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東京大空襲とは?

第二次世界大戦 > 太平洋戦争 > 日本本土の戦い > 日本本土空襲 > 東京大空襲
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この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。免責事項もお読みください。

空襲前(左)と空襲後(右)の航空写真
焦土と化した東京本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館
空襲を行ったB-29爆撃機
日本本土空襲のためのB-29が並んでいるサイパン島イズリー飛行場(1945年)
空襲を受ける東京市街、1945年5月25日。画面中央は現在の東京女学館・日赤医療センター付近、画面下から右上に延びるのは渋谷川、画面下に山手線東横線の交差と思しきものが見えることから広尾上空と推定される。なお、北方向は写真左側となる。撮影当時、現地を南南西の風が吹いていたことがこの写真から見て取れる。

東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。日本各地に対する日本本土空襲アメリカ軍による広島・長崎に対する原爆投下沖縄戦と並んで、都市部を標的とした無差別爆撃によって民間人に大きな被害を与えた。

東京は1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日4月13日4月15日5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年3月10日の空襲(下町空襲)を指すことが多い。この3月10日の空襲だけで罹災者は100万人を超えた。

目次

  • 1 対日戦略爆撃計画
    • 1.1 焼夷弾爆撃有効度別地域
    • 1.2 大規模攻撃報告書
    • 1.3 毒ガス散布計画案
  • 2 空襲の経過
    • 2.1 背景
    • 2.2 サン・アントニオ作戦
    • 2.3 ミーティングハウス作戦
      • 2.3.1 1号作戦
      • 2.3.2 2号作戦
        • 2.3.2.1 使用爆弾
        • 2.3.2.2 被害規模
  • 3 戦後
    • 3.1 慰霊
    • 3.2 補償問題
    • 3.3 戦争犯罪問題
  • 4 空襲の一覧
    • 4.1 1944年(昭和19年)
      • 4.1.1 11月
      • 4.1.2 12月
    • 4.2 1945年(昭和20年)
      • 4.2.1 1月
      • 4.2.2 2月
      • 4.2.3 3月
      • 4.2.4 4月
      • 4.2.5 5月
      • 4.2.6 6月
      • 4.2.7 7月
      • 4.2.8 8月
  • 5 被害
    • 5.1 死傷者数
    • 5.2 死亡した著名人
    • 5.3 建造物
    • 5.4 美術工芸
    • 5.5 空襲を免れた地区
  • 6 記録
  • 7 東京大空襲の描写が登場する作品
  • 8 脚注
    • 8.1 注釈
    • 8.2 出典
  • 9 参考文献
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

対日戦略爆撃計画

焼夷弾爆撃有効度別地域

アメリカ軍による空襲計画の地図(米軍報告「東京-川崎-横浜都市複合体に対する空襲攻撃の効果」)

1942年にはナパームを使ったM69焼夷弾が開発され、1943年の国家防衛調査委員会 (NDRC) 焼夷弾研究開発部のレポートでは、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災を起こし、住宅と工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法であるとした上で、空爆目標の日本全国20都市を選定、さらに東京、川崎、横浜など10都市については焼夷弾爆撃の有効度によって地域を以下のように区分した。

アメリカ軍は日本家屋を再現した実験場を作り、大規模な延焼実験を行っている。実験用の日本家屋は、室内の日系人の多いハワイからわざわざ取り寄せ精巧に作り上げられた。これらの実験がクラスター焼夷弾開発の参考とされたことにより、東京大空襲を初めとする日本本土への無差別爆撃で効果的被害を与えることに成功した。

大規模攻撃報告書

日本本土に対する空襲作戦は、綿密な地勢調査と歴史事例の研究を踏まえて立案されていった。その過程はアメリカ経済戦争局の1943年2月15日付報告書「日本の都市に対する大規模攻撃の経済的意義」に詳しい。

アメリカ軍は早くから江戸時代に頻発した江戸の大火や1923年の関東大震災の検証を行い、火元・風向き・延焼状況・被災実態などの要素が詳細に分析されていた。その結果、木造住宅が密集する日本の大都市は火災に対して特に脆弱であり、焼夷弾による空襲が最も大規模な破壊を最も効果的に与えることができると結論されていた。

