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東映アニメーションとは?

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2012年9月)
東映アニメーション株式会社
TOEI ANIMATION CO., LTD.
旧大泉スタジオ

種類
株式会社
【市場情報】
東証JQ 4816
2000年12月8日上場

【本社所在地】
日本
164-0001
東京都中野区中野四丁目10番1号
中野セントラルパーク イースト5階
北緯35度42分28.0秒 東経139度39分46.5秒 / 北緯35.707778度 東経139.662917度 / 35.707778; 139.662917座標: 北緯35度42分28.0秒 東経139度39分46.5秒 / 北緯35.707778度 東経139.662917度 / 35.707778; 139.662917
【設立】
1948年(昭和23年)1月23日
(日本動画株式会社として設立)
業種
情報・通信業
法人番号
8011601004645
【事業内容】
アニメーションの企画・制作、版権事業
【代表者】
代表取締役社長 高木勝裕
【資本金】
2,867,575千円
【発行済株式総数】
1,400万株
【売上高】
連結: 40,747,350千円
単独: 37,861,981千円
(2017年3月期)
【営業利益】
連結: 10,133,714千円
単独: 6,863,498千円
(2017年3月期)
【経常利益】
連結: 10,362,907千円
単独: 7,756,508千円
(2017年3月期)
【純利益】
連結: 7,203,702千円
単独: 5,413,529千円
(2017年3月期)
【純資産】
連結: 51,549,144千円
単独: 41,731,250千円
(2017年3月31日現在)
【総資産】
連結: 65,978,575千円
単独: 54,436,214千円
(2017年3月31日現在)
【従業員数】
連結: 645名 単独: 402名
(2017年3月31日現在)
【決算期】
3月31日
【主要株主】
東映(株) 34.2%
(大株主を参照)
【主要子会社】
(株)タバック 100%
東映アニメーション音楽出版(株) 100%
TOEI ANIMATION PHILS., INC. 100%
【関係する人物】
関連人物を参照
【外部リンク】
http://www.toei-anim.co.jp/
特記事項:1952年(昭和27年)8月に日本動画株式会社から日動映画株式会社へ商号変更。
1956年(昭和31年)7月に日動映画株式会社から東映動画株式会社へ商号変更。
1998年(平成10年)10月に東映動画株式会社から東映アニメーション株式会社へ商号変更。

東映アニメーション株式会社(とうえいアニメーション、: TOEI ANIMATION CO., LTD.)は、日本アニメ制作会社日本動画協会正会員、一般社団法人練馬アニメーション理事。

目次

  • 1 沿革
    • 1.1 1950 - 1960年代
    • 1.2 1970 - 1990年代
    • 1.3 2000年代以降
  • 2 特徴
  • 3 大株主
  • 4 関連会社
    • 4.1 連結子会社
    • 4.2 持分法適用会社
    • 4.3 非連結子会社
    • 4.4 その他関係会社
  • 5 関連人物
    • 5.1 歴代社長
    • 5.2 現役員
    • 5.3 企画
    • 5.4 アニメーター・演出家
    • 5.5 脚本家
    • 5.6 プロデューサー
    • 5.7 美術デザイン
    • 5.8 色彩設計
    • 5.9 CG監督
    • 5.10 製作担当
  • 6 作品履歴
    • 6.1 テレビアニメ(連続物)
      • 6.1.1 1960年代
      • 6.1.2 1970年代
      • 6.1.3 1980年代
      • 6.1.4 1990年代
      • 6.1.5 2000年代
      • 6.1.6 2010年代
    • 6.2 テレビアニメ(スペシャル)
    • 6.3 ウェブアニメ
    • 6.4 劇場アニメ
      • 6.4.1 1950年代(劇場アニメ)
      • 6.4.2 1960年代(劇場アニメ)
      • 6.4.3 1970年代(劇場アニメ)
      • 6.4.4 1980年代(劇場アニメ)
      • 6.4.5 1990年代(劇場アニメ)
      • 6.4.6 2000年代(劇場アニメ)
      • 6.4.7 2010年代(劇場アニメ)
      • 6.4.8 2020年代(劇場アニメ)
    • 6.5 OVA
    • 6.6 実写映画参加作品
    • 6.7 コンピュータゲーム
    • 6.8 レーザーディスクゲーム
    • 6.9 ミュージカル
    • 6.10 CM
    • 6.11 その他
  • 7 参考文献
  • 8 注釈
  • 9 出典
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

