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東京ヤクルトスワローズとは?

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東京ヤクルトスワローズ
【会社名】
株式会社ヤクルト球団
【創設年度】
1950年
ロゴデザイン

所属リーグ

セントラル・リーグ


歴代チーム名

国鉄スワローズ(1950年 - 1965年5月9日)
サンケイスワローズ(1965年5月10日 - 同年末)
サンケイアトムズ(1966年 - 1968年)
アトムズ(1969年)
ヤクルトアトムズ(1970年 - 1973年)
ヤクルトスワローズ(1974年 - 2005年)
東京ヤクルトスワローズ(2006年 - 現在)


本拠地
明治神宮野球場(東京都新宿区)

【収容人員】
35,650人(明治神宮野球場)
【フランチャイズの遍歴】

東京都(1952年 - 現在)


永久欠番

なし



獲得タイトル
日本一(5回)

リーグ優勝(7回)

セ・パ交流戦優勝・最高勝率(1回)
(2015年以降は最高勝率)


成績(タイトル以外)
シリーズ出場(7回)(太字は勝利した年)

クライマックスシリーズ(4回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)

1勝3敗




球団組織
【オーナー】
根岸孝成
【運営母体】
ヤクルト本社
【監督】
小川淳司

株式会社ヤクルト球団
Tokyo Yakult Swallows
種類
株式会社
【本社所在地】
107-0061
東京都港区北青山二丁目12番28号 青山ビル4階
業種
サービス業
法人番号
8010401029745
【事業内容】
プロ野球興行
【代表者】
衣笠剛(代表取締役社長)
【資本金】
4億9500万円(2017年12月31日現在)
【純利益】
△921万6千円(2017年12月期)
【純資産】
7億7495万6千円
(2017年12月31日現在)
【総資産】
27億6933万2千円
(2017年12月31日現在)
【決算期】
12月末日
【主要株主】
株式会社ヤクルト本社 80%
株式会社フジ・メディア・ホールディングス 20%
【関係する人物】
松園直已松園尚巳相馬和夫
【外部リンク】
東京ヤクルトスワローズ
特記事項:旧商号・株式会社国鉄球団→株式会社サンケイアトムズ→株式会社アトムズ→株式会社ヤクルトアトムズ

東京ヤクルトスワローズ(とうきょうヤクルトスワローズ、英語: Tokyo Yakult Swallows)は、日本プロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。

東京都保護地域とし、都内新宿区にある明治神宮野球場専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県戸田市にあるヤクルト戸田球場である。

目次

  • 1 球団の歴史
    • 1.1 国鉄 - アトムズ時代
      • 1.1.1 国鉄時代
      • 1.1.2 サンケイ時代
      • 1.1.3 アトムズ時代
    • 1.2 ヤクルト時代
      • 1.2.1 三原監督時代
      • 1.2.2 荒川、広岡監督時代
      • 1.2.3 武上監督時代
      • 1.2.4 関根監督時代
      • 1.2.5 野村監督時代
      • 1.2.6 若松監督時代
      • 1.2.7 古田監督時代
      • 1.2.8 第1次小川監督時代
      • 1.2.9 真中監督時代
      • 1.2.10 第2次小川監督時代
  • 2 所属選手・監督・コーチ
  • 3 チーム成績・記録
    • 3.1 試合、勝敗、勝率に関する記録
    • 3.2 その他の記録
    • 3.3 チーム個人記録
  • 4 歴代本拠地
  • 5 チームの特徴
    • 5.1 球団名
    • 5.2 マスコット
    • 5.3 応援スタイル
    • 5.4 営業・ファンサービス
      • 5.4.1 公式ファンクラブ「SWALLOWS CREW」
      • 5.4.2 セ・リーグ首都圏3球団合同企画
    • 5.5 地方開催
      • 5.5.1 長崎県との縁
      • 5.5.2 東日本大震災後の対応
    • 5.6 その他
  • 6 球団旗の変遷
  • 7 ユニフォームの変遷
    • 7.1 限定版ユニフォーム
  • 8 スポンサー
    • 8.1 トップスポンサー
    • 8.2 スワローズ・燕市交流事業
    • 8.3 ユニフォームスポンサー
      • 8.3.1 過去
  • 9 歴代監督
  • 10 永久欠番
  • 11 主な歴代の球団歌・応援歌
  • 12 主なキャンプ地
  • 13 キーワード
    • 13.1 フジサンケイグループ
    • 13.2 試合球到着遅延事件
    • 13.3 初優勝決定の日
    • 13.4 ロケットボーイズ
    • 13.5 F-Projectとヤクルトタウン
      • 13.5.1 主な活動
    • 13.6 セ・リーグ1試合最多タイ本塁打
    • 13.7 11打数連続安打(ギネス世界記録に認定)
    • 13.8 本拠地移転に関するエピソード
      • 13.8.1 後楽園から神宮移転の経緯
      • 13.8.2 仙台移転誘致構想
      • 13.8.3 新潟県・新潟市による誘致構想
    • 13.9 同一チームで打撃主要3部門を分け合い(史上初)
  • 14 関連書籍
  • 15 脚注
    • 15.1 注釈
    • 15.2 出典
  • 16 関連項目
  • 17 外部リンク

