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東京国際空港とは?

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東京国際空港
Tokyo International Airport
(羽田空港 Haneda Airport)



IATA: HND - ICAO: RJTT
【概要】

【国・地域】
日本
【所在地】
東京都大田区羽田空港
【種類】
民間
【運営者】
国土交通大臣
【運用時間】
24時間
【標高】
6.4 m (21 ft)
座標
北緯35度33分12秒 東経139度46分52秒 / 北緯35.55333度 東経139.78111度 / 35.55333; 139.78111座標: 北緯35度33分12秒 東経139度46分52秒 / 北緯35.55333度 東経139.78111度 / 35.55333; 139.78111
【公式サイト】
http://www.haneda-airport.jp/
【地図】

HND
東京都区部の地図を表示
HND
東京都区部および多摩地域の地図を表示
HND
日本の地図を表示
東京国際空港の位置
【滑走路】

方向
ILS
【長さ×幅 (m)】
【表面】

16R/34L | I | 3000×60 | 舗装
16L/34R | IIIb | 3360×60 | 舗装
04/22 | I | 2500×60 | 舗装
05/23 | I | 2500×60 | 舗装

【リスト】

空港の一覧

東京国際空港(とうきょうこくさいくうこう、英語: Tokyo International Airport)は、東京都大田区羽田空港にある日本最大の空港通称羽田空港(はねだくうこう、英語: Haneda Airport)。単に「羽田」でも通用する。空港法第4条に定める「国際航空輸送網又は国内航空輸送網の拠点となる空港」の一つであり、同国の国土交通大臣が設置・管理する。なお、通称の「羽田空港」は当空港周辺の旧町名「羽田町」に由来する。

目次

  • 1 概要
  • 2 歴史
    • 2.1 羽田飛行場開港
    • 2.2 正式開港
    • 2.3 ハブ空港
    • 2.4 戦時下
    • 2.5 連合国管理下
    • 2.6 返還以後(東京国際空港)
    • 2.7 混雑
    • 2.8 成田空港完成
    • 2.9 沖合展開事業の進展
    • 2.10 国際チャーター便就航
    • 2.11 B滑走路高速離脱誘導路
  • 3 再拡張事業
    • 3.1 D滑走路の建設
    • 3.2 新管制塔
    • 3.3 国際線地区
    • 3.4 羽田空港船着場の開設
  • 4 再拡張後の整備・拡張
    • 4.1 国内線第1ターミナルの整備
    • 4.2 国際線ターミナルの拡張
    • 4.3 C滑走路の延伸
  • 5 国際線の就航状況
    • 5.1 成田空港開港まで
    • 5.2 成田空港開港後
    • 5.3 定期チャーター便の就航と再国際化
    • 5.4 拡張後の国際線就航協議・合意
  • 6 今後の整備構想
    • 6.1 発着容量拡大試算
      • 6.1.1 都心上空飛行の規制緩和
      • 6.1.2 A滑走路の南側延伸提言
      • 6.1.3 第5滑走路の建設提言
    • 6.2 神奈川口
  • 7 施設
    • 7.1 滑走路
    • 7.2 旅客ターミナル
      • 7.2.1 第1旅客ターミナル
      • 7.2.2 第2旅客ターミナル
      • 7.2.3 国際線ターミナル
    • 7.3 貨物ターミナル
    • 7.4 VIP用施設
    • 7.5 プライベート機用施設
    • 7.6 航空会社施設
    • 7.7 羽田空港船着場
    • 7.8 施設がある機関
    • 7.9 旅客取扱施設利用料
  • 8 ハブ空港(拠点空港)・焦点空港としている航空会社
  • 9 就航路線
    • 9.1 旅客便
      • 9.1.1 国内線
        • 9.1.1.1 第1旅客ターミナル北ウィング
        • 9.1.1.2 第1旅客ターミナル南ウィング
        • 9.1.1.3 第2旅客ターミナル
        • 9.1.1.4 統計
      • 9.1.2 国際線
        • 9.1.2.1 国際線旅客ターミナル
    • 9.2 貨物便
    • 9.3 就航都市
      • 9.3.1 国内線
      • 9.3.2 国際線
    • 9.4 就航開始・運航再開予定
    • 9.5 増便・減便・運休・その他変更予定
    • 9.6 かつて定期便で就航していた航空会社
      • 9.6.1 現存する会社
      • 9.6.2 現存しない会社
    • 9.7 運休・廃止路線
      • 9.7.1 国内線
      • 9.7.2 国際線
    • 9.8 航空会社別運休・廃止路線一覧
      • 9.8.1 国際線
  • 10 空港へのアクセス
    • 10.1 鉄道
      • 10.1.1 将来の計画
    • 10.2 路線バス
    • 10.3 タクシー
    • 10.4 首都高速道路
    • 10.5 一般道路
    • 10.6 徒歩・自転車
    • 10.7 航路
  • 11 事件・事故
    • 11.1 事故
    • 11.2 ハイジャック
  • 12 エピソード
  • 13 東京国際空港を舞台とする作品
    • 13.1 テレビ
    • 13.2 映画
    • 13.3 歌謡曲
    • 13.4 ゲーム
  • 14 脚注
  • 15 参考文献
  • 16 関連項目
  • 17 外部リンク