沿革

1950 - 1960年代

1948年(昭和23年)1月、政岡憲三山本善次郎らにより日本動画株式会社設立。設立当初は成城高校の空き教室約100坪を使って制作が行われた。1952年(昭和27年)8月、日動映画株式会社に商号変更した。

1955年(昭和30年)、日動映画の藪下泰司と山本善次郎が東映の今田智憲営業課長を訪ね、「自分たちは日動というアニメの会社を24、5人でやっているんだが、どうも難しい。協力してもらえないか」と相談があり、国際的な映像の仕事としての大きな可能性を感じた今田が大川博東映社長に「東洋のウォルト・ディズニーになりましょう」と進言し日動映画の買収を決めた。

1956年(昭和31年)1月、東映は東映動画の設立に向け「漫画映画製作研究委員会」を立ち上げ、委員長は大川社長で、設立準備の実務担当委員として赤川孝一管理課長や、今田智憲らが任命された。ところが、事業計画案を巡り赤川と今田の意見が対立した。今田は「カラー長編制作に加え、ディズニー社を始めとするアメリカの長編アニメ制作会社と提携し、その制作技術を導入すること」「作品制作事業だけでなく、関連商品販売やテーマパーク運営など、広範囲にわたる事業展開を図るべし」「絶対に天然色で、長編漫画でなければ収入はあがらない」などと提案。今田は今日のキャラクター・ビジネスやマーチャンダイズに近い発想を既に持っていたが、結局赤川の教育映画部の意見が優先され、今田の意見は却下された。

同年7月、東映が日動映画を買収。1956年(昭和31年)8月1日東映動画株式会社が発足した。設立に森康二、藪下泰司らも参加した。これ以前にも商業アニメーションは細々と存在したが、東映が買収したことで初めて日本のアニメーションに光が当たった。発足当時の35名の社員はほとんどが旧日動の社員で、会社住所も日動と同じ新宿区原町であった。東映動画の発足にあたっては短編・中編制作の事業計画のみが記載され、長編の記載はなかったが、もとは香港からの持ち込み企画であった『白蛇伝』の制作をスタートさせた。当時、日本国内にアニメーション制作会社はごく少なく、長編制作の経験もほとんどなかった中で、東映は日動映画を買収することによりアニメーション制作のノウハウを得ようとしたのである。

発足から4ヵ月後の1956年(昭和31年)12月、まだ武蔵野の面影が残る閑静な東京都練馬区の東映東京撮影所南側に隣接してスタジオが完成。東映動画は1957年(昭和32年)1月9日、この新スタジオに移転。日本に於ける本格的アニメーションの製作が開始された。スタジオ完成とともに新たに採用された東映動画第一期生の中には大塚康生楠部大吉郎らがいた。スタジオ竣工時就業人員80人。また1958年から手塚治虫が『西遊記』の製作のために嘱託として参加している。この時のノウハウが旧虫プロダクションで活かされることとなる。東映動画の遺伝子は後の日本のアニメーションの歴史に大きな影響力を持った。

新スタジオでは『白蛇伝』制作のためのスタッフ急増とCMフィルムの需要の増加に対応して同年末に第1次増設工事に着工して同年4月10日に竣工し、その2年後の1959年(昭和34年)6月15日には第2次増設工事竣工した。さらに『狼少年ケン』などのテレビアニメーション(テレビ漫画)の制作に対応するため1964年(昭和39年)6月2日には第3次増設工事が竣工して現在のスタジオに成長した。

スタジオの完成によって長編アニメーション制作の体制が整い、まず手慣らしとして旧日動映画スタッフの指導の下で、1957年(昭和32年)5月に初の短編作品『こねこのらくがき』を制作した。続いて1958年(昭和33年)10月には『白蛇伝』を完成した。日本でテレビ放送が始まって5年8ヵ月後のことで、当時としては破格の製作費4000万円、製作期間9ヶ月を費やした。東映動画は「日本でもここまでできる」と後進を刺激し、家内制手工業の動画制作を近代産業に発展させ、同時に日本アニメーションの戦後を終わらせた。その後、『わんぱく王子の大蛇退治』、そうして宮崎駿などの『白蛇伝』に影響を受けたスタッフらも制作に参加した『太陽の王子 ホルスの大冒険』、『長靴をはいた猫』などの長編作品を発表し、1960年代における東映動画の長編時代が築かれた。輸出向けに日本人の顔や言語のデメリットを克服する漫画映画は、子供向けの壁を超えて、家族映画のマーケットを確保していく。社員総数は1959年(昭和34年)には250名にまで増えたが、そのうちCMアニメの制作に100名が従事しており、東映動画の主たる仕事は常にCMアニメの制作であった。

