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普仏戦争とは?

普仏戦争(ふふつせんそう、: Guerre franco-allemande de 1870: Deutsch-Französischer Krieg)は、フランス第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランス帝国プロイセン王国の間で行われた戦争である。

プロイセンは北ドイツ連邦のみならず、南ドイツのバーデン大公国ヴュルテンベルク王国バイエルン王国と同盟を結び、フランスに圧勝した。この戦争を契機に、すでに旧ドイツ連邦の解体で除外が濃厚となっていた議長国オーストリアを除いたドイツ統一が達成され、フランス第二帝政は崩壊した。

ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ぶ他、フランス側では1870年戦争と呼称する。なお、日本の世界史の教科書ではプロイセン=フランス戦争と呼称する例もある。

概要

背景

ドイツ統一のためのナショナリズム形成を目論見、プロイセンは全ドイツ共通の敵を必要としていた。そして、スペインで発生したスペイン1868年革命による女王イサベル2世のフランスへ亡命後のスペイン王位継承問題でプロイセンとフランスの対立が高まる中、プロイセン首相(北ドイツ連邦宰相)ビスマルクは「エムス電報事件」でフランスとの対立を煽り、また北ドイツ連邦と南部諸邦の一体化を図った上で、フランス側に開戦させた。

開戦~第二帝政瓦解

フランスは7月19日にプロイセンのみに宣戦したが、ドイツ諸邦はプロイセン側に立って参戦した。

緒戦こそ、フランスがザールブリュッケンを占領して勝利したが、以降はプロイセン及び同盟軍の優勢で推移した。周到に作戦計画を練っていた(10回以上もの作戦計画を練っていた)参謀総長大モルトケ率いるプロイセン軍は、野戦砲と鉄道輸送を巧みに活用し、フランス軍正面と右翼を攻撃、フランス軍の敗北が続いた。フランス軍は北に圧迫され、戦局はフランスに不利に推移した。

ナポレオン3世は自ら戦地に赴き、9月1日セダンの戦いに臨んだが、プロイセン軍は戦線に穴を空けた南方から迂回し、セダンから首都パリへの退路を断つ包囲行動に出ていた。フランス軍はセダンで完全に包囲され、開戦からわずか1ヵ月半後の9月2日、ナポレオン3世は10万の将兵とともに投降し捕虜となった。この一連の出来事にフランス市民は激怒し、2日後の9月4日、ナポレオン3世の廃位が宣言されるとともに、国防のための臨時政府の設立(国防政府)が決議された。

継戦とパリ包囲

プロイセン首相ビスマルクは勝敗が決まった時点で即講和し、ゆるやかな条約を結びフランスに遺恨を残さないでおこうと考えていた。しかし、大モルトケと軍と世論のアルザス=ロレーヌ併合を求める強硬な反対にあった。また、フランスはオーストリアのように将来同盟国となる可能性は無く、統一ドイツ帝国が実現すれば列強と対等の同盟を結び、フランスを外交的に封鎖できると考えられた。

一方のフランス側も、領土の割譲を激しく拒否したため、戦争は続行された。

プロイセン軍は、各地の要塞や残存部隊による小規模な抵抗を各個撃破しつつ、パリへ進撃した。9月19日、遂にパリが包囲された(パリ攻囲戦 (1870–71))。プロイセン軍は背後にあるメス(メッツ)要塞のバゼーヌ元帥麾下の軍団を警戒して一気に攻め込むことはしなかった。10月27日、メス攻囲戦で、大した戦闘もないままバゼーヌ元帥が18万人の将兵とともに降伏し、フランス軍の組織的な反攻は不可能になった。

終結

1871年1月5日、パリに砲撃開始。1月18日、パリ砲撃が続く中、ヴェルサイユ宮殿鏡の間で、プロイセン国王ドイツ皇帝(Deutscher Kaiser)ヴィルヘルム1世として推戴され、ここにドイツ帝国が樹立された。

1月28日休戦協定が署名された。5月10日フランクフルト講和条約締結により、戦争は正式に終結した。パリ陥落や、アルザス=ロレーヌ(エルザス=ロートリンゲン)地方の割譲などを巡り、フランスと新生ドイツの間に遺恨を残した。

ジャコブ・マイエール・ド・ロチルドが1817年に設立したロチルド・フレール(de Rothschild Frères ロスチャイルド兄弟とも)は、50億フランにのぼる賠償金を支払うためのシンジケートを組成した。フランスはオスマン帝国に対する膨大な債権を回収してロチルドらに返済するつもりであったが、オスマン債務管理局の利権にドイツ帝国が割りこみ東方問題に佳境をもたらした。そして新たにカリブ海問題も生まれた。

