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木曽川とは?

【木曽川】

木曽川(奥)・長良川揖斐川(手前)河口空撮

【水系】
一級水系 木曽川
【種別】
一級河川
【延長】
229 km
【平均の流量】
169 m³/s
(犬山観測所(1951年 - 2002年))
【流域面積】
5,275 km²
【水源】
鉢盛山(長野県)
【水源の標高】
2,446 m
【河口・合流先】
伊勢湾(三重県)
【流域】
日本
長野県岐阜県愛知県三重県

木曽川(きそがわ)は、長野県から岐阜県愛知県三重県を経て伊勢湾に注ぐ木曽川水系の本流で一級河川、いわゆる木曽三川の一つ。源流部では、「味噌川」(みそがわ)とも呼ばれる。

目次

  • 1 地理
    • 1.1 本流
    • 1.2 木曽川水系
  • 2 流域の自治体(木曽川本流)
  • 3 歴史
    • 3.1 河川の名称
    • 3.2 前史
    • 3.3 広野川事件
    • 3.4 治水と先人達の苦闘
    • 3.5 軍事の要衝としての歴史
    • 3.6 国境線の変更
    • 3.7 御囲堤
    • 3.8 宝暦治水
    • 3.9 木曽三川分流工事
  • 4 近代河川工事
    • 4.1 ダム建設と電源開発
    • 4.2 木曽川水系の総合開発
      • 4.2.1 電源開発
      • 4.2.2 木曽特定地域総合開発計画
      • 4.2.3 木曽川水系水資源開発基本計画
    • 4.3 全国を巻き込んだ論争 - 長良川河口堰・徳山ダム -
  • 5 主な支流
  • 6 主な河川施設
    • 6.1 施設一覧
    • 6.2 用水路一覧
  • 7 脚注
  • 8 関連項目
  • 9 参考文献
  • 10 外部リンク

地理

笠松町から一宮市方面を望む。
犬山橋から望む犬山城。ここから木曽川は濃尾平野に向かって流れる。左岸は愛知県犬山市、右岸は岐阜県各務原市
2005年2月まで岐阜県長野県の「県境」だった河原。手前が旧・長野県木曽郡山口村、現・岐阜県中津川市
南木曽町内を流れる木曽川に桃介橋が架かる。

本流

長野県木曽郡木祖村鉢盛山 (2,446 m) 南方を水源とし、南西に流れている。鳥居峠西側を南に向かって流れ御嶽山から流れ来る王滝川を合わせた後、木曽の桟寝覚の床などの渓谷を形成しながら岐阜県中津川市に入り流れを西に変える。

中津川市より可児市までの間は恵那峡深沢峡蘇水峡といった峡谷を形成し、濃尾平野東部に出て美濃加茂市と可児市の境界で飛騨川合流する。飛騨川合流後の可児市から愛知県犬山市犬山城付近まで再度渓谷を形成し、これらを総称して「日本ライン」と呼び中流域が1985年(昭和60年)に環境庁(現・環境省)の「名水百選」に選定された。

各務原市愛知県犬山市の境界付近から再度濃尾平野に出、各務原市川島地区で一旦3つの流れに分流し(三派川地区)、国道22号新木曽川橋付近で再度合流する。下流域ではかつて揖斐川長良川と合流・分流を繰り返し輪中が発達していたが、江戸時代以降何度となく改修工事が繰り返され、現在では分離されている。三重県桑名市長島町と木曽岬町との境で伊勢湾に注ぐ。延長 229 km は、最上川と並び全国7位の長さ。揖斐川、長良川流域を除く流域面積は 5,275 km

木曽川水系

揖斐川及び長良川は、河川法上では木曽川水系に包括されている。木曽川水系全体の流域面積は 9,100 km 。全国5位の広さで、長野、岐阜、愛知、三重、滋賀の5県にまたがっている。なお、揖斐川と長良川は河口直前で合流するが、木曽川とは別に伊勢湾に注いでいる。

流域の自治体(木曽川本流)