1961年(昭和36年)虫プロダクションが設立されると、手塚治虫にアニメ制作の才能を請われたアニメーターたちが虫プロに移動したり、両方の作業をするという混乱期があった。虫プロは設立に当たり、人材の大半を東映動画からの引き抜きに依存した。東映動画という先行者がなしでは、虫プロも手際よく発足し、設立から一年半の間にテレビ漫画シリーズをスタートさせることはできなかった。一時期の虫プロは、東映動画のスタジオが一部分そのままそっくり移転したかのような様相を呈した。東映動画は作画関係者だけに限らず、演出家、美術家、カラープランナー、カメラマン、プロデューサーに至るまで抱えて育んでいたため、東映動画はアニメーション業界に、人材をつぎつぎと送り込む供給源になっていった。手塚も『西遊記』『シンドバッドの冒険』『わんわん忠臣蔵』の東映動画の製作に誘われ、実際の作業の現場を経験したことにより、アニメーション制作の意を強くした。東映動画に残ったクリエーターの多くは劇場公開アニメーションの制作など、東映動画の従来のアニメ制作の方針に拘った者であった。

当時、連続テレビ漫画番組は、制作に占める人件費の割合が多く、テレビ劇映画に比べて三倍の制作費がかかるといわれ、毎週テレビ放送されるアニメシリーズの制作を企画したプロダクションやテレビ局はなかった。手塚は破格の安値で明治製菓に「鉄腕アトム」のスポンサーになってもらい、低い放映権料で番組制作を請け負った。赤字分は自分の漫画の収入で補填した。手塚は「漫画は本妻、アニメは愛人」と冗談半分に言った。このしわ寄せで「鉄腕アトム」の作業者(アニメーター)は徹夜に近い作業の連続。「アニメーターは低賃金で長時間労働、好きでなければやっていられない」という産業構造を生み、手塚アニメの安値受注が業界の水準となったため、後々までアニメ業界は受注金額が低く抑えられる状態が続くことになった。また「鉄腕アトム」の例から、漫画雑誌に掲載された漫画作品を元にすれば知名度の点から人気が取れることが分かり、動画の技術としては手抜きな作品であっても視聴率が取れるとされ、東映が劇場用で目指したのとは異なる種類のマーケットが確立し、拡大していくことになった。

1960年代はテレビの普及に伴い、劇場用アニメーションからテレビ用アニメーションへ主流が交代していった時代であったが、この時代に『狼少年ケン』や『魔法使いサリー』『ゲゲゲの鬼太郎』『ひみつのアッコちゃん』『タイガーマスク』などを手掛け、テレビ用アニメーションの市民権獲得に貢献した。東映動画の外部導入は1966年(昭和41年)から始まる石ノ森章太郎とのコラボレーションサイボーグ009』から漫画家との企画段階からの共同作業に至り、『仮面ライダー』の変身ブームや、永井豪とのコラボ『マジンガーZ』はロボットアニメの興隆を生み出した。

1961年(昭和36年)秋には東映動画に労働組合が結成され、過密労働と低賃金の改善という一般的な労組の目的の他、東映本社が企画権を握り、漫画映画らしい作品の企画とその制作が制限されている状況を打開したいという要求が増していく。1959年(昭和34年)就業人員270人。1964年(昭和39年)就業人員575人。1963年(昭和38年)頃から赤字を出し始めた。