背景

北ドイツ連邦(赤)、南ドイツ諸邦(黄)、エルザス=ロートリンゲン地方(薄黄)

ドイツ統一への目論見

普仏戦争の原因は、ドイツ統一にまつわる幾つかの事件にその根源があった。プロイセンとオーストリアがドイツの主導権をかけて戦った普墺戦争(1866年)はプロイセンの勝利に終わった。戦争の結果、プロイセンは多くの領土を併合して北ドイツやライン川流域に勢力を伸ばし、またドイツ諸邦を連合する北ドイツ連邦を主導した。

こうして新たに強い勢力が生まれることは、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1815年)で決められたヨーロッパのパワー・バランスが崩れることを意味していた。当時のフランス皇帝ナポレオン3世は、フランスにとっての戦略的な要地の安全を確保するため、ベルギーやライン川左岸における領地補償を要求したが、プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクは、にべもなくこれを拒否した。これはライン川流域に近いフランスにとって直接の脅威となった。

次にプロイセンはドイツ南部に目を向け、ドイツ南部の諸王国(バイエルン王国ヴュルテンベルク王国バーデン大公国ヘッセン大公国)をプロイセンが主導する統一ドイツ国家の中に取り込むことを画策した。プロイセンが南ドイツ諸国を併合すれば、プロイセンの軍事力は強大化するため、フランスはプロイセンの南ドイツ併合に強く反対した。

プロイセンでは、大きな統一ドイツ帝国を作るためには、ドイツ南部諸国においてドイツ民族としてのナショナリズムを呼び覚ます必要があり、そのためにはフランスとの戦争が不可避かつ不可欠であると分析判断していた。この狙いはドイツ宰相ビスマルクの次の言葉によく表れている:「統一ドイツが出来上がるためには、その前に普仏戦争が起こらねばならない事は分かっていた」。ビスマルクは、南ドイツ諸邦をプロイセン側に引き込み、それによってドイツ側の数的優位を確保するためには、フランスが侵略者と見なされねばならないこともよく認識していた。また、多くのドイツ人は、歴史的にフランスがヨーロッパを不安定化させてきたと見なしており、平和を乱さないためにはフランスの力を弱める必要があると考えていた。

スペイン王位継承問題とエムス電報事件

ヴィルヘルム1世から言質を得ようとするフランス大使
詳細は「エムス電報事件」を参照

戦争の直接的な要因は、スペイン1868年革命の末に空位となっていたスペイン王位に、プロイセン国王の親戚である、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯家レオポルトが推挙された事にある。プロイセンとスペインがホーエンツォレルン家の領国となれば、フランスは東西から挟まれる形になるため、フランスはこれに強く反発した。フランスの外交的圧力により、ホーエンツォレルン家からの推挙は取り下げられた。

スペイン王位継承問題は、このようにフランスの外交的勝利で終結するかに見えた。ところが、フランスはこれを明文化させようと、7月13日、温泉保養地バート・エムスに滞在中であったプロイセン国王ヴィルヘルム1世に大使を派遣。しかし、ヴィルヘルム1世はこれを非礼であるとして拒絶した。

同日午後、この事実を電報で知った、プロイセン首相ビスマルクは、この問題を煽ってフランス側から宣戦させることを企図する。ビスマルクは、フランスの非礼と国王の怒りを強調して編集(情報操作)し、7月14日に各国報道機関へ向けて発表した。

この日はフランス革命記念日であり、大使の受けた恥辱にナショナリズムを刺激されたフランス世論に促され、ナポレオン3世は翌日7月15日に動員令を発令。翌日にはプロイセンも動員令を発した。動員令から4日後の1870年7月19日、エムス電報事件から1週間もたたない電撃的な速さで、フランスはプロイセンに宣戦布告した。外交的な問題に加えて、ナポレオン3世と首相エミール・オリヴィエは国内的な政治問題を解決する必要性からも、宣戦の必要があると考えた。

一方のプロイセンもフランス同様、国王への侮辱に対し民衆がこの事件にナショナリズムを刺激され、さらにこれが南独にも波及し、諸邦は直ちにプロイセン側に立った。

双方の軍事力

フランス軍

普仏戦争のフランス兵

フランス軍は約40万人の常備兵で構成されており、その内の幾らかはクリミア戦争アルジェリア戦役、イタリアでのオーストリアとの戦争メキシコ出兵などを経験した歴戦の古参兵たちであった。

