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東ローマ帝国とは?

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2012年2月)
ローマ帝国
Res Publica Romana(ラテン語)
Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων(ギリシア語)


 | 395年 - 1453年 | 

(国旗) | (国章)

東ローマ帝国の版図の変遷
公用語 ラテン語ギリシア語)
首都 コンスタンティノポリス
皇帝
383年 - 408年 アルカディウス
474年 - 491年 ゼノン
527年 - 565年 ユスティニアヌス1世
610年 - 641年 ヘラクレイオス1世
870年 - 912年 レオーン6世
976年 - 1025年 バシレイオス2世
1448年 - 1453年 コンスタンティノス11世ドラガセス(最後)
執政官
【405年 - 405年】
アンテミウス
【434年 - 434年】
アスパル
【484年 - 484年】
テオドリック
変遷
成立(東西分割) 395年
イスラム帝国によって領土の大半を失陥 7世紀
第4回十字軍により一旦滅亡 1204年
【亡命政権ニカイア帝国によって再興】
1261年
オスマン帝国によって滅亡 1453年5月29日

通貨
ノミスマ
先代
次代
ローマ帝国
ヴァンダル王国
東ゴート王国 | オスマン帝国
モスクワ大公国
セルビア王国
第二次ブルガリア帝国
キプロス王国
ヴェネツィア共和国
テオドロ公国
  • 公式な国号は「ローマ帝国」。
  • 正式な成立時期はない。
古代ローマ

ローマ時代の政治



統治期間
王政時代
紀元前753年 - 紀元前509年

共和政時代
紀元前508年 - 紀元前27年
帝政時代
紀元前27年 - 西暦476年

終身元首制
西方帝国

 | 

専制君主制
東方帝国



憲法

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共和国法
帝国法
後期帝国法
ローマ法の歴史
元老院
立法議会
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政務官(常設職)

執政官
法務官
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護民官
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属州総督



政務官(臨時職)

独裁官
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執政官代理

 | 

ローマ王
三人委員会
十人委員会



名誉称号・特別職
ローマ皇帝

軍団幕僚
地方司令官
役人
親衛隊長官
ウィカリウス
二十六人官
衛士

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軍司令官
元老院主席
最高神祇官
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副帝
テトラルキア



法律
ローマ法

インペリウム
モス・マヨルム
協調性

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権威
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古典期
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ローマ帝国支配下のギリシャ
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(オスマン帝国支配下のギリシャ)
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ギリシャ王国
国家分裂 (ギリシャ王国)
ギリシャ第二共和政
八月四日体制
第二次世界大戦時のギリシャ
ギリシャ内戦
ギリシャ軍事政権
ギリシャ第三共和政
その他
ギリシア美術

東ローマ帝国(ひがしローマていこく、英語: Eastern Roman Empire)またはビザンツ帝国ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在したが、一般的には395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。なお、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、当時の人々は東ローマ帝国と西ローマ帝国とを合わせて一つのローマ帝国であると考えていた。皇帝府は主としてコンスタンティノポリスに置かれた。

西暦476年西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって廃位された際、形式上は当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の皇帝権が再統一された。帝国は一時期は地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島アナトリア半島を中心とした国家となった。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧やルーシからは「ギリシア帝国」と呼ばれ、13世紀以降には住民の自称も「ギリシャ人」へと変化していった。