東映アニメーションのマスコットキャラクターは、『長靴をはいた猫』・『ながぐつ三銃士』・『長靴をはいた猫 80日間世界一周』の主人公ペロである。

1970 - 1990年代

大川博が1971年(昭和46年)8月に逝去し、後任として東映社長に就任した岡田茂は(同月兼東映動画会長)、躊躇なく赤字噴出の東映動画の経営改善に踏み切り、激しいリストラを敢行した。岡田は労組との団交の席上「動画は東映のガンだ。ガンは放置しておいたら、やがて病巣は東映の全身に広がる。ガンは小さいうちに切開手術するのが医者(経営者)の義務だ」と発言し労組が猛反発した。当時東映は映画製作ではただ一社黒字を出していたが、岡田はこのまま東映動画を放っておくと他のセクションに悪い影響が拡がると判断した。岡田は東映の長年の労務担当者でもあった。この頃長編動画の製作コストが上昇し作れば作るほど赤字を出していた。累積赤字を3億円を出し、また東映労組(東制労)の強力な拠点となっていた東映動画には、責任者として行くことを皆嫌がったが、岡田は病気療養中の高橋勇社長に替えて、元東映勤労部長で労務管理のベテラン・登石雋一を言い含めて東映動画の社長に据え、強硬なリストラを命じた。岡田と登石は製作数を減らし、さらに従業員320名(うち契約者104人)の約半分の150人の希望退職を募集。希望者がない場合は指名解雇に踏み切る態度を匂わせ、また組合の強硬手段を計算に入れ、買い取り作品で番組編成を行うなど対戦の長期化に備えた。労組は激しく反発し、両者の間で団交が繰り返されたが、希望退職の募集は何度も延期され、のちロックアウトが敢行され5カ月間に約120名が退職し東映動画は存続した。その後も訴訟紛争は続き、労使紛争は二年に及び、労使とも深い傷を残した修羅場の二ヵ年であった。当時の東映の主な赤字部門は、東映フライヤーズ東京タワー交通、ボウリング部門、東映動画の4つで、東映動画は関連会社で最も赤字幅が大きかったが、岡田は動画以外の3つを切り動画のみ残した。岡田、登石と1974年8月、後任として岡田から東映動画社長に抜擢された今田智憲の尽力により、1970年代始めに3億円あった東映動画の累積赤字は一掃され、1981年(昭和56年)に東映動画は売上げ70億円、利益2億円を出すまで回復した。登石、今田とその後の泊懋で、合計32年間動画の社長を務めた三人は、いづれも岡田から「お前、動画の社長やれ」と強要されたものであった。登石の前に大川博の指名で動画の社長を務めた高橋勇は、労働三法を全く知らない労務管理が全然できない人で、行く先々で労使交渉に敗北して、にっちもさっちもいかなくなり、毎回岡田が尻拭いを行っていた。

1970年代に入ると、人気・制作本数ともに拡大し始めたテレビシリーズの制作におされ、コストのかさむ長編作品の制作は縮小されていくようになった。大手制作会社というイメージが、安心して仕事を任せられるという印象を放送局や広告代理店、出版社などに与えたこともあり、東映動画には週刊少年漫画誌原作のテレビアニメ制作の依頼が多く舞い込むようになった。人気テレビアニメの焼き直しの方が長編動画より利益幅が大きかった。制作の中心はテレビシリーズへと移り劇場作品は漫画原作の「東映まんがまつり」が中心となり、さらに仮面ライダーシリーズのような実写ヒーロー物が「東映まんがまつり」に入ってくるようになったことで東映長編時代は終焉を迎える。制作本数の増加と労働争議の激化により1973年(昭和48年)からは韓国への制作委託を開始。国外発注の強化とともに、自社のスタジオ周辺に下請けプロダクションを増やして制作の下請け・外注化を進めた。結果として自社で抱えていたクリエーターの多くがこれらの合理化で他のプロダクションなどへと移るなどして東映動画を去った。

大川博の息子・大川毅とそりが合わずユニオン映画に行っていた今田智憲が、盟友・岡田茂に呼び戻され1974年(昭和49年)社長に就任。今田は1993年(平成5年)まで歴代最長の20年間社長を務め、この間一度も赤字を出すことなく、東映ビデオの社長も16年間兼任しながら大きな功績を残した。今田はそれまでの強硬路線と違い、柔軟路線をとり労組に対応、先のリストラ時の解雇者の中で裁判に訴えていた18名の解雇を取り消して労使は和解し、労組問題に揺れた東映動画を立て直す。続いて制作の赤字構造の改善に経営方針として、(1)版権ビジネス・キャラクター商品化の営業強化、(2)海外への販路拡大、(3)制作を下請け化して、その下請けプロを管理する、(4)海外にも下請けを拡大させる、(5)技術革新で省力化を図る、などを示した。その後今田の施策は続々と実現されていった。