フランスは、国民皆兵による徴兵制の元祖とも言える国だったが、成年男子のうち少数が服するにすぎず、富裕層は金銭によって代理を立てることもできた。徴兵期間は7年と長い一方、予備役も後備役も無かったため、一般国民との遊離が顕著だった。ナポレオン3世は、1867年、アドルフ・ニールにこの制度を改革させ、現役5年予備役4年とし、さらに兵役以外の者で「遊撃軍」を編成した。しかし、立法院の反対により、「遊撃軍」は有名無実化してしまっていた。1869年、後任のエドモン・ルブーフは、制度の不評のため改革を有効に実施できなかった。ルブーフは、数日で30万人を動員できると試算したが、輸送力や兵站の致命的欠陥により、実際は20万人未満だった。

歩兵は、当時の世界で量産されていた火器としては最新式といえる後装式のシャスポー銃を装備していた。ガス漏れ防止ゴムリングと小さめの弾丸を採用したことにより、シャスポー銃の最大有効射程は約1500mであり、装填時間も短かった。砲兵は旋条を施した前装式のライット4砲(弾丸重量4kg)を装備していた。それに加えて、フランス軍は機関銃のさきがけともいえるミトラィユーズを装備していた。ミトラィユーズは大量の火力を集中できる強力な兵器であったが、射程が短い事と比較的機動性が低い事が弱点で、このため容易に撃破されがちだった。ミトラィユーズは砲架の上に取り付けられ、野砲と同じように砲兵隊の中に組み入れられた。フランス軍は名目的にはナポレオン3世がフランソワ・アシル・バゼーヌパトリス・ド・マクマオンルイ・ジュール・トロシュらの元帥とともに率いていた。

プロイセン軍

プロイセン軍は常備兵ではなく徴兵で構成されていた。兵役は兵役年齢の男子全員の義務とされ、これによりプロイセン、およびその北ドイツ、南ドイツの同盟国は戦場に約120万人の兵士を動員可能であった。これだけの大兵力を使えることは、敵軍を包囲殲滅する上で有利であった。

プロイセン軍はケーニヒグレーツの戦いで名声を得た「針打式」のドライゼ銃をいまだに装備していたが、この時点で既にドライゼ銃は設計から25年も経ったものであった。しかしながら、プロイセン軍の砲兵隊には鋼鉄製で後装式のクルップC-64野砲(弾丸重量3kg)が供給されており、これはドライゼ銃の不利を補って余りあるものがあった。亜鉛玉と爆発物を詰めた接触雷管(contact-detonator)式の弾丸を発射するクルップ砲は、射程距離4500mで、フランスの青銅製の前装砲と比べれば猛烈な発射速度を誇っていた。

プロイセン軍はヘルムート・フォン・モルトケ元帥とプロイセン参謀本部が指揮した。プロイセン陸軍はその当時のヨーロッパで唯一の参謀本部を持つという点で独特であった。参謀本部の任務は、作戦行動を指揮をすること、兵站・通信を組織すること、および戦争全体の戦略を練ることであった。1866年夏の普墺戦争を踏まえ、1867年冬にはモルトケによる対仏作戦計画が完成していた。プロイセン参謀本部は、フランスの地域特性(地図や鉄道網)をフランス人より熟知していた。

実務面でみても、プロイセン陸軍では他のどの国の陸軍よりも参謀長が重要な役割を担っており、参謀長は直接の上官と意見が異なる場合、その上の司令官へ直接上訴する権限を与えられていた。このため、例えば、プロイセン王太子も、彼の参謀長であるレオンハルト・フォン・ブルーメンタール少将の助言に反する行動をとることはできなかった。なぜなら、参謀長が(この場合は王太子の上官である)父・国王に直接上訴する事を恐れたからである。

こうした、組織力と機動力、そして周到な準備により、38万人の兵力を18日間で動員し、さらに9万の兵力を対オーストリア用に温存していた。

比較

フランスは既に強力な常備軍を備えている一方で、プロイセンと他のドイツ諸国は徴兵による軍隊を動員するために数週間はかかるであろうから、フランスは開戦当初においては兵力と実戦経験の面で優位に立っていた。フランスの戦術はシャスポー銃を使って塹壕戦を防御的に戦う事を重視していたが、ドイツ軍の戦術は包囲の形勢を作ることと、可能な限り常に砲兵を攻撃的に用いることを重視していた。