長野県
木曽郡木祖村木曽町上松町大桑村南木曽町
岐阜県
中津川市恵那市瑞浪市加茂郡八百津町可児郡御嵩町可児市美濃加茂市、加茂郡坂祝町各務原市羽島郡笠松町岐南町羽島市海津市
愛知県
犬山市丹羽郡扶桑町江南市一宮市稲沢市愛西市弥富市
三重県
桑名市桑名郡木曽岬町

歴史

河川の名称

吉蘇川岐蘇川などの異字の他、場所により、広野川鵜沼川境川墨俣川美濃川尾張川などとも呼ばれた。

前史

養老山地多度山から望む下流域の木曽三川(手前から揖斐川長良川木曽川)。中央に木曽三川公園センター。その南側の長良川と揖斐川との堰堤は油島千本松締切堤(海津市)

木曽川を含む木曽三川は、木曽山脈の隆起と伊勢湾の沈降などに見られる、濃尾平野下部の基盤が西へ向かうほど沈降している、濃尾傾動運動という造盆地運動により形成されてきた。この運動により、沈降の上部に木曽三川が運搬した土砂が堆積することで濃尾平野を形成してきた。1万数千年前までの最終氷期には海面が現在より 百数十 m 低く、木曽三川の河口は伊勢湾口付近にあったが、約1万年前になると急激な温暖化により海面が急上昇した。縄文海進期には、海岸線が西は養老山地山麓まで、北は大垣市岐阜市付近まで進入した。木曽三川が流し込む大量の土砂は河口に細長い三角州を形成し、徐々に海岸線を南進させていった。同時に、木曽三川の流路は、濃尾傾動運動の影響を受けて養老山地側へと偏っていった。こうして平野奥部まで標高がほとんど変わらず、かつ、3つの大河川の流路が狭い地域に集中するという、極めて水害の発生させやすい地理条件が成立した。

広野川事件

神護景雲3年(769年)の洪水により本流が笠松の南を流れるようになると、川の掘開により本流を元に戻す施工が行われるようになる。しかし土砂の堆積と流量の変化は続き、施工が美濃国側と尾張国側の洪水被害の量にも関わるようになり、貞観8年(866年)には、前年に太政大臣藤原良房に派遣され施工した尾張国の郡司とその役夫を、美濃国の各務郡郡司の各務吉雄と厚見郡郡司の各務吉宗が、襲撃するという「広野川事件(各務原合戦)」が起きた。

治水と先人達の苦闘

平安時代には既に水屋が建設されており、後に輪中が形成されて行き住民は洪水に対抗していった。地元に残る言葉に「四刻八刻十二刻」がある。これは大雨が降った際の木曽三川の洪水到達予測時間の事であり、揖斐川は四刻(8時間)、長良川は八刻(16時間)、木曽川は十二刻(24時間)で洪水が到達することを意味している。いかに流域住民が水害に対して敏感であったかが良く分かる。一方で網の目状に流れる木曽三川を利用しての水運は、金華山や大垣の他、烏江湊から陸路を経由しての琵琶湖水運、桑名津からの海運などで大坂などにも繋がっていた。

軍事の要衝としての歴史

木曽川は鎌倉時代以降、その豊富な水量と広大な川幅が軍事拠点として利用された。1221年承久の乱では後鳥羽上皇率いる朝廷軍が鎌倉幕府軍を木曽川で迎撃。下る戦国時代には豊臣秀吉美濃・墨俣(現・岐阜県大垣市)に一夜城を築き織田信長の美濃攻略を容易にした。信長は木曽川・長良川河口に浮かぶ長島に拠る一向一揆に大いに苦しめられた。関ヶ原の戦いの前哨戦にあたる河田木曽川渡河の戦いでは、岐阜城主であった西軍の織田秀信の激しい抵抗を、池田輝政や山内一豊などが兵士数の差を活かして打ち破った。

