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東ローマ帝国とは?

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年2月)
ローマ帝国
Imperium Romanum
Βασιλεία Ῥωμαίων


 | 395年 - 1453年 | 

(国旗) | (国章)

東ローマ帝国の版図の変遷
公用語 ラテン語ギリシア語)
首都 コンスタンティノポリス
皇帝
395年 - 408年 アルカディウス(初代)
527年 - 565年 ユスティニアヌス1世
976年 - 1025年 バシレイオス2世
1448年 - 1453年 コンスタンティノス11世ドラガセス(最後)
変遷
成立(東西分割) 395年
イスラム帝国によって領土の大半を失陥 7世紀
第4回十字軍により一旦滅亡 1204年
【亡命政権ニカイア帝国によって再興】
1261年
オスマン帝国によって滅亡 1453年5月29日

通貨
ノミスマ
先代
次代
ローマ帝国
ヴァンダル王国
東ゴート王国 | オスマン帝国
モスクワ大公国
セルビア王国
第二次ブルガリア帝国
キプロス王国
ヴェネツィア共和国
テオドロ公国
  • 公式な国号は「ローマ帝国」。
  • 正式な成立時期はない。
古代ローマ

ローマ時代の政治



統治期間
王政時代
紀元前753年 - 紀元前509年

共和政時代
紀元前508年 - 紀元前27年
帝政時代
紀元前27年 - 西暦476年

終身元首制
西方帝国

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専制君主制
東方帝国



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後期帝国法
ローマ法の歴史
元老院
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十人委員会



名誉称号・特別職
ローマ皇帝

軍団幕僚
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ウィカリウス
二十六人官
衛士

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軍司令官
元老院主席
最高神祇官
尊厳者
副帝
テトラルキア



法律
ローマ法

インペリウム
モス・マヨルム
協調性

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権威
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ギリシャの歴史


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ミケーネ文明
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暗黒時代
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アルカイック期
古典期
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ビザンツ帝国支配下のギリシャ
ビザンツ帝国
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トルコクラティア
(オスマン帝国支配下のギリシャ)
近代ギリシャ
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ギリシャ王国
国家分裂 (ギリシャ王国)
ギリシャ第二共和政
八月四日体制
第二次世界大戦時のギリシャ
ギリシャ内戦
ギリシャ軍事政権
ギリシャ第三共和政
その他
ギリシア美術

東ローマ帝国(ひがしろーまていこく)またはビザンツ帝国ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。

西暦476年西ローマ帝国ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥス当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。

目次

  • 1 名称
  • 2 概要
  • 3 歴史
    • 3.1 前史
      • 3.1.1 年表
    • 3.2 前期(395年 - 610年頃)
      • 3.2.1 再興と挫折
    • 3.3 中期(610年頃 - 1204年)
      • 3.3.1 危機と変質 (7世紀 - 8世紀)
        • 3.3.1.1 アラブ・東ローマ戦争(629年頃 - 1050年代)
      • 3.3.2 最盛期(9世紀 - 11世紀前半)
      • 3.3.3 衰退と中興(11世紀後半 - 12世紀)
        • 3.3.3.1 セルジューク・東ローマ戦争(1055年 - 1308年)
      • 3.3.4 分裂とラテン帝国(12世紀末 - 13世紀初頭)
        • 3.3.4.1 第4回十字軍
    • 3.4 後期(1204年 - 1453年)
      • 3.4.1 帝国の再興(1204年 - 1261年)
      • 3.4.2 モンゴル襲来(1223年 - 1299年)
        • 3.4.2.1 オスマン・東ローマ戦争(1326年 - 1453年)
      • 3.4.3 滅亡(1453年)
  • 4 政治
    • 4.1 イデオロギー
    • 4.2 政治体制
    • 4.3 行政制度
      • 4.3.1 属州制からテマ制へ
      • 4.3.2 テマ制の崩壊
      • 4.3.3 プロノイア制
  • 5 住民
  • 6 文化
  • 7 宗教
    • 7.1 正教会
    • 7.2 「皇帝教皇主義」という誤解
    • 7.3 宗教論争
  • 8 法律
  • 9 経済
  • 10 軍事
    • 10.1 初期の軍制
    • 10.2 テマとタグマ
    • 10.3 プロノイア制の時代
    • 10.4 軍隊の規模
  • 11 用語の表記方法について
  • 12 脚註
  • 13 文献
    • 13.1 参考文献
    • 13.2 他の関連文献
  • 14 関連項目
    • 14.1 帝国史
      • 14.1.1 王朝
      • 14.1.2 戦争
      • 14.1.3 軍事
      • 14.1.4 法制度
    • 14.2 地域
    • 14.3 都市
    • 14.4 正教会・キリスト教
    • 14.5 文化
    • 14.6 民族
    • 14.7 周辺諸勢力
  • 15 外部リンク

