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昭憲皇太后とは?

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年8月)
【昭憲皇太后】

1889年(明治22年)

第122代天皇后


在位期間
1869年2月9日 - 1912年7月30日
明治元年12月28日 - 明治45年/大正元年7月30日

【皇后(中宮)】
1869年2月9日
(明治元年12月28日)
【皇后(皇后宮)】
1869年8月15日(明治2年7月8日)
【皇太后】
1912年(大正元年)7月30日
【】

【誕生】
(1849-05-09) 1849年5月9日
(嘉永2年4月17日)
平安京 一条烏丸東入・一条家 桃花殿
(現:京都府京都市上京区)
【崩御】
(1914-04-09) 1914年4月9日(64歳没)
日本 静岡県駿東郡静浦村
(現:静岡県沼津市)
沼津御用邸
【大喪儀】
1914年(大正3年)5月24日
【陵所】
日本京都府紀伊郡伏見町
(現:京都府京都市伏見区)
伏見桃山東陵
1914年(大正3年)埋葬
【諱】
勝子(まさこ)
→ 美子(はるこ)
【旧名】
一条美子
(いちじょう はるこ)
【追号】
昭憲皇太后
1914年(大正3年)5月9日
追号勅定(大正天皇)
【別称】
富貴君(ふきぎみ)
富美君(ふみぎみ)
→寿栄君(すえぎみ)
【印】
若葉(わかば)
【氏族】
一条家(藤原氏)
【父親】
一条忠香
【母親】
新畑民子
【配偶者】
明治天皇
【結婚】
1869年2月9日
(明治元年12月28日)
【子女】
なし
【養子女】
大正天皇
【身位】
女御皇后皇太后
【栄典】
宝冠大綬章
1872年(内田九一撮影)

昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう、1849年5月9日嘉永2年4月17日〉 - 1914年大正3年〉4月9日)は、日本の第122代天皇明治天皇皇后勝子(まさこ)、のちに美子(はるこ)。お印若葉。旧名は、一条美子(いちじょう はるこ)。

欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう近代女子教育を振興し、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。皇后として史上初めて洋装をした。明治天皇崩御に伴い皇太后となり、1914年(大正3年)崩御(64歳)。嫡妻として明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。

生涯

誕生から成婚、皇后時代

嘉永2年(1849年)4月17日、従一位左大臣一条忠香の三女として誕生。生母は側室・新畑民子右大臣一条実良(1835-1868年)の妹。徳川慶喜の婚約者であった千代君疱瘡のため千代君に代わって慶喜に嫁いだ美賀子とは、義理の姉妹にあたる。

当初の名前は勝子(まさこ)。通称は富貴君(ふきぎみ)、富美君(ふみぎみ)など。安政5年(1858年)6月、寿栄君(すえぎみ)と改名(皇女富貴宮の諱を避けるため)。

慶応3年6月28日(1867年7月29日)、新帝明治天皇(第122代天皇)の女御に治定。伏見宮家の縁故で、女流漢学者で勤王論者の若江薫子が家庭教師として忠香の娘たちの養育に携わっていたが、「女御を一条家から出すのに際し、薫子は姉を差し置いて妹の寿栄君を推薦した」と言われている。

明治元年12月26日(1869年2月7日)、美子(はるこ)と改名し、従三位に叙位。同月28日(1869年2月9日)入内して次のような女御の宣下を蒙り、即日、皇后に立てられた。

「一条美子女御宣下 女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)」


從三位藤原朝臣美子
右中辨藤原朝臣長邦傳宣
權中納言藤原朝臣公正宣
奉 勅宜爲女御者
明治元年十二月二十八日 中務少輔輔世


―宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料(后妃4)』吉川弘文館所収

(訓読文)従三位藤原朝臣美子(一条美=はる子 20歳)右中弁藤原朝臣長邦(葉室長邦 30歳 従四位下)伝へ宣(の)り、権中納言藤原朝臣公正(清水谷公正 60歳 正三位)宣(の)る、勅(みことのり 明治天皇 17歳)を奉(うけたまは)るに、宜しく女御と為すべし者(てへり)、明治元年(1868年)12月28日 中務少輔兼左大史小槻(壬生 58歳 正四位上)宿禰輔世奉(うけたまは)る、

