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普天間基地移設問題とは?

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普天間基地移設問題(ふてんまきちいせつもんだい)は、沖縄県宜野湾市に設置されているアメリカ海兵隊普天間飛行場の機能を果たす基地・施設を何処にどのような条件で設けるかという問題である。

目次

  • 1 概説
  • 2 年表
  • 3 これまでの経緯
    • 3.1 SACO設置以前の返還に向けた動き
    • 3.2 SACOの設置
    • 3.3 日米会談での普天間返還提案とSACO中間報告
      • 3.3.1 海外移設の検討と棄却
      • 3.3.2 国内移設の検討
      • 3.3.3 嘉手納弾薬庫案
      • 3.3.4 嘉手納飛行場統合案
      • 3.3.5 キャンプ・ハンセン案
      • 3.3.6 橋本首相による海上ヘリポート構想の表明
    • 3.4 SACO最終報告の3案
      • 3.4.1 杭打ち桟橋工法(QIP工法)案
      • 3.4.2 メガフロート(ポンツーン方式)案
      • 3.4.3 メガフロート(セミサブ式)案
    • 3.5 その他の提案
      • 3.5.1 重力着底型プラットフォーム案
      • 3.5.2 移動海上基地(MOB)案
      • 3.5.3 埋め立て案
      • 3.5.4 名護市の計画
    • 3.6 建設・造船業界の動向
    • 3.7 研究者の動向
    • 3.8 キャンプ・シュワブ移設案の登場、基本案の提示
    • 3.9 名護市の住民投票
    • 3.10 比嘉名護市長の受入れ、辞意表明
    • 3.11 稲嶺県知事による県内移設容認
      • 3.11.1 陸地・埋立混成案
    • 3.12 FIG再開、および普天間飛行場代替施設に関する協議会の開催
      • 3.12.1 類似例と運用所要
      • 3.12.2 辺野古沖案の決定
    • 3.13 2001年の政権交代(アメリカ)
    • 3.14 在日米軍基地再編協議(DPRI)
    • 3.15 稲嶺・ラムズフェルド会談
    • 3.16 現地調査、要素技術開発
    • 3.17 米軍ヘリ墜落事件
    • 3.18 辺野古沖現行案の合意
    • 3.19 辺野古案反対派の選挙における躍進
    • 3.20 2009年の政権交代(アメリカ)
    • 3.21 2009年の政権交代(日本)
      • 3.21.1 第45回衆議院議員総選挙まで
      • 3.21.2 鳩山由紀夫内閣発足
    • 3.22 2010年 県外移設の断念と鳩山由紀夫内閣総辞職
      • 3.22.1 菅直人政権
    • 3.23 鳩山由紀夫内閣時代に検討された移設案の概要
      • 3.23.1 九州移設案(新田原・築城基地移設案)
      • 3.23.2 嘉手納基地統合案
      • 3.23.3 キャンプハンセン移転案
      • 3.23.4 関西国際空港移転案
      • 3.23.5 馬毛島案
      • 3.23.6 伊江島案・下地島案
      • 3.23.7 自衛隊基地への移設案
      • 3.23.8 勝連沖埋立案
      • 3.23.9 グアム・テニアン島案
      • 3.23.10 キャンプ・シュワブ陸上案
      • 3.23.11 メガフロート案
      • 3.23.12 辺野古杭打ち桟橋案
      • 3.23.13 徳之島案
      • 3.23.14 腹案
      • 3.23.15 九州ローテーション案
      • 3.23.16 その他
      • 3.23.17 無条件撤去論
    • 3.24 2012年の政権交代(日本)
      • 3.24.1 第2次安倍政権
      • 3.24.2 第三者委員会による検証
    • 3.25 翁長雄志知事による辺野古埋め立て承認を取り消し
  • 4 国による県に対する違法確認訴訟
    • 4.1 訴え提起に至る経緯
    • 4.2 判決
  • 5 海兵隊の存在意義
    • 5.1 肯定する立場
    • 5.2 否定する立場
  • 6 現在で未解決の問題
    • 6.1 沖縄県内の世論
    • 6.2 反基地運動の問題点
      • 6.2.1 イデオロギーの優先
        • 6.2.1.1 普天間第二小学校の移設断念
        • 6.2.1.2 その他
      • 6.2.2 反対派への日当支給
      • 6.2.3 沖縄県外からの工作活動・過激派の浸透
      • 6.2.4 直接的な暴力行為
      • 6.2.5 言葉の暴力問題
      • 6.2.6 その他危険または問題行為
      • 6.2.7 建前と実情の乖離・金銭上の理由による反対
      • 6.2.8 外部から反対運動に参加
      • 6.2.9 反対運動の変質
    • 6.3 グアム準州の状況
      • 6.3.1 軍事的観点
      • 6.3.2 グアム前方拠点としての沖ノ鳥島
      • 6.3.3 民生面、政治的動向
      • 6.3.4 グアム世論
  • 7 北部振興資金
  • 8 その他の問題
    • 8.1 県外の活動家による反対派支援
    • 8.2 中国の関与
  • 9 脚注
    • 9.1 注釈
    • 9.2 出典
  • 10 関連項目
  • 11 文献
  • 12 外部リンク