国境線の変更

通説では戦国時代末期(安土桃山時代)の1585年6月、それまで現在の境川の場所を流れ、墨俣で長良川と合流していた木曽川は、大洪水を起こして南方へ流路を移動したとされる。豊臣秀吉尾張美濃の国境を変更し、従来尾張の葉栗郡中島郡海西郡等の一部だった25ヶ村を美濃に編入した(美濃の羽栗郡中島郡海西郡、近代に合併して羽島郡海津郡)のも、この大洪水による流路移動がきっかけだとされている。

しかし、1585年の大洪水については、200年以上のちの地誌などに記載があるだけで、同時代の資料がまったく残っていない一方、すでにそれ以前の本能寺の変後(1582年)の段階で、尾張国主織田信雄と美濃国主織田信孝とが、古来の木曽川(境川)上に置かれていた濃尾国境を領地の境とする国切か、それとも「大川」を境に分割する大川切かで対立している。「木曽八流」と呼ばれたように、そもそも木曽川はいくつもの派川に分かれ、西尾張の平野を複雑に離合しながら流れ下っていたが、そのほかいくつかの文献資料からも、室町時代中頃には現在の木曽川の位置にすでに大きな分流(をよひ川=及川と呼ばれていた)が存在しており、1582年時点では元々の木曽川本流にも規模で勝り、従来の国境よりも領土分割線として相応しいと主張しうるまでなっていたと考えられる。

御囲堤

江戸幕府を開いた徳川家康は、江戸防衛の最前線として重要な尾張に実子の松平忠吉、次いで同じく徳川義直を置き、名古屋城を築城した。そして名古屋防衛のため、木曽川が濃尾平野に出る犬山付近から河口部の弥富までの左岸 48 km に御囲堤(おかこいつつみ)を引堤した(1608年完成)。

秀吉時代の国境変更とこの御囲堤とによって、濃尾平野部の木曽川はおおむね現在の位置(元の及川)に確定された。軍事施設としての観点から御囲堤の対岸の堤は三尺低くされ、美濃側はさらに水害の被害を受けることとなった。その一方、木曽八流による洪水常襲地帯であった尾張側は、その流量が制御されたことで水害の減少と生産性の向上を見た。

このころの伝承として、ヤロカ水という妖怪が木曽川・長良川・揖斐川に出没するという話がある。これは柳田國男の「妖怪談義」に記されているものだが、川から「ヤロカヤロカ」という声が聞こえ、これに「ヨコサバヨコセ」と応えると洪水に呑まれるというものである。実際に1650年(慶安3年)大垣藩領内で3,000人もの死者を出し、木曽三川が海のようになったと言われている濃尾大洪水では、尾張国丹羽郡上般若村(現在の愛知県江南市付近)の村民が「ヤロカヤロカ」との声に「ヨコサバヨコセ」と応えて村は洪水で全滅したと伝えられている。実際は暴風雨の音が「ヤロカヤロカ」に聞こえるのではないかと考えられているが、それだけ流域の住民は洪水に対して敏感であったことが窺える。

宝暦治水

詳細は「宝暦治水事件」を参照
宝暦治水碑。平田靱負薩摩藩士の遺徳を称えている。

1753年(宝暦3年)12月、幕府は薩摩藩主・島津重年に対し尾張藩領内の木曽三川分流工事を命令した。外様雄藩の経済力を削ぐ為の施策「御手伝い普請」である。薩摩藩は平田靱負を総奉行として翌1754年(宝暦4年)から1年を掛け、長良川と揖斐川の分流工事を行った。いわゆる宝暦治水事件である。工事に駆り出された薩摩藩士の苦難は並大抵のものでは無く、幕府の厳しい監視下で多くの藩士が切腹したり病死した。かくして不完全とは言え、長良川・揖斐川の分流・締切工事は完成した。現在に残る油島千本松原締切堤である。だが、平田は薩摩藩に多大な負債と多くの藩士を死なせた責めを一身に負い、完成後自刃して果てた。なお、この一件は後に薩摩藩を倒幕に走らせる遠因ともなった。

