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東大寺とは?

【東大寺】


金堂(大仏殿)
【所在地】
奈良県奈良市雑司町406-1
【位置】
北緯34度41分20.3秒
東経135度50分23.4秒
座標: 北緯34度41分20.3秒 東経135度50分23.4秒
【山号】
無し
【宗派】
華厳宗
【寺格】
大本山
【本尊】
盧舎那仏(国宝)
【創建年】
8世紀前半
【開基】
聖武天皇
【別称】
金光明四天王護国之寺
【札所等】
南都七大寺
法然上人二十五霊跡第11番(指図堂)
神仏霊場巡拝の道第14番
大和北部八十八ヶ所霊場第12番(真言院)
【文化財】
金堂(大仏殿)・南大門・盧舎那仏(大仏)ほか(国宝)
中門・石造獅子ほか(重要文化財)
【公式HP】
華厳宗大本山 東大寺公式ホームページ
法人番号
8150005000295
東大寺
平城宮跡
奈良駅
奈良市における位置

地理院地図 Googleマップ 東大寺

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院。

金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である。現別当(住職・222世)は狹川普文。

奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。

東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

目次

  • 1 歴史
    • 1.1 創建と大仏造立
    • 1.2 東大寺と橘奈良麻呂
    • 1.3 奈良時代・平安時代の東大寺
    • 1.4 中世以降
  • 2 伽藍
    • 2.1 伽藍の概要
    • 2.2 南大門
    • 2.3 中門
    • 2.4 金堂(大仏殿)
    • 2.5 法華堂(三月堂)
    • 2.6 二月堂
    • 2.7 戒壇院
    • 2.8 東大寺総合文化センター
    • 2.9 その他の主要堂宇
    • 2.10 かつて存在した堂宇
      • 2.10.1 講堂
      • 2.10.2 東塔
      • 2.10.3 西塔
      • 2.10.4 その他
    • 2.11 塔頭寺院
  • 3 文化財
    • 3.1 史跡
    • 3.2 国宝
    • 3.3 重要文化財
  • 4 年中行事
  • 5 社会事業
  • 6 大仏による水銀公害説
  • 7 ギャラリー
  • 8 アクセス
  • 9 拝観
  • 10 脚注
  • 11 参考文献
    • 11.1 関連文献
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

歴史

盧舎那仏像(大仏)西側より
詳細は「東大寺の歴史」および「東大寺盧舎那仏像」を参照

創建と大仏造立

8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立のが発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。

大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。

聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。

難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。

東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。

東大寺と橘奈良麻呂

大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。

天平勝宝8年(756年)5月2日、聖武太上天皇が崩御する。その年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで、永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ。」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったという。

奈良時代・平安時代の東大寺

奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。

奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗法相宗律宗三論宗成実宗倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗るが、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。

また、平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受け、また講堂と三面僧房が失火で、西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門鐘楼が倒壊したりといった事件が起こるが、後に皇族・貴族の崇敬を受けて黒田荘に代表される多数の荘園を寄進されたり、開発した。やがて、南都の有力権門として内外に知られるようになり、多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を行っている。

中世以降

東大寺は、近隣の興福寺と共に治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗房重源(ちょうげん)であった。重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席の下、大仏開眼法要が、建久元年(1190年)には上棟式が行われた。建久6年(1195年)には再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席の下、落慶法要が営まれた。

その後、戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した(東大寺大仏殿の戦い参照)。天正元年(1573年)9月、東大寺を戦乱に巻き込むことと乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している。仮堂が建てられたが慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶(1648 - 1705年)の尽力や、江戸幕府将軍徳川綱吉や母の桂昌院を初め多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709年)に完成した。この3代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の11間からおよそ3分の2の7間に縮小されている。また、講堂、食堂、東西の七重塔など中世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石や土壇のみが残されている。

伽藍

南大門(国宝)
中門(重要文化財)
金堂(大仏殿)(国宝)
盧舎那仏像(大仏、国宝)東側より

伽藍の概要

東大寺の境内は平城京の外京の東端を区切る東七坊大路(現国道169号)を西端とし、西南部は興福寺の境内と接していた。

南大門を入って参道を進むと、正面に中門(南中門)、その先に大仏殿(正式には「金堂」)がある。大仏殿前には東大寺創建当時に造立された八角灯籠がある。中門からは東西に回廊が伸び、大仏殿の左右に達している。回廊は、現在は大仏殿の南側にしかないが、当初は北側にも回廊があり、回廊北面の中央には「北中門」があった。