名称

皇帝レオーン6世(在位:886年 - 912年)の銅貨。裏面には "+LEOn En ΘEO bASILEVS ROMEOn"(レオーン、神に(忠実なる)ローマ人バシレウス)と書かれている。

この国家(およびその類似概念)については、いくつかの呼び方が行われている。

ローマ帝国
3世紀末から4世紀前半にかけて帝国の中心は東方世界へと移行したが、「ローマ人の皇帝」がローマ本土にも存在していた時代には、東ローマ帝国が自らをローマと同等のものとして扱うことは許されなかった。しかし476年に西方正帝が消滅して「ローマ人の皇帝」が帝国東方にしか存在しないようになると、次第に東ローマ帝国では「ローマに代わる第二のローマ」という自意識が育ち、同地の人々は遅くとも6世紀中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになった。こうしてローマ帝国本流を自認するようになった彼らが自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼ぶことはなく、この地域の政府や住民は自国を単に「ローマ帝国 (ラテン語:Imperium Romanum, ギリシア語:Βασιλεία τῶν Ῥωμαίων, Basileia tōn Rhōmaiōn/Vasilia ton Romeon)」と称した。後述するように、中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地 (Ῥωμανία, Rhōmania/Romania)」と呼んでおり、また彼ら自身も「ギリシア人 (Ἕλληνες, Hellēnes/Elines)」ではなく「ローマ人 (Ῥωμαίοι, Rhōmaioi/Romei)」を称していた。
東ローマ帝国
古代のローマ帝国はあまりに広大な面積を占めていたため、3世紀以降にはこれをいくつかの部分に分け、複数の君主が分割統治するという体制がとられることとなった。さらに、4世紀前半のコンスタンティノポリス遷都により、政治的にも「東の部分」が帝国の中心であることが明白となった。395年のテオドシウス1世の死後、長男アルカディウスは東を、次男ホノリウスは西を分割統治するようになり、帝国の「西の部分」と「東の部分」はそれぞれ別個の途を歩むこととなった。これ以降の帝国の「東の部分」を指して、「東ローマ帝国」という通称が使われている。
ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国
ローマ国家自体は古代から1453年まで連綿と続いたものであり、上述の通り「東ローマ帝国」の住民も自らの国家を「ローマ帝国」と認識していた。ところが、7世紀頃以降のこの国家は「古代ローマ帝国」とは文化や領土等の面で違いがあまりにも顕著であるため、便宜上、別の名称が使用されるようになった。「ビザンツ」「ビザンティン」は、すでに帝国が滅びて久しい19世紀以降に使われるようになった通称である。いずれも首都コンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオン(中世・現代ギリシア語ではビザンティオン)に由来している。「ビザンツ」はドイツ語の名詞 Byzanz、「ビザンティン」は英語の形容詞 Byzantine に、「ビザンティオン」はギリシア語の名詞に由来している。日本語での呼称は、歴史学では「ビザンツ」が、美術建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多い。「ビザンティオン帝国」は、英語やドイツ語表記よりもギリシア語表記を重視する立場の研究者によって使用されている。ただし、これらの呼称は7世紀頃以降のこの帝国を指して使われることが多く、その点で、4世紀末~6世紀頃(古代末期)の「東ローマ帝国」とはややその概念を異にしている。
ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国
カール大帝の戴冠による「西ローマ帝国」復活以降は、西欧でこの国を指す際には「ギリシアの帝国」「コンスタンティノープルの帝国」と呼び、コンスタンティノポリスの皇帝を「ギリシアの皇帝」と呼んでいた。東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた西欧諸国にとっては、カール大帝とその後継者たちが「ローマ皇帝」だったのである。また、例えば桂川甫周は、著書『北槎聞略』において蘭書『魯西亜国誌』(Beschrijving van Russland ) の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国であるが、ルーシの記録でも東ローマを「グレキ」(ギリシア)と呼んでおり、東ローマ帝国をギリシア人の帝国だと認識していた。
中世ローマ帝国
この国家を「東ローマ帝国」「ビザンツ帝国」「ギリシア帝国」と呼ぶのは中立的でないとし、少なくとも日本における呼称としては適切でないとする見解が日本の学界の一部では古くから主張されており、そこでは(特に7世紀頃以降のこの国家を指して)「中世ローマ帝国」の呼称が提案されてきた。この呼称はなかなか普及しなかったが、1980年に渡辺金一が普及力の強い岩波新書における自らの著書の題名に冠したことにより、一般の読書人にも知られるようになった。