概要

東京国際空港鳥瞰

1931年8月25日に「東京飛行場」として正式開港以来、日本最大かつ東京首都圏を代表する空港で、2014年現在、羽田空港は世界の空港の中で5番目に旅客数の多い空港となっている。日本航空全日本空輸スカイマークの国内線ハブ空港である。

年間の航空機発着回数は約38万4000回、航空旅客数は約6,670万人でそれぞれ国内最大(2位はいずれも成田国際空港)。航空貨物取扱量は約84.4万トンで国内第2位(1日あたり約2246トン。1位は成田国際空港)。定期乗り入れ航空会社以外のチャーター便やビジネスジェットの乗り入れも行われている。

皇族内閣総理大臣などが政府専用機を使用する場合や、国賓や公賓が専用機や特別機で訪日する際はほとんどの場合、羽田空港を使用する。これは羽田空港の方が成田空港より都心に近く沿道の警備が容易なためである。このため、専用施設としてVIP機専用スポット (V1・V2) や旅客ターミナルビルとは別棟の中に設けられた貴賓室がある。

日本では数少ない24時間運用が可能な空港の1つであるが、深夜から未明の時間帯にかけては国際線や貨物便が発着するのみとなっている。国内線の各旅客ターミナルビルの開館時間は、定期便の運航時間帯に合わせ、第1旅客ターミナル・第2旅客ターミナルとも5:00 - 24:00ごろとなっている。国際線ターミナルビルの開館時間は24時間である。

空港の設置および空港機能の管理・運用については国土交通省東京航空局東京空港事務所が行なっているが、各ターミナルビルの管理・運用についてはそれぞれ次のようになっている。

【】
【施設】
【管理・運用会社】
【備考】

国内線地区 | 国内線各ターミナルビル | 日本空港ビルデング株式会社 | 
国際線地区 | 国際旅客ターミナルビル | 東京国際空港ターミナル株式会社(TIAT=ティアット) | 2010年10月に開業。日本の空港としては初のPFI事業として、国との間で事業契約を締結した民間事業者が建設・管理・運用を行なっている。
国際貨物ターミナルビル | 東京国際エアカーゴターミナル株式会社
国際線地区エプロン | 羽田空港国際線エプロンPFI株式会社

東京空港事務所においては羽田空港に関する飛行場管制業務のほか、羽田空港、成田空港、下総飛行場木更津飛行場館山飛行場に関する進入・ターミナルレーダー管制業務を実施している。

また、伊豆諸島の各小規模空港(リモート空港)に関する情報提供等を実施している。なお、コールサインについて、新島空港神津島空港は「伊豆リモート」、三宅島は「三宅リモート」を使用する。

羽田空港は東京23区内にあり利便性が高い反面、騒音問題・増便規制・小型機の乗り入れ禁止などのいわゆる羽田空港発着枠問題といった緊急に解決が必要な問題が存在する(航空法上の混雑空港(IATAのWSGで最も混雑レベルが激しい「レベル3」)にあたる)。これらの問題を解決するため、現在までに沖合展開事業再拡張事業横田空域の調整が行われている。空港騒音に関しては羽田空港一帯(羽田空港一丁目 - 羽田空港三丁目、これらに接する地先及び水面)のみ騒音規制法(昭和43年法律第98号)第3条第1項の規定に基づき、大田区長が指定する地域から除外されている。

