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本田圭佑とは?

本田 圭佑

日本代表での本田(2018年)

【名前】

【カタカナ】
ホンダ ケイスケ
【ラテン文字】
HONDA Keisuke
【基本情報】

【国籍】
日本
【生年月日】
(1986-06-13) 1986年6月13日(32歳)
【出身地】
大阪府摂津市
【身長】
182cm
【体重】
74kg
【選手情報】

【在籍チーム】
メルボルン・ビクトリーFC
【ポジション】
FW / MF
【背番号】
4
【利き足】
左足
【ユース】

1994-1998
摂津FC
1999-2001
ガンバ大阪ジュニアユース
2002-2004
星稜高校
【クラブ】


クラブ | 出場 | (得点)
2005-2007
名古屋グランパス |  90  | (11)
2008-2009
VVVフェンロ |  68  | (24)
2010-2013
CSKAモスクワ |  94  | (20)
2014-2017
ACミラン |  81  | (9)
2017-2018
CFパチューカ |  29  | (10)
2018-
メルボルン・ビクトリー |   | 
【代表歴】

2002
日本 U-17 | 1  | (0)
2005
日本 U-20 | 1  | (0)
2006-2008
日本 U-21/22/23 | 18  | (5)
2008-
日本 | 98  | (37)
【監督歴】

2018-
カンボジア代表
1. 国内リーグ戦に限る。2018年8月6日現在。
2. 2018年7月3日現在。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj

本田 圭佑(ほんだ けいすけ、1986年6月13日 - )は、大阪府摂津市出身のプロサッカー選手。サッカー指導者(サッカーカンボジア代表監督)。Aリーグメルボルン・ビクトリーFC所属。ポジションフォワードミッドフィールダー日本代表カンボジア代表GM。日本人アスリート初のMIT特別研究員、就任期間2年。マネジメントは実父が代表を務めるHONDA ESTILOと契約。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 名古屋グランパス時代
    • 1.3 VVVフェンロー時代
    • 1.4 CSKAモスクワ時代
    • 1.5 ACミラン時代
    • 1.6 CFパチューカ時代
    • 1.7 メルボルン・ビクトリー時代
    • 1.8 日本代表
  • 2 指導者として
    • 2.1 カンボジア代表監督
  • 3 プレースタイル
    • 3.1 評価
  • 4 人物
  • 5 エピソード
  • 6 経営者として
    • 6.1 サッカースクール
    • 6.2 ホルン
    • 6.3 アンコール
    • 6.4 ウガンダ
  • 7 所属クラブ
  • 8 個人成績
  • 9 代表歴
    • 9.1 出場大会
    • 9.2 試合数
    • 9.3 ゴール
    • 9.4 年表
  • 10 指導経歴
  • 11 タイトル
    • 11.1 クラブ
    • 11.2 代表
    • 11.3 個人
  • 12 出演
  • 13 脚注
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

経歴

プロ入り前

大阪府摂津市出身。両親は本田が小学2年生の春に離婚、自身は父のほうについたが父は仕事で忙しかったこともあり、祖父母に育てられていた。。幼少時は鳥飼さつき園に通っていた。摂津市立鳥飼北小学校2年時から地元の摂津FCに入団しサッカーを始めた。摂津市立第四中学校に入学。あだ名はゴリ。その後、ガンバ大阪ジュニアユースに所属し家長昭博安田理大東口順昭らとともにプレーしたが、当時はスタミナやスピードに難があり、ユースチームへの昇格内定が出なかったため、石川県星稜高校へ進学した。1年時に高円宮杯全日本ユース選手権で準優勝し、3年時にはキャプテンとして第83回全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、石川県勢として初のベスト4に貢献した。高校では、豊田陽平橋本晃司とともにプレーした。2004年には特別指定選手として名古屋グランパスの練習に参加し、7月24日に行われたナビスコカップジュビロ磐田戦で公式戦初出場を果たした。背番号は「39番」。同時期に横浜F・マリノスの練習にも参加したが獲得は見送られた。