施策後の洪水の頻度は結果的には増加しているが、彼は昭和13年(1938年)治水神社にまつられ、地元住民は今でも平田を始めとする薩摩藩士の遺徳を慕っている。

木曽三川分流工事

ヨハニス・デ・レーケ像(船頭平河川公園)

明治時代に入ると、内務省はヨーロッパより多くのお雇い技術者を招き入れ、全国各地の治水事業に着手した。 木曽川においては課題の分流工事を本格的に推進するべくヨハニス・デ・レーケを迎え、1888年(明治20年)より「木曽・長良・揖斐三大河水利分流計画」に着手した。川床は木曽川、長良川、揖斐川の順に高く、木曽川河口部の掘り下げと三川の分離により、洪水被害は大幅に減少した。

船頭平閘門は、新木曽川と新長良川を繋ぐ水運のために設けられたものである。

近代河川工事

ダム建設と電源開発

大井ダム関西電力大井発電所(木曽川)。土木学会選奨土木遺産に認定されている。

大正時代に入ると木曽川水系は豊富な水量と急流が水力発電の好適地として注目された。

木曽川には福澤桃介率いる大同電力が日本初のダム式発電所である大井ダム1924年(大正13年)に建設したことに始まり、落合ダム兼山ダム今渡ダム等を木曽川・王滝川に建設した。

特に、大井ダムと三浦ダム(王滝川)建設工事は日本の土木史に輝く土木工事とされている。一方飛騨川松永安左エ門率いる東邦電力によって水力発電所が建設され、上麻生ダム川辺ダム等が建設された。だが、これらは後に国家の電力統制の流れには勝てず、日本発送電株式会社に統合されていく。

木曽川水系の総合開発

戦後の木曽川水系の河川開発は、他の大河川と同様にまず水力発電の開発に始まり、やや遅れて治水かんがいに焦点を当てた河川開発が起こってそれらが結合した河川総合開発事業になり、人口の増加が顕著になるに従い上水道需要の確保を目指した水資源開発へと移行した。さらに1970年代以降は電力需要の増大に対応するため揚水発電を主軸とした新規電源開発が行われていった。以下はこれらの流れについてそれぞれ説明する。

電源開発

朝日ダム(飛騨川)
戦後の木曽川電源開発の口火を切った。
高根第一ダム(飛騨川)
木曽川水系における大規模揚水発電の第一号。
上大須ダム(根尾東谷川)
木曽川水系最大の水力発電所・奥美濃発電所の下部調整池。
戦後の飛騨川電力開発の詳細については飛騨川流域一貫開発計画を参照

戦前活発に行われた水力発電事業は太平洋戦争において一時中断を余儀無くされたが、空襲に伴う電力設備破壊などで電力供給が著しく減衰したため停電が頻発。これを解消しかつ早期の経済復興を行うために政府によって電源開発が積極的に推進され、木曽川水系でも早いうちから再開された。

日本発送電は急流で包蔵水力が大きく、開発の手が及んでいない飛騨川最上流域に特に着目した。1946年(昭和21年)ダム式水力発電所の建設計画を検討し、その第一弾として飛騨川上流部の大野郡朝日村地点と支流の秋神川に着目した。ここに比較的規模の大きいコンクリートダムを建設して水力発電を行い、名古屋方面に電力を供給するという計画であった。また、木曽川上流部の王滝川についても三浦ダム完成後さらなる水力発電計画を進め、木曽川本流では戦争で中断した加茂郡八百津町可児郡御嵩町境の蘇水峡地点でのダム計画を再開した。

ところが日本発送電は戦争に協力した独占資本であると連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、過度経済力集中排除法の対象とされ、解体の方針が決定された。そして1951年(昭和26年)に電気事業再編成令によって全国で9つの電力会社に分割・民営化されてしまった経緯がある。木曽川水系については、本流と長野県内支流の発電施設と発電用水利権福澤桃介が設立した大同電力が保有していたため、その流れをくむ関西電力が継承。飛騨川・長良川揖斐川については中部電力が発電施設と水利権を継承した。このため同じ水系でありながら、二つの電力会社が全く違う地域(木曽川・王滝川の電力は近畿地方、飛騨川・長良川・揖斐川の電力は名古屋)に送電するために電源開発を行うという奇妙な構図となった。これは発電用水利権の所有者は「最初に開発を行った事業者の流れをくむ法人が継承し開発を独占的に行う権利がある」とした一河川一社主義という概念が根底にあるためである。