具体的な空襲対象地域の選定に際しては、人口密度・火災危険度・輸送機関と工場の配置などの要素が徹底的に検討され、それを元に爆弾爆撃有効度が計算されて一覧表が作成された。ここで特に重視されたのは人口密度だった。当時の東京各区の人口は浅草区の13万5000人が最大で、これに本所区神田区下谷区荒川区日本橋区荏原区が8万人代で次いでいた。このうち荏原区は他から離れた山手に位置するためこれを除き、替わりに人口7万人台の深川区の北半分を加えた下町一帯が、焼夷弾攻撃地域第一号に策定された。

毒ガス散布計画案

連合国は東京に効果的に毒ガスを散布するための詳細な研究を行っており、散布する季節や気象条件を初めとして散布するガスの検討を行い、マスタードガスホスゲンなどが候補に挙がっていた。

空襲の経過

背景

フィリピン海(図中央)の東に位置するマリアナ諸島。南端はグアムで、北には小笠原諸島があり、伊豆・小笠原・マリアナ島弧を形成している。
日本本土空襲」および「ドーリットル空襲」を参照

1942年(昭和17年)4月18日に、アメリカ軍による初めての日本本土空襲となるドーリットル空襲航空母艦からのB-25爆撃機で行われ、東京も初の空襲を受け、荒川区、王子区、小石川区、牛込区が空襲を受けた。死者は39人。

マリアナ・パラオ諸島の戦い」および「サイパンの戦い」を参照

1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本打倒の空戦計画を提出、日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張、焼夷弾の使用に関しても言及。この時、アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない。

1944年(昭和19年)6月15日からのマリアナ・パラオ諸島の戦いで日本軍に連戦したアメリカ軍は、7月9日にサイパンの戦いサイパン島を、8月1日にテニアンの戦いテニアン島を、8月10日にグアムの戦いグアムなどのマリアナ諸島を制圧し占領し、テニアン島ハゴイ飛行場(現・ノースフィールド飛行場)とウエストフィールド飛行場(現在テニアン国際空港)、グアムアンダーセン空軍基地サイパン島コンロイ・イズリー飛行場(現在サイパン国際空港)を建設した。ドーリットル空襲後、東京への空襲は途絶えていたが、これらの巨大基地の建設、B-29爆撃機の開発と生産の完了により、B-29爆撃機の攻撃圏内に東京を含む日本本土のほぼ全土が入るようになった。日本ではマリアナ諸島陥落の責任を東条内閣に求め、1944年7月18日に内閣総辞職した。

サン・アントニオ作戦

当初1944年(昭和19年)11月、第21爆撃集団司令官ヘイウッド・ハンセル准将はマリアナからの日本本土空襲を実施する「サン・アントニオ1号作戦」を開始した。ハンセルは1944年11月23日から出撃命令を出すが、マリアナ基地の未完と天候に恵まれず戦果を上げることができなかった。

東京、名古屋に対する爆撃で主目標を中島飛行機三菱重工、第2目標を市街地とする爆撃の命令を行いつつも、11月29日には、東京工業地域を第一目標とした最初のレーダー照準による夜間爆撃が行われ、1945年(昭和20年)1月3日には名古屋のドック地帯と市街地を第一目標とした昼間爆撃を実施している。これらの爆撃でハンセルは焼夷弾による無差別爆撃をテストしており、大規模な無差別爆撃の準備が進めていた。

アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルドは中国からのB29による爆撃を中止、その部隊をマリアナに合流させ、1945年(昭和20年)1月20日、ハンセルの後任としてカーチス・ルメイ少将を司令官に任命した。戦後ハンセルは「もし自分が指揮を執り続けていたら大規模な地域爆撃(無差別爆撃)を行わなかっただろう。自分の罷免は精密爆撃から地域爆撃への政策転換の結果である」と語っているが、実際はハンセルの任期から無差別爆撃の準備を進め、実験的に実行しており、無差別爆撃の方針についてルメイは基本的にハンセルの戦術を踏襲している。アーノルドはルメイが中国から行った高い精度の精密爆撃の腕を買い、1944年(昭和19年)11月13日の時点でルメイの異動を検討していた。

ルメイの独創性は進入高度の変更にあった。従来は高度8,500 mから9,500 mでの昼間爆撃を行っていたが、それを高度1,500 mから3,000 mに変更した。理由はジェットストリームの影響を受けないこと、エンジンの負荷を軽減することで搭載燃料を節約し、多くの爆弾を積めること、命中精度が向上すること、火災を合流させて密度を上げ、大火災にできることであった。しかし低空では敵の迎撃機対空砲による反撃が予想されるため夜間爆撃にした。また機銃、弾薬、機銃手をB29から降ろして一機当たりの爆弾搭載量を200 kg増やせるようにし、編隊ではなく単機直列の陣形(単縦陣)に変更した。このルメイ立案の低空飛行に兵士が難色を示すと、ルメイは葉巻を噛み切って「何でもいいから低く飛ぶんだ」と言った。ルメイの変更に搭乗員は恐怖したが、日本側の防空体制の不備により結果的にB29の損害は軽微であった。

