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条約改正とは?

鹿鳴館での舞踏会のようすを描いた錦絵「貴顕舞踏の略図」(楊洲周延画)

条約改正(じょうやくかいせい、英語: Treaty Revision)とは、江戸時代末期の安政年間から明治初年にかけて日本欧米諸国との間で結ばれた不平等条約を対等なものに改正すること。また、そのためにおこなった明治政府の外交交渉の経過とその成果をさす。

目次

  • 1 条約システムの形成とアジア
  • 2 不平等条約の締結
  • 3 条約改正の経緯
    • 3.1 岩倉遣外使節団
    • 3.2 寺島宗則の交渉と吉田・エヴァーツ条約
    • 3.3 井上馨と鹿鳴館外交
      • 3.3.1 予議会の開催と鹿鳴館
      • 3.3.2 条約改正会議と世論の沸騰
    • 3.4 大隈重信の改正交渉とその蹉跌
      • 3.4.1 条約改正交渉の進展
      • 3.4.2 政界の分裂と大隈遭難事件
    • 3.5 「将来外交之政略」
    • 3.6 青木周蔵の交渉と大津事件の衝撃
    • 3.7 榎本武揚外相と法典論争
    • 3.8 金子堅太郎と国際公法会
    • 3.9 陸奥宗光と日英通商航海条約の調印
    • 3.10 小村壽太郎と税権の回復
  • 4 影響と歴史的意義
  • 5 脚注
    • 5.1 注釈
    • 5.2 出典
  • 6 参考文献
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

条約システムの形成とアジア

中国の漢口(現武漢市)にあったフランス租界石碑

西ヨーロッパ諸国は、18世紀から19世紀にかけて西欧内の主権国家間の政治的・経済的な摩擦や対立を回避するため、互いに外交使節を派遣し、国家主権の独立や主権対等などを原則とする友好通商条約を結び、アメリカ合衆国の独立後はそれを新大陸にも押しひろげた。19世紀に入って、西欧各国が社会的状況や文化伝統の異なるトルコ帝国ペルシア中国シャム、日本などアジアの国々との接触を深めると、武力を背景にしてこれらの国々に強制的に「開国」を認めさせ、みずからの条約システムに編入していった。

その場合、その国に住む欧米人が犯罪を犯したとき条約相手国の国法に服さずともよいこととし、外交官ではあっても本来は裁判官ではない領事領事館職員が本国の法によって裁判することを可とした。また、相互に貿易される商品関税を当該国が自由に決定する権利を認めず、すべて外交交渉の結果むすばれた協定によることとし、さらに、西欧のある国が当該国との条約で得た権利は、自動的に他の欧米の国にも適用されてその恩恵が均霑されるという規定(片務的最恵国待遇)が設けられることが多く、これらの点でいずれも不平等な性格をもつものであった(不平等条約)。

なお、以上のうち、関税に関しては強者による弱者の収奪以外の何物でもなかったが、領事裁判権については、少なくとも先進国側の論理からすれば彼我の風俗習慣の違い、法律刑罰裁判の内容やそれらに対する考え方・姿勢の相違、また、監獄内の生活環境や治安状態の低劣さなどから居留民を保護するために必要と主張されるものであった。

不平等条約の締結

安政五カ国条約

江戸幕府安政5年(1858年)にアメリカ合衆国ロシアオランダイギリスフランスと結んだ通商条約(安政五カ国条約)は、

  1. 外国に領事裁判権を認め、外国人犯罪に日本の法律裁判が適用されないこと(治外法権)。
  2. 日本に関税自主権(輸入品にかかる関税を自由にきめる権限)がなく、外国との協定税率にしばられていること。
  3. 無条件かつ片務的な最恵国待遇条款を承認したこと。

などの諸点で日本側に不利な不平等条約であった。2.については、特に慶応2年(1866年)、列強が弱体化した幕府に圧力をかけて結ばせた改税約書の調印以降は、それまでの従価税から従量税方式に改められ、関税率5パーセントの低率に固定された状態となったため、安価な外国商品が大量に日本市場に流入して貿易不均衡を生んだ。