1972年(昭和47年)放映開始した永井豪とのコラボレーション『マジンガーZ』に始まる"巨大ロボットもの"で一時代を築く。初期長編の朗らか作品世界とは一変し、劇画タッチの荒々しいメカアクションは、超合金ロボットという玩具の分野を合わせて開拓し、男児向けアニメの一大ジャンルとなった。実写のキャラクター商品はこれ以前にもあったが、アニメのテレビ放映と共にヒットしたキャラクター商品は『マジンガーZ』が初めてで、これ以降、アニメ作品の二次利用(版権利用)が大きな収益を生むビジネスモデルとして定着した。またそれまではアニメが放映されて人気を博したところでキャラクター商品が投入されていたが、『マジンガーZ』は放映開始と同時。これはテレビ放映権料が値上がりしたため、それまでのお菓子メーカーなど子供向けアニメのスポンサー以外の業種にスポンサーを広げなくてはならなくなり、『マジンガーZ』の広告を担当した旭通信社が放映開始と同時にキャラクター商品を出すことを条件にスポンサーを納得させたものであった。アニメの歴史はビジネス面でいかに採算をとれるかの戦いでもあったが、良い作品を作っても採算が取れず、倒産した製作会社が多い中、いち早く玩具メーカーと連携し、関連グッズから利益を生み出すビジネスモデルを確立させた。

1976年(昭和51年)放映開始した『キャンディ・キャンディ』は高視聴率を確保し一年後の版権収入は11億5000万円を記録し、1981年(昭和56年)放映開始した『Dr.スランプ アラレちゃん』が視聴率30%を維持して突っ走ると商品開発部の売上げは40億円を超えた。時代の流れを捉えた今田の動画事業多角化は目論見通りの成果を生むようになった。

今田は東映動画創業時から、"アニメは日本の映像産業が世界に輸出し得る唯一の商品"という考えを持っており、東映動画は今田が社長に就任してようやく海外にも眼を向けていこうという方針になった。日本アニメ海外進出の推進役として陣頭指揮を執り、それまで東映本体が行っていた海外販売を1975年(昭和50年)から新設した動画版権営業部に行わせ、東アジア東南アジアを手始めに欧州アメリカ等、世界各国のテレビ・映画の見本市に毎年出展。今田自ら世界各地の映画祭配給会社を訪ね、日本アニメの輸出促進を働きかけ、フィルム輸出と海外版権の販路拡張を推し進めた。

今田が有賀健や、林幸夫(東映国際部)らを連れて世界的マルシェ(フィルムマーケット)に出掛けたのは1976年(昭和51年)のカンヌ国際映画祭が最初で、ブースを確保し『マジンガーZ』などを展示したが、当時のヨーロッパでの日本のアニメの認知は0。誰も寄り付かず、相手にもされず、「アニメは世界の共通語」と意気込んで出掛けた今田らはショックに打ちひしがれブースに坐り込んだ。「鉄腕アトム」や「マッハGoGoGo」などがアメリカでもテレビ放送され、他にも輸出されるアニメもあったが、全体的には1970年代前半まで日本製アニメは漫画同様、ほとんどの海外の国から相手にされなかった。今田や有賀らはヨーロッパのテレビ局に売り込みに何度行っても門前払いを食らった。懲りずに毎年売り込みを繰り返し認知が広がっていき、ヨーロッパで最初に東映アニメが受け入れられたのは、当時番組が不足していたフランスイタリアスペインだった。1978年7月にフランスアンテンヌ2で『キャンディ・キャンディ』と『UFOロボ グレンダイザー』(Goldorak(ゴルドラック)が放映され高視聴率を獲ると、それが突破口になった。『マジンガーZ』はイタリアやスペインで人気を博し、1978年にフランスとイタリアで改題されて放送された『UFOロボ グレンダイザー』は最高視聴率80%を記録する社会現象になった(UFOロボ グレンダイザー#日本以外での放送)。また『キャンディ・キャンディ』もプライムタイムに放送され人気を博した。1970年代から1990年代半ばにかけて日本のアニメがヒットしたのはフランス、イタリア、スペインなど欧州ラテン圏だけで、イギリスドイツ北欧など、言語文化が中心のアングロ・ゲルマン圏では、漫画やアニメに抵抗があり、個人主義で家族関係が冷めているとされ、ほとんど放送されなかった。またヨーロッパで一気に日本アニメの熱が上がらなかったのは、ヨーロッパは商品規制が厳しく、日本のキャラクター商品が入り込めず、テレビ放映の人気に限られたからで、こども達になかなか火が着かなかった。1990年(平成2年)にフランスで規制が外れると『聖闘士星矢』(フランス題名;Les Chevaliers du Zodiaque(星座の騎士))から、テレビとマーチャンで一挙に大展開し、『ドラゴンボール』が続き、海外市場を切り拓いていった。以降も自社制作作品の日本国外への売り込みを積極的に行う。特に『UFOロボ グレンダイザー』、『キャンディ・キャンディ』『ドラゴンボール』『美少女戦士セーラームーン』は世界各国で放送され、日本のアニメーション輸出に弾みをつけた。