空襲時の東京を一定時間ごとに空からスケッチするため高度1万メートルに留まっていた飛行機もあり、帰還後ルメイはそのスケッチを満足げに受け取った。ルメイは、「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想できぬ」と語った。

ミーティングハウス作戦

1号作戦

1945年2月25日(日)、ミーティングハウス1号作戦。神田区、本所区、四谷区、赤坂区、日本橋区、向島区、牛込区、足立区、麹町区、本郷区、荒川区、江戸川区、渋谷区、板橋区、葛飾区、城東区、深川区、豊島区、滝野川区、浅草区、下谷区、杉並区、淀橋区空襲、死者195人、被害家屋20681。宮城も主馬寮厩仕合宿所が焼夷弾によって焼失し、局、大宮御所、秩父宮御殿などが被害にあった。下谷区は死者3人。ミーティングハウス1号作戦では、曇天と吹雪が予想された影響もあって離陸前から目標を市街地へ変更し、従来と同じ日中の高々度爆撃ではあったものの、使用弾種の9割に焼夷弾が導入された。それまでで最多の229機が出撃し、神田駅を中心に広範囲を焼失し、新戦術が効果的であることが判明した。

1945年2月26日から28日までの時期のB-29による東京空襲は、昼間に8000メートル程度の高高度を編隊で飛びながらノルデン爆撃照準器による目視照準を主用し、悪天候時には雲より高空からレーダー照準を活用する精密爆撃を意図したものだった。工場などが目標のため、使用弾種も焼夷弾ではなく通常爆弾が中心だった。攻撃隊は東京西部からジェット気流に従って侵入し爆撃を行うのが通例で、悪天候で攻撃目標を捉えられない場合にはそのまま東進して市街地を爆撃することがあった。

2号作戦

警防団と思われる焼け焦げた遺体の山。死者・行方不明者は8万人、民間の調査では10万人以上といわれている。(石川光陽撮影)
母子と思われる2つの遺体。子供を背負って逃げていたらしく、母親の背中が焦げていない。(石川光陽撮影)
鎮火後の街の風景(石川光陽撮影)

「ミーティングハウス2号作戦」と呼ばれた1945年3月10日の大空襲(下町大空襲)は、高度1600–2200メートル程度の超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲だった。その目的は、木造家屋が多数密集する下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。 アメリカ軍がミーティングハウス2号作戦の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日と気象予報されたためである。

アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の3個航空団で、325機のB-29爆撃機が出撃した。各機は自衛武装である旋回機関銃弾薬の多くを降ろし、焼夷弾の搭載量が優先され、通常の約2倍の搭載量である6トンもの高性能焼夷弾を搭載した。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783トンにも上った。投下された爆弾、焼夷弾が、当時の日本家屋を焼き払うために最適化されたものだった。また、「低空進入」と呼ばれる飛行法が初めて大規模に実戦導入された。この飛行法ではまず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)によって超低空からエレクトロン焼夷弾を投弾、その閃光は攻撃区域を後続する本隊に伝える役割を果たした。その本隊の爆撃機編隊も通常より低空で侵入した上、発火点によって囲まれた領域に向けて集束焼夷弾E46を集中的に投弾した。この爆撃の着弾精度は、高空からの爆撃に比べて高いものだった。

3月9日夜、B-29編隊群が日本本土に接近。日本軍は八丈島に配備していた陸軍の実用レーダー超短波警戒機乙によって機影を探知し、日本標準時9日22時30分にはラジオ放送を中断、警戒警報を発令した。ところが、編隊群が従来の空襲とは異なった航路を採ったことから、日本軍は敵機が房総半島沖に退去したものと誤認し、警戒警報を解除してしまった。これにより生じた隙を突くように関東上空に編隊群は侵入、10日に日付が変わった直後の午前0時7分、爆撃が開始された。325機の出撃機のうち279機が第一目標の東京市街地への爆撃に成功し、0時7分に