名古屋グランパス時代

高校卒業に際して複数のJリーグクラブからオファーを受け 名古屋グランパスとプロ契約を結んだ。背番号は「24番」。本人の希望により加入時の契約に「オファーがあれば海外クラブへの移籍を認める」という条項が盛り込まれていた。2005年3月5日、ジェフユナイテッド千葉戦でクラブ史上4人目となる高卒ルーキーの開幕スタメンでプロデビューしアシストを決めた。4月28日、第8節東京ヴェルディ戦でプロ初ゴールを決めた。翌年のプロ2年目からレギュラーに定着した。

VVVフェンロー時代

VVVフェンローでの本田(2009年)

2008年1月16日、エールディヴィジ(オランダ1部リーグ)のVVVフェンローへ移籍した。2年半契約で背番号は「29番」。1月20日の入団会見ではオランダ語で挨拶を行い、その日のうちに昨シーズンまで名古屋グランパスの監督を務めていたセフ・フェルホーセン率いるPSV戦に移籍後初出場した。3月15日、第29節フェイエノールト戦で移籍後初得点となる直接FKを決めた。レギュラーとしてプレーしたがクラブは5月にエールステ・ディヴィジ(オランダ2部リーグ)への降格が決定した。

2008-09シーズンは背番号を「10番」に変更し、攻撃の軸として開幕から首位を独走するチームの原動力となり、シーズン途中からはフリーキッカーとキャプテンを任された。リーグ戦36試合に出場し16ゴール13アシストを挙げチームの2部リーグ優勝と1部復帰に貢献し2部リーグにおける年間最優秀選手賞(MVP)を受賞した。

2009-10シーズンは前半戦18試合全てにスタメン出場し6ゴール7アシストを挙げた。またオランダのテレビ番組で前半戦のベストゴールTOP10が発表され、本田がユトレヒト戦で決めた豪快なミドルシュートが選出された。

CSKAモスクワ時代

CSKAモスクワでの本田(2010年)

2010年1月1日、移籍金900万ユーロ(約12億円)でロシア・プレミアリーグCSKAモスクワへ移籍。4年契約で背番号は「7番」。ロシア・プレミアリーグでプレーする初めての日本人選手になった。

2010年2月24日、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦1stレグのセビージャ戦がCSKAでの初出場となり同時にチャンピオンズリーグ初出場となった。この大会のみ背番号は「18番」をつけた。2010-11シーズンの開幕戦アムカル戦で、後半アディショナルタイムに移籍後初得点となる決勝点を決めた。3月16日、2ndレグのセビージャ戦で前半39分にCL初アシストを、後半10分にはゴール約30mの位置から決勝点となる直接FKを決め、CL初得点。2戦合計3-2でCSKAが勝利し、日本人初、クラブ史上初、ロシアリーグ所属チーム史上初となるCLベスト8への原動力となった。この試合では「マン・オブ・ザ・マッチ」に選ばれ、さらに1stレグ2ndレグともに欧州の複数のスポーツ紙にてCL週間ベストイレブンに選ばれた。前半戦終了時点でのロシア紙スポーツ・エクスプレスの採点 では平均5.96で全選手中10位(1位は6.25)と、VVV時代とは違う不慣れなボランチでの出場が多いながらも高く評価され、シーズン4得点と結果を残し、CSKAモスクワのCL本戦出場権獲得に貢献した。2011年5月22日、ロシア・カップ決勝のアラニア戦で決勝点をアシストし、CSKAモスクワの2シーズンぶり6度目の優勝に貢献した。

2011-12シーズンは、ボランチではなく主に得意とする右サイドハーフで起用されたことで得点に絡む機会が増え、18試合で前シーズンを上回る7得点を挙げるなど好調を保っていたが、8月28日のスパルタク・モスクワ戦で右膝半月板を損傷し、後日手術を受け、全治には最大3カ月と発表された。11月18日、ルビン・カザン戦で2カ月半ぶりに復帰を果たすも、右膝の故障が再発しまたも戦線離脱となり、CLグループリーグを全試合欠場した。2012年1月、イタリア・セリエAの強豪ラツィオへの移籍が取り沙汰されたが、高額な移籍金がネックとなり移籍は破談となった。 2012年2月21日、CL決勝トーナメント1回戦1stレグのレアル・マドリード戦で、約3カ月ぶりに公式戦復帰を果たした。しかし、2ndレグは左太ももの負傷で出場できずチームも敗退した。その後4月21日のディナモ・モスクワ戦で復帰、以降出場を続け、最終節ルビン・カザン戦で9カ月ぶりの得点を決めるもチームは敗れ、CL出場権を逃した。