1878年(明治11年)、駐英公使の上野景範がイギリス政府に指摘したところによれば、日本の関税は一律5パーセントであるのに対し、「自由貿易の旗手」を自任し、欧米諸国のなかで最も関税が低く抑えられているはずのイギリスでさえ、その対日輸入関税率は、無税品を含めても平均10パーセントを超えていた。その結果、日本の歳入に占める関税収入はわずか4パーセントにとどまったのに対し、イギリスのそれは26パーセントにおよんだ。また、明治時代の法学者で政治家でもある小野梓の推計によれば、各国の歳入の中心にしめる関税額の比率は、イギリス22.1パーセント、アメリカ53,7パーセント、ドイツ55.5パーセントであるのに対し、日本は3.1パーセントにすぎなかった。さらに、明治・大正期に政治家・ジャーナリストとして活躍した島田三郎によれば、日本は一律5パーセントの関税を外国なみの11パーセントに引き上げることができれば、醤油税(年120万円の国家歳入)、車税(同64万円)、菓子税(同62万円)、売薬税(同45万円)など、主として農民がその大部分を負担した重い間接税を全廃できたという。

明治初年の神戸外国人居留地

日本は、国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、外国人居留地制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった。輸入品は低関税で日本に流入するのに対し、日本品の輸出は開港場に居留する外国商人の手によっておこなわれ、外国商人は日本の法律の外にありながら日本の貿易を左右することができたのであり、そのうえ、こうした不平等な条項を撤廃するためには一国との交渉だけではなく、最恵国待遇を承認した他の国々すべての同意を必要としたのであった。

財政難の政府は輸出品にも関税をかけたので、国内産業の発展にも大きなブレーキがかかった。日本は、関税自主権を有しないところから生じる損失を、のちに朝鮮(日清戦争後は清国も)との不平等条約の締結やダンピング輸出で回収しようとした。

外国人居留地は、安政条約で開港場とされた5港(箱館横浜長崎新潟神戸)および開市場となった2市(江戸築地大坂川口)に設けられ、幕府(のち政府)当局と外国の公使・領事の協議によって地域選定や拡張がなされ、日本側の負担で整地し、道路水道などの公共財を整備することとなっていた。居留地では、領事裁判権が認められ、外国人を日本の国内法で裁くことができず、また、日本人が居留地に入るには幕府(政府)の官吏でも通行印が必要であった。その一方、外国人も行動範囲が「遊歩規定」によって制限されており、一般の外国人が日本国内を自由に旅行することは禁止され、外国人が遊歩区域(居留地外で外国人が自由に行動できた区域)のさらに外に出るには、学問研究目的や療養目的に限られ、その場合も内地旅行免状が必要であった。居留地の外国人が居留地外で商取引をすることは禁じられていたが、その国の領事等を通じて日本当局から土地を借り受け、一定の借地料(地税)を支払うこととなっていた。この借地権は永代借地権と称し、永久の権利とされ、他者に売買したり譲渡することが可能であった。

「開国和親」の方針を誓った五箇条の誓文

不平等条約の締結は、金の流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなり(幕末の通貨問題)、尊皇攘夷運動の激化とそれにつづく討幕運動を招いたが、実際のところ幕末期にあって問題視されたのは不平等性そのものというよりは、むしろ日米修好通商条約をはじめとする五カ国条約が朝廷の許しを得ない無勅許条約だった点にあった(これは江戸幕府はその成立期に禁中並公家諸法度により朝廷を統制し政治権力を剥奪しており、単独で条約を締結しても問題がなかったにもかかわらず、幕末に至って幕府の権威が揺らいでいたことから条約締結の正当性を担保するため、朝廷の承認を求めたところ、案に相違して朝廷から拒否されたこと、その事実を反幕府勢力に利用され、喧伝されたことに端を発する)。

慶応3年(1867年)の大政奉還王政復古の大号令によって江戸幕府が倒れ、薩摩藩長州藩など西南雄藩の下級武士や倒幕派公家などを中心に明治新政府が成立した(明治維新)。慶応4年1月15日(1868年2月8日)、列国公使に「王政復古」と「開国和親」を伝えた新政府は、幕府から外交権を引き継ぎ、詔勅をもって「これまで幕府が諸外国と取り結んだ条約のなかには弊害の無視できないものもあるので改正したい」旨の声明を発した。戊辰戦争のさなかの3月14日、新政府は明治天皇が神々に誓うかたちで五箇条の誓文を明らかにし、公議輿論の尊重と開国和親の方針を宣言した。

