杉下 茂(すぎした しげる、1925年9月17日 - )は、東京府東京市神田区(現:東京都千代田区)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。
日本初の本格的フォークボーラーとされており、現役時代は驚異的な変化の切れ味と落差を誇るフォークボールを自在に操り一世を風靡した。杉下のフォークが日本球界に与えた影響の大きさから「フォークボールの神様」と呼ばれている。
史上初の沢村栄治賞3回受賞者。また、史上4人目の投手5冠を達成した。
旧制帝京商業学校では野球部に所属し、監督だった天知俊一の元で4番・一塁手としてプレーした。長身を生かして投手として登板することもあったが当時は弱肩で、守備時の送球は下手投げに近い横手投げだった。1944年3月に卒業後に入隊し、野球経験者という理由だけで中隊対抗の手榴弾投げ競争の代表選手に選ばれた。そのために弱肩であることを言い出せず、投球フォームを上手投げに矯正して必死に遠投を練習した結果、肩が強くなって優勝した。終戦後はアマチュア野球のいすゞ自動車へ入社し、当時監督だった苅田久徳によって本格的に投手として起用される。公式戦(対日本コロムビア戦)で登板したある日の試合で、偶然球審を務めていた天知は強肩速球投手に進化した杉下に驚愕し、さらにその試合で杉下がノーヒットノーランを達成すると、すぐに天知の母校である明治大学専門部へ進学するよう周囲から進められ、入学した。しかし、杉下の明治大学入学に関しては天知は一切関与していないという。当初は長身であることから一塁手として起用されたが、監督だった八十川胖の命令によって再度投手へ戻り、野球部で練習する傍ら、天知の私的指導も受けた。
1948年の正月、岡山県立琴浦商業学校に投手として在学していた東谷夏樹にナックルボールを教えているのを見かけた天知から、「フォークボールというものがある」と教えられる。しかし、ある日の試合で初めて投げた1球目が当たり損ないの安打になったことから、杉下は縁起の悪さを嫌ってすぐに封印した。封印後も八十川から上からも、中からも、下からも、吐くほどまで投球練習をさせられて、ついに肩を壊してしまった。
杉下は結局、明治大学の学部には進学することなく、専門部から1949年に中日ドラゴンズへ入団した。杉下のプロ入りに関しては監督を務めていた天知と、駿台倶楽部会長だった小西得郎の世話があったという。また、入団直前には当時の人気コメディアンで亡くなったばかりの高勢実乗の2代目としてスカウトを受けたが、その理由が「(杉下の)風貌が高勢に良く似ていた」というだけだったという。
初登板となった対東急フライヤーズ戦で、封印していたフォークボールを用いて大下弘から3打席連続三振を奪った。この年は8勝を挙げ、1950年からは1955年まで6年連続20勝を含む、9年連続2桁勝利を記録した。1950年は最多奪三振を達成。1951年は最多勝獲得と自身初の沢村賞を受賞。1952年は2年連続で沢村賞を受賞している。なかでも1954年には32勝、防御率1.39、273奪三振を記録して中日ドラゴンズを初優勝に導くだけでなく、自身も最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、最多完封を挙げ、日本プロ野球史上4人目、2リーグ分立後初となる投手五冠王に輝いた。さらに、MVPとベストナインを受賞。史上初の沢村賞3回の受賞も達成した。特に優勝を争った読売ジャイアンツからは、この年にチームが挙げた14勝(12敗)のうち、11勝(5敗)を杉下一人で稼いだ。また、巨人以外にも国鉄スワローズとの試合に敗れたら優勝を逃すことから、国鉄のエース・金田正一が登板する試合は必ず杉下が投げるように、監督の天知俊一から指示されていた。結局、杉下は金田と投げ合って全勝を収め、金田は対中日ドラゴンズ戦で1勝7敗と大きく負け越した。同年の日本シリーズ(対西鉄ライオンズ戦)でも7試合中5試合に登板し、うち4試合に完投、自身も3勝1敗の好成績で日本一に大きく貢献し、中日ドラゴンズとしては史上初の日本シリーズMVPに輝いた。