概説

1995年(平成7年)の沖縄米兵少女暴行事件を契機に、沖縄の米軍基地に反対する運動や普天間基地の返還要求をする運動が起こり、1996年当時では、5年から7年以内の返還を目標としていた。様々な候補地を検討した後、1997年(平成9年)には、名護市辺野古付近に固まり、その後も工法と建設の是非を巡って色々な出来事があった。2002年に計画案が固まったが、その計画はうまくいかなかった。

2004年(平成16年)に沖国大米軍ヘリ墜落事件が起きたことで地元の返還要求は強まった。折からアメリカ軍は世界規模の再編を実施中であり日米政府はこれに普天間移設を絡めることで、基地の移設のみならず、沖縄本島に駐留する海兵隊の削減を盛り込んだ。削減される海兵隊はグアムに移転することになり、グアムでも移設に関わる動きが始まった。計画案自体も再検討が行われ、辺野古周辺で各案を比較した後、2006年(平成18年)に2014年(平成26年)までに代替施設を建設し、移転させるというロードマップが決まった。

2009年(平成21年)に日本では鳩山由紀夫内閣が成立し、同内閣によって上記移設案は再度審議され、様々な代替案が提示されたが、2010年(平成22年)になると、県外移設は不可能との結論に達し、再度辺野古のキャンプ・シュワブへの移設で決着がついた。これにより、2014年までの移設が難しくなった。

普天間基地の移設が持ち上がったのは沖縄米兵少女暴行事件に代表される米軍兵士の問題行動や事故・騒音問題のためであり、元防衛相の小野寺五典氏は「約1万2000世帯が隣接する普天間飛行場の危険性を一刻も早く除去しなければならないからだ。すでにある米軍キャンプ・シュワブの中に拡張するので、新たに基地ができるわけではない。普天間飛行場は返還されれば基地がひとつなくなる。騒音も決定的に少なくなり、移設先では防音工事が必要な住家はほぼゼロだ。オスプレイを含む航空機の飛行ルートも基本的に海上を通るので危険性が減る。負担軽減の面でも辺野古が最も適している」と発言している。

これらの問題は普天間基地が集落の中にある、あるいはかつて存在していたことが原因とする説と、普天間基地運用開始の1945年当時は現在のようには集落は密集しておらず、集落は普天間基地の運用開始後に建設されていったことを重視する説がある 。政治的対立のもとで、左右が互いの主張を非難しあう事態となっている。

また移設先の辺野古で埋め立てを行うことでサンゴ礁等の自然破壊問題も挙がったが、沖縄県の調査ではサンゴ礁の破壊は確認されなかった。一方で沖縄県は那覇空港拡張工事でもサンゴ礁の埋め立てを進めている。

年表

  • 2013年(平成25年)12月27日、仲井眞弘多が米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向けた埋め立てを承認。
  • 2014年(平成26年)1月、承認したことは公約違反だとして、沖縄県議会の本会議において知事の辞任を求める決議が可決される。
    • 11月、知事選挙で仲井眞弘多が破れ、翁長雄志が知事に当選。
  • 2015年(平成27年)普天間飛行場の辺野古移設を巡り県と国が法廷闘争を繰り広げる。工事を一時停止して協議するが9月に決裂し工事再開。
  • 2016年(平成28年)裁判所の和解案に基づき政府と協議。9月16日、福岡高裁で辺野古移設に関して県の敗訴が確定。
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この節の加筆が望まれています。 (2018年5月)

これまでの経緯

SACO設置以前の返還に向けた動き

普天間飛行場(左下)と飛行場北側の市街地の航空写真(1977年)。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
普天間飛行場(右上)と飛行場南西側の市街地の航空写真(1977年)。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