開戦前の国際関係

この戦争を予測していたプロイセンは普墺戦争の後にフランスへ向けて鉄道線路を6本引き(フランスはプロイセンに向け1本)、情報将校を戦場の舞台になるであろうフランス東北部に派遣、観光客にまぎれこませ偵察させ地図を作成するなど万全な準備を整えていた。また北ドイツ連邦加盟の領邦諸国は、プロイセンが先に宣戦布告された場合には協力するとの条約に基づき参戦した。その他にも他国が介入しないよう、ロシア、オーストリア、イタリアイギリスに事前に根回しをしていた。

これに対しフランスはメキシコ帝国計画が失敗した際に、ハプスブルク家から迎えた皇帝マクシミリアンを見捨てて撤退したことでオーストリアから大きな恨みを買っており、支援を得られなかった。

開戦~フランス軍の侵攻

両軍の配備関連地。今日のフランス共和国東部のグラン・テスト地域圏周辺に相当する。

両軍の初動

フランスによる対プロイセン宣戦布告は7月19日だったが、閣議決定は7月14日であり、15日早朝には総動員令が下された。7月15日夕方には、北ドイツ連邦主席であるプロイセン国王ヴィルヘルム1世も、同様に総動員令を下令し、南独諸邦も同盟により16日以降総動員体制を取った。

一見すると、先行したフランスが有利のようだが、前述の通り、両国の実際の動員可能兵力数は、プロイセンが有利であった。

プロイセン軍の配置は、次の通りだった。

フランスがベルギー及びルクセンブルクを侵犯する可能性は無いと考え、メス(独:メッツ)~ストラスブール(独:シュトラースブルク)間での戦闘が予想された。そこで、第1軍はトリーアザールブリュッケン→メス、第3軍はシュパイアー→ストラスブールを、そして第2軍はマインツを起点に1・3軍の中間で両者と連携することが計画された。

フランス軍は確固とした戦闘計画はなかった。およその配置は次の通り。

フランス軍の攻勢

プロイセン(長方形)、フランス(半円)両国軍の布陣(1870年7月31日)

1870年7月28日、ナポレオン3世はメスに向けてパリを出発した。ナポレオン3世は新たに編成したライン軍の総司令官となった。ライン軍は兵力202,448人で、フランス軍の動員が進むにつれて兵力は更に増える予定であった。マクマオン元帥は第1軍(4個歩兵師団)を率いてヴィサンブールへ、カンロベール元帥は第6軍(4個歩兵師団)を率いて北フランスのシャロン=アン=シャンパーニュへ向かった。第6軍は予備兵力の役割を担いつつ、ベルギーからのプロイセン軍の侵入を警戒する役割であった。

フランス側の戦争計画は、戦争前に故アドルフ・ニール元帥が描いたもので、ティオンヴィルからトリーアに向けて強力な攻勢に出て、そこからプロイセンのラインラントへ侵入するという計画であった。この計画は、防御的な作戦を志向するフロサール将軍(Charles Auguste Frossard)やルブラン将軍(Bartélemy Lebrun)らによって破棄された。彼らはライン軍をドイツ国境付近で防御態勢にして、プロイセンの攻勢を撃退する計画を考えていた。オーストリアはバイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンとともにプロイセンへの(普墺戦争に対する)報復戦争に加わると見込まれるから、第1軍はプファルツ選帝侯領に侵攻し、そこから南ドイツ諸国を自由に通過させてもらいつつ、オーストリア・ハンガリー軍と協調して進撃し、第6軍は必要に応じていずれかの軍への増援に回すつもりであった。

しかしながら、フロサール将軍の計画には早くもほころびが見え始めた。プロイセン軍の動員はフランス側の予測よりも遥かに急速に進んでいた。また、オーストリア・ハンガリー軍は普墺戦争においてプロイセン相手に敗北した痛手からまだ抜け出せておらず、南ドイツ諸国がフランス側に協力的な立場をとった場合にのみ参戦するという方針で、注意深く事態を見守っていた。結局、南ドイツ諸国がプロイセン側に立ち、フランスに対して軍を動員し始めたため、オーストリア・ハンガリーがフランス側に立って参戦する構想は実施されなかった。

仏軍によるザールブリュッケン占領

ザールブリュッケン
ザールブリュッケン
捕虜となったバイエルン兵を見張るフランスの槍騎兵胸甲騎兵
(画)エドゥアール・デタイユ

ナポレオン3世はモルトケの全軍の動員・配備が完了する前に攻勢を掛けるよう国内から大きな圧力を受けていた。フロサール将軍による偵察では、ライン軍のすぐ前方にある国境の町ザールブリュッケンを警備するプロイセン第16歩兵師団を確認したのみであり、このため、ライン軍はザールブリュッケンの占領を企図して7月31日ザール川に向けて進軍した。