中部電力は飛騨川の発電用水利権を受け継ぎ飛騨川・秋神川の水力発電事業を手掛け、1953年(昭和27年)に朝日ダム(飛騨川)と秋神ダム(秋神川)を完成させた。この両ダムは木曽川水系において三浦ダムに次ぐ高さ 80 m 台のハイダムであった。関西電力は王滝川中流部の王滝村二子持地点に三浦ダムに匹敵する規模のダムを計画、さらに中流部の八百津町に日本初の 100 m 級ダムである丸山ダムの建設に着手した。だが経済安定本部による木曽川水系の治水計画が発表されるとこれらのダム計画は治水計画に組み込まれ、両電力会社は電気事業者として参加することになり事業主体からは離れることになった(詳細は後述)。

その後電力需要が高度経済成長や人口の増加で急激に増加すると、電力会社による新規電源開発はより出力の大きい火力発電原子力発電へと移行する(火主水従)が、需要のピークが高まる夏季などに電力を安定的に供給するため火力発電や原子力発電との連携が可能な揚水発電が水力発電では注目され、木曽川水系でも揚水発電所が計画・建設されることになった。木曽川水系においての揚水発電の嚆矢(こうし)は1963年(昭和38年)に関西電力が建設した三尾発電所(出力 35,500 kW)であるが、より大規模な揚水発電所が計画されて行く。中部電力は飛騨川流域一貫開発計画1962年(昭和37年)に策定し揚水発電を主軸とした大規模な水力発電事業を計画する。

その第一弾として建設されたのが1969年(昭和44年)に完成した高根第一発電所である。これは飛騨川最上流部の大野郡高根村(現在の高山市)に高根第一ダム高根第二ダムを建設し、出力 34万 kW の電力を名古屋市中京工業地帯に供給するというものである。その後1976年(昭和51年)には益田郡金山町(現在の下呂市)の馬瀬川に馬瀬川第一発電所(出力 28万8,000 kW)が建設され、飛騨川は一大電源地帯へと変貌した。その後は比較的開発の行われていない長良川・揖斐川に目が付けられ、木曽川水系では初となる出力 100万 kW 級の揚水発電所・奥美濃発電所が計画された。これは長良川支流板取川の小支流・西ヶ洞谷川上流に川浦(かおれ)ダムを、揖斐川支流根尾川の小支流・根尾東谷川に上大須ダムを建設し、出力 150万 kW の電力を生み出すというものである。奥美濃発電所は1995年(平成7年)に完成し、現在木曽川水系における最大規模の水力発電所として稼働している。

また既存の一般水力発電所の再開発も同時に行われ、新上麻生発電所新丸山発電所をはじめ、出力 5万 - 6万 kW 台の発電能力が増強された。これもピーク時の電力需要に対応するための開発である。現在は徳山ダムの発電事業として中部電力が出力 15万5,000 kW の徳山発電所を建設している。なお、上麻生発電所の取水ダムである上麻生ダム1968年(昭和43年)8月18日に発生した飛騨川バス転落事故において救助活動援助のため、ダム決壊の危険性から普段は絶対行われない洪水時の水門閉鎖を時間限定で行ったというエピソードが残されている。

木曽特定地域総合開発計画

丸山ダム(木曽川)。木曽特定地域総合開発計画における治水事業の根幹である。

木曽川は宝暦治水や木曽・長良・揖斐三大河水利分流計画によって長良川・揖斐川と完全に切り離され、以前に比して水害による被害は減少した。とはいえそれでも洪水による被害は後を絶たず、1938年(昭和13年)7月5日梅雨前線豪雨で木曽川は過去最大の洪水量を記録した。その洪水量は愛知県犬山市地点において毎秒 13,200 t という過去に例を見ないものであった。