球団の歴史

国鉄 - アトムズ時代

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国鉄時代

1949年

シーズンオフでリーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立のあおりを受け、各地の国鉄鉄道局(当時)の野球部から選手が引き抜かれる事態が発生した。国鉄は同年の大幅な合理化で労使関係が悪化していることもあり、国鉄職員の団結と意志発揚を目的にプロ球団設立を発案した。当時の国鉄総裁・加賀山之雄が大の野球好きだったことも、参入実現の一要因となった。

しかし、日本国有鉄道法に抵触するため国鉄が直接親会社になることはできず、国鉄の外郭団体である財団法人交通協力会(現:公益財団法人交通協力会・株式会社交通新聞社)が主体となり、1950年1月12日に財団法人鉄道弘済会日本通運、日本交通公社(現:公益財団法人日本交通公社・株式会社ジェイティービー)などの企業により株式会社国鉄球団(資料によっては国鉄野球株式会社となっている物もあり)を設立。球団名を国鉄スワローズ(こくてつスワローズ Kokutetsu Swallows )とし、(#球団名も参照のこと)セントラル・リーグに加盟。初代監督には西垣徳雄が就任。

国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも大企業である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。本拠地は元逓信省総裁松前重義の尽力で、武蔵境の旧中島飛行機工場跡地に新しい野球場「武蔵野グリーンパーク野球場」が建設された(諸事情により1956年閉鎖。7試合しか行われなかった)。

しかし、参入が他新球団より遅れていたため選手確保がままならず、自前の鉄道局野球部を中心に他の社会人や大学などのアマチュア野球に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は第二次世界大戦前の一時期阪急に在籍した中村栄ただ1人という状態だった。アマチュア野球では強豪の鉄道局野球部もプロでは全く通用しなかったため、松竹ロビンスの二軍監督・森谷良平と、かつて奉天満鉄倶楽部に在籍していた宇佐美一夫を追加補強してクリーンアップに据えたものの、その後も貧打に悩まされた。

1950年

3月10日の球団初公式戦の対大洋ホエールズ戦(下関)に2対1で敗れ、続く11日の対広島カープ戦に3対2で球団初勝利を挙げる。しかし序盤の3月21日から14連敗、4月26日から10連敗で最下位で、8月に享栄商金田正一が高校を中退して入団し、10月1日にプロ初勝利を挙げるとこの年8勝を挙げ、チームは終盤13連敗の広島に代わって7位となった。この年チームは42勝94敗2分で首位松竹ロビンスから57.5ゲーム、最下位広島と1.5ゲーム差の8球団中7位に終わる。シーズン終了後、西日本パイレーツがセ・リーグを脱退したため、セ・リーグは7球団となる。