概要

初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教(正教会)を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していた。しかし、7世紀以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、サーサーン朝ペルシアイスラム帝国により国土を侵食された。8世紀末にはローマ教皇との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。

領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。「ローマ帝国」と称しつつも、住民の多くがギリシア系となり、620年には公用語ラテン語からギリシア語に変わった。これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評す者もいる。「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。

9世紀には徐々に国力を回復させ、皇帝に権力を集中する政治体制を築いた。11世紀前半には、東ローマ帝国はバルカン半島アナトリア半島東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。11世紀後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに第4回十字軍の侵攻と重なったことから一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられた。その後、亡命政権のひとつニカイア帝国によってコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。文化的には高い水準を保っていたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。

古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。また、近年はギリシャだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。

歴史

ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青)。青と緑色部分はトラヤヌス帝時代のローマ帝国最大版図。赤線は東西ローマの分割線
歴代の皇帝については「東ローマ帝国の皇帝一覧」を参照

東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわらず、4世紀から15世紀までの約1000年間という長期にわたってその命脈を保った。その歴史はおおむね以下の3つの時代に大別される。なお、下記の区分のほかには、マケドニア王朝断絶(1057年)後を後期とする説がある。

前史

詳細は「ローマ帝国の混乱と分裂」、「テトラルキア」、および「ウァレンティニアヌス朝」を参照

いつからを東ローマ帝国の歴史として扱うかについては何通りもの考え方があり定説はない。それらの主なものには、たとえば下記に挙げる考え方がある。

第一には、ディオクレティアヌスが皇帝権を分割し、東方にもローマ皇帝(東ローマ皇帝)が誕生して以降の東ローマ皇帝の歴史を東ローマ帝国の歴史と同一視する考え方がある。ただし、ディオクレティアヌスのテトラルキアは、首都ローマを防衛するために4人の皇帝が首都ローマを離れて前線に留まるという体制であり、地方統治に関しては4人の皇帝に正確な領域区分は定められていなかったと考えられている。

次に、コンスタンティヌス1世コンスタンティノポリスを建設した330年を東ローマ帝国の始まりとする考え方がある。コンスタンティヌス1世は、古代ローマ元老院とは異なる元老院をコンスタンティノポリスに建設することでローマ帝国から政治的に独立し、東方の地にオリエント的な「ローマ皇帝の帝国」(東ローマ帝国)を建国したと解釈され、6世紀以降の東ローマ帝国の人々も、この330年を自分たちの国の建国年と考えていた。著名なビザンツ史学者ゲオルク・オストロゴルスキーも、『ビザンツ帝国史』において建都直前の324年(テトラルキアの内戦Civil wars of the Tetrarchyが終結した年)を帝国史の始点としている。ただし、建設された当時のコンスタンティノポリスには法務官護民官財務官、首都長官といった首都機能は整備されておらず、帝国の首都機能は依然としてローマに集中しており、コンスタンティヌス1世の後継者達もコンスタンティノポリスに常住したわけではなかった。330年の時点ではコンスタンティノポリスは帝国の一地方都市の域を出ておらず、コンスタンティノポリスが新帝国の首都となるという認識は同時代にはなかったようである。

次に、ウァレンティニアヌス1世が皇帝権の東西分割を行った364年を東ローマ帝国の始まりとする考え方がある。唯一の正帝となったウァレンティニアヌス1世は、364年に弟ウァレンスを東方正帝として指名し、帝国の東西分担統治を開始した。後述するテオドシウス朝の分担統治も、制度上はウァレンティニアヌスが開始した分担統治をそのまま引き継いだものであり、帝権分割の視点から言えば364年こそが帝国にとって重要な転換点であったとされる。フランスの古代史家アンドレ・ピガニオルは、この時代に初めて「帝国のあらゆる資源」が分割され、帝国東部がローマ帝国本土から明瞭に切り離されたのだとしている。

