浪ぐらいではないかと記している。選手を怒鳴りまくりプレッシャーをかけ、星野曰く「俺のプレッシャーに負けるような奴が、ここぞの時に踏ん張れるか、そんな奴は要らねぇ」と述べている。

1987年5月2日の広島戦では正田耕三のタッチプレーを巡り両軍乱闘し広島のコーチ伊勢孝夫と揉み合い回し蹴りして、伊勢と共に退場処分となり、現役通して初の退場となった。監督1年目の退場は宇野光雄金田正一ジョー・ルーツに次いで4人目。

1988年4月19日の阪神戦(岡山球場)で宇野勝のタッチプレーの判定に抗議し二塁塁審の友寄正人にバカ野郎と暴言を吐き,退場処分、2年連続で両リーグで最初の退場処分を受けている。上記2試合の監督代行は木俣。

監督一年目1987年は2年連続5位のチームを2位にした。開幕投手は杉本正を星野は起用したが、近藤貞雄はこれに対して「開幕投手の指名は“今年のエースはお前だ。シーズンを通して頼りにしてるぞ”という監督の意思表示だ。とすれば小松しかいない。それが杉本だった。杉本もいい投手だが、シーズン通して頼れる投手ではない」と述べている 。杉本は2本本塁打打たれ負け投手。打線も西本聖に抑えられた。監督としてのは初勝利は巨人戦の3戦目(勝ち投手は小松)。この年は仁村徹は規定打席に達しレギュラーになった。同年6月11日、熊本藤崎台県営野球場での対巨人戦で、宮下昌己ウォーレン・クロマティの背中に死球を与え両軍入り乱れての大乱闘に発展。その際、巨人監督の王貞治に対し拳を突き出し挑発ともとれるポーズをとり、喧嘩を売ったと批判された。王に「我々が主役になってはダメだ」と諭されたが、「やられたらやり返すのが当たり前じゃないですか。」と言い返した。後年その際のことに触れ、拳を突き出した件については「拳で殴ることはないでしょう?」という抗議の意味であったと釈明している。同年オフ大島康徳平野謙曽田康二を放出し、大宮龍男田中富生小野和幸を獲得した。巨人を自由契約となった仁村薫も獲得した。

1988年は小野、小松の先発2本柱が活躍したが完投数は12球団最少18だった。抑えの郭、鹿島忠、川畑の中継ぎ陣、米村明、山本昌、上原晃の若手投手陣に、彦野、立浪、ゲーリー・レーシッチ、落合、宇野、仁村、川又米利、中村の恐竜打線が好調で、1点差試合が34勝15敗を記録した。郭がMVP,、小野が最多勝、立浪が新人王を獲得した。西武ライオンズとの日本シリーズは1戦目、5戦目先発登板した小野、山本、杉本と先発投手が打ち込まれ、打線も4番落合、5番宇野が低迷し西武に1勝4敗で敗れた。西武の監督森祇晶は「星野監督は選手たちに相当にらみを利かせていた。勢いで公式戦を乗り切ったが、私は負ける相手ではない。中日は前年まで西武にいた(第一戦先発の)小野が、清原、に特大の一発を浴びた。(第1戦に)小松が来たらイヤだなと思っていた。」と見ていたと述べている。中日生え抜きで優勝した監督は星野だけである。同年オフに巨人とのトレードで中尾孝義を放出し、西本聖を獲得した。監督1年目の開幕戦で西本のピッチングを見ていつか獲得しようと決意し、2年後にトレードを実現させた。 1989年は小松、郭、立浪と怪我人が続出し、前年最多勝の小野が振るわなかったが西本が20勝あげるも3位に終わる。 1990年は新人の与田剛が抑えで活躍し新人王獲得、落合2冠、新外国人のバンス・ローの活躍、今中初の二桁勝利もチーム防御率が5位と低迷し4位に終わり、監督生活初のBクラスに終わる。 1991年は開幕戦監督として初めて勝利し、オールスター前首位に立つも、失速し優勝した広島の3ゲーム差の2位。新人の森田幸一は抑えで活躍し球団初の2年連続で新人王輩出した。同年限りで「健康上の理由」(表向きの理由であり、実際には夫人の白血病発症が大きく関係していた)で辞任。辞任後は、1992年中部日本放送(CBC)の客員解説者、1993年から1995年に再びNHK解説者を務め、並行して1992年から1995年まで中日スポーツ客員。また、沢村賞の選考委員を務めていた(1994年から1995年まで)。

