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景行天皇とは?

在位期間
景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日

【先代】
垂仁天皇
【次代】
成務天皇
【】

【誕生】
垂仁天皇17年
【崩御】
景行天皇60年 106歳
【陵所】
山辺道上陵
【別称】
大足彦忍代別天皇
大帯日子淤斯呂和氣天皇
大足日足天皇
大帯日子天皇
大帯日古天皇
大帯比古天皇
【父親】
垂仁天皇
【母親】
日葉酢媛命
【皇后】
播磨稲日大郎姫
八坂入媛命
【子女】
櫛角別王
大碓皇子
日本武尊
成務天皇
五百城入彦皇子
忍之別皇子
稚倭根子皇子
大酢別皇子
神櫛皇子
渟熨斗皇女
五百城入姫皇女
依姫皇女
五十狭城入彦皇子
吉備兄彦皇子
高城入姫皇女
弟姫皇女 他多数
【皇居】
纒向日代宮

景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日)は日本の第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日)。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。

目次

  • 1 略歴
  • 2 名
  • 3 事績
    • 3.1 美濃行幸
    • 3.2 九州巡幸
    • 3.3 日本武尊の活躍
  • 4 系譜
    • 4.1 系図
  • 5 后妃・皇子女
  • 6 年譜
  • 7 宮
  • 8 陵・霊廟
  • 9 伝承
    • 9.1 立太子
    • 9.2 踏石の誓約
    • 9.3 寒泉と不知火
    • 9.4 御木の巨木
    • 9.5 八女の女神
    • 9.6 的邑の杯
    • 9.7 磐鹿六鴈
  • 10 考証
    • 10.1 実在性
  • 11 関連項目
  • 12 脚注
  • 13 外部リンク

略歴

垂仁天皇の第三皇子、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。垂仁天皇37年1月1日に21歳で立太子

父帝が崩御した翌年に即位。即位2年、3月3日に播磨稲日大郎姫を皇后として大碓皇子小碓尊らを得た。即位4年、美濃国に行幸。八坂入媛命を妃として稚足彦尊(成務天皇)、五百城入彦皇子らを得た。即位12年、九州に親征して熊襲土蜘蛛を征伐。即位27年、熊襲が再叛すると小碓尊を遣わして川上梟帥を討たせた。即位40年、小碓尊改め日本武尊に蝦夷征討を命じて東国に派遣。3年後、日本武尊が帰国中に伊勢国能褒野で逝去。即位51年、8月4日に稚足彦尊を立太子。即位52年、5月4日の播磨稲日大郎姫の崩御に伴い7月7日に八坂入媛命を立后。即位53年から54年にかけて日本武尊の事績を確認するため東国巡幸。即位58年、近江国に行幸し高穴穂宮に滞在すること3年。即位60年、同地で崩御。

漢風諡号である「景行天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

事績

美濃行幸

父帝が崩御した翌年の7月に即位。即位2年に播磨稲日大郎姫を立后。子には大碓皇子小碓尊がいた。即位4年、美濃国に行幸。美人と名高い弟姫を妃にしようと泳宮(くくりのみや)に滞在した。しかし拒絶されたため、姉の八坂入媛命を妃とした。同じころ、美濃国造の姉妹が美人であると聞いて妃にしたいと思った。そこで大碓皇子を派遣したが、姉妹の美しさのあまり使命を忘れて密通し役目を果たさなかった。天皇はこれを恨んだと言う。

古事記』には、さらにこの続きが記載されている。天皇は帰ってこない大碓皇子を呼び戻すため、小碓尊を遣わしてよく教え諭すよう命じた。しかし数日しても何も変わりがないため小碓尊に聞くと既に教え諭したという。どのように諭したのか聞くとに入るのを待ち伏せして打ちのめし、手足を引き千切って投げ捨てたという。「教え諭す」という言葉を「思い知らせる」、つまり処刑だと勘違いしたのである。小碓尊、のちの倭建命(ヤマトタケル)は恐れられ疎まれ、危険な遠征任務に送り出されるようになった。なおこれはあくまで『古事記』での話であり、『日本書紀』では大碓皇子の惨殺はない。日本武命(ヤマトタケル)と天皇の仲も後述するよう良好である。

九州巡幸

即位12年、熊襲が背いたので征伐すべく8月に天皇自ら西下。9月、周防国の娑麼(さば、山口県防府市)に着くと神夏磯媛という女酋が投降してきた。神夏磯媛は鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折という賊に抵抗の意思があるので征伐するよう上奏した。そこでまず麻剥に赤い服や褌、様々な珍しいものを与え、他の三人も呼びよせたところをまとめて誅殺した。同月、筑紫(九州)に入り豊前国の長狹県に行宮(かりみや)を設けた。そこでここを京都郡(福岡県行橋市)と呼ぶ。