次に、テオドシウス1世が自身の死に際して彼の二人の息子達(アルカディウスホノリウス)に帝国の半分ずつを相続させた395年をもって東ローマ帝国の始まりとする考え方があり、本記事もこの考え方に基づいて執筆されている。ただしテオドシウスは前述のコンスタンティヌス1世やウァレンティニアヌス1世のように「唯一の正帝」になったことはなく、制度上は、テオドシウスの代に何らかの統一や分割が行われたわけではなかった。テオドシウスの死後も帝国の東西は同一の執政官の下で運営され、法律は東西皇帝の連名で発布された。また、アルカディウスとホノリウスの地位あるいはテオドシウス自身の地位もウァレンティニアヌスが開始した分治制度によったものであり、東西いずれかの皇帝が没した際には、その後継者が指名されるまでは残り一方の存命の皇帝が東西の両地域を統治することとされていた。これらの理由から20世紀以降の歴史学では、アルカディウスとホノリウスによる分割相続には何ら新しい意味合いはなく、それは過去に幾度となく行われてきた単なる分治の一つにすぎないとの評価をされることが多い。一方で、結果としてみるならば、テオドシウスからアルカディウスへの帝位継承による王朝理念の具現が、東地域に西地域とは異なる歴史を歩ませることになったのだとする評価もある。

上記いずれの年代も何らかの意味では歴史の転換点とみなすことができ、またそれが他の年代を帝国史の始点とすることに対する反対論拠ともなっている。

年表

378年、皇帝ウァレンスハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)で敗死。

390年ゴート族Buthericusの逮捕のために、テオドシウス1世が派遣した軍によるテッサロニカの虐殺が起こった。(ギリシアの歴史に残る最初の虐殺である。en:List of massacres in Greeceを参照。)

前期(395年 - 610年頃)

再興と挫折

ユスティニアヌス1世
ユスティニアヌス王朝」および「民族移動時代」も参照

本項では、ローマ帝国の西両地域を実質的に単独支配した最後の皇帝となったテオドシウス1世が、395年の死に際し、長男アルカディウスに帝国の東半分を、次男ホノリウスに西半分を、継がせた時点をもって「東ローマ帝国」の始まりとしている。

皇帝テオドシウス2世(401年 - 450年)は、パンノニアに本拠地を置いたフン族の王アッティラにたびたび侵入されたため、首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁テオドシウスの城壁を築き、ゲルマン人やゴート人に対する防御力を高める事に専心した。皇帝マルキアヌス(450年 - 457年)は、451年カルケドン公会議を開催し、第2エフェソス公会議以来の問題となっていたエウテュケスの唱えるエウテュケス主義単性説を改めて異端として避け、三位一体を支持し、東西教会の分裂を避ける事に尽力した。453年アッティラが急死するとフン族は急速に弱体化し、フン族への献金を打ち切った。マルキアヌスが急死すると、皇帝にはトラキア人レオ1世(457年 - 474年)が据えられたが、アラン人パトリキマギステル・ミリトゥムだったアスパルの傀儡であった。しかし、471年にアスパル父子を殺害して実権を得ることに成功した。

西ローマ帝国での皇帝権はゲルマン人の侵入などで急速に弱体化し、476年に西方正帝の地位が消滅した。東ゲルマン族スキリア族オドアケルは西ローマ皇帝を退位させ、自らは帝位を継承せずに東ローマ皇帝ゼノン(474年 - 491年)に帝位を返上した。東ローマ帝国はゲルマン人の侵入を退けて古代後期時点でのローマ帝国の体制を保ち、コンスタンティノポリスの東ローマ皇帝が唯一のローマ皇帝となった。オドアケルは東ローマ皇帝の宗主権を認めてローマ帝国のイタリア領主として任命され、皇帝の代官としてローマ帝国の本土であるイタリア半島を支配した。

西ローマと違って東ローマがゲルマン人を退けることが出来た理由は

対する西ローマ帝国は穀倉地帯であるシチリアを、ゲルマン人に奪われた。
出典:wikipedia
2018/11/15 15:05

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