金田と杉下の両エース対決は1950年代のプロ野球を代表する名勝負とも言われており、杉下は1955年5月10日の対国鉄スワローズ戦(川崎球場)にて金田と投げ合い、1-0の僅差スコアでノーヒットノーランを達成した。この試合で許した走者は四球のみという準完全試合だったが、その四球は金田に与えたものだった。また、杉下は1957年8月21日の対国鉄スワローズ戦(中日球場)にて0-1で敗戦投手となったが、その際に投げ合ったのも金田で、金田は完全試合を達成している。1957年10月23日の対読売ジャイアンツ戦(後楽園球場)ではプロ入りから僅か8年で通算200勝を達成した。敗戦投手は後にプロレスラーへ転向する馬場正平だった。
1958年に一度、事実上引退を表明した。中日ドラゴンズ時代に挙げた211勝は、2012年に山本昌に抜かれるまで球団記録だった。1959年から1960年まで中日ドラゴンズの監督を務めたが、選手兼任だったものの監督業に専念したことから公式戦の出場は一切無かった。
1961年に実質的な現役復帰と共に毎日大映オリオンズへ移籍、同年限りで再度現役を引退した。この年は僅か4勝しか挙げられず、生涯シーズン平均20勝を越えることが出来なかった。
1962年には毎日大映オリオンズの投手コーチに就任し、菅原紀元・若生智男・坂井勝二とタイプが異なる10勝投手を三人輩出すると、最終戦終了後に即座に辞表を提出した。
1964年からは阪神タイガースの一軍投手兼ヘッドコーチに就任し、解雇寸前だったジーン・バッキーを春季キャンプ期間中に身体の使い方から投げ方まで徹底的に指導して29勝、防御率1.89の二冠を獲得させた。チームとしてもリーグ優勝に貢献し、シーズン終了後には江夏豊の獲得を進言した。1965年10月28日に一軍監督に就任するが翌シーズン途中の8月13日に辞任を表明、1968年にも古巣・中日ドラゴンズの監督に復帰するが最下位に低迷し、8月に解任された。その後は1969年からTBSテレビ・中部日本放送の野球解説者に就任した。
1975年シーズン終了後、杉下の元へセ・リーグ会長の鈴木龍二から直接呼び出しがあり、杉下が連盟に向かおうとするも外で会うことを指示された。杉下は「(最下位に終わった)巨人をどう思う?お前がなんとかしてやれ」と鈴木から言われたことで、10月27日に読売ジャイアンツの一軍投手コーチに就任した。この年の巨人は前年に長嶋茂雄が引退し監督に就任したが、自身の抜けた穴を埋めることが出来ず、球団史上初の最下位に終わっていた。1976年は太平洋クラブライオンズから加藤初が移籍して15勝、小林繁が18勝、新浦寿夫も11勝を挙げ、リーグ優勝に貢献した。1980年に監督の長嶋が解任されたのに合わせ、コーチを退任した。
1978年には、金田が中心となって「名球会」が設立された。昭和生まれで野手は通算2000本以上の安打、投手は通算200勝以上を日本プロ野球の公式戦で挙げた選手、元選手が入会条件とされた。杉下は中日で通算200勝を達成していたが、大正生まれのために入会の対象外となった。名球会が発足した当時の存命者では別所毅彦、野口二郎、藤本英雄(通算200勝以上)、川上哲治(通算2000本安打以上)も同様の理由で対象外となっている。
1981年から再びTBSテレビの野球解説者を務め、1993年からは2シーズンに渡り西武ライオンズの一軍投手コーチを務めた。「最後にユニホームを着たのは、93年、1994年の西武だ。選手を、というより森繁和投手コーチを一人前にするのが仕事だった。郭泰源、渡辺久信、工藤公康、潮崎哲也、鹿取義隆らが主力だから、コーチなんかいらないよ。いろいろな球団に行ったけど、一番楽だった。」と述べている。
1985年に野球殿堂入りを果たし、現在はTBSテレビの野球解説者を担当している。プロ野球マスターズリーグ「名古屋80D'sers」の監督を2006年から2年間にわたって務めたほか、2007年からは中日スポーツ紙上に自伝風コラム「伝える」を掲載していた。
1996年以降は中日ドラゴンズの春季沖縄キャンプに毎年参加し、90歳を超えた現在でも臨時コーチとして投手の指導に当たっている。中日以外にも各チームのキャンプを巡回しては精力的に投手の指導を行い、特にフォークボールの指導は熱が入る。
1956年から1960年まで東映フライヤーズの監督を務めた岩本義行が2008年9月26日に死去したことに伴い、1950年代にプロ野球の監督を務めた人物では最後の存命者になった。