10月、豊後国の碩田(おおきた、大分県大分市)に進むと速津媛という女酋が現れた。速津媛によると天皇に従う意思がない土蜘蛛がいて青、白、打猨、八田という。そこで進軍をやめて來田見邑に留まり群臣と土蜘蛛を討つ計画を立てた。まず特に勇猛な兵士を選んで椿の木槌を与え、石室の青と白を稲葉の川上に追い立てて賊軍を壊滅させた。椿の槌をつくった所を海石榴市(つばきち)といい、血が大量に流れた所を血田という。続いて打猿を討とうとしたところ、禰疑山(ねぎやま)で散々に射かけられてしまった。一旦退却して川のほとりで占いをし、兵を整えると再び進軍。八田を禰疑野(ねぎの)で破った。これを見た打猿は勝つ見込みがないと思い降服したが、天皇は許さず誅殺した。

11月、熊襲国に入り行宮(かりみや)を設けた。これを高屋宮という(宮崎県西都市か)。12月、熊襲梟帥(くまそたける)を討つ計画を立てた。熊襲梟帥は強大で戦えばただでは済まないことがわかっていた。そこで熊襲梟帥の娘である市乾鹿文と市鹿文の姉妹に贈り物をして妃にし、熊襲の拠点を聞きだした上で奇襲することになった。姉妹は策に嵌まり、姉の市乾鹿文は特に寵愛された。あるとき市乾鹿文兵は1、2人連れて熊襲梟帥のところに戻った。そして父に酒を飲ませて泥酔させ兵に殺させた。そこまでは考えていなかった天皇は市乾鹿文の親不孝を咎めて誅殺し、妹は火国造に送り飛ばしてしまった。

翌年夏に熊襲平定は完了し、その地の美人の御刀媛を妃として豊国別皇子を得た。日向国造の祖である。高屋宮に留まること6年経った即位17年、子湯県の丹裳小野で朝日を見てこの国を「日向」と名付けた。そして野原の岩の上に立ち、都を思って思邦歌(くにしびのうた)を詠んだ。

即位18年、3月に都へ向け出立。夷守(宮崎県小林市)で諸縣君の泉媛の歓待を受けた。熊県(熊本県球磨郡)に進み、首長である熊津彦兄弟の兄を従わせ弟を誅殺した。葦北(同葦北郡)、火国(熊本県)、高来県(長崎県諫早市)を経て玉杵名邑(熊本県玉名市)で津頰という土蜘蛛を誅殺。さらに阿蘇国(熊本県阿蘇郡)、御木(福岡県大牟田市)、的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)へと至った。道中では地名由来説話が多く残されている。

即位19年、9月に還御。なお『古事記』に九州巡幸は一切記されていない。

日本武尊の活躍

詳細は「ヤマトタケル」を参照

即位27年8月、熊襲が再叛。10月に小碓尊に命じて熊襲を征討させる。小碓尊は首長の川上梟帥を謀殺して日本武尊の名を得る。翌年に復命。

即位40年8月、大碓皇子に東国の蝦夷を平定するよう命じる。先立つ即位25年7月から27年2月、武内宿禰北陸・東方諸国を視察させて豊かな土地があることがわかったからであった。しかし大碓皇子は危険な任務を拒否し美濃国に封じられた。結局、日本武尊が東征に向かうこととなり、途中の伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣を授かった。陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚。その後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。日本武尊はそのまま伊勢国に入るが能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御白鳥陵に葬られた。出発から三年後のことである。

天皇は日本武尊の死を深く嘆き悲しんだ。即位53年、日本武尊を追慕して東国巡幸に出る。まず伊勢に入り東海を巡って10月に上総国に到着、12月に東国から戻って伊勢に滞在、翌年9月に纒向宮に帰った。そのさらに翌年の即位55年、叔父である豊城命の子の彦狭島王を東山道十五国の都督とした。しかし任地に向かう途上の春日の穴咋村で亡くなってしまったため、翌年に改めて彦狹嶋王の子の御諸別王を派遣した。

即位58年に近江国に行幸。志賀高穴穂宮に滞在すること3年。即位60年11月、崩御。

系譜

系図

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 | 豊城入彦命 | 
 | [毛野氏族] | 

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 | 10 崇神天皇 | 
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 | 11 垂仁天皇 | 
 | 12 景行天皇 | 
 | 日本武尊 | 
 | 14 仲哀天皇 | 
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 | 倭姫命 | 
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 | 13 成務天皇 | 
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 | 彦坐王 | 
 | 丹波道主命 | 
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 | 山代之大
筒木真若王
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 | 迦邇米雷王 | 
 | 息長宿禰王 | 
 | 神功皇后
(仲哀皇后) | 
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 | 15 応神天皇 | 
 | 16 仁徳天皇 | 
 | 17 履中天皇 | 
 | 市辺押磐皇子 | 
 | 飯豊青皇女 | 
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 | 18 反正天皇 | 
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 | 24 仁賢天皇 | 
 | 手白香皇女
(継体皇后) | 

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 | 菟道稚郎子皇子 | 
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 | 23 顕宗天皇 | 
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 | 25 武烈天皇 | 