2012-13シーズンは開幕から前半戦18試合で7得点を挙げるなど好調な活躍を見せていたが、2013年2月に左足首の負傷が分かりチームを離脱。以後、長期に渡り治療を余儀なくされ、3月のW杯アジア最終予選ヨルダン戦も欠場したが、4月21日のスパルタク・モスクワ戦で約4カ月半ぶりに実戦復帰を果たした。同シーズン、CSKAモスクワは6シーズンぶり4度目のリーグ優勝を達成し、自身にとっても初の欧州一部リーグでの優勝となった。ロシア・カップも2シーズンぶり7度目の優勝をした。ロシア紙スポーツ・エクスプレスにロシア・プレミアリーグ2012-13シーズンのベストイレブンにトップ下で選出された。2013年7月13日、ロシア・スーパーカップゼニト戦で2得点を決める活躍で、CSKAモスクワの4シーズンぶり5度目のスーパーカップ優勝に貢献し、国内3冠を達成した。

2013-14シーズンは前半戦1得点に終わった。また、CLグループリーグではバイエルン・ミュンヘン戦とプルゼニ戦で1ゴールを決めるなど2G2Aの活躍を見せたがチームは敗退した。2013年12月、契約満了でCSKAモスクワを退団。

ACミラン時代

ACミランでの本田(2015年)

2013年12月11日、イタリアセリエAACミランへの移籍が発表された。3年半契約で背番号は自ら希望した「10番」に決まった。2014年1月12日、第19節サッスオーロ戦で途中出場しセリエAデビューを果たした。1月15日、初の先発出場となったコッパ・イタリア5回戦スペツィア戦で移籍後初得点を決めた。4月7日、第32節ジェノア戦でリーグ戦初得点を決めた。その後、左足首捻挫でチームを離脱し2週間後に復帰するも、インテル所属の長友佑都との日本人対決が注目された5月5日のミラノダービーでは出場機会はなかった。

2014-15シーズンは開幕戦ラツィオ戦で右ウイングとして先発出場し、先制点を決めた。第2節パルマ戦では、ジャコモ・ボナヴェントゥーラの先制ゴールをアシスト、イニャツィオ・アバーテのクロスを頭で決め、1ゴール1アシストを記録した。第7節ヴェローナ戦で移籍後初の1試合2得点を決めた。11月23日のミラノダービーにインテル所属の長友佑都とともに出場し、ミラノダービーで初の日本人対決が実現した。

2015-16シーズンは監督がシニシャ・ミハイロヴィチに交代した事もあり、前半戦は出場機会が少なかった。2試合連続で出場機会がなく、チームが2連敗を喫した10月4日のナポリ戦後、チーム批判とも受け取られかねない発言をした。前半戦は12試合に出場(先発出場は5試合)し、得点はなかったがアシストを記録している。後半戦は右サイドハーフでレギュラーに定着。2016年1月30日のミラノダービーで決勝点をアシスト、無得点ながら伊3紙から最高点が与えられた。2月14日、第25節ジェノア戦で今季初得点となるミドルシュートを決めた。このゴールはミランサポーターが選ぶシーズンベストゴールに選出された。

2016-17シーズンヴィンチェンツォ・モンテッラが監督に就任し、スソエムベイェ・ニアンジェラール・デウロフェウといった若くてスピードがあるウイングが起用された為、出場機会が少なかった。2017年1月、イングランド・プレミアリーグハル・シティからオファーがあったが断り、残留を決めた。2017年5月21日、ホーム最終戦のボローニャ戦で今季初得点となる直接FKを決めた。ミランの来季のEL出場を決定付ける得点でもあり、このFKはミランサポーターが選ぶ5月のベストゴールに選出された。試合後、自身の公式Twitterを開設すると同時に今季限りでの退団を表明した。ボローニャ戦後、ミラン情報サイト『ピアネタ・ミラン』から「良いテクニックを持っており、戦術的には貴重な選手であり、頭も良い。それに非常にプロフェッショナルな選手だ」と評された一方で「ティフォージ(サポーター)から愛されなかった」と締め括られている。5月28日、ミランとしてのラストマッチとなった最終節のカリアリ戦では、移籍後初のキャプテンマークを巻き、フル出場を果たしたがチームは敗れた。