戊辰戦争が新政府優勢の戦況で推移し、日本の正統な政権であることがしだいに諸外国に認められるようになると、新政府は、明治元年12月23日(1869年2月4日)に諸外国に対し、旧幕府の結んだ条約は勅許を得ずに締結したものであることを改めて指摘し、将来的な条約改正の必要性について通知した。

いっぽう、明治2年正月に北ドイツ連邦とむすんだ条約では、安政条約にない沿岸貿易の特権を新たにドイツにあたえ、同2年9月14日(1869年10月18日)、オーストリア・ハンガリー帝国を相手に結んだ日墺修好通商航海条約では、それまで各国との条約で日本があたえた利益・特権をすべて詳細かつ明確に規定し、従来解釈揺れのあった条項はすべて列強側に有利に解釈し直された。この条約では、領事裁判権について、従来の条約以上に日本側に不利な内容が規定に盛りこまれたが、これらは、いずれも五カ国条約中の片務的最恵国待遇の規定によって他の欧米列強にも自動的に適用された。以来、不平等条約の集大成ともいえる日墺修好通商航海条約が条約問題交渉の際の標準条約とされた。これは、条約改正の観点からみればむしろ日本側の後退を意味していた。

条約改正の経緯

条約改正の概略をまとめると下表のようになる。

【年】
【外交責任者】
【交渉内容】
【経過と結果】
関連事項
1872
(明治5) | 岩倉具視
(右大臣) | 改正交渉の打診 | 米欧を巡回、改正交渉失敗。文物や制度を視察して1873年に帰国 | *明治六年政変(1873)
1873
(明治6)
1879 | 寺島宗則
(外務卿) | 関税自主権の回復 | 日本の税権を認める「日米関税改定約書」(吉田・エヴァーツ条約)を締結(1878)
→イギリス・ドイツが反対
→条約締結が無効となる | *日朝修好条規調印(1876)
*ハートレー事件(1877)
*ヘスペリア号事件(1879)
1879
(明治12)
1887 | 井上馨
(外務卿・第1次伊藤内閣外相) | 領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復 | 条約改正予議会の開催(1882)
→条約改正会議の開催(1886)
内地雑居と裁判所への外国人判事任用に対し民権派の反対(→三大事件建白運動へ)・政府部内でも批判(ボアソナード谷干城ら)、欧化政策に対する国民世論の反感
→交渉中止、井上外相辞任 | *鹿鳴館落成(1883)
*内閣制度創設(1885)
*ノルマントン号事件(1886)
*保安条例公布(1887)
1888
(明治21)
1889 | 大隈重信
(黒田内閣外相) | 領事裁判権の撤廃(各国と個別交渉) | アメリカと新条約を調印。ドイツ・ロシアとも調印(発効せず)
→イギリス誌『タイムズ』が大審院に外国人判事を任用する大隈改正草案を掲載(1889)
→日本国内で違憲論おこる
→大隈遭難事件(大隈外相が玄洋社前社員の爆弾テロで負傷)、条約改正交渉中止 | *日墨修好通商条約調印(1888)
*大日本帝国憲法発布(1889)
*(大隈遭難事件後の三条暫定内閣において)「「将来外交之政略」起草(1889)
1890
(明治23)
1891 | 青木周蔵
(第1次山縣第1次松方内閣外相) | 領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復 | 「青木覚書」の策定
→イギリスと対等交渉開始、イギリス側も対日外交方針を転換(ロシアの南下政策に対抗するため対日関係を重視)
→法権回復・税権一部回復にイギリスの同意を確認→1891年のロシア皇太子暗殺未遂事件(大津事件)により青木外相が引責辞任
(榎本外相が引き継ぐものの本格化せず) | *第1回衆議院議員総選挙帝国議会開設(1890)
*裁判所構成法・治罪法・民法民事訴訟法商法等公布(1890)
*ロシア、シベリア鉄道起工(1891)
1892
(明治25) | 榎本武揚
(第1次松方内閣外相) | 領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復 | 青木改正案を支持し、条約改正交渉を継続するが法典論争の過熱化、品川弥二郎の選挙干渉にともなう議会の紛糾などのため不調に終わる | *第2回衆議院議員総選挙(1892)
*金子堅太郎、国際公法会への参加許可を内申、同会に出席する(1892)
1894
(明治27) | 陸奥宗光
(第2次伊藤内閣外相) | 領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復 | 青木元外相を駐英公使として派遣、交渉にあたらせる
日英通商航海条約調印(領事裁判権撤廃・対等の最恵国待遇・関税自主権の一部回復)
→他の14か国とも同内容の条約を調印 | *日清戦争(1894-95)
*下関条約(1895)
1899
(明治32) | 青木周蔵
(第2次山縣内閣外相) | - | 陸奥改正条約(1894年調印)の発効(有効期限は12年間)、内地雑居の開始 | *北清事変(1900)
1911
(明治44) | 小村壽太郎
(第2次桂内閣外相) | 関税自主権の完全回復 | 改正条約満期にともない、関税自主権回復をめざす
→新日米通商航海条約調印
→列国とも改正調印(条約改正の最終的決着を達成) | *日露戦争(1904-05)
*韓国併合(1910)