南大門から中門への参道の東側には東大寺の本坊があり、反対の西側には東大寺福祉療育病院などがある。大仏殿の東方には俊乗堂、行基堂、念仏堂、鐘楼などがあり、そのさらに東方の山麓は「上院」(じょういん)と呼ばれる地区で、開山堂、三昧堂(四月堂)、二月堂法華堂(三月堂)などがあり、その南には鎮守の手向山八幡宮(東大寺とは別法人)がある。

大仏殿の西方には指図堂(さしずどう)、勧進所、戒壇院などがある。大仏殿の北方、やや西寄りには正倉院の校倉造宝庫と鉄筋コンクリート造の東宝庫・西宝庫がある。なお、正倉院の建物と宝物は国有財産で、宮内庁正倉院事務所が管理している。境内西北端には奈良時代の遺構である転害門(てがいもん)がある。

かつてはこれら以外にも多くの堂塔が存在した。大仏殿の北には講堂と僧坊があり。これらの東には食堂(じきどう)があった。僧坊は講堂の北・東・西の3面にコの字形に設けられたので「三面僧坊」と称した。大仏殿の手前の東西には東塔・西塔(いずれも七重塔)があった。これらの塔は、周囲を回廊で囲まれ、回廊の東西南北4か所に門を設けた「塔院」を形成しており、他寺に例をみない規模のものであった。西の東七坊大路に面しては3つの門が開かれていたが、このうち北の門のみが現存する(前述の転害門)。

毎年1月1日の0時から8時までの間、中門(重要文化財)が開かれ、金堂(大仏殿・国宝)内に無料で入堂できる(通常入堂料:大人500円・小人300円)。参拝は午前7時半から受け付けている。

南大門

国宝。平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。東大寺中興の祖である俊乗房重源が中国・から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様ともいう)を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置する。上層の正面中央には「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられている。これは古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに基づき、2006年10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に合わせて新調されたものである。

木造金剛力士立像(国宝)
高さ8.4メートルの巨大な木像。建仁3年(1203年)に、わずか69日で造られた。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である。
東大寺別当次第』という史料により、本像は建仁3年(1203年)、大仏師運慶、備中法橋(湛慶)、安阿弥陀仏(快慶)、越後法橋(定覚)によって造立されたことが、従来から知られており、阿形像と吽形像の作風の違いから、前者は快慶、後者は運慶が主となって制作したと考えられていた。1988年から1993年にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見された。阿形像の持物の金剛杵の内面には、建仁3年の年紀とともに「大仏師法眼運慶」「अं〔アン、梵字〕阿弥陀仏」(快慶のこと)の名が記され、吽形像の像内に納入されていた『宝篋印陀羅尼経』(ほうきょういんだらにきょう)の奥書には大仏師として「定覚」「湛慶」の名と小仏師12名の名が記されていた。運慶が制作の総指揮に当たったとする点では研究者の意見が一致しているが、阿形像・吽形像の現場での制作を運慶、快慶、定覚、湛慶がどのように分担したかについては解釈が分かれている。
2014年10月6日から保存修理が始まった。

中門

重要文化財。金堂(大仏殿)の手前にある入母屋造の楼門(2階建ての門)。享保元年(1716年)ごろの再建。中門の両脇から「コ」の字形に回廊が伸び、金堂の左右に至る。

金堂(大仏殿)

詳細は「東大寺大仏殿」を参照

国宝。当初の大仏および大仏殿は、聖武天皇の発願により、8世紀に造られたものであったが、その後2度の兵火で焼け落ち、現存する大仏殿は江戸時代の再建。大仏は台座と袖、脚などの一部に当初部分を残すのみで、体部の大部分は中世の作、頭部は江戸時代の作である。