1995年9月20日に中日への監督復帰が発表され、同年オフに再任。直後に愛甲猛無償トレードで獲得、更に前田幸長村田勝喜も交換トレードで獲得。宣銅烈を獲得した。第二次政権1年目は前年の5位から2位になった。同年は巨人に目の前で優勝を決められ監督としては初の相手球団の胴上げを見ることになった。

1996年9月20日の対巨人戦(東京ドーム)の試合終了後引き揚げてくる審判団を持ち受け、上本孝一審判員に「誰に頼まれた。公平にやれ」と暴言を吐き、もみ合いになった際に田中俊幸審判員に蹴るという暴行を働いた。翌日セ・リーグは星野に厳重戒告と制裁金100万の処分が科された。同年オフレオ・ゴメスを獲得した。

1997年1月30日に妻と死別。春にナゴヤドームが完成。球場が広くなったことでチームの体質改善が求められたが間に合わず、星野自身も「最下位覚悟で優勝を狙う」と先行きを危ぶむ発言。予想通り開幕から低迷し、高木時代の1992年以来5年ぶりとなる最下位に転落。チーム打率リーグ最下位、チーム防御率5位と投打共に振るわなかった。同年オフ、関川浩一久慈照嘉を交換トレードで獲得し、大豊泰昭矢野輝弘を放出し、アロンゾ・パウエルは退団した。投手コーチの小松辰雄は退団し後任に宮田征典を招聘、打撃コーチに水谷実雄、外野守備走塁コーチに二宮至、二軍監督には仁村徹、二軍投手コーチに梶本隆夫が就任した。外国人選手では李鍾範サムソン・リーを獲得し、南渕時高も獲得、大学の後輩川上憲伸をドラフト1位で指名した。投手陣は肩の故障から伸び悩んでいた野口茂樹がエース級へ育ち、14勝し最優秀防御率、川上も14勝で新人王、中継ぎ陣では落合英二最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得し、新人の正津英志も活躍した。チーム防御率は12球団トップ。盗塁はリーグトップだったもの打率はリーグ5位に終わった。1998年は2位となった。明治大学の後輩であり、前年のパ・リーグ最多勝投手であった武田一浩FAで獲得した。宮田は一年で辞任し、後任に山田久志が就任し、内野守備走塁コーチには高代延博を招聘した。ドラフトでは福留孝介岩瀬仁紀が入団。1999年は、1954年西鉄ライオンズ以来45年ぶりとなる開幕11連勝を飾った勢いでそのまま首位を突っ走り、自身2度目のリーグ優勝を果たした。昨年に引き続きチーム防御率は12球団一位。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズは前評判では中日圧倒的優位だったが、1勝4敗で敗れた。

2000年、宣は引退し、サムソンは退団した。メルビン・バンチ最多勝エディ・ギャラード最優秀救援投手、岩瀬は2年連続で最優秀中継ぎ投手と投手陣のタイトルホルダーを多く輩出したものチーム防御率4.19でリーグ5位に低迷した。5月6日、ナゴヤドームでの対横浜ベイスターズ戦で、立浪和義が自身への投球をストライクと判定されたことへの不満から球審を務めていた橘高淳を両手で突いて退場処分となり、立浪の退場が宣告された直後に星野は橘高に体でぶつかっていったため暴行を働いたとして退場処分を受けた。この件では二人のほか、別の審判員に蹴りを入れた大西崇之も退場処分となり、後日星野・立浪・大西に対し第三者から異例の刑事告発がなされた(起訴猶予処分)。詳しくは橘高の項を参照。出場停止5日間となり監督代行はヘッドコーチの島野育夫が務めた。同年は2位、優勝した巨人に9勝18敗と大きく負け越した。2001年は巨人キラーとして名を馳せた川崎憲次郎を獲得して臨んだが、その川崎がオープン戦で早々離脱するなどチームは総崩れ、4年ぶりにBクラスに転落。広島以外の4球団に負け越した。井端弘和は規定打席到達。5位に終わった責任をとる形で辞任し、記者会見で「成績不振が理由のすべてではない。初監督の時は5年、今回は6年目。同じ人間が長い間権力の座に座ることは、組織上好ましくない」などと述べた。

中日のオーナーを長く務めた加藤巳一郎からの全面的に信頼を受けていた。

著書の中で「私が怒る時は、常に本気で怒る。叱るときは全身で叱る。自らの本心を隠したり抑えたりできないのは、私の長所であり、また、短所でもあるが、少なくともスポーツマンの世界で発揚する理想だと考えている。時には怒鳴り上げ、壁を蹴り、灰皿を投げ付けて怒る。私くらい怒っていることが周囲に丸分かりの監督もいないだろう」と記している。