当基地は市街地中心部を占めていることと、基地建設当時の土地収用の事情から、当初より返還を求める主張があった。

1990年6月の日米合同委員会にて、一部在日米軍基地用地の返還について調整を進めることとなった際、沖縄県内の基地用地が「10事案」と通称されたが、その中に本基地の用地数haが含まれていた。しかし、基地全体の返還については動きはなかった。

SACOの設置

1995年に発生した沖縄米兵少女暴行事件を発端に、沖縄で米軍駐留に対する大規模な反対運動が起こった。これを契機として、日米で構成する日米安全保障協議委員会(「2プラス2」)は1995年9月27日に初めて代理出席なしのフルメンバーで開催され、続いて同年11月、沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会(SACO, Special Action Committee on Facilities and Areas in Okinawa)を設置することを決めた。

日米会談での普天間返還提案とSACO中間報告

1996年1月11日に村山富市総理の後を継いで総理大臣となった橋本龍太郎は、政治家として沖縄との関わりがあり、会談前より公私に渡り勉強するなど入念に準備していたと、総理大臣首席秘書官であった江田憲司は語っている。また、当時防衛庁内で移設案の検討に関わった守屋武昌は「橋本首相は子供の頃、再婚した父に反抗していたが、海軍軍人の叔父が戦地に赴く際『両親を大切にするんだ』と別れの言葉を言い残し、沖縄で戦死したといういきがかりを持っていた。梶山静六官房長官も、陸軍少年航空兵として終戦直前に軍命で満州から霞ヶ浦に移動し、民間人を残してきたという悔いがあり、それ故に橋本首相と同様戦後処理についても積極的な姿勢を見せていた」と述べている。

江田は橋本が1996年2月24日にサンタモニカで自己の政権下初の日米首脳会談に臨んだが、当初普天間基地の返還は事前に準備した発言要領には無かった。それを交渉のテーブルに乗せたのは当時首相を務めていた橋本の強い意向であったという。4月12日に橋本と駐日大使であったウォルター・モンデールとの間で、「普天間基地の移設条件付返還」が合意され、普天間基地返還の方向性が進むことになった。1996年4月15日にはこれらを踏まえてSACO中間報告が提出される。この段階で、

  • 5年後から7年後までの全面返還を目指すこと
  • 移設を実施するためには十分な代替施設を用意すること
  • 代替施設として沖縄県における他の米軍の施設及び区域におけるヘリポートの建設

といった旨が明記されている。

一方で、このSACO中間報告には別の側面もあった。1996年3月中旬から下旬にかけて、台湾総統選挙に圧力をかけるため人民解放軍が行ったミサイル演習に対抗し、アメリカは空母戦闘群を2個集結、天候の都合を名目にして台湾海峡を通過させて事実上の威圧を実施した。一連の事態が進行する中、外交チャンネルを通じた日本への説明は優先されず、日本側には対岸の火事として眺める雰囲気が残っていた上、当時の日米協力の指針(いわゆるガイドライン)は朝鮮半島有事への対応までが限界であり、台湾有事への指針としては何も無く、準備なしでの台湾有事の発生は日本政府にとり恐怖そのものでもあった。だが、日米の防衛当局者にはこの危機は追い風にもなった。沖縄で盛り上がっていた米軍基地への反発は水面下で継続されていた安保体制の再確認作業にはマイナス要素であったが、それを打ち消す効果があったからである。1996年4月のSACO中間報告で本土復帰時に実施されたものを面積ベースで上回る返還計画を示したことは、続けて内外に示す同盟強化策への「お膳立て」としての性格があり、5日後の4月17日に来日したクリントンは橋本と極東有事の際の日米防衛協力を検討することで合意し、新ガイドラインの制定、および周辺事態法を頂点とする1990年代末からの何本かの法律の制改定作業に繋がる。

海外移設の検討と棄却

当時陸上幕僚長であった冨沢暉によれば、アメリカ海軍系のある研究機関ではオーストラリアへの移転も含めた撤退シナリオも研究していたという。これは、佐世保と横須賀の海軍基地の維持のために、普天間については手放すシナリオを想定した内容であった。