CFパチューカ時代

2017年7月14日、リーガMXCFパチューカへの移籍が決定した。1年契約で背番号は「02番」。ユニフォームネームは「KSK」となっている 。この「KSK」とは自身の展開するブランドの名前であり、圭佑という名前をもじったものである。右ふくらはぎ肉離れで出遅れたが、8月22日の前期第6節ベラクルス戦に移籍後初出場し初得点を決めた。10月25日、コパMX決勝トーナメント1回戦のサカテペク戦で移籍後初の1試合2得点を決めた。11月8日、コパMX準々決勝のティフアナ戦でハーフウェーライン手前から4人抜きのゴールを決め称賛された。12月9日、FIFAクラブワールドカップの準々決勝ウィダード・カサブランカ戦で大会初出場を果たして勝利に貢献した。2018年1月27日、後期第4節ティグレス戦でゴールを決め、第5節モレリア戦で2試合連続ゴールとなる直接FKを決めた。4月6日、第14節プエブラ戦でリーグ戦初の1試合2得点を決めた。1トップ、トップ下、右インサイドハーフ、右ウイングと複数のポジションでプレーし、リーグ戦29試合に出場し10ゴール7アシストを挙げ、チームの攻撃を牽引した。

メルボルン・ビクトリー時代

2018年8月6日、Aリーグメルボルン・ビクトリーFCへの移籍が発表された。背番号は「4番」。年俸制限のないマーキープレーヤーとしての契約となる。10月20日、開幕戦のメルボルン・シティFCとのダービーマッチにキャプテンとして移籍後初出場し、初得点を決めた。

日本代表

石川県選抜において、左SBの位置からステップなしでサイドチェンジを送る姿が大熊清U-20日本代表監督の目に留まり、2005年のFIFAワールドユース選手権・オランダ大会にU-20日本代表として招集され、負傷明けの梶山陽平に代わって初戦のオランダ戦にボランチで先発。しかし試合は前半にオランダが圧倒、後半は日本もペースをつかむ時間帯を得たが本田は途中交代となった。この後チームは16強に進出するものの梶山の復調もあって出場機会はなかった。2006年11月にフル代表に初招集されたが出場はなかった。2007年北京オリンピックアジア予選では中盤の主力として五輪出場権獲得に貢献した。

2008年6月22日、2010 FIFAワールドカップ・アジア3次予選バーレーン戦でフル代表デビュー。8月に開催された北京オリンピックでは、中盤の主力としてグループリーグ全3試合に出場。谷口博之や梶山陽平らとともに攻撃を牽引したがグループリーグ3戦全敗で敗退した。2009年5月27日、キリンカップチリ戦で、フル代表初出場の当時18歳だった山田直輝からパスを受け、フル代表初得点を記録した。

日本代表でプレイする本田(2010年)

2010年6月に開催された2010 FIFAワールドカップでは4試合にフル出場。大会直前にそれまで経験のないセンターフォワードのポジション(0トップ)に抜擢、グループリーグ初戦のカメルーン戦では決勝点をあげFIFA選定の「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された。第3戦のデンマーク戦にて直接フリーキックで先制点を挙げ、岡崎慎司へのアシストも記録し日本代表の決勝トーナメント進出に貢献、この試合でも「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された。決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦では強烈なミドルシュートを放つなど強い印象を残したが、PK戦の末日本代表は敗れた(記録上は引き分け)。しかし敗戦チームからは異例の今大会3度目となる「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された。

2011年1月に開催されたアジアカップ2011ではグループリーグ第3戦のサウジアラビア戦を除く5試合にフル出場。グループリーグ第2戦のシリア戦ではPKで日本代表の通算1000点目となる勝ち越し点を決めた。準決勝の韓国戦でも全2得点に繋がるプレーを見せ、この2試合で「マン・オブ・ザ・マッチ」に選ばれた。準々決勝のカタール戦での2得点に繋がる縦パスを含め、出場した試合で日本代表が挙げた全9得点中6得点に絡む活躍で日本代表の2大会ぶりのアジア制覇に貢献し、同大会の最優秀選手(MVP)に選出された。同年2月7日、全国のサッカー担当記者の投票による2010年度のフットボーラー・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手)に有効投票202票のうち、75票を集めて初選出された。50年の歴史がある賞だが、海外のクラブでプレーする選手が受賞するのは本田が初めてであった。3月29日に開催されたチャリティーマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」では、1点目のきっかけとなったフリーキックを獲得し岡崎の2点目をアシストする活躍を見せた。