明治大学在学中に天知俊一から教えられたフォークボールは、試合で初めて投げた際に当たり損ないの安打になって以来、縁起の悪さを感じたことから封印していた。しかしプロ入り後は封印していたフォークボールを駆使し、「青バット」と呼ばれた大下弘から三振を奪うなど、「日本初のフォークボーラー」として名を売った。
しかし、現在のフォークボーラーのような高い奪三振率は記録していない。その理由としてフォークボールが下手というものではなく、フォークボールを「最後の切り札」とする信念の下、勝負所でのみ投じていたためである。そのため、一試合で投じるフォークボールは多くても5~6球と少ないものだった。杉下はフォークボールについて「神様用のボール」と述べたうえで、「神様以外には見せ球にしか使ってないが、それだけで、相手は(フォークボールが)いつ来るかで迷ったという。また、『神様を倒していつか日本一の投手になる』と思っていた」と述べている。
杉下はもとより、あくまでも速球を投球の中心とし、そこにカーブなどの変化球を交える投球スタイルで、フォークボールには固執しなかった。しかし、そのスタイルが樋笠一夫に日本プロ野球史上初となる代打逆転サヨナラ本塁打の栄誉を献上してしまう元凶になったと言われている。さらに晩年は新しい投球方法を模索するも結果が出ず(1961年に毎日大映オリオンズへ移籍するも4勝に終わり、同年限りで引退)、フォークボールに回帰することなく現役を引退した。引退後の自著では、現在のフォークボーラーのようにフォークボール中心の投球を行っていれば、それ相応の成績が残せていたかもしれないと回想している。また、失投でないフォークボールが打たれたのは、長嶋茂雄に一度だけだと語っている。
杉下が投じていたフォークボールは現在の一般的なフォークボールとは異なり、球が全く回転することなく左右に揺れながら落ちる、いわゆる「ナックルボール」に近いものである。その球は蝶のようにひらひらと舞うと呼ばれ、川上哲治が「ボールの縫い目が見えた」「捕手が取れないのに打てるわけがない」というほどだった。これほどの変化が起きるのは杉下の長い指があってこそであり、杉下は人差し指と中指の第二関節の間をボールが触ることなく通過したとも言われている。しかし、杉下は「(球が)右へ行くのか左へ行くのか、ボールの気の向くまま。精密なコントロールなどとは無縁なものでした」と述懐しているほか、フォークボールを投じる際はとにかく腕を思い切り振り、捕手の顔面をめがけて投げることだけに集中していたという。そして調子の良い時のフォークボールは三段に渡って振れながら落ち、打者の手元でさらに二段階に渡って落ちたという。そのために周囲からは「魔球」と呼ばれ、他球団でも多くの打者が研究したが、杉下はフォークボールを自身の財産だとして秘密を守り、オールスターゲームなどで他チームの捕手とバッテリーを組んだ際には決して投げず、マスコミにも握り方を見せることを拒否した。
現役時代に杉下と名勝負を繰り広げた金田正一は、「自分が見た最高の投手は藤本さんでも別所さんでもない。正真正銘のフォークボールを投げた杉下さん」と語っており、杉下も「フォークボールの亜流を投げた者は大勢いるが、本物のフォークボールを投げた者は五人。私と村山実、村田兆治、野茂英雄、佐々木主浩だ」と言い、現在の投手がフォークボールと称して投げているのはスプリットだとも語っている。
杉下自身が最初にフォークボールを伝授したのは板東英二だという。プロ野球選手としては決して手の大きい方ではない板東がフォークボールを取得したことは杉下自身も印象に残ったようで、1975年に読売ジャイアンツの投手コーチに就任後、江川卓に投げ方を指導する際には、わざわざ板東を遠征先に呼び出し、「フォークボールの握り方を見せてやってほしい」と頼んだという。また、村山実など1960年代から1970年代にかけてフォークボールを武器に活躍した投手の大半は、自身の教え子であるとテレビ番組で発言していた。しかし、杉下自身は速球が投手の価値であり、変化球は衰えを補う「最後の手段」と位置づけており、変化球は好投手の必須条件ではなく、投手の技術でもないと語った。
※1959年から1962年、1966年から1996年までは130試合制