現実には、オーストラリア絡みの動きは当時から一部ジャーナリストが嗅ぎ付けていた。1996年7月26日、アメリカとオーストラリアはシドニーで開催した定期安保閣僚協議にて、両国の安全保障協定の重要性を確認する宣言を発表しており、同国で実施してきたアメリカ海兵隊の演習規模を拡大することを決めていた。この演習拡大を唱えたのは海兵隊司令官のクルラック大将であり、ダーウィンが湾岸地域に近いことに着目した措置であった。元朝日新聞記者の石川巌の友人はアメリカの国防当局者と会った後、当時のアメリカ軍には朝鮮半島の緊張状態は早期にカタがつくという楽観論もあり、かつ将来の仮想敵である中国との戦いでは海兵隊は有用ではなく、海兵隊の活躍の場は湾岸にあるとクルラックが考えていた旨を伝えている。もっとも、米豪の国防当局者は「アメリカ海兵隊のオーストラリアでの訓練の拡大は、沖縄における米軍基地の整理、縮小の動きとは関係ない」と牽制していた。

この時は結局海外移転は棄却されたが、その後も、必ずしも代替施設を沖縄に置く必要はない旨の意見がアメリカ国側から出された旨が報じられている。

国内移設の検討

一方、SACOでの検討が進められていた1996年の段階で、日本本土の移設候補地としては高知県、苫小牧東などが検討対象に上がった。

沖縄本島内での移設候補地は、多数の案が俎上に上がっている。

SACO中間報告を受けて日米は移設候補地の選定に入ったが、4月中にはまず嘉手納弾薬庫地区と嘉手納飛行場が候補地として取り沙汰される。候補地に挙げられた地元の反応は早く、この時点で反対集会が実施されている。石川巌は1996年夏の段階で報じられていた順に候補地を並べている。それによれば嘉手納弾薬庫、キャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワブ、嘉手納飛行場となっており、宜野座村の潟原海岸を埋め立てて使う案なども沖縄タイムスが報じたと述べている。その他石川が挙げたもの以外では、浦添沖、ホワイト・ビーチ訓練水域のある本島南部の中城湾などが報じられた。

日本側は5月9日に国内調整を進めるために「普天間返還作業委員会」(委員長:古川官房副長官)を組織した。

嘉手納弾薬庫案

アメリカ軍キャンプ・シュワブおよびキャンプ・ハンセンにまたがり、森林などが広がる中部訓練区域への移設を検討した。朝日新聞によれば、アメリカ側から海兵隊のヘリが集結するのに十分な大きさを持つ基地として、嘉手納弾薬庫地区が最適地に挙げられ、また、キャンプ・ハンセンへの移転案も検討されていると言う。しかし、弾薬庫への移転案については読谷村などは予定地周辺が農業用ダムの水源となる森林地帯で、希少動物の宝庫であることから環境に悪影響が出るとして強く反対していた。

朝日新聞は嘉手納弾薬庫地区がアメリカ軍管理となってから半世紀に渡って一般人の立ち入りが制限され、高密度の利用がなされていた訳でもなかった点に触れている。その結果、アメリカ軍のおかげで開発の波に晒されず、豊かな自然が残された。この点に着目した反対派は同地で調査を行い、15種の希少生物が生息していると発表している。

こうした動きから、県も地元と同様の見解を防衛庁に伝え、7月初頭には本案は沙汰止みとなった。

嘉手納飛行場統合案

嘉手納弾薬庫地区の次に浮上したのが、嘉手納飛行場への統合案であった。

日本側の検討

日本側から眺めると、本案は次のような経緯を辿って棄却された。後年守屋昌武などが内情に触れつつ概要を明かしている。県内での移設先を検討するに当って、政治的問題として、大田昌秀知事吉元政矩副知事の連携で県内の自治体首長が次々と革新系に交代し、県南で保守が維持している自治体が嘉手納町浦添市だけであったということがあった。このため、県内の政治的事情を考えれば、橋本政権内では合意に困難が予想される「新設」は選択肢から消えていた。大田県政は基地返還のアクションプログラムという計画を独自に作成しており、その中でも嘉手納は2015年までに撤去したい旨を記していたが、基地としては最後まで残ることになっていた。そのため、政府は嘉手納への統合案を検討するに至る。

しかし、嘉手納統合案には技術的な問題点として、ヘリと固定翼機の共同運用の問題があった。一方、当時、橋本は総理大臣としては初めて自衛隊の制服組のトップを官邸に招いて定期的に話を聞く機会を設けており、当時の統合幕僚会議議長航空自衛隊の戦闘機パイロット出身である杉山蕃だった。橋本は共同運用の可能性について検討するように杉山に指示し、陸自のヘリパイロット、空自の戦闘機パイロット、飛行場管制官が集められ検討に入り、出した結論は「共同運用は可能」だった