1951年

開幕から4月にかけて12勝4敗で首位に立つが、5月に入り6連敗で2位に落ちると、6月には3勝10敗として、前半戦終了時には6位となっていた。8月に入り、金田正一がこの月6勝を挙げ、チームは11勝10敗で勝ち越し5位に浮上し、そのままシーズンを終える。金田は、22勝を挙げ、最多奪三振を獲得するとともに、9月5日に球団初となるノーヒットノーランを達成。土屋五郎が、球団初のタイトルとなる最多盗塁を獲得。

1952年

この年よりフランチャイズ制が導入され、国鉄は読売ジャイアンツ毎日オリオンズ大映スターズ東急フライヤーズと共に後楽園球場を本拠地とした。開幕から2勝2敗とした後は4連敗、4月に入り4連敗と6連敗、5月に10連敗と連敗を重ねたが、松竹と広島が低迷したことで5位でシーズンを終了。この年120試合制となり初の50勝到達となったが、このうち半分ちかくの24勝は金田正一で二年連続奪三振王となった。佐藤孝夫が球団初の新人王を獲得。

1953年

松竹と大洋が合併したことで、この年からセ・リーグは現在の6球団制に移行。45勝79敗1分に終わり、首位巨人から42ゲーム差、5位大洋松竹と4.5ゲーム差で球団初の最下位となる。西垣徳雄が監督を退任、後任は藤田宗一

1954年

読売ジャイアンツから移籍した宇野光雄の活躍で同年の対巨人戦8連勝。宇野と箱田弘志が球団初のベストナインを獲得する。首位中日から32ゲーム差、55勝73敗2分の5位に終わる。

1955年

10月19日、金田正一がシーズン350奪三振を記録、NPB新記録となると共に大リーグボブ・フェラー348を抜く世界新記録。町田行彦本塁打王を獲得。57勝71敗2分で、首位巨人と34.5ゲーム、4位広島と1ゲーム差の5位に終わり、藤田が監督退任、後任は宇野光雄。

1956年

対巨人戦で11勝(13敗)と互角の試合を見せる。大脇照夫が5月3日の対中日戦(中日)でノーヒットノーラン、宮地惟友が対広島(金沢兼六)で球団初、日本プロ野球3人目となる完全試合を達成している。チームは首位巨人と21ゲーム差、61勝65敗で4位に終わる。オフ、南海ホークスから飯田徳治を金銭トレードで獲得。

1957年

金田正一は7月15日の対中日戦(中日)で2000奪三振を記録。8月21日の対中日戦(中日)でプロ野球4人目の完全試合を達成し、この年は最多勝利最優秀防御率を獲得、沢村賞と自身初のベストナインに選ばれている。佐藤孝夫が22本塁打で本塁打王となる。チームは58勝68敗4分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。

1958年

開幕戦の対巨人戦(後楽園)、金田正一が巨人のルーキー長嶋茂雄を4打席連続三振に抑えるなど、4対2で勝利する。5月24日の対阪神戦(甲子園)で飯田徳治がアキレス腱切断、日本プロ野球記録の連続試合出場記録が1246で止まる。6月6日、金田が球団初の通算200勝を達成。チームは2年連続の58勝68敗4分、首位巨人から17.5ゲーム差の4位に終わる。金田正一が投手部門三冠王(最多勝、防御率、奪三振)と沢村賞を獲得。

1959年

この年も開幕戦の対巨人戦(後楽園)で金田正一が巨人のルーキー王貞治を2三振に抑えている。チームは63勝65敗2分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。

1960年

9月30日に金田正一が対中日戦(後楽園)で勝利して、10年連続20勝を達成するが、チームは54勝72敗4分、首位巨人から17.5ゲーム差、6年ぶりの最下位となる。宇野は監督を辞任、後任は砂押邦信

1961年

6月6日、森滝義己がプロ野球史上5人目となる完全試合を達成。67勝60敗3分で3位とし、球団初、国鉄球団として最初で最後となったAクラス、シーズン通算勝ち越しを記録する。

1962年

9月5日、金田正一がメジャーリーグウォルター・ジョンソンの記録を抜く通算3509奪三振を達成。51勝79敗4分、首位阪神から24ゲーム差の最下位となる。セ・リーグは3割打者が1人という投高打低のシーズンだったが、その中でも国鉄のチーム打率は.201(313得点)だった。これは2リーグ制以降の最低の記録である。11月、東映と共に韓国に遠征し、親善試合を行う。砂押は監督を退任、後任は浜崎真二。オフ、西鉄から豊田泰光を獲得。