へ初弾が投下されたのを皮切りに、城東区(現在の江東区)にも爆撃が開始された。空襲警報は遅れて発令され、初弾投下8分後の0時15分となった。空襲警報が遅れた理由は上述の誤認に重ねて、当時吹いた強い季節風によって日本本土に配備されていたレーダーのアンテナが揺さぶられ探知精度が低下、かつアメリカ軍機はチャフを大量に散布し電波探知に対抗しており編隊の把握に支障が生じたためであった。

0時20分には芝区(現在の港区)に対する爆撃も開始された。この他、下谷区、足立区、神田区、麹町区、日本橋区、本郷区、荒川区、向島区、牛込区、小石川区、京橋区、麻布区、赤坂区、葛飾区、滝野川区、世田谷区、豊島区、渋谷区、板橋区、江戸川区、深川区、大森区が被害にあった。災難の中で昭和天皇の初孫の東久邇信彦防空壕で誕生した日でもあった。

一部では爆撃と並行して旋回機関銃による非戦闘員、民間人に対する機銃掃射も行われた。日本側資料では「アメリカ軍機が避難経路を絶つように市街地の円周部から爆撃した後、中心に包囲された市民を焼き殺した」と証言するものがあるが、そのような戦術はアメリカ軍の資料では確認できない。アメリカ軍の作戦報告書によれば、目標が煙で見えなくなるのを避けるため、風下の東側から順に攻撃する指示が出されていた。体験者の印象による誤解と考えられる。

飛行第53戦隊二式複戦「屠龍」

猛烈な季節風のため、日本軍の迎撃飛行部隊はしばらく出撃することができずにいたが、その後爆撃隊がサイパンへの帰還中に出撃可能となった。邀撃において主力となる陸軍航空部隊第10飛行師団飛行第23戦隊(一式戦「隼」)、飛行第53戦隊(二式複戦「屠龍」)、飛行第70戦隊(二式戦「鍾馗」)の計42機が出撃(一方で夜戦能力に劣る海軍は戦力に乏しく第三〇二海軍航空隊から月光4機のみが出撃)し、飛行部隊の戦果と陸軍の高射砲部隊(高射第1師団)の戦果を合わせてB-29を12機撃墜、42機を撃破する戦果を挙げた。

誘導機を務めたトム・パワー参謀長は「まるで大草原の野火のように燃え広がっている。地上砲火は散発的。戦闘機の反撃なし。」と実況報告した。ルメイの部隊は最終的に325機中14機を損失しただけであった。

使用爆弾

この爆撃において投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した新型の集束焼夷弾E46 (M69) を中心とする油脂焼夷弾黄燐焼夷弾エレクトロン焼夷弾、ゼリー状のガソリンを約50センチメートルの筒状の容器に詰めたナパーム弾などである。この焼夷弾は、投下時には各容器が一つの束にまとめられており、投下後に空中で散弾のように各容器が分散するようにされていたため、「束ねる」という意味を込めて「クラスター焼夷弾」と呼ばれた。

使用された焼夷弾は当時の通常爆弾とは異なる構造のものだった。通常の航空爆弾では、瞬発または0.02–0.05秒の遅発信管が取り付けられており、破壊力は主に爆発のエネルギーによって得られる。しかし木造の日本家屋を標的にそのような爆弾を用いても、破壊できる家屋が爆風が及ぶ範囲のものに限られ、それを免れた家屋は破壊されず散発的な被害にとどまってしまう。そこでアメリカ軍は、市街地を火災により壊滅させるため、爆発力の代わりに燃焼力を主体とした焼夷弾を用いることとし、その焼夷弾も日本家屋に火災を発生させるために新たに開発した。投下時に確実に日本家屋の瓦屋根を貫通させるため、上述した形状が選ばれるとともに、空中での向きを制御する吹流し状のものも個々の容器に取り付けられた。これにより、各容器が家屋の内部に到達して内部から火災を発生させる確率が高められた。都内では当時すでに、関東大震災を教訓にした燃えにくい素材で建物を補強する対策がなされていた。しかし、防火性のある瓦屋根を貫いて建物の内部で着火剤を飛散させ、中から延焼させる仕組みのこれら焼夷弾の前にその対策は徒労に終わった。この焼夷弾の開発の参考にされたのは、ドイツによるロンドン空襲において回収された不発弾であった。

被害規模
犠牲者の遺体を調べる警察官

当時の警視庁の調査での被害数は以下の通り。

人的被害の実数はこれよりも多く、死者約8万-10万、負傷4万-11万名ともいわれる。上記警視庁の被害数は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、またそれ以外にも行方不明者が数万人規模で存在する。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われており、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大である。両親を失った戦災孤児が大量に発生した。外国人、および外地出身者の被害の詳細は不明。