羽田空港の敷地面積は約1,522ヘクタール、埋め立てによる拡張により成田空港を超える日本最大の面積の空港となり、大田区全体の面積のおよそ4分の1を占める。

2014年、スカイトラックスが実施した「Global Airport Ranking 2014」において日本の空港として初めて世界最高水準の5つ星を獲得した。

歴史

羽田飛行場開港

羽田運動場
エプロンと滑走路(1933年)
ターミナルおよび日本航空輸送の格納庫。左は同社のフォッカー スーパーユニバーサル(1937年)

開港する前の旧地名は東京府羽田江戸見町(鈴木新田字江戸見崎)、羽田穴守町、羽田鈴木町(鈴木新田字宮ノ下・辰巳ノ方・巽ノ方・明神崎・鈴納耕地・堤外東南)、羽田御台場、鈴木御台場(鈴木新田字御台場・御台場耕地・辰巳島)、猟師町御台場(羽田猟師町)であった。

1917年には航空の父とよばれた長岡外史が所沢につくった空港につづき、日本飛行大学校がこの地に開校、「羽田飛行場」と呼ばれた飛行訓練施設が置かれた。飛行訓練が行われたものの、民間の旅客機の離着陸はまだ行われていなかった。また、大正時代には羽田運動場が羽田飛行場の近隣に存在したが、後に空港の拡張に伴い運動場用地が買収されている。1923年の関東大震災の時に、鉄道が壊滅的被害をうけ、飛行機で物資を届けることを長岡外史が思いつき、現在の羽田飛行場のサイズに拡張整備された。同じ頃、航空事故安全のための神社も建立された。

正式開港

1931年8月25日に、羽田飛行場のある東京府荏原郡羽田町鈴木新田字江戸見崎(国際線ターミナル地区付近 翌年に東京府東京市蒲田区羽田江戸見町となる)に日本初の国営(逓信省管轄)民間航空専用空港東京飛行場(羽田飛行場)が正式に開港した。現在の旧整備場地区に位置していた。日本の民間航空黎明期における重要な飛行場であった(面積53haに全長300m、幅15m滑走路1本)。ただ、滑走路以外には草が生い茂っていた上、無線による管制が行われていないため管制塔もなかったなど、設備は簡素なものであった。記念すべき第1便は日本航空輸送大連行き定期便であったが、当時の航空運賃は非常に高額で乗客がいなかったため、代わりに大連のカフェに送る松虫鈴虫6000匹が載せられた。

ハブ空港

1933年には、当時「空の都」として名高かった北多摩郡立川町砂川村立川飛行場の民間航空部門が移駐してきた。この頃には日本航空輸送や満州航空ハブ空港となり、大阪福岡台北京城などの国内主要都市に向けた国内線のみならず、満州国中華民国タイ王国フランス領インドシナへ向けた国際線の運航も活発化し、これに併せて「東京国際飛行場」と呼ばれるようになったほか、ターミナルやハンガー、滑走路や各種航法設備などの充実が行われた。

また、1930年代後半に同盟関係を結び、その後第二次世界大戦では枢軸国同士として一緒に戦うこととなったドイツとの直行便の就航も計画されたが、その後の国際情勢の悪化のためにこれは実現されなかった。しかし大日本航空(日本航空輸送の後身)が就航していたタイのバンコクで、ヨーロッパ各都市へ向かうイギリスインペリアル航空などの国際線と接続することとなった。

この様な国内外の民間航空の発展に伴い、北東アジアにおけるハブ空港としての発展が期待され、1938年に第一次拡張(面積約22万坪、滑走路を600 mから800 mへ延長)し、1939年には2本目の滑走路が完成した。同時にターミナルの増築や航法支援施設の整備も進められた。また1937年5月には欧亜連絡飛行を行った「神風号」の帰着地に、同月にはのちに公認世界記録を樹立する「航研機」の初飛行場所に、1939年8月には世界一周飛行に向かった「ニッポン号」の発着地となるなど、日本の航空史に名を残す偉業の舞台となった。

戦時下

1937年7月に始まった日中戦争以降も内際の民間航空輸送は引き続き行われているが、戦時体制のため日本航空輸送は国際航空などと合併し国策会社の大日本航空となり、日本国内における航空輸送事業は同社によって統一営業されることとなった。

1940年9月には国産旅客機三菱 MC-20の完成披露式が、同月28日の航空日(のちの空の日)には朝日新聞社主催の航空ページェントが開催された。後者ではモーリス・ファルマン機鹵獲ポリカルポフI-16が飛行し、また陸軍航空部隊戦闘機爆撃機によるアクロバット飛行・展示飛行や東京湾上での実弾演習が披露されている。なお、航空ページェントを報じる10月1日公開のニュース映画日本ニュース』第17号では本地を「羽田の東京空港」と紹介している。