東映及び、東映と『仮面ライダー』から商品開発を連動させてきたバンダイ等に莫大な利益をもたらした『パワーレンジャー』の仕掛人・ハイム・サバンは、『マジンガーZ』か『UFOロボ グレンダイザー』が、フランスで初めて放送された際に、音楽の一部入れ替えが行われ、これを担当したプロデューサーがフランス在住時のサバンで、子どもを対象にしたビジネスは国を超えて全世界で商売になると見てとったサバンは、アメリカ移住後も東映とビジネスを続け、東映の特撮番組を購入し、全米ネットワークに挑戦したが、アメリカは子どもの教育問題や暴力シーンの規制が厳しく、何度も失敗しながら『パワーレンジャー』でようやく長年抱き続けた夢を果たしたものであった。『パワーレンジャー』のベースとなった『恐竜戦隊ジュウレンジャー』の「原型を残すから作り変えさせてくれ」というサバンからの要望を認めたのは当時の岡田茂東映会長である。また『パワーレンジャー』の1993年からのフォックス・テレビネットワークを通じての全米放映は、岡田と20世紀フォックスの長い間の協力関係が実を結んだもので、1993年7月12日に、東映と20世紀フォックスとの間で、フォックス作品の長期間国内独占テレビ配給及びテレビ映画の共同製作に関る契約という先行投資を締結した際の契約の一つであった。

将来を見据えたコンピュータの導入では1974年(昭和49年)、社内にプロジェクトチームを作り、1977年(昭和52年)正式に技術委員会プロジェクトを発足させた。これが同社のデジタル化(デジタルアニメ)の切っ掛けとなる。国内大手家電メーカーと連携して研究開発に取り組んだが、1980年代に於いては初期費用、ランニングコスト天文学的な数字にのぼり実現できなかった。しかし1990年代に入ってパソコンの性能が飛躍的に向上し価格もどんどん下がり、1992年(平成4年)の『北斗の拳』のゲーム用データ作成を手始めに、一部実験的に試用を始め、1997年ゲゲゲの鬼太郎 第4シリーズ』4月放映分からデジタル制作に完全に切り替えた。それまで熟練した職人芸が要求された工程を全て画面上で処理するシステムの稼働で、これが日本アニメのデジタル化第一作である。

また1970年代後半から劇場用・テレビ用アニメーションの製作だけでなく活動領域を拡げ、スーパーマーケット遊園地ホテルなどでのイベントに積極的にコミットし、各種キャラクター商品やイベントを通じ、市民生活に溶け込み、新たなファン層を獲得した。レジャーメディアでの開発は、1976年の三重県桑名市ナガシマスパーランドに於ける「マジンガーZロボット館」でのスペース構成が最初といわれる。これによりアニメーションの製作のみならず、映像が生み出すキャラクターを主体とした関連事業が拡大した。1987年(昭和62年)はイベント関連売上げが売り上げが約40億円になった。イベント関連事業は東映本社映像事業部、映画村エンタープライズと共にその中核として、北九州市スペースワールドの施設計画の立案等を手掛けた。またマーチャンダイジング営業強化の施策では、制作部門に対して付帯・関連部門を強化し、関連部門の売り上げが全体の60~70%を占めるようになり、制作の差損を営業によって埋め合わせる仕組みを作った。1990年代に手掛けた『美少女戦士セーラームーン』のキャラクター商品は、1995年時点で1000アイテムを超えた。これらは今田が長い期間、営業体制の強化を計り実効を上げたものであった。同社の版権事業は1960年の『西遊記』から始まっており、この分野も日本に於ける草分けであった。1987年には年間売上げ155億円を記録。1980年代以降は、東映の屋台骨を支えていく存在になった。大川時代から変わって、岡田=今田時代の東映動画は、"アニメーションの総合商社"として第2の創業といえるものであった。