以下、主として外交担当者ごとに節を設け、それぞれの条約改正交渉の中身や経緯、その結果について詳述する。

岩倉遣外使節団

岩倉使節団の正副大使5名
左から木戸孝允山口尚芳岩倉具視伊藤博文大久保利通
詳細は「岩倉使節団」を参照

明治4年7月(1871年9月)、日本側全権伊達宗城、清国側全権李鴻章の間に結ばれた日清修好条規は対等条約であったが、制限的な領事裁判権を相互に認める規定などを含み日清両国がそれぞれ欧米列強と結んだ不平等条約を互いに承認しあう性格にとどまっていた。

政府は明治4年11月(1871年12月)、右大臣岩倉具視を全権大使、大久保利通木戸孝允伊藤博文山口尚芳を副使とする遣外使節団を米欧に派遣し、相手国の元首に国書を捧呈して聘問(訪問)の礼を修めさせ、海外文明の情況を視察させた。安政の諸条約は明治5年5月26日(1872年7月1日)が協議改定期限となっており、使節団は、その条約改正に関する予備交渉と欧米の文物・諸制度の視察とを目的としていた。

使節団の全権大使岩倉具視

当初、大使一行の渡米の目的は、ユリシーズ・グラントアメリカ合衆国大統領に謁見し、アメリカ国務省ハミルトン・フィッシュ国務長官と会見して、万国公法(国際法)にもとづく国内法が日本で整備されるまで条約改正交渉開始の延期を要望し、その意向を打診することにあった。当時の日本はまだ廃藩置県を終えたばかりであり、国内体制が十分に整わないうちに改正交渉に臨めば結果的に従前より不利な方向での改訂が進められる可能性も考えられたためであった。また、予備交渉の機会をむしろ活用して、将来の条約改正を念頭におき、政府首脳が外国の諸法制・諸機構についての知見を深めるねらいもあった。ところが、チャールズ・デロング駐日アメリカ公使と駐米日本代表の森有礼代理公使は、合衆国に来てから勢いづいている副使の伊藤博文に対して、条約改正の本交渉に入ることを進言、伊藤もその旨を大使岩倉具視に提案した。デロングは、西部出身の弁護士で、アメリカの中央政界に打って出る機会をうかがっており、駐日英国公使のハリー・パークスとは対日外交上のライバル関係にあった。開化論者であった森は26歳ながら、その率直で積極的な性格によりフィッシュ国務長官にかわいがられ、その知遇もあってワシントンの有力者からの評判もよかったが、外交経験には乏しかった。伊藤は、米国滞在中、ユタ州ソルトレイクシティにおいて条約改正交渉についての意見書をまとめて大使・副使に示して意思統一を図るなど、意欲的であった。

伊藤の提案を聞いた岩倉、大久保利通、木戸孝允らは、本交渉をすすめれば案外うまくいくかもしれないと考えた。もしかしたら、合衆国においては改正調印まで一挙に持ち込めるのではないかと期待したのである。サンフランシスコからワシントンまでの合衆国のいたる所で、朝野にわたって大歓迎を受けて、いささか甘い見通しに傾いた使節団は、フィッシュ国務長官に本交渉の開始を申し出た。しかし、フィッシュは交渉に入るには明治天皇からの委任状がどうしても必要であると答え、使節団一行は、全権大使であることを強調しても頑然と委任状の必要性を訴えたので、大久保と伊藤はやむなく委任状を発行してもらうため急遽東京に立ち戻った。2人は渋る留守政府にかけあい委任状を求めたが、体面上ようやく発行された委任状には使用不可の条件がつけられた。一方、アメリカに残留した岩倉と木戸に対しては、駐日ドイツ公使のマックス・フォン・ブラントと駐日イギリス代理公使のフランシス・アダムズが片務的最恵国待遇の規定などを持ち出して日米単独交渉を論難した。さらに、英国留学中の尾崎三良は、わざわざアメリカに赴いて岩倉や木戸に条約改正の危険性について意見具申をおこなっている。アメリカとの交渉でも内地雑居や日本の輸出税撤廃を求められた。こうしてアメリカとの本交渉は中止となり、使節団が以後訪れたヨーロッパ諸国との間でも具体的交渉はなされなかった。ただし、一行がイギリスに滞在しているとき、このころ条約改正に一定の進展がみられたといわれるオスマン帝国に対しては一等書記官福地源一郎を派遣し、同国の裁判制度などを研究させており、これには僧侶島地黙雷が同行した。