この際、天皇より3歳年長であることを忌避して、公式には嘉永3年(1850年)の出生とされた。当初、中世以来の慣行に従って中宮職を付置され、中宮と称されたが、翌年、中宮職が皇后宮職に改められ、称号も皇后宮(こうごうぐう)と改められた。この時を最後に、中宮職は廃止され、中宮の称号も絶えた。

皇太后時代

1912年(明治45年)7月30日、明治天皇が崩御し、皇太子嘉仁親王践祚および皇太子妃節子立后と同時に皇太后となった。

1914年(大正3年)4月9日午前2時10分、沼津御用邸にて狭心症のため崩御。公式には4月11日同時刻。丸2日ずらされたのは、宮内省内蔵頭当時の収賄で司直の手が及びかけていた宮内大臣渡辺千秋を急遽更迭させるための措置であった。

同年5月9日、宮内省告示第9号により「昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)」と追号され、翌年5月1日に、夫の明治天皇と共に明治神宮の祭神とされた。

陵墓は、京都府京都市伏見区にある伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)。

業績

明治維新期の皇后として、社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現:学習院女子中・高等科)や、お茶の水の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与した。慈善事業の発展に熱心で、東京慈恵医院博愛社(現在の日本赤十字社)の発展に貢献した。

1902年(明治35年)発行、バッスルスタイルローブ・モンタントを召して。(ロシアの日本紹介文献にて)

赤十字の日本国内における正式紋章「赤十字桐竹鳳凰章」は、紋章制定の相談を受けた際、皇后が大日本帝国憲法発布式で戴冠したパリの高級宝飾店ショーメ制作のフランス製の宝冠のデザインが、の組み合わせで構成されていた事から、日本近代化の象徴として「これがよかろう」という自身の示唆で、さらに皇后を象徴する瑞獣である鳳凰を戴く形に決定されたという。

1912年(明治45年)、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.にて第9回赤十字国際会議が開催された際、国際赤十字に対して皇后は10万円(現在の貨幣価値に換算すれば3億5000万円ともいわれる)を下賜した。赤十字国際委員会はこの資金を基にして昭憲皇太后基金 (英:Empress Shōken Fund) を創設した。この基金は現在も運用されており、皇后の命日に利子を配分している。

皇后として欧化政策の先頭に立たなければならない立場を強く自覚し、1886年(明治19年)以降は、着用の衣服を寝間着を除いて全て洋服に切り替えた。洋服を率先着用した理由としてもう一つ、「上半身と下半身の分かれていない着物は、女子の行動を制限して不自由である」という皇后自身の言葉も伝えられている。

能楽美術工芸の発展にも心を配り、日清日露戦争に際しては、出征軍人や傷病兵に下賜品を与え、慰問使を送った。和歌や古典文学にも造詣が深く、創作した短歌(作歌)は3万6000首に上るが、その一部は『昭憲皇太后御歌集』に見ることができる。

年譜・行啓歴

第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、皇后美子(昭憲皇太后)の行啓70周年を記念して建立された高さ4.6 m、幅1.86 mの富岡製糸場の行啓記念碑。
1890年(明治22年)2月12日、憲法発布祝賀会に臨御するため馬車に乗っている明治天皇と昭憲皇太后。片多徳郎画『憲法発布観兵式行幸啓』
昭憲皇太后の女官長、高倉寿子
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1894年(明治27年)3月9日の大婚二十五年祝典(銀婚式)の参内者へ授与された大婚二十五年祝典之章(左:男性用、右:女性用)。皇族向けの金章。