聖武天皇は天平15年(743年)、大仏造立の詔を発した。当初、紫香楽宮の近くの甲賀寺で造立の始まった大仏は、その後現在地の奈良で改めて造立を開始。天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われた。治承4年(1180年)の平重衡の兵火で大仏殿は焼失、大仏も台座や下半身の一部を残して焼け落ちた。その後、大仏と大仏殿は重源の尽力により再興され、文治元年(1185年)に大仏の開眼供養、建久元年(1190年)には大仏殿の上棟式、建久6年(1195年)には大仏殿落慶供養が行われた。この鎌倉復興大仏も永禄10年(1567年)の松永・三好の合戦によって再び炎上した。大仏殿の再建はすぐには実施されず、大仏は仮修理の状態のまま、露座で数十年が経過したが、江戸時代になって公慶上人の尽力により大仏、大仏殿とも復興した。現存する大仏の頭部は元禄3年(1690年)に鋳造されたもので、元禄5年(1692年)に開眼供養が行われている。大仏殿は宝永6年(1709年)に落慶したものである。

現存の大仏殿は寄棟造、本瓦葺き。2階建てに見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、正面5間、側面5間の身舎(もや)の周囲に1間の裳階を回している(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。高さ46.8メートル、間口57メートル、奥行50.5メートルで、高さと奥行は創建時とほぼ変わりないが、東西の幅は約3分の2に縮小されている。建築様式は、鎌倉時代に宋の建築様式を取り入れて成立した大仏様(だいぶつよう)が基本になっており、水平方向に貫(ぬき)を多用するのが特色である。江戸時代にはすでに巨材の調達が困難であったため、柱は芯材の周囲に桶状に別材を巻きつけた集成材が用いられている。なお、しばしば「世界最大の木造建築物」として言及されるが、20世紀以降に近代的工法で建てられた木造建築には、大仏殿を上回る規模のものが存在する(ティラムーク航空博物館メトロポール・パラソルなど)。

大仏の左右には脇侍として木造の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像を安置。堂内北西と北東の隅には四天王のうちの広目天像と多聞天像を安置する。いずれも江戸時代復興期の像である。四天王のうち残りの2体(持国天、増長天)は未完成に終わり、両像の頭部のみが大仏殿内に置かれている。堂内には他に、大仏前に高さ207㎝の銅製大華瓶が付いている8本脚の揚羽蝶で有名で、元禄5年開眼供養会に池坊門弟の猪飼三枝と藤掛似水の両一門より、約9mの立花二口が奉納されたが、会後、藤掛似水から華瓶に銅蓮が付けられ仏花として寄贈された。また、明治42年(1909年)の日英博覧会用に製作された、東大寺旧伽藍の模型がある。

大仏(盧舎那仏像)
詳細は「東大寺盧舎那仏像」を参照
国宝。指定名称は「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」。像高は14.7メートルである。大仏は『華厳経』に説く盧舎那仏という名の仏である。盧舎那仏は「蓮華蔵世界」(『華厳経』の説く世界観)の中心に位置し、大宇宙の存在そのものを象徴する仏である。
木造如意輪観音坐像・虚空蔵菩薩坐像(重文)
大仏の左右に脇侍として安置される。これらの像は大仏(銅造)とは異なり木造の寄木造である。大勧進公俊の時代、京都の仏師山本順慶一門と、大坂の仏師椿井賢慶一門らにより、30数年をかけて製作されたもので、江戸時代の代表的な仏教彫刻である。如意輪観音像は元文3年(1738年)ごろの完成、虚空蔵菩薩像は遅れて宝暦2年(1752年)の完成。
金銅八角燈籠(国宝)
大仏殿の正面に立つ燈籠。総高464センチ。たびたび修理されているが、基本的には奈良時代創建時のものである。火袋羽目板4面には楽器を奏する音声菩薩(おんじょうぼさつ)像を鋳出する。4面の羽目板のうち西北面と西南面が当初のもので、東北面と東南面はレプリカである。東北面の羽目板は1962年に盗難に遭い、直後に発見されたが、その後はオリジナルは別途保管し、燈籠にはレプリカを取り付けている。東南面の羽目板のオリジナルは早くに紛失した。

法華堂(三月堂)

法華堂(三月堂)(国宝)
乾漆不空羂索観音立像 法華堂(三月堂)安置(国宝) ※左右に立つ日光菩薩・月光菩薩像は2011年に東大寺ミュージアムに移動
詳細は「東大寺法華堂」を参照