一方、プロイセン側は偵察活動により、フランス軍主力がメス東方にあり、アルザスが手薄であることを知るや、予備軍を第2軍に投入し、第1・2軍で仏主力の攻撃を計画した。

フロサール将軍の第2軍とバゼーヌ元帥の第3軍は8月2日ドイツとの国境を越え、ザールブリュッケンのプロイセン第16歩兵師団第40連隊に一連の直接攻撃を掛け始めた。ザールブリュッケン周辺での小競り合いでは、フランスのシャスポー銃がプロイセンのドライゼ銃に対して優位に立ち、フランスの小銃手は一様にプロイセンの小銃手の射程圏外から攻撃できた。

しかしながら、プロイセン軍は頑強に抵抗し、両軍の損害はプロイセン軍83名に対してフランス軍86名であった。ザールブリュッケンは兵站の面でみても大きな障害であることが分かった。ザールブリュッケンからのびる鉄道だけがドイツの後背地域へと続いているが、ザールブリュッケンは一軍を以て容易に守備でき、かつまたこの地域で唯一の河川は国境に沿って流れている。

プロイセン主力が未だ到着しておらず、プロイセンはこの街を明け渡さざるを得なかった。普仏戦争を通じ、最初に国境を超えたのはフランスであり、またこれがフランスにとって最初で最後の勝利となった。

プロイセン軍の反撃準備

この勝利がラインラント、ひいてはベルリンへ向かう第一歩だ、とフランス本国で声高に叫ばれていたその頃、ルブーフ将軍(Le Bœuf)とナポレオン3世は、外国ニュースメディアからプロイセン軍とバイエルン軍がザールブリュッケンの南東方面に集結しており、さらに北方面や北東方面にも軍が集結しているとする警戒すべき報告を受け取っていた。

実際にモルトケはそれら三つの地域に軍を集結させていた。すなわち、ザールルイに面する場所にカール・フォン・シュタインメッツ将軍率いるプロイセン第1軍5万人、フォルバックからスピシュランまでの線に面する場所にフリードリヒ・カール王子率いるプロイセン第2軍13万4000人、そしてフリードリヒ王太子率いるプロイセン第3軍12万人はヴィサンブールにて国境を越える用意を整えていた。

プロイセン軍の攻勢~皇帝捕縛

ヴィサンブールの戦い

ヴィサンブール
ヴィサンブール(独:ヴァイセンブルク)
詳細は「ヴィサンブールの戦い」を参照

捕虜にしたプロイセン兵や地元警察署長からの聴取により、フリードリヒ王太子の第3軍がザールブリュッケンから僅か48km南方のヴィサンブール(独:ヴァイセンブルク)付近にいる事が分かり、ルブーフ将軍とナポレオン3世は防御的な位置まで退却する事を決めた。フロサール将軍はザールブリュッケンに進出していたライン軍の一部を独断でスピシャランとフォルバックまで急遽退却させた。

この時点でヴィサンブールに最も近い位置にいたマクマオン元帥(第1軍団)は、隷下の4個師団を約32kmに渡って散開させてプロイセン軍の侵攻を待つ形になった。これは補給の欠如によるもので、各師団と本来それらの師団を支援する筈である軍の補給部隊とが一緒になって基本的な物資を探して廻る有様だった。

更に状況を悪化させたのは第1軍団の第1師団長デュクロ将軍(Auguste-Alexandre Ducrot)の言動であった。デュクロは8月1日、マクマオン軍団の第2師団長アベル・ドゥエー将軍(Abel Douay)に対して「私が得た情報では敵は前哨付近に大した兵力を置いておらず、攻勢に出る意思はないと思われる」と話した。その2日後、デュクロはマクマオンに「敵の前哨一つすら発見できていない。(中略)ババリア人の脅しは単なるハッタリと思える」と述べた。デュクロはドイツ軍からの攻撃は無いと見ていたが、マクマオンはなおも他の各師団への警告に努めた。しかしその努力は実らなかった。