1966年から放送された日本初の少女向けアニメ『魔法使いサリー』は"魔女っ子もの"いうジャンルを開拓し、この流れは『ひみつのアッコちゃん』などの"変身もの"へ繋がり、その系譜は『美少女戦士セーラームーン』や『プリキュア』などに受け継がれた。魔法使いの少女アニメと変身して敵を倒すヒーローアニメ、人気の二大路線を東映動画が合体させたのが『美少女戦士セーラームーン』。世の女の子を夢中にさせた同作は"女の子の独立宣言"とも評され、海外50ヵ国で放映された。"女子向けアニメ"を確立したのも東映動画であった。

1980年代以降は『Dr.スランプ アラレちゃん』『キン肉マン』『北斗の拳』『ドラゴンボール』『スラムダンク』『ONE PIECE』と立て続けに『週刊少年ジャンプ』作品をアニメ化、"ジャンプ黄金時代"を併走した。

1992年(平成4年)、フィリピンに地元企業EEIとの合弁でEEI-TOEI Animation Corp.を設立。これによりコスト的に日本国内とほぼ変わらなくなった韓国に代わりフィリピンへの制作委託体制が確立した。1996年(平成8年)、東映グループにおける大人事改革の影響でそれまで継続していたテレビアニメ作品の全てを一旦終了。

1995年(平成7年)、人材育成を目的として東映アニメーション研究所を開設。ディレクター・アニメーター・美術デザイナー・CGクリエーターの研究生募集を開始(現在は閉所)。1998年(平成10年)、東映アニメーション株式会社に商号変更した。

2000年代以降

2000年(平成12年)、ペンタブレットによる作画工程のデジタル化システムを導入。同年、フィリピンおよび日本国内の制作プロダクションを光ファイバー通信で結ぶ「東映アニメ製作ネットワークシステム」の運用を開始。これにより素材の輸送にかかる時間を大幅に短縮。生産性を大幅に向上させることに成功し、テレビシリーズ・劇場作品をあわせ現在に至るまで業界最多クラスの制作本数を維持している。

2003年(平成15年)に大泉スタジオ内に東映アニメーションギャラリーを開館。歴代作品がパネルで展示されているほか、時期により特定の作品にクローズアップした企画展が行われている。入場料は無料だが、社屋内に立ち入ることになる関係上、入館の際は守衛に申し込んで手続きする必要があった。

2006年(平成18年)には幻冬舎と共同でアニメや映画とは異なる映像カテゴリー「画ニメ(がにめ)」レーベルを立ち上げる。

2013年(平成25年)7月16日、営業・管理部門及び子会社である東映アニメーション音楽出版のオフィスを神楽坂(新宿区横寺町)から中野セントラルパークイースト(中野区中野)に移転した。2014年には株主総会での承認を得た上で登記上の本店を実質的な本社機能のある中野オフィスに移したほか、同年9月より老朽化した大泉スタジオの建て替えを含めた敷地内の全面リニューアルを行うため、大泉スタジオの機能を2017年頃まで約3年間、練馬区光が丘に一時移転した。大泉の新スタジオは2017年8月に竣工し、2017年末に引っ越し作業を行った上で2018年1月より稼働を開始している。大泉スタジオ内にあった東映アニメーションギャラリーについても同年9月23日より長期休館に入っていたが、2018年7月28日に東映アニメーションミュージアムとしてリニューアルオープンしている。

2014年(平成26年)12月17日、委託契約を結んでいる原画制作者、CGクリエーター約400人に対する報酬を消費税増税後も据え置く

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出典:wikipedia
2019/06/21 02:22

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