アメリカ側の検討

しかし、アメリカ軍は下記の3点の理由から上記の日本側の結論に反対した。

  1. 低速のヘリと高速の戦闘機を管制官が同時に管制するのは負担が大きい
  2. 移設が実行されれば平時でもヘリ、戦闘機が各々60~70機ずつ訓練を行う飛行場となる。有事には増援などにより2~3倍の機体が集結すると考えられ、それを嘉手納一ヵ所で賄う事は不可能。
  3. 嘉手納は当時から騒音が問題視されており、P-3Cの駐機場を移転したり、防音壁を設置したりしていた。普天間の機体を収用すれば嘉手納、北谷両町にとっては更に劣悪な環境となる。

なお、アメリカ側の具体的検討の一部は後年日本でも報じられており、そこからも当時のアメリカ軍の考え方や背景を知ることが出来る。1996年7月、在日米軍作戦部(J3)は嘉手納統合案の研究に絡めて、普天間の固定翼機を含めた基地機能の移設を目標に据えた技術評価を実施している。作業は4軍から操縦士と技術者を集めて実施した。琉球新報は2009年になってこの技術評価を入手している。それによれば嘉手納統合に代わる移設候補地は下記のようになっていた。

  • 嘉手納弾薬庫地区(新設)
  • キャンプ・シュワブ(新設)
  • 伊江島への移転(既設)
  • 県外自衛隊基地への移転(既設)

現状の基地能力については次のように評価されている。

  • 普天間:平時71機。戦時最大230機。
  • 嘉手納:平時108~113機。戦時最大390機。

候補地に期待する許容飛行回数は、下記のようになっている。

  • 夜間飛行(18時~6時)回数:55%増
  • 全飛行回数:35%増

候補地の評価基準は下記の5項目となっていた。

  1. 滑走路:約1600m
  2. 駐機場:約28ha
  3. 格納庫・整備施設
  4. 事故、火災等の救難装備
  5. 民間機やほかの軍用機からの安全性確保

結果、県外の自衛隊基地が移設先として最高得点を得、キャンプシュワブや伊江島は戦闘機の発着が出来ないため評価にはマイナスに響いたと言う。嘉手納弾薬庫は滑走路長以外の条件を満たさなかった。なお、嘉手納統合案については海兵隊は移転可能との意見を出したが、嘉手納に駐留する空軍の第18航空団は否定的意見だった。

後年、滑走に距離を要する固定翼機部隊は岩国などへの移転が決まった。また、基地の位置については琉球新報は触れていないが、この後、それを有力な理由として、後述していくように県外移設は(軍事的評価としては)何度も否定的見解に晒されていくことになる。

キャンプ・ハンセン案

1996年5月27日に開催したSACOで日米は作業班の設置を決め、嘉手納統合案などと平行してキャンプ・ハンセンおよびキャンプ・シュワブに対する検討を実施することとした。

キャンプ・ハンセン移転案については下記の点が問題視されている。

  • 平坦な地形ではないため工事が難航する
  • 上記の点から経費面で問題
  • 森林伐採による赤土流出の可能性がある。
  • 現状でも夜間ヘリ訓練で騒音問題が発生している

地元の反発はこれらの候補地でも同様であり、朝日新聞によればキャンプ・ハンセンでは6月27日、キャンプ・シュワブでは7月8日以降集会や議会による決議などが相次いだ。

橋本首相による海上ヘリポート構想の表明

嘉手納案が消えた際、次に守屋達が考えたのが陸上から離れ、米軍の使用水域を活用したキャンプ・シュワブ沖の活用案であったと言う。

海上に移設する案は造船業界が1996年夏頃から根回しをはじめた。アメリカ側でも嘉手納案などが暗礁に乗り上げたためそのデッドロックを解くため解決策を模索し、ペリー国防長官キャンベル国防次官補代理、モンデール駐日大使等が集まった会合で最終確認され、軍部の了解を取り付けた、本案はこのような根回しを経て9月13日のSACO作業部会でアメリカ側から提案されたが、まだ水面下での動きであった。日経新聞は橋本が8月頃、自らQIP工法(下記別項で詳述)の採用を提案したと報じている。当初は秘書官室止まりの話に過ぎなかったが、少数の官邸スタッフで練った上でアメリカ側に非公式に打診した。アメリカ側は検討の上提案の形で日本側に回答したのだと言う。なお、防衛庁はこの時点で兵員輸送や住宅など陸上の付属施設の点で難題が多いと慎重姿勢だったと言う。