年々増大する経営費のために経営主体は交通協力会から鉄道弘済会へと変わっていたが、公共企業・国鉄の球団であるという体面もあり相当の緊縮財政だった。新人選手の契約金は高騰する一方で満足な補強もできず(当てになる戦力は金田だけだった)、同年に起こった三河島事故による批判は球団にも飛び火していた。この年の8月、球団譲渡を前提とした業務提携を産経新聞社フジテレビジョンニッポン放送文化放送と結び、フジサンケイグループとの関係が生じる。この時点で経営主体はフジサンケイグループに移る。

1963年

5月8日の対大洋戦(後楽園)で金田正一が通算300勝を達成。チームは65勝73敗2分、首位巨人から18ゲーム差の4位。浜崎は監督を退任、後任は林義一

1964年

本拠地を後楽園球場から神宮球場へ移転する(移転の経緯については後述のフジサンケイグループ及び明治神宮野球場#ヤクルトの本拠地を参照)。7月30日、金田正一が入団2年目の1951年から14年連続となるシーズン20勝を達成。61勝74敗5分、首位阪神と18.5ゲーム差の5位に終わる。同年オフ、林義一の監督更迭・留任を巡り産経新聞と国鉄は激しく対立。エースの金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ(読売新聞朝日新聞毎日新聞)により「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、議論は平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は10年選手の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイグループへ経営権を全て譲渡して経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイグループの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。

サンケイ時代

1965年

4月23日、国鉄は球団の経営権をサンケイ新聞とフジテレビに譲渡することを発表し、5月10日サンケイスワローズ( Sankei Swallows )に改称。サンケイ初年度となったが、国鉄初年度以来の90敗以上となる、44勝91敗5分。首位巨人とは45.5ゲーム差となった。この年からドラフト会議が行われているが、1位河本和昭をはじめ11名中9名が入団拒否している。

1966年

1月7日、少年野球ファン開拓のためという理由に加え、フジテレビで鉄腕アトム (アニメ第1作)が放送されていたことや手塚治虫が当時球団後援会副会長(会長は徳川夢声)だったという経緯もあって鉄腕アトムをペットマークに使い、チーム名をサンケイアトムズ( Sankei Atoms )に、運営会社名を株式会社サンケイアトムズに改称。同年ヤクルト本社が株式を取得して球団運営に参加。これに伴い球団旗も当時の産経新聞の社旗をアレンジしたものを使っていた。52勝78敗で大洋と並んで5位、首位の巨人とは37ゲーム差。

1967年

58勝72敗5分で首位の巨人と26ゲーム差の5位。巨人に3勝23敗の惨敗。後楽園球場で13連敗。武上四郎が新人王を獲得。

1968年

1月28日神奈川県横須賀市武山球場が完成、二軍本拠地となる。5月26日には対広島戦に勝利し、球団通算1000勝を達成。来日2年目のデーヴ・ロバーツが40本塁打を打つなどして、ベストナインを獲得。投手では石戸四六がチームとしては金田正一以来となるシーズン20勝を挙げる。64勝66敗4分、首位の巨人とは13ゲーム差の4位。

アトムズ時代

1969年

産経新聞は本体の業績不振のため株式の一部をヤクルト本社へ売却。球団経営に積極的だった産経新聞・フジテレビジョン社長の水野成夫が病に倒れ、後を継いだ鹿内信隆がフジサンケイグループの事業見直しを行った結果、不採算だったプロ野球球団経営からの撤退、資本関係のみの継続を決めたもの。当時、ヤクルト本社は水野とは旧知の間柄だった南喜一が代表者を務めていた。実質経営権はヤクルト本社が握ったが、表面上は共同経営とし球団名をアトムズ( Atoms )と、運営会社名を株式会社アトムズ球団とした。これは2リーグ分立以降でチーム名に企業名・地域名などの冠名がつかない唯一の例となった。この年はボブ・チャンスが24試合で12本塁打を記録し、58勝69敗3分で、首位の巨人と16.5ゲーム差の5位だった。