国宝。境内の東方、若草山麓にある。東大寺に残る数少ない奈良時代建築の一つであり、天平仏の宝庫として知られる。創建当時は羂索堂(けんさくどう)と呼ばれ、東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ)の堂として建てられたもので、創建時期は天平12年(740年)から同20年(748年)ごろと推定されている。建物の北側(参道側から見て向かって左側)の、仏像が安置されている寄棟造の部分を正堂(しょうどう)、南側の入母屋造部分を礼堂(らいどう)と呼ぶ。正堂は奈良時代の建築、礼堂は奈良時代にも存在したが、現在あるものは鎌倉時代の正治元年(1199年)ごろ(異説もある)に付加したものである。堂内には本尊の不空羂索観音(ふくうけんさく/ふくうけんじゃくかんのん)立像、梵天・帝釈天立像、金剛力士・密迹力士(みっしゃくりきし)立像、四天王立像の計9体の乾漆像(麻布を漆で貼り固めた張り子状の像)と、塑造の執金剛神(しつこんごうしん/しゅこんごうしん)立像を安置する(いずれも奈良時代)。他に塑造の日光・月光(がっこう)菩薩立像、吉祥天・弁才天立像などの諸仏が安置されていたが、これらは2011年から東大寺ミュージアムに移動している。諸仏の細かい製作年代や当初の安置状況については諸説ある(詳細は東大寺法華堂を参照)。

乾漆不空羂索観音立像(国宝)
奈良時代。高さ3.62メートル。三眼八臂(額に縦に第3の目があり、8本の腕を持つ)の観音像で、法華堂の本尊として内陣中央の須弥壇上に安置されている。頭上の宝冠は、正面に銀製の阿弥陀如来像を飾り、数多くの宝石や透かし彫りで飾った華麗なもので、普段は近くで見ることはできないが、奈良時代工芸の優品として知られる。
塑造執金剛神立像(国宝)
高さ1.704メートル。本尊不空羂索観音の背後の厨子に北向きに安置される。右手に金剛杵(こんごうしょ、仏敵を追い払う武器)を持ち、目を吊り上げて威嚇する武神像である。長らく秘仏であったため、当初の彩色がよく残る。執金剛神とは、仁王像を1体で表したもの。本像は東大寺の開山(初代住職)良弁の念持仏と伝え、平将門の伝説でも知られる、古来著名な像である。伝説によれば、平将門が東国で乱を起こした時、この像の髻(もとどり、結髪)を結んでいる元結紐(もとゆいひも)の端が蜂となって飛び去り、将門を刺して苦しめたという(『日本霊異記』)。確かに、本像の元結紐は今も片側が欠失している。秘仏であり、良弁の命日の12月16日のみ公開される。

他に以下の8躯の諸仏を安置する。

二月堂

二月堂(国宝)
詳細は「東大寺二月堂」を参照

国宝。旧暦2月に「お水取り」(修二会)が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火には焼け残ったとされているが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である。建物は2005年12月、国宝に指定された。

戒壇院

戒壇院

出家者が受戒(正規の僧となるための戒律を授けられる)するための施設として、天平勝宝7年(755年)に鑑真和上を招いて創建された。現在の建物は享保18年(1733年)の再建である。内部には中央に法華経見宝塔品(けんほうとうほん)の所説に基づく宝塔があり、その周囲を四天王像が守っている。

塑造四天王立像(国宝)
法華堂の日光・月光菩薩像および執金剛神像と共に、奈良時代の塑像の最高傑作の一つ。怒りの表情をあらわにした持国天、増長天像と、眉をひそめ怒りを内に秘めた広目天、多聞天像の対照が見事である。記録によれば、創建当初の戒壇院四天王像は銅造であり、現在の四天王像は後世に他の堂から移したものである。

東大寺総合文化センター

東大寺総合文化センター

南大門を入って左手、東大寺学園中学校・高等学校(1986年郊外に移転)の跡地にある複合文化施設(住所は奈良市水門町100)。東大寺ミュージアム、東大寺図書館、金鐘会館、東大寺史研究所、華厳学研究所からなる。2010年9月に竣工し、ミュージアムは2011年10月に開館した。