1941年1月より、大日本航空が日本の委任統治領のサイパンパラオを経由してジャルート環礁までの定期旅客便を川西式四発飛行艇により就航させたが、羽田には飛行艇の施設がなかったため横浜港発着であった。1941年10月には海軍航空要員の訓練を行う霞ヶ浦海軍航空隊の一部が分遣隊として移駐、軍用飛行場としても使用されることとなり、同年12月に太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発すると日本の民間航空は事実上停止した。

これ以降終戦までの間は、国内線や同盟国の満州国やタイ王国の他に、香港ジャカルタマニラシンガポールなどこれまでイギリスやアメリカオランダ植民地であったが、南方作戦日本軍が占領した東南アジア各都市や、ニューギニアウェワクラバウルといった日本軍勢力圏へ向けて福岡第一飛行場をハブとし、陸軍の特務航空輸送部が定期便を就航させている(徴用された大日本航空が委託運航)。

また、南方作戦で鹵獲されたアメリカ軍中華民国軍オランダ軍オランダ領インド航空ボーイングB-17カーチス・ライトP-40ダグラス DC-5などの展示会も行われた。大戦末期には日本本土を空襲機銃掃射する連合国軍機の爆撃目標となったため、空港内外に陸海軍が高射砲高射機関砲を配置しこれに備えた。

連合国管理下

西側の環八通りからの入口脇に置かれている大鳥居
駐機するアメリカ空軍C-97輸送機(1952年)
日本航空のマーチン2-0-2と客室乗務員(1952年)

1945年8月の終戦後は、日本を占領した連合国軍のうち、関東地域の占領を担当したアメリカ軍の管理下に置かれ、ハネダ・アーミー・エアベース(Haneda Army Airbase、羽田陸軍航空隊基地)と呼ばれることとなり、同空港を首都圏における主要基地の一つとして用いるため拡張を計画し、1946年6月までに完成、旧A滑走路(2145m×45m)と旧B滑走路(1650m×45m)が新設された。

なお、この拡張工事に際し、1945年9月21日にアメリカ軍が警察を通じて拡張地区内の周辺住人に48時間以内の強制退去を命じた。当然のことながら、退去の対象となった建造物は軒並み撤去されたものの、穴守稲荷神社の大鳥居だけは頑丈にできていたため撤去できず、更地(後に駐車場となる)に残された。

この大鳥居は、沖合展開事業に伴う新B滑走路の拡張計画にて障害となるため撤去の計画が出ていたが、移転費用を近隣住民を主体とする有志が負担すると申し出たことにより、1999年2月に800メートルほど南の現在位置に移される。連合国の占領下の日本においては、民間航空を含むすべての日本籍の航空機による活動が禁止されていたため、当時はアメリカやイギリス、フランスなどの連合国の軍用機パンアメリカン航空ノースウエスト航空英国海外航空などの連合国の航空会社の乗り入れのみに使用されていた。

なお1946年3月に、イギリス連邦占領軍のサー・セシル・バウチャー少将が、英国海外航空のショート・サンドリンガム「プリマス型」飛行艇で運航されていたイギリス南海岸のプール(Poole)と香港を結ぶ路線を延長し、東京国際空港沖へ乗り入れるべく連合国軍最高司令部ダグラス・マッカーサー最高司令官に求めたが、飛行艇用の滑水路やハンガー、ターミナルの施設が無いため拒否された。このため、1948年3月19日以降暫くはイギリス連邦占領軍の拠点である岩国基地へ乗り入れていたが、その後羽田空港への陸上機での乗り入れが許可された。

その後サンフランシスコ講和条約が締結され、連合国による日本占領が終結に近づいた1951年10月25日には、日本の航空活動が解禁されたことを受けて、第二次世界大戦後初の国内民間航空定期便として日本航空マーチン2-0-2型機「もく星号」が、羽田空港 - 伊丹空港(大阪) - 板付空港(福岡)間の定期旅客運航を開始した。

返還以後(東京国際空港)