逸話

追号について

「皇后」、「皇太后」、「太皇太后」の3つの身位の序列は、大宝律令では「1.太皇太后、2.皇太后3.皇后」の順と定められていたが、皇族身位令制定によって「1.皇后、2.太皇太后、3.皇太后」の順に改められ、諡号・追号には生前帯びていた身位のうち最高のものをつけることになった。

皇后であった彼女の追号は、本来なら「昭憲皇后(しょうけんこうごう)」となるはずだった。だが、崩御時に大正天皇の勅定により贈られた追号は皇族身位令に従っていない「昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)」であった。

こうなった理由は、孝明天皇の正妻であり明治天皇の「実母」(嫡母)だった英照皇太后の追号が「皇太后」だったことから、誤ってそれに倣って命名してしまったものといわれている。英照皇太后は正妻ではあったものの、立后の意向を示した孝明天皇に幕府が反対して皇后には冊立されず、女御准三宮のみを宣下され、明治天皇の即位に伴って皇太后とされたので、その追号は正確なものだったが、女御宣下と同時に立后された昭憲皇太后にはこれは当てはまらない。また、皇族身位令自体が1910年(明治43年)に制定され、そのわずか4年後に崩御したので、いまだその内容が充分に定着していなかったことも影響していると考えられる。

昭憲皇太后を祭神とする明治神宮は公式ホームページで「宮内大臣が昭憲さまのご追号を皇后に改めないで、『昭憲皇太后』としてそのまま大正天皇に上奏し御裁可となった」「この上奏の時点で間違いが生じました」として当時の宮内大臣の不手際を挙げている(上述の通り、昭憲皇太后が崩御した4月9日に宮内大臣が渡辺千秋から波多野敬直に交代しており、4月11日に崩御の事実が公表された)。

追号は勅裁(天皇の裁定)により定められたものなので、誤りが判明しても「綸言汗の如し」としてこれを改めることが出来ず、現在に至っている。明治神宮は、1920年(大正9年)と1963年(昭和38年)の2度にわたって「昭憲皇后」への改号を当時の宮内省、宮内庁に要請しているが、いずれも却下されている。

皇族身位令は1947年(昭和22年)に廃止されたが、1951年(昭和26年)に崩御した貞明皇后(皇太后節子)は、旧皇族身位令に準じて生前の最高位が皇后だったことを反映した追号を贈られている。また、2000年(平成12年)に崩御した香淳皇后(皇太后良子)も同様に同令に準じて生前の最高位である「皇后」の追号を贈られている。

著作

公伝

栄典

日本

外国

題材とされた作品

テレビ番組

演じた俳優

書籍

出典

  1. ^ 中宮職廃止により、皇后宮職設置
  2. ^ 服部敏良 『事典有名人の死亡診断 近代編』 吉川弘文館、2010年、154頁。
  3. ^ 『ビジュアル日本史ヒロイン1000人』の228頁
  4. ^ NHK BSプレミアム「時空超越ドラマ&ドキュメント美子伝説」
  5. ^ 福島民報』1966年1月17日付朝刊テレビ欄。

注釈

  1. ^ 一条忠香の正室は伏見宮順子女王。
  2. ^ 一条家の典医・新畑大膳種成の娘。
  3. ^ 実父は醍醐忠順。輝姫。忠香は養父。
  4. ^ 実父は今出川公久。忠香は養父。
  5. ^ 同告示によると、追号の「昭憲(しょうけん)」は諡法に則り、「明憲昭徳」を意味する。昭は「著(アキラカニアラワス)」であり、「君子以明徳」(『易経』)、「於昭于天」(『詩経』)、「百姓明」(『尚書』)などの例がある。憲は諡法に「博聞多記曰」、また『礼記・内則』に「、法其徳行也」とある。

参考文献

外部リンク

皇后一覧 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2020/05/14 05:43

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