目次

  • 1 概要
  • 2 名称
  • 3 歴史
    • 3.1 前史
      • 3.1.1 年表
    • 3.2 前期(395年 - 610年頃)
      • 3.2.1 再興と挫折
    • 3.3 中期(610年頃 - 1204年)
      • 3.3.1 危機と変質 (7世紀 - 8世紀)
        • 3.3.1.1 アラブ・東ローマ戦争(629年頃 - 1050年代)
      • 3.3.2 最盛期(9世紀 - 11世紀前半)
      • 3.3.3 衰退と中興(11世紀後半 - 12世紀)
        • 3.3.3.1 セルジューク・東ローマ戦争(1055年 - 1308年)
      • 3.3.4 分裂とラテン帝国(12世紀末 - 13世紀初頭)
        • 3.3.4.1 第4回十字軍
    • 3.4 後期(1204年 - 1453年)
      • 3.4.1 帝国の再興(1204年 - 1261年)
      • 3.4.2 モンゴル襲来(1223年 - 1299年)
        • 3.4.2.1 オスマン・東ローマ戦争(1326年 - 1453年)
      • 3.4.3 滅亡(1453年)
  • 4 政治
    • 4.1 イデオロギー
      • 4.1.1 ローマ帝国の継承者として
      • 4.1.2 ビザンツ皇帝理念
    • 4.2 政治体制
    • 4.3 行政制度
      • 4.3.1 属州制からテマ制へ
      • 4.3.2 テマ制の崩壊
      • 4.3.3 プロノイア制
  • 5 住民
  • 6 文化
  • 7 宗教
    • 7.1 正教会
    • 7.2 「皇帝教皇主義」という誤解
    • 7.3 宗教論争
  • 8 法律
  • 9 経済
  • 10 軍事
    • 10.1 初期の軍制
    • 10.2 テマとタグマ
    • 10.3 プロノイア制の時代
    • 10.4 軍隊の規模
  • 11 用語の表記方法について
  • 12 脚註
  • 13 文献
    • 13.1 参考文献
    • 13.2 他の関連文献
  • 14 関連項目
    • 14.1 帝国史
      • 14.1.1 王朝
      • 14.1.2 戦争
      • 14.1.3 軍事
      • 14.1.4 法制度
    • 14.2 地域
    • 14.3 都市
    • 14.4 正教会・キリスト教
    • 14.5 文化
    • 14.6 民族
    • 14.7 周辺諸勢力
  • 15 外部リンク

概要

初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教(正教会)を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していた。しかし、7世紀以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、サーサーン朝ペルシアイスラム帝国により国土を侵食された。8世紀末にはローマ教皇との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。

領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。住民の多くがギリシア系となり、620年には公用語ラテン語からギリシア語に変わった。これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評す者もいる。「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。

9世紀には徐々に国力を回復させ、東ローマ皇帝に権力を集中する政治体制を築いた。11世紀前半には、東ローマ帝国はバルカン半島アナトリア半島東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。11世紀後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに第4回十字軍の侵攻と重なったことから一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられた。その後、亡命政権のひとつニカイア帝国がコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。文化的には高い水準を保っていたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。

古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。また、近年はギリシャだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。

名称

皇帝レオーン6世(在位:886年 - 912年)の銅貨。裏面には "+LEOn En ΘEO bASILEVS ROMEOn"(レオーン、神に(忠実なる)ローマ人バシレウス)と書かれている。