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 | 19 允恭天皇 | 
 | 木梨軽皇子
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 | 20 安康天皇

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 | 21 雄略天皇 | 
 | 22 清寧天皇 | 

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 | 春日大娘皇女
(仁賢皇后) | 


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 | 稚野毛
二派皇子
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 | 意富富杼王 | 
 | 乎非王 | 
 | 彦主人王 | 
 | 26 継体天皇 | 
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 | 忍坂大中姫
(允恭皇后) | 



后妃・皇子女

『古事記』によれば記録に残っている御子が21人、残らなかった御子が59人、合計80人の御子がいたことになっている。

年譜

※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)。伝承地は現在の奈良県桜井市穴師。

また晩年の景行天皇58年には、近江国に行幸して、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太か)に滞在したと見える。

陵・霊廟

景行天皇 山邊道上陵
(奈良県天理市)

(みささぎ)は、宮内庁により奈良県天理市渋谷町にある山邊道上陵(山辺道上陵:やまのべのみちのえのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「渋谷向山古墳」で、墳丘長300メートルの前方後円墳である。

『古事記』には「御陵は山邊の道上にあり」とある。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

伝承

※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。

立太子

父帝の垂仁天皇五十瓊敷命大足彦尊(後の景行天皇)の兄弟に欲しいものを言うよう尋ねた。兄の五十瓊敷命は弓矢を求めた。弟の大足彦尊はなんと皇位を求めた。その通りに兄は弓矢を与えられ、弟は太子に立てられた。

踏石の誓約

豊後国の土蜘蛛に苦戦していたときのことである。長さ六尺、幅三尺、厚さ一尺五寸の石を見かけたので、これで誓約(うけい)をすることにした。志我神、直入物部神、直入中臣神の三神に祈り「土蜘蛛を討ち果たせるのであれば、この石は柏の葉のように飛ぶだろう」と蹴とばした。果たして石は空高く舞い上がり、土蜘蛛を無事征伐することができた。この石を踏石という。

寒泉と不知火

筑紫巡狩のときのことである。葦北(熊本県水俣市)の小島に渡って食事をすることになり、小左(おひだり)という者に冷たい水を持ってくるよう命じた。しかし島に水はない。切羽詰まった小左が天神地祇に祈ると崖から寒泉(しみず)が湧き出してきた。そこでこの島を水嶋という。半月ほど経って葦北から船出し、日が暮れたところで岸がどこにあるかわからなくなった。遠くに火が見えたので、それを目印に船を進めることにした。無事に岸に着き、そこが八代県の豊村だとわかった。しかし火については何もわからなかった(不知火)。人が起こした火ではないのだろうということで、その国を火国と名付けた。

御木の巨木

筑紫巡狩のときのことである。筑紫後国に至り高田行宮(たかたのかりのみや)に留まっていたところ巨大な倒木をみかけた。長さは九百七十丈(1.75km)もある。これは何かと訪ねると老人が答えた。この木は歷木(くぬぎ)であり、倒れていないころは朝日の影が西の杵島山を隠し、夕日の影が東の阿蘇山を隠したという。とても神聖な木であろうということで、この土地を御木(福岡県大牟田市)と名付けた。

八女の女神

筑紫巡狩のときのことである。八女県(福岡県八女市)で山々が重なっている様子が麗しいと褒めたたえ、もしかすると神がいるのではないかと宣った。すると水沼県主の猿大海(さるおおみ)が進み出て「八女津媛(やめつひめ)という女神が常に山の中にいます」と答えた。八女という地名はこの神に由来するという。

的邑の杯

筑紫巡狩のときのことである。ある場所で食事をした際、膳夫(料理人)が盞(うき、杯)を忘れてしまった。そこでこの盞(うき)を忘れた場所を浮羽(うきは)といい、訛って的邑(いくはのむら)という。後に生葉郡(いくはぐん)と改められた。明治29年に浮羽郡(うきはぐん)となり、2005年以降は市町村合併により、うきは市となっている

磐鹿六鴈

日本武尊を忍ぶ東国巡幸のときのことである。上総国から淡水門を渡るときにミサゴの声が聞こえたので、天皇はその姿を見ようと海の中に入った。そして白蛤(うむぎ)を得た。磐鹿六鴈(いわかむつかり)という者がすかさず、その白蛤を膾にして蒲の葉に乗せて献上した。天皇はこれを誉めて膳大伴部(かしわでのおおともべ)、つまり御食を供する機関を与えた。磐鹿六鴈は今でも「料理の祖神」として高家神社(千葉県南房総市)や高椅神社(栃木県小山市)などで祭られている。『高橋氏文』逸文にはさらに詳しい話が残る。

考証

実在性

「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が出されている。

関連項目

脚注

  1. ^ 『古事記』によれば、倭建命が死の直前に大和を懐かしんで詠んだ歌とされる。
  2. ^ 景行天皇60年条に依る。垂仁天皇37年の立太子年から計算した崩年は143歳

外部リンク

天皇一覧
伝承の時代

古墳時代

飛鳥時代 | 
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