また当時東京に在住していた朝鮮人9万7632人中、戦災者は4万1300人で、死者は1万人を軽く越すと見られている。

この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積にあたる約41平方キロメートルが焼失した。爆撃による火災の煙は高度1万5000メートルの成層圏にまで達し、秒速100メートル以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、火山の大噴火を彷彿とさせた。午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されたが、想像を絶する大規模な火災は消火作業も満足に行われなかったため10日の夜まで続いた。当夜の冬型の気圧配置という気象条件による強い季節風(いわゆる空っ風)は、大きな影響を及ぼした。強い北西の季節風によって火勢が煽られ延焼が助長され、規模の大きい飛び火も多発し、特に郊外地区を含む城東地区や江戸川区内で焼失区域が拡大する要因となった。さらに後続するアメリカ軍編隊が爆撃範囲を非炎上地域にまで徐々に広げ、当初の投下予定地域ではなかった荒川放水路周辺や、その外側の足立区葛飾区江戸川区の一部の、当時はまだ農村地帯だった地区の集落を含む地域にまで焼夷弾の実際の投下範囲が広げられたことにより、被害が拡大した。これは早い段階で大火災が発生した投下予定地域の上空では火災に伴う強風が生じたため、低空での操縦が困難になったためでもあった。

爆撃の際には火炎から逃れようとして、隅田川や荒川に架かる多くの橋や、燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も多かった。しかし火災の規模が常識をはるかに超えるものだったため、至る所で巨大な火災旋風が発生し、あらゆる場所に竜の如く炎が流れ込んだり、主な通りは軒並み「火の粉の川」と化した。そのため避難をしながらもこれらの炎に巻かれて焼死してしまった人々や、炎に酸素を奪われて窒息によって命を奪われた人々も多かった。焼夷弾は建造物等の目標を焼き払うための兵器だが、この空襲で使われた焼夷弾は小型の子弾が分離し大量に降り注ぐため、避難民でごった返す大通りに大量に降り注ぎ子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突き刺さり即死させ、そのまま爆発的に燃え上がり周囲の人々を巻き添えにするという凄惨な状況が多数発生した。また、川も水面は焼夷弾のガソリンなどの油により引火し、さながら「燃える川」と化し、水中に逃れても冬期の低い水温のために凍死する人々も多く、翌朝の隅田川荒川放水路等は焼死・凍死・溺死者で川面があふれた。これら水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ避難した集団の死傷率は高かった一方、内陸部、日光街道東武伊勢崎線沿いに春日部古河方面へ脱出した人々には生存者が多かった。

これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また戦意を失わせるため東京への空襲は続けられ、また全国各地でも空襲が行われ、その結果多くの一般市民が犠牲となった。

1945年3月から5月にかけての空襲で東京市街の50%を焼失した。また、多摩地区立川八王子(八王子空襲)なども空襲の被害を受けている。その後、空襲の矛先は各地方都市に向けられていく。

戦後

慰霊

「戦災により亡くなられた方々の碑」
台東区浅草七丁目一番

身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者を祀った「震災記念堂」に合わせて納められた。このため1951年(昭和26年)には、震災記念堂から東京都慰霊堂に名称が改められた。慰霊堂では毎年3月10日に追悼行事が行われているほか、隣接する東京都復興記念館に関東大震災および東京大空襲についての展示がある。

東京都は1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めた。東京都では墨田区横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、遺族などからの申し出により判明した1942年から1945年の空襲犠牲者の犠牲者名簿(2013年3月時点で79941名が登載)を納めている。

補償問題

2007年(平成19年)3月9日、「東京空襲犠牲者遺族会」の被災者・犠牲者の遺族112人(平均年齢74歳)は、日本政府に対し、謝罪および総額12億3,200万円の損害賠償を求めて東京地方裁判所に集団提訴を行った。アメリカ軍の空襲による民間の被害者が集団となって日本国に責任を問うのは初。目的は、旧軍人・軍属が国家補償を受けているのに対して国家総動員法によって動員された民間人は補償が行われていないことを理由に、「東京空襲が国際法違反の無差別絨毯爆撃だったことを裁判所に認めさせ、誤った国策により戦争を開始した政府の責任を追及する」ことである。法的根拠は、ハーグ陸戦条約3条違反の無差別攻撃であった東京大空襲を行ったアメリカ政府に対して被災者は損害賠償請求権があるが、日本政府はサンフランシスコ平和条約により空襲被害について外交保護権を放棄した。これは憲法17条の公務員の不法行為に該当する、また戦時災害保護法によって国は救済義務を負っているが懈怠した、などというものだった。なお、2006年には日本軍による重慶爆撃に対する謝罪と賠償を求めた重慶大爆撃賠償請求訴訟が開始している。