塑造日光・月光(がっこう)菩薩立像(国宝)
奈良時代。もと法華堂安置。法華堂本尊不空羂索観音の両脇に建っていた。天平彫刻の代表作として著名だが、造像の経緯等は定かでなく、本来の像名も不明である(「日光・月光菩薩」という名称は後世に付けられたもので、本来は、薬師如来の脇侍となる菩薩)。像の表面は現状ほとんど白色だが、製作当初は彩色像であった。本来の像名は梵天帝釈天だった、とする説もある。
塑造吉祥天・弁才天立像(重文)
奈良時代。もと法華堂安置。唐三彩の婦人俑に似た豊満な貴婦人の形を取っている。吉祥天は二臂、弁才天は八臂。いずれも破損が著しいがかえって塑像の構造が明らかにされており、美術史上貴重な資料である。

その他の主要堂宇

俊乗堂
指図堂
梵鐘(国宝)
法華堂経庫(重要文化財)
念仏堂(重要文化財)
不動堂
本坊(旧東南院)
本坊は通常は非公開。
本坊経庫(国宝)
奈良時代の校倉倉庫。食堂跡の北方、上司(かみつかさ)と呼ばれる場所にあった油倉を正徳4年(1714年)、東南院に移築したもの。東南院廃絶後は本坊経庫と呼ばれている。東大寺関係では正倉院宝庫を含め、他に5棟の校倉が残っている。このうち法華堂経庫と勧進所経庫は、正倉院の西方にあった倉を移したもの。手向山八幡宮宝庫は本坊経庫と同じく上司の油倉を移築したもの。正倉院の構内にある聖語蔵は塔頭尊勝院の校倉を移したものである。
天皇殿
聖武天皇像を安置する。もとは徳川家康を祀る東照宮であった。
持仏堂
江戸時代作の理源大師(聖宝)像を安置する。建物はもと談山神社(妙楽寺)本殿で、安倍文殊院を経て東大寺に移された。
俊乗堂
鎌倉時代に大仏と大仏殿を再興した中興の祖・俊乗房重源を祀る堂。現在の堂は宝永元年(1704年)の再建。本尊の俊乗上人坐像(国宝)は、上人が86歳で没した直後の製作と思われ、鎌倉時代肖像彫刻の傑作である。
行基堂
奈良時代の著名な僧で、東大寺の創建にも貢献した行基の肖像を安置する。
念仏堂(重文)
鎌倉時代の建築。同じく鎌倉時代の地蔵菩薩坐像(重文)を安置する。
鐘楼(国宝)
鎌倉時代、13世紀初頭の建築。吊られている梵鐘(国宝)は大仏開眼と同年の天平勝宝4年(752年)の製作で、中世以前の梵鐘としては最大のもの(高385センチ、口径271センチ)。俗にこの梵鐘は擬人化して「奈良次郎」と呼ばれる。2002年12月、NHKの下請け業者に釘を打ち込まれる事件に遭った。「東大寺鐘」 は南都八景の一つ。現在の鐘楼は、重源上人に次いで大勧進職に就いた栄西が再建したもの。
開山堂(国宝)
開山(初代住職)良弁の肖像を安置するための堂。内陣は正治2年(1200年)、外陣は建長2年(1250年)の建築で、東大寺南大門と共に、大仏様(だいぶつよう)建築の数少ない遺作である。本尊木造良弁僧正坐像(国宝)は平安初期9世紀の作品で、良弁の命日の12月16日のみ公開される。
三昧堂(四月堂)(重文)
延宝9年(1681年)の建立。寄棟造二重、本瓦葺き。本尊十一面観音立像(重文)、阿弥陀如来坐像(重文)などを安置する。旧本尊の千手観音立像(重文)は東大寺ミュージアムに移座。
大湯屋(重文)
鎌倉時代の建築。内部に鉄湯船(重文)が残る。
指図堂
大仏殿の西にある。法然の画像を祀る堂。鎌倉時代、大仏の復興に携わった重源は、法然の推挙で大仏復興の大勧進職となった。この堂に復興大仏殿の指図(設計図)を納めたことから指図堂の名が付いたという。浄土教にも関心の強かった重源の招きで法然がこの地で浄土三部経を講じたという。もとこの堂にあった木造釈迦如来坐像(鎌倉時代、重要文化財)は東大寺ミュージアムに移動している。建物は江戸時代末期のものであるが、法然上人二十五霊場11番札所であるため、浄土宗側が喜捨等で再建に協力している。
勧進所
東大寺中興の祖である重源が勧進(焼失した東大寺再興のための寄金募集)の本拠とした所である。大仏殿西側の塀で囲まれた一画で、東側の門を入ると左手に公慶堂、その先の門を入ると右手に阿弥陀堂、正面奥に八幡殿、八幡殿の左に経庫(重文)がある。
阿弥陀堂
五劫思惟阿弥陀(ごこうしゆいあみだ)像(重文)を安置する。
八幡殿
建仁元年(1201年)、快慶作の僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)坐像(国宝)を安置する。この像は東大寺の鎮守である手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)の神体であったもので、明治の神仏分離に伴東大寺に移された。製作当初の彩色が鮮やかに残る、快慶の代表作である。毎年10月5日のみ公開される。
公慶堂
江戸時代の大仏殿再興に貢献した公慶上人の肖像(重文)を安置する。像は上人の死去の翌年である宝永3年(1706年)の作。
転害門(国宝)
境内西北、正倉院の西側にある八脚門。平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火にも焼け残った寺内で数少ない建物の一つ。鎌倉時代の修理で改修されているが、基本的には奈良時代の創建時の姿を残す建物である。平家一門の怨みを晴らすべく頼朝を暗殺しようと悪七兵衛景清が隠れていたという伝承から、又の名を景清門という。2004年頃から野良猫による糞尿や爪とぎの被害が問題になっている。毎年10月5日に明治初めまで東大寺の鎮守社だった手向山八幡宮の例祭「転害会(てがいえ)」が、転害門などで行われる。奈良時代、宇佐八幡宮から祭神が勧請された際、転害門を通った伝承にちなみ神迎えの様子を再現した祭礼である。