この帝国(およびその類似概念)は、いくつかの名称で呼ばれている。

東ローマ帝国
古代のローマ帝国はあまりに広大な面積を占めていたため、3世紀のテトラルキア以降には、帝国をいくつかの領域に分けて複数の皇帝によって分担統治するという体制がとられることとなった。395年テオドシウス1世の死後に、長男アルカディウスが東方領土を、次男ホノリウスが西方領土を担当するようになって以降、帝国の「西の部分」と「東の部分」とはそれぞれ別個の途を歩むこととなった。帝国の東西分担統治が常態化して以降の帝国の「東の部分」を指して「東ローマ帝国」という通称が使われている。
ローマ帝国
3世紀末から4世紀前半にかけてローマ帝国の中心は東方世界へと移行したが、「ローマ人の皇帝」がローマ本土に存在していた時代には、東ローマ帝国の人々が自らをローマと同等のものとして扱うことは許されなかった。またコンスタンティノープルの宮廷にしても、ローマの権威への対抗意識から「ローマ帝国」や「ローマ人の皇帝」といった表現は用いずに、単に「帝国」や「皇帝」とだけ称していた。しかし5世紀末に「ローマ人の皇帝」が存在しないようになると、次第にコンスタンティノープルでは「ローマに代わる第二のローマ」という自意識が育ち始めた。同地の人々は遅くとも6世紀中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになり、9世紀以降には「ローマ帝国」や「ローマ皇帝(ローマ人のバシレウス)」といった語も用いられるようになった。こうしてローマ帝国本流を自認するようになった彼らが自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼んだことはなく、正式な国名及び国家の自己了解は「ローマ帝国(ラテン語:Res Publica Romana; ギリシア語:ギリシャ語: Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων‎, ラテン文字転写: Politeia tōn Rhōmaiōn)」であった。中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地 (Ῥωμανία, Rhōmania/Romania)」と呼んでおり、また彼ら自身も12世紀頃までは「ギリシア人 (Ἕλληνες, Hellēnes/Elines)」ではなく「ローマ人 (Ῥωμαίοι, Rhōmaioi/Romei)」を称していた。
ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国
この帝国の7世紀頃以降は文化や領土等の点で古代ローマ帝国との違いが顕著であるため、16世紀になると、便宜上「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」「ビザンティオン帝国」といった別の名称で呼ばれるようになった。16世紀に「ビザンツ帝国」という語の使用が確立されたのは、人文主義者メランヒトンの弟子ヒエロニムス・ヴォルフ(1516年1580年)の功績とされる。ヴォルフはビザンツ史が単純なギリシア史ともローマ帝国史とも異なる一分野であることを見抜いた人物で、ヴィルヘルム・ホルツマンダヴィッド・ヘッシェルヨハネス・レウンクラヴィウスドゥニー・プトーヴルカニウスメウルシウスレオ・アラティウスら16世紀から17世紀初頭にかけての多くの学者がヴォルフの例に従った。これ以降、学問領域においては近代を経て現代に至るまで一般に「ビザンツ帝国」の名称が用いられ続けている。これらの名称はコンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来し、「ビザンツ」はドイツ語の名詞 Byzanz、「ビザンティン」は英語の形容詞 Byzantine、「ビザンティオン」はギリシア語の名詞をもとにした表記である。日本においては、歴史学では「ビザンツ」が、美術建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多く、「ビザンティオン」は英語やドイツ語表記よりもギリシア語表記を重視する立場の研究者によって使用されている。ただし、これらの呼称は帝国が古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提としており、7世紀頃以降の帝国を古代末期のローマ帝国(後期ローマ帝国)と区別するために使われることが多い。例えばオックスフォード・ビザンツ事典や人気のある通史であるゲオルク・オストロゴルスキーの『ビザンツ帝国史』やA.H.M.ジョーンズの『後期ローマ帝国』では古代ローマ帝国の東方領土は602年から610年の間に消失したとされ、7世紀に誕生するビザンツ帝国が6世紀までの帝国とは異なる帝国として扱われている。
ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国
古代ローマの人々は同地の人々を指して「ギリシア人」と呼んでおり、それは同地の人々が「ローマ人」を自称するようになった6世紀以降にも変わりはなかった。一方でローマ市の人々は東方の皇帝を指して「ローマ人の皇帝」とも呼んで帝冠の認可権と処分権の所持を表明し、東方は今でもローマの支配域(ローマ帝国)の一部であるとの主張をしていた。しかしカール大帝の戴冠によって西ローマ帝国にローマ皇帝が復活して以降には、西欧でこの帝国を指す際には「ギリシアの帝国」「コンスタンティノープルの帝国」と呼び、その皇帝も「ギリシアの皇帝」と呼ぶようになった。東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた西欧諸国にとっては、カール大帝とその後継者たちが「ローマ皇帝」だったのである。13世紀のパレオロゴス朝ルネサンス以降には、東ローマ帝国の人々も自らを指して「ヘレネス(ギリシア人)」と呼ぶようになっていった。また、東ローマ帝国はルーシの記録でも「グレキ(ギリシア)」と呼ばれており、東ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国においても東ローマ帝国はギリシア人の帝国だと認識されていた。例えば桂川甫周は著書『北槎聞略』において、蘭書『魯西亜国誌』(Beschrijving van Russland ) の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。

歴史

ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青)。青と緑色部分はトラヤヌス帝時代のローマ帝国最大版図。赤線は東西ローマの分割線
歴代の皇帝については「東ローマ帝国の皇帝一覧」を参照

東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわらず、4世紀から15世紀までの約1000年間という長期にわたってその命脈を保った。その歴史はおおむね以下の3つの時代に大別される。なお、下記の区分のほかには、マケドニア王朝断絶(1057年)後を後期とする説がある。ただし、いつからいつまでを東ローマ帝国あるいはビザンツ帝国の歴史として扱うかについては何通りもの考え方があり定説はない。本記事で東ローマ帝国の歴史として扱っている歴史の範囲ですら、単一の帝国史であるのか異なる複数の帝国史の合成であるのかについては、連続説と断絶説とに分かれて長らく議論が続けられている。

前史

ローマ帝国の混乱と分裂」、「テトラルキア」、および「ウァレンティニアヌス朝」も参照

いつからを東ローマ帝国の歴史とするかについては、たとえば主なものとして下記に挙げる考え方がある。

第一には、ディオクレティアヌスが皇帝権を分割し、東方にもローマ皇帝(東ローマ皇帝)が誕生して以降の東ローマ皇帝の歴史を東ローマ帝国の歴史と同一視する考え方がある。例えば歴史家の尚樹啓太郎は、著書『ビザンツ帝国史』の序説をディオクレティアヌス期の解説にあて、『ビザンツ帝国史年表』をディオクレティアヌスが即位した284年より始めている。ただし、ディオクレティアヌスのテトラルキアは、首都ローマを防衛するために4人の皇帝が首都ローマを離れて4か所の前線に留まるという職務の分担体制であり、地理的な分割は想定されていなかった。