2012年6月8日、2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選ヨルダン戦で自身フル代表初のハットトリックを達成。本田のハットトリックは高校時代以来でプロ入り以降は初めてであり、またワールドカップ最終予選における日本人選手のハットトリックは、97年フランス大会予選の三浦知良以来15年ぶり、史上2人目の快挙となった。2013年6月4日、オーストラリア戦で後半アディショナルタイムに自らが獲得したPKを決め、ブラジルワールドカップ出場を決めた。最終予選で5得点を決めた本田は、1大会のW杯アジア最終予選における通算得点で三浦知良の4得点を抜き、歴代最多得点を更新した。

2013年6月に開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2013ではグループリーグ第2戦のイタリア戦でPKで先制点を決めるがチームは逆転負け。最終的にチームはグループリーグ3戦全敗で敗退した。しかし、本田自身はFIFA選定のグループリーグベストイレブンにアンドレス・イニエスタマリオ・バロテッリ等とともに日本人で唯一選出された。同年、12試合で8ゴールを上げる活躍でチーム得点王となった。

2014年6月に開催された2014 FIFAワールドカップでは全試合トップ下でフル出場。グループリーグ初戦のコートジボワール戦では先制点を決め、日本人のワールドカップ最多得点を記録したがチームは逆転負け。第2戦のギリシャ戦ではチームは引き分けに終わったもののFIFA選定の「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出された。第3戦のコロンビア戦では、岡崎慎司のゴールをアシストしたが、チームは敗れグループリーグ最下位での敗退となった。

2015年1月に開催されたアジアカップ2015ではグループリーグで3得点(その内2点がPK)を決めるも、PK戦となった準々決勝UAE戦でチームは敗れた。同大会グループリーグでのベストイレブンに選出された。

2015年11月17日、2018 FIFAワールドカップ・アジア2次予選カンボジア戦で得点を決め、日本サッカー史上初のワールドカップ地区予選5試合連続ゴールを記録。2016年3月29日、シリア戦で得点を決め、ワールドカップ地区予選6試合連続ゴールを記録。9月1日、2018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選UAE戦で先制点を決め、7試合連続ゴールを記録。9月6日のタイ戦では得点を決められず、連続ゴールは7試合でストップした。10月11日、オーストラリア戦では約4年ぶりとなる1トップで出場し、原口元気の得点をアシストした。

2017年9月6日のサウジアラビア戦に先発したが低調なプレーに終わり、前半終了後交代となった。代表監督のヴァヒド・ハリルホジッチはサウジアラビア戦でのプレーを「リズムの面でトップレベルにない。今後も努力して取り戻してもらいたい」と評した。自身も「全然ダメ」と認める低調なプレーに、ファンやメディアの間からは本田はもう日本代表には必要ないという“本田不要論”が噴出した。本田はこれは受けて、twitterにて「サッカーファンの皆さん、メディアの皆さん、『もう代表に必要ない』とか他にも厳しい声をありがとうございます」「良い感じで舞台は整ってると思ってます」と批判に対して感謝する声を述べた。2017年9月28日、代表とクラブでの不振を理由に怪我や国内組で編成された試合を除いて、2009年5月以来8年ぶりに代表メンバーから外れた。2018年3月15日、クラブでの活躍が評価されて半年ぶりに代表復帰を果たした。