船橋洋一によれば根回しを行ったキャンベルが一週間もの時間を要したため、事前に提案を知らされていた橋本は「米側決定に時間がかかりすぎるのでイライラしていた」という。そのようになった背景として船橋は下記を挙げている。船橋は「軍がらみの問題はホワイトハウスには上げるなとの暗黙の圧力があった」と言う米政府高官の言葉も紹介している。

  • クリントン政権の軍嫌悪
  • 大統領選挙中に難題を抱えたくないというクリントン政権の思惑

事態が急展開したのは再び橋本の発言によってであった。橋本は9月17日、沖縄での講演にて海上ヘリポート構想について明らかにした。以降、この発想が世間一般でも広く知られるようになった。

なお、ヘリポートの位置であるが、これも当初からキャンプ・シュワブ沖と明言があったわけではない。しかし、新任の防衛庁長官であった久間章生は、1996年11月16日「現在地からそう遠くてもいけない。騒音問題もある。キャンプ・シュワブ沖合がかなり有力になるのではないか」と述べている。

1996年12月2日にはSACO最終報告が提出された。その中で「代替施設となる海上ヘリポートの機能としては1,300メートルの撤去可能な滑走路を備えることを挙げている。

SACO最終報告の3案

3案の技術的な内容の出典は主に『日経コンストラクション』「普天間基地の代替移設問題 日米政府が海上ヘリポートで合意 施工法は「浮体桟橋工法」か「メガフロート」か」(1997年2月14日)による。

SACO最終報告に先立ち、日本政府は1996年10月に関係省庁の専門家で構成するグループ、および学識経験者を中心とするグループ、TAG(Technical Advisory Group 技術支援グループ)を設置し、施工法について研究を行った。TAGの座長は横浜国立大学教授だった合田良実であり、初会合は10月18日防衛庁で開催されている。研究結果は最終報告に先立ち公表された。海上ヘリポートに求められた土木的な条件は次のようなものであり、これを民間団体や企業に提示して技術提案を募り、その内容を検討した。

  • 具体的な場所は想定しない(最終報告では沖縄本島東岸沖と曖昧にされた)
  • 滑走路の長さは1500m
  • 沖縄本島周辺の100年確率波浪などに対して安全性、耐久性を確保すること
  • 想定水深は5m、25mの2案。

なお、いずれの案も水深が問題となるが、これは基地をどの程度沖合いに展開するか(或いは出来るか)と関係する。陸上から離れるメリットは騒音被害を極限化できる点にあり、関西国際空港などの海上空港が建設された目的のひとつは公害問題への対策にあった。

下記のような検討を経て、最終報告では杭打ち桟橋、ポンツーン方式メガフロート、セミサブ方式メガフロートの3案が現実的に実現可能として併記された。

なお、最終報告に基づき、続いての建設計画の作成は日米合同のFIG(Futenma Implementation Group 普天間実施委員会)にゆだねられた。FIGはSSC(Security Subcommittee 日米安全保障高級事務レベル協議)の監督下にあり、日米合同委員会(日米地位協定25条での設置機関)と共に、1997年12月までに計画を作成するように求められている。

杭打ち桟橋工法(QIP工法)案

英称はQuick Installation Platformと言う。日本語ではこの当時、「浮体桟橋」と表現する記事が多かった。大手ゼネコンが参加する「沖縄海洋空間利用技術研究会」が研究していた。『日経ビジネス』によれば同研究会は元々は那覇軍港の海上移設を検討する目的で1994年に発足したものであった。海底に固定した鋼管杭により、滑走路や建築物の基礎となる上部工を支持する構造。Quickの名にあるように、急速施工を目指している。

施工はまず鋼板製のフローティングモジュールを工場等で製作し、次いで海上の設置場所まで曳航する。モジュールには予め支えにする鋼管杭の何割かを取り付けておき、設置場所でジャッキによりおろして海底に固定する。その後、今度は杭を更に伸ばしてモジュールを海面よりも上に持ち上げる。これらの作業が終わった後に残りの鋼管杭を取り付け、隣接するモジュールとの接続作業(当時は溶接を想定)を実施する。

本工法は当時既に実績が多く、アメリカラガーディア空港の拡張工事(19万平方メートル)で採用。基本計画の作成から設計に1年半、施工には3年程度と見積もられた。費用は100万平方メートル規模で2000億円(想定水深25m)。陸上とは連絡橋を用いて行き来する。