次に、コンスタンティヌス1世コンスタンティノポリスを建設した330年を東ローマ帝国の始まりとする考え方がある。コンスタンティヌス1世は、古代ローマ元老院とは異なる元老院をコンスタンティノポリスに建設することでローマ帝国から政治的に独立し、東方の地にオリエント的な「ローマ皇帝の帝国」(東ローマ帝国)を建国したと解釈され、6世紀以降の東ローマ帝国の人々も、この330年を自分たちの国の建国年と考えていた。著名なビザンツ史学者ゲオルク・オストロゴルスキーは、ビザンツ帝国とは7世紀に誕生した新興帝国であって7世紀初頭に滅亡した東ローマ帝国とは異なる帝国であるとする断絶説を唱えているが、その著書『ビザンツ帝国史』はテトラルキアの内戦が終結した324年から書き始めている。ただし、建設された当時のコンスタンティノポリスには執政官法務官護民官財務官、首都長官といった首都機能は整備されておらず、帝国の首都機能は依然としてローマに集中しており、コンスタンティヌス1世の後継者達もコンスタンティノポリスに常住したわけではなかった。330年の時点ではコンスタンティノポリスは帝国の一地方都市の域を出ておらず、コンスタンティノポリスが新帝国の首都となるという認識は同時代にはなかったようである。今日の歴史学では、コンスタンティヌス1世が330年にローマからコンスタンティノポリスへ遷都したとする神話は、後世に偽造された歴史にすぎないと考えられている。

次に、ウァレンティニアヌス1世が皇帝権の東西分割を行った364年を東ローマ帝国の始まりとする考え方がある。唯一の正帝となったウァレンティニアヌス1世は、364年に弟ウァレンスを東方正帝として指名し、帝国の東西分担統治を開始した。東方正帝とされたウァレンスの即位10周年式典は、首都ローマではなくウァレンスが拠点としていたアンティオキア市で開催された。後述するテオドシウス朝の分担統治も制度上はウァレンティニアヌスが開始した分担統治をそのまま引き継いだものであり、帝権分割の視点から言えば364年こそが帝国にとって重要な転換点であったとされる。フランスの古代史家アンドレ・ピガニオルは、この時代に初めて「帝国のあらゆる資源」が分割され、帝国東部がローマ帝国本土から明瞭に切り離されたのだとしている。しかしウァレンティニアヌス朝の時代には、テトラルキアやコンスタンティヌス朝の時代あるいは後のテオドシウス朝の時代と比べると東西宮廷の関係は極めて良好であり、全帝国に跨がるような軍事行動も活発だった。例えば378年ハドリアノポリスの戦いで東帝ウァレンスが戦死した後に東方領土を再興したのも、西帝グラティアヌスによって派遣されたテオドシウス、リコメルバウトアルボガストといった西側の将軍たちだった。

次に、テオドシウス1世が自身の死に際して彼の二人の息子達(アルカディウスホノリウス)に帝国の半分ずつを分担統治させた395年をもって東ローマ帝国の始まりとする考え方があり、本記事もこの考え方に基づいて執筆されている。ただしテオドシウスは前述のコンスタンティヌス1世やウァレンティニアヌス1世のように「唯一の正帝」になったことはなく、制度上はテオドシウスの代に何らかの統一や分割が行われたわけではなかった。テオドシウスの死後も帝国の東西は同一の執政官の下で運営され、法律は東西皇帝の連名で発布された。また、アルカディウスとホノリウスの地位あるいはテオドシウス自身の地位もウァレンティニアヌスが開始した分治制度によったものであり、東西いずれかの皇帝が没した際には、その後継者が指名されるまでは残り一方の存命の皇帝が東西の両地域を統治することとされていた。これらの理由から20世紀以降の歴史学では、アルカディウスとホノリウスによる分割相続には何ら新しい意味合いはなく、それは過去に幾度となく行われてきた単なる分治の一つにすぎないとの評価をされることが多い。一方で、結果としてみるならば、テオドシウスからアルカディウスへの帝位継承による王朝理念の具現が、東地域に西地域とは異なる歴史を歩ませることになったのだとする評価もある。特に、テオドシウス1世が東方領土を次男ホノリウスにではなく長男 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/11/14 12:08

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