2009年12月14日の1審判決で請求棄却 。原告側は控訴したが控訴棄却。2013年5月9日に最高裁が原告側の上告を棄却し、原告側の全面敗訴が確定した。棄却理由の中で、空襲被害者救済は裁判所では判断が出せず、国会立法で行うとした点について、敗訴した原告側弁護団も「国民の受忍限度とした旧来の判断から踏み込んだ」として評価した。

2010年8月14日、日本政府が空襲被害者に補償を行う「空襲被害者等援護法」の制定を目指した「全国空襲被害者連絡協議会」が結成。2011年6月15日には、超党派の議員連盟「空襲被害者等援護法を実現する議員連盟」が設立された

朝鮮人強制連行」および「日本の戦争賠償と戦後補償」を参照

朝鮮人被害者については体験者の証言から当時の状況を記録する運動もあり、さらに、朝鮮人強制連行によって東京強制連行された朝鮮人が東京大空襲の被害にあったと主張する朝鮮人強制連行被害者・遺族協会も2008年に報告書を発表している。報告書では、東京での朝鮮人強制労働犯罪、そして東京大空襲による朝鮮人強制連行被害者の惨状などが報告された。朝鮮新報は2008年6月6日記事で「日帝は、空襲があった後に天皇がこの地域を訪れるという口実を設けて、朝鮮人ら死者に対する身元調査すらしないまま、67カ所の公園と寺院、学校の運動場などに土葬し、後で掘り起こして合葬するなど、息を引き取った朝鮮人の遺骨を自分勝手にむちゃくちゃに処理する反人倫的な蛮行を働いた」「東京大空襲で多数の朝鮮人が犠牲になったのは、全的に旧日本政府と軍部の対朝鮮軍事的占領に起因する」とし、日本政府は被害者の遺骨を遺族に送るべきだったし、さらに南北朝鮮を差別して北朝鮮には一切の遺骨が返還されておらず、これは国際人道法と日本の刑法に違反している重大な人権侵害犯罪とし、徹底的に謝罪と賠償を早急に講じるべきと主張している。

戦争犯罪問題

戦争犯罪」、「人道に対する罪」、「連合軍による戦争犯罪 (第二次世界大戦)」、および「アメリカ合衆国の戦争犯罪」を参照

空襲は、建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃だが、東京大空襲は東京そのものの殲滅を目的とする無差別爆撃で多数の非戦闘員たる民間人が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強く、2007年の東京大空襲訴訟でも無差別攻撃はハーグ陸戦条約3条違反という主張がなされた。第一次世界大戦後の1922年、ハーグ空戦規則が採択され、軍事目標以外の民間人の損傷を目的とした無差別空爆は禁止されていた。

日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄している。

国内法でも軍人、軍属とその遺族への特別援護政策が採られた一方で、非軍人に対しては不十分な対策しか講じられていないとして議論がある。

1964年(昭和39年)12月4日に日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮した米空軍司令官カーチス・ルメイ大将に対し勲一等旭日章の叙勲を第1次佐藤内閣が閣議決定し、理由は航空自衛隊育成の協力で、授与は7日に行われた。

当時非難の声があり国会で追及されたが、佐藤栄作首相は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答える。小泉純也防衛庁長官も「功績と戦時の事情は別個に考えるもの」と答えている。勲一等の授与は天皇親授が通例だが、昭和天皇はルメイと面会することはなかった。NHK取材では戦争責任についての問いにルメイは勲章を示して見せた。

戦後ルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと質問され、「当時日本人を殺すことについてたいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった」「答えは“イエス”だ。軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものなのだ」と答えた。ルメイは「我々は日本降伏を促す手段として火災しかなかったのだ」とも述懐している。

日本本土爆撃に関して、ルメイは人道に反することを知りつつも戦争における必要性を優先し現場で効果的な戦術を考案し実行した責任があるが、爆撃は航空軍司令官ヘンリー・アーノルドに命じられた任務であり、ルメイの役割が誇大に語られる傾向がある。ルメイの就任でB-29の攻撃法が夜間中心に変わったが、都市爆撃(無差別爆撃

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出典:wikipedia
2018/07/23 08:51

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