日経ビジネスによれば、海上ヘリポートで使用を想定したユニットの大きさは70m×30mでメガフロートに比較すると小さい。最初に打ち付ける杭が13本、ユニットに予め装着し、最初の段階のジャッキアップに使用し最後に固定する杭が8本、ユニット当り計21本を使用する。研究で目標とした要求に応えるにはユニットは400個以上が必要となる。ユニットの厚さは1.8mで、格納庫は中に置かず、全て上部に建設する。研究会副会長の大内仁は「設計技術、安全基準の評価が進み、実用化が最も進んだ工法」と自賛している。

当時指摘された建設面でのデメリットとしては杭が海底環境に与える影響があった。メガフロート派からもその点を突かれたが、研究会では杭は直径1~1.5mの鋼管であり、断面積は空港全体の0.7乃至1%程度であり、日経ビジネスでは「撤去時には振動を与えながら杭を抜くため、穴は砂で埋まってしまう」と説明している。

1996年10月には1995年に基本合意された那覇軍港の浦添移転計画に連動して、浦添沖での設置を検討していることが報じられた。防衛庁筋は「那覇空港を離着陸する民間機の本島西側の航空ルートに米軍空域は重ならない」「MOB(後述)に比べ安価」といったメリットを挙げていたが、アメリカ側は「攻撃に対する耐久度が脆い」と難色を示していた。その他、浦添沖にはアメリカ軍の訓練水域は無く、普天間返還の日米合意条件である「沖縄の他の米軍施設・区域にヘリポートを建設」から逸脱する内容でもあった。更に、浦添市が反対を明確にしているという事情もあった。結局、浦添沖でのQIP案は放棄され、SACO最終報告で沖縄本島東岸沖となる。

メガフロート(ポンツーン方式)案

日本でポンツーン方式を初めて提案したのは1990年に設立された造船、鉄鋼、建設など96社で構成する「マリンフロート推進機構」であった。1995年4月には運輸省などの支援を受けて造船、鉄鋼など17社からなる「メガフロート技術研究組合」が発足し、3ヵ年で本方式のメガフロートを実現するための研究に着手した矢先に、基地移設問題が出てきた。研究会はこの時既に神奈川県横須賀市沖に、長さ100m、幅20m、厚さ2mの鋼製の浮体ユニットを展開し実験を開始している。

海上ヘリポートとして提案した内容としては長さ1500、幅500m、厚さ15m。構造物の内部は居住区やヘリ格納庫などに使用する。設計には1年、施工には4年半かかると見積もられた。使用する鋼材は90万トン。1トン当たりの建設費は20万円であった。本方式の場合防波堤を併用するため強度はセミサブ式に比べて低いもので良い。防波堤は撤去可能な構造とするため内部に砂を充填したタイプとし、延長2000m程度とされている。防波堤の建設費は2000mの場合で水深1m当たり6000万~1億円。本案も連絡橋を用いる。日経ビジネスによれば、1ユニットのサイズは縦300m、横60m程度を想定し、これを40~50個程度接合してデッキとする。また、組合の追浜事務所長木下義隆が洋上でのユニット接合を「造船会社が得意とする厚板接合の応用」と説明したことを紹介している(なお、1997年7月に技術組合が実施していた横須賀沖での洋上接合実験は成功した)。

日経コンストラクションによれば、当時指摘されたデメリットは水深の深い場所では防波堤の建設が困難になっていくことである。また、日経ビジネスは鋼構造物は長期耐久性に配慮が必要であり、濡れた状態で空気に暴露されるため最も腐食が進行しやすいスプラッシュゾーン(飛沫帯。潮の満ち引きで海中に没したり、海面に出たりする部分)の防食対策として、チタンクラッド材を張る方法を開発していたことを紹介している。

また、日経ビジネスによればQIP派より指摘された問題点として、

  • 揺れの問題が大きく、居住性が損なわれる可能性がある
  • メガフロートでは防波堤設置による海底、潮流への影響が心配される。
  • 本体施設と海面に隙間がないので、下に日光が入りにくい。

などがあった。揺れの問題については米軍筋からも疑問が呈され、「いくら防波堤があるとは言え、台風が来れば海面は揺れるし、橋の通行が不能になれば軍事基地の用をなさない」と使用上の制約に難色を示している。