岩倉一行は欧米近代国家の政治や産業の発展状況を視察したのち明治6年(1873年)9月に帰国した。帰国後の会議では、留守政府の首脳であった西郷隆盛板垣退助らが朝鮮開国問題解決のためには武力行使もあえて辞さないという強硬論(征韓論)を唱えたのに対し、海外事情を実見した大久保や木戸らは内治優先論を唱えて反対、征韓論は否決された。そのため、西郷・板垣・江藤新平副島種臣ら征韓派の参議がそろって辞職し、いっせいに下野している(明治六年政変)。

以上、岩倉使節団の交渉は不首尾に終わったものの、この前後には、明治政府は旧幕府がアメリカに与えた江戸横浜間の鉄道敷設権、プロイセン(北ドイツ連邦)に与えた北海道亀田郡七重村(現在の渡島総合振興局七飯町)約300万の99年間の租借権(ガルトネル開墾条約事件)、また、長崎県高島炭鉱の鉱山利権の回収には成功しており、1875年(明治8年)1月には英仏両国軍側から横浜駐屯軍撤退を申し出ている。

寺島宗則の交渉と吉田・エヴァーツ条約

第4代外務卿寺島宗則

1875年(明治8年)11月、外務卿寺島宗則は、条約改正交渉開始を太政大臣であった三条実美に上申し、1876年(明治9年)には交渉を開始して外国からの輸入を減らすことを主目的として関税自主権回復を目指した。これは、大蔵省租税頭の松方正義による強い要望もあって、税権回復によって西南戦争後の財政難を解消する一方、殖産興業を推進し、国内産業の保護を通じて政府の歳入増加を図る見地から特に優先すべき課題とみられたからであった。同じころ地租改正反対一揆も各地で頻発しており、歳入に占める地租依存度を軽減することは、緊急の課題だったのである。一方の法権、すなわち領事裁判権の方は、各国がこれに応じることなく、逆にエジプトムハンマド・アリー朝におけるような混合裁判制度を採用することを示唆したため、政府が同制度を調べた結果、改訂によって特に日本の利益となることはないとして、これを断念した。なお、この年、朝鮮とのあいだに日朝修好条規が結ばれているが、これは日本側に有利で朝鮮に不利な内容の不平等条約であった。

1876年以降、寺島外務卿は、アメリカ合衆国、イギリス、ロシア帝国の対日政策の歩調に乱れが生じた間隙を捉え、税権の回復ならば応じる用意があるというアメリカを相手に単独交渉した。この時期のアメリカは、欧州諸国の帝国主義外交とは一定の距離を置いており、東アジア太平洋地域におけるヨーロッパ優位の情勢を牽制する意図もあって、英仏両国よりも日本に対し好意的であった。1873年(明治6年)に結ばれた日米郵便条約などは、日本にとっては欧米諸国と結んだ最初の対等条約であった。

改正事業を実効性あるものとするために、アメリカとばかりではなくヨーロッパ諸国との交渉も同時進行で進める必要を感じた寺島は、1878年(明治11年)2月9日、イギリス公使上野景範、フランス公使鮫島尚信、ドイツ公使青木周蔵、ロシア公使榎本武揚に交渉開始の訓令を発した。5月上旬、鮫島はワダントン(fr)フランス外務大臣と、上野はイギリス外相ソールズベリー侯と、青木はフォン・ビューロー(de)ドイツ外相と、榎本はロシア外務次官ギールスとそれぞれ交渉に入った。英・仏・独・露で条約改正交渉が開始されてまもなく、パリブルボン宮殿で第2回万国郵便連合大会議が開催され、ヨーロッパの20数カ国が参加、日本も鮫島がサミュエル・ブライアン(駅逓局お雇い外国人。アメリカ人)とともに会議に出席して6月1日に万国郵便連合条約に調印、連合にとってはアジアで初の連合加盟国となり、郵便主権を回復した。