ヤクルト時代

1970年

1月7日にヤクルト本社が公式に単独で経営権を持ち、球団名をヤクルトアトムズ( Yakult Atoms )に、運営会社名を株式会社ヤクルトアトムズに改称となり、チームカラーもヤクルト本社の社色である赤・白・緑のものとなった(球団旗やユニフォームなどに使用)。この年は序盤から大きく出遅れ、8月には1936年の大東京軍と並ぶ16連敗を喫した。この連敗期間中の8月20日別所毅彦が監督を解任され、2軍監督の小川善治がシーズン終了まで代理監督を務めた。結局、シーズン92敗を喫し、33勝しかできず、勝率は3割を大きく下回る.264で、首位の巨人に45.5ゲーム差を付けられ最下位に終わる。巨人戦、阪神戦ともに5勝21敗で後楽園球場では13戦全敗。2桁勝利投手ゼロは球団史上初。東条文博が28盗塁で盗塁王。

三原監督時代

1971年

三原脩が監督に就任。チームは52勝72敗6分けの勝率.419と前年より盛り返すものの2年連続最下位に終わる。松岡弘は14勝を挙げた。9月27日、二軍はイースタンリーグで初優勝している。

1972年

前年に三原とともに入団した中西太打撃コーチのマンツーマン指導を受けた2年目の若松勉が首位打者、ルーキーの安田猛も1972年・1973年と2年連続で防御率1位となって頭角を現す。彼らの活躍もあり、この年は最下位を脱出、60勝67敗3分けの勝率.472の4位に浮上。8月12日、二軍は2年連続イースタンリーグ優勝。

1973年

62勝65敗3分けの勝率.488にてチームは2年連続の4位に終わり三原は監督を辞任。11月26日虫プロダクションの倒産に伴い、鉄腕アトムのキャラクター使用を中止。10月26日、球団名を株式会社「ヤクルト球団」、チーム名を「ヤクルトスワローズ( Yakult Swallows )」に変更。キャラクターも、ツバメをモチーフにしたものに変更。

荒川、広岡監督時代

1974年

打撃コーチの荒川博が監督に昇格、コーチで入団した広岡達朗沼澤康一郎小森光生と「早大カルテット」を形成した。松岡が17勝、浅野啓司も防御率2位と活躍し、チームは60勝63敗7分けの勝率.488にて13年ぶりのAクラスとなる3位。

1975年

日本ハムとの交換トレードで大杉勝男を獲得したが結果は57勝64敗9分けの勝率.471の4位。シーズン終了後に武上四郎が引退。

1976年

5月12日、荒川博監督が成績不振を理由にシーズン途中で休養し、ヘッドコーチの広岡達朗が5月13日から代行となり、6月17日に監督就任。結局52勝68敗10分けの勝率.433の5位に終わり、国鉄時代の1962年からこの年まで15年連続シーズン負け越しを記録し、セ・リーグワースト記録となる。なお、全球団に負け越したにもかかわらず最下位を免れたのは、日本プロ野球史上初めてのケースだった。

1977年

大杉がこの年多くの記録を立て、9月14日の大洋戦では1イニング5本塁打の日本タイ記録を達成した。若松が2度目の首位打者、入団2年目のチャーリー・マニエルが42本塁打を放つ。62勝58敗10分けの勝率.517により、チームは球団創設以来初の2位に躍進。