戦後カスリーン台風アイオン台風を始め毎年の様に台風や豪雨が襲来、これに戦中の河川改修不備や山間部の乱伐による保水力低下もあいまって全国各地の河川は大小問わず大洪水をもたらし、その被害額は留まるところを知らなかった。こうした風水害が戦後疲弊した日本経済に更なる打撃をもたらすことを懸念した経済安定本部は、利根川淀川北上川を始め全国10の主要大河川に対して堤防整備に加えてダムによる洪水調節を図る治水方針を立案した。そして1949年(昭和24年)には諮問機関である治水調査会の答申を得て「河川改訂改修計画」を発表。上記の目的に沿った河川改修を計画した。

木曽川についても対象となり、同年木曽川水系流域計画が発表された。この計画では1938年の洪水を基準としてダム堤防改修による洪水調節を行うこととし、木曽川本流と飛騨川・長良川・揖斐川流域に多数の治水ダム建設を計画した。当初は既に建設されていた大井ダム兼山ダムなどの発電専用ダムを転用する計画であったが、何れも洪水調節目的を達成するだけのポテンシャルが無いため既設のダム再開発は断念し、日本発送電が施工を進めていた木曽川中流の丸山ダムを水力発電専用から洪水調節目的を加えた多目的ダムとすることで木曽川中流・下流の治水を図ろうとした。経済安定本部は岐阜県知事を通じて日本発送電に事業主体を建設省にする変更を命じた。これにより丸山ダムは木曽川水系流域計画における治水の要として活用されることになる。

さらに1951年(昭和26年)、第3次吉田内閣は国土復興のために河川を有効に開発して治水のみならず農地開墾のためのかんがい工業地帯への送電のための電力開発を強力に進めるために今まで別個の事業者が実施していた河川開発を一元化する河川総合開発事業を大規模に遂行し、経済成長を軌道に乗せることを目的に国土総合開発法を成立させ特定地域総合開発計画を発表した。これにより全国22地域がその対象となったが、木曽川水系についても愛知県・岐阜県長野県の三県にまたがり、建設省(現在の国土交通省)・農林省(現在の農林水産省)・通商産業省(現在の経済産業省)・中部電力・関西電力の五者により治水・かんがい・水力発電の多目的河川開発計画が進められた。その根幹事業として木曽川本流と飛騨川・長良川・揖斐川流域に15基の多目的ダムを建設する計画が立てられたのである。これが木曽特定地域総合開発計画である(愛知用水事業については後述)。

木曽特定地域総合開発計画におけるダム計画
一次
支川
(本川) 二次
支川 三次
支川 ダム名 堤高
(m) 総貯水
容量
(千m) 型式 目的 沿革
木曽川 |  |  | 薮原ダム | 50.0 | 9,000 | 重力式 | F・P | 信濃川水系奈良井川奈良井ダムとの間で導水する計画。一旦立ち消えとなり後に味噌川ダムとして再度計画され、1993年に完成。
木曽川 |  |  | 丸山ダム | 98.0 | 59,350 | 重力式 | F・P | 関西電力による発電専用ダムから多目的ダムに目的拡大。1955年完成。
木曽川 |  |  | 犬山ダム | 35.0 | 35,150 | 重力式 | F・P | 立ち消えとなり、その後農林省東海農政局により宮田用水などの取水口である犬山頭首工として建設される。
王滝川 |  |  | 二子持ダム | 75.0 | 68,500 | 重力式 | F・N・A・P | 愛知用水事業の水源として計画変更され、治水機能を持たない多目的ダム牧尾ダムとして1961年完成。
飛騨川 |  |  | 朝日ダム | 92.0 | 34,400 | 重力式 | F・N・A・P | 中部電力の発電専用ダムに治水とかんがい目的を付加する予定であったが、最終的には発電単独で建設され1953年完成。
飛騨川 |  |  | 久田見ダム | 60.0 | 76,000 | 重力式 | F・P | 飛水峡に建設され、水没する ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2019/06/16 15:04

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