かつて存在した堂宇

七重塔復元模型(大仏殿内所在)

講堂

大仏殿の北にあった。今は礎石だけが残っている。天平勝宝8年(756年)ごろに完成し、千手観音を本尊としていたが、延喜17年(917年)に焼失。再建された堂も治承4年(1180年)の兵火で焼失。その後復興されたが、永正5年(1508年)の焼失後は再建されなかった。

東塔

東塔跡・西塔跡共に土壇が残るのみで、礎石は持ち去られて残っていない。『東大寺要録』には天平勝宝5年(753年)完成とあるが、天平宝字8年(764年)に塔の露盤を上げたとの記録もあり、このころの完成とみられる。塔は治承4年(1180年)の兵火で焼失。その後復興され、安貞元年(1227年)に完成するが、康安2年(1362年)に落雷で再び焼け、以後は再建されなかった。平成22年(2010年)4月、東大寺は東塔再建に向けて数年内に塔跡地の発掘調査を開始すると発表。平成27年(2015年)7月、東塔の基壇跡の発掘調査が始まり、11月に中間発表が行われた。鎌倉時代の基壇では一辺が27m四方、建物部分では17m四方あり当時の国内最大級であった事が推測される。創建当時の遺構も発見され、この基壇は一辺24m四方だった。時期は未定であるが、再建されれば約650年ぶりに東塔が姿を現すこととなる。なお、大阪の藤田美術館の庭に東大寺東塔の心礎と伝えられる礎石があるが、東塔のものであるという確証はない。

西塔

『東大寺要録』には天平勝宝5年(753年)閏3月完成とあるが、閏3月があったのは前年の天平勝宝4年(752年)であり、実際は東塔と同じころの完成とみられる。塔は承平4年(934年)に焼失。その後復興が計画されるが、工事途上の長保2年(1000年)再び焼失、以後は再建されなかった。

東塔・西塔共に七重塔で、高さは『東大寺要録』『南都七大寺巡礼記』には23丈強、『朝野群載』および『扶桑略記』には33丈強とある。この高さについて、1909年に日英博覧会に出展された創建時の復元模型を設計した天沼俊一は、『東大寺要録』等の「東塔が23丈8寸、西塔が23丈6尺7寸」に露盤(相輪)高約8丈(文献

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出典:wikipedia
2019/09/10 10:51

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