1978年

前年の2位躍進に気をよくしたフロントは選手に対し「ブラジルへの慰安旅行」を計画したが広岡監督はこれに反対し「旅行するぐらいなら温暖な海外でキャンプを」と希望。これを受けて2月、球団史上初めて日本国外キャンプとなるアメリカユマキャンプを行う。広岡の参謀として巨人時代の同僚だった森昌彦がヘッドコーチで入団、キャンプでテストを受けたデーブ・ヒルトンも加わり打線は厚みを増した。初優勝を狙うチームは前半を首位で折り返すも、後半に入り失速、3連覇を狙う巨人に抜かれ、8月には一時4.5ゲーム差を付けられるが、8月26日からの対巨人3連戦を松岡の完封、安田の連日の好リリーフで2勝1分けと持ち直し、巨人に代わり首位に返り咲く。9月に初めてマジックが点灯すると、9月19日のダブルヘッダー第2試合、さらに杉浦亨が連日のサヨナラ打を放った20日・21日と3試合連続サヨナラ勝ちを収め、下位球団相手に取りこぼす巨人を尻目に一気に加速、10月4日の対中日戦(神宮)で創立29年目で初のリーグ優勝を決める。日本シリーズではそれまで3年連続日本一だった阪急ブレーブスを4勝3敗で下し初の日本一。この年は開幕から129試合目まですべて得点を挙げていたが、最終戦の広島戦で大野豊に完封負けを喫し、全試合得点とはならなかった。なお、広岡監督が正力松太郎賞に、若松がチーム初のセ・リーグ最優秀選手に選出された。

1979年

マニエルの近鉄への放出を軸としたオフの補強に失敗し、開幕8連敗と大きく出遅れる。5月に盛り返し、5月27日にはマニエルに代わる新外国人ジョン・スコットがサイクル本塁打を放つ活躍で勝率を5割まで戻すが、その後は再び最下位を独走。8月にヘッドコーチの森が解任され、これに激怒した広岡が途中休養(指揮権放棄)し辞任。打撃コーチの佐藤孝夫が代理監督を務めた。結局このシーズンは48勝69敗13分けの最下位。日本一の翌年に最下位に転落するのは、1961年の大洋以来18年ぶり2度目の不名誉。

武上監督時代

1980年

武上四郎が球団初の生え抜きとして監督に就任。相性優先のローテーションで巨人・中日・阪神・大洋から15勝以上挙げるが、広島に大きく負け越し。結局この年優勝した広島に大差をつけられての68勝52敗10分けの勝率.567、2位に終わる。松岡が最優秀防御率のタイトルを獲得。

1981年

マニエルが近鉄から復帰し優勝への期待が高まるが、マニエルは年齢的な衰えで12本塁打に止まり、さらに若松、スコットが相次いで負傷し外野陣が崩壊、出場機会が大幅に増えた代走・守備固め専門の青木実が盗塁王を獲得したが、チームは56勝58敗16分け勝率.491の4位に終わる。シーズン終了後に安田が引退。

1982年

優勝当時の主力である大杉、大矢明彦、松岡らの衰えと外国人選手ラリー・ハーローらの不振からシーズン序盤より最下位を独走。最終結果は45勝75敗10分け、勝率.375で首位の中日と23.5ゲーム離される。

1983年

ドラフトにて巨人との抽選の末入団交渉権を獲得した荒木大輔が入団し、近鉄とのトレードで井本隆を獲得する。しかし、チームは井本や松岡、ボビー・マルカーノらの不振もあり、53勝69敗8分けの勝率.434にて2年連続最下位に終わった。シーズン終了後に大杉が現役引退。

1984年

4球団競合の末ドラフト1位で獲得したルーキーの高野光が開幕投手に大抜擢され話題となったが、開幕からチームは不振が続く。武上がシーズン途中で監督休養、中西太が代理監督に就任するが中西も途中休養。投手コーチだった土橋正幸がシーズン終了まで代理監督を務めた(その後土橋は、正式に監督に就任)。この年、チームは51勝71敗8分けの勝率.418の5位となり、辛くも最下位を免れる。

土橋監督時代

1985年

明治大学の主砲広沢克己(後に広澤克実)を獲得。杉浦享が自己最多の34本塁打、八重樫幸雄も捕手として球団初の3割打者と活躍したがチームはシーズン早々から首位戦線から1チームだけ脱落し、結局46勝74敗10分け勝率.383の最下位。10月9日に若松が2000本安打を達成。シーズン終了後に優勝バッテリーの松岡と大矢明彦が共に引退。同年、日本プロ野球選手会 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/07/05 18:36

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