2018年6月に開催された2018 FIFAワールドカップではスーパーサブとして3試合に途中出場。グループリーグ初戦のコロンビア戦で、コーナーキックから大迫勇也の決勝ゴールをアシストし、アジア人初となるW杯3大会連続のアシストを達成。第2戦のセネガル戦では同点弾を決め、日本人初となるW杯3大会連続ゴールを達成した。W杯3大会連続となる得点とアシストの両方を記録した史上6人目の選手となり、32歳11日でのゴールは、1998 FIFAワールドカップ中山雅史が30歳277日で決めた得点を上回り、日本人のW杯最年長ゴールとなった。この活躍は本田不要論を唱えていた者たちにも予想外であり、「本田さん、ごめんね」といった反応がネット上で相次いだ。また、イギリスメディア『BBC』にグループステージのベストイレブンに選出された。決勝トーナメント1回戦のベルギー戦でチームは逆転負け。試合後、ワールドカップ挑戦は今回が最後であると明言し代表引退を示唆した。A代表から引退する事は示唆しているが、2020年東京オリンピックオーバーエイジとして出場する事を目指すという事をAbemaTVで明かしている。

指導者として

2012年5月、自身がプロデュースするサッカースクール「SOLTILO FAMILIA」を地元の大阪に開校。同年11月には神戸にも開校している。SOLTILOはスペイン語の「SOL=太陽」と「ESTILO=スタイル」からの造語で、FAMILIAは家族を意味する。

2015年8月19日、『HONDA ESTILO 株式会社』がSOLTILO FCのユース、ジュニアユースを新設することを発表した。

2016年6月22日、国連財閥の教育事業である「グローバル・アドボケイト・フォー・ユース」に任命された。また、アメリカのマサチューセッツ工科大学メディアラボの特別研究員に日本人として初めて就任した。

カンボジア代表監督

2018年8月12日、カンボジアで記者会見を開き、現役選手ながら実質的なカンボジア代表監督兼GMに就任する事が発表された。登録上は、フェリックス・アウグスティン・ゴンザレス・ダルマスが監督に就任した。

プレースタイル

ピッチに入る本田

名古屋時代はシュートへの意識はそれほど高くなく、かつては「自分の中の美学はパスだった」とも語っていたが、海外移籍後はゴール数を残すことがキャリアアップへの近道と考え、どん欲にゴールを目指すスタイルを確立した。

フリーキックが得意と評されており、距離的にはやや離れた位置が得意である。

以前も日本代表において守備時の運動量の少なさを指摘されることもあった。また全ての中盤のポジションとウイング、時にはセンターフォワード左サイドバックでもプレーし、ユーティリティ性に優れている。

FIFAワールドカップ・南アフリカ大会のパラグアイ戦では、両チームの中で最速の29.43 km/hのランを記録した。J SPORTSウェブ版のコラムニスト原田公樹は「この数字は一瞬のもので、どれくらいの時間、持続していたかわからないが、少なくとも本田は鈍足ではない」と記事を綴った。

評価

CSKAモスクワの監督であるレオニード・スルツキーは本田について「本田は最高のテクニックを備えた選手だ。ビッグクラブでも十分にやっていけるだけの強い精神力も持っている。高精度のラストパスに強烈なシュートと、近代サッカーの司令塔に求められる資質をすべて兼ね備えた選手。」などと語っている。

2010年のFIFAワールドカップ・南アフリカ大会敗退直後、アーセナルアーセン・ヴェンゲル前監督より「天才」「ここまでのベストプレーヤー」「間違いなくトップレベル」「日本のさらなる成長のためには本田のように能力が揃っているクローン選手を育成するべき、それが無理なら本田をさらに活かすためにビジャのような相棒を探すべき」との絶賛を受けた。FIFAの技術研究グループが作成したW杯南アフリカ大会の報告書では、松井大輔とともにドリブル技術が高いと評価された。10月には世界的なサッカー情報サイト「goal.com」が「アジア人最高のサッカー選手」と称える記事を掲載した。

2014年のFIFAワールドカップ・ブラジル大会では批判もあったが、コートジボワール戦をイタリアのガゼッタ・デロ・スポルト、フランスではル・モンドレキップ、コロンビア戦をブラジルのプラカール誌、ガゼッタ・エスポルチーバ、ランセ紙、フォーリャ紙 では高評価が与えられた。グループリーグ終了後に国際サッカー連盟 (FIFA) は、公式分析システムのカストロール・インデックスを使い、出場全選手736人のランキングを10点満点で発表し、本田は8.96点の全体37位及び日本

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出典:wikipedia
2018/11/16 18:30

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