これに対しては次のような反論が紹介されている。

  • 防波堤があっても潮流が無くなるわけではなく、プランクトンは生息可能
  • は物陰に寄る習性があり、実験施設では沢山の魚が集まっている

動揺の問題について、メガフロート技術研究組合の支持母体、共同研究団体であるマリンフロート推進機構は2000年に出版した浮体構造物技術書の中で次のような内容を説明している。それによれば、横須賀沖で2段階のフェーズで実施したポンツーン式の実用実験では人が不快感として感知し、居住性を損なうような揺れは全く観測されず、動揺で研究が必要とされていたのは浮体の全長に匹敵するような超長周期波との共振や弾性変形による高周波微少振動などであったと言う。そして、「これらの研究・開発により、構造解析や挙動解析といった基本的な分野での研究はおおむね終了したものと考えられる。今後は浮体構造物の性能向上、例えば波浪動揺の減少や防波堤の簡易化など、コスト面で競争力のある浮体構造物の追求が検討の中心となる」と総括している。

メガフロート(セミサブ式)案

本方式は関西国際空港1期工事の工法を検討していた1970年代後半に提案されたことがあるが、当時コストと耐久性についての技術的課題が未解決であったため棄却された経緯がある(別節で詳述)。「メガフロート技術研究組合」は海上ヘリポート提案に当たって本案も提案した。長さ、幅はポンツーン方式と同じで厚さは12m。内部の利用法もポンツーン方式と同じである。メガフロートとしてはポンツーン方式より先に考案されたが、波浪を防波堤で遮断しないため構造物の強度が必要になる。メリットとしては水深の深い場所でも建設が可能なことである。

コスト面ではポンツーン、QIPより割高で、両工法に比較して2倍以上とされている。また、陸上との連絡方式は船舶となる。スプラッシュゾーンの面積がポンツーン型に比して大きくなり、腐食、メンテナンスリスクが増大する。しかも、チタンクラッド材は高価なことが欠点であった。このため、研究組合に参加していた住友重機械工業は大型のセミサブ式メガフロートの長期耐久性を向上するため、上部デッキから海面に達するスカートを設け、内部の閉鎖空間に窒素ガスを充填することを考案し、特許も取得した。

メガフロート全般に言えることとして、荒天時の波浪など外界の圧力により構造物が微妙に変形する際、繰り返し荷重を受けてクラッドが剥離に至る危険もあった。研究組合に参加していた新日鐵はこの問題の解決に努力し、2000年代に接着面に液体などを充填する旨の特許を出願している。

その他の提案

SACO中間報告などを前提に日本政府でヘリポート検討が進められるのと並行して、民間からも様々な提案が行われた。

重力着底型プラットフォーム案

英略称SBSP。大林組により1996年10月、防衛庁に提案された。水深100mまで対応可能。コンクリート製の重力式基礎を海底に設置し、海面上に鋼製脚を伸ばしてデッキを上に載せ連結する。当時既に海底油田での施工実績があった。建設費は長さ900m、幅90mのヘリポートを想定した場合約1500億円(『財界人』1997年7月号では2000億円)とされた。本案の陸上との連絡方式も船舶である。メリットとしては大規模な基礎工事が不要であり、波の影響を受けにくく、コストや環境の面でも有利であり、メガフロートよりも安価に出来ると説明された。工事期間は2年から2年半で、波に強い特性から防波堤は不要である。

本案は北海油田開発基地の建設実績を持つノルウェーアーケル・ノルウェージャパン・コンストラクターズ社(本社はオスロ)との技術提携を元に作成した。

移動海上基地(MOB)案

英称はMobile Offshore Base。この当時既にアメリカ軍が研究を始めていた。1996年9月に橋本が海上ヘリポート案を示した際一気に世間の注目を浴び、一時は有力候補と目され、当時の海兵隊司令官であったクルラックなど、関係者が期待を示している。

アメリカ軍は1960年代から70年代にかけて、国防高等研究計画局で「Mobile Ocean Basing System Project」と題してこの種の施設の研究を実施していた。

しかし、1990年代になって必要性が従来より強く認識された理由として、下記が挙げられている。

  • 1980年代後半頃から軍産官学各界で開発への機運が盛り上がった。
  • 湾岸戦争の際、海上兵站輸送に支障をきたした。
  • 湾岸戦争当時より「次の時には今回のようにトルコサウジアラビアの基地提供が得られる保証はない」と言われていた。一般論として、アメリカが軍事力を行使する際、その場所や近傍に基地を確保出来る保証はないことも指摘されている。

兵站上の理由が挙げ

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出典:wikipedia
2018/05/25 23:41

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