翌1952年7月1日には地上施設の一部がアメリカ軍から返還され、同日に現名称の「東京国際空港」に改名することになった。

また同月には世界初のジェット旅客機であるデ・ハビランド DH.106 コメットMk.Iが英国海外航空によって初飛来し、その後ロンドンヒースロー国際空港との間に南回りヨーロッパ線で定期就航した。翌1953年には日本航空のダグラス DC-6によって、日本の航空会社による第二次世界大戦後初の国際線定期路線の就航が開始された。

この頃から日本の経済状況が急激に回復してきたこともあり、国内線の乗客が急増したのみならず、スカンジナビア航空スイス航空カナダ太平洋航空カンタス航空などが就航するなど外国航空会社の就航開始が相次ぎ国際線の旅客も急増した。これを受け、全面返還に先立つ1955年5月、現在の国際線ターミナルの西側・現B滑走路の南端付近に近代的な設備を持つ新しい旅客ターミナルが開館し、8月には旧A滑走路が2550mに延伸された。その後1958年に全面返還され、1961年には滑走路が3,000mに延伸された。

混雑

共同運行する日本航空のロゴが入ったアエロフロートTu-114

その後1960年代に入ると、日本の空の玄関口、首都の空港として日本航空や外国航空会社によりダグラス DC-8ボーイング707コンベア880などの大型ジェット旅客機が次々と就航したほか、ルフトハンザドイツ航空(1961年)やガルーダインドネシア航空(1962年)、ユナイテッド・アラブ航空(現在のエジプト航空、1962年)やアエロフロート航空(1967年)、マレーシア-シンガポール航空(現在のマレーシア航空シンガポール航空、1968年)など新規乗り入れ航空会社が相次ぎ、さらに地方空港の整備が進んだことで地方路線が増加した。

これを受け、1964年に行われた東京オリンピックにあわせ空港設備の整備拡張が行われた。まず、旅客ターミナルが増築(東京五輪後も度々行われた)された他、旧C滑走路(3150m×60m)の新設、東京モノレールの乗り入れや貨物や検疫施設の拡充などが行われ、8月には旅客ターミナル向かいに初の空港敷地内ホテルである羽田東急ホテルがオープン。その後1971年に旧B滑走路が2500mまで延伸し、旧羽田空港が一応の完成を見た。

しかし、同年に一般旅行者の海外旅行自由化が行われたことや、地方路線の機材大型化やジェット化が進んだことなどもあり、高度経済成長期真っただ中の1960年代後半には、増大する一方の離着陸をさばくのが困難になり、ターミナル寄りの旧A滑走路 (15R/33L) の使用を停止して駐機スポットにするなどの策も講じたが、それでも増加する乗り入れ機の対応が難しくなった。また、旧A滑走路の使用停止により発着便の増加が事実上不可能になった上に、旅客ターミナルにボーディングブリッジが設置されていない他、旅客ターミナルの混雑や貨物ターミナルの処理能力も限界に達し、抜本的な解決を望む声が多くなった。

この様な声に対し当時の運輸省は羽田空港の沖合展開(更なる埋め立て)を検討したものの、当時の港湾土木技術では沖合移転に必要な埋め立て工事には多大な困難が予想されたことや、アメリカ空軍横田飛行場の管理していた東京西部空域との兼ね合いもあり、首都圏第二空港の開設を決定した。その後候補地の策定を行い、1966年(昭和41年)千葉県成田市に新東京国際空港(現・成田国際空港)の建設が始まる。

成田空港完成

日本航空のボーイング747

1970年には、パンアメリカン航空と日本航空が相次いで当時の主力機材であったボーイング707型機やDC-8型機の倍以上の座席数を持つボーイング747型機を就航させ、ノースウエスト航空英国海外航空エールフランス航空KLMオランダ航空などの他の乗り入れ航空会社もその後を追ったものの、ボーディングブリッジを備えたスポットがわずか3か所しかないなど、大型機の就航に施設拡充が間に合わないような状況は続いた。

その上、日本の高度経済成長が続いていた1970年代中盤には、日本航空がボーイング747型機を国内線に投入したほか、国内線のみを運航する全日本空輸や東亜国内航空ロッキード L-1011 トライスター型機やエアバスA300型機などのワイドボディ機の就航を開始したことから、国際線のみならず国内線ターミナル、貨物ターミナルの処理能力も限界に達してしまう。