普仏戦争における最初の戦闘は1870年8月4日に起きた。第1軍団のドゥエー将軍率いる第2師団と随伴する騎兵部隊は、支援のない状態で国境監視の配置についていたが、ドイツ第3軍から圧倒的ながら統制を欠いた攻撃を受けた。その日を通じて1個バイエルン軍団と2個プロイセン軍団からの部隊が戦闘に参加し、プロイセン軍の砲兵支援も加わってヴィサンブールの防御陣地に穴を開け始めた。

シャスポー銃の正確な長射程の射撃のおかげで、ドゥエーは当初非常に頑強に陣地を保持したが、そのまま支え切るには部隊が薄く延び過ぎていた。ドゥエーは昼前に師団ミトラィユーズ隊の弾倉が近くで爆発して戦死した。プロイセン兵は市を包囲しつつあり、フランス軍は退路を脅かされた。

ヴィサンブール市内での戦闘は極めて激化し、建物を一軒ずつ争う消耗戦となった。プロイセン歩兵の間断ない攻撃にもかかわらず、フランス第2師団は位置を変えなかった。ヴィサンブールの市民は最終的にドイツに降伏した。降伏しなかったフランス兵は死傷者1,000人と捕虜1,000人を残し、残りの弾薬全てを遺棄して西へ退却した。プロイセン兵による最後の攻撃で更に約1,000人の損害が出た。ドイツ騎兵はその後フランス兵の追撃に失敗し接触を失った。攻撃側は優勢な初期兵力を広く展開して包囲を成功させるかに見えたが、フランス軍はシャスポー銃の威力で歩兵攻撃を撃退し続け、フランス歩兵がプロイセン砲兵の猛射を浴びるまで持ち堪えた。

スピシャランの戦い

スピシャラン
スピシャラン
1870年8月5~6日のプロイセンおよびドイツ軍の攻勢の図
詳細は「スピシャランの戦い」を参照

モルトケは当初、ザール川のバゼーヌ元帥の軍に対して、第2軍で敵正面から、第1軍で敵左翼から攻撃するため、8月6日に両軍をザール地方で合流させる計画だった。そして、バゼーヌ軍を現在地に引き留めて、第3軍が敵後方に回り込んで退路を断つ態勢を構築する意図があった。しかしながら、老将シュタインメッツ将軍はモルトケの計画を知らず、麾下の第1軍は第2軍到着前にザールブリュッケンの前面に至った。

フランス側では、ヴィサンブールでの損害を受けて作戦の練り直しが不可欠であった。ルブーフ将軍は怒りのあまり顔を紅潮させ、ザール川を越えて攻勢に出て損害を挽回する一念であった。しかしながら、軍監察官 Wolff 将軍がザール川を越えての補給は不可能だろうと言ったため、次の対決に向けた計画は、感情やプライドよりも、ようやく見え始めた現実に立脚したものとなった。従って、フランス軍は防御態勢をとることとなり、それはドイツ側からの攻撃が予想される地点を全て守ることとなったため、フランス軍の布陣は広がり、互いに連携しにくい状態のままであった。

ザールブリュッケンにいた仏第2軍のフロサール将軍は、ドイツ軍の動静が不明な状況で、ヴィサンブールでのフランス敗北の報を知り、同地の確保は困難であると判断して放棄し、国境近くのスピシャランの高台に布陣した。仏軍の撤退を知ったシュタインメッツ将軍は、予定外に第1軍を率いてまっすぐスピシャラン(独:シュピッヒェルン)へ向けて南へ進んだ。フリードリヒ・カール王子軍の本隊と、そこから前方展開している騎兵隊との間に割り込んでしまった。

8月6日、マクマオン元帥の仏第1軍がドイツ第3軍とヴルトで戦っていたころ、シュタインメッツ将軍のドイツ第1軍はザールブリュッケンから西へ前進し終えた所であった。フリードリヒ・カール王子のドイツ第2軍から出された斥候が、付近の「おとり射撃」につられて、遠くのスピシャラン町の南の台地の上にフロサール軍(フランス第2軍)を発見し、これをフロサール軍が退却しようとしていると受け取った。ここで再びモルトケの計画は無視されて、ドイツ第1軍と第2軍は、スピシャランとフォルバックの間にて防備を固めている仏第2軍に攻撃を掛け始めた。

戦闘の当初、フランス軍はドイツ軍の数的優位に気付いていなかった。なぜなら、ドイツ第2軍はそれまで総攻撃を行っていなかったからである。フロサールは接近して来るドイツ軍の攻撃を単なる小競り合いと考えており、他の部隊へ増援を要請しなかった。どれほどの規模の相手と戦っているのかをフロ

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出典:wikipedia
2020/04/03 17:45

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