一方アメリカとの交渉は実を結び、1878年(明治11年)7月、駐米公使の吉田清成とアメリカのエヴァーツ国務長官との間で税権回復を含む新条約(吉田・エヴァーツ条約)が成立した。これは、全10か条より成り、アメリカの領事裁判権を日本側が認めるかわりにアメリカは日本の関税自主権を認めるというもので、輸出税の廃止や日本沿海における日本の貿易権の独占なども盛られており、当時の日本としてはほぼ希望通りの内容であった。また、第7条では「互相の理」に基づき、新たに下関港を含む2港を開くことが定められていた。

同条約の成立が翌1879年(明治12年)7月に公表されると、ロシアとイタリアはこれに好意的な姿勢を示したものの、日本との貿易額が諸国中最も多いイギリスは、日本が保護貿易政策を企図しているとして自由貿易の立場からこれを非難し、また、イギリスの頭越しに日米間で秘密裡に改正交渉が進められていたことに不快感を表明して各国共同の連合談判形式の採用を迫った。駐日英国公使ハリー・パークスは、日本がイギリスにとって重要な製品輸出市場と考え、執拗に反対活動を展開した。

鮫島尚信は、ワダントン外務大臣との会談のなかで、近年ヨーロッパにおいては互いに関税税率を国家間で協定しあう通商条約が実施されており、フランスでさえも自由に税則を変更することができないと伝えられており、これを受けて、鮫島・上野・青木らは新協定税率にもとづく通商条約の締結を寺島外務卿に提案し、改正交渉の場をヨーロッパとすべきことを具申した。これは、パークスら日本駐在の外交官の動きを封じることができるうえに、フランスが必ずしもイギリスと同意見ではないとの手応えがあったためである。しかし、寺島は税権の完全回復にこだわり、東京での国別談判の方針を採用、これを押し切って交渉を進めたが難航した。結局、ドイツ・フランス・イタリアがイギリスに同調して、日本の関税自主権回復に反対し、また、法権の優先を求める国内世論の反対もあって条約改正交渉は挫折し、寺島は外務卿を辞職した。

吉田・エヴァーツ条約は、その第10条において、批准に及んでも他の国々がこの規定を認めなければ発効せず、他国も同様の条約を結ぶことが条件となっていたため、結局、効力を発しなかった。アメリカ以外の国も同様の条約を締結しなければ、アメリカ商品のみに高関税がかけられて競争力を失い、通商上著しい被害が予想されるため、アメリカとしてはやむを得ない措置であった。これが、二国間交渉による条約改正の難しさであり、その後も日本は二国間で交渉を進めるか、多国間交渉でいくかで揺れ動くこととなる。

幕末から18年間駐日英国公使を務めたハリー・パークス

これに前後して1877年(明治10年)、イギリス商人ジョン・ハートレーによる生アヘン密輸事件が発覚した。これは修好通商条約付属の貿易章程に違反していたが、翌1878年2月、横浜英国領事裁判所は生アヘンを薬用のためであると強弁するハートレーに対し無罪の判決を言い渡した(ハートレー事件)。また、1877年から78年にかけてコレラが流行し、当時はコレラ菌も未発見で特効薬もなかったところから、1878年8月、各国官吏・医師も含めて共同会議で検疫規則を作ったが、駐日英国公使ハリー・パークスは、日本在住イギリス人はこの規則に従う必要なしと主張、翌1879年(明治12年)初夏、コレラは再び清国から九州地方に伝わり、阪神地方など西日本で大流行したことに関連してヘスペリア号事件が起こっている。

ヘスペリア号事件(ドイツ船検疫拒否事件)とは、西日本でのコレラの大流行を受けて、1879年7月、当局がドイツ汽船ヘスペリア号に対し検疫停船仮規則によって検疫を要求したところ、ヘスペリア号はそれを無視して出航、砲艦ウルフの護衛のもと横浜入港を強行した事件である。その結果、横浜・東京はじめ関東地方でもコレラが流行し、コレ

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出典:wikipedia
2019/08/19 04:12

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