そして1978年5月20日に成田空港が開港すると、外交的問題から成田空港への移転を行わなかった中華民国(台湾)の中華航空(現・チャイナエアライン)を除く全ての国際線が成田に移転した。なお、その後1990年代に就航開始した中華民国のエバー航空も羽田空港を利用することとなった。詳細は「国際線の就航状況」の節を参照のこと。

沖合展開事業の進展

上空からの画像(解説付き画像)

かつてのターミナルは現在地より陸地側、今のB滑走路の南端付近にあった。3本の滑走路はターミナルの北側にB滑走路(04/22)が、ターミナルの東側にA滑走路(15R/33L)とC滑走路(15L/33R)のクロースパラレルが配置されていたが、1964年の海外旅行自由化以降は航空機の利用客が急増し、便数も増加できない上に国際線・国内線が同居する状態では発着する飛行機の数をさばききれなくなり、空域では航空機同士が急接近することが常にあった。このため、1970年代には旧A滑走路を事実上閉鎖して駐機場を拡張した。

新設された新東京国際空港に国際線が移転した後も、国内線の需要の急激な増加が続いたため、手狭なターミナルと2本の滑走路では、首都空港としてのキャパシティは既に限界を超えていた。滑走路は現在よりも市街地に近かったため、騒音に対する苦情も絶えなかった。これら空港機能の改善および騒音対策を目的として1984年1月から東方の海面を埋め立てて空港施設を移設・拡張するという沖合展開事業(通称: 沖展)が行われた。

沖展に不可欠な埋め立て工事は、脆弱な海底地盤により難航した。沖展用地は1975年度より東京港の浚渫土や首都圏の建設残土を処分する残土処理場であり、長年のヘドロが堆積した「底なし沼状態」であったことから、重機はおろか人間も立ち入れない場所が多かった。この場所は含水比率100パーセント以上の超軟弱地盤であったことから工事関係者の間では「(羽田)マヨネーズ層」と呼ばれ始め、工事関係書類に使われたため学名にまでなりかけたが、後にマヨネーズ製造業者から抗議があったため名称が変更されている。対策としてチューブの集合体の板を地中深く差し込むことで水を抜くペーパードレーン工法や、同じく砂の柱を地中深く構築することで水を抜くサンドドレーン工法、沈下する地盤をジャッキ油圧で持ち上げ空洞を特殊なコンクリートで固める工法などを駆使し、計画から完成まで約20年の歳月を経て完成した。

羽田空港周辺の1984年撮影の空中写真。
沖合展開事業埋め立て工事が行われている。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。1984年撮影の15枚を合成作成。

この埋め立てによって新たに生まれた土地は広大なもので、これがすべて大田区に組み込まれたことから、世田谷区は長年保っていた「東京23区で面積最大」という地位を大田区に譲ることになった。

1988年には、旧C滑走路の450m東側に現A滑走路が完成した。

1993年9月27日には、約29万平方メートルの延べ床面積に、24基のボーディングブリッジを持つ新国内線ターミナルビル(第1旅客ターミナルビル)が供用開始され、チャイナエアラインを除くすべての航空会社が移転した。同ターミナルを運営する日本空港ビルデングはこれにビッグバード (Big Bird) という愛称をつけたが、今日ではこれが羽田空港国内線旅客ターミナルの総称としても用いられている。

2004年12月1日には、約18万平方メートルの延べ床面積に、15基のボーディングブリッジを持つ第2旅客ターミナルビルが供用を開始した。全日本空輸グループ(以下「ANAグループ」)および業務提携している北海道国際航空(現・AIRDO)の国内線業務が同ターミナルに移転した。12月21日には第1旅客ターミナルビルに残っていた日本航空グループ(以下「JALグループ」)が、従来使用していた同ターミナル南ウイングに加え、全日空グループなどが使用していた北ウイングの使用を開始。その後2006年4月1日より、ANAグループと業務提携しているスカイネットアジア航空(現・ソラシドエア)も第2旅客ターミナルに移転し、2017年10月現在は、

  • 第1旅客ターミナルはJALグループ、およびスカイマークスターフライヤー(北九州線・福岡線)
  • 第2旅客ターミナルはANAグループ、およびAIRDO、ソラシドエア、スターフライヤー(関西線・山口宇部線)

のそれぞれ専用ターミナルとなっている。ただしANA便名でもスターフライヤー運航のコードシェア便である北九州線・福岡線は第1旅客ターミナルから出発・到着する。

各ターミナルのシンボルカラーも、第1ターミナルはJALグループの ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/01/18 11:00

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