監督時代、第一製薬(現:第一三共)の胃腸薬・センロックのCMに出演。「いつでも夢を」の替え歌をバックにゴルフをラウンドする映像が流れた。また、監督就任前に、ハウス食品叉焼麺・坦々麺カレーライス(田淵幸一山本浩二と共演。ちなみに後年、同じ面子でハウス食品のカレーライスに出演)、郵政省(当時)のかもめーる、フィリップス、ナショナル・シャーボなどのCMに登場。

阪神監督時代

中日監督を退任した直後NHKから解説者としての打診を受けていたが、2001年オフ、低迷が続いていた阪神タイガースの監督に就任。背番号は中日監督時代と同じ77。ヘッドコーチには中日時代からの片腕的存在島野育夫、打撃チーフコーチに田淵幸一を招聘した。島野は10月に中日に二軍監督に就任し複数年契約しており、中日の交渉は難航、最終的には星野が中日のトップ白井文吾オーナー、西川順之助球団社長らと会い話をつけた(西川は最初難色を示し野崎も私が逆の立場なら難色を示してただろうと述べている)。

長嶋茂雄と対談した際にしつこく阪神のユニフォームを着るよう勧められたという。

星野をオーナーの久万俊二郎に推薦したのは前任監督の野村克也だという。著書によると野村は任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り、「負け癖のある今の状態の阪神を再建できるとすれば、熱血指導型の西本幸雄さんか星野だ」と考えていた。当時の阪神はOB会が強い権力を持ち、ベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったともいう。星野もオーナーに直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ」と発言した。球団社長の野崎勝義も著書の中で星野新監督誕生させたのは野村克也さんの直言がキーワードになったと著書に記している

星野は著書の中で、『野村さんは阪神での3年間、「弱者が強者に勝つ野球」というものを標榜されていたそうだが、私の場合は「弱者を強者にする野球」だ。野村さんといえばご存知ID野球。野球は考えるスポーツ、頭でやるスポーツとして捉え、指導していくスタイルの人だが、私が阪神で選んだのは端的にいうと体の野球だ。これはどちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、弱いチームの選手を鍛えて、戦っていくための順番として問題として考えてもらえればいいだろう』と記している。

同年オフ、オリックスからジョージ・アリアス、FAで日本ハムから片岡篤史を獲得した。就任1年目の2002年には4年連続最下位だったチームを開幕からいきなりチーム史上2度目の7連勝を記録し、5月・6月首位を走ったが故障者が出始めて息切れ、結果的に4位に終わる。同年オフには、広島からFA宣言した金本知憲テキサス・レンジャーズ自由契約になった伊良部秀輝、中日を自由契約になった久慈照嘉、日本ハムから下柳剛中村豊らをトレードで獲得するなど、投打の大型補強を行った。首脳陣とフロント陣では一軍ブルペンコーチに西本聖、一軍バッテリーコーチに達川光男、二軍投手コーチに山口高志、編成部顧問に岡田英津也、伊藤菊雄を招聘した。

2003年は、金本、伊良部、下柳、矢野、桧山進次郎、片岡、井川慶、アリアス、ジェロッド・リガンジェフ・ウィリアムスら主力選手の活躍に加え、今岡誠赤星憲広藤本敦士吉野誠ら若手が急成長し首位を独走、7月8日にはセ・リーグ史上最速となる優勝マジック49を点灯させた。結局、この年、圧倒的な強さでチーム18年ぶり、監督としては自身3度目のリーグ優勝を果たすが、ダイエーとの日本シリーズでは3勝4敗で敗れる。

しかしかねてから星野には高血圧症という持病があり、2002年のペナント開幕戦の対巨人戦では試合後に体調を崩しベンチ裏で記者を待たせ横になっていたことがあったり、2003年は野崎が覚えているだけで試合中4回倒れており、その都度島野ヘッドが敵陣にバレないよう指揮を執っていた。7月27日の対中日戦では試合中に気分が悪くなり、1時間ほど指揮を島野に任せベンチ裏で横になっていたこともあった。どちらのときも平常時72から135までに安定している血圧値が165から210にまで上昇していたという。

日本シリーズ前日、メディアで「星野監督、日本シリーズ終了後に勇退」と報じられ、シリーズ終了後に「健康上の理由」で退任することを正式に発表した。後任には守備走塁コーチの岡田彰布が昇格。

2010年に行われた阪神ファンが選ぶ阪神名監督というアンケートで2位岡田彰布に倍以上の差をつけ1位になっている。

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出典:wikipedia
2018/08/15 05:23

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